千年の旅路、エデンの石板 〜フリーレンと失われた世界〜 作:龍改二
第1話 石板の神殿
北部高原の外れに点在する、名もなき古代遺跡の一つ。
苔むした石畳と、風化して輪郭の曖昧になったレリーフが続く薄暗い回廊の奥底に、場違いなほど間の抜けた悲鳴が木霊していた。
「暗いよー! 怖いよー!」
湿った空気を震わせるくぐもった声の主は、千年以上の時を生きるエルフの魔法使い、フリーレンである。もっとも、現在の彼女に大魔法使いとしての威厳は微塵もない。古びた豪奢な宝箱――その正体であるミミックの巨大な顎に上半身を丸ごと呑み込まれ、小さな尻と細い脚だけを外に出して、ジタバタと不格好に暴れ回っているのだから。
ガチャガチャと金具が鳴る音と、粘液の絡む不快な咀嚼音が狭い部屋に響く。
「フリーレン様。私、何度も言いましたよね。魔力探知の反応に僅かな揺らぎがあるから、それはミミックの可能性が極めて高いって」
少し離れた場所で木製の杖を携え、紫色の髪を揺らしながら冷ややかに言い放ったのは、弟子のフェルンだった。その瞳には、呆れを通り越した虚無すら浮かんでいる。『99パーセントの精度を誇るミミック判別魔法』が、目の前の無様なエルフの『残りの1パーセントに賭けたい探求心』という悪癖の前では何の役にも立たないことを、彼女はこれまでの旅で嫌というほど思い知らされていた。
「おいおい、またかよ……。なあフェルン、ガッツリ噛み砕かれる前に、早く引っこ抜いてあげたほうがよくないか?」
赤髪の戦士シュタルクが、背負った大斧の柄に手をかけながら、困り果てたように眉を下げる。防御魔法で顎が閉まらないようにしているのだろうが、本来ミミックの顎の力は、冒険者の背骨を容易くへし折るほどに強靭だ。
「シュタルク様、放っておいてください。私の忠告を無視して勝手に突っ込んだのはフリーレン様です。自業自得というものです」
「いや、そうは言ってもさあ……」
「早く助けてよシュタルク! 服がヨダレでベタベタになるー! 引っ張って、早くー!」
箱の隙間から必死に訴えかける声に押され、シュタルクは「ったく、しょうがねえなあ」と苦笑しながら歩み寄った。フリーレンの細い足首を両手でしっかりと掴み、石畳に足を踏ん張る。
「いくぜ、せーのっ……!」
戦士の剛腕が唸りを上げ、ミミックの拘束を力任せに引き剥がす。ズポッ、という間の抜けた音とともに、フリーレンの小柄な身体が勢いよく床へと転がり出た。同時に、獲物を奪われたミミックが牙を鳴らして跳びかかろうとするが、それよりも早くフェルンの杖が閃き、放たれた一般攻撃魔法『ゾルトラーク』が怪物を正確に撃ち抜いた。ミミックは断末魔すら上げられず、黒い霧となって霧散していく。
「ふぅ……危なかった。ありがとうシュタルク。あと、フェルンはもうちょっと師匠を労わるべきだと思うな」
「誰のせいで魔力を消費したと思っているのですか。まったく……これから街に戻るまで、私の後ろを三メートル離れて歩いてくださいね。臭いが移りますので」
ぷいっと顔を背けるフェルンをよそに、フリーレンは「ひどいなぁ」と呟きながら、粘液で濡れたローブの裾をぱっぱと払って立ち上がった。だが、その翡翠色の瞳は、少しも反省の色を浮かべてはいなかった。それどころか、握りしめた右手を自分の胸元へと掲げ、得意げに口角を上げてみせたのである。
その小さな掌の中には、奇妙な文様が刻まれた、手のひらサイズの黄色い『石板の欠片』が握られていた。
「フリーレン様、それなんですか? ただの石ころには見えませんが。……なんだか妙な魔力を感じますね」
フェルンが訝しげに目を細める。フリーレンの手にあるそれは、歴史に埋もれた遺物というにはあまりにも精巧で、かといって現代の魔導具とも異なる、ひどく異質な気配を放っていた。
「ミミックの胃袋の底にあったんだよ。消化されずに残ってたみたいだね」
フリーレンは石板の欠片を光に透かすようにして掲げ、鼻を高くした。
「ほらね、何かすごいものがありそうって言ったでしょ。私の勘は当たるんだよ。むふー」
「……だからと言って、私の忠告を無視して無警戒に頭から食べられたことは許しませんからね。あとその服のお洗濯はご自分でしてください」
「ええ、ゼーリエにもらった『服の汚れをきれいさっぱり落とす魔法』で綺麗にしてよ」
「嫌です。ベタベタして汚すぎるので」
「ケチ……」
そんな師弟の日常茶飯事とも言えるやり取りの背後で、部屋のさらに奥へと足を踏み入れていたシュタルクが、「なあ、ちょっと来てくれよ!」と声を上げた。
「なんか、すげえ変なもんがあるぞ」
二人がシュタルクの元へと歩み寄ると、そこには崩れかけたドーム状の祭壇が広がっていた。天井の亀裂からは僅かな陽光が差し込み、埃の舞う空気を白く照らし出している。
その中央に鎮座していたのは、幾つもの石の台座だった。そのうちの一つには、すでに数枚の石板がパズルのように組み合わされて嵌め込まれていたが、ちょうど右上の一角だけが、不自然にぽっかりと欠け落ちていたのだ。
フリーレンは祭壇の前に歩み寄ると、すっと目を細めて魔力の流れを読み取った。先ほどまでの緩みきった表情は消え失せ、千年の時を生きる魔法使いの鋭い眼差しがそこにある。
「……かなり古い魔力だね。しかも、人間や魔族が構築した術式じゃない。これは女神様の石碑と同じ、神話時代のものだ」
「神話時代の魔法、ですか?」
フェルンもまた、台座から漂う底知れない魔力の波動に気付き、警戒するように杖を握り直した。解析することすら拒絶するような、圧倒的で不可解な魔法の法則がそこには渦巻いている。
「これは……。フリーレン様が拾ったその欠片と、形がピッタリ合いそうですね」
「うん。間違いなく、ここの一部だよ」
「おいおい、ちょっと待てって」
シュタルクが慌てたように二人の間に割り込み、台座とフリーレンの手元を交互に指差した。
「大丈夫なのかよそれ? こういうのって、嵌め込んだ瞬間に遺跡が崩れるとか、変な呪いが発動するとか、そういうお決まりの罠じゃないのか?」
「そんなの、やってみないと分からないよ」
「いや、分かってからやってくれよ!?」
シュタルクの悲痛なツッコミなどどこ吹く風で、フリーレンは躊躇なく台座へと歩み寄り、手にしていた石板の欠片をその窪みへと押し込んだ。
ガコッ、と重々しくも澄んだ音が、静まり返った遺跡の奥底に響き渡る。
直後、石板の表面に刻まれていた古代の文様が、眩いばかりの蒼白い光を放ち始めた。
「っ、フリーレン様!?」
「うわあぁっ!? ほら言わんこっちゃない!!」
フェルンが咄嗟に防御魔法を展開しようと杖を構え、シュタルクが二人を庇うように一歩前へと踏み出す。しかし、台座から溢れ出した光は攻撃の類ではなかった。空間そのものを根底から書き換えるような、抗いようのない巨大な魔力の奔流が三人を呑み込み、周囲の景色が水面に落ちたインクのようにぐにゃりと歪んでいく。
重力の感覚が消失し、上下左右の概念すら溶け落ちていくような強烈な浮遊感。
視界が純白の光に塗り潰され――そして、唐突に闇が訪れた。
* * *
どれほどの時間が経ったのか。あるいは、ほんの一瞬の出来事だったのか。
ざわめく木々の葉音と、湿った土の匂いに、フリーレンはゆっくりと瞼を開けた。
「……ん。ここは……」
冷たい夜風が頬を撫でる。見上げれば、頭上には鬱蒼とした広葉樹の枝葉が広がり、その隙間からは不気味なほどに赤黒い靄のかかった夜空が覗いていた。先ほどまでいた石造りの遺跡の面影はどこにもない。三人は、見知らぬ深い森の獣道に立っていた。
「これは、一体……? 先ほどまで、私たちは確かに遺跡の奥にいたはずですが」
フェルンが周囲の魔力を探知しながら、鋭い声で呟く。シュタルクも大斧を構え、暗がりの森を警戒するように見回していた。
「女神様の魔法なら空間転移も不可能じゃないとは思うけど……それにしても、魔力の残滓が異常だ。空間を移動したというより、世界の位相そのものがズレたような感覚だね」
フリーレンは赤褐色の杖を手に立ち上がると、木々の切れ間から見下ろせる高台へと歩み寄った。
彼女の視線の先、深い森を抜けた盆地の中央に、小さな集落のシルエットが浮かび上がっていた。だが、その周囲の風景は異様だった。村を取り囲む大地は不自然に抉れ、まるで巨大な爪で引き裂かれたかのように荒れ果てている。空気中に漂う魔力は宵闇のように濃密で、肌を刺すような重苦しい瘴気が森全体に淀んでいた。
フリーレンはしばらくの間、その荒涼とした盆地と集落の配置を黙って見つめていた。やがて、千年の記憶の底から一つの景色を掘り起こしたように、ぽつりと呟いた。
「……ここ、昔来たことがあるな」
「え?」
「地形の輪郭と、あの山の稜線に見覚えがある。遠くに見えるあの集落、たぶん『ウッドルート』の村だよ」
フリーレンの言葉に、フェルンは眉をひそめて首を傾げた。
「ウッドルート、ですか? 北側諸国の周辺地図はひと通り頭に入れていますが、そんな名前の村は聞いたことがありません。記録にも残っていないはずですが……」
「無理もないよ。魔族に襲われて、跡形もなく滅ぼされたからね。何百年も前に」
淡々としたフリーレンの言葉に、冷たい夜風が吹き抜ける。
人間と魔族の生存競争が今よりも遥かに苛烈だった時代、地図から消え去った無数の集落の一つ。それがウッドルートという村の末路だったはずだ。
だが、フリーレンの隣に並んだシュタルクが、目を丸くして盆地の方を指差した。
「……え、ちょっと待てよ。どういうことだよフリーレン?」
シュタルクの声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「あの村、家に灯りが点いてるし、煙突から煙も上がってるぜ。どう見ても人が住んでるじゃねえか。……滅んでないぞ?」
シュタルクの言う通りだった。
夜闇に沈む村のあちこちには、松明や蝋燭の暖かな火が灯り、遠くからは微かに生活の気配すら伝わってくる。数百年前に滅亡したはずの廃墟ではなく、そこには確かに、今を生きる人々の営みがあった。
フリーレンは翡翠色の瞳を細め、村の灯りと、背後に聳える不気味な山影、そして空気中に満ちる神話時代の魔力の残り香を静かに照らし合わせた。
あり得ない現象。しかし、あの石板が『女神様の魔法』に連なるものであるならば。
「……そうみたいだね」
フリーレンは白い髪を夜風に揺らしながら、静かに、しかし確信を持った声で言った。
「どうやら私たちは、魔族に滅ぼされる前のウッドルートに飛ばされたみたいだ」
「……はい?」
フェルンが思わずといった様子で声を漏らし、シュタルクは顎が外れんばかりに口を開けて固まった。
「ま、待てって! 滅ぶ前って……じゃあここ、何百年も前の『過去の世界』ってことかよ!?」
シュタルクの叫びが、暗い森の木々に吸い込まれていく。
歴史の闇に葬られたはずの村と、そこへ迷い込んだ未来からの旅人たち。赤黒く淀んだ空の下で、止まっていたはずの時間の歯車が、静かに軋みを上げて回り始めていた。