【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第6話 「帰ってきた場所」

 拳を開いた後も、掌には打ち込んだときの感触が残っていた。帆波は歩きながら一度だけ指を曲げ、それから、前を行くエースへ目を戻した。白いワイシャツの肩へ雪が触れ、すぐに落ちていく。彼は、道の見えない森の中を、迷う様子もなく進んでいた。

 ついていけば帰れる。その思いは、もう、ただ自分へ言い聞かせるためのものではなかった。

 足を止めた彼に合わせて顔を上げると、目の前に一本の木があった。根が雪の上へ張り出し、幹の下に暗い洞を作っている。枝をくぐらなければ見落としてしまいそうな、低いところの隙間だった。

 

「着いたぞ。ここから外に出られる」

 

 帆波は洞を見つめた。

 奥へ続く道は見えない。夏の日差しも、海の色もなかった。木の根と土の間に影が溜まっているだけに見える。それなのに、この先から帰れるのだという。

 しゃがんで覗き込みかけ、帆波はエースを見上げた。

 

「ここを、通るんですか?」

 

「ああ。元の無人島へ戻れるはずだ。ただ、外が今どうなっているかまでは、俺にも分からない」

 

 帰れると聞いて緩んでいた胸に、小さな不安が戻った。

 試験はどうなっているのだろう。雪の中を逃げ続け、火の前で休み、食事をして、また森を歩いてきた。自分がいないことには、とっくに気づかれているはずだった。捜してくれている人がいるのかもしれない。緊急ボタンを押しても誰も来なかったのだから、救助する側でも何か問題が起きているのかもしれなかった。

 

「学校の奴らには、遭難していたとだけ話しておけ。異界や悪魔のことは、今は余計に話さない方がいい」

 

「……分かりました」

 

 帆波は頷いた。何をどう説明すれば信じてもらえるのか、自分にも分からなかった。エースの言葉は、戻った先でまず何をすればよいかを、考えられる大きさにしてくれる。

 

「それと、ここはお前が出た後に閉じる。これ以上、人が迷い込まないようにな。異界自体もすぐに消すつもりだ。この無人島で、またここへ入ってしまう心配はしなくていい」

 

 帆波は彼の顔を見た。

 どこまで走っても終わらなかった雪の世界を、この人は、消すと言った。あの怪物を退けたときと同じように、何か特別な決意を見せるでもなく、これから片づける用事を伝える声だった。

 頼もしいと思う気持ちと、そんなことまでできるのだという驚きが、一緒に胸へ広がった。その一方で、言葉の意味が遅れて届く。自分が出た後に閉じる。彼は、こちら側へ残るのだ。

 

「エースさんは……一緒には?」

 

「俺は、まだこっちでやることがある」

 

 帆波は返事をしようとして、唇を閉じた。

 一緒に戻るのだと、どこかで思っていた。少なくとも、夏の光の下へ出るまでは隣にいてくれるような気がしていた。その先も少し歩いて、知っている場所が見えたら、それから礼を言うつもりだった。

 上着の袖へ目が落ちる。手を下ろしているだけなのに、また彼の服をつかみたくなった。今はもう歩けるし、帰り道も示してもらった。ここで、まだ一人にしないでと言うのは、困らせるだけだろう。

 帆波は襟元へ手をかけた。

 

「これ、お返しします。ずっと、ありがとうございました」

 

 腕を抜くと、肩から重みが消えた。濃いグレーの布を両手で持ち直し、折り目を整えようとする。うまく畳めず、袖を一度挟み直した。

 最初にかけてもらったときは、名前さえ知らなかった。温かい布を握り、行かないでと頼むことしかできなかった。その上着が悪魔の牙を防いでくれたことも思い出し、帆波は差し出す前に、袖へもう一度目を向けた。

 返したくないと思ってしまったことは、顔へ出さないようにした。

 

「助かったよ」

 

 エースは受け取り、そのまま袖へ腕を通した。自分を包んでいたものが、元の持ち主の身体へ戻っていく。それを見ていると、ここで過ごした時間まで終わってしまうように思えて、帆波は借り物のなくなった肩をわずかに寄せた。

 

「まだ、説明しておきたいこともあるんだが、それは学校に戻ってからにしよう」

 

 帆波は顔を上げた。

 

「学校へ帰った翌日、少し時間を取ってくれ。待ち合わせ場所なんかは、戻った日に端末へ連絡する」

 

「……また、お会いできるんですか?」

 

 何を説明されるのかより先に、それを聞いていた。

 エースは短く頷いた。帆波は胸の奥から息を吐き、すぐに、はい、と答えた。今度はきちんと声が出た。

 

「時間、空けておきます」

 

 学校の端末へ、外部から連絡する。少し落ち着いてから、その言葉の不思議さに気づいた。在学中は、家族との連絡さえ自由にはできない。それなのに、エースは当然のように言っていた。

 何か方法があるのだろう。この人は、自分が存在さえ知らなかった世界を歩き、そこから戻る道まで知っている。帆波は、今すぐ仕組みを尋ねる代わりに、その約束を覚えておこうと思った。学校へ戻った日には、端末を確かめる。翌日には、また会える。

 洞の暗さが、先ほどほど頼りなくは見えなくなった。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

 帆波はエースへ向き直り、頭を下げた。顔を上げても、まだ、伝え足りなかった。助けてもらったことだけではない。自分の身体が変わってしまったと知った後も、この人は近くにいて、怖がらずに手を差し出してくれた。

 けれど、その一つずつを話そうとすれば、いつまでもここにいたくなる。

 

「……また、学校に戻ったら」

 

「ああ。そのときにな」

 

 帆波は頷き、洞の前へしゃがんだ。根へ片手を添え、肩が当たらないよう身体を傾ける。入る前に一度だけ振り返ると、エースはそこに立っていた。

 置いていかれたのではない。自分が、帰るのだ。

 また会えるという言葉を頼りに、帆波は暗い隙間へ身を入れた。

 

 頬へ、温かい空気が触れた。

 次に吸った息には湿った土と青い葉の匂いが混じっていた。目を上げると、葉の隙間から強い日差しが落ちている。白く霞んでいたはずの森には濃い緑が重なり、その奥から、途切れることなく虫の声が響いていた。

 帆波は足を止めた。

 雪がない。

 頭を上げても、目を伏せても、夏の森だった。靴の下には柔らかな土と落ち葉があり、さっきまで白くなっていた息も、もう見えない。長い通路を歩いた覚えはなかった。顔を出して身体を起こすだけの、その短い動作の間に、世界が変わっていた。

 振り返りかけて、帆波は肩越しに手を動かした。そこにいるはずのない人へ、何か言おうとしたのだと気づく。指を下ろすと、ジャージの袖が手首へ戻った。

 脛から下は濡れたままだった。靴の中にも水が残り、足を動かすたび、靴下が肌へ貼りつく。夏の森にはそぐわないその冷たさが、雪山で過ごした時間を、身体に留めていた。

 帆波は前髪へ指を入れ、額の右側を確かめた。丸みのある硬いものに触れ、すぐに髪を下ろす。横から見ても出ていないだろうかと、指で毛流れを整えた。鏡はなかったが、生え際を覆うようにしてから手を離した。

 帰ってこられたのだ。

 そう思って周囲へ目を向けると、少し離れたところに、人がいるように感じた。姿は見えず、まだ言葉も聞き取れない。それでも、木々の向こうの一方向へ、自然に注意が向いた。

 帆波はその感覚を頼りに歩き始めた。

 

 葉の重なりが薄くなり、見慣れたキャンプ地が現れた。

 井戸の近くで、クラスメイトたちが準備を進めている。学校指定のジャージが日差しの中で動き、誰かが持ち上げた荷物を、別の誰かが受け取っていた。知っている声が聞こえる。帆波は、それだけで胸が緩むのを感じた。

 しかし、その先へ一歩出てから、少し戸惑った。

 誰も、こちらを見て動きを止めなかった。目が合った生徒も、いつもどおりに手を上げ、また作業へ戻る。名前を呼び合って捜している様子も、教師を連れてくる人もいない。

 帆波は、返しかけた笑顔をそのまま保った。

 どれほど長く離れていたのか、自分には分からない。けれど、あれだけの時間を過ごして戻った相手へ向ける反応としては、あまりに普通だった。

 

「一之瀬。ちょうどいい」

 

 神崎が近づいてきた。額に汗を浮かべていたが、声に切迫したところはなかった。

 

「食料の購入について、少し相談したい。ポイントをどこまで使うか、決めておきたいんだが」

 

「……うん。そうだね」

 

 帆波は頷き、神崎の持つマニュアルへ目を落とした。試験用のポイントを使って、どの程度の食料を確保するかという話だった。彼は、帆波がどこにいたのかを尋ねることなく、確認しておきたいことを話し始めた。

 聞きながら、帆波は見覚えのある記載を目で追った。

 これは、いなくなる前に考えていたことの続きではないだろうか。

 

「あと何日分必要になるか、先に揃えておこうか。残りの食事の回数も確認したいし」

 

「ああ。それなら――」

 

 神崎は現在の日程を前提に答えた。帆波は相槌を打ち、どこまでを購入分で補うか、持っているものをどう数えるかを確かめていく。話せば話すほど、自分の記憶とのずれが見つからなかった。

 日の数え方も、これからの予定も、変わっていない。

 帆波は腕時計へ目を移した。今は、読める表示がそこにあった。神崎が話す予定とも食い違っていない。雪の中で何度も確かめたはずの時間だけが、その間へ入らずに取り残されていた。

 こちらでは、ほとんど時間が経っていないのだ。

 そう考えると、誰も驚かなかったことも、捜索する様子がないことも、ようやくつながった。エースは異界で二日ほど過ごしたと言っていたが、自分がそこに同じだけいたわけではない。その自分の時間でさえ、ここで流れた時間とは合っていなかった。

 なぜそうなるのかは分からない。腕時計も救助を呼ぶためのボタンも、あの場所では、自分の知っているとおりに働かなかったのかもしれない。

 少なくとも、ここにいる人たちは、長い間自分を放っておいたのではなかった。

 

「一之瀬?」

 

 声をかけられ、帆波は顔を上げた。

 

「あ、ごめん。聞いてるよ。その分は、まとめて確認してからにしようか」

 

 神崎は頷き、次の確認事項へ話を移した。帆波もいつもの調子で応じた。手元のマニュアルを示しても、その指へ余計な力が入ることはなかった。彼の視線が濡れた裾へ向くこともない。

 相談を終える頃には、胸の中にあった別の心配も薄れていた。誰かが自分を捜して危険なところへ入ったわけではない。試験の準備を止めさせたわけでもなかった。何も知られずに戻れたことに、帆波は安堵した。

 

 井戸の近くから呼ばれ、帆波はそちらへ顔を向けた。

 持っていくものを確かめたいのだという。分かった、と返事をして歩き出すと、靴の中に残っていた冷たさが、また足へ触れた。周囲には夏の日差しが満ちている。前髪の下には小さな角があり、今、軽く握った手には、人の知らない力があった。

 帆波は髪へ手を伸ばしかけ、そのまま下ろした。何度も触れば、かえって気にされるかもしれない。隠せると言っていたエースの声を思い出し、歩調を戻す。

 学校へ帰った翌日には、また会える。

 その約束を思うと、彼のいない場所へ戻った寂しさにも、耐えられた。教えてほしいことが、もう幾つもあった。今はまだ、戻ってから気づいたことを、次に会ったとき話せるよう覚えておきたかった。

 

「一之瀬さん、これ、どっちに置く?」

 

「そっちで大丈夫だよ。私も手伝うね」

 

 帆波は微笑み、差し出されたものへ手を伸ばした。受け取った重みは両手の中へ収まり、形を変えることもなく、そのまま次の場所へ運べた。

 いつもの声が近くで重なる。帆波はその輪の中へ戻り、続きを尋ねた。返事を待つ間、空いた右手を一度だけ開くと、掌には、雪山で握った手の温かさがまだ思い出せた。




エースくん:
「さてと、のんびりキャンプを楽しむのは切り上げて、さっさと異界つぶすか」

エースくんがさっさと異界をつぶしていれば、ほなみちゃんが巻き込まることはありませんでした。この後、衝撃貫通でイタクァを殴り殺し、移動用の悪魔に乗って帰ります。

尚、神崎君がほなみちゃんをねっとり観察していれば、ほなみちゃんが全身しっとり濡れていることに気づけました。
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