カップから立つ湯気が、窓から差す光の中で細くほどけていた。熱を失った空気が周囲へ混ざるにつれ、白い輪郭も消えていく。帆波は器を卓上へ戻し、エースへ顔を向けた。
「まず、この世界には、一般にオカルトと呼ばれているものが実在します」
エースは、特別に声を潜めることもなく話し始めた。
「悪魔や霊的な現象、人間の使う超常的な能力も含めてです。君が今見ている一之瀬の姿も、その領域に関わるものです」
「……オカルト、ですか」
綾小路の目が、帆波の額へ動いた。そこからエースへ戻り、彼の次の言葉を待つ。帆波はその視線を追わず、カップの取っ手へ指を添えたまま座っていた。
「通常の人間には、そうしたものを認識できません。この支部を今まで知らなかったのも、それが理由です」
「見えないようにしてある、ということですか」
「存在を認識できず、不思議に思わないようにしてある、といった方が分かりやすいでしょうか。例えば、結界で建物を覆う。すると、その建物が存在しないように、周囲の人間には認識される」
「実際には、そこにあるんですよね」
「ええ。だから、人も動物も避けて通るし、建物があれば風も遮られる。それでも、その不自然さを疑問に思えない」
綾小路が窓の方へ目を向けた。ガラスの向こうには、支部の建物と、その間を通る道がある。彼は少しの間そこを見てから、エースへ向き直った。
「疑問を覚えること自体、できないんですか」
「そうです。約十年、学校のすぐ隣にこれだけの施設があっても、まったく存在を知られず、疑問に思う生徒も現れなかった」
帆波も、初めてエースとここへ来たときには、同じように戸惑った。大きな建物も、港も、船もあった。入学してからずっと隣で暮らしていたのに、その存在を知ることができなかった。
「私も、最初は全然分からなかったよ。知ってから見ると、こんなに広いのにって思うんだけどね」
綾小路がこちらを見た。
「一之瀬にも、そういう時期があったのか」
「うん。私だって、初めから知ってたわけじゃないもん」
帆波は笑って答えた。有栖は二人を見てから、エースへ尋ねた。
「この建物だけでなく、他の…起きた出来事についても、認識が変わるのですか?」
「そういうこともあります。例えば悪魔による被害が、普通の人間には別の出来事として受け止められることもある。心神喪失や精神の異常による行動、事故として処理される場合もあります。ただ、普段起きている病気や事件が、何でも霊的なもののせいだという話ではありません」
エースはそこで一度言葉を切り、綾小路の反応を確かめた。
「こうした力に目覚めることを、覚醒と呼びます。覚醒者、霊能力者、サマナー。呼び方はいくつかありますが、普通の人間には分からないものを認識し、関わる人間がいるということです」
「ここに入った人間は、皆そうなるんですか」
「敷地や組織に入っただけで覚醒に至るわけではありません。ここで働いている人間にも、覚醒していない者は大勢います」
綾小路は頷いた。何かを尋ねかけるように口を開き、それから閉じる。帆波は彼が次の問いを口にするまで待った。
「では、ここを運営している組織は、どういうものなんでしょうか」
「我々はガイア連合といいます。もともとは、一部の覚醒者たちが自分たちの生存のために集まった互助組織です。今では全国で、霊的な災害や、敵対的な悪魔に関わる問題への対応を任されています」
「政府から、ですか」
「ええ。ただ、政府の一部ではありません。あくまで業務を委託された、独立した組織です」
綾小路の指が、卓上でわずかに動いた。
「政府も、オカルトの存在は知っているんですね」
「存在そのものは。ただ、知っていることと、自分たちで実態を把握して対処できることは別です」
エースは、日本にもかつて国家を守護する退魔組織があったことを話した。太平洋戦争の敗戦時、当時の一神教勢力によって壊滅させられたのだという。その後、跡を継いだ組織が立ち上げられたが、政府自体はオカルトの存在を知りながら、その実態や対処方法を十分に持たない状態に置かれてきた。
綾小路は口を挟まずに聞いていた。帆波も箸を置き、エースへ目を向けた。
「今、世界各地で制圧を進めているのは、メシア教過激派と呼ばれる一神教系の宗派の勢力です。かなりカルト的な性質を持つ勢力ですね。日本を除けば、平和な国はないと言っていいところまで悪化しています」
「ニュースで報じられている混乱にも、そうした事情があるんですか」
「あります。日本では政府がかなりの情報統制をしいているのですが、実態はひどいものです」
「メシア教の名前は日本でも聞きますが、日本にいるメシア教の方々も、同じ動きを?」
有栖が尋ねた。エースは首を横に振った。
「日本で受け入れているメシア教は、穏健派と呼ばれている別勢力になります。穏健派は、治安にもかなり貢献しています。過激派と同じ扱いにはできません。ただ、日本でも霊的な災害の規模と件数は増えています。今の日本の状態が、いつまでも続くとは考えない方がいい」
「日本も、ほかの国と同じ状況になる可能性がある」
「ええ。治安だけでなく、社会の仕組みそのものが維持できなくなる可能性が高い」
帆波はカップへ視線を落とした。木更津の家で、母と妹が暮らしている。その安心があっても、外の状況まで落ち着いたわけではない。仕事をして帰れば温かい料理が出てくることも、二人へ会いに行けることも、放っておけば続くものではなかった。
「学校の閉鎖も、そのためなんでしょうか」
綾小路の問いに、エースはすぐには頷かなかった。
「学校側の判断の詳細は、俺から説明することではありません。ただ、今の社会情勢を考えれば、移動できるうちに避難を始める理由は理解できるでしょう。我々から見ると、坂柳理事長は適切な判断をしていると思いますね」
「……そうですか」
綾小路は答え、しばらく黙っていた。エースは急かさず、カップを手に取った。有栖も口を閉じていたので、帆波は少し冷めた料理を一口食べた。
綾小路がこちらを向いたのは、そのあとだった。
「一之瀬は、いつからこういう世界に関わっていたんだ?」
「高校に入ってからだよ。一年生の夏、無人島試験の時。それまでは、私も普通の女の子だったんだ」
「その頃から、こちらの仕事をしていたのか」
「うん。学校が終わってから来たり、休みの日に仕事をしたり。知らないことばっかりだったから、エースさんに教えてもらいながらね」
名を口にすると、自然と彼の方へ目が向いた。エースは帆波の話を遮らずに聞いていた。その顔を見てから、綾小路へ視線を戻す。
「学校では、そんな事情をほとんど見せていなかったな」
「学校では、普通に過ごしてたから。授業も受けてたし、頼まれたこともしてたでしょ?」
「ああ。ただ、2年になってからは、クラスの運営から離れた」
帆波は頷いた。綾小路が知りたいのは、自分がいつ、何をできるようになったかだけではないらしい。
「最初はね、お母さんと美帆のために、いい進路を選びたかったの。Aクラスで卒業できれば、その先も安心できると思ってたから」
「今は、違うのか」
「こっちで仕事をして、二人の暮らしも変えられたからね。卒業特典がないと困る、っていうことは、もうなくなったの」
帆波は自分の指へ目を落とした。料理を運んだ指も、木更津で母を手伝った指も、今は褐色だった。
「だから、学校でしなきゃいけないことはしてたけど、その先まで全部引き受けたいとは思わなかった。それより、こっちで教わったり、仕事をしたりする時間が欲しかったんだ」
「一之瀬さんは、そのあたりがはっきりしていらっしゃいますね」
有栖が言った。帆波が顔を向けると、彼女は笑みを浮かべたまま続けた。
「周りから期待されても、ご自身の使いたい時間を、差し出したりはしていらっしゃらない」
「うん。やりたいことがあるからね」
答えると、有栖は小さく頷いた。綾小路は二人を見てから、帆波へ尋ねた。
「クラスメイトのことは、もう気にならないのか?」
「今は、あんまり気にならないかな」
帆波は少し考えてから答えた。
「話しかけられれば話すし、何か聞かれたら答えるよ。でも、自分から皆のために何かしようって、思わないの」
「以前は、随分気にかけていたと思うが」
「うん。そのときは、そうしたかったんだと思う。でも、ずっと同じようにしなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
綾小路は返事をせず、帆波を見た。彼女はカップへ手を伸ばしかけ、まだ少し残っていた料理へ箸を向けた。
「私が何とかしなきゃって思わなくても、皆、自分で考えられるし、ほかの人に頼むこともできるよ」
「それで、不満を持たれるとしても?」
「しょうがないかな。私がしたいことは別にあるんだし」
口にしても、特に気持ちが揺れることはなかった。誰かを困らせるために、しないことを選んでいるのではない。自分の時間を、使いたいところへ使っている。それを綾小路へ話しただけだった。
有栖が、帆波と綾小路を交互に見た。
「皆さんが知っている一之瀬さんと、ご本人が毎日考えていたことには、ずいぶん違いがあったようですね」
「そうだな」
綾小路は短く答えた。それから、エースへ一度視線を向けて、帆波へ戻した。
「今も、家族のために仕事を続けているのか?」
「それもあるよ。でも、今は仕事自体が楽しいの」
「オカルトに対処する仕事だと聞いたが、具体的にはどんなことを?」
「基本的には悪魔と戦うことかな」
「…戦うのか?」
「うん。戦うの、好きだよ」
帆波が答えると、綾小路の視線が止まった。
エースの前で戦い方を説明するときと同じように、頭の中へいくつかの感触が戻ってきた。相手の攻撃を見て、どこへ動くかを選ぶ。踏み込んだ自分の力が、相手の守りを越えて届く。こちらを止めようとした身体が、押し返されていく。
「相手が頑張っても、私には全然通用しないことがあるんだ。こっちには、何をしようとしてるか分かってて、自分のしたいように動けるの」
話すうちに、口元が緩んだ。
「そういうとき、すごく楽しいよ」
「……そうなのか」
「それに、私を弱いと思っていた相手が、違ったって気づくときも好きかな」
綾小路は帆波を見ていた。視線が肩から腕へ移り、卓上にある手へ下りてくる。帆波はその動きに気づき、指を軽く曲げてから、彼へ顔を向けた。
「綾小路くん、意外だった?」
「少なくとも、学校での印象とは違うな」
「そうだよね。学校じゃ、こんな話しなかったもんね」
昨日、家族の食事の話をしていた自分を見ていた彼が、今は、戦うのが好きだという言葉を聞いている。すぐに分かったつもりで返されないことが、帆波には少し面白かった。
「相手を倒せれば、それでいいということか?」
「何を確かめるのかとか、誰を守るのかとか、知らないことも多いし、相手を倒すだけじゃないことも多いかな。でも、仕事ですることは、ちゃんとやるよ。」
帆波はエースへ顔を向けた。教会へ向かう前にも、何が必要なのかを教えてもらった。自分の力で押さえられることと、任務で何をしなければならないかは、同じではなかった。
「でも、戦って楽しかったことは、楽しかったままだよ」
エースは頷き、綾小路へ目を向けた。
「任務で必要な判断と、本人が何を楽しむかは分けて考えています。仕事の進め方は教えますが、私生活の選択まで俺が決めるわけではありません」
綾小路はその言葉を聞き、もう一度帆波を見た。
「家族の話をしているときとは、随分違って聞こえるな」
「そう? でも、どっちも私だよ」
帆波は笑った。母と美帆の顔を思い浮かべることは、今も簡単だった。二人が元気に暮らしていることは嬉しいし、帰れば話したいことがある。戦うことが好きだと綾小路へ話したあとでも、そこは変わらなかった。
「お母さんと妹に会うのは楽しみだし、二人が喜んでくれたら嬉しいよ。有栖ちゃんとこうして話すのも好き」
「私も同じ気持ちですよ、一之瀬さん」
有栖が微笑んだ。帆波も笑顔を返す。
「ありがとう。有栖ちゃん」
「戦いのお話を伺うときにも、楽しそうにしていらっしゃいますけれど」
「うん。そっちも楽しいから」
有栖の視線が、綾小路へ移った。
「綾小路くんは、何か一つを聞けば、ほかは違っていたことになるとお考えですか?」
「いや。ただ、今まで知らなかった部分が多い」
「でしたら、今日知った分も加えてご覧になればよいのでは?」
帆波はカップを持ち上げた。温かさは、先ほどよりも弱くなっていた。口をつけてから戻すと、綾小路はまだこちらを見ていたが、すぐに問いを重ねることはなかった。
食堂では、別の席の椅子を引く音がした。帆波はそちらへ一度目を向け、それからエースへ顔を戻した。彼は綾小路を見て、静かに口を開いた。
「綾小路君。一之瀬と、模擬戦をしてみますか」
綾小路が彼へ向き直った。
「模擬戦、ですか」
「ええ。先ほど、一之瀬の話を聞きながら、自分なら彼女を倒せるかと考えていましたね」
綾小路の指が止まった。帆波もカップから手を離し、彼を見た。自分へ向けられていた視線は覚えているが、その間に何を考えていたのかまでは分からなかった。
「……分かるんですか」
「さきほど、口に出さなかった考えは、こちらにも伝わってきました」
エースは穏やかに答えた。有栖がカップを置き、綾小路へ目を向ける。彼は少し黙ったあと、帆波を見た。
「どれほど動けるのか分からなかったので、自分が相手をした場合を考えていました」
「でしょうね。ただ、俺が気になったのは、勝てるかどうかを考えたことだけではありません」
エースは卓上へカップを戻した。
「見慣れない姿をした同級生から、戦うことが好きだと聞いた。その話を聞きながら、君は冷静に、自分が彼女を倒せるか検討していた。しかも、それを相手に悟らせないようにできている」
帆波は綾小路の顔を見た。先ほども、いつもとあまり変わらない表情をしていた。驚いたのだろうとは思ったが、こちらを倒す場合まで考えていたとは、言われるまで気づかなかった。
「今日、食堂へ来てからも、周囲を観察し続けていますね。人の動きや建物、出入りする場所。知らないところへ来れば、誰でも多少は気にするでしょう。ただ、君の場合は、その見方も、観察していることを表に出さないやり方も、ずいぶん身についている」
「……そう見えましたか」
「ええ。高校生としては、異常と言っていいほどです」
強い言葉だったが、エースの声には責めるような響きがなかった。綾小路も否定せず、彼を見ていた。
「仕事で、自衛隊の特殊部隊員と顔を合わせたことがあります。君を見ていると、ああいう人たちの中の一部と、似た印象を受けるんです。見ているものを、そのまま顔や言葉には出さない。それでいて、必要なことは確かめ続け、相手が敵に回った時のことを考えている」
帆波は、もう一度綾小路を見た。
口数が少なく、何を考えているのか分かりにくいところはある。けれど、それを特殊部隊の人に似ていると考えたことはなかった。学校で同じ学年の男子として話し、教室やケヤキモールで会ってきた自分と、そういう付き合いのないエースとでは、見えるものが違うのだろうか。
綾小路くんのことを何も知らずに見たら、そう見えるのかな。
黙って相手の言葉を待つ横顔を眺めながら、帆波は思った。大人しいという印象で見ていた仕草も、エースの話を聞いてからでは、少し違って見える。かといって、今まで話していた彼が別人になったわけでもなかった。
「俺に、何かさせたいということでしょうか」
綾小路の問いに、エースは首を横に振った。
「何かを引き受けてもらうための話ではありません。君は、自分で相手を観察して、対処できるか考えられる。その判断を表に出さずにもいられる。だからこそ、今まで知らなかったものを、知っている範囲だけで測る危険も分かっておいてほしいんです」
エースの目が、帆波へ向いた。
「一之瀬を見れば、角や肌の色が変わっていることは分かる。ただ、それが身体能力にどれほどの違いを生むかは、見ただけでは分からない。オカルトが実在すると説明されても、まだ言葉を聞いた段階でしょう」
「それを、模擬戦で確かめる」
「ええ。オカルトの実演も兼ねてです。君自身が、彼女を相手にしたらどうなるかと考えた。それなら、安全を確保できるところで体験しておく意味はあると思います」
帆波は綾小路へ目を戻した。彼はエースを見たまま、少し考えているようだった。有栖も口を挟まず、返事を待っている。
「これから先、何に遭遇するかは分かりません。悪魔の中には、一之瀬よりはるかに危険なものもいます。自分の判断に、まだ知らない領域がどれほど残っているのか。それを今、確かめておく機会です」
「安全は、確保できるんでしょうか」
「俺が見ます。危険なら止めますし、必要な対応もできます。怪我をしても構わないというつもりで勧めているわけではありません」
綾小路は卓上へ視線を落とした。帆波も返事を待った。彼が受けなければ、模擬戦をすることはない。それでも、もしやってみたいのなら、自分も相手をしてみたかった。
エースが言ったようなところが、向かい合えば自分にも見えるだろうか。綾小路がどんなふうに間合いを取り、何を見て動くのか、知りたくなっていた。
「……分かりました。やってみます」
綾小路が顔を上げた。
エースは頷き、帆波へ向き直る。
「一之瀬は、どうだ?」
「はい。綾小路くんがやってみたいなら、私もやってみたいです」
答えると、有栖が杖へ手を添えた。
「ぜひ、私も拝見したいです」
「ええ。場所を確認して、条件も先に決めましょう」
エースの返事を聞き、帆波は隣の綾小路を見た。彼もこちらを向いていた。先ほどまで自分を倒せるかと考えていた相手へ、帆波は自然に笑いかけた。
「よろしくね、綾小路くん」
「ああ。よろしく頼む」
短い返事を聞き、帆波は頷いた。右額の黒い角へ、窓からの光が触れていた。
綾小路君の戦闘力を見破れるかどうかですが、ここでは可能としました。
ホワイトルームについて知らなくても、退学を狙われていた+島から出せないほどの家庭の事情という事前情報があり、綾小路君がオカルトを初めてっ知った状況なら、ありえるかなと。
作中で綾小路君がその実力を見せる前に、実力を見破るキャラはいませんが、登場するのは基本、高校生ですからね。
しかし変な丁寧語なエース君。