千年の旅路、エデンの石板 〜フリーレンと失われた世界〜 作:龍改二
魔封じの洞くつの内部は、外の鉛色の空よりもさらに重く、湿った闇に包まれていた。
入り口付近の岩肌にはまだ特殊な鉱石の気配はなく、フリーレンとフェルンが杖の先に灯した明かりの魔法が、問題なく足元の凹凸を照らし出している。
「……まだこのあたりなら、普通に魔法は使えるみたいだね」
「はい。ですが、奥から流れてくる空気に奇妙な澱みが混じっています。油断はできません」
二人の魔法使いが慎重に周囲を探知しながら進んでいくと、前方の暗い天井や岩壁の隙間から、ズルリ、ズルリと、粘着質な音が幾つも響いてきた。
明かりに照らし出されたのは、人間の胴回りほどもある、巨大なイモムシ型の魔物の群れだった。赤黒い斑模様が浮かぶブヨブヨとした緑色の体表には、鋭く硬質な紫色のトゲが無数に生え揃っており、口元からは強酸性の粘液を糸のように垂らしている。
「……っ、虫の魔物ですか。気色悪いですね」
フェルンが露骨に眉をひそめ、心底嫌そうな顔で半歩後ろへ下がった。
大斧を構えたシュタルクが「よし、俺が叩き潰すぜ!」と前へ踏み出そうとしたが、フリーレンがすっと杖を横に出してそれを制した。
「待ってシュタルク。ああいう鮮やかな色をした虫型の魔物は、毒を持っていることが多い。いま毒を受けたら後が面倒だし、私たちが遠距離から片付けるよ」
「私も、あんなものが近くで弾け飛ぶのは絶対にイヤです」
フェルンが即座に同意し、二人は並んで杖を構えた。
天井から降ってくる無数の巨大なイモムシたちが地面に着地するよりも早く、洞窟の闇を幾筋もの白紫の閃光が切り裂く。フリーレンとフェルンが放ったゾルトラークの正確な連射が、魔物の群れを次々と撃ち抜き、毒液を撒き散らす暇すら与えずに黒い霧へと還していく。わずか十数秒の掃討劇で、通路には再び静寂が戻った。
しかし、そこからさらに深く、地下へと続く急な坂道を下りきったあたりで、洞窟の様相は一変した。
周囲の岩壁のあちこちに、鈍い青紫色の結晶――『封魔鉱』の巨大な鉱脈が剥き出しになって露出していたのである。途端に、フリーレンとフェルンの杖先に灯っていた明かりの魔法が、風に吹かれた蝋燭のようにフッと掻き消えた。
「……消えた。ここからはもう、一切の魔法が使えないね」
フリーレンが試しに魔力を練ろうとするが、体外へ放出しようとした瞬間に、周囲の封魔鉱にすべての魔力が吸い込まれるように霧散してしまう。
鉱脈の煌めきによって青白く照らし出された最奥の広間。
その中央には、分厚く重々しい巨大な『石の棺』が据えられていた。本来ならば厳重に閉じられていたはずのその重い石蓋は、無造作に横へとずらされて床に転がっており、開け放たれた棺の縁に、異様な風貌をした魔族がふんぞり返るようにして腰掛けていた。
丸々と太った太鼓腹に、派手な縞模様の道化服。白塗りのような顔には、耳元まで裂けた不気味な笑みが張り付いており、頭には二本の角が生えている。
「……お前が、オルフィーの町に呪いをかけた魔族だね」
フリーレンが杖を下ろしたまま冷ややかに問いかけると、道化師の魔族はわざとらしく両手を広げ、芝居がかった丁寧な口調で応じた。
「おやおや、これは珍しいお客様だ。しかも、三人のうちお二人は魔法使いとお見受けしますねぇ。くっくっく、残念でした! この封魔鉱の洞窟では、どんな大魔法使いであろうと、ただのか弱いお嬢さんでしかありませんよ?」
魔族は愉快そうに喉を鳴らすと、懐から人の頭蓋骨よりも一回り小さい、不気味な『目玉の模様が浮かぶ球体』を五つほど取り出した。そして、まるで大道芸人のように、その球体を空中で鮮やかにジャグリングし始めたのである。
魔法は一切使っていない。にもかかわらず、その球体からは異様な質量と硬度が感じられた。
「魔法が使えなくても、俺がいるぜ! 覚悟しろ!!」
シュタルクが地を蹴り、大斧を振りかぶって真っ直ぐに突撃した。
「おっと、血気盛んですねぇ!」と魔族が笑いながら腕を振るう。ジャグリングの軌道から外れた一つの球体が、砲弾のごとき凄まじい速度で射出された。シュタルクは大斧の刃でそれを叩き斬ろうとしたが――ガキィンッ!! と激しい火花が散り、硬質な金属音とともに斧の方が大きく弾き返されたのだ。
「なっ、硬え……!?」
「ほらほら、よそ見をしていると後ろのお嬢さん方がペシャンコになりますよ!」
魔族が軽やかなステップでシュタルクの斬撃をいなしながら、残りの球体を後方のフリーレンとフェルンめがけて続けざまに投げつける。球体は岩壁や床を複雑に跳ね回り、予測不能な軌道で二人へと迫った。
「ッ、くそっ!!」
防御魔法すら使えない二人を守るため、シュタルクは強引に身体を捻って引き返し、飛来する球体を大斧の腹で次々と叩き落とした。一撃ごとに腕の骨が軋むような重さがある。しかも、魔族は自分が一切攻撃魔法を使えない環境であることを熟知しており、純粋な身体能力とトリッキーな投擲術だけで、二人の魔法使いを徹底的に狙い撃ちにしてきたのだ。
攻撃に出れば後ろの二人が狙われ、守りに徹すれば一方的に消耗させられる。完全に足手まといを抱えた状態のハンデ戦に、シュタルクの額には焦りの汗が滲み始めた。
「シュタルク様、私たちのことは構わないでください! フリーレン様、一旦入り口の通路まで距離を取りましょう! シュタルク様が自由に動けるようにしないと……!」
フェルンが叫び、フリーレンと共に来た道へと走り出そうとした、その瞬間だった。
「おっと、逃がすと思いますか? せっかくのショータイムなのですから、最後まで特等席でご覧なさい!」
道化師の魔族が鋭く腕を振り抜いた。放たれた二つの球体が、フェルンたちの頭上を通り越し、広間の入り口にある岩のアーチへと直撃する。
ドゴォォォンッ!! と凄まじい轟音が響き、脆くなっていた天井の岩盤が崩落して、脱出路である通路を完全に土砂で塞いでしまった。
「っ、退路が……!」
足を止めたフェルンの背中めがけて、間髪入れずに魔族が三つ目の球体を全力で投げ放った。死角からの必殺の一撃。回避は間に合わない。
「――させっかよおおおっ!!」
地鳴りのような咆哮とともに、シュタルクがフェルンの背後へと滑り込んだ。逃げ場を失った以上、弾くだけではまた跳ね返って二人を傷つけかねない。シュタルクは全身の筋肉を限界まで膨張させると、飛来する超高硬度の球体に対し、大斧の刃を真正面から振り下ろした。
盛大な金属音とともに火花が爆ぜ、気迫の乗った戦士の剛撃が、ついに魔族の球体を真っ二つに叩き割った。砕けた破片が床に転がる。
「ほほう! 私の自慢の『魔眼球』を力ずくで破壊するとは、たいした戦士ですねぇ! ですが、タネも仕掛けも……まだまだありますよぉ!」
道化師の魔族は少しも焦ることなく、すぐさま懐から新たな球体を取り出し、体勢の崩れたシュタルクとフェルンをまとめて貫くべく、大きく腕を振りかぶった。
その時だった。
崩落した岩の僅かな隙間から、黒い影が弾丸のような速さで飛び出してきたのである。
「ガルルルルッ!!」
獣のような唸り声。それは、先ほど町の外れでシュタルクが首輪を外し、包帯を巻き直してやった、あのボロボロのマントの黒髪の少年だった。
少年は驚異的な跳躍力で魔族の懐へと飛び込むと、投擲しようと振り上げていた魔族の太い腕に、小さな顎で思い切りガブリと噛みついた。
「いっ……たたたっ!? な、なんですこのガキは! まだ仲間がいましたか、離しなさいっ!!」
不意を突かれた魔族が悲鳴を上げ、少年の身体を乱暴に振り払った。吹き飛ばされた少年の小さな身体を、シュタルクが横から跳び込んでしっかりと抱き留める。
「お、お前、さっきの町の……! 俺たちを追いかけてきてくれたのか!?」
「ワンッ!」
少年はシュタルクの腕の中で短く吠えると、すぐに地面へと降り立ち、低く身構えて魔族を睨みつけた。
「まったく、汚らしいガキですねぇ、服に唾液がついたではないですか……さて、気を取り直して……」
魔族は忌々しげに噛まれた腕をさすりながら、再び複数の球体を空中に放り投げ、ジャグリングを再開しようとした。
――しかし。
ゴトリ、ゴロゴロ……。
いつもなら流れるように受け止められるはずの球体が、魔族の指先をすり抜け、呆気なく床へと転がり落ちた。
「……おや?」
魔族が間の抜けた声を漏らし、自分の右手を見つめる。少年に噛みつかれた傷口を中心に、魔族の太い腕がカタカタと小刻みに震え、まるで鉛が流し込まれたかのように感覚が麻痺し始めていたのだ。
「な、なんだこれは……身体が、痺れて動かない……!? 毒か? いや、違う、この忌々しい魔力は……『封印の力』……!?」
道化師の魔族の顔から、初めて余裕の笑みが消え失せた。彼は驚愕に目を見開き、低く唸り声を上げている黒髪の少年を指差した。
「き、貴様……なぜ人間のガキが、かつて私を封じたあの力を宿している!? ……まさかこのガキ、外見が入れ替わっているだけで、中身はあの忌々しい『白い狼ども』の生き残りかあああっ!?」
かつてこの魔族を打ち破り、洞窟へ封印したという伝説の白い狼の血統。その牙には、生まれつき魔族の動きを縛り、力を封じる特殊な霊力が宿っていたのだ。
その狼狽ぶりを見て、後方に立っていたフリーレンが、心底呆れたように冷たい声を投げかけた。
「自分で町中にかけた呪いのせいで、一番警戒しなきゃいけない天敵の姿が見抜けなくなるなんてね。……本当に間抜けな魔族だ。こっちを見なよ、無能野郎」
魔族にとって、自らの力や知略を貶められることは何よりの屈辱である。ましてや、今は何もできないはずの魔法使いに「無能」と罵られたのだ。
「な、なんだと……!? ふざけるな! この封魔鉱の洞窟で、無能はお前の方だろうが、魔法使いっ!!」
激昂した道化師の魔族が、挑発に乗ってカッと目を見開き、フリーレンの方を真っ直ぐに睨みつけた。
だが、その時すでにフリーレンは、足元の岩肌から剥がし取った『手のひらサイズの封魔鉱の結晶』を、その右手にしっかりと握りしめていた。
「――フェルン、シュタルク。今すぐ目を瞑って」
フリーレンの静かな声に、二人は反射的にギュッと瞼を閉じた。少年の狼も、野生の勘で危険を察知したのか、咄嗟に手で顔を覆う。
ただ一人、怒りに任せてフリーレンを凝視していた魔族の目の前で、フリーレンは自身の持つ膨大な魔力を、魔法として構成することなく、ただ純粋なエネルギーの塊として手の中の封魔鉱へと一気に流し込んだ。
直後、青紫色の結晶が、太陽を間近で見たかのような強烈な閃光を放った。
「ぬわあああああっ!? め、目が、目がああああっ!?」
暗闇に慣れていた魔族の視覚が、至近距離からの強烈なフラッシュによって完全に焼き切られる。
「封魔鉱にはね、強い魔力を直接込めると激しく発光する特性があるんだよ。……魔法が使えないからって、魔力まで無くなったわけじゃないからね」
フリーレンが淡々と言い放つと同時、過剰な魔力を籠められた鉱石は砕け散り、閃光も立ち消えた。
目眩ましを食らい、両手で顔を押さえながら「ぐああっ、見えん!」と棺の方へとよろめきながら後ずさる魔族。
「ガルルルッ!!」
その隙を逃さず、狼の少年が地面を蹴り、魔族の顔面めがけて飛びかかった。少年の体当たりをまともに受けた魔族はさらに大きくバランスを崩し、開け放たれた石の棺のすぐ縁まで追い詰められる。だが、あの巨体を棺の中へ押し込むには、少年の軽い体重だけではあと一歩の力が足りない。
「シュタルク様、棺の蓋を! ここは私たちが押し込みます!」
目を開けたフェルンが即座に状況を判断して叫び、フリーレンと共に魔族へ向かって全力で駆け出した。
魔法使いである二人の体重は決して重くはない。しかし、少年の牙による麻痺と強烈な目眩ましで平衡感覚を狂わされ、棺の縁に踵が引っかかっていた魔族にとっては、二人の少女が放った渾身の体当たりが決定打となった。
「う、うわあああっ!?」
道化師の魔族は情けない声とともに大きく仰け反り、裏返った蛙のように無様な格好で、深い石の棺の底へとドサリと転がり落ちた。
「よし、これで終わりだあああっ!!」
すでに棺の横に回り込んでいたシュタルクが、戦士の怪力で分厚く巨大な石の蓋を軽々と担ぎ上げ、棺の上へと被せようと振り上げた。
その、閉じられる直前のわずかな隙。
棺の底に倒れ込んだ魔族が、血走った目でシュタルクを見上げ、最後の悪あがきとして懐に隠し持っていた『ひときわ小さく、どす黒い瘴気を放つ目玉の球体』を、シュタルクの胸元めがけて全力で投げつけたのである。
「クソがあああっ! タダで再び封じられてたまるかあああっ!! 貴様だけでも道連れだ!!」
それは物理的な破壊力を持たない代わりに、町全体にかけた呪いよりも遥かに高濃度で悪質な、『永続の呪い』を凝縮した呪詛の塊だった。
重い石蓋を両手で抱えているシュタルクには、それを避けることも払うこともできない。
「っ、シュタルク様!!」
フェルンが悲鳴を上げた、その刹那。
棺の脇にいた黒髪の少年が、シュタルクの前へと飛び出すように跳躍し、自らの小さな背中でその黒い目玉の球体を受け止めたのだ。
パァンッ、と乾いた音を立てて、少年の背中で黒い球体が弾け飛んだ。
どす黒い霧のような呪詛の魔力が、少年の傷だらけの背中へとじゅわりと染み込んでいく。「キャンッ……!」と、子犬が足を踏まれたようなか細い悲鳴を上げて、少年が床へと倒れ込んだ。
「お、お前……!? くそっ、これ以上好きにさせるかよ!!」
シュタルクは怒りと共に咆哮し、担ぎ上げていた巨大な石蓋を、棺の上へと力任せに叩きつけた。
ズガアンッ!! と洞窟全体が揺れるほどの重低音が響き、魔族の断末魔の呪詛を完全に遮断して、分厚い石蓋が寸分の狂いもなく噛み合った。同時に、石蓋の表面に刻まれていた古代の封印紋様が淡く輝き、魔族の存在を再び外界から完全にシャットアウトした。
「おい、しっかりしろ! そんな小せえのに、なんで庇ったりしたんだよ、大丈夫か!?」
封印が完了するやいなや、シュタルクは床に倒れた少年の元へと駆け寄り、その小さな身体を抱き起こした。フリーレンとフェルンも慌てて駆け寄る。
少年の背中には火傷のような黒い痣が一瞬だけ浮かび上がったが、それはすぐに皮膚の下へと吸い込まれるように消えていった。少年はしばらく苦しそうに顔を歪めて荒い息を吐いていたが、やがてゆっくりと目を開けると、心配そうに覗き込むシュタルクの頬を、小さな舌でペロリと舐めた。
「……どうやら、命に別状はないみたいだね。ただ、今の呪いはかなり根深く魂に定着してしまったみたいだ」
フリーレンが少年の魔力の状態を確かめ、少しだけ眉をひそめて呟いた。
* * *
その後、シュタルクは崩落した岩の隙間を大斧で砕いて広げたのちに少年を背負い、四人は洞窟の外へと脱出した。
外へ出ると、先ほどまで空を覆っていた鉛色の重苦しい瘴気は嘘のように晴れ渡り、山肌には明るく澄んだ日差しが降り注いでいた。大気中に漂っていた歪な呪いの魔力も、魔族が再封印されたことで完全に消滅している。遠くに見えるオルフィーの町の方からは、元の姿に戻ったであろう町人たちの歓声や、鐘の音が微かに風に乗って聞こえてきた。
「……町の呪いは、無事に解けたみたいですね」
フェルンが安堵の息を吐きながら、シュタルクの背中から降りた黒髪の少年へと視線を向けた。
町の呪いが解けたのであれば、本来『白い狼』であるはずのこの少年もまた、元の誇り高い獣の姿へと戻るはずだった。しかし、少年の姿は人間の子供のままで、指先ひとつ変わる気配がなかった。あの封印の間際、シュタルクの身代わりに受けた強力な呪いが、彼の肉体を『人間の姿』のまま永続的に固定してしまったのだ。
「お前……俺を庇ったせいで、元の狼の姿に戻れなくなっちまったのか……? すまねえ、俺の不注意のせいで……」
責任を感じて顔を歪めるシュタルク。
しかし、当の少年はそんなことなど少しも気にしていないかのように、その場でピョンピョンと軽く跳ねてみせた。二本の足で立つバランスにもすっかり慣れた様子で、自分の小さな両手をグーパーと動かして確かめると、シュタルクを見上げてニカッと太陽のように無邪気な笑顔を浮かべたのである。
もうすっかり平気だ、この身体も悪くないぞ――と言わんばかりに、少年は元気よく胸を張ってみせた。
言葉は話せないままだったが、その澄み切った金色の瞳には、悲壮感など微塵もなかった。
呪いの消えた澄んだ高原の風だけが、言葉少なに佇む三人と一匹の頬を、優しく撫でて通り過ぎていった。