防壁の上では、下を歩いていたときよりも風が強かった。海上から吹きつける冷気が、帆波の髪を肩の後ろへ流していく。地上から5mの高さに立つと、建物の間では途切れていた見通しが開け、本土へ延びる連絡橋もよく見えた。海面の照り返しの向こうを、バスが間隔を空けながら進んでいた。
もう、移動を始めている。
帆波は髪を押さえ、橋へ入っていく次の一台を目で追った。今朝、木更津から戻って通知を読んだばかりだった。全員の退避には四十八時間から七十二時間を見込んでいたが、行き先と準備が整った生徒から、順に出発させているのだろう。全員の支度が済むまで待つより、その方が移動を進められる。
ここからでは、窓の中に誰が座っているかまでは分からない。車体が橋へ入り、ゆっくりと本土へ近づいていく様子が見えるだけだった。向こうの生徒たちからは、結界に阻まれ、支部の防壁に立つ帆波を見つけることはない。
あの中の誰かは家へ帰り、誰かは混合合宿で利用した山間部の宿泊施設へ向かう。学校へ入ってから初めて、家族のもとへ戻る者もいるだろう。いったん本土へ渡ってしまえば、そこからの道は、それぞれ違っていた。
帆波はしばらくバスの列を眺めてから、学校のある方へ目を向けた。授業を受けていた建物も、暮らしていた寮も、そこにある。人が出ていったからといって、すぐに景色まで変わるわけではなかった。
けれど、またあの教室へ通うことになるとは、あまり思えなかった。
通知には、再開時期は未定と書かれていた。学校がなくなると正式に決まったわけではない。それでも、修学旅行の延期からここまでの間に、情勢がよくなったという話は聞かなかった。支部で仕事をしていても、人が足りず、これまでとは違う対応が必要になっている。
学校を再開して、生徒を呼び戻せるようになるだろうか。帆波が知っている外の様子を考えると、その見通しは浮かばなかった。
防壁へ添えた手のひらが冷えてきた。指を離し、軽く握り直したとき、卒業したよと母へ伝える機会もなくなるかもしれないのだと思った。
それは、少し残念だった。
高校を卒業したと聞いたら、母は喜んでくれただろう。美帆も、おめでとうと言ってくれたはずだ。二人に報告して、家で食事をしながら学校の話をする。そんな日が来ることは、楽しみにしていた。
今朝の台所で、母が食器を片づけていた姿を思い出した。美帆がそばで何かを話し、母が振り返って答えていた。卒業の報告を持って帰れなくても、次に帰れば、また二人に会える。
帆波は海からの風を受けながら、学校の方から視線を戻した。
支部へ入ってくる車に気づいたのは、そのときだった。
一台の自家用車が、支部内の道を進んでいた。運転しているのは、黒瀬のもとで事務を担当している職員だった。その顔を確かめてから後部座席へ目を移し、帆波は少し身を乗り出した。
有栖と、綾小路が乗っている。
有栖はここを知っている。父親と一緒に見学し、そのあとも帆波と訪れていた。けれど、綾小路が臨海支部へ来たことはないはずだった。彼に、この場所について話した覚えもない。
綾小路くんが、どうしてここに?
同じ人工島にありながら、学校の生徒たちが知らずに暮らしてきた場所だ。退避するバスへ乗らず、支部の職員に連れられてこちらへ来ているのは、何か理由があってのことだろう。有栖が隣にいることも、その理由と関係しているのかもしれなかった。
帆波は車の進む先を確かめ、防壁の内側へ身体を向けた。縁から足を離し、5m下の地面へ降りる。着地に合わせて膝を柔らかく使うと、そのまま歩き出した。
車が止まり、後部座席の扉が開いた。先に綾小路が降り、続いて有栖が杖を地面へついた。足元を確かめて車外へ出る彼女の髪が、風に揺れた。顔を上げた有栖は、近づいてくる帆波に気づくと、口元へ笑みを浮かべた。
「有栖ちゃん。……綾小路くんも?」
綾小路が感情のない目でこちらを向いた。帆波は二人のそばまで歩き、彼の顔を見た。
「どうしたの? 綾小路くんが、ここに来るなんて」
「一之瀬か」
彼の視線が帆波から周囲の建物へ移り、また戻ってきた。
「おまえは、ここにいたんだな」
「うん。今朝、木更津から帰ってきたところ」
「ご家族のところへ行っていらしたんですね。学校からの連絡は、ご覧になりました?」
有栖に尋ねられ、帆波は頷いた。
「戻ってから読んだよ。退避は四十八時間から七十二時間が目標って書いてあったけど、もうバスが出てるんだね。さっき、上から見てた」
「ええ。全員の移動を終えるまでの目標ですから。出発できる方から、順に進めています」
「そっか。皆の準備ができるのを待ってたら、時間が足りなくなっちゃうもんね」
帆波は橋のある方を一度見てから、二人へ向き直った。
「それで、二人は? こっちに何か用事?」
「しばらく、こちらでお世話になることになりました」
有栖の返事を聞き、帆波は綾小路へ目を向けた。
「二人とも?」
「ああ。そういうことになる」
短い返事だった。少し立ち寄ったのではなく、ここで過ごすらしい。帆波は、学校の通知に書かれていた退避先を思い返した。
「綾小路くんは、家に帰らないの?」
「帰ると少し厄介な事情があってな。理事長がこちらに話を通してくれた」
「理事長が?」
「ああ。保護をお願いしてくれたんだ」
帆波は彼の顔を見た。綾小路の声も表情も、学校で話すときと大きく変わらない。けれど、保護という言葉を使うのなら、家へ帰りたくないというだけの話ではないのだろう。
「家に戻ると、危ないの?」
「家庭の事情だ」
そこで彼は言葉を切った。
帆波は、綾小路の家族についてほとんど知らない。彼が話した範囲だけでは、何が危険なのかも分からなかった。それでも、さらに尋ねようとする前に、有栖が口を開いた。
「父が、綾小路くんをこちらで一時的に保護していただけないかとお願いしたそうです。支部としても、大勢の生徒を受け入れることはできなくても、少人数であれば、と」
「それで、ここに来たんだね」
帆波が言うと、綾小路は頷いた。
「ここで過ごせることになって助かった」
「そっか。行くところが決まってよかったね」
詳しい事情を話したくないのなら、無理に聞く必要はなかった。理事長が依頼し、支部が受け入れた。そのうえで本人も、ここへ来られて助かったと言っている。
帆波は頷き、有栖へ顔を向けた。
「有栖ちゃんも、一緒に残ることにしたの?」
「ええ。退避のことで父と話していたときに、綾小路くんはどうするのかと尋ねたんです。こちらで保護していただくと聞きましたので、私も残りたいとお願いしました」
「自分から?」
「はい。支部の方が認めてくださるなら、と父にも言われました」
有栖が隣へ目を向けると、綾小路はわずかに顎を引いた。
「俺は、坂柳まで来るとは思っていなかったが」
「あら。私がいて、何かお困りになります?」
「残る理由を聞いているんだ」
「私もこちらで過ごしたいと思ったんです。それでは足りませんか?」
有栖は涼しい顔で答えた。綾小路は少しの間、彼女を見ていたが、それ以上は言わなかった。帆波は二人のやり取りを見てから、有栖へ尋ねた。
「理事長は、心配しなかった?」
「何も確かめずに決めたわけではありませんよ。以前こちらを見学した際に、必要があれば港から移動できることも伺っています。それに、父も一緒に滞在することになりましたので」
「理事長も?」
「ええ。学校を閉鎖しても、施設を管理する人は必要でしょう。本来は別の方にお願いする予定だったそうですが、私が残りたいと言いましたから、父がその役目を引き受けることになりました」
学校を管理するために残る人と、有栖の保護者。その両方を理事長が務めるのだと聞き、帆波は頷いた。
「じゃあ、理事長と有栖ちゃんの分も、一緒にお願いしたんだ」
「はい。許可をいただけましたので、こうして参りました」
有栖は杖を持つ手を落ち着かせ、帆波へ微笑んだ。
学校を離れることになっても、有栖とは、連絡を取って都合の合う日に会うつもりだった。その彼女が、これからしばらく、同じ支部で過ごす。
「そっか。じゃあ、今までより会えるね」
言葉にすると、嬉しさが増した。授業のあとに時間を合わせなくても、顔を見て話せる機会がありそうだった。仕事や訓練のない時間に有栖がいれば、昨日のことも、今朝のことも、その日のうちに話せる。
「私、有栖ちゃんが来てくれて嬉しいよ」
「ありがとうございます。一之瀬さんがいらっしゃるのは、私も心強いです」
有栖の声に、帆波は笑った。それから綾小路にも顔を向ける。
「綾小路くんも、しばらくよろしくね」
「ああ。こちらこそ」
彼の返事は、いつもどおり短かった。帆波の隣に有栖がいて、その向こうに綾小路が立っている。学校なら見慣れた組み合わせでも、背後にあるのは臨海支部の建物だった。
車のそばで待っていた事務員が、本庁舎へ向かう旨を告げた。有栖が頷き、杖を前へ出す。帆波も彼女の歩調へ合わせて、隣に並んだ。
「ご家族は、お変わりありませんでした?」
「うん。二人とも元気だったよ。昨日は一緒にご飯を作ってね」
話し始めると、有栖の顔がこちらへ向いた。母が両手にしゃもじを持っていたところと、美帆がタレをかけたところと、どちらから話そうか迷った。
「お母さん、すごい量を用意してくれてたんだけど、美帆が先にお肉の場所を選んじゃって」
「まあ。召し上がる前から?」
「うん。まだ混ぜる前から、ずっと見てたから」
有栖が笑い、帆波もつられて笑った。綾小路がこちらへ目を向ける。その視線を受けながら、帆波は母が作ってくれたビーフライスの話を続けた。
理事長が他の生徒放り出していいのか?と思いました。
しかし、よくよく読み返してみると、ちゃんと校長がいるんですね。
なので現場トップの校長が、避難した生徒をまとめているとし、理事長は割と自由に動ける。としました。
綾小路君は政府の秘密機関か何かの施設だと思って、めっちゃ警戒&観察してる。
自衛隊とか同じ敷地内にいるので、オカルトよりも、最新の科学技術の可能性を検討してます。確証はない。