【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第1部 第2章
第1話 「帰還した学校の隣に」


 朝日は低い角度から海面を照らし、波の斜面にだけ、薄い金色を残していた。船が進むにつれて光の集まる場所が移り、遠くでは一枚に見えた水面が、近くでは幾重もの細かな起伏に分かれていく。帆波は甲板の手すりへ片手を置き、潮を含んだ風を頬に受けた。まだ昼の熱を持たない空気は、夏の朝らしく湿っていて、深く息を吸っても喉が痛まなかった。

 無人島特別試験が終わり、その後の船上での干支試験も終わった。あとは学校へ戻るだけだった。後ろでは同じ学校の生徒たちが、船を下りてから何をするか話している。まず寝たいという声に、まだ寝るのかと笑う声が重なり、帆波の口元も自然に緩んだ。自分の部屋で荷物をほどき、履き慣れた靴を揃え、誰かに呼ばれるまでの時間を気にせず椅子に座る。そんな、出発前には特別とも思わなかったことが、今は待ち遠しかった。

 風向きが変わり、頬にかかっていた髪が持ち上がった。帆波は手を上げて前髪を押さえ、その下にある硬いものへ指先を触れさせた。額の右側、生え際近くの小さな角だった。髪の間から探ればすぐに分かる。二センチほどの丸みのある突起は、自分の肌と同じ色をしていて、鏡で見てもなお、不思議なものに思えた。

 今も、ちゃんとある。帆波は爪を立てないよう指の腹で確かめ、髪を元へ戻した。隠れると教えてもらったとおり、前髪を下ろしていれば見えなかった。帰還後も何度か確かめたが、誰かに指摘されたことはない。風の強い場所では気をつけようと覚えておけば、それでよかった。

 手すりへ戻した掌に、滑らかな金属の冷たさが伝わった。指を曲げても、余計な力は入らない。触れる、握る、離す。考えるよりも先にできていた日常の動作を、今も同じように行える。雪山で一度は自分の手が恐ろしくなったことを思えば、それだけでも大きな違いだった。教えられたとおりにできると分かったときの、エースの落ち着いた声まで思い出される。

 明日になれば、また会える。

 そう考えると、海を眺めていたはずの目が、まだ見えていない学校の方角を探した。戻った日には連絡をくれると言っていた。今日は、端末を見落とさないようにしておこう。何を説明してもらえるのかも気になっていたが、彼の声をもう一度聞けることの方が、先に胸を温かくした。顔を見たら、きちんとお礼を言えるだろうか。また、言いたかったことが全部どこかへ行ってしまうかもしれない。

 帆波は伏せかけた顔を上げ、海へ目を戻した。朝の光が強くなるにつれて、水の青が深くなっている。雪を積もらせた枝も、木々の間から現れる怪物の姿も、そこにはなかった。身体を縮める必要はなく、何かが近づいてこないかと、背後へ耳を澄ませ続ける必要もない。聞こえてくるのは、船に当たる風と、生徒たちの話し声だった。

 あの森から出たときには、夏の空気の中へ戻れたことさえ、すぐには信じられなかった。それでもクラスメイトたちはいつもどおりに話しかけ、帆波が返事をすれば、その続きが始まった。自分の知らないところで大勢を心配させたわけでもなかった。皆と一緒に試験を終え、こうして同じ船に乗っている。ようやく、長かった出来事の終わりまで来たように感じられた。

 

「見えてきた」

 

 近くで誰かが言った。帆波も顔を向けると、進行方向に人工島の輪郭が現れていた。海の上へ低く延びた陸地に、建物が重なっている。見慣れた学校へ帰ってきたのだと思い、目を細めたところで、その視線が止まった。

 島の形が、記憶と合わなかった。

 初めは、船から見ている向きが違うせいかと思った。学校の中から眺めるのと、海の上から全体を見るのとでは、建物の並びも違って見える。帆波は知っている建物を探し、それを基準に目を動かした。けれど、そうすると、かえって知らないものの大きさがはっきりした。学校の区域に続いて、広大な土地が海へ張り出している。その上には、見覚えのない建造物がいくつも並んでいた。

 

「……え?」

 

 声が唇から漏れた。帆波は手すりから少し身を起こし、もう一度、端から端まで見渡した。何かを見間違えたのなら、見直せば分かるはずだった。ところが、朝日に照らされた輪郭は、目を凝らすほど確かになっていく。

 港があった。学校へ出入りするための埠頭とは、規模が違った。長く延びる岸壁に大きな船が横づけされ、その後ろには四角い貨物が幾段にも積まれている。コンテナ船だと分かった隣には、甲板の形も船体の造りも異なる船が見えた。配管のようなものが走る低い甲板を目でたどり、帆波は、それがタンカーなのだと思い当たった。

 船だけではなかった。高く組まれた荷役用の設備が岸壁へ影を落とし、その下を作業車両が移動している。吊り上げられた荷物がゆっくりと位置を変え、止まっていた車が、その作業を待っていたように進み出した。広い道路の先には倉庫が並び、さらに奥へ、飾り気のないコンクリートの建物が続いていた。

 学校の敷地との間には、頑丈なフェンスが延びていた。帆波はその線を目で追ったが、途中から建物に隠れ、どこまで続くのか分からなくなった。少なくとも、小さな隣接施設ではない。自分たちが暮らす学校と比べても、驚くほど広い区域だった。

 船が近づくにつれ、人の姿も見分けられるようになった。岸壁で作業をする人がいる。車から下りて建物へ入っていく人もいた。倉庫の間を通る車両の一つへ目を留め、帆波は眉を寄せた。くすんだ緑色の車体と、その形には見覚えがあった。自衛隊の車だ。もう少し奥にも、同じような色の車両が停まっている。

 なぜ、学校の隣に。

 帆波はそこまで考え、すぐに、その前に分からないことがあると気づいた。学校の隣にある理由よりも、どうして今まで知らなかったのかが分からなかった。

 入学してから、もう数か月になる。この人工島で生活し、校舎と寮を行き来し、ケヤキモールへも足を運んだ。島のすべてを歩いたわけではないし、立ち入れない場所があっても不思議ではない。それでも、これほど大きな港や建物の集まりを、存在さえ知らないままでいられるものだろうか。

 新しく造られたとは思えなかった。そもそも、無人島へ向かってから戻るまでの間に、あれだけのものを建てられるはずがない。船は接岸し、荷物は運ばれ、人々は自分の行く先を知っている様子で歩いていた。誰かが立ち止まって建物を見上げたり、初めて来た場所で道を探したりしているようには見えない。ここでは、いつもこうして仕事が行われているのだと感じられた。

 その、ごく普通らしい動きが、帆波にはかえって理解できなかった。何もかもが、以前からそこにあったように見える。では、以前の自分は、どこを見ていたのだろう。

 手すりに添えた指が動いた。帆波は隣へ顔を向け、周囲の生徒たちを見た。この光景に気づいた誰かと目が合えば、同じ疑問を口にできる気がした。

 

「帰ったら、部屋の空気入れ替えないと」

「そんなん要るの?」

「その前に荷物、片づけられるかな」

「置いたら、そのままになりそうだよね」

 

 少し離れたところで笑い声が上がった。船の進む先を眺めている生徒もいたが、特に驚いた様子はなかった。指をさして何かを知らせる人も、港の船を話題にする人もいない。帆波は反対側へも目を向けた。そこでも、二人連れが会話を続けているだけだった。

 あれは何だろう、と尋ねかけた言葉が、口の中で止まった。何をどう聞けばいいのか、自分でもうまくまとまらなかった。港があることを尋ねたいのか、以前からあったのかと確かめたいのか。それとも、今、自分が見ているものを、同じように見ているかと聞きたいのか。

 近くにいる誰の顔にも、自分と同じ戸惑いを見つけられなかった。

 帆波は人工島へ向き直った。学校の建物は、ちゃんとそこにある。その隣に、港と倉庫と、用途の分からない頑丈な建物がある。何度見直しても、どちらかが消えることはなかった。一つの陸地の上に、見知っている場所と、知っていたはずがないほど大きな場所が、途切れずに並んでいた。

 あの雪山で、自分の身体が変わったことは分かっていた。前髪の下の角も、掌に宿る力も、今は自分のものとして扱える。普通に物を持ち、誰かと並んで歩き、以前と同じ声で笑うこともできた。元の暮らしへ帰れば、その中で少しずつ慣れていけると思っていた。

 けれど、帰ろうとしている場所の方が、知らない姿をしていた。

 帆波は髪へ伸ばしかけた手を止め、そのまま手すりへ置き直した。金属の表面には朝の光が当たり始めていた。潮の匂いも、背後の会話も、つい先ほどまで安堵して聞いていたものと変わらない。岸壁では、吊り下げられていた荷物が所定の場所へ下ろされ、次の作業が始まろうとしていた。

 明日、エースに会ったら、このことも話したい。そう思い浮かべるだけで、どこへ向ければよいか分からなかった気持ちに、小さな行き先ができた。彼なら何か知っているかもしれない。何も分からない自分の話でも、まずは聞いてくれる。今すぐそばにいてくれたらと思いながら、帆波は、船の上から離れることのできない視線を、もう一度その港へ向けた。

 自分だけが、変わったのだと思っていた。帰ってきた世界は、以前のまま待っていてくれるはずだった。

 船は見慣れた学校の埠頭へ近づいていく。その向こうに広がる知らない営みを見つめていると、自分がこれまで暮らしてきた世界そのものまで、別のものへ変わってしまったようだった。

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