デジモンストーリー オリジン   作:空閑アルト

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プロローグ 狭間劇場
第1話「狭間劇場の招かれざる客」


(青白い照明が、どこまでも続く廊下を静かに照らしていた。)

 

(磨き上げられた床には天井の光が映り込み、壁には見慣れない装飾が規則正しく並んでいる。)

 

(その廊下の先に、一人の青年が立っていた。)

 

【サイガ】

 

「……ここは?」

 

(サイガ、十八歳。)

 

(彼は目の前に広がる光景を見渡しながら、静かに眉をひそめた。)

 

(最後に何をしていたのか、思い出せない。)

 

(気がつけば、この奇妙な廊下に立っていたのだ。)

 

【サイガ】

 

「……夢、というわけでもなさそうだね」

 

(試しに床を踏みしめる。足元から返ってくる感触は、あまりにも現実的だった。)

 

(そして、彼の目の前には巨大な両開きの扉があった。)

 

(黄金色の縁取りが施された重厚な扉。その中央には、淡く輝く紋章が刻まれている。)

 

(扉の上には、一枚のプレート。)

 

『狭間劇場・VIP ROOM』

 

【サイガ】

 

「狭間劇場……VIPルーム?」

 

(聞き覚えのない名前だった。)

 

(劇場というからには、どこかに舞台や客席があるのだろうか。)

 

(そんなことを考えていると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。)

 

【???・少年の声】

 

「……だから、僕はまだ判断するには早いと思うんだよね」

 

【???・少女の声】

 

「そうだね。少なくとも、今の段階で結論を出す必要はないかな」

 

【???・女性の声】

 

「うふふ。お二人とも慎重ですのね。わたくしは、少し楽しみですけれど」

 

(どうやら、扉の向こうには複数の人物がいるらしい。)

 

【サイガ】

 

「……さて、どうしようか」

 

(少し考えた末、サイガは扉に近づいた。)

 

「……とりあえず、聞いてみるしかないか」

 

(右手を持ち上げ、重厚な扉を三度ノックする。)

 

コン、コン、コン。

 

「すみません。誰かいますか?」

 

(それまで聞こえていた話し声が、ぴたりと止まった。)

 

(数秒間の沈黙。)

 

【???・少年の声】

 

「……おや?」

 

【???・女性の声】

 

「あら? お客様かしら?」

 

【???・少女の声】

 

「おかしいな。ここに来客の予定なんてなかったはずだけど」

 

【???・少年の声】

 

「ふふっ。どうやら、予定外の出来事が起きたみたいだね」

 

(再び静寂が訪れる。)

 

(そして――)

 

カチリ。

 

(扉の中央に刻まれた金色の紋章が、淡い青色の光を放ち始めた。)

 

【サイガ】

 

「……ん?」

 

(思わず一歩後ずさる。)

 

(巨大な扉が、重々しい音を立てながらゆっくりと内側へ開いていく。)

 

(その隙間から、暖かな光が廊下へと差し込んできた。)

 

【イグドラシル】

 

(開いた扉の向こうから、穏やかな少女の声が響く。)

 

「入っておいで。そこで立っていても仕方ないだろう?」

 

【崑崙】

 

「ちょっと待ってよ、イグドラシル。相手が誰なのかも分かっていないんだよ?」

 

【イグドラシル】

 

「だからこそ、話を聞いてみようと思うんだ」

 

【ホメロス】

 

「うふふっ。わたくしも賛成ですわ。こんな場所に突然現れるお客様なんて、滅多にいませんもの」

 

【崑崙】

 

「……君たちは本当に呑気だね」

 

(扉は完全に開き、サイガを迎え入れるように静止した。)

 

(奥には豪華な調度品が並ぶ広い部屋が見える。中央には円形のテーブルがあり、その周囲には三人の人影。)

 

(そして、さらに奥の窓際には、銀白色の長い髪を持つ少女が静かに立っていた。)

 

【ホメオスタシス】

 

(淡い金色の瞳を扉の方へ向ける。)

 

「……どうやら、本当にお客様のようですね」

 

【サイガ】

 

(四人の姿を見つめ、少し戸惑いながら。)

 

「……えっと」

 

(目の前にいる四人が何者なのか、サイガにはまったく見当がつかなかった。)

 

【崑崙】

 

(椅子に座ったまま、興味深そうにサイガを観察する。)

 

「さて……君は一体、何者なのかな?」

 

【サイガ】

 

(扉の向こうにいる四人を見渡す。誰もが自分の来訪を不思議がっているようだが、敵意は感じられない。)

 

「……その質問に答える前に、一つ聞いてもいいかな?」

 

【崑崙】

 

(頬杖をつきながら、面白そうに片眉を上げる。)

 

「へえ。質問に質問で返すんだ?」

 

【サイガ】

 

「僕だって状況が分からないんだ。ここは一体どこなんだ? それに、どうして僕はここにいる?」

 

【イグドラシル】

 

(サイガの困惑した様子を見て、静かに頷く。)

 

「なるほど。君は自分の意思でここへ来たわけじゃないんだね」

 

【サイガ】

 

「少なくとも、僕にはここへ来た記憶がないよ」

 

【ホメロス】

 

(口元に手を添えて、小さく微笑む。)

 

「まあ……それは不思議ですわね。うふふ、ますます興味が湧いてきましたわ」

 

【崑崙】

 

「ホメロス。楽しんでいる場合じゃないだろう?」

 

【ホメロス】

 

「あら、あなたも十分楽しそうですけれど?」

 

【崑崙】

 

「僕は単に興味があるだけさ」

 

【イグドラシル】

 

(軽く息を吐き、二人の会話を遮る。)

 

「ふふっ。まずは彼の質問に答えてあげようよ」

 

(イグドラシルはサイガへ向き直る。)

 

「ここは『狭間劇場』。少なくとも、君が普段暮らしているような場所とは違うと思うよ」

 

【サイガ】

 

「狭間劇場……」

 

(改めて室内を見渡す。豪華な家具、見慣れない装飾、そして奇妙なほど静かな空間。)

 

「劇場というわりには、舞台も客席も見当たらないけど」

 

【崑崙】

 

「ふっ。なかなか鋭い指摘だね。でも、ここはVIPルームだからね。劇場のすべてがこの部屋にあるわけじゃないさ」

 

【サイガ】

 

「……それで、僕がここにいる理由は?」

 

(その問いに、三人はすぐには答えなかった。)

 

【イグドラシル】

 

「それについては……私たちにも、まだ分からないんだ」

 

【サイガ】

 

「え?」

 

【ホメロス】

 

「わたくしたちも、あなたが来ることを知らされていなかったのですわ」

 

【崑崙】

 

「そう。君は文字どおり、招かれざる客というわけだね」

 

(サイガは思わず眉をひそめる。)

 

【サイガ】

 

「……じゃあ、誰も僕を呼んでいないってこと?」

 

【崑崙】

 

「少なくとも、僕は呼んでいないよ」

 

【イグドラシル】

 

「私もだね」

 

【ホメロス】

 

「わたくしもですわ」

 

(そのとき、窓際で静かに話を聞いていた銀髪の少女が、ゆっくりと振り返った。)

 

【ホメオスタシス】

 

「……ですが、まだ一つだけ確認していないことがあります」

 

(淡い金色の瞳が、まっすぐサイガを捉える。)

 

【サイガ】

 

「……何かな?」

 

【ホメオスタシス】

 

「あなた自身について、です」

 

(少女は静かに歩み寄る。)

 

「私たちは、あなたがどこから来たのかを知りません。ですが、それ以上に……」

 

(そこで一度言葉を切る。)

 

「あなたが何者なのかも、まだ知らないのです」

 

【崑崙】

 

「そういえば、まだ名前すら聞いていなかったね」

 

【ホメロス】

 

「うふふ。お互いに自己紹介をするところから始めるのがよさそうですわね」

 

【イグドラシル】

 

(穏やかに微笑む。)

 

「どうかな? まずは君の名前を教えてくれないかい?」

 

【サイガ】

 

(四人から向けられる視線に少し戸惑いながらも、落ち着いた様子で口を開く。)

 

「僕はサイガ。よろしく」

 

(そう言って軽く頭を下げる。)

 

【イグドラシル】

 

(穏やかに微笑む。)

 

「サイガ……うん、覚えたよ。よろしくね」

 

【ホメロス】

 

(優雅に微笑みながら、軽く会釈する。)

 

「サイガさん、ですわね。うふふっ、こちらこそよろしくお願いいたしますわ」

 

【崑崙】

 

(頬杖をついたまま、サイガをじっと見つめる。)

 

「サイガ、か。ふうん……」

 

【サイガ】

 

「……何か?」

 

【崑崙】

 

「いや、別に。ただ、名前を聞いても君のことが何一つ分からないなと思ってね」

 

【イグドラシル】

 

「崑崙。初対面なんだから、もう少し優しくしてあげたらどうかな?」

 

【崑崙】

 

「僕は十分優しいつもりだけど?」

 

【ホメロス】

 

「うふふっ。そういうところですわよ、崑崙」

 

【崑崙】

 

「……まったく、君たちは」

 

(そんな三人のやり取りを見て、サイガは少しだけ肩の力を抜いた。)

 

【サイガ】

 

「……仲がいいんだね、君たち」

 

【ホメロス】

 

「あら、そう見えます?」

 

【サイガ】

 

「少なくとも、初対面の僕よりはずっと気心が知れているように見えるよ」

 

【イグドラシル】

 

「ふふっ。まあ、付き合いは長いからね」

 

【崑崙】

 

「長すぎるくらいだよ」

 

【ホメロス】

 

「まあ、ひどい言い方ですわね」

 

(そのとき、それまで三人の会話を静かに見守っていたホメオスタシスが、サイガの前へ歩み出た。)

 

【ホメオスタシス】

 

「では、今度は私たちの番ですね」

 

(白と淡い青の衣装が、歩みに合わせて静かに揺れる。銀白色の長い髪の背後では、幾何学的な光輪がゆっくりと回転していた。)

 

「私はホメオスタシス。原初のデジタルワールド『The ORIGIN』を管理している者です」

 

【サイガ】

 

「ホメオスタシス……?」

 

(聞き慣れない名前に首を傾げる。)

 

「デジタルワールドの管理者?」

 

【ホメオスタシス】

 

「はい。もっとも、すべてを私一人で管理しているわけではありませんが」

 

【イグドラシル】

 

(ホメオスタシスの隣に立つ。)

 

「そして私はイグドラシル。イグドラシルデータセンターの管理者だよ」

 

【崑崙】

 

「僕は崑崙。コンロンデータセンターを管理している。よろしく、サイガ」

 

【ホメロス】

 

(優雅に一礼する。)

 

「わたくしはホメロス。ホメロスデータセンターの管理者ですわ」

 

【サイガ】

 

(四人の顔を順番に見渡す。)

 

「……つまり、ここにいる四人は全員、世界の管理者ってこと?」

 

【イグドラシル】

 

「大まかにはそういう理解でいいよ。ただ、ホメオスタシスと私たち三人では、管理している領域も立場も違うんだ」

 

【サイガ】

 

「なるほど……」

 

(理解しようとするものの、あまりに話の規模が大きい。)

 

「……ずいぶんすごい人たちに会ってしまったみたいだね」

 

【崑崙】

 

(小さく笑う。)

 

「ふっ。思ったより落ち着いているじゃないか。普通なら、もう少し驚くと思うけど?」

 

【サイガ】

 

「驚いてはいるよ。ただ、今さら慌てても仕方ないだろう?」

 

【イグドラシル】

 

「ふふっ。そういう考え方、私は嫌いじゃないよ」

 

【ホメロス】

 

「うふふ。なかなか面白い方ですわね」

 

【崑崙】

 

「……まあ、確かにね」

 

(崑崙は頬杖を解き、椅子に深く座り直す。)

 

「ところでサイガ。もう一つ聞いてもいいかな?」

 

【サイガ】

 

「何?」

 

【崑崙】

 

「君は自分が何者なのか、分かっているのかい?」

 

【サイガ】

 

「……どういう意味?」

 

【崑崙】

 

「そのままの意味だよ。人間なのか、デジモンなのか。それとも、僕たちの知らない別の存在なのか」

 

(部屋の空気が、わずかに変わった。)

 

【ホメロス】

 

(興味深そうにサイガへ視線を向ける。)

 

「あら……確かに、まだ伺っていませんでしたわね」

 

【イグドラシル】

 

「答えられる範囲で構わないよ。無理に話す必要はないからね」

 

【ホメオスタシス】

 

(静かにサイガを見つめる。)

 

「……あなた自身は、どう認識しているのでしょう?」

 

【サイガ】

 

「僕は人間だよ。少なくとも、自分ではそう認識しているけど」

 

【崑崙】

 

(少し目を細める。)

 

「……人間、か」

 

【サイガ】

 

「何かおかしいかな?」

 

【崑崙】

 

「いや、おかしくはないさ。ただ、少し意外だっただけだよ」

 

(崑崙は椅子の背もたれに身体を預け、考え込むように腕を組んだ。)

 

「ここは普通の人間が簡単に辿り着けるような場所じゃないからね」

 

【サイガ】

 

「……そうなの?」

 

【イグドラシル】

 

「うん。少なくとも、私たちが知る限りではね」

 

(イグドラシルは穏やかに答えたものの、その瞳にはわずかな疑問が浮かんでいた。)

 

【ホメロス】

 

「うふふ。人間の方が、誰の案内もなく突然ここに現れるなんて……珍しいこともあるものですわね」

 

【サイガ】

 

「……僕としては、どうしてここに来たのか教えてほしいくらいなんだけど」

 

【崑崙】

 

「残念ながら、それは僕たちにも分からないんだよね」

 

(そう言いながら、崑崙はホメオスタシスへ視線を向ける。)

 

「……君はどう思う?」

 

【ホメオスタシス】

 

(サイガを静かに見つめる。)

 

「現時点では、判断できません。彼が人間であるという申告を疑う理由もありませんが、ここに現れた経緯については別の問題です」

 

【イグドラシル】

 

「そうだね。まずは彼がどうやってここへ来たのか、確認する必要がありそうだ」

 

【サイガ】

 

「……それが分かれば、僕も苦労しないんだけどね」

 

【ホメロス】

 

(くすりと笑う。)

 

「うふふっ。それもそうですわね」

 

(張り詰めかけていた空気が、少しだけ和らぐ。)

 

(そんな中、サイガは改めて室内を見渡した。)

 

(豪華な家具。見たことのない装飾。そして、目の前にいる四人の少女と少年。)

 

(彼らは世界の管理者を名乗った。)

 

(普通なら信じられないような話だ。しかし、少なくともこの場所が常識の通用する空間ではないことだけは、サイガにも理解できた。)

 

【サイガ】

 

「……ところで、一つ聞いてもいいかな?」

 

【イグドラシル】

 

「もちろん。何だい?」

 

【サイガ】

 

「君たちは、ここで何をしていたんだ?」

 

(その問いに、崑崙がわずかに笑みを浮かべた。)

 

【崑崙】

 

「ふっ。今度は君が僕たちに質問する番というわけか」

 

【サイガ】

 

「僕ばかり質問されるのも、少し不公平だろう?」

 

【崑崙】

 

「ははっ! 確かにそのとおりだね」

 

【ホメロス】

 

「うふふ。わたくしたちは、少しお話をしていただけですわ」

 

【サイガ】

 

「話?」

 

【イグドラシル】

 

「そう。私たちが管理している世界について、少しね」

 

【サイガ】

 

「……世界について?」

 

【ホメオスタシス】

 

「はい。私たちはそれぞれ異なる世界を管理しています。そのため、互いの状況を確認する機会も必要なのです」

 

(ホメオスタシスはそう説明すると、サイガの方へ一歩近づいた。)

 

「ですが、あなたにとっては、まだ理解しづらいお話でしょう」

 

【サイガ】

 

「……正直に言えば、そうだね」

 

【ホメオスタシス】

 

(優しく微笑む。)

 

「でしたら、無理に理解しようとする必要はありません。まずは、あなた自身の状況を整理することが大切です」

 

【イグドラシル】

 

「そうだね。サイガ、よかったら座らないかい? 立ち話も何だし」

 

(イグドラシルが円卓の空いている椅子を示す。)

 

【ホメロス】

 

「あら、それならお茶も用意しませんとね」

 

【崑崙】

 

「……君たち、ずいぶん簡単に受け入れるんだね」

 

【イグドラシル】

 

「少なくとも、彼から敵意は感じないからね」

 

【崑崙】

 

「ふふっ。まあ、それは僕も同感だけど」

 

(サイガは差し出された椅子を見つめる。)

 

(突然現れた見知らぬ場所。正体の知れない四人の管理者。)

 

(まだ分からないことばかりだ。)

 

(それでも、今のところ彼らは自分を追い出そうとも、危害を加えようともしていない。)

 

【サイガ】

 

「……ありがとう。少し、お邪魔させてもらうよ」

 

(サイガが椅子に腰を下ろそうとした、そのとき。)

 

ピン――。

 

(円卓の中央に置かれていた小さな水晶のような装置が、一瞬だけ青白く明滅した。)

 

【イグドラシル】

 

「……ん?」

 

【崑崙】

 

(装置へ視線を向ける。)

 

「今、反応したね」

 

【ホメロス】

 

「あら……?」

 

(サイガも動きを止めた。)

 

【サイガ】

 

「……何かあったの?」

 

【ホメオスタシス】

 

(装置を見つめ、静かに答える。)

 

「……まだ分かりません。ですが、少し確認する必要がありそうですね」

 

(装置はすでに元の輝きを取り戻していた。)

 

(たった一度の明滅。)

 

(それが何を意味するのか、この場にいる誰にも、まだ答えはなかった。)

 

【サイガ】

 

(円卓の中央に置かれた水晶のような装置を一瞥する。先ほどの青白い光はすでに消え、何事もなかったかのように静まり返っていた。)

 

「気になるけど……まずは落ち着いて話そうか」

 

(そう言って、勧められた椅子に腰を下ろす。)

 

【イグドラシル】

 

(サイガの向かい側に座り、穏やかに微笑む。)

 

「ふふっ。そうだね。今のところ、慌てる必要はなさそうだ」

 

【崑崙】

 

(円卓の装置から目を離さずに。)

 

「……本当にそうかな?」

 

【ホメロス】

 

「あら、崑崙。そんなに気になりますの?」

 

【崑崙】

 

「当然だろう? 普段は静かな装置が、見知らぬ人間の来訪直後に反応したんだ。偶然として片づけるには、少し都合がよすぎると思わないかい?」

 

【サイガ】

 

「……僕が何かしたように聞こえるんだけど」

 

【崑崙】

 

(サイガに視線を戻し、小さく笑う。)

 

「ふっ。別に君を疑っているわけじゃないよ。少なくとも、今はね」

 

【サイガ】

 

「最後の一言が余計じゃないかな」

 

【イグドラシル】

 

「ふふっ。サイガの言うとおりだね」

 

【ホメロス】

 

(楽しそうに微笑む。)

 

「うふふ。崑崙は昔からこういうところがありますのよ。気になることがあると、つい追いかけたくなってしまうんですわ」

 

【崑崙】

 

「好奇心は悪いことじゃないだろう?」

 

【サイガ】

 

「それには同意するよ。ただ、僕を実験台にするのは勘弁してほしいかな」

 

【崑崙】

 

「ははっ! 安心していいよ。まだそんなことは考えていないから」

 

【サイガ】

 

「……まだ?」

 

【イグドラシル】

 

(苦笑しながら。)

 

「崑崙。その辺にしておこうか」

 

(そんなやり取りが続く中、ホメロスは円卓の端に置かれたティーポットへ手を伸ばした。)

 

【ホメロス】

 

「さて、せっかくのお客様ですもの。まずはお茶でもいかがかしら?」

 

【サイガ】

 

「……いただけるなら、ありがたいよ」

 

【ホメロス】

 

「うふふ。かしこまりましたわ」

 

(ホメロスは慣れた手つきでカップに紅茶を注ぎ、サイガの前へそっと置いた。)

 

(琥珀色の液面から、柔らかな湯気が立ち上る。)

 

【サイガ】

 

「ありがとう」

 

【ホメロス】

 

「どういたしまして。お口に合うとよいのですけれど」

 

(サイガはカップを持ち上げ、香りを確かめてから一口飲んだ。)

 

【サイガ】

 

「……おいしいね」

 

【ホメロス】

 

(嬉しそうに目を細める。)

 

「あら、それは何よりですわ」

 

【崑崙】

 

「……それにしても、君はずいぶん落ち着いているね」

 

【サイガ】

 

「さっきも言ったけど、慌てたところで状況は変わらないからね」

 

【崑崙】

 

「ふふっ。理屈としては正しい。でも、実際にそれを実践できる人間はそう多くないと思うよ」

 

【サイガ】

 

「褒められていると思っていいのかな?」

 

【崑崙】

 

「もちろんさ」

 

(崑崙は楽しげに微笑んだ。)

 

【イグドラシル】

 

「ところでサイガ。君のことをもう少し聞いてもいいかな?」

 

【サイガ】

 

「答えられることなら」

 

【イグドラシル】

 

「ありがとう。君は、ここへ来る直前のことを覚えているかい?」

 

(サイガはカップを皿に戻し、少し考える。)

 

【サイガ】

 

「……直前のこと、か」

 

(狭間劇場の廊下で目を覚ましたときの光景を思い返す。)

 

(青白い照明。長い廊下。そして、目の前にあった大きな扉。)

 

(そこまでは鮮明に覚えている。)

 

(しかし、それより前の記憶を辿ろうとすると、どうにも輪郭がぼやけてしまう。)

 

【サイガ】

 

「気がついたら、あの扉の前にいたんだ。それ以前に何をしていたのかは……うまく思い出せない」

 

【イグドラシル】

 

「そうか……」

 

【ホメオスタシス】

 

(サイガの言葉を静かに聞いていたが、そこで口を開く。)

 

「記憶そのものが失われているのか、それとも一時的に思い出せなくなっているのか。今の段階では区別がつきませんね」

 

【サイガ】

 

「……そういうこともあるの?」

 

【ホメオスタシス】

 

「可能性としてはあります。ただ、原因が分からない以上、断定はできません」

 

【ホメロス】

 

「無理に思い出そうとなさらない方がよろしいかもしれませんわね」

 

【サイガ】

 

「……そうだね」

 

(サイガは再び紅茶に口をつけた。)

 

(四人の態度は穏やかだ。少なくとも、今すぐ自分に何かを強制するつもりはなさそうだった。)

 

(それでも、一つ気になることがある。)

 

【サイガ】

 

「……ところで、君たちは普段からここに集まっているの?」

 

【イグドラシル】

 

「いつもというわけじゃないよ。必要があれば顔を合わせる、という感じかな」

 

【崑崙】

 

「僕たちにも、それぞれ管理している世界があるからね。四六時中ここにいるわけにはいかないんだ」

 

【ホメロス】

 

「とはいえ、こうしてお茶を楽しむ時間くらいはありますわ」

 

【サイガ】

 

「世界の管理者にも休憩時間があるんだね」

 

【崑崙】

 

「ふっ。君は僕たちを何だと思っていたんだい?」

 

【サイガ】

 

「もっと忙しそうな存在かと思っていたよ」

 

【イグドラシル】

 

「忙しいときは本当に忙しいけどね。だからこそ、こういう時間も大切なんだ」

 

【ホメオスタシス】

 

(静かに頷く。)

 

「ええ。世界を見守ることと、絶えず何かに介入することは同じではありませんから」

 

【サイガ】

 

「……なるほど」

 

(その言葉には、不思議な説得力があった。)

 

(世界の管理者という肩書きは、まだサイガにとって現実味が薄い。)

 

(だが、四人の会話を聞いていると、少なくとも彼らにとってはそれが日常なのだと分かる。)

 

【ホメロス】

 

「それにしても、サイガさん」

 

【サイガ】

 

「ん?」

 

【ホメロス】

 

「あなたは、わたくしたちのことを怖いとは思いませんの?」

 

【サイガ】

 

(少し考えてから。)

 

「……今のところは、かな」

 

【ホメロス】

 

「あら?」

 

【サイガ】

 

「正直、君たちが何者なのかはまだよく分かっていないよ。でも、こうしてお茶を出してくれる相手を、いきなり怖がる理由もないだろう?」

 

【ホメロス】

 

(口元に手を添え、楽しそうに笑う。)

 

「うふふっ。そういうことでしたのね」

 

【崑崙】

 

「なるほど。つまり、これから怖い目に遭えば評価が変わるわけだ」

 

【サイガ】

 

「……できれば、そんな目には遭いたくないけどね」

 

【イグドラシル】

 

「ふふっ。大丈夫。少なくとも、私たちからそんなことをするつもりはないよ」

 

(和やかな笑いが円卓を包む。)

 

(サイガもつられて、わずかに口元を緩めた。)

 

(そのとき、ホメオスタシスがふと円卓の中央へ目を向けた。)

 

【ホメオスタシス】

 

「……皆さん」

 

【イグドラシル】

 

「どうしたんだい?」

 

【ホメオスタシス】

 

「先ほどの装置についてですが……」

 

(彼女は一度言葉を切り、サイガを見る。)

 

「確認するのであれば、本人にも説明してからの方がよいでしょう」

 

【崑崙】

 

(頷きながら。)

 

「そうだね。僕も、それが公平だと思うよ」

 

【サイガ】

 

「……つまり、あの装置を調べるってこと?」

 

【イグドラシル】

 

「うん。ただし、君に何かしてもらう必要があるかどうかも、まだ分からないんだ」

 

【ホメロス】

 

「もちろん、サイガさんのご意思も尊重いたしますわ」

 

【サイガ】

 

(円卓の中央にある水晶を見つめる。)

 

「……分かった。じゃあ、まずは話を聞かせてもらおうかな」

 

【ホメオスタシス】

 

(小さく微笑む。)

 

「ふふ……ありがとうございます」

 

(円卓の中央で、水晶は静かに輝いている。)

 

(その光を前に、四人の管理者は改めてサイガへ向き直った。)

 

(なぜ自分はこの場所へ迷い込んだのか。)

 

(なぜ、あの水晶は自分が現れた直後に反応したのか。)

 

(答えはまだ、何一つ明らかになっていない。)

 

(けれど、少なくともサイガは、この奇妙な場所で話を聞いてくれる相手を見つけた。)

 

(そして、四人の管理者にとっても、サイガという一人の人間との出会いは、予想もしなかった出来事だった。)

 

――第1話「狭間劇場の招かれざる客」完。

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