千年の旅路、エデンの石板 〜フリーレンと失われた世界〜 作:龍改二
第8話 動物たちの町
蒼白い光の奔流がすっと引き、視界を覆っていた眩しさが消え去ると、三人の頬を撫でたのは、ひんやりと湿った草原の風だった。
「……涼しい。今度は溶岩も熱湯もなさそうだね」
フリーレンが目を瞬かせながら周囲を見回す。
頭上には、今にも雨が降り出しそうな鉛色の重苦しい雲が立ち込めていた。大気中に澱む濃密な魔力の気配が、ここが再び数百年前の過去の世界であることを無言のうちに告げている。
一行の背後にはゴツゴツとした険しい岩山が連なり、眼下に広がる薄暗い平原の先には、石垣に囲まれた小さな町並みが見えていた。
三人が平原を抜けて町の入り口へと近づくと、道端に年季の入った木製の看板が立っているのが目に入った。シュタルクがそこに彫られた文字を読み上げる。
「『オルフィー』か。なあフリーレン、この町のことは知ってるか?」
「直接来たことはないけど、名前には聞き覚えがあるよ。何百年も前に、魔法を封じる特殊な鉱石――『封魔鉱』の産地として知られていた町の名前だ」
フリーレンは看板の奥に広がる町並みに視線を向け、記憶の糸を手繰るように言葉を継いだ。
「もっとも、私が聞いた話では、魔族に滅ぼされたというよりは、鉱脈の枯渇とともに住民がいなくなって、いつの間にか消滅した町だって言われていたけどね」
「ですが、あの石板に導かれてここへ来たということは……実際には、その歴史の裏に魔族が関与していた、ということなのでしょうか」
「かもしれないね。とにかく、町の中へ入って様子を見てみよう」
二人の会話に頷き、三人はオルフィーの町の門をくぐった。
しかし、一歩足を踏み入れた瞬間から、町全体を包む異様な空気感に三人は足を止めることになった。
「……おい、なんだこれ。町っていうより、牧場の中にでも迷い込んだみたいだぞ」
シュタルクが目を丸くして呟く。
そこそこ広い町並みであるにもかかわらず、大通りには人間の姿がほとんど見当たらないのだ。その代わりに、犬や猫、鶏、さらには豚や羊といった多種多様な動物たちが、飼い主もなしに我が物顔で通りを歩き回っていたのである。
しかも奇妙なことに、三人の姿を認めるやいなや、近くにいた黒い犬や三毛猫、果ては白い山羊までが、一斉にトコトコと駆け寄ってきたのだ。動物たちは三人の足元に群がると、服の裾を咥えて引っ張ったり、前脚で必死に地面を掻いたりしながら、「ワン!」「ニャーォ!」「メェェー!」と何事かを激しく訴えかけるように鳴き始めた。
「わっ、なんだよお前ら、急に懐っこいな!」
「ちょ、ちょっと、ローブを引っ張らないでください……! なんなのですか、この動物たちは」
困惑するシュタルクとフェルンの横で、フリーレンはしゃがみ込み、自分のブーツを前脚で必死に叩いている小犬の瞳をじっと覗き込んだ。ただの動物の行動にしては、その瞳の奥に宿る光が、あまりにも切実な意思を帯びているように見えたからだ。
「……何かを必死に伝えようとしているみたいだけど、さすがに何を言っているのか分からないね。あそこに人がいるから、話を聞いてみよう」
通りの角に、ぼんやりと突っ立っている農夫風の男を見つけた三人は、動物たちの群れをかき分けて男のもとへと歩み寄った。
「あの、すみません。私たちは旅の者なのですが、この町で何かあったのですか?」
フェルンが丁寧に声をかける。
しかし、男はフェルンの方をチラリと見ただけで、焦点の合わない虚ろな瞳をすぐに逸らし、無言のままプイッと横を向いてしまった。それどころか、突然地面に四つん這いになったかと思うと、鼻先を擦り付けるように地面に顔を近づけながら、ノソノソと路地裏へと這っていってしまったのである。
「……無視されてしまいました」
「四つん這いでどっか行っちゃったな。……なにか大事なものでも落としちゃったんじゃないか?」
その後も、町の中で見かけた数少ない町人たちに次々と声をかけてみたが、どれもまともな対応は得られなかった。ある者は完全にこちらを無視して日向で丸くなり、またある者は近づいただけで怯えたように木陰へ逃げ込んでしまう。誰一人として、言葉を返そうとすらしないのだ。
「……なんなんですか、あの方々は。旅人を警戒するにしても、いくらなんでも感じが悪いにも程がありますね」
立て続けに無視され、フェルンの声にじわりと怒気が滲む。シュタルクは慌てて両手を振り、なだめるように苦笑いを浮かべた。
「ま、まあまあ、そういう排他的な町だってあるって。怒らないでくれよ、フェルン……。また魔法をぶっ放されたらたまらねえし」
「撃ちませんよ。……ですが、本当に不愉快です」
「いや、待ってフェルン。……やっぱり、何かがおかしいよ」
フリーレンが足を止め、通りの奥にある小さな石造りの教会と、その隣にある農家の敷地を交互に指差した。
三人が教会の開け放たれた扉から中を覗き込むと、そこには神父の姿はなく、立派な祭壇の壇上に、一頭の大きな斑模様の牛がぽつんと佇んでいた。牛はステンドグラスから差し込む薄暗い光の中で、まるで祈りを捧げるかのように首を垂れ、「モォォ……」とひどく悲しげな声で静かに鳴いた。
さらに、教会の横にある農家に目をやると、本来なら家畜を入れておくはずの木柵の囲いの中に、なぜか人間の男女が数人、泥だらけの服のまま座り込んでいたのである。シュタルクが慌てて柵に駆け寄り、「おい、大丈夫か!? なんでそんなところに閉じ込められてるんだ!」と必死に呼びかけたが、中の人間たちは虚ろな目でシュタルクを見上げるだけで、やがて興味を失ったようにその場に寝転がり、地面の草をむしり始めた。
「……どうなってんだよ、この町は……。人間が家畜小屋に入って、動物が教会でお祈りしてるぞ……」
背筋に薄ら寒いものを感じながらシュタルクが呟く。
とりあえず町の責任者を探そうと、三人は町の一番奥にある、ひときわ大きな屋敷――おそらく町長の家であろう建物へと向かった。
しかし、屋敷の扉を開けても、やはり人間の姿はなかった。ただ、絨毯の敷かれた広い応接間の真ん中で、立派な白い毛並みをした一匹の老犬が、ヨタヨタと重たげな足取りで歩き回っているだけだった。老犬はフリーレンたちの姿を見ると、テーブルの脚に身体を預けるようにして座り込み、「クゥーン……」と助けを求めるように小さく鳴いた。
「ここにも人がいねえ……。なんだよこれ、まるっきり動物たちが暮らす町に迷い込んだ気分だぜ」
「はい……。人間の方がまるで獣のようで、動物たちの方がよほど人間らしい振る舞いをしています」
シュタルクとフェルンの言葉を聞いたフリーレンは、老犬の深く澄んだ瞳を見つめながら、「……動物の町、か」と小さく呟いた。そして、何かに思い至ったようにポンと手を打った。
「そうだね。なら、この動物たちから直接話を聞こうか」
「……え? フリーレン様、動物の言葉がわかるのですか?」
目を丸くするフェルンに、フリーレンは赤褐色の杖を軽く持ち上げ、少しだけ得意げに口角を上げた。
「どうかな。でも、今のこの町の状況なら、試してみる価値は十分にあると思うよ」
フリーレンは老犬の前に進み出ると、杖の先端に淡く柔らかな魔力を灯した。それは攻撃でも防御でもない、かつての旅の道中、とある田舎の酪農家から人助けの報酬として教えてもらった、極めて奇妙で実用性の薄い民間魔法だった。
「――『動物の言葉が分かるようになる気がする魔法』」
ふわり、と。魔力光の粒子が老犬とフリーレンたちの間を繋ぐように漂う。
本来であれば、動物の鳴き声の抑揚から「なんとなくお腹が空いている気がする」「怒っている気がする」程度の感情を曖昧に汲み取るだけの、フェルンに言わせれば『底抜けにくだらない魔法』の一つである。
だが、次の瞬間。老犬が「ワン、ウォン……」と低く吠えたその声が、フリーレンたちの脳内に、驚くほど明瞭な『人間の言葉』の意味となって直接響き渡ったのである。
『おお……! つ、通じておるのか!? わしの言葉が分かるのか、旅の魔法使い殿!』
「「犬が喋った!?」」
腰を抜かさんばかりに驚くシュタルクとフェルン。フリーレンだけは「やっぱりね」と静かに頷いた。
「この魔法は本来、動物の簡単な感情を汲み取るだけのものだ。それなのにこれほどはっきりと言葉として成立しているということは……君たちの中身は、動物じゃない。本来の町の人間だね?」
『そ、その通りじゃ……! わしはこのオルフィーの町長じゃよ……!』
老犬――町長は、涙ぐむような声でこれまでの経緯を語り始めた。
『この町にはな、大昔、町を襲った恐ろしい魔族を、伝説の白いオオカミの群れが撃退し、ここから西の岩山にある【魔封じの洞くつ】の奥深くへと封印したという言い伝えがあるのじゃ。以来、町は平和であったのじゃが……』
犬の町長は前脚で床を悔しげに掻いた。
『数日前の夜、突如としてその魔族が町に現れたのじゃ! 何者かが洞窟の封印を解いてしまったらしい。魔族は腹いせのように町中に不気味な光を放ち、わしら町の人間を動物に、町で飼っていた動物や家畜たちを人間に、姿形を入れ替えてしまったのじゃよ……!』
「だから、外にいた人たちはあんな獣みたいな動きをして、逆に動物たちが俺たちに助けを求めてたのか……!」
シュタルクがようやく合点がいったように拳を叩く。
フリーレンは顎に手を当て、老犬の身体に纏わりついている微弱で異質な魔力の残滓を観察した。
「なるほど、『呪い』だね」
「呪い、ですか?」
「うん。魔族が扱う、人類にはまだ原理が解明できない魔法のうち、人間の心や身体に直接的な悪影響を及ぼす魔法の総称だ。幻影魔法なんかとは違って、実際に肉体と魂の結びつきを捻じ曲げているから、解呪の術式も簡単には組めない。……一番手っ取り早いのは、術者であるその魔族を直接討伐して、呪いの魔力供給を根絶することだね」
『おお、頼む、旅のお方々! どうか、洞窟にいる魔族を倒し、わしらを元の人間の姿に戻してはくださらんか! このままでは町の暮らしが立ち行かなくなってしまう!』
必死に頭を下げる老犬の町長に、フリーレンたちは「分かった、引き受けるよ」と力強く頷いた。
* * *
町長の屋敷を出た三人は、教えられた西の洞窟へと向かうため、町の外れへと続く道を歩いていた。
その途中、大通りから少し外れた一軒の猟師小屋の前を通りかかったとき、シュタルクが「……ん? おい、あれ」と足を止めた。
小屋の脇にある頑丈な木の柵の中。そこに、一人の幼い黒髪の少年がうずくまっていたのである。
少年は上半身に服を着ておらず、粗末な腰布一枚に、ボロボロの紺色のマントを肩から羽織っているだけという異様な格好をしていた。しかも、その細い首には分厚い革の首輪が嵌められ、重い鉄の鎖で柵の柱へと繋がれていたのだ。
少年の身体のあちこちには深い擦り傷や切り傷があり、そこには誰かが手当てをしてやったらしい古い布が包帯代わりに巻かれていた。しかし、少年が抜け出そうと暴れたのか、布はズタズタに緩み、開いた傷口からは新しく赤い血が滲み出していた。
「っ、なんだよあれ! いくらなんでも子供を鎖に繋ぐなんて、ひどすぎるだろ!」
シュタルクが駆け寄ろうとすると、少年はハッと顔を上げ、鋭い金色の瞳でシュタルクを睨みつけた。「グルルルッ……!」と喉の奥から獣そのものの低い唸り声を上げ、小さな牙を剥き出しにして威嚇する。
フェルンがシュタルクの袖を掴み、冷静な声で引き止めた。
「待ってください、シュタルク様。この町の状況を考えれば、今『人間の姿』をしているということは、この子の本来の姿は『動物』のはずです。家の柵に繋がれているところを見ると、元は番犬か、あるいは家畜を狙って暴れた狼のような獣だったのかもしれません」
「……それは、そうかもしれねえけどよ」
シュタルクは唸り声を上げ続ける少年の姿を見つめた。首輪が食い込み、血の滲む腕を抱えて震えている小さな身体。どれほど凶暴な獣が中身であろうと、目の前で傷ついて縛られている子供の姿を見て、そのまま通り過ぎることなど彼にはできなかった。
「……だからと言って、見て見ぬふりはできねえよ、さすがにさ」
シュタルクは大斧を背負い直すと、両手を広げて「何もしねえよ、怖くないぞ」と優しく声をかけながら、ゆっくりと柵の中へと入った。
少年は警戒してシュタルクの手に噛みつこうとしたが、シュタルクは動じることなく、その小さな身体を大きな腕で不器用ながらも優しく抱き留めた。そして懐から清潔な予備の包帯を取り出すと、少年の傷口に巻かれていた汚れた古い布を外し、手際よく新しい包帯を巻き直してやった。
少年は最初こそ「ガルルッ!」と暴れていたものの、痛みが和らいだのが分かったのか、次第に大人しくなり、不思議そうに目を丸くしてシュタルクの顔を見上げた。
「よし、これでよし。……こんな首輪も、苦しいよな」
シュタルクが首輪の留め具に手をかけ、カチャリと鎖を外してやる。
拘束から解き放たれた瞬間、少年はパッと後ろへと跳び退いた。そして、シュタルクとフリーレンたちの顔を交互にじっと見つめたかと思うと、礼を言う代わりに「ワンッ!」と短く一度だけ吠え、四つん這いに近い驚異的な俊敏さで木の柵を飛び越え、一目散に町の門の外――西の岩山の方角へと走り去っていった。
「あ、おい! ……行っちまったか。まあ、元気そうでよかったぜ」
苦笑しながら立ち上がるシュタルクに、フェルンは「後で怒られても知りませんからね」と小さくため息をついた。
* * *
三人は町の門を抜け、少年が走り去ったのと同じ方角、西の岩山に口を開ける【魔封じの洞くつ】へと向かう山道を登り始めた。
洞窟が近づくにつれ、大気中の魔力の流れが奇妙に重く、鈍くなっていくのをフリーレンとフェルンは肌で感じ取っていた。
入り口を前にして、フリーレンは赤褐色の杖を握り直し、隣を歩く赤髪の戦士を見上げた。
「……頼りにしてるよ、シュタルク。さっきも言った通り、この山はかつて『封魔鉱』の産地だった場所だ。もしこの時代に鉱脈が残っているのなら、中では私もフェルンも、突然魔法が使えなくなる可能性がある」
魔法使いにとって、魔法が封じられる空間は文字通りの死地である。
フリーレンの真剣な眼差しを受け止め、シュタルクはニッと頼もしく口角を上げると、背中の大斧を力強く引き抜いた。
「おう、そういうことなら俺の出番だな。魔法が使えねえなら、俺がその魔族をぶっ飛ばしてやるさ。二人のことは俺が絶対に守るから、安心してついてこいよ!」
頼れる前衛の言葉に、フリーレンとフェルンは静かに頷いた。
こうして一行は、魔族の待つ薄暗い洞窟の闇へと足を踏み入れていった。