本庁舎へ入ると、頬に当たっていた風が途切れた。冷えた髪の表面に、室内の暖かさがゆっくり戻ってくる。帆波が首元を緩める隣で、有栖も足を止め、杖を持ち直した。外では風に紛れていた靴音が、床の上でははっきりと聞こえた。
三人は食堂へ向かい、そこで事務員から滞在中の生活について説明を受けた。
自由に利用できるのは、宿舎とこの食堂。それ以外の場所へ用事があるときは、本庁舎の事務室へ申し出ることになっていた。有栖が以前の見学で訪れた場所も、今回の滞在で自由に入れるわけではない。食堂は24時間利用でき、ここで三食を取れる。
帆波にとっては普段の生活の中にあることだったが、有栖と綾小路は、それぞれ必要なことを確かめながら聞いていた。綾小路は説明が終わると食堂の中へ目を向け、有栖は椅子に座ったまま、窓の外を一度見た。
木の色を生かした丸テーブルに、窓からの光が落ちていた。学校の昼食時ほど人の出入りは多くない。離れた席で食べていた人が立ち、食器を返して出ていくと、会話の間にカップを置く音が聞こえた。
「ここは以前は一部の人専用だったんだけど、人が増えたからか、今は誰でも利用可能なんだ」
事務員との話が済んでから、帆波は言った。有栖がこちらを向き、口元を緩める。
「そうだったのですか。では、活気があるのは一之瀬さんにとっても珍しいのですね」
「そうだね。でも、活気があるのは好きだよ。あと、ここへ来ると、いつも何か食べたくなるだけど、そこは変わらないんだよね」
「先ほどまで、お食事のお話をしていらしたからではありません?」
「それもあるかも。でも、仕事が終わって帰ってきたときとか、ここに入ると、何を食べようかなって考えちゃうの」
「帰ってから食事をするのが、習慣になっているんだな」
綾小路が言った。帆波は頷き、無人のカウンターへ目を向けた。
「うん。いつでも温かいものを食べられるから、助かるよ」
初めてエースとここへ座った日のことを、少し思い出した。パスタを食べ、とんかつ定食を追加し、そのあとも次々に注文した。自分では一皿ずつ食べていたつもりで、履歴を見るまで、全部でどれほど頼んだか考えていなかった。
今はもう、メニューを見るたびに戸惑うこともない。ここへ来たときには、必要だと思う量を食べればいい。そう教えてくれたエースの言葉は、そのまま普段の食事の仕方になっていた。
宿舎へ向かう道は、本庁舎を出てから徒歩で五分ほどだった。
人工島の中央付近にある本庁舎から離れると、実用本位の集合住宅が並ぶ一角へ出る。五棟ほどの建物は、外から見れば都内の団地とそれほど変わらなかった。窓が規則正しく並び、その下を通る道には、人の暮らす場所らしい落ち着きがあった。
帆波は有栖の歩調に合わせて進み、自分の使っている棟へ顔を向けた。
「有栖ちゃん、私と同じ建物だって」
「そう伺いました。綾小路くんは、別の棟だそうですね」
「ああ。そちらだな」
綾小路が案内された建物を見る。帆波もそちらへ目を向けてから、有栖へ笑いかけた。
「本庁舎で会うだけじゃなくて、出かけるときにも会えそうだね」
「では、私が外へ出るまで待っていてくださいます?」
「毎回は無理だよ。仕事に行くとき、置いていっちゃうかもしれない」
「残念です。朝からお話しできるかと思いましたのに」
少しも困っていなさそうな声に、帆波は笑った。
「時間が合ったらね」
有栖も笑みを返し、建物の入口へ進んだ。
二人に用意されたのは、それぞれ一人で使う部屋だった。キッチンと浴室、トイレがあり、日々の生活に必要な設備は揃っている。有栖の部屋の入口で、帆波は彼女が中を見渡すのを待った。見学に来て帰るだけだったときと、これから自分が過ごす部屋を確かめるときとでは、視線の止まるところも違うようだった。
「暮らすのには、困らなさそう?」
「ええ。十分です」
有栖は室内を見てから、帆波へ顔を戻した。
「自分で使うものの置き場所を決めれば、落ち着けそうですね」
「うん。荷物を出したら、だいぶ違うと思う」
学校の寮でも、木更津の家でも、何も置かれていない場所へ、自分のものを一つずつ置いていった。どこに何があるか覚え、探さずに手を伸ばせるようになると、その部屋で暮らしている感じが強くなった。
有栖も、これからそうして過ごしていくのだろう。
「どれくらい、こっちにいる予定なの?」
帆波が尋ねると、有栖は入口のそばで杖を持ち直した。
「ひとまず三か月ほど、情勢が落ち着くまでということで、父がお話ししたそうです。こちらにも了承していただきました」
「三か月か。冬休みより、ずっと長いね」
「父は、三月までには学校を再開できればと考えているようです。卒業を控えた方もいらっしゃいますから」
帆波は頷いた。自分たちにはもう一年あるが、三年生には、今の三学期が高校最後の学期になる。その時期に校舎を閉じ、生徒を別々の場所へ移したままでいることを、理事長も気にしているのだろう。
「でも、決まったわけじゃないんだよね」
「はい。再開については、改めて連絡するというところまでです」
有栖の返事を聞き、帆波は窓の方へ目を向けた。学校へ戻る日に合わせて、今から予定を組めるわけではなかった。三か月後のことを考えるより、まずは今日、ここへ移ってきた彼女が落ち着ける方がよかった。
「じゃあ、今日はゆっくり荷物を出さないとね」
「一之瀬さんを、いつまでも入口に立たせておくわけにもいきませんし」
「気にしなくていいよ。私も、部屋に戻って片づけてくる」
木更津から持ち帰ったものを、まだ鞄に入れたままだった。母と美帆の顔が浮かび、それから、今夜の食事をどうしようかと思った。
せっかく有栖がここにいるのだから、一緒に食べたい。
「有栖ちゃん、あとで夕ご飯、一緒に食べない?」
「ええ。よろしければ、綾小路くんもご一緒して構いませんか?」
「もちろん。じゃあ、1時間後に食堂で」
「承知しました。綾小路くんにも伝えておきます」
約束をして別れると、帆波は自分の部屋へ戻った。鞄を置き、持ち帰ったものを取り出していく。ここを出るときには考えていなかった夕食の予定ができて、その時間に合わせて動くことが、少し楽しかった。
約束の時間に食堂へ入ると、有栖と綾小路はもう来ていた。
窓には室内の明かりが映り、その向こうに残る空の色は薄暗くなっていた。帆波は二人のいる丸テーブルへ向かい、有栖の向かいに腰を下ろした。
「お待たせ。荷物、片づいた?」
「今日使う分は出せた」
「私も、ひとまずは。あとは、暮らしながら変えていこうと思っています」
「うん。最初に決めても、使ってみたら違うことあるもんね」
帆波はスマートフォンでメニューを開いた。肉料理の写真を見てから、魚料理の欄へ進む。今日は煮込みハンバーグと生姜焼きにしようと思い、御飯は大盛りにした。続けてチキンソテーとミックスフライも選び、注文を確定する。
最初の料理を受け取り、三人で手を合わせた。ハンバーグへ箸を入れると、切り口から湯気がほどけ、濃いソースの香りが近くなった。帆波は肉を口へ運び、飲み込んでから御飯を食べた。
「どう? 食べやすい?」
「ええ。おいしいです」
有栖の返事に帆波は頷いた。綾小路も料理を一口食べ、カウンターの方へ視線を動かす。
「学校とは、注文の仕方も違うんだな」
「慣れると楽だよ。食べたいものを選んで、できたら取りに行けばいいから」
次の料理の受け取り通知が来た。帆波は席を立ち、生姜焼きを運んで戻った。先ほどまでハンバーグのあった場所へ皿を置くと、綾小路の目がそこへ止まった。
「それも、一之瀬の分か?」
「うん」
帆波は頷き、空いた皿を脇へ寄せた。生姜の香りをまとった肉は厚く、箸で持ち上げると、照りのあるタレが下の野菜へ落ちた。
「まだ頼んでるから、あとでまた取りに行くね」
「……そうか」
綾小路が帆波の手元から顔へ視線を戻した。有栖も自分の箸を止め、並んだ器を見ていた。
帆波は二人の視線に気づき、少し笑った。学校では、周囲から不自然に思われない程度に食べていた。支部での食事を、そのまま教室や学校の食堂へ持ち込んでいたわけではない。
「こっちでは、遠慮しないで食べてるの。二人は、自分のペースで食べてね」
「急いでいるようには見えないが、もう一皿目がなくなってるんだな」
「ちゃんと味わってるよ?」
「それは見ていれば分かる」
綾小路が答えた。有栖は口元に笑みを浮かべ、再び箸を取った。
「昨日のお食事を、多すぎないかと心配なさったと伺いましたけれど」
「うん。お母さん、いっぱい用意してくれてたから」
「一之瀬さんが召し上がる分については、心配しなくてもよかったのではありません?」
「でも、今日の分も残しておきたかったんだもん。今朝も三人で食べられたから、あれでよかったんだよ」
答えながら、帆波は生姜焼きを口へ運んだ。肉の旨味にタレの甘辛さが重なり、大盛りの御飯も自然に減っていった。母が自分の食べる量を見て、あの料理を考えてくれたことは嬉しかった。だからこそ、翌朝も少し食べられるようにしておきたかった。
チキンソテーとミックスフライを受け取りに立ち、戻ると、有栖が美帆のことを尋ねた。
「妹さんは、またご一緒に作りたいとおっしゃっていました?」
「そこまでは話してないけど、きっとやりたがると思う。昨日も、タレをかけるのを任せてもらって、すごく嬉しそうだったから」
「自分で仕上げたお料理なら、なおさらおいしく感じそうですね」
「うん。お母さんが混ぜてくれたんだけど、美帆にとっては、自分も作ったご飯だもんね」
帆波は揚げたての衣を箸で切り分けた。白身魚は柔らかく、先に食べた鶏肉とは違う口当たりだった。有栖の問いに答え、話を聞く間に食べ、飲み込んでから続きを話す。食器を返すために立ったついでに、次に注文していたローストビーフ丼も受け取った。
薄く重なった肉の下から御飯をすくうと、タレが染みていた。帆波は一口食べてから、ふと顔を上げた。綾小路がこちらを見ている。
「どうしたの?」
「いや。苦しくはならないんだなと思ってな」
「うん。まだ平気だよ」
鞄を置いたときと同じように座れていたし、腹部が張って姿勢を変えたくなることもなかった。量を数えるために食べているのではない。料理ごとに違う味がして、食べればおいしく、次も自然に箸が伸びた。
「足りないからって、二人の分まで食べたりしないから、安心してね」
「そこは心配していない」
「それならよかった」
帆波が笑うと、有栖も笑った。
「私の方が先に食べ終わってしまいそうですね」
「待たせちゃう?」
「お話ししながらですから、構いませんよ」
その返事が嬉しくて、帆波は頷いた。エースと食べるときにも、彼の話を聞きながら何度も料理を取りに立つことがあった。今日は向かいに有栖がいて、隣には綾小路がいる。皿を替えて戻ってきても、話の続きが待っていた。
さらに料理を追加している間に、有栖の食事は終わった。綾小路も箸を置いたが、すぐに立とうとはしなかった。帆波は二人へ礼を言い、新しく受け取った皿を自分の前へ置いた。
「明日の朝も、ここで食べる?」
「そのつもりです。一之瀬さんも?」
「うん。時間が合ったら、一緒に食べようよ。綾小路くんも」
「ああ。ここには来ると思う」
「では、お会いできたら、ということで」
有栖がそう言い、帆波も笑って頷いた。
毎回、約束をしなくてもよかった。ここへ食事に来て、二人がいれば声を掛けられる。明日も同じように席を囲むかもしれないと思いながら、帆波は料理を口へ運んだ。
向かいで有栖が、昨夜のケーキについて尋ねた。帆波は飲み込んでから顔を上げ、美帆に大きさを聞いたときのことを話し始めた。自分だけがまだ食べていることも、二人がそれを眺めながら話を続けていることも、やがてあまり気にならなくなっていた。
フードファイターほなみちゃん