完全下校時刻を知らせるチャイムが学校中に鳴り響く。
夕日が差し込む教室の中、その音に揺り動かされて、
長い夢を見ていたような気がする。内容はほとんど覚えていないが、ただひとつだけ、どこまでも落下していくような夢だったことは覚えていた。遥か遠くにひかりが見え、それを必死に掴もうとするような、そんな夢。
瞼を擦り、ぼんやりしながら顔を上げると、目の前に見慣れた顔があった。
茶色の瞳に、栗色の長い髪を持つ少女。逆浪が目覚めたのを確認すると、「あ、起きた」と呟いて、
「よく寝れた?」
ときいてきた。
「んああ……よく寝た」
半目開きのままでむにゃむにゃと呟く逆浪に、少女──
「もう完全下校時刻だよ? 早くしないと、施錠されちゃうよ」
美雪の言葉に逆浪は答えない。まさか、と思って逆浪の方を見ると、またうつらうつらとし始めている。二時間ほど寝たはずだが、どうやらまだ眠れるらしい。
「はぁ……」
再びため息。こうなると逆浪はしばらく動かない。美雪はそれをよく分かっていたが、そろそろ下校しないと怒られるのも事実である。仕方ないので、奥の手を使うことに決めた。
逆浪の側面に回り込み、男にしては長い黒髪をそっとかき分け、露出した耳に顔を近づける。
そして、吐息と共にこう囁いた。
「……起きて、早く帰らないと暗くなるよ」
途端に逆浪がガバッと起き上がり、そのまま椅子ごと倒れた。騒がしい音がしたので誰か来るのではないかと心配になり、周りを見回してみるが、教室にはふたりのほかに誰もいないし、フロアにも人の気配はない。なので大丈夫だと判断した。
「あてて……」
痛みで完全に目覚めきったらしい逆浪は、倒れたまま美雪に恨みがましい目を向ける。
「俺、耳弱いのに……」
「分かってるからやってたんだけど……」
美雪は恥ずかしそうに頬を染め、小さい声で言う。この方法を取れば逆浪は完全に目覚めるのだが、公衆の面前で行うにはいささか恥ずかしい行為でもある。今回は教室に誰もいなかったからできたものの、それでも恥ずかしいことに変わりはない。
美雪の様子を見た逆浪は居心地が悪くなったかのように頭を掻きながら起き上がり、鞄を持って「悪かった」と謝った。
「ううん、大丈夫……」
美雪は顔を上げると、まだ赤みの差した顔で微笑む。
許されたことにホッとした逆浪は「帰ろうか」と言って、美雪と共に教室を出た。
* * *
廊下には人影ひとつなく、逆浪と美雪の足音が響くばかりだった。長い廊下に斜陽が差し込み、どこか幻想的な雰囲気を生み出している。
とはいえ、いくら居心地のよい幻のような空間だとしても、美雪を完全下校時刻まで待たせていたことに罪悪感を覚えているのは本当だった。このまま知らぬ顔をして歩くのは申し訳ないと思い、歩きながら美雪の方を向き、バツの悪そうな顔で謝る。
「本当にごめんな、こんな時間まで。先に帰ってりゃよかったのに」
「別にいいよ、家に帰っても暇だし……それに、光くんのバッグに入ってた本を読んでたから退屈はしなかったよ」
「マジか。俺まだ読んでないんだけど……」
まあこれでおあいこかと呟き、逆浪は前を向いた。
教室は三階にあるので、階段を二階分降り、一階に移動する。靴箱に上履きを突っ込み、ローファーに履き替えたところで、美雪の言葉に疑問を覚え、「そういえば……」と声を上げる。
「家に帰っても暇って言ってたけど、家族は誰もいないのか?」
「お父さんもお母さんも仕事で遅いし、お兄ちゃんは
美雪には両親の他に兄がひとりいる。日向家は逆浪が知る限り最も家族仲の良い家庭であり、夜は家族で過ごしている印象があっただけに、珍しいことだと思った。
「親御さんは兎も角、
「いいの?」
「待たせちまったしな。それに、
「そういえば最近行けてなかったね。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
美雪の言葉に頷いた逆浪は、携帯端末で家族に連絡を入れなから校庭を横断し、校門を抜けて学校を出た。
季節は秋。まだ十七時だが、しばらくすれば日も沈み、真っ暗になるだろう。
他愛もない話をしながら、通いなれた道を歩く。部活帰りの喧騒が聞こえてきて、車や自転車がふたりを追い越していく。
いつもと変わらない日常の風景。しかしそれは、ほんの些細なきっかけで非日常へと姿を変えていくことになる。
* * *
しばらく歩き、両脇に田んぼが広がる道に差しかかる。
水面に夕陽が反射し、眩しさで思わず目を逸らす。すると、前方から誰かが走ってきているのが見えた。
最初は逆光のせいで分からなかったが、どうやら男──それも身長だけでいえばふたりとあまり変わらない年齢の少年のようだ。赤い目に黒い髪、逆浪と同じくらいの背丈なので、170cmほどだろうか。
これだけを見るとごくごく普通の少年だが、特徴的なのはその髪だった。そういったヘアスタイルなのか、あるいは奇妙な進化を遂げてしまった寝癖なのかは判然としないが、髪が短い犬耳のように逆立っていたのだ。
服装は制服で、逆浪が着ているものとはデザインが異なっている。あの制服どこの学校のやつだっけと考えていると、慌てたような声が意識を現実に引き戻した。
「クッソ! まさか五人がかりで来るとは思わなかった! 完全に数の暴力じゃねぇか畜生!」
見ると、その後ろからは彼と異なるデザインの制服を着た集団が追ってきている。前時代的なヘアスタイルや改造された制服を見るに、どうやら不良軍団のようだ。隣町にある工業高校の制服かなと思ったが、これまたよく分からない。
美雪も少年を認識したらしい。驚いたように声をあげた。
「あの人……“灰色の鴉”の
「誰だそれ?」
逆浪は首を傾げる。
美雪の話しぶりからするとかなりの有名人のようだが、逆浪は彼のことを知らないし、少年からはそのような雰囲気は感じられない。
そのうちに、少年──無銘も逆浪たちに気付いた。表情が慌てたものに変わり、警告するように叫ぶ。
「アンタら早く逃げろ! こいつら不良だし、異能力持ってやがる!」
異能力。
それはこの世界に存在する、人智を超えた力のことである。
異能力を扱うことのできるものは異能力者と呼ばれており、その数は年々増加傾向にあった。
ひと昔前までは魔法やオカルトという言葉で否定されていた力で、フィクションの中にしか存在していないと思われていた力だった。その存在が明確となり、身近なものとなった現在でも、扱い方によっては凶器になるとして畏怖されている力だ。
当然、逆浪もそれは理解している。
しかし──彼は動じなかった。
「異能力、ねぇ……」
無銘ひとりに対して、相手は五人。自分たちが加勢すれば、撃退することは可能かもしれない。
逆浪は人差し指と親指をL字にし、顎に当てる。探偵のような仕草である。
しばらく思考を巡らせたあと、美雪の方を向いてこうきいた。
「美雪の見立ては?」
「……火炎の異能を持っている人がふたり。あとは異能力者じゃないけど、喧嘩慣れはしていると思う」
「さすがは美雪さん。それじゃ、いっちょやりますかね」
逆浪は軽い調子でそんなことを言って、身構える。
その様子を見た無銘は困惑した表情を浮かべた。
「おい、アンタなにを言って……」
「なにってそりゃあ……こうするんだよ」
言うが早いか、逆浪はひとりの不良に向かっていく。すれ違いざま無銘の視界に映ったのは、その行動に焦って能力を発動する不良だった。
“
瞬間、不良の前に炎の壁が現れる。
しかし逆浪はお構いなしとばかりに突撃し、鋭い声で叫んだ。
「美雪!」
「もうちょっと右……そう、そこ! そのまま突っ込んで!」
逆浪は美雪の指示通りの場所に突進する。壁を突破する一瞬だけ、焼け付くような痛みを感じたが、それだけだった。
驚き顔の不良に接近し、その頬を思いきり殴る。不意打ちに近い形だったのが功を奏したのか、あるいは当たり所が悪かったのかは判然としないが、不良は半回転しながら倒れた。
逆浪はガッツポーズをした後、別の不良の方を向く。
その目に映ったのは、無銘に殴り飛ばされる不良の姿だった。ほかの三人も地に伏しており、情けなく恨み言を吐いている。
「なんでコイツこんなに強いんだ……」
「しかも異能が効かねぇぞ……」
「さっきまで逃げ回ってたくせに……!」
「舐めんな。オレにだってこのくらいできるわ……あと逃げてたのは人を巻き込まないようにするためだよ。結果的には巻き込んじまったけど……」
無銘は呼吸を乱さぬままそう言って、軽く手を払う。
あまりの早業に、逆浪と美雪は呆然とするほかなかった。
「すげぇ……」
「四人もいたのに……」
驚きのあまり空いた口を閉じることを忘れていると、それに気づいた無銘が心配そうにこうきいた。
「アンタら大丈夫か? 特におまえ……炎の中に突っ込むなんて危ないヤツだなぁ」
「あ、大丈夫です。ちょっとコゲただけなんで」
「ちょっとコゲたって……まあ大丈夫ならいいけどさ。なんであの時突っ込んでいったんだ?」
無銘は咎めるような口調ではなく、本当に疑問に思っている様子だった。
逆浪は美雪に視線を向けて、その疑問に答える。
「あー……美雪の異能で、炎の壁が薄くなっている部分を教えてもらって、そこに突っ込んだんです」
「私の異能、“視る”ことに特化しているので……」
ふたりは自然なことのように言っているが、やっているのは並大抵のことではない。一瞬で意思を疎通して連携を行えるあたり、信頼の深さが伺えるといえるだろう。
無銘は感心して、ふたりの顔を交互に見る。
「なんつうか、信頼しあってるんだな」
「ま、幼馴染なんで……」
美雪が血相を変えたのはその直後だった。
「光くん! 危ない!」
警告を受けて逆浪が振り向いた時には、眼前に炎の弾丸が迫っていた。さきほど殴り倒した不良が、最後の抵抗とばかりに放った一撃だった。
避けようにも、間に合わない── 逆浪は衝撃に備え、覚悟と共にぎゅっと目を瞑る。
しかし──
「大丈夫だ」
炎の弾丸は無銘が伸ばした右手に触れた途端、打ち消されたように霧散した。
「な、なんで……」
不良は呆然としながらそう呟き、また意識を失った。
炎が爆ぜる音が消えて、辺りは一瞬にして日常へと回帰していく。
「すげぇ……」
逆浪は固まったように立ち尽くしていたが、ややあって無銘の方を向くと、地面に膝を着き──綺麗なフォームで土下座した。情けないといえば情けない格好である。
「お願いします! オレを……弟子にしてください!」
「……は?」
予想の斜め上を行く言葉が飛び出したため、無銘は驚いて逆浪を見た。
逆浪は顔を上げると、熱の篭った口調で必死に言う。
「俺も異能力者なんですけど、まだまだ弱くて……それで、あなたみたいな人に教えてもらえば強くなれるかなって思って……」
無銘はそれを受けて、戸惑ったように眉根を寄せた。
「オレ、別に強い訳じゃねぇけど……というか、なんで強くなりたいんだ? 普通の生活を送っていれば、危険な目に遭う機会なんてそうそうないと思うけれど」
無銘の問いは、至極真っ当といえるものだった。
その疑問を受けた逆浪は、隣にいた美雪に視線を向ける。彼女もいきなりのことで戸惑っているようだった。
「……護りたいものがあるんですよ。弱いままじゃいられないんです」
脳裏に浮かぶのは、冷たい牢屋。
隣の牢に囚われている少女と壁越しに言葉を交わし、互いの存在を世界に繋ぎ止めていたことを思い出す。
いま、その少女は自分の隣にいる。
異能力を埋め込まれて人間未満の存在となった自分が、それでも護りたいと思った少女だった。
しかし、逆浪光はまだ弱い。それ故に、大切な存在を喪ってしまったこともあった。
──おまえと友達になれて、良かったよ。
そう言って、炎の中に消えていった後ろ姿を思い出す。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
大切なものが手の中から零れていくのは、もうごめんだ。
だから、強くなりたかった。
この残酷な世界で、自分を肯定できるように。
無銘は逆浪の言葉と態度を見た。安いといえばそれまでの土下座だが、その不器用さ加減は身に覚えがある。
少しだけ迷ったが、心の奥底では答えを決めていた。
この少年は、自分と同じだ。
弱いままではいられないと必死に抗う存在。無銘が迷っていたのは、彼を背負うことができるかどうかであり、見捨てるという選択肢は存在しなかった。
立つように促してから、逆浪の顔を見る。
そして、回答を口にした。
「アンタの覚悟はよく分かった。教えられることなんてあまりないかもしれないけれど、そこまで言うなら手伝うよ」
途端に、逆浪の顔がぱあっと輝いた。
「ありがとうございます!」
逆浪は勢いよく頭を下げる。無銘は笑顔で頷いた後、「そういえば、名前は?」と最初に訊くべきであったことを尋ねた。
「俺は逆浪光っていいます」
「私は日向美雪です」
「光に美雪、ね。オレのことは無銘って呼んでくれ。本名は別にあるんだが、あまり名乗りたくはないんだ」
アイツは死んだも同然だからなと言って、無銘はふたりを見た。
その目付きは何処か憂いを帯びたもので、それを見た逆浪と美雪は思わず頷いていた。
無銘はニッと笑い、「じゃあ、腹も減ったし、顔合わせも兼ねて飯でも食いに行くか?」と提案した。
「あ、ならウチに来ませんか? 俺の家、喫茶店をやっているんです」
「へぇ……じゃあそこにしようか。案内してもらってもいいか?」
「勿論です!」
ささやかな非日常で出会った三人は、日常の中へと戻っていった。
この出会いが、これから始まる長い物語の幕開けとなることも知らぬままに……。
今話初出のキャラクター提供者
無銘……爬虫類トンプソン様
なお、特筆のない場合は作者が考案したキャラクターとなります。