フェンスの内側には、建物に沿って広い舗装路が延びていた。日なたの路面はすでに熱を含み始めていたが、コンクリートの建物が落とす影へ入ると、腕に触れる風が少し涼しくなった。帆波は歩きながら顔を上げた。窓は規則正しく並び、壁面には装飾がほとんどない。学校の校舎とも、ケヤキモールとも違う、用途を優先して造られた場所に見えた。
背後でエースが扉を閉め、鍵をかけた。帆波が待っていると、彼は鍵をしまって歩き出した。隣へ並ぶまでの間にも、少し先の道路を作業車が横切っていく。運転席の人は進行方向を見ていて、こちらへ注意を向ける様子はなかった。車が通り過ぎた後には、倉庫らしい建物の間を歩く人の姿が見えた。
昨日は海の上から眺めていた。その中へ入ってみると、建物一つひとつの間隔や、道路の幅が、思っていた以上に大きかった。
「エースさん。ここって、ずっと前からあるんですよね?」
「ああ、そうだ」
「やっぱり……。学校へ戻るときに船から見えて、びっくりしたんです。こんなに広い場所があったなんて、今まで全然気づかなくて」
話しながら、帆波は建物の向こうへ目を向けた。今いる場所から港までは見通せなかったが、昨日見た倉庫や船が、その先にも続いているのだろう。エースは帆波の視線を追ってから、こちらへ顔を戻した。
「昨日、初めて気づいたのか」
「はい。入学してからずっと、この島で生活してたのに。不思議ですよね。あんなに大きな船まで出入りしてるのに、知らなかったなんて」
自分で口にしても、やはり変だった。見逃していたというには、何もかもが大きすぎる。帆波は説明を待つつもりで彼を見たが、エースは少し考えるように視線を前へ戻した。
「そうか。……そういえば、まだ組織の名前も教えてなかったな」
帆波は彼へ顔を向け直した。雪山では、悪魔や異界に対処する組織の人間だと聞いただけだった。あのときは、その人がそばにいてくれることの方が大切で、詳しく尋ねる余裕もなかった。
「俺が所属しているのは、ガイア連合って組織だ。ここは、その臨海支部になる」
「ガイア連合……」
覚えておこうと、帆波は声に出した。それからもう一度、前方の建物を見た。支部という言葉から思い浮かべるには、ずいぶん広い場所だった。学校の一室や、小さな事務所のようなものを想像していたわけでもないが、港まであるとは考えていなかった。
「じゃあ、ここで働いている人たちも、エースさんのお仲間なんですか?」
「同じ組織の人間もいる。関係先の人間もいるし、仕事はいろいろだな。全員が俺と同じことをしてるわけじゃない」
「悪魔を倒したり、異界を調べたり……そういうお仕事ですよね?」
「ああ。調査もするし、危険があれば対処もする。そのためには、現場へ行く人間以外にも必要な仕事がある」
帆波は、先ほどの喫茶店の店員を思い出した。覚醒者ではないけれど、事情を知っている人たち。あの人たちと、雪山で怪物を倒したエースが、一つの組織につながっている。目の前を通った車両や、建物へ運ばれていく荷物も、その仕事を支えるものなのかもしれなかった。
雪の中で出会ったときには、エース一人が、ほかの誰とも違う場所に立っているように見えた。自分には理解できないものを知り、手も足も出なかった怪物を退け、帰り道まで示してくれた。その人に、こうして戻ってくる場所がある。帆波は隣を歩く彼を見てから、敷地へ目を戻した。ここを少し知ることは、彼のことを知ることにもなるような気がした。
「私みたいに、急に力が出るようになる人も、ほかにいるんですか?」
「いるぞ。力を得るきっかけも、できることも、人によって違うがな」
「じゃあ、みんな、同じように力が強くなるわけじゃないんですね」
「そうだ。もともと霊的な資質を持ってる人間もいる。霊能者だとか、異能者だとか、呼び方もいくつかあるが、戦うことに向いてる奴ばかりでもない」
帆波は自分の右手へ目を落とした。角と怪力。今の自分が確かめられた変化は、まずその二つだった。エースに言われなければ、覚醒という言葉さえ知らないままだっただろう。自分に何が起きたのかも分からず、前髪を押さえて一人で悩んでいたかもしれない。
それと同じような経験をした人が、ほかにもいる。うまく説明できないことを話しても、最初から信じてもらえる相手がいるのだと思うと、肩の辺りが楽になった。
「皆さん、エースさんみたいに強いんですか?」
「いや。能力も経験も違うから、一括りにはできないな」
帆波は小さく頷いた。誰もがあの怪物を倒せるわけではないのだ。雪の上に立つ彼の姿が浮かんだ。自分が逃げることしかできなかった相手へ、迷うことなく向かっていった背中を思い出すと、今も目が離せなくなる。
隣にいるエースは、ごく普通に前を見て歩いていた。こちらが話しかければ答えてくれるし、道路を横切る前には車の来る方へ目を向ける。そんな仕草の一つひとつまで、帆波には落ち着いて見えた。
「雪山で私が入ったみたいな場所も……ほかにあるんですよね」
「ああ。お前だけに起きた、ほかに例のない出来事ってわけじゃない。悪魔も異界も、こっちの世界じゃ知られてるものだ」
「だから、助けに来てくれたんですね」
「そういう事態に対処するために動いてるからな」
帆波は頷きかけ、ほんの少しだけ返事が遅れた。彼にとっては、仕事の中で起きたことでもあるのだろう。自分にとっては、何もかもがそこで変わってしまったような出来事だった。その違いを寂しく思うより先に、あの人が仕事として来てくれてよかったと感じた。
誰にも知られないまま死んでしまうのだと思っていた。声を出しても、走っても、助けを呼ぶためのものを操作しても、知っている世界の誰にも届かなかった。けれど、あの森へ入る人がいた。何がいるのかを知り、どうすれば対処できるかも知っている人が、自分を見つけてくれたのだ。
「……知らなかったです。そういう場所があることも、助けてくれる人がいることも」
「普通に暮らしていれば、知らずに済むことも多いからな」
帆波は返事をし、道の先へ目を向けた。普通に暮らしていた自分には、ここが見えていなかった。今も、知っていることはわずかしかない。それでも、分からないことを全部一人で抱えなくてよいのだと、隣の人の声を聞きながら思えた。
エースが向かった建物の入口には、ガラスの向こうに明るい床が見えた。近づくまでの間に、帆波はもう一度周囲を見渡した。歩いてきた道のほかにも道路が分かれ、それぞれ別の建物へ続いている。どれが何をする場所なのか、外から見ただけでは分からなかった。
「それにしても、すごく大きいですね。学校より広いんじゃないですか?」
「ここは、ちょっと特殊だからな。どこの支部もこの規模ってわけじゃない」
「そうなんですね。支部って聞いたので、これが普通だったら、本部はどうなるんだろうって考えちゃいました」
エースは帆波へ目を向け、わずかに口元を緩めた。
「その考え方だと、際限なく大きくなるな」
「はい。今、どこまで想像すればいいか分からなくなってました」
帆波も笑った。何もかもを一度に理解しようとするから、目の前の建物の大きさまで、分からないことに数えてしまうのかもしれない。少なくとも、今から島中を案内してもらうわけではなさそうだった。エースが扉を開けたので、帆波は彼に続いて中へ入った。
外の熱が背中から離れ、靴音が床と壁の間へ返った。建物の中は清潔で、通路の先には幾つもの扉が並んでいる。何か異様なものが待っているのではと構えていたわけではなかったが、普通に人が働く建物らしい光景に、かえって視線が落ち着いた。エースの歩く方へついていきながら、帆波は鞄の持ち手を握り直した。
「ひとまず、お前の能力を調べてみよう」
「私の能力、ですか?」
「ああ。力を扱えるのは分かったが、それだけじゃ、どんな資質があるかまでは分からない。一度、ちゃんと確認しておいた方がいい」
帆波は自分の前髪へ指を近づけ、それには触れずに手を下ろした。自分の身体のことなのに、教えてもらわなければ分からないことが、まだたくさんある。力の加減を覚えたことで安心はできたが、知りたいことがなくなったわけではなかった。
「検査をすれば、もっと詳しく分かるんですね」
「調べられることはある。そのために来てもらったんだ」
「お願いします。私も、ちゃんと知りたいです」
すぐに答えると、エースは頷いた。帆波はその顔を見て、また少し嬉しくなった。自分が何を知りたがるかを、この人は考えておいてくれたのだろうか。約束を忘れずに来てくれただけでも十分に嬉しかったのに、次に何をすればよいかまで、こうして示してくれる。
自分も聞いたことを覚えて、きちんと答えようと思った。雪山でどう身体が変わったのか、その後どう過ごしたのか。必要なら、一つずつ話せるはずだった。
やがてエースは、一つの扉の前で足を止めた。表示を見ると、医務室だった。帆波が文字を確かめている間に、彼が中へ声をかける。返事を受けてから、エースはこちらへ向き直った。
「ここで検査を受けてくれ。担当する人間がいる。終わったら俺も戻ってくる」
「……はい。分かりました」
少しだけ、声が遅れた。一緒に入るのだと思っていたことに、自分でも気づいた。帆波は鞄を持つ手を直し、開かれた扉の向こうへ目を向けた。ここは雪の森ではない。検査をしてくれる人がいて、エースは戻ってくると言っている。それなら、大丈夫だった。
顔を上げると、彼はまだこちらを見ていた。帆波は今度こそ、はっきりと頷いた。
「受けてきます」
「ああ」
短い返事を聞いてから、帆波は医務室へ足を進めた。何ができるのか、どんなふうに変わったのか。前髪の下の小さな角だけでは分からなかった自分自身について、これから少し知ることになる。中にいる相手へ挨拶をしながら、帆波は、自分の手をもう一度だけ見下ろした。
迷うことなく向かっていった背中←記憶の書き換え
「そういう事態に対処するために動いてるからな」←キャンプを楽しんでいた男