その喫茶店は、大通りから外れたところにひっそりと建っている、隠れ家のようなところだった。
木目調の壁に囲まれた空間にはカウンターの他にいくつかのテーブル席があるだけで、十人も座れば満席になってしまう。やってくる客も固定客ばかりで、それを頼りにしてなんとか営業を続けているような、そんな場所だ。
店の名前は“喫茶はねやすめ”という。立地も相まって、地元の人しか知らないような、穴場の喫茶店という印象を抱かせる店である。
そしてこの喫茶店こそが、逆浪光の自宅であった。
* * *
逆浪がドアを開け、美雪と無銘が中に入る。客は一人もおらず、厨房で洗い物をしている老人がいるだけだった。
老人はドアベルの音に気付いて顔を上げると、愛想良く「いらっしゃい」と三人を迎え入れた。
「おや、光くんか。遅かったね」
「ただいま、おやっさん。ちょっと色々あって遅くなっちまった」
「大丈夫だよ。美雪ちゃんも久しぶりだね」
「お久しぶりです」
美雪が礼儀正しく頭を下げる。老人は微笑んでから、無銘に視線を向けて、「彼は?」ときいた。
「初めまして、無銘といいます。光くんの……師匠になった者です」
無銘が頭を下げると、老人は「そうかそうか。また新しい友達ができたんだね」と嬉しそうに声を上げた。
「私は
「よろしくお願いします……って、越月?」
老人──鳶郎の自己紹介に、無銘が反応する。その疑問を口に出そうとした時、カウンターの奥にある居住スペースからひとりの少女が現れたので、そちらに気を取られた。
「お、来たな。ただいま
「光さんおかえり! あ、美雪さんもいる! やったぁ!」
「夢羽ちゃん久しぶり! ちょっと身長伸びた?」
「うん! ちょっとだけ伸びた!」
少女は逆浪の脇をすり抜けて美雪に抱きつく。腕を広げて待っていた逆浪はガックリと項垂れて、無銘は慰めの気持ちを込めて彼の肩を叩いた。
「光の妹か?」
「いえ、おやっさんのお孫さんです」
逆浪の言葉を受けて、少女は無銘の方を向くと、ぺこりと頭を下げた。
「初めまして、越月夢羽といいます!」
「夢羽ちゃんか。オレは無銘。よろしくな」
越月夢羽は雪のような白い髪と、海のような蒼い瞳を持つ少女で、身長の低さも相まって幼く見えるが、実際は逆浪や無銘のひとつ下とのことだった。
自己紹介が済んだあと、三人が適当な席に座ると、鳶郎がカレーをご馳走してくれた。スパイシーな中に、僅かに甘みが込められているカレーで、そのふたつが程よく溶け合い、上品な味になっていた。
三人とも空腹だったため、しばらくは食事に没頭する。十五分ほどで食べ終わり、食後の飲み物が運ばれてきたところで、洗い物を終えた夢羽が美雪の隣に座り、無銘にきいた。
「あの、無銘さんってもしかして、“灰色の鴉”の無銘さんですか?」
「ああ、その無銘で間違いないよ」
「そういえば、美雪もそんなこと言ってたけど、その“灰色の鴉”とは?」
逆浪が首を傾げると、夢羽が「光さん、知らないの?」と驚きを滲ませた声できいた。
「この街に住んでるなら名前くらいは聞いたことあると思うけれど……美雪さんは知ってるんだよね?」
「うん、知ってるよ。って言っても、私も噂しか聞いたことないし、本人に会うのは初めてだけど」
そんなに有名な人なのか、と逆浪が無銘に視線を向ける。少しばかりの疑いを含んだ視線に「別に、そこまで有名じゃないけどな」と苦笑してから、無銘は説明を始めた。
「“灰色の鴉”ってのは、オレが仲間と結成した人助けグループのようなものだ。簡単に言えば何でも屋かな」
「へぇ……そんな組織があるなんて知らなかった」
感心したように声を上げた逆浪は、「ちなみに、その仲間っていうのは?」と質問を投げる。
「
「初めてききました」
逆浪は即答してから、美雪と夢羽の表情を伺う。
ふたりは『もちろん知ってるよ』と口を揃えて言った。
「“灰色の鴉”といえば、その三人だもん」
「そんなに有名なのか……もう少し興味を持つべきかなぁ」
逆浪がガックリと項垂れる。少しばかりオーバーなリアクションである。
「とにかく、巧未や夜月と一緒に人助けをしてるってことだけ覚えてくれればいいよ。実を言うとさっきも依頼を受けていたんだ。“隣町の不良が異能力を使って放火未遂を起こしたから、捕まえてくれ”って内容だった」
「でも、そういうのって警察が出張る案件じゃないんですか?」
昔も今も、警察が人々を護るという図式は変わらないため、逆浪が言ったことは間違いではない。
しかし、無銘は「たしかにそうなんだが、必ずしもそうとは言い切れないんだ」と言って、説明を続けた。
「学校の授業で習ったかもしれないけど、異能力の存在が明るみに出て以降、世界の犯罪率は上昇を続けている。この国は比較的平和だけど、それでも警察だけではカバーしきれないこともある。だから、オレたちみたいなのが警察に協力して、事件の解決を手伝っているってわけだ」
「そうなんですね……なんか現実味がないなぁ」
「ま、普通の人が事情を知る機会なんてないしな。依頼も、ほとんど
無銘がそう言った途端、逆浪の表情が固まった。
「ん? どうした光」
「泊家って、あの泊家ですか」
「ああ。あそこは異能力者の集会場になっているし、異能犯罪の情報も入ってくる。そういうのを片っ端から解決していくってわけだ」
そこまで言ってから、無銘は逆浪の様子がおかしい理由に思い当たる。
「もしかして、泊家のことが怖いのか? あそこはヤクザの本拠地だとか色々言われてるけど、当主の爺さんは人格者だし、言われているほど怖い場所じゃないぞ」
「……ええ、それは分かっています」
ただ、あまりいい思い出がないだけです。
逆浪は自嘲するように笑って、そう言った。
テーブルに重苦しい空気が満ちる。それを嫌うかのように逆浪が「まあ、とりあえず事情は分かりました」といつもの調子で言った、
「そ、そうか。ちょうど明日の放課後にグループの定例会があるんだけど、そこでふたりを紹介したいと思っている。都合は大丈夫か?」
「俺は大丈夫ですよ。どんな人なのか知っておきたいし」
「私も大丈夫です」
「ならよかった。あ、連絡先交換してもいいか? そのほうがなにかと都合がいいだろうし」
「そうですね。お願いします」
夢羽も含めて、四人で連絡先の交換を済ませる。
時刻は十九時を回ったところ。話題は尽きないが、無銘が「そろそろ妹が帰ってくるから」と言ったのを皮切りにお開きとなり、逆浪が美雪を送っていくことになった。
無銘の家は喫茶店から少し遠い場所にあるようで、手を振ると夜の闇の中に消えていった。その姿を見送ってから、ふたりも歩き出す。
美雪の家は喫茶店から十分ほど歩いたところにある。のんびりと歩きながら、逆浪は「なんだか、すごい一日だったな」と呟いた。
「そうだね……。光くんがいきなり“弟子にしてください!”って言うからびっくりしちゃった」
「強くならないといけないからな。俺みたいな弱い人間でも、この世界で生きられるように」
逆浪はまえを向いたまま淡々と言う。それは理由のひとつに過ぎないが、本当の理由を話す訳にもいかない。
それを分かっているのかいないのか、美雪は右手で逆浪の左手をそっと握った。
「……いきなりどうした」
「光くんは、強いひとだと思う。私はその強さに助けられたし、いまも救われてるよ」
「……そうだといいけどな」
素っ気なく答えるが、その声には微かに縋り付くような響きがあった。
異能を得た日から、自分の全ては地獄となった。
それでも美雪が隣にいてくれるだけで、この地獄も悪くないと思える。美雪は“光くんに救われた”と言っているが、本当に救われているのは、自分の方だ。
だからこそ、護りたいと思った。こんなこと、恥ずかしくて口には出せないけれど……。
内心は真っ赤になっていたが、なんとか顔に出さずに済んだ。どうやら、自分はこの幼馴染に弱いらしい。
思考がぐちゃぐちゃになり、繋がれた手のぬくもりを意識しないように意味のないことを考え始める。
そのなかで唯一、意味のある思考が浮かんできた。
「……あ」
「どうしたの?」
思わず声を出した逆浪の顔を、美雪が覗き込む。顔が近付き、抑えていた感情が表出しそうになるが、なんとかそれを押さえ込み、逆浪は答えた。
「師匠の異能についてきくの忘れてた。時間はたくさんあったし、タイミングはいくらでもあったのに」
「明日会うんだし、そのときにきけばいいと思う。私たちも自分の異能について教えてないしね」
「それもそうか」
無銘のように解決業に携わる人間は、自分の異能を大々的に明かさないことが多い。不良が放った炎の弾丸を無効化したことからある程度の予想はできたが、それでも推測の域を出ない。
弟子になったとはいえ、今日会ったばかりの人間には明かしてくれないかと考え、逆浪は溜息をついた。彼の異能は他人の異能を知っていれば知っているほど強力になるので、今後トラブルに巻き込まれた時のために情報収集はしておいたほうがいいのだが、信用を積み上げるしかないだろう。
まあとりあえず明日だなと思い、逆浪は考えることをやめた。それで美雪の手のぬくもりを思い出し、あたふたしたのはまた別の話である。
こうして、逆浪光と日向美雪の一日は終わった。
だが、もうひとりの少年──無銘の一日は、まだ終わってはいなかった。
* * *
無銘がヘッドフォンで音楽を聴きながら歩いていると、不意に後ろからの衝撃を感じた。
振り返ると、そこにはひとりの少女がいて、驚いた様子でこちらを見ていた。緑色の髪をふたつに結んだ少女で、入院着のような薄い服を着ている。その躰は華奢で、おそらく自分より年下であろうと察しがついた。
それよりも気になったのは、少女の眼だった。左目は綺麗な赤色。だが右目は黒い眼帯によって隠されており、異様な雰囲気を醸し出していた。
「あ……」
少女はぺこりと頭を下げると走り去っていった。なにかあったのかなと思っていると、背後から慌ただしい足音がきこえてきた。
振り返ると、三人の男がこちらに向かって走ってきていた。服装はサングラスに黒いスーツという統一されたもので、何らかの組織の構成員であることは容易に察しがついた。
男たちは無銘の脇をすり抜けていく。その動きは、まるで何かを追っているかのように慌ただしいものだった。
それを見たとき、不意にひとつの考えが浮かんだ。
(まさか、さっきの子を追って……?)
荒唐無稽ではあるが、なぜかそれを否定することができない。
とにかく、なにかが起こっていることは間違いない―─そう考えた無銘は男たちを追い始めた。
* * *
気付かれないように距離を置いて追っていると、ひとりの男が急に立ち止まり、携帯端末を取り出して耳に当てた。口の動きから、誰かと会話している察しが着いたが、内容までは分からない。
数秒後、男たちは通信を終え、すぐそばにあった細い道に入っていった。やや遅れて、無銘も男たちを追いかける。
進んだ先は薄暗く、ジメジメとした路地裏だった。
そして、そこには──蹲る少女に暴行を加える男たちの姿があった。
「………ッ!」
無銘は反射的に飛び出し、その間に割って入る。
「テメェらなにしてんだ!」
男たちは無表情で乱入者を見る。激する無銘とは対象的に淡々としている彼らは、口々にこう答えた。
「貴様には関係ない」
「我々は任務の最中だ」
「すぐに立ち去らないと、貴様も同じ目に遭うことになるぞ」
明らかに脅しと分かる言葉。圧倒的にこちらが不利な状況。
しかし──無銘は動じない。
「そう言われて立ち去れる人間じゃないんでな……それ以上その子になにかするようだったらただじゃおかねぇぞ」
男たちは無銘の言葉に顔を見合わせる。
それから彼を敵と認識し、静かに構えた。
無銘もまた、応戦の構えを取った。
背後にいる少女は血を流しながら、縋るような視線を無銘に向けている。
なぜ少女が追われているのか、なぜ暴行を受けているのか──それは分からない。
だけど、護ることに迷いはない。
いまはただ、戦うだけだ。
少女の視線を背中に受け、無銘は飛び出す。
少年の戦いが幕を開けた。