高度な魔法が四方八方から飛び交う「リリスフィア」の魔王城。世界中の魔導書と禁書が集うこの巨大な城の地下深く、冷えた石造りの廊下の奥に、その場所はある。
『リリスフィア魔王城・医務室』
「はい、お茶入りましたよ。少し熱いですから気を付けてくださいね。」
穏やかな声とともに置かれた湯呑みから、ほうじ茶の香ばしい湯気が立ち上る。
パイプ椅子の上で膝を抱え、ガタガタと震えていたのは、魔王城直属の特級魔導士だった。かつて一撃で城塞を焼き払ったとされるその右手は、いまや白く乾き、酷く痙攣している。
「……無理だ、もう終わりだ……! 明日の討伐戦、完璧な詠唱を行わなければ……! 恐怖? 邪魔だ、そんなもの……! 『感情抑圧(セプレス)』の魔法を、あと三倍に強めれば……っ!」
「ダメに決まってるでしょ、この大バカ!!」
鋭い怒声とともに、分厚い医学書が魔導士の頭へ叩きつけられた。手を腰に当てて仁王立ちしているのは、医務室勤務の少女・ゼンだ。
「さっきから聞いてれば、『感情抑圧』だの『記憶消去』だの! あんたの脳みそ、魔法の過剰投与でスポンジみたいにスカスカになりかけてんのよ!? これ以上自分に精神魔法かけたら、明日には自分が人間かどうかも思い出せなくなるわよ!」
「なっ……なんだと……! たかが医務助手のお前が、特級の私に――」
「特級だろうが何だろうが、ここに運ばれてきたらただの重症患者なの! ほらアル、そいつの腕固定して! 強力な魔力抑制剤ぶち込むから!」
「かしこまりました、ゼン様。患者様、少々お痛みを伴いますが、暴れると針が折れますのでお静かになさってくださいね。」
無表情のまま、巨大な注射器を抱えて淡々と迫るウサギの少女・アル。その徹底した敬語と目の奥の静けさに、特級魔導士は「ひっ……!」と短い悲鳴を上げて身をすくませた。
「やあやあ、相変わらず賑やかだねぇ。」
「騒がしいのはゼンの声だけでしょ。ハタ、足元気をつけて。この患者、暴れたせいで魔力暴走の残滓を散らかしてるから。」
ガラリと扉が開き、水生生物の特徴(尻尾)を残した二人の同僚――サメの少年ハタと、シャチの少女ルキヌスが入ってきた。ハタは軽やかに散らばった書類を拾い上げ、ルキヌスは冷静な目で室内の魔力濃度を測っている。
「ハタ、ルキヌス、お疲れ様。外の警備は?」
部屋の奥、大量のカルテに囲まれたデスクから顔を上げたのは、この医務室で「異端」と呼ばれる少女・ナナシだった。派手な魔導服を着た者たちの中で、彼女だけが何の魔力も纏わない、シンプルな服を着ている。
「バッチリだよ。魔王様の作った『労働基準・休日保障法』のおかげで、今日のシフト外の兵士はみんな大人しく休んでる。……まあ、目の前にいるその人みたいに、『休むのが怖くて自分に魔法をかけて働くバカ』は後を絶たないけどね。」
ハタが中性的な声で呆れたように肩をすくめる。ルキヌスも同意するように頷いた。
「魔王様の法律を破ってまで自傷行為に走るなんて、救いようがないね。現代の魔法医学なら、精神の乱れなんて適当な魔法で塗りつぶせば一瞬で終わるのに。……ねえ、ナナシ。この患者も、いつもの『時代遅れなやり方』で治療するの?」
ルキヌスの問いに、ナナシは静かに微笑み、温かいお茶の入った湯呑みを手に取った。
そして、怯える特級魔導士の目の前へと歩み寄る。
「……な、なんだお前は。魔法も使えないくせに……! 私の何がわかる! 失敗すれば殺されるんだ! 恐怖を消す魔法の何が悪い! 魔法こそが全てだ!」
魔導士の叫び声が医務室に響く。
ゼンは忌々しそうにチッ、と舌打ちしながらも、どこか期待を込めた眼差しでナナシの背中を見つめた。アルは静かに一歩引き、ハタとルキヌスは壁に寄りかかって観戦を決め込む。
世間では、心の病など魔法でいくらでも書き換えられると考えられている。精神を麻痺させ、恐怖を消し去り、機械のように戦わせる魔法――それがこの「リリスフィア」における正義だった。
だが、ナナシは魔法薬も、詠唱も使わない。
彼女が差し出したのは、一杯の温かいお茶と、静かな言葉だった。
「――怖くて、当たり前ですよ。」
「……え?」
「完璧な詠唱をしなければ殺される。その重圧の中で、一人で戦ってきたんですね。恐怖を感じるのは、あなたが弱いからではありません。あなたがそれだけ、自分の仕事と、守るべきものに真剣に向き合ってきた証拠です。」
ナナシの瞳が、魔導士の震える瞳を真っ直ぐに見つめる。
「魔法で恐怖を消すのは、警報鈴がうるさいからと言って、鈴を叩き壊すようなものです。火事が消えたわけじゃない。あなたの心は今、燃えさかる炎の中で『助けて』と悲鳴を上げています。それを無視して走り続ければ……いつか、完全に灰になってしまいます。」
「あ…………っ」
「恐怖を消す必要はありません。それは、あなたが生きようとしている力そのものですから。今日はもう、魔法を解いて、ただ『怖かった』と認めてあげませんか?」
魔法の防壁も、頑ななプライドも意味をなさない。
ナナシの放つ「言葉」は、相手の無意識の深層へと直接落ちていき、魔法では決して触れられない「心の結び目」を、解きほぐしていく。
魔導士の目から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「私……私は……っ、怖かった……! 失敗するのが、みんなに見捨てられるのが……ずっと、恐ろしかったんだ……っ!」
子供のように声を上げて泣き崩れる特級魔導士。
ゼンは「ハッ、泣き虫ね」と悪態をつきながらも、優しくその背中に毛布をかけてやった。
「だから言ったでしょ、あんたはもうキャパオーバーなのよ。……感謝しなさいよね、ナナシのくどくどしたお説教を聞けたおかげで、脳みそ弾けずに済んだんだから。」
「ふふ、ゼン様は素直ではありませんね。……ナナシ様、お見事です。」
アルが静かにお辞儀をし、ハタとルキヌスも感心したように手を叩く。
「やっぱりナナシの言葉はすごいねぇ。魔法の防壁なんてすり抜けて、一発で心に届いちゃう。」
「……『言葉の処方箋』ね。上層部の連中が、ナナシのこれを『洗脳魔法よりタチが悪い危険思想』って警戒する理由もわかる気がするよ。」
泣き疲れて眠りについた患者を見届け、ナナシはふぅと息を吐いた。
「洗脳だなんて心外だな。私はただ、話を聞いてあげただけだよ。」
「それが一番恐ろしいのよ、あんたは。」
ゼンが呆れ顔でほうじ茶を口に含んだ、その時だった。
重厚な医務室の扉が、地鳴りのような音を立てて静かに開いた。
圧倒的な圧迫感とともに室内に流れ込んでくるのは、この国を統べる最高峰の魔力。
「ほう……相変わらず、鮮やかな『治療』だな。ナナシ。」
影の中から姿を現したのは、6代目の魔王その人であった。
あまりの存在感に一瞬で緊張が走る医務室の中、魔王は深々と溜息をつくと、ナナシの前のパイプ椅子にドカリと腰掛けた。
「魔王様……? どのようなご用件で?」
ナナシが問うと、世界を統べ、厳格な休日保障法すら作り上げた絶対者は、酷く疲弊した顔で頭を抱えた。
「……胃が痛い。有識者どもの愚痴を聞きすぎて、心が折れそうだ。……ナナシ、俺にもその『処方箋』とやらを貰おうか。」
絶対的な魔法が支配する城の地下。
今宵もまた、傷ついた魂たちが「言葉」を求めて、この小さな医務室の扉を叩くのだった。