放課後の部活動棟。いつもなら紅茶の湯気が静かに立ち上り、ページのめくられる音だけが響くはずの奉仕部室。
その扉を押し開けた瞬間、比企谷八幡の鼓膜と身体をダイレクトに揺らしたのは、爆音の唸りだった。
ドォン、ドコドコドコ――ズズズズズ……ッ!
「あ? ……なんだ、この音」
軽音部がアンプの電源を切り忘れたのか、あるいは誰かが暴れているのか。そんな呑気な想像は一瞬で吹き飛ぶ。
ドアの向こうで待ち受けていたのは、重低音の暴力だった。軽快でキャッチーな「軽音」などという甘っちょろい言葉とは程遠い。腹の底までズシりと響く、鈍く、重く、引き裂くようなグランジ・サウンド。
アンプの上に鎮座させたベースから重低音のウネリを叩き出し、すさかずストラップを掛け替えて真っ赤なジャガーの弦を叩きつけるようにかき鳴らす。耳元でジャラジャラと不穏な金属音を立てる無数のシルバーピアス。
そこに立っていたのは、いつもの優等生・雪ノ下雪乃ではなかった。
「先生……ここ、本当に『奉仕部』なんですかね? どちらかというと『破壊部』とか『解体屋』の領域に見えるんですが」
「ふふん、驚いただろう比企谷。これが奉仕部部長、雪ノ下雪乃の『もう一つの顔』だ」
腕を組んで満足そうに頷く平塚先生の横で、八幡は思わず身震いした。
激しいリフを弾き終え、歪んだノイズが部屋に残響する中、雪乃がノイズゲートのスイッチを足でバンと踏みつける。
シーーーン……と静まり返った部室。
汗ばんだ黒髪を粗暴に払い上げ、鋭い眼光で八幡を射抜く雪乃。その表情には、普段の冷徹さすら生ぬるく思えるほどの傲岸不遜さが満ちていた。
「……で? そこの男は何者かしら、平塚先生。私の貴重なセッションを邪魔するくらいだから、相応の理由があるのでしょうね」
「ひっ……」
低く、地獄の底から響くような声。
挑発的に見下ろすその瞳には、校内の誰も見たことがないような鋭利な野生が宿っている。
(……なんだこれ。これが……ロックってやつなのか……?)
八幡は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
優等生でお嬢様で完璧主義者。そんな「雪ノ下雪乃」の皮を剥ぎ取った後に残ったのは、圧倒的な重低音で世界を威嚇する、狂暴で美しいロックンローラーの姿だった。
「今日から君の部員になる比企谷八幡だ。見ての通り腐った目をしているが、まあ上手くやってくれ」
「断るわ。そんな死んだ魚の目をした男、私の音の圧で吹き飛んで灰になるのがオチよ」
首のピアスをジャラッと鳴らし、アンプのボリュームノブをさらに「10」へ回す雪乃。
「……まてまて、吹き飛ぶのは俺の精神面だけで十分なんだが?」
言葉とは裏腹に、八幡の胸の奥では、先ほど叩きつけられた圧倒的な重低音の余韻が、まだ熱く脈打っていた――。
アンプの電源が落とされ、部室に不気味なほどの静寂が戻る。
残響の微かなノイズが消え去った後、雪乃はベースを壁のスタンドに乱暴に立てかけ、腕を組んで冷ややかな視線を八幡に向けた。その耳元で、ジャラリと複数のシルバーピアスが小さく鳴る。
「……で。質問よ、比企谷八幡」
フッと鼻で笑うと、雪乃は挑発的な笑みを浮かべてこう問い放った。
「あなた、世界に言いたいことはある?」
突然の哲学的なんだか面倒くさいんだか分からない質問に、八幡はジト目をしながらも、すっと息を吸い込んで即答した。
「まあ……税金高いぞとか、ブラック企業潰れろとか、週休6日にしろとかはあるぞ」
もっともらしい社会への不満を、まるで当然のように並べ立てる八幡。
それを聞いた瞬間、雪乃の端正な顔がピクリと硬直し――次の瞬間。
「っ……ふ、ふふ……あははははっ!」
肩を震わせ、声を上げて大笑いしはじめた。いつもの気高いお嬢様然とした雰囲気はどこへやら、腹の底から愉快そうに笑うその姿に、八幡は面食らう。
「な、なんだよ。笑うことねぇだろ、至って真面みな労働者の叫びだぞ」
「だ、だって……! もうちょっとこう、愛とか平和とか、世界への深い絶望とかを語るのかと思えば……何よそれ、ただの個人の低俗な労働意欲の欠如じゃないの」
涙を軽く拭いながら、雪乃は呆れたように、しかしどこか楽しそうに息を吐く。
「……捻くれてるわね、貴方」
「お前ほどじゃないと思うが」
すかさず返した八幡の言葉に、雪乃の眉がピクリと跳ね上がった。
次の瞬間、テーブルの上に置いてあった分厚いハードカバーのノートが、凶器のような速度で飛来する。
バサッ!!
「っ痛っ! なんだよ暴力反対!」
「うるさいわね! 口だけは一人前のくせに!」
睨みつける雪乃の頬には、先ほどの爆音と笑い声のせいで、うっすらと紅が差していた。彼女は冷徹な眼光を再び鋭く光らせ、言い放つ。
「文句があるなら行動で示しなさい。貴方の、貴方だけの歌詞を書いてきなさい。明日までに。……来なかったら、ぶっ飛ばすわよ?」
「……」
(いや、明日までに作詞ってなんだよ。俺は軽音部でも音楽のプロデューサーでもないんだが? ……つーか、相変わらずこの女、暴力的すぎるだろ……)
「……聞こえてるのかしら?」
「はいはい、承りましたよ。精々、お前のその耳障りな重低音に負けないくらいの呪詛でも書いてやるよ」
呆れたようにため息をつきつつ、足元に落ちたノートを拾い上げる八幡。
(……やれやれ)
ギターをかき鳴らし、世界を睥睨する傲岸不遜なロックンローラー。
その実態は、相変わらず理不尽で、どこか感情豊かな面倒くさい少女――。
「まったく……ぶっ飛んでるなー、この人……」
放課後の薄暗い部室の片隅で、八幡は内心でそう呟きながら、手元のノートの表紙をそっと撫でたのだった。
「あれはな、世界に絶望した女の子だよ」
平塚先生はポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。紫煙の向こうで、アンプのボリュームをチェックしている雪乃の横顔が、スポットライトの残像のように淡く浮かび上がっている。
「誰も助けてくれない。誰の手も届かない。そこで彼女は考えた……『私を助けるのは私だけだ』とね」
ふっと煙を吐き出しながら、先生はどこか愛おしむような、それでいて少し切ない目をむけた。
「どころか、『むしろ私が他を助けるまである』とすら思っている。正義感が強すぎて、不器用で、孤独な子供だ。ただ、そのための正しい方法がわからない。けれど……胸の奥には、今にも破裂しそうなほど熱いエネルギーがある。そうだ。音楽にぶつけよう――そうやってあの重低音に行き着いた、根はとっても可愛い女の子だよ」
平塚先生の語る詩的な「雪ノ下雪乃論」を、八幡は心底信じられないという目で見つめ返した。
そして、耳元のピアスをジャラリと鳴らしながら、重いアンプを力任せにドカンと持ち上げている彼女の凶悪な立ち姿を交互に見比べる。
「……見た目だけじゃないですか?」
「失礼ね、比企谷くん。地耳が良いのよ、私」
ぬうっと背後から迫る殺気。
振り返ると、アンプを置き終えた雪乃が、冷酷そのものの笑みを浮かべて腕を組んでいた。
「先生の余計なポエムはさておき……『見た目だけ』とはどういう意味かしら? 私の音が、ただのハリボテだとでも言いたいの?」
「いや、誰もそこまでは言ってないだろ。ただ、その……『可愛い』の要素がどこに存在するのか、現代科学では観測不能だと言いたかっただけで……」
「余計なお世話よ。……いいから、さっさとそのノートに地獄の呪詛でも何でも書きなさい。明日、その詞に私がとびきり重いリフをつけてあげるわ」
ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く雪乃。
その横顔を眺めながら、八幡は深くため息をついた。
(……絶望だの救済だの、大層な理念はともかくとしてだ。要するに、不器用すぎる感情のぶつけ先が、たまたまこの爆音ギターだったってことか)
ポケットの中で拳を握りしめ、拾い上げたノートの重みを感じる。
「……たく。可愛いねぇ、どこがだよ……」
小声の呟きは、雪乃が再び鳴らしたジャガーの強烈なハウリング音にかき消されて、放課後の部室の中に消えていった。
放課後の熱気がわずかに残る自室、あるいは机に向かった八幡が、人生で初めてガチガチとペンを走らせたそのノート。
もちろん、詩的な表現やおしゃれなメタファーなど一つもない。ただ、日頃から胸に溜め込んでいる澱のような不満が、そのまま剥き出しの言葉になって並んでいた。
誰も分かってくれないなんてのは、高尚な芸術家のセリフか、あるいは甘ったれた厨房の戯言だ。だがな、言わせてもらうなら……「誰も分かってくれないのは俺のセリフだ」ってんだ。
世の中、正論を吐く奴ほど目が死んでやがる。綺麗事を並べる奴の裏側ほど臭う。
腐った人間が多すぎる。隔離病棟かよここは。
……で、いつの間にか俺も、その空気に染まって同じように腐りそうだぜ。
翌日。奉仕部室のテーブルにドンと叩きつけられたそのノートを、雪乃は無言でめくっていた。
ページが進むにつれて、彼女の指先がピタリと止まる。端正な眉がゆっくりと寄せられ、驚愕と、それ以上の深い何かを見据えるように、瞳孔がわずかに揺れた。
やがて、数分間の完全な沈黙の後。
顔を上げた雪乃の表情は、絶句という言葉がそのまま形になったかのようだった。
「……想像以上ね」
「んだよ。やっぱり低俗な便所の落書きだったか。すまんな、明日から真面目に『愛と勇気』でも勉強し直して……」
「これ、借りていい?」
遮るように雪乃が言った。真剣な、妙に熱を帯びた眼差しが八幡を射抜く。
「ん? 別にいいけどよ……つーか、元々お前のノートだろ。なんで一回俺を経由してレンタル品みたいになってんだよ」
「バカね。貴方、このノートの価値がわかってないわね」
雪乃はノートを愛おしむように(あるいは、恐ろしいものを見るかのように)そっと両手で包み込み、フッと息を吐いた。
「その業界なら、3桁は確実に出すわよ」
「……は? 3桁? 小遣いじゃなくて?」
「桁違いよ。ミリオンとは言わないまでも、地下シーンのアンダーグラウンドなら、この剥き出しの絶望と自虐のバランスに狂う人間がゴロゴロいるわ。インディーズレーベルのプロデューサーに突きつけたら、目を血走らせて契約書を持って走ってくる代物よ」
「おいおい勘弁してくれ。俺の黒歴史が不特定多数の耳に届いたら、恥ずかしさでリアルに人体が爆発するんだが。しかも3桁って……単位は円だよな? え、万?」
「ただの便所の落書きだが、」と、八幡が冷や汗を拭いながら言い訳しようとした瞬間、
「――せめて『トイレ』と言いなさい」
すかさず雪乃が、いつもの冷徹なトーンでビシッと訂正を入れる。
「今更だろ。便所だろうがトイレだろうが、中身の品なさは変わんねぇよ」
「……」
その言葉に、雪乃はまたしても言葉を失ったように口を真一文字に結び、ふっと視線を窓の外の夕暮れへと逸らした。
耳元で、かすかにシルバーのピアスが揺れてチリと鳴る。
それ以上何も言わず、ただ大事そうにノートを自分のカバンにしまい込む雪乃の横顔を、八幡はなんとなく気まずい思いで見つめるのだった。
放課後の部室。壁際に立てかけられたアンプの電源が入れられ、ジジジ……と微かな電流のノイズが空間を満たす。
「……少し、借りるわよ」
雪乃は手元に開いたノート――昨日、八幡が不満を書き連ねたページに目を落とした。
その剥き出しの呪詛と自虐の羅列。一般人から見ればただのひねくれた愚痴でしかない文字の群れを、彼女は冷徹なアナリストのように、しかしどこか慈しむような眼差しで凝視し、脳内でコードとリズムへと変換していく。
削ぎ落とし、組み立て直す。
不要な修辞を排除し、八幡の底意地の悪さと、その奥底にあるどうしようもない痛みをそのまま音の塊に翻訳する作業。
「――よし」
雪乃がストラップを肩に掛け、ピックを構える。
その瞬間、部室の空気が一段と引き締まった。耳元でじゃらりと揺れる無数のシルバーピアスが、彼女の冷たい美しさをいやが上にも引き立てる。
ジャァァァン…………ッ!!
最初のコードが鳴り響いた瞬間、八幡の全身の産毛が逆立った。
昨日の重低音とは違う。もっと鋭く、胸の奥の急所を直接えぐり取るような、圧倒的な音の刃。
八幡の書いたあの稚拙でひねくれた言葉の数々が、雪乃のギターを通じた途端、残酷なほど鮮烈なメッセージへと姿を変えていた。
(……なんだ、これ……)
身体が震える。
頭では「ただの俺の悪口ノートだろ」とツッコミを入れたいのに、鼓膜を突き破って脳髄まで直撃するその音の波は、理性を完全に麻痺させていた。
これが音楽。
これが――ロックか。
アンプの前に立つ雪乃の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
普段の隙のない優等生の仮面などどこにもない。音楽に身を委ね、狂おしいほどの熱量をその小さな身体に宿し、狂気的なまでの集中力でギターをかき鳴らす彼女。
その姿は、周囲を寄せ付けないほどに冷たく、そして息を呑むほどに――美しかった。
余計な思考はすべて消え去る。
圧倒的な音の濁流の中、八幡はただ、音が完全に途切れて静寂が戻るその瞬間まで、一歩も動けずに彼女を見つめ続けていた。