「——……は? 魔王様、今なんて?」
ほうじ茶を飲んでいたゼンが、派手にそれを噴き出した。
「胃が痛いのだ。俺とて好きで胃を痛めているわけではない。」
世界を統べる6代魔王が、パイプ椅子に縮こまって愚痴をこぼす。そのあまりにシュールな光景に、ハタは「くくっ」と中性的な声を殺して笑い、ルキヌスは「威厳も何もないね」と冷静に呆れている。アルだけが「温かい胃腸薬のお茶をお淹れしますね」と徹底した敬語で対応していた。
「魔王様。休日保障法という立派な仕組みを作られたあなたでも、心の疲れは防げませんか。」
「仕組みで守れるのは『時間』だけだ。そこに溜まる『疲労』までは消せん。……まあよい、お前と話していたら少し楽になった。
」
魔王は少しだけ表情を緩めると、巨体を揺らして立ち上がった。去り際、その鋭い瞳がナナシを射抜く。
「……ナナシ。お前のその『言葉』は、魔法で精神を固めた者ほど深く突き刺さる。毒にも薬にもなる劇薬だ。くれぐれも背後には気をつけろよ。」
警告を残し、魔王は立ち去った。
ナナシは己の小さな手を見つめる。
昔——まだナナシが幼かった頃、彼女もまた強い魔力を持っていた。だが、傷ついた人々を魔法で無理やり治そうとして余計に心を壊してしまった時、祖母は優しく彼女の手を包んで言ったのだ。
『ナナシ、魔法はね、外側から形を変える力だよ。でも、人の心を本当に救うのは、内側に寄り添う「言葉」なんだよ。』
その言葉を胸に、彼女は魔力を捨て、言葉を選び続けてきた。
——だが、魔王の警告は、あまりにも早く現実となった。
「緊急患者だ! 退け!!」
夜半、医務室の扉が力任せに破壊された。
運び込まれてきたのは、全身から禍々しい黒い魔力を撒き散らす大魔導士。禁書庫の暴走事故で、精神が完全に崩壊した男だった。
「狂乱してる!? 精神魔法が暴走して、理性が完全に吹き飛んでるわ!」
ゼンが叫ぶ。男の目は血走り、周囲の空間を破裂させながら暴れていた。
「ナナシ様、危険です! お引きになってください!」
「ダメだよアル、このままじゃ城が吹き飛ぶ! ハタ、ルキヌス、抑えられる!?」
ハタとルキヌスが跳躍し、水生生物特有のしなやかで圧倒的な身体能力で男の腕を押さえ込もうとする。しかし、理性を失い魔力を無制限に放出す男の力は凄まじく、二人は激しく壁に叩きつけられた。
「くっ……! 強いねぇ、理性が無いぶん歯止めが効いてない!」
「ナナシ、話しかけちゃダメ! こいつには言葉を理解する『思考』そのものが残ってない!」
ルキヌスの叫びが響く。そう、ナナシの「言葉の処方箋」は、相手にわずかでも聞く耳や思考が存在して初めて成り立つ。完全な狂気と暴走の前には、言葉など届かないのだ。
「それでも……話しかけなきゃ……!」
ナナシは一歩前へ踏み出した。
「聞いてください! あなたはもう、戦わなくても——」
——ズドン!!
言葉が最後まで紡がれることはなかった。
男の掲げた手から放たれた高圧縮の魔力弾が、直接ナナシの胸を穿ったのだ。
「ナナシッ!!!!」
ゼンの悲鳴のような叫びが木びびく。
激しい衝撃とともにナナシの体は吹き飛び、医務室の石壁に激突して崩れ落ちた。ドロリと、口から鮮血がこぼれ落ちる。視界が急速に赤く、そして黒く染まっていく。肋骨が砕け、肺が潰れ、息が吸えない。死の冷たさが、一瞬で全身を駆け巡る。
静寂。
次にナナシが目を開けた時、視界に入ってきたのは、見慣れた医務室の天井……ではなく、全身に巻きつけられた重厚な医療用ギプスと、無数の点滴チューブだった。
「……あ。」
まともに声が出ない。喉が焼け付くように痛む。指一本動かすことすらできなかった。
「動いちゃダメよ、バカ。」
ベッドの脇から、酷くかすれた声が聞こえた。
目を向けると、目を真っ赤にしたゼンが、パイプ椅子に座ってナナシの手を強く握りしめていた。その横には、包帯を巻いたハタとルキヌス、そして珍しく髪を乱したアルが立っている。
「心臓が止まりかけたのよ。アルがここの法律で禁止されている蘇生薬を魔王と相談して極秘でぶち込んで、あたしが徹夜で組織を縫い合わせなきゃ、あんた本当に死んでたんだからね……!」
ゼンは悪態をつきながらも、ボロボロと大粒の涙をポロポロとこぼした。
「……言葉が通じない相手もいるって、わかったでしょ……。あんたのやり方は、命がいくつあっても足りないのよ……っ。」
「……ふふ、ゼン様の言う通りですよ、ナナシ様。今回は本当にヒヤヒヤいたしました。」
アルが静かに息を吐き、ハタとルキヌスも苦笑いを浮かべながら頷く。
「ま、暴走した人はボクとルキヌスでなんとか気絶させて、魔王城の地下牢にぶち込んでおいたから安心してよ」
「しばらくはベッドから起き上がることも禁止だからね。……言葉で人を救う前に、自分が壊れたら元も子もないでしょ。」
喋ることもできず、ただ目だけで「ごめんなさい」と伝えると、ゼンは乱暴にナナシの頭を撫でた。
魔法の効かない心があるように、言葉の届かない狂気も存在する。
死のフチを彷徨い、動かない体でベッドに横たわりながら、ナナシは自分の選んだ道の厳しさと、それでも自分を繋ぎ止めてくれた仲間の温かさを、深く胸に刻むのだった。
キャラ紹介 1
ナナシ
魔王城医務室勤務・心理カウンセラー(対話治療担当)
華奢で主張の少ない佇まいをした少女。どこか掴みどころがなく、静かで穏やかな雰囲気を纏っている。
高度な魔法が飛び交う環境に身を置きながら、魔法を使わない。
どんなに錯乱した天才魔導士や、頑なな勇者が相手であっても、感情的にならずフラットに言葉を受け止める。感情の波に飲み込まれない、凪(なぎ)のような落ち着きを持つ。