三門市という街は、俺が思っていた以上に『非日常』が日常の裏側に溶け込んでいる場所だった。
あの日、嵐山と名乗った眩しすぎる好青年に助けられた俺は、そのまま誘導隊の車に乗せられ、街の南部にある『第3臨時福祉シェルター』へと運ばれた。
第一次大規模侵攻から数年が経った今でも、家や家族を失った人間や、市外から流れてきた身寄りのない避難民は少なくない。そのため行政の手によって、一時的な保護・支援体制が整えられていたのだ。
「カズマくん、温かいスープのおかわり、いるかい?」
「あ、ありがとうございます、藤田さん。いただきます」
パイプ椅子に座り、プラスチックの椀を受け取りながら、俺はぺこりと頭を下げた。
シェルターの世話役をしている中年女性――藤田さんは、俺の頭を優しく撫でて目を細める。
「まだ記憶は戻らないかい? 無理に思い出そうとしなくていいからね。あの怪物に襲われたら、誰だって心に深い傷を負うわ」
「……すみません。ご迷惑をおかけして」
伏し目がちに呟き、俺は神妙な顔を作ってスープを啜った。
――そう、俺は『記憶喪失』の体で通していた。
保護された直後の事情聴取で、「自分の名前(佐藤和真)と年齢以外、ショックで頭が真っ白になって思い出せない」と涙目で訴えたのだ。
戸籍もなければ身分証もなく、住所も言えない高校生。下手に「異世界から来ました」などと口走れば精神科へ直行だし、適当な住所をでっち上げても照会システムですぐに嘘がバレる。
ならば、「門の襲撃によるパニック障害で記憶を喪失した哀れな被災者」を演じるのが、最も角が立たず、合法的に衣食住を確保できる最善手だった。
おかげで、シェルターのベッドと毎日の配給食にはありつけた。
だが、問題はその先だ。
(この施設の保護期間は、原則として二週間……。それまでに身元が割れなきゃ、市外の児童福祉施設か、身元調査付きの更生寮へ送られるらしい)
そうなれば、四六時中大人の監視下に置かれ、いずれ戸籍の矛盾が露呈して厄介なことになる。
俺が求めているのは、誰にも干渉されない、平和で自立したぬるま湯のスローライフなのだ。
「あの、藤田さん。この街で、俺みたいな身寄りのない人間でも働ける場所って、ないですかね……?」
「えっ? 働くって……カズマくん、まだ高校生くらいの歳でしょう? そんなに焦らなくても……」
「いえ、いつまでもここに甘えているわけにはいきませんから。少しでも早く、自分の力で生活基盤を作りたいんです」
殊勝な態度で猫をかぶる俺を見て、藤田さんは少し困ったように眉を下げたが、やがて何かを思い出したようにポンと手を打った。
「そうねぇ……身元保証人がいなくて、住む場所と仕事の両方が必要なら……ここを受けてみるのはどうかしら?」
そう言って藤田さんが事務机の引き出しから取り出したのは、一枚のカラー刷りの募集要項だった。
「これは……」
「界境防衛機関『ボーダー』の採用案内よ。近界民から街を守る組織なんだけどね。あそこは独自の権限を持っていて、適性さえあれば、身寄りのない子でも組織が身元引受人になって寮に入れてくれるのよ。生活費の手当も出るし、施設も整っているしね」
チラシに躍る文字。
――『個室寮完備・食堂利用補助あり・身元不問』。
(……これだ)
胸の中でカチリと音がした。
怪物と戦う前線なんて御免被るが、これだけ巨大な組織なら事務作業や施設管理、通信オペレーターのような安全な後方部署が必ずあるはずだ。
住居と飯を確保し、巨大組織の後ろ盾を得て、安全な部署で給料をもらいながら暮らす。これ以上の選択肢が他にあるだろうか。
「……俺、受けてみます」
「そう? でも、無理はしちゃダメよ。危険な仕事でもあるんだから」
「はい、安全第一で頑張ります」
俺は深く頭を下げ、シェルターの仮住所を借りて、願書にペンを走らせたのだった。
◇
数日後。
三門市の中心部にそびえ立つ、巨大な白い要塞――ボーダー本部基地。
「……デカいな」
見上げるような巨大な壁面を前に、俺は息を呑んだ。
敷地内には、俺と同じように願書を提出した受験生たちが大勢集まっている。中学生から高校生、青年まで年齢層は様々だが、どいつもこいつも引き締まった表情をしていて、どこか熱気を帯びていた。
「俺は絶対に受かって、街を守る隊員になるんだ」
「今期こそ合格して、あの怪物をぶっ倒してやる……!」
すれ違う受験生たちの口から漏れる、真っ直ぐな決意。
引きこもりだった俺なら「意識高いなぁ」と苦笑いして全力で逃げ出すところだが、今の俺にはリアルに生活がかかっている。冷や汗を拭いながら、指定された試験会場へと足を進めた。
案内された本日の試験科目は、以下の3つ。
一、基礎学力・適性テスト(マークシート方式)
二、基礎体力テスト
三、個人面接
(実技試験がないのは助かった……。あの武器を振り回せなんて言われたら、その場で門前払いだったぜ)
胸を撫で下ろしながら、大ホールのような試験室で長机に着席する。
やがて、ブザーの音とともに問題用紙が配られた。
「それでは、基礎学力適性テストを開始します。時間は60分。始め!」
一斉に紙をめくる音が響く。
俺も問題用紙に目を落とし――そして、開始3分で静かに天を仰いだ。
(……あ、これ無理なやつだ)
甘かった。ボーダーの筆記試験は、ただの中学・高校レベルの基礎学力にとどまらない。
前半の国語や一般教養はともかく、中盤以降に並んでいるのは、高度な論理パズル、確率計算、複雑な空間把握、そして極限状況における行動規範を問う適性検査のオンパレードだった。
『問28:立方体を三次元座標上で回転させた際の断面図として、正しい展開図を以下から選べ』
『問35:多重分岐する連絡網における最短情報伝達経路の組み合わせとして、適切なものを一つ選べ』
(空間把握? 確率の順列組み合わせ!? 高校をサボってネトゲばかりやってた元ヒキニートに解けるわけねえだろ!!)
周囲からは、カリカリと小気味よく鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。
焦りがじわりと背中を湿らせた。まずい。筆記テストで足切りを食らったら、シェルターに戻されて児童施設行きルートに直行だ。あんなところで集団生活なんて耐えられるはずがない。
(クソッ……落ち着け! マークシートってことは、4分の1で当たるんだ! ゲーマーの直感を舐めるなよ……!)
冷や汗を流しながら、俺は必死に頭を回転させた。
問題文を斜め読みし、明らかに外れっぽい選択肢を消去法で除外し、あとは指先の直感だけで塗りつぶしていく。
問28は、なんとなく座りがいい『3』。
問35は、数字の並びが綺麗な『2』。
問42は、語感が気に入った『4』。
論理的根拠などこれっぽっちもない。完全に「当てずっぽう」の乱れ撃ちだ。
だが、カズマ自身は知る由もなかった。
この時、彼が「なんとなく」で選んだマークシートの塗りつぶしが、天文学的な確率をことごとく引き当て、静かに『全問正解』の軌跡を描いていたことを――。
◇
続いて行われた基礎体力テスト。
反復横跳び、上体起こし、長距離走など、基本的な運動能力を測定するメニューだ。
元引きこもりであるカズマの体力は、控えめに言っても一般平均のやや下。長距離走では中盤から息が上がり、心臓が破裂しそうになった。
(はぁっ、はぁっ……! キツい……死ぬ……! だが、途中で倒れたら不合格だ……!)
カズマは決して、周囲の元気な中高生たちと競い合おうとはしなかった。
ゲーマー特有の冷めた損得勘定を働かせ、「合格基準の最低ラインさえ維持できればいい」と割り切って、無理にペースを上げずに一定の歩調をキープしたのだ。
息を切らしながらも、足を止めずに淡々と規定の周回数を走り切る。
ストップウォッチを持っていた測定員の職員は、手元の記録を見つめながら小さく頷いた。
「……飛び抜けたタイムではないが、序盤から終盤までラップタイムのブレがほとんどないな。自分の体力の限界を正確に把握して、ペース配分を完璧にコントロールしている。無駄な力を使わない、冷静な走り方だ」
ただ単にバテて早く走れなかっただけなのだが、職員の目には「ペース配分」として映っていた。
◇
そして最後は、個人面接だった。
案内されたのは、白い壁に囲まれた簡素な小部屋。机を挟んで、スーツを着た男性面接官が一人、手元のタブレットに目を落としていていた。
「受験番号4021番、佐藤和真くんですね。どうぞ、座ってください」
「失礼します」
パイプ椅子に腰掛ける。
カズマは全く気づいていなかったが、面接室のデスクサイドに置かれた金属製のオブジェ――それこそが、被験者の生体反応から無意識に漏れ出るトリオンをスキャンする最新の測定器だった。
面接官の手元の画面に、測定結果がひっそりと表示される。
【生体トリオン測定値:3】
【判定:合格基準下限】
(……トリオン値は『3』か)
面接官は心の中で数値を確かめた。
一般隊員の平均値はおよそ『4〜5』。高ければ高いほどトリガーの出力や弾数に恵まれ、前線で活躍できる。
『3』という数値は、ボーダーの規約上、防衛隊員として受け入れられる『絶対的な最下限の境界線』だった。これより低ければ、戦闘員としては即座に不合格となるレベルの数値である。
面接官は視線を上げ、カズマの目を見据えた。
「では、佐藤くん。志望動機を聞かせてもらおうか。君はなぜ、ボーダーに入隊したいと思ったんだね?」
試すような、だが静かな問いかけ。
普通の受験生なら「街を守りたい」「家族の仇を討ちたい」といった熱意を語る場面だ。
だが、カズマの頭にあるのは現実的な生活と安全マージンだけだった。
(ここで嘘をついて「正義のために戦いたいです!」なんて言ったら、真っ先に危ない前線に送られる。俺は安全な後方部署に行きたいんだ。無理をしない、危険を冒さない人間だとアピールしなきゃいけない……!)
カズマは姿勢を正し、極めて落ち着いたトーンで口を開いた。
「……自分自身の安全を確保し、生活の基盤を作るためです」
「ほう?」
「俺は、無謀な戦いをする気はありません。怪物を前にして感情的に突っ込むような真似は絶対に避けるべきだと思っていますし、もし危険な状況に陥ったら、無理をせず安全圏へ退避して味方と合流することが最善だと考えています。自分の身を守るための規則を徹底すること――それこそが、結果として組織の損害を減らすことに繋がると信じています」
カズマの本音としては「危ないことはしたくないから安全な部署に回してくれ」という切実な保身だった。
だが、面接官の受け取り方は違っていた。
ボーダーには、血気盛んで「敵を倒してやる」と息巻く少年少女が数多く集まる。そしてその多くが、実戦で無茶をしてトリオン体を破壊され、痛手を負うのだ。
(……なんと現実的で、地に足の着いた考え方だ。トリオン能力の低さを自覚しているからことしての危機管理意識か? 命知らずの特攻を美徳とせず、『生存と損害管理』をここまで冷静に語れる受験生はそういないぞ)
さらに、面接官の手元に先ほどの『基礎学力適性テスト』の採点データがリアルタイムで転送されてきた。
画面を見た瞬間、面接官は思わず目を見張った。
【基礎学力適性テスト:100点 / 100点】
(……満点だと!?)
ボーダー本部が作成した難問揃いの適性テストだ。現役の隊員でも80点以上を取るのは容易ではない内容を、完全に正解している。
(トリオン値は『3』と合格最低ラインだが……この並外れた知力と空間処理能力、そして徹底した自己管理能力。ただ落とすにはあまりにも惜しい……!)
「……よく分かったよ、佐藤くん。面接は以上だ。結果は後日、郵送する」
「ありがとうございました」
立ち上がり、一礼して部屋を出る。
廊下に出たカズマは、誰もいない角で小さく息を吐いた。
「ふぅ……。ちょっと保身に寄りすぎた答え方だったかな。まあ、嘘ついて前線に放り込まれるよりはマシだろ。あとは結果を待つだけだな」
カズマは知らなかった。
その日の夕方に行われた合否判定会議において、
『トリオンは最低ラインだが、筆記満点で面接の損害管理評価が極めて高い』
『頭脳派の訓練生として、補欠の最後の1枠で採用してみてはどうか』
という議論が交わされ、自分が『戦闘員枠の最下位』として滑り込んでしまったという事実を。
◇
数日後。
シェルターの談話室で、カズマは届けられた薄い封筒を開封していた。
息を呑みながら、三つ折りの用紙を広げる。
『合否通知書――厳正なる選考の結果、貴殿の【防衛隊員(C級訓練生)】としての採用が決定いたしました』
「……受かった」
思わず声が漏れた。
横から覗き込んでいた藤田さんが、我がことのように顔をほころばせて手を叩いた。
「よかったじゃない、カズマくん! おめでとう!」
「あ、ありがとうございます……!」
これで、雨風を凌げる個室の寮に入れる。
3食の食事も保証され、身元引受人としてボーダーが後ろ盾になってくれる。当面の生活の危機は、完全に脱したのだ。
「よし……! ひとまず第一関門突破だ」
カズマは小さくガッツポーズを作った。
あとは入隊後、適当に真面目な顔をして訓練をこなしつつ、目立たず安全な後方ポジションを確保すればいい。そうすれば、夢の平穏なスローライフが手に入るはずだ。
――支給されるトリガーのシールドがサランラップのように薄いことや、訓練初日に巨大な怪物に圧殺される激痛が待っていることなど、この時のカズマはまだ露ほども知らなかったのである。