(中央聖域――三体の天使が去った翌朝。)
(白亜の塔を朝日が照らし、中央広場にはいつものようにデジモンたちが集まっていた。交易路を通る荷車の音、店を開く者たちの声、広場を駆け回る幼いデジモンたちの笑い声。)
(世界は、昨日と変わらず動き続けていた。)
(ただ一つ、中央聖域を支えてきた三体の天使が、そこにはいなかった。)
(謁見の間。)
(ルーチェモンは、誰もいない広間を見つめていた。)
【ルーチェモン】
(小さく呟く)「……今日も、来ないんだね」
(いつもなら、ホーリーエンジェモンが各地の争いについて報告し、エンジェウーモンが救護施設の状況を伝え、アルケーエンジェモンが警備隊の巡回記録を届けていた。)
(その日課が、突然途切れてしまった。)
(ルーチェモンは机の上に置かれた三つの報告書へ視線を落とした。)
(どれも、彼らが去る前に残していったものだった。)
【ルーチェモン】
「……僕が、間違っているのかな」
(答える者はいない。)
(しばらくして、ルーチェモンは静かに首を横に振った。)
【ルーチェモン】
「……違う。僕が迷ったら、みんなが困ってしまう」
(彼は報告書を閉じ、新たな書類へ手を伸ばした。)
【ルーチェモン】
「三人がいなくても、僕が守らなくちゃ」
⸻
(中央聖域の行政区画。)
(三体の天使が担っていた役割は、中央聖域の運営に深く関わっていた。)
(各地の争いの仲裁、負傷者の救護、交易路の安全確保。そのすべてを、三体が中心となって支えていたのである。)
(その不在は、早くも小さな混乱を生み始めていた。)
【ガードロモン】
(報告書を差し出す)「北方交易路、第三区間にて荷車同士の通行権を巡る争いが発生。仲裁担当者の不在により、対応が遅延しています」
【レオモン】
(険しい表情で)「警備隊から人員を回せば対応できる。だが、各地で同じことが起これば、今の人数では足りん」
【ガードロモン】
「救護施設からも支援要請を受信。エンジェウーモン不在による治療体制の再編が必要です」
【レオモン】
「……あの三体が、どれほど多くの仕事を担っていたか、改めて思い知らされるな」
(そのとき、行政区画の扉が開いた。)
【ルーチェモン】
「みんな、困っているみたいだね」
【レオモン】
(振り返り、頭を下げる)「ルーチェモン様。申し訳ありません。各地からの報告が重なり、対応が追いついておりません」
【ルーチェモン】
「謝らなくていいよ。三人がいなくなったんだから、仕方ないことだよ」
(ルーチェモンは積み上げられた書類を見つめた。)
【ルーチェモン】
「……これからは、僕が直接判断する」
【レオモン】
「すべてを、ですか?」
【ルーチェモン】
「うん。争いの仲裁も、規則の運用も、各地への指示も。判断する者が一人なら、迷うこともなくなるでしょう?」
【レオモン】
「ですが、それではルーチェモン様への負担が――」
【ルーチェモン】
(微笑む)「大丈夫。僕にはできるから」
(その言葉に、レオモンはそれ以上反論できなかった。)
(こうして中央聖域では、各地の重要な判断がルーチェモンのもとへ集められるようになった。)
(当初、その仕組みは確かに成果を上げた。)
(判断の遅れは減り、交易路の争いも素早く収められた。救護施設への物資配分も、中央からの指示によって効率化された。)
(だが、すべての判断を一つの場所へ集めるということは、各地が自ら判断する余地を失っていくことでもあった。)
⸻
(狭間劇場。)
(観測映像を見つめていたサイガが、少し考え込む。)
【サイガ】
「……ルーチェモン、頑張ってるんだね。三人がいなくなった分まで、自分で何とかしようとしてる」
【ホメオスタシス】
(穏やかに頷く)「ええ。彼は決して、世界を見捨てたわけではありません。今も、誰かが苦しむことを望んではいないのです」
【イグドラシル】
「ただ、一人で全部を決めるようになると、間違いに気づく機会も減ってしまうんだよね」
【崑崙】
(静かに目を細める)「しかも、今のルーチェモンは自分の判断を疑うことそのものが、平和を危険にさらすと思い始めている。厄介な状態だね」
【ホメロス】
「うふふ……優れた統治者であることと、誰の助けも必要としないことは、同じではありませんもの」
【サイガ】
「でも、まだ大きな争いは起きてないよね?」
【ホメオスタシス】
「はい。少なくとも、今はまだ」
(ホメオスタシスは、観測映像に映る中央聖域へ視線を戻した。)
【ホメオスタシス】
「ですが、平和が続いていることと、すべての者がその平和を望んで受け入れていることは、必ずしも同じではないのです」
⸻
(それから、さらに幾日かが過ぎた。)
(中央共通秩序規則は、各地へと広がっていた。)
(中央聖域に近い集落では、新たな制度を歓迎する者が多かった。交易の基準が統一され、物資の流通が安定したためである。)
(しかし、北方の岩角集落では、事情が異なっていた。)
(集落の広場には、中央聖域から派遣された使者と、住民たちが集まっていた。)
【使者のデジモン】
(書簡を読み上げる)「中央共通秩序規則に基づき、今後、集落間の交易に関する取り決めは中央聖域の承認を必要とします。また、各集落独自の規則についても、順次確認を実施します」
【ゴブリモン】
「おいおい、待ってくれよ! この前は、自分たちのことは自分たちで決めていいって話だったじゃねえか!」
【使者のデジモン】
「自治を否定するものではありません。あくまで、世界全体の秩序を守るための確認です」
【オーガモン】
(腕を組み、使者を見据える)「……だったら聞くがよ。俺たちが中央の決まりと違う方法を選んだら、どうなる?」
【使者のデジモン】
「その場合は、中央聖域の判断を仰ぐことになります」
【オーガモン】
「結局、中央が駄目だと言えば、俺たちは従うしかねえってことか?」
【使者のデジモン】
「……規則上は、そのようになります」
(広場にざわめきが広がった。)
【ゴブリモン】
「そんなの、話が違うじゃねえか!」
【オーガモン】
(片手を上げ、仲間たちを制する)「騒ぐな。まだ話は終わってねえ」
(オーガモンは使者へ向き直った。)
【オーガモン】
「俺たちは、中央聖域と争うつもりはねえ。交易路ができて、助かったことも多い。そこには感謝してる」
【使者のデジモン】
「でしたら――」
【オーガモン】
「だがな。助けてもらったからって、何もかも言いなりになる約束をした覚えはねえぞ」
(使者は答えられなかった。)
【オーガモン】
「ルーチェモンに伝えてくれ。俺たちは協定を守る。だから、そっちにも守ってもらいたいってな」
(その言葉は、再び中央聖域へ届けられることになった。)
⸻
(中央聖域、謁見の間。)
(北方からの報告を受け取ったルーチェモンは、静かに書簡を読んでいた。)
【ルーチェモン】
「……また、同じことを言っているんだね」
(傍らに控えるレオモンが、慎重に口を開く。)
【レオモン】
「北方の者たちは、協定が守られることを望んでいます。新たな規則の適用について、もう一度話し合う余地はあるかと」
【ルーチェモン】
「話し合いなら、何度もしたよ」
【レオモン】
「……はい」
【ルーチェモン】
「僕は、みんなが安心して暮らせるようにしたいだけなんだ。それなのに、どうして自分たちの決まりにこだわるんだろう」
(ルーチェモンは書簡を机に置いた。)
【ルーチェモン】
「レオモン。君はどう思う?」
【レオモン】
(少し考えてから)「……私には、北方の者たちが争いを望んでいるようには思えません。ただ、自分たちの暮らしを守りたいのではないでしょうか」
【ルーチェモン】
「それは分かっているよ」
【レオモン】
「でしたら、彼らの選択を認めることも――」
【ルーチェモン】
「でも、その選択が争いにつながるかもしれない」
(レオモンの言葉が途切れた。)
【ルーチェモン】
「僕には、それが分かるんだ。違う決まりがあれば、いつか必ず意見がぶつかる。意見がぶつかれば、争いが起きる。争いが起きれば、誰かが傷つく」
【レオモン】
「……必ず、とは限りません」
【ルーチェモン】
(静かに顔を上げる)「……君も、そう言うんだね」
【レオモン】
「ルーチェモン様?」
【ルーチェモン】
「ホーリーエンジェモンたちも、同じことを言っていたよ」
(その声には、怒りとも悲しみともつかない響きがあった。)
【ルーチェモン】
「……僕が間違っているって、みんな言うんだ」
【レオモン】
「そのようなつもりでは――」
【ルーチェモン】
「分かっているよ」
(ルーチェモンは微笑んだ。)
(けれど、その微笑みは以前よりもどこか硬かった。)
【ルーチェモン】
「君たちは、まだ知らないだけなんだ。秩序がなければ、どれほど簡単に平和が壊れてしまうのか」
(ルーチェモンは立ち上がった。)
【ルーチェモン】
「北方には、もう一度通知を送って。中央共通秩序規則は変更しない。協定も、中央の秩序のもとで守られるべきものだって」
【レオモン】
「……承知しました」
(レオモンが退出した後、ルーチェモンは一人、窓辺へ歩み寄った。)
(眼下には、広大な中央聖域が広がっていた。)
(多くのデジモンたちが暮らし、笑い合い、日々を過ごしている。)
(それは、かつて彼が夢見た光景だった。)
【ルーチェモン】
(窓の外を見つめながら)「……僕は、みんなを守っているんだ」
(白い翼が、背中で静かに揺れる。)
【ルーチェモン】
「……そうだよね」
(返事はなかった。)
⸻
(狭間劇場。)
【サイガ】
「……ルーチェモン、前よりも人の話を聞かなくなってる」
【ホメオスタシス】
「そうですね。彼は今、異なる意見を、自分の理想を否定するものとして受け取るようになりつつあります」
【イグドラシル】
(寂しげに)「本当は、みんな同じ平和を望んでいるのにね」
【崑崙】
「ふふ……目的が同じだからこそ、手段の違いを許せなくなることもあるんだろう」
【ホメロス】
「そして、反対する者が増えるほど、自分だけが正しいと信じたくなる……。孤独な道ですわね」
【サイガ】
「……三体の天使が戻ってきたら、何か変わるのかな」
【ホメオスタシス】
(静かに首を横に振る)「それは、彼らが再び向き合うことを選ぶかどうか。そして、ルーチェモンがその言葉を受け入れられるかどうかにかかっているのでしょう」
(観測映像には、窓辺に立つルーチェモンの姿が映っていた。)
(その背に広がる翼は、まだ白い。)
(だが、光に照らされた羽根の奥に、ほんのわずかな暗い影が差しているようにも見えた。)
(それが夕暮れの影なのか、あるいは別の何かなのか。)
(このとき、誰にも分からなかった。)
⸻
(中央聖域から北西へ、幾つもの丘陵を越えた先。)
(深い森と澄んだ川に囲まれた小さな集落に、三体の天使が滞在していた。)
(ホーリーエンジェモン、エンジェウーモン、アルケーエンジェモン。)
(かつてルーチェモンの傍らで世界の平和を支えてきた彼らは、中央聖域を離れてからも、各地のデジモンたちを助ける旅を続けていた。)
(ただし、以前とは違うことが一つあった。)
(彼らはもはや、中央聖域の名において行動しているわけではなかった。)
⸻
(集落の外れに設けられた小さな救護所。)
【エンジェウーモン】
(負傷したガブモンの腕に手を添える)「……これで大丈夫です。傷はもう塞がりましたよ」
【ガブモン】
(包帯を巻かれた腕を動かす)「わあ、本当だ! ありがとう、エンジェウーモン!」
【エンジェウーモン】
(優しく微笑む)「ふふ。ですが、しばらくは無理をしないでくださいね」
【ガブモン】
「うん! 約束する!」
(ガブモンが元気よく走り去ろうとする。)
【エンジェウーモン】
「あっ、走ってはいけませんよ!」
【ガブモン】
(慌てて歩き直す)「あはは……ごめんなさい!」
(その様子を見て、エンジェウーモンは小さく笑った。)
(かつて中央聖域で幾度となく繰り返した、何気ない光景。)
(傷ついた者を癒やし、その笑顔を見送る。)
(彼女にとって、それは今も変わらない喜びだった。)
【ホーリーエンジェモン】
(救護所へ入ってくる)「治療は終わったようだな」
【エンジェウーモン】
「はい。幸い、大きな怪我ではありませんでした」
【ホーリーエンジェモン】
「それはよかった」
【エンジェウーモン】
(少し考え込む)「……不思議ですね」
【ホーリーエンジェモン】
「何がだ?」
【エンジェウーモン】
「中央聖域を離れたとき、私はもう、以前のように誰かを助けられなくなるのではないかと思っていました」
(エンジェウーモンは救護所の窓から、外で遊ぶ幼いデジモンたちを眺めた。)
【エンジェウーモン】
「ですが、こうして旅をしていても、助けを必要としている方々はたくさんいらっしゃいます」
【ホーリーエンジェモン】
「……ああ」
【エンジェウーモン】
「私たちが守りたかったものは、中央聖域という場所ではなかったのですね」
【ホーリーエンジェモン】
(穏やかに頷く)「そうだな。我々が誓ったのは、誰もが安心して暮らせる世界を築くことだった」
【エンジェウーモン】
「……はい」
(そのとき、救護所の外から聞き慣れた声が響いた。)
【アルケーエンジェモン】
「二人とも、少しいいか!」
(アルケーエンジェモンが、数枚の書簡を手に現れた。)
【ホーリーエンジェモン】
「どうした?」
【アルケーエンジェモン】
「交易商から話を聞いた。中央聖域で、新たな動きがあったらしい」
(ホーリーエンジェモンの表情が引き締まる。)
【ホーリーエンジェモン】
「……詳しく聞かせてくれ」
⸻
(集落の広場。)
(三体は、中央聖域から訪れた交易商のデジモンと向き合っていた。)
【交易商のデジモン】
「いやあ、まさか皆さんがこちらにいらっしゃるとは。中央聖域では、三名がいなくなったことで大騒ぎでしたよ」
【アルケーエンジェモン】
「……やはり、混乱が起きていたか」
【交易商のデジモン】
「ええ。最初は仲裁も警備も人手が足りず、随分と困っていたようです」
【エンジェウーモン】
(心配そうに)「救護施設は……? 治療を受けられない方はいらっしゃいませんでしたか?」
【交易商のデジモン】
「一時は大変だったそうですが、今は物資の配分も整えられ、何とかやっているようです」
【エンジェウーモン】
「……そうですか。よかった」
【ホーリーエンジェモン】
「それで、中央聖域では今、誰が各地の判断を行っているのだ?」
【交易商のデジモン】
「それが……ほとんどすべて、ルーチェモン様が直接お決めになっているそうで」
(三体の表情が変わった。)
【ホーリーエンジェモン】
「……すべてを?」
【交易商のデジモン】
「はい。交易路の管理から集落同士の争いまで、重要なことは中央へ報告するようにと」
【アルケーエンジェモン】
(眉をひそめる)「そんなことを続けていたら、あの方への負担が大きすぎる」
【交易商のデジモン】
「ですが、実際に争いは減っているんです。中央の判断がすぐに下りるので、助かっている者も多いですよ」
【ホーリーエンジェモン】
「……なるほど」
【交易商のデジモン】
「ただ、北方では少し揉めているようでして」
【アルケーエンジェモン】
「北方?」
【交易商のデジモン】
「岩角集落のオーガモンたちが、中央共通秩序規則について、もう一度話し合いたいと申し入れたそうなんです」
【ホーリーエンジェモン】
「その申し入れは、受け入れられたのか?」
【交易商のデジモン】
(首を横に振る)「いいえ。規則は変更しない、という返答だったそうです」
(エンジェウーモンが息を呑む。)
【エンジェウーモン】
「……そんな」
【交易商のデジモン】
「それで、北方では不安が広がっているとか。まだ大きな争いにはなっていませんが……」
【アルケーエンジェモン】
「分かった。知らせてくれて感謝する」
(交易商が去った後、三体はしばらく黙っていた。)
⸻
【アルケーエンジェモン】
(拳を握り締める)「……あの方は、本当にすべてを一人で背負うつもりなのか」
【エンジェウーモン】
「ルーチェモン様……」
【ホーリーエンジェモン】
(静かに目を閉じる)「我々が去ったことで、あの方はさらに孤独になってしまわれたのかもしれない」
【アルケーエンジェモン】
「だが、だからといって、あの命令に従うことはできなかった」
【ホーリーエンジェモン】
「ああ。その判断を悔やむつもりはない」
【エンジェウーモン】
(俯きながら)「……それでも、心配なのです」
【ホーリーエンジェモン】
「分かっている」
【エンジェウーモン】
「私たちが去るとき、あの方は仰いました。必ず平和な世界をつくる、と」
(エンジェウーモンは、遠く中央聖域のある方角を見つめた。)
【エンジェウーモン】
「その願いは、きっと今も変わっていないのでしょう。ですが……」
【アルケーエンジェモン】
「……そのために、誰の声も聞かなくなってしまったら意味がない」
【ホーリーエンジェモン】
「我々は、あの方の力を恐れて離れたのではない。あの方が他者の選択を認めなくなったからこそ、離れる道を選んだ」
(ホーリーエンジェモンは二体へ向き直った。)
【ホーリーエンジェモン】
「だからこそ、今の状況を見過ごすわけにはいかない」
【アルケーエンジェモン】
「……どうする?」
【ホーリーエンジェモン】
「北方へ向かおう」
【エンジェウーモン】
「岩角集落へ、ですか?」
【ホーリーエンジェモン】
「ああ。中央聖域から届く報告だけでは、彼らがどのような状況に置かれているのか分からない」
【アルケーエンジェモン】
「直接、話を聞くというわけか」
【ホーリーエンジェモン】
「そうだ。まずは、北方の者たちが何を望んでいるのか確かめたい」
【エンジェウーモン】
(静かに頷く)「私も賛成です。もし困っている方がいらっしゃるなら、力になりたい」
【アルケーエンジェモン】
「よし。ならば、明朝出発しよう」
(三体は再び、中央聖域の方角を見つめた。)
(その先には、かつて自分たちが仕えた天使がいる。)
(今も平和を願いながら、かつてとは異なる道を歩み始めた、光の天使が。)
⸻
(狭間劇場。)
【サイガ】
(少し安心したように)「三人とも、ルーチェモンのことを心配してるんだね」
【ホメオスタシス】
「ええ。忠誠を解いたからといって、共に過ごした日々や、あの方への敬意まで消えるわけではありません」
【イグドラシル】
「ふふっ……むしろ、離れたからこそ気づくこともあるのかもしれないね」
【崑崙】
「ただし、彼らが北方へ向かうことは、ルーチェモンにとって別の意味を持つかもしれない」
【サイガ】
「……別の意味?」
【崑崙】
「自分のもとを去った三体が、自分の統治に反対する集落へ向かう。どう受け取るかは、今のルーチェモン次第だろうね」
【ホメロス】
(扇を閉じる)「うふふ……善意による行動であっても、受け取る側の心によっては、まったく違う意味になってしまいますもの」
【サイガ】
「でも、三人は争いに行くわけじゃないよね?」
【ホメオスタシス】
「そのとおりです。彼らが望んでいるのは、あくまで対話と救済。けれど……」
(ホメオスタシスは言葉を切り、観測映像へ視線を戻した。)
【ホメオスタシス】
「相手の行動を信じられなくなったとき、かつての絆さえ疑いの対象になってしまうことがあるのです」
⸻
(中央聖域。夕暮れの謁見の間。)
(ルーチェモンは、各地から届けられた報告書に目を通していた。)
(その中に、一枚の新しい書簡があった。)
(中央聖域を離れた三体の天使が、北方へ向かう準備を進めているという報告だった。)
【ルーチェモン】
(書簡を見つめる)「……北方へ?」
(ルーチェモンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。)
【ルーチェモン】
「……どうして、あの三人が?」
(答える者はいない。)
(彼は書簡を握り締めた。)
【ルーチェモン】
「僕のもとを去って……今度は、僕の決めた秩序に反対する者たちのところへ行くんだね」
(その声には、寂しさが滲んでいた。)
【ルーチェモン】
「……僕は、みんなを守ろうとしているだけなのに」
(窓から差し込む夕日の中、白い翼が静かに揺れる。)
(ルーチェモンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。)
【ルーチェモン】
「……それでも、僕は止まれない」
(やがて、彼は書簡を机に置いた。)
【ルーチェモン】
「三人が何をしようと……僕は、僕のやり方で平和を守る」
(その言葉を口にした瞬間、翼の根元に、ごく小さな黒い染みが浮かび上がった。)
(白い羽毛の奥に、墨を一滴落としたような、かすかな変色。)
(ルーチェモンは、その異変に気づいていなかった。)
(そして黒い染みも、すぐに広がることはなかった。)
(ただ、彼の翼に確かに残っていた。)
(まだ、堕天は始まったばかりだった。)
⸻
(中央聖域。夜。)
(かつて三体の天使が立ち並んでいた謁見の間には、今やルーチェモン一体の姿しかなかった。)
(机の上には、北方から届いた幾通もの書簡が積まれている。)
(協定の再確認を求めるもの。統一規則の見直しを求めるもの。そして、中央聖域との対話を望むもの。)
(そのどれにも、争いを望む言葉は書かれていなかった。)
(それでもルーチェモンには、彼らの願いを受け入れることができなかった。)
【ルーチェモン】
(書簡を一通ずつ読み返す)「……どうして、みんな分かってくれないんだろう」
(彼は一枚の書簡を机に置いた。)
【ルーチェモン】
「僕は、誰も傷つかない世界をつくりたいだけなのに……」
(窓の外には、静かな中央聖域が広がっている。)
(規則が整えられた街路。警備隊に守られた交易路。争いのない広場。)
(その光景は、かつてルーチェモンが夢見た世界に近づいていた。)
(だが、彼の心には安らぎがなかった。)
(どれほど秩序を整えても、反対する者が現れる。)
(どれほど説明しても、異なる道を選ぼうとする者がいる。)
(そして、最も信頼していた三体の天使さえ、自分のもとを去ってしまった。)
【ルーチェモン】
「……ホーリーエンジェモン。エンジェウーモン。アルケーエンジェモン……」
(かつて共に歩んだ者たちの名を、静かに口にする。)
【ルーチェモン】
「君たちなら、分かってくれると思っていたんだ」
(ルーチェモンは目を閉じた。)
(思い出すのは、まだ中央聖域が小さかった頃のこと。)
(争っていたデジモンたちが手を取り合い、傷ついた者が癒やされ、互いに異なる者たちが同じ場所で笑い合っていた。)
(あの頃は、誰もが平和を望んでいると信じていた。)
(話し合えば、必ず分かり合えると思っていた。)
(けれど――。)
【ルーチェモン】
(ゆっくりと目を開く)「……違うんだね」
(その声は、ひどく静かだった。)
【ルーチェモン】
「みんなが正しい道を選んでくれるとは限らない。どれほど説明しても、間違った選択をしようとする者はいる」
(ルーチェモンは、自分の手のひらを見つめた。)
【ルーチェモン】
「だったら……僕が、選んであげなければならないんだ」
(背中の翼が、小さく震えた。)
(白い羽根の根元に残っていた黒い染みが、ゆっくりと広がり始める。)
(ルーチェモンは、その異変に気づいた。)
【ルーチェモン】
(肩越しに翼を見つめる)「……これは?」
(羽根の一枚が、白から灰色へと変わっていく。)
(続いて、その隣の羽根も。)
(まるで、翼の奥から夜が滲み出してくるかのようだった。)
(ルーチェモンはしばらく、自分の翼を見つめていた。)
【ルーチェモン】
「……僕の力が、変わろうとしている?」
(そのとき、机の上に置かれていた北方からの書簡が、風に吹かれて床へ落ちた。)
(ルーチェモンは、そこに記された一文を見つめた。)
(――私たちは、自分たちの未来を、自分たちで選びたい。)
(かつてのルーチェモンなら、その願いを聞き入れようとしただろう。)
(だが、今の彼が抱いたのは、別の思いだった。)
【ルーチェモン】
「……その選択が、君たちを傷つけるとしても?」
(答えはない。)
【ルーチェモン】
「だったら、やっぱり僕が守らなくちゃ」
(ルーチェモンは、ゆっくりと顔を上げた。)
【ルーチェモン】
「もう、誰かが間違った道を選ぶのを、見過ごしたりしない」
(その瞬間――。)
(翼の奥から、黒い光が噴き出した。)
(白い羽根が次々と黒く染まり、謁見の間を満たしていた神聖な光が激しく揺らぐ。)
(ルーチェモンの身体を、これまでとは異なる膨大な力が包み込んだ。)
【ルーチェモン】
(驚きながらも、その力を受け止める)「……ああ」
(白と黒。)
(光と闇。)
(相反する二つの力が、彼の内側で渦を巻く。)
(それは、誰かに与えられた罰ではなかった。)
(誰かに強いられた変化でもなかった。)
(平和を守りたいという願いが、他者の意思を認めないという確信へ変わった、その果てに生じた変質だった。)
(ルーチェモンは、ゆっくりと両腕を広げた。)
【ルーチェモン】
「……そうか」
(黒い羽根が、静かに舞い落ちる。)
【ルーチェモン】
「僕が、すべてを導けばいいんだ」
(その言葉と共に、彼を包む光と闇が一つに収束した。)
(幼い天使の姿が、眩い閃光の中に消える。)
(そして――。)
(光が収まったとき、そこに立っていたのは、もはや以前のルーチェモンではなかった。)
(成長期の小さな身体は、青年の姿へと変貌していた。)
(その背には、聖なる光と深い闇を宿す翼が広がっている。)
(かつての純白の天使は、光と闇を併せ持つ存在へと変わっていた。)
――ルーチェモン:フォールダウンモード。
【ルーチェモン:フォールダウンモード】
(自らの手を見つめ、静かに微笑む)「……これなら、できる」
(その瞳には、かつてと変わらぬ平和への願いが宿っていた。)
(しかし、その願いを実現するために、彼が選ぼうとしている道は、もはや以前とは異なっていた。)
【ルーチェモン:フォールダウンモード】
「もう、誰も迷わなくていい」
(彼は窓の外へ視線を向けた。)
【ルーチェモン:フォールダウンモード】
「僕が、すべてを決めてあげるから」
⸻
(狭間劇場。)
(観測映像に映し出された変貌を前に、サイガは言葉を失っていた。)
【サイガ】
「……姿が、変わった……?」
【イグドラシル】
(静かに頷く)「うん。デジモンは、内に秘めた力や積み重ねた経験によって、姿を変えることがあるんだよ」
【サイガ】
「でも……さっきのは、普通の進化とは違う気がする」
【崑崙】
「ふふ……鋭いね。力を得たこと自体よりも、何を信じてその力に至ったのかが重要なんだろう」
【ホメロス】
(扇を閉じ、観測映像を見つめる)「かつて世界を照らした天使が、自らの理想を貫いた末に、闇をその身に宿す……。皮肉なものですわね」
【サイガ】
「……ルーチェモンは、悪いデジモンになっちゃったの?」
(ホメオスタシスは、すぐには答えなかった。)
【ホメオスタシス】
(静かにサイガへ向き直る)「彼が願うものは、今も平和なのでしょう。ですが、その平和のために他者の自由を奪うことさえ正しいと考えるようになってしまったのです」
【サイガ】
「……それじゃあ、三人が止めようとしていたことが……」
【ホメオスタシス】
「ええ。彼らが恐れていた変化は、ついにルーチェモン自身の姿にまで現れました」
(観測映像には、夜の中央聖域が映し出されていた。)
(その中心に立つ、光と闇を宿した一体の天使。)
(世界を救おうとした少年は、今も自分が正しいと信じている。)
(その確信が、これから何をもたらすのか。)
(まだ、誰も知らなかった。)
【ホメオスタシス】
(静かに目を伏せる)「……こうして、かつて原初のデジタルワールドに平和をもたらした光の天使は、堕天したのです」
(観測映像が、ゆっくりと暗転する。)
――第8話「堕天」完――