十二月二十七日の朝、窓から差す光は、部屋の奥まで細長く届いていた。冬の低い太陽に照らされた床と、まだ影の中にある床とでは、裸足で触れたときの冷たさが違う。帆波はカーテンを開け、机の上の端末で時刻を確かめた。学校へ向かうために、ここを出る必要はなかった。
昨日は、有栖と綾小路と夕食を取った。食べ終えた二人と話しながら、さらに料理を頼み、最後にはケーキの話までした。今日も時間が合えば会えると思うと、朝の支度をしながら、どこかで二人に声を掛けられるだろうかと考えていた。
エースに訓練の話を持ちかけられたのは、その後だった。
「学校が閉まって、時間の使い方も変わるからな。今までできなかった確認をしておこうと思う」
帆波は彼へ顔を向けた。教えてもらえることが増えるのなら、嬉しかった。何をするのだろうと待っていると、エースの視線が帆波の額へ向いた。
「鬼になった状態を、どれくらい長く保てるかだ」
「ああ、この姿でずっと過ごしてみるんですね」
「そうだ。任務中だけだと、途中で解除して終わりになる。長く続けたときにどうなるか、眠ったときにも保てるか。その辺りを見ておきたい」
帆波は頷いた。変身しようと思えばできるし、戻そうと思えば戻せる。身体も思いどおりに動く。それでも、朝から晩まで同じ姿で過ごしたことはなかった。
「眠ってる間も、変身したままでいられるのかな」
「そこも含めて確認する。意識を失った場合の維持についてもだな」
「分かりました。私も気になりますし、やってみたいです」
返事をすると、エースは頷いた。
「普段の生活を続けながらでいい。長く変身していて、気になることがあれば教えてくれ」
「はい」
帆波は右の生え際へ指を添えた。前髪の下にある角の位置を確かめ、それから手を下ろす。
そうしようと思えば、変化はすぐに始まった。右額の角が伸び、漆黒の光沢を帯びる。身体の中心から広がった浅黒い色が、腕を伝い、最後に指先へ届いた。指を開いてみても、動作に違和感はない。掌を返し、顔を上げると、エースはいつもと変わらない目でこちらを見ていた。
「じゃあ、そのまま過ごしてみてくれ」
「はい。……エースさん」
「何だ?」
「特に何もなかったときも、報告していいんですよね?」
「ああ。何もなかったことも、確認したいことの一つだからな」
帆波は笑って頷いた。身体について分かったことを、あとで彼へ話せる。何も変わらずに過ごせたとしても、それを聞いてもらえるのなら、試してみることが、いっそう楽しみになった。
鬼の姿で過ごしていても、宿舎の部屋で手に取るものは変わらなかった。
スマートフォンを持ち、飲み物の入ったカップを置き、必要な資料を読む。窓へ映る褐色の手は目を引いたが、文字を追っているうちに、その色へ注意を向ける時間は減っていった。集中しにくくなることも、急に気分が変わることもなかった。
食堂へ行けば、料理を選んで食べた。食器を持つときにも、箸を使うときにも、余計な力は入らない。気を張って身体を抑えておかなければならないようなことはなく、一口ずつ味を確かめながら食べられた。
時間が経つたびに、変身が解けかけていないか、自分の感覚へ注意を向けてみた。それでも、保つために何かを続けているという手応えはなかった。気づけば時計の針が進み、窓の向こうが暗くなっていた。
夜、眠る支度をしてからも、右額には黒い角があった。帆波は鏡でその姿を確かめ、長い髪を整えた。普段より濃い肌の上で、ストロベリーブロンドの髪が明るく見える。鏡の中で自分と目を合わせ、少し首を傾げてから、明かりを消した。
翌朝、目を覚まして手を出すと、指は普段の色へ戻っていた。
帆波は寝具の中で右額へ触れた。指先に当たる角も短い。上体を起こし、鏡を見にいくと、そこにいたのは通常の姿の自分だった。
寝ている間に、戻ったんだ。
眠る直前に、自分で解除した覚えはなかった。昨夜、鏡を見たときの姿も覚えている。帆波はそのことをエースへ伝えようと思いながら、もう一度、鬼の姿になった。
変身は、昨日と同じようにできた。手を開き、指を曲げ、鏡の前で顔を上げる。眠って解除されたあとだからといって、やり直すために何かを覚え直す必要はなかった。
昨日一日では、どれだけ長く保てるかまでは分からない。今日も続けるのだと思い、帆波は朝の支度を済ませた。
学校がないので制服ではなく、お下がりの戦闘服に着替ることにした。腹筋が覗くオレンジ色のタンクトップ型のインナーに、白地に黒いラインの入ったジャケット、ラフなカーゴパンツを着ると、いつもの学校の朝とは違うことが、強く意識された。
宿舎を出るところで、制服を着た有栖と顔を合わせた。
杖をついた彼女がこちらへ目を向け、すぐに笑みを浮かべる。帆波の額、腹部、手にも視線を止めたが、驚いた様子はなかった。
「おはようございます、一之瀬さん。今日はそのお姿なんですね。服もお似合いですが、寒くはないのですか?」
「おはよう、有栖ちゃん。うん。しばらく、こっちの姿で過ごしてみることになったの。寒さは大丈夫」
「お仕事のために?」
「身体の確認だよ。ずっと変身してたらどうなるか、学校があるとなかなか試せないから」
有栖は頷き、帆波の隣へ進んだ。彼女の歩き始める速さに合わせ、帆波も足を出す。
「では、しばらく拝見できるんですね」
「そんなに見るものある?」
「ありますよ。私は、そのお姿も気に入っていますから」
ためらいなく答えられ、帆波は笑った。有栖は以前から、こういうときに目を逸らさなかった。珍しいものを確かめる視線と、綺麗だと言ってくれたときの顔を思い出すと、見られることも悪い気はしない。
「ありがとう。でも、ずっと見てても、変わらないかもしれないよ?」
「変わらないかどうかを確かめていらっしゃるのでしょう?」
「そっか。それもそうだね」
帆波が笑うと、有栖も口元を緩めた。並んで歩く道に、冬の日差しが斜めに落ちていた。
食堂には、エースがいた。
その姿を見つけると、帆波は自然と顔を上げた。こちらに気づいた彼が軽く頷き、帆波も笑顔で挨拶を返す。有栖と一緒に近くの席へ向かい、朝食を選んでから、昨夜のことを話した。
「朝、起きたら戻ってました。寝る前は、この姿だったんですけど」
「そうか。起きてからは、普通に変身できたんだな?」
「はい。今も、昨日と同じです」
「日中、何か気になったことは?」
帆波は料理を受け取る前に、一度、昨日の過ごし方を思い返した。
「特にはなかったです。ずっと変身してるから疲れるとか、落ち着かないとか、そういうこともありませんでした」
「分かった。引き続き見ていこう」
「はい」
短いやり取りだったが、話を聞いてもらえたことが嬉しかった。帆波は受け取りの通知を確かめ、席を立った。料理を運び、有栖と朝の挨拶の続きをしながら食べ始める。
綾小路が入ってきたのは、帆波が最初の料理へ箸をつけて少し経ったころだった。
食堂へ入った彼は、一度、室内を見渡した。カウンター、利用している人、席の間。視線がこちらへ移り、帆波を捉えたところで止まる。
「おはよう、綾小路くん」
帆波が声を掛けると、彼はすぐには返事をしなかった。目は合ったはずだったが、その視線が下がり、戻ってこない。
「……ああ。おはよう、一之瀬」
声の調子は、いつもと大きく変わらなかった。けれど、挨拶をしたあとも目の向きが変わらず、帆波は自分の胸元を一度見下ろした。何かをこぼしたわけではない。
綾小路は、この姿を見るのが初めてだった。
帆波は箸を置き、彼を見上げて笑った。
「綾小路くん。さっきから、私の胸ばっかり見てない?」
彼の視線が、ようやく上がった。
「……すまない」
「ふふ。別に怒ってないよ」
帆波が答えると、綾小路は一度目を逸らした。有栖が隣でカップへ手を伸ばしている。こちらを見た彼女の口元には、薄い笑みが残っていた。
「おはようございます、綾小路くん」
「ああ。おはよう、坂柳」
綾小路は有栖へ返事をし、それから改めて帆波を見た。今度は額の角へ視線が向き、褐色の手へ移った。先ほどのように一か所で止まらず、見比べるように顔へ戻ってくる。
「……その姿は、どうしたんだ」
「今、身体の確認をしてるところなの。しばらく、このままで過ごしてみようと思って」
綾小路は黙っていた。帆波が箸を持ち直すと、その手の動きへも目が向いた。
「一之瀬、なんだよな」
「うん。私だよ」
答えて少し笑うと、彼は帆波の顔を見たまま、ゆっくりと頷いた。すぐに次の質問は来なかった。普段なら言葉にしないまま会話を進めていく彼が、何を聞くかを選んでいるようにも見えた。
帆波は一口食べ、飲み込んでから声を掛けた。
「綾小路くんも、朝ご飯でしょ? 座ったら?」
「ああ」
彼は席へ着いたが、注文の画面を開くまでに、もう一度こちらを見た。有栖は説明を始めず、静かにお茶を飲んでいた。
エースが箸を置き、外部の人間向けの丁寧は口調で話し始めた。
「綾小路君。色々と疑問もあるでしょう」
綾小路が彼へ顔を向けた。帆波もエースを見た。食事を終えた彼は、綾小路の返事を待っていた。
「……そうですね。何から聞けばいいのか、考えていたところです」
「ちょうどいい機会ですから、食事が終わったら、少し話しておきましょうか。ここのことも、まだ十分には説明を受けていないでしょう」
「はい」
綾小路が頷くと、エースは有栖へも目を向けた。
「坂柳さんも、一緒にどうですか」
「ええ。もちろんです」
すぐに返事をした有栖の隣で、帆波も口を開いた。
「私も、一緒に聞いていていいですか?」
「ああ。一之瀬のことも含めて話すからな」
帆波は笑って頷いた。エースの話なら、自分も聞いていたかった。知っていることでも、彼がどう説明するのかを聞けば、まだ分かっていなかったところに気づけるかもしれない。
手早く食事を終えた綾小路の視線が、再び帆波の額へ向いた。帆波は変身を解かず、そのままお茶へ手を伸ばした。温かな器を包む褐色の指の向こうで、エースが三人へ向き直った。