【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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名無しのAクラス生徒が登場しますが、独自設定です。


第2話 「文化祭当日・執事カフェ」

 扉が閉まると、廊下を行き交う人々の声が遠くなった。十一月の光は窓辺の黒い布に柔らかく遮られ、テーブルクロスに覆われた卓へ細く落ちている。壁際を覆う厚手の布と足元の絨毯が、話し声や靴音の反響を和らげていた。静かなクラシック音楽の中で、準備されて並ぶ白磁のカップの縁と、磨かれた銀色のカトラリーだけが淡く光って見えた。

 

 帆波は最後の卓へ近づき、テーブルクロスを整えた。白い布手袋に包まれた指が柄から離れると、皴の一つなく、卓の縁から垂れるクロスのあまりも、隣の席と寸分違わず揃っている。テーブルの上にはすっきりとした空間の演出のため、上質な布カバーに包まれたメニューだけが置かれていた。

 

 姿勢を戻してから、一度だけ室内を見渡す。椅子の位置、席の間を通る幅、客から見える場所に余分なものがないこと。そのどれも、準備の間に教わり、繰り返し確かめてきたことだった。

 

「……やっぱり、一之瀬さんのところは直すところがないね」

 

 横から掛かった声に、帆波は顔を向けた。Aクラスから来た男子生徒が、同じ黒い執事服で立っている。彼の白い手袋の中には、まだ使っていない布が畳まれていた。

 

「教えてもらったとおりにしただけだよ」

 

「それが、毎回できるところがすごいんだけど」

 

 男子は小さく笑った。近くでは、柴田が自分の並べた食器を見下ろし、フォークの柄をそっと動かしていた。

 

 Aクラスに、実家が喫茶店の男子が一人いると分かったのは、準備を進めていたときだった。本人の話では、普通の、特に流行ってもいない店なのだという。それでも、接客をする側として店を知っている生徒は貴重だった。客に近づく方向、注文を聞き直す言い方、食器を下げるときの手の出し方。初めて店を作る帆波たちが、一つずつ迷うところを、彼は具体的に教えてくれた。

 

 神崎は、同盟による人員提供の中で彼をBクラスへ優先して回すよう、坂柳と話をつけた。三つの店で順番に借りる形にはせず、事前指導をBクラスが独占し、当日もフロアで働いてもらうことになった。四クラス共同の準備とは別に、Bクラスへ優先して人を出すという約束が、ここで大きく役立っていた。

 

「うちでは、ここまで静かに歩かないけどね」

 

 男子は絨毯へ目を落とした。

 

「普通の喫茶店だから。食器の扱いとか、客席で困らないための基本は教えられるけど、こういう店らしくするのは、みんなで考えた部分も多いし」

 

「でも、最初に教えてもらえなかったら、何を練習すればいいのかも分からなかったよ」

 

「それは、役に立てたならよかった」

 

 彼は少し照れたように答え、自分の担当する席へ向かった。その歩き方を見送りながら、帆波は袖口を確かめた。白いシャツに黒いベスト、身体に沿う上着。タイの結び目も、手袋の指先も、今はもう気にならない。

 

「一之瀬。そちらはどうだ」

 

 神崎の声に顔を上げる。

 

「うん。準備できてるよ」

 

「分かった。入口と席の案内は、予定どおりで頼む。交代の時間も変えない。余裕があるように見えても、休憩は抜かないでくれ」

 

 その言葉は、近くの生徒たちにも向けられていた。柴田が頷き、渡辺は自分の肩を軽く動かしてから腕を下ろす。

 

 練習では、初めはできていた動作が、時間とともに崩れることも分かっていた。背筋が緩み、歩くときの足音が大きくなり、トレーを持つ手へ余計な力が入る。本人が気づくより早く、客からは見えてしまう変化だった。神崎はそれを根性で保たせようとはせず、フロアに立つ時間を区切り、交代で人員を回すことにしていた。

 

 帆波だけは、練習の最初も最後も変わらなかった。休憩の前に受け持つ仕事を増やすことはあっても、ほかの生徒まで同じように動く前提にはなっていない。

 

「練習より、お客さんの顔を見た方が緊張するかな」

 

 柴田が入口を見て言った。浜口は隣で袖口を整え、少し笑う。

 

「最初から全部うまくやろうとしなくてもいいよ。困ったら、見えるところにいるから」

 

「それ、言ってもらえると助かる」

 

「僕も呼ぶかもしれないし」

 

 帆波も二人へ笑いかけ、入口へ向かった。絨毯に靴底を置き、重心を滑らかに移す。背筋はまっすぐ伸びたまま、歩く速さだけが穏やかに落ちた。

 

 

 

 扉の向こうで、人の足が止まる。最初の客を迎える声が聞こえ、帆波は顔を上げた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 普段より低く抑えた声が、静かな室内へ通った。執事役に合わせて練習した、バリトンを思わせる落ち着いた響きだった。言葉を急がず、客がこちらを向き終えるのを待ってから、深く頭を下げる。

 

 腰から傾く角度も、止まる時間も、顔を上げる速さも、覚えたとおりに揃った。上着の布がかすかに擦れ、その小さな音までが、挨拶の一部のように静けさへ収まった。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 客は室内を見渡してから、少し声を落として返事をした。帆波は先を急がず、その歩調に合わせて席へ導いた。

 

 椅子を引き、腰を下ろすのを待ち、声をかける。頭上から言葉を降らせる距離には立たず、相手が無理なく顔を向けられるところへ身を置いた。

 

「お飲み物と、お食事のメニューでございます。お決まりになりましたら、お声をお掛けください」

 

「……本当に、お店みたいね」

 

 女性客が連れと顔を見合わせた。帆波は微笑みを保ったまま、静かに頷く。

 

「ごゆっくりお過ごしいただけましたら、幸いです」

 

 客がメニューへ目を落としてから、帆波は席を離れた。背筋を伸ばした姿は、歩き出しても揺れない。足音を立てずに席の間を抜け、入口から新たに入ってきた客へ向き直った。

 

 店内の席は、少しずつ埋まっていった。

 

 男子の初々しい執事姿を見て笑顔になる人もいれば、浜口の柔らかな応対に話しかける人もいる。Aクラスから来た生徒たちも、案内を終えて戻るたびに次の仕事を見つけていた。実家が喫茶店の男子は、自分の客を待たせずに、困っている生徒へ短く助言する。長い説明にならず、必要なところだけを示す様子は、準備のときと同じだった。

 

 帆波は客席へ目を配りながら、提供を待つトレーへ手を添えた。白磁のカップとポットを載せて持ち上げても、手元にはわずかな揺れも生じない。そのまま絨毯の上を進み、椅子の動きを見て一度止まり、空いた側から卓へ近づく。

 

 白い手袋の指がソーサーを持ち上げた。卓へ触れる直前に力を緩め、客が手を伸ばしやすい位置へ置く。磁器も銀器も触れ合う音を立てず、取っ手の向きまで整ったところで指が離れた。

 

 紅茶を注ぐと、琥珀色の液面に窓の光が透けた。湯気が細くほどけ、その向こうで女性客が顔を寄せる。

 

「いい香り」

 

「どうぞ、お熱いうちにお楽しみください」

 

 相手が息を吸い、何か言おうとしたところで、帆波は言葉を足さずに待った。

 

「あなた、どこかで働いていたの?」

 

「今日のために、教えていただきました」

 

「それだけで、こんなふうにできるものなのね」

 

 帆波は微笑んだ。客が感心しているのは、彼女の知らない力ではなく、目の前の応対だった。それが嬉しかった。

 

「お好みに合うものがございましたら、ぜひお聞かせください」

 

 ゆっくりと返す声に、女性も穏やかに頷いた。帆波は頭を下げ、会話の邪魔にならないところまで離れる。

 

 別の卓で、メニューを閉じる手が見えた。客が顔を上げ、店内へ視線を向ける。そのときにはもう、帆波は卓の傍らに立っていた。

 

「ご注文を、お伺いしてもよろしいでしょうか」

 

 客が一瞬、目を丸くする。近づく足音が聞こえなかったのだろう。帆波は急に声を重ねず、相手がこちらを見るのを待った。

 

「あ、はい。これをお願いしたくて」

 

「アフタヌーンティーセットでございますね」

 

 指された品を確認し、飲み物を尋ねる。低く落ち着いた声を、相手の返事の間に合わせて紡いだ。客が迷えば待ち、質問があれば、聞き終えてから答える。そのやり取りのどこにも、次の仕事へ急ぐ気配を混ぜなかった。

 

 昼が近づくと、軽食の注文が増え、給仕の控え場所にも、次々に料理が届くようになった。

 

 一階では、客席から見えない場所に仕上げのための作業台が設けられていた。三階で基本的な調理を済ませた料理を受け取り、ここで盛り付けやデコレーションを施す。紅茶をはじめとする飲み物も一階で用意し、客へ出す直前の状態を確かめてから、フロアへ送り出していた。

 

 帆波が下げた食器を置くと、網倉がオープンサンドの皿を整えていた。少しずれた具材を戻し、皿の縁を確かめてから顔を上げる。

 

「帆波ちゃん、これ、お願いしていい?」

 

「うん。今、用意できるよ」

 

「あと、セットの補充が来るって。さっき三階から連絡があったから」

 

 学校の端末が、作業台の邪魔にならない位置に置かれていた。三階から届く連絡を受けた生徒が内容を確かめ、到着を待つ場所を空けている。注文と残数も同じ端末で伝え、フロアに出ない運搬担当が、必要なものを階の間で運んでいた。

 

 少しして、覆いの付いた配達用の台車が入ってきた。外からは中身が見えない。扉を開けて皿を取り出すまで、廊下に料理を晒さずに済むよう、三クラス共同で用意したものだった。

 

 特別棟にはエレベーターが揃っていたが、料理の運搬には、外部客の使う経路から離れた貨物用を使っている。乗り降りする部分や移動の途中には緩やかなスロープを設け、段差の衝撃で台車の中が揺れないようにしていた。準備のときに押してみると、急に持ち上げたり止めたりする必要がなく、帆波にも、その違いがよく分かった。

 

 台車自体も揺れを抑えるものを選んでいたが、届けばそのまま客へ出せるわけではない。運搬を終えた料理を一階で確かめ、盛り付けを直し、最後の飾りを添える。帆波の前でも、網倉がセットの皿へ手を加え、姫野が仕上がりを確認していた。

 

「これでいいと思う」

 

 姫野が静かに言って、皿を渡す。帆波は受け取り、トレーへ載せた。

 

「ありがとう。持っていくね」

 

「今、どう?」

 

「盛況みたい。追加の注文もあるよ」

 

「そっか。補充、先に言っておいてよかった」

 

 姫野は端末へ目を向け、届いた連絡を確かめた。三階ではAクラスの生徒を中心に、共同調理と配送の全体を管理している。どの店へ何を送るか、消耗品がどれだけ残っているか。保管場所と調理の様子をまとめて見て、一階とやり取りしていた。

 

 帆波は仕上がった皿を確かめ、客席へ戻った。黒い服の肩とトレーは動かず、足だけが滑るように絨毯の上を進む。卓の近くで客が話を切るのを待ち、短く断ってから、料理を白い皿ごと差し出した。

 

「お待たせいたしました」

 

 客が目を輝かせ、連れへ顔を向けた。皿を置き終えても、帆波はすぐに動かなかった。必要なものが揃っていることを確かめてから一礼し、静かに離れる。

 

 その頃には、店の外で待つ客も増えていた。

 

 帆波が入口へ回ると、渡辺が椅子へ客を案内していた。通行の邪魔にならないよう整えられた席に、年配の女性が腰を下ろす。連れの男性も礼を言い、膝へ荷物を置いた。

 

「座って待てるのは、助かるね」

 

「どうぞ、こちらでお待ちください。お席が整いましたら、お声をお掛けします」

 

 渡辺は返事をして、待っているほかの客にも目を向けた。メニューを手に取れるようにし、店の雰囲気や提供するものを説明している。列を作って立たせるだけにせず、待つ時間にも落ち着いてもらおうという話は、準備の間に決めていた。

 

 客の一人が帆波を見つけ、少し身を乗り出した。

 

「あの、あなたに案内してもらってもいいですか」

 

「はい。お席のご用意ができ次第、私がお伺いいたします」

 

「さっき来た人に聞いたんです。すごくよかったって」

 

 帆波は微笑み、深く頭を下げた。顔を上げると、隣の客もこちらを見ている。

 

「待つ間から、ちゃんとしてるのね」

 

「お待たせしてしまい、恐れ入ります。お食事について、先にご覧になりますか」

 

 メニューを渡すと、二人は嬉しそうに相談を始めた。帆波が店内へ戻るところで、渡辺が声を落とす。

 

「一之瀬をお願いしたいって人、また増えたよ」

 

「さっきの人も、聞いて来たって」

 

「うん。外で、そういう話が出てる。椅子があるから待ちやすいって言ってくれる人もいるし」

 

 彼は客席を見て、少しだけ息を吐いた。

 

「ただ、なかなか空かないんだよな」

 

 帆波も店内へ目を向けた。食事を終えた人が、まだ紅茶を楽しんでいる。届いたガトーショコラを少しずつ食べながら、話し込む二人もいた。

 

 静かに過ごせる場所として整えた店で、客は実際にくつろいでいた。高価格の品を頼み、追加の注文をする人もいる。その一方で、空く席の数よりも、口コミを聞いて入口へ来る人の方が増えていた。

 

 神崎が近づいてきて、渡辺から待っている客の様子を聞いた。

 

「説明は続けてくれ。長く待つことになる場合は、そこも曖昧にしないで頼む」

 

「分かった」

 

「一之瀬は、席が空いたら案内へ。こちらの提供は、交代してきた生徒に回す」

 

「うん」

 

 神崎は提供側へ向かい、指示を伝えた。戻ってきた柴田とAクラスの生徒が返事をし、次に休む者と入れ替わる。フロアの人数を減らさず、疲れたまま同じ持ち場へ立ち続けることも避ける。その交代は、客から見れば、静かに担当が変わっただけだった。

 

 午後になると、休憩から戻る生徒の顔にも、朝とは違う疲れが見えた。

 

 柴田は水を飲み終えると、壁際で踵を浮かせた。渡辺も上着の肩を直してから、背筋を伸ばし直す。練習で注意されたことを思い出しているのだろう。客席へ出る前に、互いの姿勢を見て声を掛け合っていた。

 

 帆波は空いたトレーを置き、白い手袋の指先を揃えた。脚も背中も、朝と同じように動く。立ち続けた重さはなく、これから運ぶカップの位置へ、もう気持ちが向いていた。

 

「一之瀬さんは、本当に変わらないね」

 

 実家が喫茶店の男子が、隣で言った。彼自身も一度休み、戻ってきたところだった。

 

「疲れてない?」

 

「うん。まだ大丈夫だよ」

 

「姿勢も、運ぶときの手も、最初からずっと同じだし。店で働いている人でも、終わり際は少し崩れたりするんだけど」

 

 男子は感心したように言い、客席へ顔を向けた。

 

「でも、無理はしないで。できる人が頑張りすぎると、そこへ全部集まるから」

 

「ありがとう。次の交代で、ちゃんと休むね」

 

 帆波が答えると、彼は頷いた。今日の指導役としてだけではなく、同じフロアに立つ一人として気遣ってくれている。その言葉は、素直に受け取れた。

 

 休憩から戻っても、帆波の動きは変わらなかった。

 

 絨毯の上を滑るように歩き、客の視線が上がったところへ、静かに身を置く。卓を見回した客が、足りないものを口にする前に気づけることもあった。それでも、勝手に手を出さず、短く尋ね、相手の返事を待つ。

 

 カップを置く位置も、お辞儀の角度も、低く穏やかな声も、朝に最初の客を迎えたときと同じだった。急いでいる人には必要なことを簡潔に、会話を楽しみたい人には返事の余地を残す。客の呼吸が落ち着くのを待ちながら、言葉を一つずつ渡した。

 

 相手の顔が和らぐところを見るのが、面白かった。こちらが椅子を引く前には、少し戸惑っていた人まで、帰るときには自分から笑顔で声を掛けてくれる。

 

「待ってよかった」

 

 そう言われたときには、帆波も自然に笑みを深めた。

 

「ありがとうございます。また機会がございましたら、是非お立ち寄りください」

 

 深々と頭を下げ、客が扉を出るまで見送った。顔を上げると、次の案内を待つ人と目が合った。

 

 

 

 最後の客を送り出したあと、扉が閉まると、室内は急に広くなった。

 

 音楽を止める声がして、ずっと耳にあった旋律が途切れる。使い終えたカップが卓に残り、椅子の向きも、朝に整えたものとは少しずつ違っていた。誰かが大きく息を吐き、それにつられるように笑い声が上がった。

 

「……終わった」

 

 渡辺が両肩を落とした。柴田も笑い、近くの椅子へ目を向ける。

 

「今、座ったら動けなくなりそう」

 

「先に片付けよう。終わったら座れる」

 

 神崎の言葉に、不満を装った声が重なった。それでも、皿へ手が伸び、椅子が戻される。Aクラスの生徒たちも残った仕事を確かめ、台車や資材を戻す者と、店内を片付ける者に分かれた。

 

 帆波はカップを集めた。白い器を一つずつソーサーへ戻すたびに、どんな人が座っていた席だったかを思い出す。初めに来た女性も、口コミを聞いて待ってくれた二人も、料理を見て話を止めた客も、帰り際には何かを伝えてくれた。

 

「帆波ちゃん、これもお願いしていい?」

 

 網倉から受け取ったものをまとめていると、神崎が皆へ声を掛けた。まだ集計の話ではなく、今日の営業についてだった。

 

「料理と接客は好評だった。高い価格でも選んでもらえたし、評判を聞いて来る客も増えた。そこは、準備したことが結果につながったと思う」

 

 神崎の言葉に、渡辺が頷いた。上着の襟元を少し緩め、入口の方へ顔を向ける。

 

「待ってくれる人も、結構いたよな。椅子を用意したのは、よかったと思う」

 

「ああ。ただ、席が空く速さは上がらなかった。来てくれた客を、全員迎えられたわけではない」

 

「ゆっくりしてもらう店だからね。途中から急かすのも、違うと思うし」

 

 浜口が言うと、神崎は頷いた。

 

「落ち着いて過ごせるところを気に入ってもらえたんだ。接客を急がせれば済む話ではなかった」

 

「でも、今日だけだもんな。分かったからって、明日から変えられるわけでもないし」

 

 柴田が空いた客席を眺めた。帆波も畳みかけていた布へ目を落とす。明日の開店に備えているような気分が、片付けている間にも少し残っていた。けれど、この店で客を迎えるのは、今日一日だけだった。

 

「そうだな。もし来年も文化祭があれば、今日分かったことを参考にしよう。また喫茶店をやるかどうかは、そのとき考えればいい」

 

 神崎はそう答え、皆を見渡した。

 

「交代で人を回したことや、待つ客への対応も含めて、覚えておく意味はあると思う。別の出し物でも、使えることはあるだろうから」

 

「交代は、やっておいてよかったと思う」

 

 実家が喫茶店の男子が言った。

 

「練習のときより、みんな、長く丁寧にできていたし。疲れてから戻すより、その前に代わる方がよかった」

 

「ああ。一之瀬は最後まで崩れなかったが、全員に同じことを求めなくてよかった」

 

 帆波は頷いた。自分が平気だからといって、ほかの人の休む時間を減らす話にはならなかった。それも含めて、店全体は神崎が見てくれていた。

 

「ともかく、今日の営業はこれで終わりだ。結果は集計を待つとして、まずは残った片付けを済ませよう。みんな、お疲れさま」

 

 労いに返事が重なり、生徒たちがそれぞれの仕事へ戻っていく。帆波も最後の卓へ手を伸ばした。今日、うまくできたことは、もういくつも思い出せた。それを順位が決まるまで脇へ置いておく必要はなかった。

 

 洗い終えて戻された白いカップを、一つ持ち上げる。手袋越しの指先に、取っ手の細い曲線が収まった。

 

 木更津へ帰ったら、母と美帆にもやってみたい。二人を席へ案内し、何を飲みたいか聞いてから、今日のように運ぶ。美帆は低い声で話す姉を面白がるかもしれない。母には、立ち上がって手伝おうとせず、座って待っていてもらえばいい。

 

 それから、エースにも聞いてほしかった。教えてもらったことを正確に身体で再現できるのが、今日も役に立ったこと。力を出す場面ではなくても、自分の身体を思いどおりに動かせるのは嬉しかったと、伝えてみたい。

 

 彼が聞いてくれるところを思い浮かべると、その前にする訓練まで楽しみになった。今日の話を終えたあとにも、もう一つ、聞きたいことを見つけておけたらいい。そばで教わり、できたところを見てもらう時間を、まだ手放したくなかった。

 

「一之瀬、楽しかった?」

 

 浜口に聞かれ、帆波は顔を上げた。

 

「うん。すごく」

 

「そっか。朝から楽しみにしてたもんね」

 

「思ってたより、いろんなことがあったよ。同じものを運ぶだけでも、人によって、全然違うんだね」

 

 浜口は笑って頷き、まとめたものを持っていった。帆波もカップを所定の場所へ戻し、誰も座っていない椅子を整える。

 

 母と美帆を迎えるときにも、最初は今日と同じように、きちんと頭を下げてみようか。顔を上げたところで二人と目が合ったら、そこまで覚えてきたとおりにできるかは、まだ分からなかった。

 

 先に笑ってしまいそうだと思いながら、帆波は襟元のタイへ、そっと指を添えた。

 




原作と比べてめっちゃ働いてるAクラスの生徒達。
葛城はたぶん元龍園クラスへ送り込まれてます。
坂柳は管理運営を楽しんでそう。
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