十二月二十二日の協力型総合筆記試験を、帆波はただの受験者の一人として終えた。神崎が皆をまとめ、帆波も求められたことを行い、自分の受け持つ問題に向き合った。試験が終わったあと、教室には答えを確かめ合う声が残ったが、彼女は帰り支度をしながら、その日のうちに済ませたいことを考えていた。
翌二十三日、BクラスはDクラスに勝ち、50クラスポイントを得たと知らされた。CクラスはAクラスに勝ったという。帆波も結果を聞き、近くの生徒と言葉を交わした。それから終業式を終えると、冬休みに入った。
待っていた二十五日は、その二日後に来た。
台所の窓へ、薄く曇りが広がっていた。湯気が冷たいガラスへ触れ、細かな水滴となって、外から差す光を柔らかくぼかしている。木更津の家の中は暖かく、居間へ続く扉は開いたままだった。食器を並べる音と、美帆が母に何かを尋ねる声が、帆波の手元まで届いていた。
「お姉ちゃん、こっちのお皿も使う?」
「うん。三人分、お願いしていい?」
戸棚の前で美帆が頷いた。皿を重ねて持ち、食卓へ運んでいく。その中央にはホットプレートが置かれ、取り分けて食べるための皿とスプーンが、三人の席へ一つずつ揃えられた。
帆波は台所から材料を運んだ。ご飯と牛肉、黄色いコーン、刻んだネギ。母がホットプレートへ丸く並べていくと、まだ混ざっていない白と赤、黄と緑が、それぞれの色を残して食卓の中心を埋めた。
「わあ。なんか、お店みたい」
美帆が近くへ寄って覗き込む。母は最後にネギの位置を整え、少し離れて全体を見た。
「帆波、そっちはもう大丈夫?」
「うん。できたよ。ほかにも手伝うことある?」
「じゃあ、タレを持ってきてくれる?」
「はーい」
言われたものを取って戻ると、美帆はもう自分の席へ座っていた。けれど、ホットプレートを見る目は、先ほどからほとんど離れていない。
帆波が母へタレを渡そうとすると、母は美帆の方を向いた。
「美帆、かけてみる?」
「いいの?」
「ええ。ぐるっと、全体に回しかけてね」
美帆は嬉しそうに受け取り、立ち上がった。帆波も自分の席へ回り、妹の手元を見る。
器が傾き、濃い色のタレが細く流れた。ご飯と肉の上を伝い、熱せられた鉄板へ触れた途端、ジュージューという音が広がる。白い湯気が立ち上がり、肉の焼ける匂いに、甘辛いタレの香りが重なった。
「わ、すごい。いい匂い!」
美帆の声が弾んだ。帆波も思わず顔を近づけ、それから母と目が合って笑った。
「もう、おいしそうだね」
「まだよ。今から混ぜるんだから」
母は両手にしゃもじを持ち、丸く並べた材料へ差し入れた。ご飯を崩し、肉を返しながら、左右から持ち上げて混ぜていく。白かった粒がタレの色をまとい、その間へコーンとネギが散らばった。広がる湯気の向こうで、母が手を動かすたびに、焼ける香りが食卓へ届く。
「お母さん、代わろうか?」
「大丈夫。もう少しでできるから、座っていて」
帆波は頷き、母の手元を見守った。美帆もスプーンを持ったまま待っている。さっきまで色ごとに分かれていた材料は、やがて鉄板いっぱいのビーフライスになった。
「はい。できたわよ」
母がしゃもじを止めると、美帆が皿を持ち上げた。
「私、ここがいい」
「どこも同じじゃない?」
「お肉が見えるところ」
帆波が笑うと、母も笑いながら取り分けた。美帆の皿へ、帆波の皿へ、湯気の立つご飯が盛られていく。母の分も揃ったところで、三人は声を合わせて食べ始めた。
ひと口すくうと、タレをまとったご飯の間に牛肉とコーンが入った。口へ運ぶと、香ばしさのあとに肉の旨味が広がり、コーンの甘さが残る。帆波がもう一度スプーンを伸ばしたところで、美帆が母へ顔を向けた。
「おいしい」
「よかった。帆波は?」
「うん。すごくおいしいよ」
答えながら、帆波はホットプレートを見た。三人分を取っても、まだたっぷり残っている。
「今日はボリュームたっぷりだね。いつもと、ちょっと方向性が違う感じ」
「たまには、こういうのもいいでしょう」
「うん。すっごくいいけど……多すぎないかな?」
母は帆波の皿へ目を向け、それから、穏やかに笑った。
「帆波、前より食べる量が増えたでしょう。今日は、いっぱい食べていいのよ」
帆波はスプーンを止めた。
「残ったら明日食べればいいんだから。足りないより、その方がいいでしょう?」
母がいつ、それに気づいていたのかは分からなかった。一緒に食べられる日は以前ほど多くない。それでも、自分がどれくらい食べるかを見て、今日の料理を考えてくれたのだ。
「……うん。ありがとう、お母さん」
母は頷き、帆波の皿を見た。
「おかわりも、遠慮しないでね」
「うん。いただきます」
返事をして、帆波はもうひと口食べた。温かいご飯を飲み込むと、胸の辺りまで満たされるようだった。
自分ならこの家にある食べ物は、残さず食べられる。この鉄板にのっているビーフライスなど、物の数ではない。
けれど、明日の分も取っておこう。今日のために母が用意してくれたものを、明日も食べられる。それを考えると、今、鉄板を空にしてしまうのが少し惜しくなった。
「明日も、これ食べていい?」
「もちろん。残しておきましょうね」
「私も食べる」
美帆がすぐに言った。帆波は妹の皿を見て笑った。
「じゃあ、ちゃんと三人分残さないとね」
「お姉ちゃんがいっぱい食べるんじゃないの?」
「今日はいっぱい食べるよ。明日の分も、ちょっと欲しいだけ」
母が笑い、美帆もつられて笑った。
食卓の上では、話すことも食べることも途切れなかった。母が最近の暮らしについて話し始めると、美帆が途中から説明を足した。母が短く済ませようとしたところを、妹はよく覚えている。二人の言い分が少し違って、帆波がどちらなのか聞き返すと、母は困ったように笑った。
「そこまで大げさな話じゃないのよ」
「でも、お母さん、あのとき本当にそう言ってたよ」
「そうだったかしら」
「言ってた。私、覚えてるもん」
帆波は笑いながら、二人の顔を交互に見た。自分が学校にいる間にも、ここでは二人の暮らしが続いている。その中で交わした言葉を、今、こうして聞けるのが嬉しかった。
夏に移ってきたばかりのころは、何かを探すたびに置き場所を聞いていた。今は美帆も、自分で戸棚を開け、母に頼まれたものを持ってくる。帆波も食事の前に、迷わず引き出しからスプーンを出した。
この家で暮らすことが、二人の日常になっていた。
「お姉ちゃん、冬休みは、こっちでゆっくりできるの?」
「ずっといるわけじゃないけど、今日は一緒にいられるよ」
「それなら、今日は仕事のことも少し忘れて、楽しみなさい」
母に言われ、帆波は笑った。
「うん。いっぱい楽しんでるよ」
もう、十分に楽しかった。そう答えるのに、言葉を探す必要はなかった。
食事が落ち着くと、明日の分を取り分け、ホットプレートを片づけた。帆波が食器を運び、美帆が食卓を拭く。母が冷蔵庫からケーキを出してくると、妹の目がすぐにそちらへ向いた。
「お茶、私が淹れるね」
「ありがとう、帆波」
カップを出しながら、去年のクリスマスを思い出した。
あのときは、エースが手配してくれた温泉地のホテルにいた。見慣れない部屋と、豪華な料理。温泉を楽しみ、普段とは違う景色を眺める母と美帆の顔を、帆波は何度も見ていた。
喜んでくれていることが嬉しくて、自分の力で二人へこういう時間を渡せるのだと知った。
あの旅行のあと、エースへ礼を言いにいったことも覚えている。自分の嬉しかったことを、自分の言葉で伝えたかった。彼が聞いてくれた顔まで思い浮かび、帆波はカップへ添えていた指を少し緩めた。
今年はホテルではない。母と美帆が毎日を過ごしている家で、三人で食事を作った。残った分は、明日も一緒に食べられる。
去年も今夜も、二人がおいしそうに食べているところを覚えていたいと思った。
「帆波、どうしたの?」
母に呼ばれ、顔を上げた。
「ううん。去年のこと、ちょっと思い出してた」
「去年のクリスマス?」
「うん。あのホテル、すごかったね」
「すごかった。私、部屋に入ったとき、どこに座っていいか迷ったもん」
美帆が言うと、母も頷いた。
「ゆっくりしていいのに、何だか落ち着かなかったわね」
「お母さん、何回も部屋の中、見てたよね」
「美帆だって、あちこち見ていたでしょう」
「私は、初めてだったから」
「お母さんも初めてよ」
帆波は笑った。二人がそれぞれ覚えていることがあり、話し始めると、自分の知らなかったところも出てきた。
去年も、今と同じように、二人を見て笑っていた。
あれから一年で、変わったことは幾つもある。学校で、自分が先に立って何かを決めようとは思わなくなった。クラスの順位を聞いても、以前のようには心が動かない。神崎が皆と話し合っている間、帆波は自分のするべきことを済ませ、終われば会いたい人や、行きたい場所のことを考えていた。
仕事では、できることが増えた。知らなかった楽しさも知った。
それでも、目の前で母が笑っていると嬉しい。美帆が何かを話し始めれば、先を聞きたくなる。二人が安心して暮らし、元気でいてくれることを、今も自然に願っている。
「二人とも、楽しそうだなって思って」
帆波が言うと、美帆は不思議そうにこちらを見た。
「お姉ちゃんも楽しそうだよ?」
「うん。すっごく楽しいよ」
答えてから、帆波は淹れたお茶を運んだ。母がカップを両手で包み、美帆が自分の方へカップを引き寄せる。
母と美帆へ向ける笑顔を、作ろうとしたことはなかった。二人といると、そうなった。
教会で神父へ見せていた表情は、違っていた。
怖がっている少女のように声を細くし、銃を見て指を震わせた。その間も、自分には相手の動きが見えていたし、何をするか考えていた。男が気づかずに近づいてきたとき、笑いそうになったことも覚えている。
こちらを分かったつもりでいた相手が、その間違いを知る。自分が恐れていたと思っていた少女を、今度は自分が恐れる。その顔を見たとき、帆波は楽しかった。
今、思い出しても、その感触は変わらなかった。
少女たちが帰れるようになってよかったと思ったこととは、別に残っている。母と美帆へ会いたいと思って帰ってきた気持ちとも、混ざらずにあった。
「お姉ちゃん、フォークもお願い」
「うん。今、持ってくる」
帆波は立ち上がり、三人分を取って戻った。美帆へ渡すと礼を言われ、それだけでまた笑顔になった。
有栖にも、向かいに座ってほしいと言われたことを思い出す。給仕するのも楽しかったけれど、彼女とお茶を飲みながら話す時間も好きだった。次は何を話そうかと考えるだけで、また会いたくなる。
エースには、教えてほしいことがまだある。仕事が終わったあとも、もう少しそばにいたい。できるようになったことを見てもらえれば嬉しいし、彼が自分の知らないことを話し始めると、続きを聞きたくなる。
これからも仕事をしたかった。強くなりたかったし、自分の力で相手を圧倒する時間も、また味わいたかった。
帆波は湯気の向こうにある二人の顔を見た。
以前なら、ここで何かを選ばなければならないと思ったかもしれない。母や美帆へ向ける気持ちに合わせて、ほかの感情を隠す場所を探したかもしれなかった。
けれど、二人が大切だと思う気持ちは、何も薄れていない。戦うことを楽しいと思うからといって、今夜の嬉しさを疑う理由もなかった。神父を相手にしていたとき、家族のためだから楽しいのだと考えていたわけでもない。
どちらの時間にも、自分で考え、自分で動いていた。
カップへ添えた指を見て、帆波は少しだけ口元を緩めた。この手で仕事をし、母を手伝い、美帆へ食器を渡した。そのときに何をしたいかも、何をすればいいかも、帆波自身が分かっている。
「お姉ちゃん?」
「うん。どうしたの?」
「ケーキ、切ってくれる?」
「もちろん。どのくらいがいい?」
美帆が指で示した大きさを見て、帆波は笑った。
「さっきのビーフライスのあとでも、それくらい食べられる?」
「お姉ちゃんには、言われたくない」
母が声を立てて笑った。帆波も笑いながら、ケーキへ刃を入れる。
何かを言い訳にしなくても、好きなものは好きだった。これからも二人へ会いに帰り、有栖と話し、エースに教わり、仕事へ出るだろう。自分が楽しむことも、大切にしたい相手も、もう誰かに決めてもらわなくてよかった。
そのままの気持ちで、明日も選んでいけばいい。
切り分けたケーキを皿へ載せると、美帆が嬉しそうに受け取った。母の分も差し出し、最後に自分の皿を置く。
「今日は、二人ともよく笑うわね」
「だって、クリスマスだもん」
帆波は答え、椅子へ座り直した。
仕事へ戻る日が来るのも楽しみだった。けれど、今はまだ、この席にいたい。母の話を聞き、美帆と言い合いながら、もう少しゆっくり食べていたかった。
一口食べた美帆が、すぐに感想を言い始めた。帆波も自分の皿へフォークを伸ばし、妹の声に耳を傾ける。母がその話へ加わると、今度は帆波から聞きたいことができた。
カップの湯気が細くほどけていく向こうで、二人がこちらを見ていた。帆波は笑い、そのまま話を続けた。