千年の旅路、エデンの石板 〜フリーレンと失われた世界〜 作:龍改二
赤黒く淀んだ夜空の下、三人は盆地の集落を目指して暗い森の獣道を下っていた。
空気中に満ちる魔力は重く、歩を進めるたびに枯れ枝がパキりと乾いた音を立てる。数百年前に滅亡したはずの過去の世界。その事実をまだ完全には消化しきれないまま、シュタルクとフェルンは周囲の気配に神経を尖らせていた。
森が開けた小さな空き地に差し掛かった時、先頭を歩いていたフリーレンがふと足を止めた。
道端に、手入れされた石の墓標がぽつんと建っていた。周囲の地面は荒れ果てているというのに、その墓前だけが綺麗に掃き清められており、小さな白い野花が供えられている。そして、その前に一人の女性が膝をつき、静かに祈りを捧げていた。
夜目にも鮮やかな、くせっ毛のある長い金髪。旅装束の上から革の胸当てを纏い、腰には使い込まれた長剣を佩いている。こんな夜更けの、しかも瘴気の濃い森の中に一人でいるには不自然なほど、彼女の佇まいは静謐だった。
やがて女性はゆっくりと立ち上がり、振り向いた。その瞳には、深い湖の底のような憂いが湛えられている。
「……こんばんは、旅のお方々。私はマチルダ。あなた方と同じ、旅の戦士です」
凛とした、それでいてどこか儚げな声だった。マチルダはフリーレンたちの姿を認めると、微かに微笑んで墓標へと視線を落とした。
「あなたがたも、この墓前に祈りを捧げていってはくれませんか?」
「それはもちろんいいけどさ……これ、誰のお墓なんだ?」
シュタルクが尋ねると、マチルダは愛おしむように墓石の頭を撫でた。
「この先にある村『ウッドパルナ』の英雄、パルナの墓です。かつて恐ろしい魔物の群れが村を襲ったとき、たった一人で立ち向かい、村を守り抜いた勇敢な戦士の……村の誇りの象徴です」
「ウッドパルナ?」
それまで黙ってマチルダを観察していたフリーレンが、小さく首を傾げた。
「村の名前はたしか、ウッドルートだったはずだけど」
「……よくご存知ですね。それは以前の村名です。今の村の名は、ウッドパルナと言います」
マチルダは夜風に金髪を揺らしながら、遠い過去を語り聞かせるように言葉を継いだ。
「二十年ほど前のことです。凶暴な魔物がこの地を襲った際、パルナは村の男たちと『共に戦う』と約束を交わし、先陣を切って魔物の根城へと向かいました。必ず後から駆けつけるという、仲間たちの言葉を信じて」
彼女の声から、少しずつ温度が失われていく。
「けれど……村の男たちは誰一人として現れませんでした。恐怖に足がすくみ、約束を反故にして村に閉じこもったのです。孤立無援のまま戦い続けたパルナは、魔物の長と相討ちになり、命を落としました」
「そんな……」
フェルンが思わず息を呑み、胸元で杖を握りしめた。
「残された村人たちは、自分たちの臆病さと裏切りを恥じました。そしてせめてもの贖罪として、彼の名前を永遠に忘れないために、村の名を『ウッドパルナ』と改めたのです」
「なんてひどいお話ですか……。名前を残したところで、見殺しにされたその方は戻ってこないというのに」
フェルンの言葉には、隠しきれない憤りと哀しみが滲んでいた。
その隣で、シュタルクは唇を噛みしめ、俯いていた。脳裏に蘇っていたのは、かつて魔族の襲撃を受けた故郷の村から、兄のシュトルツを置いてたった一人で逃げ出した日の記憶だ。恐怖に支配され、大切な人を置いてけぼりにした後ろめたさ。村の男たちの犯した罪は、シュタルクにとって決して他人事ではなかった。
一方、フリーレンは感情を揺らすことなく、じっとマチルダの顔を覗き込んでいた。ただの人間ではない何か、あるいは時間の流れから外れた歪な気配を、その翡翠の瞳が見定めようとしている。
「ねえ、マチルダ。……私たち、どこかで会ったことある?」
不意の問いかけに、マチルダの肩が僅かに揺れた。しかし彼女はすぐに穏やかな笑みを浮かべ、ゆるく首を横に振った。
「さあ……人違いでしょう。私は、ただの旅の戦士ですから。さあ、こんな場所に長居をして、魔物が出るといけません。村まで案内しましょう」
マチルダは踵を返し、森の奥へと続く道を歩き出した。フリーレンは一瞬だけその背中に視線を留めたが、やがて何も言わずにその後ろへと続いた。
* * *
森を抜けてウッドパルナの村へと足を踏み入れた一行は、すぐにその異常な光景に足を止めた。
「おい、なんだよこれ……!」
シュタルクが呆然と呟く。
村のあちこちで、男たちが鍬やツルハシを振るい、自分たちが丹精込めて育てたはずの畑をメチャクチャに掘り返していた。別の場所では、数人がかりで木造の家屋の柱に縄をかけ、掛け声とともに引き倒している。しかし、彼らの表情には生気がなく、まるで魂を抜かれた人形のように黙々と自らの生活基盤を破壊し続けていた。
森の上から見えていた松明の灯り。それは生活の灯火などではなく、夜間に行われていた『破壊作業』のための明かりだったのだ。
そして奇妙なことに、村の中には女性や子供の姿が一人も見当たらない。
「マチルダ様、これは一体どういう……」
フェルンが振り返ったとき、背後には誰もいなかった。つい今しがたまですぐ隣を歩いていたはずの女戦士の姿は、最初から存在しなかったかのように掻き消えていた。
「どこいったんだ……? 全然気付かなかったぞ」
「とにかく、村の人に話を聞いてみよう」
フリーレンに促され、シュタルクは近くで荷車を叩き壊していた中年の男に声をかけた。
「お、おい、あんたたち何をやってるんだ? 自分の家を壊すなんておかしいだろ!」
「……余所者には関係のないことだ。邪魔をするなら出ていってくれ」
男は充血した目を向けるだけで、すぐにまた斧を振り下ろし始めた。他の村人たちも同様で、話しかけても素っ気ない態度で背を向けるばかり。ようやく一人の老人から村長の家の場所だけを聞き出した三人は、村の中央にある比較的大きな屋敷へと向かった。
村長の家の中も、重苦しい沈黙に包まれていた。白髪頭の村長は、テーブルに突っ伏すようにして頭を抱えていたが、フリーレンたちの問いかけに対し、絞り出すような声で事情を語り始めた。
「……数日前、強力な魔族が魔物を引き連れ、村を襲ったのです。奴らは圧倒的な力を見せつけ、村の女たちを全員……妻も、娘も、すべて攫っていきました」
「魔族が、人質を……?」
「ええ。そして奴らはこう命じたのです。『女たちを返してほしければ、お前たちの手で村を完全に破壊しろ。耕した畑を潰し、家を全て壊せば、命だけは助けてやる』と……」
村長は震える手で顔を覆った。
「逆らえば、その場で女たちを殺すと脅されました。私たちには……従う以外の道などなかったのです……」
重い沈黙が部屋に落ちる。
だが、その空気を切り裂いたのは、シュタルクの怒気を含んだ声だった。
「ふざけるなよ……! 大切な人たちが攫われたんだろ!? だったら、武器を取って取り戻しに行くべきだろうが!」
「シュタルク様の言う通りです」
フェルンもまた、冷ややかな、しかし強い怒りを秘めた声で村長を見据えた。
「相手は言葉を話すだけの猛獣です。魔族の言うことにただ従って、約束が守られる保証などどこにあるのですか? 村を壊し終えたところで、あなた方もろとも皆殺しにされるだけです」
「だ、黙れ! 余所者のお前たちに何が分かる!!」
村長の後ろに控えていた若い男が、悲鳴のような声を上げた。
「俺たちだって悔しいさ! でもな、俺たちはただの農夫なんだ! あんな化け物みたいな魔族に、どうやって勝てっていうんだ!」
「それは……」
「もういいよ、二人とも」
今にも掴みかかりそうな勢いのシュタルクと、正論で追い詰めるフェルンの間に、フリーレンの淡々とした声が割って入った。エルフはいつものように無表情のまま、杖を軽く床に突いた。
「誰もが厳しい鍛錬を積んだ冒険者じゃない。恐怖で動けなくなるのは、人間なら当たり前のことだよ。……魔族は私たちが倒せばいい。それで済む話でしょ」
「……フリーレン様がそう仰るなら」
フェルンは不満げに唇を尖らせながらも、一歩後ろへと下がり言葉を飲み込んだ。魔族の習性を熟知している彼女たちにとって、素人の村人を戦いに巻き込むよりも、自分たちだけで処理した方が遥かに合理的であることは事実だったからだ。
しかし、シュタルクだけは拳を握りしめたまま、その場を動こうとしなかった。
「……いや、よくねえよ」
「シュタルク様?」
「魔族を倒すのは俺たちでいい。でも、このまま『俺たちだけ』で勝手に解決しちまったら、この村の人たちは一生、自分を責め続けることになる!」
シュタルクは村長たちの前に進み出ると、窓の外、破壊されていく村の景色を指差した。
「あんたたち、この村の名前を『ウッドパルナ』に変えたんだろ!? 二十年前、たった一人で魔物に立ち向かった英雄のパルナを忘れないために、二度と大切なものを見捨てないって誓ったから、その名前を刻んだんじゃないのかよ!?」
村長と男たちの顔が、苦悶に歪む。最も触れられたくない古傷を抉られ、彼らは視線を逸らした。
「シュタルク様、どうしてそこまでムキになるのですか……」
戸惑うフェルンに、シュタルクは振り返ることなく、静かに、しかし熱を帯びた声で答えた。
「……俺も昔、怖くて逃げ出したことがあるからだ。でも、リーゲル峡谷の村で俺に……あのデカい紅鏡竜に立ち向かう勇気をくれたのは、フェルン、フリーレン、お前らなんだ」
シュタルクの赤い瞳が、目の前の怯える男たちを真っ直ぐに射抜く。かつて自分が誰かに背中を押されたように、今度は自分が誰かの杖になる番なのだと、不器用な戦士は魂を振り絞っていた。
「手が震えるのも、足がすくむのも分かる。俺だっていつも怖いさ! だからこそ、今度は俺がこの村の人たちに、逃げずに立ち向かう勇気を教える番なんだ!」
「き、綺麗事を言うな……!」
村長が震える声で反論する。
「パルナの時だって、結局は相討ち……勝てなかったじゃないか! 下手に逆らって、今度こそ人質の女たちの身に何かあったらどうするんだ! お前が責任を取れるとでも言うのか!?」
言い訳を重ね、自らの臆病さを正当化しようとする男たち。その姿に、シュタルクは腹の底から咆哮を上げた。
「戦わねえと、勝てるわけねえだろ!!」
ビリビリと部屋の空気を震わせる大音声だった。
シュタルクの全身から放たれた、本物の戦士の気迫。死線を潜り抜けてきた者だけが持つその言葉の重みに、村長たちは息を呑んで圧倒された。
「何もしないで全部奪われるのを待つのかよ! あんたたちの家族を守れるのは、あんたたちしかいないんだぞ!!」
荒い息を吐くシュタルクの前に、長い沈黙が流れた。
やがて、若い男の一人が、壊すために握っていたツルハシを床に落とし、震える手で自分の顔を覆った。
「……ちくしょう。あんたの言う通りだ……俺たちは、また同じ過ちを繰り返している……」
ぽつり、と零れたその言葉を皮切りに、村長もまた深く項垂れた。彼らの瞳に、消えかけていた人間としての尊厳と、かすかな闘志の火が灯り始めていた。しかし、長年にわたって染み付いた恐怖と無力感は、最後の一歩を踏み出すことを躊躇わせる。
「……旅のお方。情けない話ですが、私たちだけでは、どうしても最後の勇気が足りません」
村長は顔を上げ、すがるような目でシュタルクたちを見た。
「魔族どもの根城は、ここから東にある古い塔です。もし……もしあなた方が先陣を切って塔へ乗り込んでくださるのなら、私たちはすぐに村中の男たちを集め、武器を持って必ず後から追いかけます。今度こそ、決して逃げたりはしないと誓います……!」
『必ず後から駆けつける』
それは奇しくも二十年前、彼らが英雄パルナに対して交わし、そして破った約束と全く同じ言葉だった。
「……フリーレン様」
フェルンが警戒するように声を潜め、師匠の横顔を見つめた。
「信じるのですか? ……この村の人たちは二十年前にも同じ約束をして、英雄を見殺しにしています。また恐怖に負けて裏切られる可能性が高いのでは……」
合理的に考えれば、フェルンの懸念はもっともだった。一度裏切った人間は、二度目も裏切る。それが厳しい現実の常だ。
しかし、フリーレンの表情はどこまでも穏やかだった。彼女は村長たちの目を真っ直ぐに見つめ、迷いなく頷いた。
「信じるよ。私たちは先に敵の根城へ行く。……後からちゃんと来てね」
「フリーレン様……!」
「いいんだよ、フェルン。……勇者ヒンメルなら、そうしたからね」
ぽつりと呟かれたその言葉とともに、フリーレンの脳裏には、遠い昔の記憶が鮮やかな色彩を持って蘇っていた。
◇ ◇ ◇
――かつて、同じようなことがあった。
魔王討伐の長い旅の道中、立ち寄ったある村での出来事だ。魔物の討伐依頼を受けたヒンメルたちは、村人たちと協力して挟み撃ちにする作戦を立てたが、いざ戦闘が始まると村人たちは恐怖に駆られて逃亡し、それどころか自分たちが助かるためにヒンメルたちを囮にして見捨てたのである。
幸いにもヒンメルたちの実力で魔物は討伐できたものの、フリーレンやハイターは村人たちの不誠実さに呆れ果てていた。
しかし、魔王を倒した後の帰り道、再びその村の近くを通りかかった時のことだ。別の魔物に襲われて助けを求めるその村の人間たちを前にして、ヒンメルは過去の裏切りなど最初から無かったかのように、彼らの言葉を信じ、再び手を差し伸べようとしたのだ。
『ちょっとヒンメル、お人好しにも程があるよ。あの人たち、前にも約束を破って私たちを見捨てたのに。また裏切られるかもしれないよ』
冷めた声で忠告するフリーレンを振り返り、青い髪の勇者は、突き抜けるような青空の下で、いつもの穏やかな顔で笑って答えたのだ。
『いいじゃないか。人を信じて、人を助けるのが、僕の信じる理想の勇者だ』
ヒンメルは剣の柄に手を添え、愚かな人間たちの住む村を、それでも愛おしそうに見つめながら言った。
『裏切られたことよりも、信じられなかったことのほうが、きっと後悔する。僕はね、フリーレン。いつだって勇者でありたいんだ』
◇ ◇ ◇
――あの時のヒンメルの声が、今も耳の奥で優しく響いている。
彼が愛し、信じ抜こうとした人間の弱さと、その奥にあるほんの僅かな善良さ。それを確かめることもまた、今のフリーレンの旅の目的の一つだった。
「……まったく、お人好しなのですから。……仕方ありませんね」
師匠の瞳に宿る揺るぎない光を見て取ったフェルンは、小さくため息をついて肩をすくめた。シュタルクは「よし!」と力強く拳を握りしめ、村長たちに向かって親指を立ててみせた。
「聞いたか! 俺たちが先に道を切り開く! 絶対に後から来いよ、約束だからな!」
「はい……! 必ず、必ず参ります!」
力強く頷く村長たちの姿を背に、三人は屋敷を後にした。
村を抜けると、東の空に聳え立つ禍々しい古塔のシルエットが、赤黒い雲を突き刺すようにして浮かび上がっていた。そこからは、肌を粟立たせるような濃密な魔族の魔力が、脈動するように放たれている。
「行くよ、二人とも。……村を襲った魔族がいる、【東の塔】へ」