ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ―   作:r3ir3i

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prelogue エーゲ海の女神

## Scene 01 ―― クレタ島、作戦会議

 

1945年、クレタ島。

 

連合軍基地の作戦会議室には、午後の日差しが差し込んでいた。中央に据えられた大きな机の上で、エーゲ海の島々が紙の白に浮かんでいる。海岸線を縁取る細い線。そのいくつかを覆う赤い印。窓から入る光が、海図の折り目だけを白く照らしていた。

 

「だから、なんであたしがこいつと一緒なんだよ」

 

シャーリーは椅子の背に片腕を掛け、机を挟んだ向こう側を睨んだ。肘の下で、椅子が軋む。

 

「それはこちらの台詞だ。まったく、リベリオンのウィッチと組まされるとはな」

 

マルセイユは、その視線を正面から受け止めていた。

 

「なんだと?」

 

「文句があるなら、私より戦果を上げてからにするんだな」

 

「お前なあ……!」

 

「シャーリー、落ち着いて!」

 

隣からルッキーニが腕を引っ張った。シャーリーの身体が椅子へ引き戻され、その分だけ、向かいのマルセイユが顎を上げる。

 

「ハンナも、あんまり挑発しないでください」

 

ライーサが息をついた。マルセイユの隣で、今にもまた立ち上がりそうな二人を見比べている。

 

「私は事実を言っただけだ」

 

「もう……」

 

ライーサは困ったように笑った。

 

ここに集められた四人は、いずれも実戦経験の豊富なウィッチだった。敵を前にすれば、何をするべきか身体の方が知っている。それなのに、シャーリーとマルセイユは、顔を合わせてからというもの、互いの些細な一言にも噛みついていた。二人の間を行き来する声に、ルッキーニもライーサも、早くも肩を落としかけている。

 

「ねえ、ライーサ」

 

「なあに?」

 

「マルセイユって、いつもこんな感じなの?」

 

ライーサは答える前に、隣を一度だけ見た。

 

「……うん。だいたい」

 

「おい、ライ!」

 

「あっ、いえ!」

 

慌てて背筋を伸ばすライーサを見て、シャーリーが吹き出した。

 

「ははっ! 大変だなあ、お前も!」

 

「笑い事じゃないですよ……」

 

その声に、廊下から近づく足音が重なった。

 

扉が開く。

 

「諸君、揃っているな」

 

エディタ・ノイマン大佐だった。四人が立ち上がる音が、ほとんど一つになった。続いて入室したロンメル将軍を認めると、シャーリーも口を閉じ、四人揃って敬礼する。先ほどまでの言い合いの余韻だけが、部屋の隅に残っていた。

 

「楽にしてくれたまえ」

 

ロンメルの声は穏やかだった。

 

「諸君には今回、少々厄介な任務に就いてもらうことになる」

 

ノイマンが海図の前へ進んだ。机に落ちた影が、島々を横切った。

 

「まず、今回の作戦に参加するウィッチについて説明する」

 

四人を順に見渡す。

 

「第31統合戦闘飛行隊、ハンナ・ユスティーナ・マルセイユ大尉、ライーサ・ペットゲン少尉。元第501統合戦闘航空団、シャーロット・E・イェーガー大尉、フランチェスカ・ルッキーニ少尉」

 

名前を呼ばれるたび、返事が上がった。

 

「それに加え、今回もう一名、参加する予定だ」

 

「もう一人?」

 

シャーリーは、空いている席へ目をやった。

 

「ああ。到着が少し遅れているようだが、時間も惜しい。先に説明を始める」

 

ノイマンの指が、海図の一点に止まった。

 

「目標は、ここだ」

 

「デロス島……?」

 

ルッキーニが身を乗り出した。椅子の背から離れたその身体は、さっきまでとは違う意味で、机の方へ引き寄せられていた。

 

「そうだ。現在、この島の洞窟内部にネウロイが潜伏している」

 

ノイマンが資料を取り上げる。偵察機から撮影された写真だった。

 

「これが今回の目標だ」

 

「うわっ、なんだこいつ」

 

シャーリーの眉が寄った。

 

黒い装甲が幾重にも連なっていた。蛇とも、ムカデともつかない長い胴体。その節の一つ一つが、写真の中で硬い陰影を作っている。見慣れたネウロイの姿と重ねようとしても、うまく収まらなかった。

 

シャーリーは写真と海図を見比べた。写っている範囲の外にも、胴体が続いている。その長さを確かめようとしても、洞窟の暗がりから先は読めない。相手のいる場所は分かっているのに、相手の大きさは、まだこの机の上には揃っていなかった。

 

「地上砲台型のネウロイと推測される。現在は島の洞窟に籠城し、接近する船舶や航空機を攻撃している」

 

「地上型か……」

 

マルセイユが腕を組んだ。ライーサは写真の、暗く落ち込んだ洞窟の奥を見ていた。

 

「洞窟の外へは出てこないのですか?」

 

「これまでの偵察では、本体が完全に外へ出た例は確認されていない。攻撃時に身体の一部を露出させる程度だ」

 

「厄介ですね……」

 

「そうだ。通常の航空攻撃では撃破が難しい」

 

ノイマンは一呼吸置いた。

 

「そこで、ヴェネツィア艦隊による艦砲射撃を実施する」

 

「艦砲射撃?」

 

聞き返したシャーリーの前で、ノイマンの指が洞窟周辺を示した。

 

「洞窟周辺を砲撃し、敵の潜伏場所ごと破壊する。敵が姿を現したところを、諸君ら航空戦力によって撃破する」

 

「なるほどな」

 

マルセイユが頷いた。

 

「確実な方法だ」

 

「……ちょっと待って!」

 

ルッキーニの声が、その先を遮った。

 

「そんなことしたら、島が壊れちゃうよ!」

 

「ルッキーニ少尉?」

 

ノイマンが顔を向ける。ルッキーニは机の上の島から目を離さなかった。

 

「だって、デロス島には昔の建物がいっぱいあるんだよ! 神殿だってあるし、すっごく大切な場所なんだから!」

 

話すうちに、ルッキーニの指が机の縁を掴んでいた。説明しようとするほど声が急ぐ。そこに何があるのか、自分には分かっている。そのはずなのに、目の前の海図には、他の島と変わらない輪郭があるだけだった。

 

「もちろん、そのことは承知している」

 

ノイマンの口調は変わらなかった。

 

「だが、敵を放置することはできん。この海域を通る船舶にも被害が出ている」

 

「でも!」

 

「ルッキーニ」

 

シャーリーが声を掛けた。海図には小さく描かれていても、島はただの目印ではない。ルッキーニが言いたいことは分かる。けれど、そこにいる敵をどうするのかと問われれば、今は答えがなかった。

 

「気持ちは分かるけどさ……」

 

「シャーリーまで!」

 

ルッキーニは頬を膨らませた。

 

「ネウロイだけやっつければいいじゃん!」

 

「それができれば苦労はしない」

 

マルセイユが口を挟んだ。

 

「洞窟に籠もっている相手だぞ。どうやって倒すつもりだ?」

 

「そんなの、やってみなきゃ分かんないじゃん!」

 

「作戦は思いつきで決めるものじゃない」

 

「むーっ!」

 

ルッキーニが睨んでも、マルセイユは引かなかった。二人の間へ、ライーサの声が入る。

 

「ルッキーニさん」

 

「……なに?」

 

「そんなに大切な島なんですか?」

 

「うん!」

 

間を置かず、深く頷いた。

 

「だから壊しちゃだめなの!」

 

ライーサは微笑みかけたが、その言葉をどう受け止めればよいのか、まだ決めかねていた。

 

「……そうなんですね」

 

コン、コン。

 

控えめな音が、扉から聞こえた。

 

「失礼します」

 

聞き慣れない声だった。部屋の中に残っていた熱を、そのまま通り抜けてくるような、落ち着いた声。

 

「入れ」

 

ノイマンが答えると、扉が開いた。

 

入ってきたのは、一人の若い女性だった。黒を基調とした軍服に、同じ黒のケープ。肩のあたりまで伸びた髪も黒く、毛先だけが、色を抜いたように白い。

 

その目元を、幅の広い黒い帯が覆っていた。

 

「うにゃっ!?」

 

ルッキーニが思わず声を上げ、シャーリーの袖を掴んだ。

 

「ね、ねえシャーリー、あの人、目……」

 

「しっ」

 

小声で制しながら、シャーリー自身も目を離せずにいた。

 

顔は見えている。だが、こちらを向いても、目が合うことがない。見られているのかどうかさえ、分からなかった。怪我でもしているのか。それとも――目が、見えないのか。

 

だとしたら、そんなウィッチがなぜここにいるのか。

 

その考えは、すぐに行き場を失った。彼女は、机にも椅子にも迷わず近づいてきた。足元を探る様子も、手を伸ばして確かめる仕草もない。並んだ椅子の脚を避け、机の角の手前で、きちんと歩幅を緩める。見えている者と、何も変わらない足取りだった。

 

ライーサが、小さく息を呑む音がした。

 

「来たか」

 

ノイマンの声に、安堵が滲んだ。

 

「遅参、申し訳ありません。柊志乃、到着しました」

 

「構わん。紹介しよう。今回の作戦に加わる柊少佐だ」

 

志乃は会釈した。

 

「よろしくお願いします」

 

「し、志乃!?」

 

椅子の脚が床を擦った。立ち上がっていたのは、マルセイユだった。

 

「……マルセイユ?」

 

ライーサも顔を上げる。志乃は声のした方へ顔を向けた。

 

「ハンナ。アフリカ以来だね」

 

「お前、どうしてここに……!」

 

「招集された」

 

「それは分かっている!」

 

シャーリーは、思わず二人を見比べた。さっきまで何を言われても言い返していたマルセイユが、相手の短い返事に、言葉を詰まらせている。

 

「なんだ、知り合いか?」

 

「……ああ」

 

それだけだった。

 

「へえ。お前がそこまで驚くなんて珍しいな」

 

「うるさいぞ、リベリオン」

 

「なんだと?」

 

「二人とも……」

 

ライーサの声に、ノイマンの咳払いが重なった。

 

「私語はそこまでだ」

 

「……失礼しました」

 

マルセイユが席へ戻った。志乃も促された椅子に腰を下ろす。ケープの裾が収まり、その両手が机の上へ置かれた。

 

ライーサは、まだ彼女から目を離せなかった。マルセイユが誰かの到着に、あれほど驚くところをほとんど見たことがない。

 

それだけではなかった。

 

志乃、ハンナ。二人は互いを名前で呼んでいた。ハンナという呼び名は、ライーサにとっては聞き慣れたものだ。それでも、初めて会う少佐が何のためらいもなく口にしたことが、耳に残っていた。マルセイユの方も、その呼び方を当然のように受け入れている。

 

そして、その相手は両眼を黒い帯で覆ったまま、まっすぐに座っていた。

 

一体、どのようなウィッチなのだろう。

 

「では、続ける」

 

ノイマンが海図を指した。

 

「艦隊の準備が整い次第、作戦を開始する。諸君には艦隊の護衛と、敵が姿を現した際の攻撃を担当してもらう」

 

「ちょっと待ってよ!」

 

ルッキーニが再び声を上げた。

 

「やっぱり島を壊しちゃうの!?」

 

「少尉、先ほど説明したとおりだ」

 

「でも!」

 

「ルッキーニ」

 

シャーリーは腕を組んだ。机の上へ視線を戻す。艦隊が来て、砲撃が始まる。それまで、この島へ近づくこともできないわけではないはずだった。

 

「……なあ、大佐」

 

「なんだ?」

 

「艦隊が来るまで、まだ時間はあるんだろ?」

 

「そうだが」

 

「だったらさ、先にあたしたちだけで行ってみるってのはどうだ?」

 

ノイマンの眉間に皺が寄った。

 

「偵察か?」

 

「偵察も兼ねて、できそうならネウロイを叩く。洞窟から少しでも引きずり出せれば、やりようはあると思うんだ」

 

「簡単に言うな」

 

マルセイユが口を開いた。

 

「敵の全容も分からないんだぞ」

 

「分かってる。でも、何もしないで島を壊すよりはいいだろ?」

 

「……ふん」

 

マルセイユは腕を組み直した。今度はそれ以上、言葉が続かなかった。

 

「ハンナ。もし敵が洞窟から出てくるなら、航空攻撃の機会は作れると思います」

 

ライーサも海図を見ていた。

 

「ライ?」

 

「ただ、奥に引っ込まれたらどうしようもありません。そこをどうするか、ですよね」

 

「そうなんだよなあ……」

 

シャーリーが頷いた。見えていない洞窟の奥が、紙の上にも続いているようだった。

 

ロンメルは、そのやり取りを黙って聞いていた。やがて口を開く。

 

「……面白いではないか」

 

「閣下?」

 

ノイマンが振り返った。

 

「彼女たちの言い分にも一理ある。艦隊の到着まで時間があるのなら、試してみてもよいのではないかね」

 

「しかし、閣下。危険が大きすぎます」

 

「もちろん、無謀な突撃を認めるわけではない」

 

ロンメルは四人を見渡した。

 

「だが、現場を知る者にしか見つけられない方法もあるものだ」

 

ノイマンは考え込んだ。海図から顔を上げ、その視線が志乃に止まる。

 

部屋の中に、言葉の途切れた時間ができた。先ほどまで何度も割り込んでいたルッキーニも、今は次の声を待っている。シャーリーは組んだ腕を解かず、ノイマンの顔を見ていた。

 

「……柊少佐」

 

「はい」

 

「君はどう思う?」

 

会議が再開されてから、志乃は一言も発していなかった。机の上の手も、背筋も、ほとんど動いていない。名前を呼ばれて初めて、顔が上がった。

 

「状況把握も兼ねて、一度行かせていただきたい。私が監督します」

 

ノイマンが腕を組んだ。

 

「君がか?」

 

「はい」

 

「敵の詳細は分かっていないぞ」

 

「承知しています」

 

「危険と判断した場合は?」

 

「即時撤退します」

 

返事は、どれも短かった。条件を加えることも、言い直すこともない。ノイマンはしばらくその顔を見つめていた。その横で、ロンメルが頷く。

 

「よかろう。柊少佐が監督するのであれば、なお都合がよい」

 

「……承知しました」

 

ノイマンが五人へ向き直った。

 

「では、艦隊の準備は予定どおり進める。その間に一度だけ、航空隊による攻撃を許可する」

 

「やったーっ!」

 

ルッキーニが両手を上げた。ノイマンは、その喜びが収まるのを待たずに続けた。

 

「ただし、敵の反応を見極め、撃破が困難と判断した時点で撤退すること。無理な追撃や洞窟内部への突入は認めない」

 

「了解!」

 

シャーリーが答えた。

 

「マルセイユ大尉、ペットゲン少尉。二人もよいな?」

 

「了解しました」

 

ライーサが先に答える。

 

「……仕方ないな」

 

マルセイユは不満を隠さなかったが、異を唱えることはしなかった。

 

一度だけ。その条件が、机を囲む五人の前に残っていた。ルッキーニは上げた手を下ろし、今度はノイマンの話を最後まで聞いた。許された時間の先には、まだ艦隊の準備が続いている。

 

「攻撃手順は各自で確認しておくこと。柊少佐は上空から全体の状況を監視し、必要に応じて撤退を指示してくれ」

 

「了解しました」

 

志乃が答えた。

 

会議の終了が告げられると、ルッキーニは椅子から腰を浮かせた。

 

そのまま、志乃の方を見て動きを止める。礼を言いたかった。島へ行けることになったのは、あの人が自分たちを行かせると言ってくれたからだ。けれど、黒い帯がこちらを向くたびに、足が前へ出なかった。見えていないはずの顔が、こちらの居場所だけは知っているように思えた。

 

それでも、ルッキーニは机を回り込んだ。二歩ほど手前で止まる。

 

「えっと……シノ、だっけ?」

 

マルセイユが呼んでいた名前だった。志乃が、声の方へ顔を向けた。

 

「どうしたのですか?」

 

返ってきたのは、思っていたより柔らかい声だった。ルッキーニは一度瞬きをしてから、思い切って言った。

 

「……ありがとう!」

 

「……何のことでしょう?」

 

「だって、シノが行ってもいいって言ってくれたから!」

 

志乃は顔を傾けた。帯の黒が、ルッキーニの方へ向いたまま止まる。目が合ったのかどうか、やはり分からなかった。

 

「まだ何も決まっていませんよ」

 

「うにゃ?」

 

答えは、そこで終わった。志乃は立ち上がり、椅子を元の位置へ戻した。その手が離れると、黒いケープが扉の方へ動き出す。並んだ椅子の間を、一度も手で探らずに抜けていった。

 

「……あれ?」

 

首を傾げるルッキーニを残して、志乃は振り返らずに部屋を出た。

 

シャーリーは閉まった扉を見ていた。言葉は丁寧だった。それでも、ルッキーニの礼には応えないまま、やり取りは終わっている。返事の先をもう少し聞こうとすると、相手はすでに廊下にいた。

 

ルッキーニが、シャーリーのそばへ戻ってきた。

 

「……ねえ、シャーリー。あの人、ほんとに見えてないのかな」

 

「さあな」

 

シャーリーは扉から目を離さずに答えた。見えていない者の歩き方ではなかった。それでも、あの帯の向こうで目が開いているとは、どうしても思えなかった。

 

「……なんか、不思議な奴だな」

 

「そうですね」

 

ライーサも頷いた。

 

「……ハンナ」

 

ライーサが、隣へ顔を向けた。

 

「なんだ、ライ」

 

「柊少佐とは、親しいんですね」

 

マルセイユの顔が、こちらへ戻った。

 

「……どうしてそう思う?」

 

「お二人とも、名前で呼び合っていましたから」

 

「ははっ、確かに! お前があんなに驚くのも珍しいしな」

 

シャーリーが横から口を挟んだ。

 

「……うるさいぞ、リベリオン」

 

「何だよ、本当のことだろ?」

 

「黙れ」

 

ライーサはそんな二人を見て、くすりと笑った。マルセイユは息を吐き、扉の方へ目を向ける。その向こうから、志乃の足音はもう聞こえなかった。

 

―――

 

廊下へ出た志乃は、格納庫へ向かっていた。

 

窓の外で航空機のエンジンが回っている。音が高まり、遠ざかる。その合間を、行き交う兵士の足音が埋めていく。離れた場所では、整備兵たちが何かを確かめ合っていた。

 

どれも、慣れ親しんだ音だった。近づいてくるものと、離れていくもの。その中を、足取りを変えずに歩く。

 

「……デロス島」

 

呟いて、足が止まった。

 

廊下の音は変わらない。窓から入る空気が、ケープの端に触れて通り過ぎた。しばらくして、志乃は再び歩き出した。

 

黒い裾が、足元で揺れた。

 

## Scene 02 ―― デロス島、第一次攻撃

 

クレタ島、連合軍基地。

 

作戦会議が終わってから、しばらく経っていた。

 

格納庫には、出撃準備の音が満ちていた。工具の触れ合う硬い音。ストライカーユニットの外板を確かめる手。整備兵たちの声が高い天井へ上り、開いた入口から吹き込む風に混じっていく。床へ伸びた午後の光の中で、機体の金属が鈍く光っていた。

 

「よーし! これで準備完了っと!」

 

シャーリーは愛機から手を離し、使っていた工具を整備兵へ返した。その隣では、ルッキーニが鼻歌を歌いながらストライカーユニットを履いている。機体を確かめる動作の合間にも、歌は途切れなかった。

 

「お前、ずいぶん機嫌がいいな」

 

「だって、島を壊さなくて済むかもしれないんだよ!」

 

「まだ決まったわけじゃないぞ」

 

「でも、シノが行ってもいいって言ってくれたもん!」

 

「そうだなあ」

 

シャーリーは苦笑した。ルッキーニの顔からは、会議室で見せていた不満げな表情も消えている。その明るさを見ていると、こちらまで、どうにかなりそうな気がしてくる。

 

格納庫の向こうでは、マルセイユが整備兵と話していた。隣でライーサが機銃を点検している。

 

「なあ、マルセイユ」

 

「なんだ?」

 

「さっきから何を気にしてるんだ?」

 

「別に、何も」

 

「嘘つけ。あの柊って奴のことだろ?」

 

マルセイユが振り返った。返事までに、間があった。

 

「……そうだな」

 

「珍しいじゃないか。お前があんなに驚くなんて」

 

「私だって驚くことくらいある」

 

「で、あいつ何者なんだ?」

 

「さっきも聞いただろ」

 

「ちゃんと答えてないじゃないか」

 

マルセイユは考えた末に、口を開いた。

 

「昔、アフリカで一緒に戦ったことがある。それだけだ」

 

「それだけ?」

 

「ああ」

 

「……じゃあ、あの目は?」

 

シャーリーは声を落とした。ルッキーニが、ストライカーを履く手を止めてこちらを見る。

 

「あれ、見えてないんだろ? それで飛べるのか?」

 

マルセイユの返事は、すぐには来なかった。

 

「……本人に聞け」

 

「なんだよ、それ」

 

「私が話すことじゃない」

 

それきり、マルセイユは整備兵の方へ向き直った。

 

「……つまんないな」

 

シャーリーが肩をすくめた。ライーサは機銃から顔を上げ、口元を緩めている。

 

「でも、ハンナがあんなに驚くなんて、私も初めて見ました」

 

「ライ、お前まで……」

 

「まあ、いいじゃないか。本人が来たら聞いてみようぜ」

 

シャーリーがそう言ったところで、ルッキーニが入口の方を見て、口を閉じた。

 

「……あ」

 

小さな声だった。三人が振り返った。

 

入口の光を背に、志乃が立っていた。黒い軍服。肩に掛けられたケープ。明るい外から来たはずなのに、目元を覆う帯の黒さは、会議室で見た時と変わらない。

 

彼女は四人のいる方へ顔を向け、そのまま歩いてきた。誰も呼んでいないのに、迷う様子はなかった。工具や台車の置かれた床を、足元を見ることもなく抜けてくる。

 

ルッキーニは、シャーリーの陰に隠れるように身を縮めた。

 

「……なんだ、志乃か」

 

「うん」

 

マルセイユへの返事を終えると、四人の前で足を止めた。

 

シャーリーは改めて、その姿を眺めた。目のことを訊くつもりでいた。けれど、すぐ前に立たれると、帯の黒さに言葉が引っ込んだ。代わりに目についたのは、装備の方だった。

 

銃がない。

 

腰に拳銃のホルスターも、背中に機銃の負い紐も見当たらない。扶桑のウィッチが持つような刀の鞘さえなかった。長い袖の下で、両腕は何も持たずに下ろされている。これから出撃する姿には、どうにも見えなかった。

 

「なあ、柊少佐」

 

「何でしょう?」

 

「武器はどうしたんだ?」

 

「……武器?」

 

「ああ。何も持ってないみたいだけどさ」

 

志乃は、すぐには答えなかった。その間にも、どこかで工具が床を打った。

 

「問題ありませんよ」

 

「……そうなのか?」

 

「ええ」

 

返事は丁寧だったが、それ以上の説明はなかった。シャーリーはもう一度、空いている両手へ目を落とした。尋ねた装備は、やはりどこにも見当たらない。そこへ、シャーリーの陰から、ルッキーニが顔を出した。

 

「……ねえ、シノ」

 

「どうしたの?」

 

「シノのストライカーは?」

 

恐る恐るの問いだった。武器も持たず、目も覆ったままの相手が、どんな機体で飛ぶのか。怖さより、そちらの方が気になり始めていた。

 

「準備してもらっています」

 

「どんなの?」

 

「試作機なんです」

 

「しさくき?」

 

「うん」

 

その一言で、ルッキーニの目が輝いた。

 

「えー、見たい見たい!」

 

志乃が顔を傾けた。

 

「……そうか」

 

「うん!」

 

「こちらですよ」

 

志乃は声を掛けてから、格納庫の奥へ歩き出した。ルッキーニが、少し間を空けてその後ろへつく。

 

「おい、待てよ!」

 

シャーリーも二人を追った。

 

一角で、数人の整備兵が一組のストライカーユニットを囲んでいた。近づくにつれ、見慣れた機体とは違う輪郭が、整備兵の肩越しに見えてきた。

 

「これか?」

 

「ええ。試製秋水です」

 

「へえ……」

 

シャーリーは機体の傍へ寄った。レシプロ式のストライカーを確かめる時のつもりで目を走らせ、その推進機構のところで動きを止めた。

 

「おいおい、これってまさか……」

 

振り返った時には、もう顔がほころんでいた。

 

「ロケット式か!?」

 

「ええ」

 

「すっげえ! こんなの初めて見たぞ!」

 

先ほどまで志乃の空いた手を気にしていた目が、今は機体の細部へ吸い寄せられていた。

 

「ちょっと見てもいいか!?」

 

「ええ、どうぞ」

 

許しが出ると、シャーリーは早速、機体を覗き込んだ。身を屈め、見る角度を変える。金属の表面に落ちた自分の影を、身体をずらして退けた。

 

「へえ……これ、どれくらい出せるんだ?」

 

「速度のことですか?」

 

「ああ!」

 

「正確なところはまだ分かっていません」

 

「えっ?」

 

「高出力での運転には制限があります。長くは使えません」

 

「なるほどなあ……」

 

シャーリーは機体へ目を戻した。どんな加速をするのだろう。見たことのない推進機構の先に、まだ知らない飛び方がある。それを考えるだけで、確かめたい箇所が増えていった。

 

ただ速さを聞くだけでは足りなかった。出力を上げた時、どこから身体を押されるのか。機体を傾けた時、その勢いがどうついてくるのか。答えがまだないことさえ、今のシャーリーには、機体から目を離しにくくする理由になっていた。

 

「でも、こんなのどこで手に入れたんだ?」

 

「開発途中のものを引き取ったんです」

 

「引き取った?」

 

「ええ。少し手を加えています」

 

「少しって……これ、誰が整備してるんだ?」

 

「私とアブソルです」

 

「アブソル?」

 

「昔からの相棒です。機械のことは彼女の方が詳しいんですよ」

 

「へえ……」

 

シャーリーは感心したまま、また機体へ屈み込んだ。その隣で、ルッキーニの頬が膨らんでいく。

 

「ねえ、シャーリー! まだー?」

 

「ちょっと待ってろって!」

 

「えー!」

 

「こんな面白い機体、そうそう見られないんだぞ!」

 

「もー!」

 

志乃は、そのやり取りを聞いていた。機体へ向かうシャーリーの声と、そのすぐ横で待ちきれないルッキーニの声。そこへ、二人分の足音が加わった。マルセイユとライーサだった。

 

「志乃」

 

「どうしたの?」

 

「アフリカを離れてから、どこにいたんだ?」

 

「……色々」

 

「色々って……お前な」

 

「ブリタニアにいることが多かったよ」

 

「そうか」

 

マルセイユは腕を組んだ。そこまで聞いても、まだ言いたいことが残っている顔だった。

 

「一度くらい連絡を寄越してもよかったんじゃないか?」

 

志乃は首を傾げた。

 

「……必要だった?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「……そうか。今度は連絡するよ、ハンナ」

 

マルセイユは何か言い返しかけた。けれど、言葉になる前に口をつぐむ。志乃は彼女の方へ顔を向けたままだった。シャーリーは機体から顔を上げ、その様子を見て吹き出した。

 

「ははっ! お前、完全に振り回されてるじゃないか!」

 

「うるさいぞ、リベリオン!」

 

「なんだと!」

 

また始まった。

 

志乃は二人の声へ交互に顔を向けた後、ルッキーニのいる方へ向き直った。

 

「……いつもこんな感じなんですか?」

 

「うん!」

 

「そうか」

 

ライーサが困ったように笑った。

 

「すみません。いつもこうなんです」

 

「構わないよ」

 

短い答えだった。その声だけが、言い争う二人の傍で、どこか穏やかに聞こえた。

 

―――

 

数十分後。

 

五人のウィッチは、エーゲ海の上空を飛んでいた。

 

午後の日差しが海面に砕け、細かな光がどこまでも続いている。格納庫にこもっていた油と金属の匂いは、もうなかった。肌に当たり続ける風と、ストライカーの推進音。その向こうに、水平線が一本、空と海を分けていた。

 

先頭を行くシャーリーの後ろに、ルッキーニがついていた。反対側にはマルセイユとライーサ。志乃は四人から離れ、さらに高い空域を飛んでいる。

 

『こちらシャーリー。そろそろデロス島が見えてくるはずだ』

 

『了解』

 

マルセイユの声が返る。そのすぐ後を、ルッキーニの声が追った。

 

『ねえ、シャーリー!』

 

『どうした、ルッキーニ?』

 

『あたし、先に行ってもいい?』

 

『だーめ。今日は勝手な行動はするなよ』

 

『えー!』

 

『おい、ルッキーニ。ちゃんと聞いておけ』

 

マルセイユが割って入った。

 

『わかってるよー!』

 

ルッキーニは頬を膨らませたが、先頭へ出ようとはしなかった。

 

上空でその会話を聞きながら、志乃は一定の速度を保っていた。四人の位置。進んでいく方向。会話に加わらなくても、それらを確かめる間隔は変わらなかった。

 

『あっ!』

 

ルッキーニの声が跳ねた。

 

『見えてきた! デロス島だ!』

 

水平線の上に、島影が現れていた。近づくにつれて、海岸の起伏が、ひとつずつ輪郭を取り戻していく。

 

『おっ、本当だな』

 

『ほら、シャーリー! あそこ!』

 

ルッキーニが島の一角を指した。

 

『あの柱、すっごく昔からあるんだよ!』

 

『へえ、すごいな』

 

『でしょでしょ!』

 

『古い神殿の跡もあるんですよね』

 

ライーサも、島へ目を向けていた。

 

『うん! 昔の建物がいーっぱいあるんだから!』

 

『だから、壊されたくないんだな』

 

『そうだよ!』

 

ルッキーニが大きく頷いた。

 

『絶対に守るんだから!』

 

『分かったよ。でも、無茶だけはするなよ?』

 

シャーリーの声には、笑みが残っていた。

 

『うん!』

 

そのやり取りを聞きながら、志乃も島の方へ顔を向けていた。

 

四人が見ている白い柱も、青い海も、日差しを受けた遺跡の色も、彼女には分からない。頬に陽の熱が当たり、風が帯の上を流れていく。それとは別に、魔法が周囲の形を捉えていた。海面の広がり。切り立った岩。離れ離れに立つ柱。

 

どこに何があり、どれだけ離れているのか。

 

形と距離が、志乃の前に世界を作っていた。同じ場所へ向かっていても、四人の声の中にある景色と、それは重ならなかった。

 

『……柊少佐』

 

シャーリーが呼びかけた。

 

『はい』

 

『そろそろ目標地点だ。あたしたちは高度を下げるけど、それでいいか?』

 

『ええ。私はここから様子を見ます』

 

『了解!』

 

四人が高度を下げた。島の北側へ回り込むと、切り立った岩壁の下に、洞窟が口を開けていた。陽を受ける岩肌の明るさに挟まれて、そこだけが深く暗い。

 

『あれか……』

 

シャーリーは速度を落とした。近くで見る入口は、写真から思い描いたものより大きかった。

 

『思ってたより大きいな』

 

『中はどうなってるんだろ?』

 

ルッキーニが身を乗り出す。入口を覗き込もうとしても、奥は光の届かないままだった。

 

海の上では、風を遮るものがない。髪も服も同じ方へ引かれているのに、洞窟の中は、動いているのかどうかすら分からなかった。岩壁の表面を視線で辿り、入口へ戻す。そのたびに、ルッキーニは奥から何かが出てくるのを待った。

 

『偵察写真のとおりなら、あの奥に敵がいるはずです』

 

ライーサが答えた。

 

『よし。作戦を確認するぞ』

 

シャーリーは、四人が揃っていることを確かめた。

 

『まずはマルセイユが敵を引きつける。その間にあたしとライーサが援護。敵が身体を出したところでルッキーニが爆弾を投下する』

 

『分かっている』

 

マルセイユの返事に迷いはなかった。

 

『私が引きつければいいんだろう?』

 

『そういうこと。頼んだぞ、アフリカの星!』

 

『ふん。誰に言っている』

 

『はいはい』

 

シャーリーは苦笑したが、次の声はすぐに引き締まった。

 

『ライーサ、行けるか?』

 

『はい。問題ありません』

 

『ルッキーニは?』

 

『ばっちり!』

 

ルッキーニの返事を聞くと、マルセイユが上空へ呼びかけた。

 

『……柊少佐。何かあれば指示を頼む』

 

『了解。無理は禁物です』

 

『言われなくても分かっている』

 

マルセイユが機体を傾けた。機銃の先が、洞窟の入口へ向く。

 

『よし、行くぞ!』

 

―――

 

マルセイユが降下した。

 

加速した機体が岩壁すれすれを横切っていく。洞窟の暗がりを視界の端に捉えた、その直後だった。

 

奥で、何かが動いた。

 

『来るぞ!』

 

シャーリーが叫んだ。

 

長い、黒い身体がせり出してきた。幾重にも節を重ねた装甲が、岩壁を這うように動いている。写真で見た蛇のような形が、今は奥から続く重さを伴って、目の前にあった。

 

それでも、全貌は見えなかった。胴体の先は、まだ洞窟の闇に呑まれている。

 

『なんだ、あの形!』

 

『ずいぶん変わった奴だな!』

 

シャーリーの声を背に、マルセイユは構わず接近した。

 

『ほら、こっちだ!』

 

機銃を掃射する。銃弾が装甲を叩き、黒い破片が飛び散った。だが、続く弾が同じ箇所へ届くより早く、長い身体がくねった。

 

黒い装甲が、岩の奥へ消えていく。

 

『ちっ!』

 

マルセイユが舌打ちした。

 

『逃げられたか!』

 

『もう一回だ!』

 

シャーリーが叫ぶ。

 

『今度はもっと引きつけろ!』

 

『分かっている!』

 

マルセイユは旋回し、再び洞窟へ向かった。先ほどの射撃の反響が消えきらないうちに、入口の奥で装甲が動く。

 

細長い身体の先端が現れた。

 

『来た!』

 

ルッキーニの声が上がる。

 

マルセイユが進路を変えた。今度はネウロイが、その後を追って身体を伸ばしてくる。黒い節が、もう一つ、明るい岩肌の前へ出た。

 

『今だ!』

 

シャーリーが叫んだ。

 

『ルッキーニ!』

 

『まっかせてー!』

 

ルッキーニが急降下した。搭載した爆弾を、ネウロイの頭上へ放す。

 

『いっけー!』

 

爆弾は機体を離れ、洞窟の入口へ落ちていった。ルッキーニは、その先を見ていた。そこへ当たれば、今度こそ。

 

離したものを、もう追いかけて掴み直すことはできない。落ちていく爆弾と、洞窟から伸びた黒い身体。その間の距離が縮まっていく。ルッキーニは口を開いたまま、次の声を出すより先に、その瞬間を待っていた。

 

黒い装甲の一部が動いた。

 

『……!?』

 

放たれたビームが、落下する爆弾を捉えた。

 

轟音。

 

洞窟の手前で、爆炎が膨らんだ。次の瞬間、熱を含んだ空気がルッキーニを押し上げた。

 

『うわあっ!?』

 

視界が傾く。機体が大きく流され、島と海が斜めに入れ替わった。

 

『ルッキーニ!』

 

シャーリーが急旋回した。

 

『大丈夫か!?』

 

『う、うん!』

 

ルッキーニは姿勢を立て直した。爆風に押された身体の向きが、ようやく進む方向と揃う。

 

『でも、爆弾が……!』

 

『迎撃されたか!』

 

マルセイユの声が響いた。

 

爆煙の向こうで、ネウロイが身体をくねらせていた。ライーサが機銃を構え、入口へ撃ち込む。銃口の振動が腕へ伝わったが、その照準から、敵の装甲はすぐに消えた。

 

『駄目です! 奥へ逃げられました!』

 

『ちっ!』

 

マルセイユが舌打ちした。

 

『厄介な奴だ!』

 

シャーリーは洞窟を見据えていた。誘い出すところまではできた。だが、爆弾は敵に届く前に迎撃された。機銃で装甲を削っても、決定打を与える前に岩の奥へ戻られてしまう。

 

晴れかけた煙の下で、入口だけがまた、何事もなかったように暗くなっていた。

 

『……一度、集まろう』

 

シャーリーが呼びかけた。

 

『このまま続けても埒が明かない』

 

『そうだな』

 

マルセイユの声が返る。

 

『そろそろ弾薬も心許ない』

 

『了解しました』

 

ライーサが旋回した。ルッキーニも遅れて三人の方へ戻ってくる。四人は洞窟から距離を取り、海岸線の上空で集まった。射撃を止めると、風と推進音が、急にはっきりと耳へ戻ってきた。

 

『……さて、どうする?』

 

シャーリーが尋ねた。

 

『どうすると言われてもな』

 

マルセイユが腕を組んだ。

 

『こちらの攻撃が通用しない以上、同じことを繰り返しても意味がない』

 

『だからって、諦めるのかよ』

 

『そうは言っていない!』

 

『二人とも……』

 

ライーサが口を挟んだ時、別の声が通信へ入った。

 

『各機、現在位置で待機』

 

四人が顔を上げた。

 

高空にいた志乃が、降りてきていた。黒いケープが風を受けてはためき、やがて四人の傍で収まる。彼女はその位置で静止した。

 

「作戦は失敗。帰投する」

 

短い言葉だった。

 

「……えっ?」

 

ルッキーニが志乃を見た。

 

「もう帰るの?」

 

「うん」

 

「でも! まだネウロイを倒してないよ!」

 

「現状の装備と戦術では難しいです」

 

「だったら、もう一回!」

 

「許可できない」

 

志乃は声を張らずに答えた。

 

ルッキーニは唇を噛んだ。帰れば、次は艦砲射撃になる。さっき空から見えた柱も、神殿も、砲撃の届くところにある。ここまで来て、目の前にあるのに。手を伸ばせば届きそうなくらい近くまで来て、ただ戻ることになる。

 

「……やだ」

 

風に紛れそうな声だった。

 

「ルッキーニ?」

 

シャーリーが振り返った。

 

「やだ!」

 

ルッキーニは洞窟へ顔を向けた。

 

「まだ、あたしがやれることあるもん!」

 

「おい、ルッキーニ!」

 

声が届くより早く、ストライカーの出力が上がった。ルッキーニの身体が洞窟へ向く。

 

その前に、黒い袖が伸びた。

 

「戻れ」

 

志乃の右腕が、横へ差し出されていた。ルッキーニの進もうとする先を、遮っている。

 

「……シノ?」

 

「これ以上の攻撃は認めない」

 

「でも!」

 

「戻れ、ルッキーニ少尉」

 

怒鳴る声ではなかった。今度は階級を添え、風の中で命令が繰り返された。腕は、下がらなかった。

 

「だって! このまま帰ったら、島が壊されちゃうじゃん!」

 

「……」

 

「シノも、あの島を壊していいと思ってるの!?」

 

志乃は答えなかった。黒い帯の下に、ルッキーニの知りたい表情は見つからない。

 

礼を言った時にも、同じように顔を傾けていた。あの時は行けることが嬉しくて、その先を考えなかった。今は目の前に腕があり、戻れという声がある。会議室で聞いた短い返事と、今の言葉が、うまく繋がらなかった。

 

「ねえ!」

 

「ルッキーニ」

 

「……なに?」

 

「君がここで命を落としても、島は守れない」

 

ルッキーニの顔が強張った。

 

「……!」

 

叱りつけられたわけではなかった。宥められたわけでもない。声は、それまでと同じ高さだった。その変わらなさの方が、言葉を耳に残した。

 

「帰投する」

 

志乃はそれだけ告げて、腕を下ろした。

 

ルッキーニは俯いた。出力を上げていた機体が、四人の傍に留まる。

 

「……わかった」

 

それから、もう一度言った。

 

「……戻るよ」

 

シャーリーはその横顔を見ていた。歯を食いしばっているのか、口元が固い。その顔を見てから志乃へ向き直ると、言葉が喉まで出掛かった。

 

「……柊少佐」

 

「何でしょう?」

 

「……いや」

 

飲み込んだ。

 

判断が間違っているとは思わなかった。ルッキーニが単独で洞窟へ入れば、さっきの爆弾のように、ビームが飛んでくるかもしれない。奥へ潜った敵を追えば、引き返す余地すら失う。止めるしかなかった。それは分かる。

 

けれど、あの言い方はないんじゃないか。

 

志乃の前で、何を言い足せばよいのか分からなかった。シャーリーは、ルッキーニの方へ身体を戻した。

 

「……行こうぜ、ルッキーニ」

 

「……うん」

 

ライーサも、その隣へ並んだ。

 

「まだ、全部終わったわけじゃありませんから」

 

「……うん」

 

志乃が通信機へ手を添えた。

 

『こちら柊。第一次攻撃を終了する。各機、帰投せよ』

 

『了解』

 

マルセイユが答えた。

 

『了解しました』

 

ライーサの返事が続く。シャーリーは最後にもう一度、島へ目を向けた。洞窟の入口に、爆発の跡が残っていた。その奥からは、何も出てこない。

 

敵はまだ、そこにいる。

 

『……了解』

 

シャーリーも答えた。

 

五人は、デロス島に背を向けた。

 

―――

 

帰路のエーゲ海は、夕暮れの色へ変わり始めていた。

 

海面に散っていた光が低くなり、機体の影がケープの上を滑っていく。五人の通信には、ほとんど声がなかった。

 

先頭を飛ぶシャーリーは、何度か後ろを振り返った。

 

ルッキーニはライーサと並んでいる。いつもなら、夕飯のことや、基地へ戻ってから何をして遊ぶかを、こちらが尋ねなくても話し出す頃だった。途中で話が飛んで、シャーリーが聞き返し、また次の話が始まる。

 

今日は、その声がなかった。

 

ルッキーニは俯きがちに飛んでいた。隣にライーサがいることだけが、見ていて幾分か救いだった。

 

シャーリーは息を吐いた。

 

――君がここで命を落としても、島は守れない。

 

風の音の中でも、あの言葉は消えなかった。

 

言われなくても、洞窟に入れるわけにはいかなかった。危険すぎる。自分だって止めただろう。ルッキーニを帰すためなら、腕を掴んででも引き戻したはずだ。

 

それでも、あんなふうに言い切られると、何かが胸に引っ掛かったままになる。

 

もう一度、振り返った。

 

四人から距離を取ったところを、志乃が飛んでいた。黒いケープを風になびかせ、誰とも話さず、一定の速度を保っている。目元の帯の下で何を考えているのか、やはり分からなかった。

 

ルッキーニを止めた時も、声は荒れていなかった。

 

怒っていたのでも、突き放そうとしたのでもなかったのかもしれない。

 

だとしたら、どうしてあんな言い方になるんだろう。

 

シャーリーは前へ向き直った。デロス島は、もう水平線の向こうへ消えかけていた。

 

戻ったところで、何を言えばいいのだろう。ルッキーニの肩を叩いて、次があると笑うことはできる。けれど、次に決まっているのが艦砲射撃であることは、自分も知っていた。通信機に添えかけた手を戻し、シャーリーは進路の先を見た。

 

やがて、進路の先にクレタ島の基地が見え始めた。五人は高度を下げ、着陸態勢へ入った。推進音が、夕暮れの空へ低く重なっていった。

 

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## Scene 03 ―― 帰還、そして約束

 

クレタ島、連合軍基地。

 

滑走路の上へ、五つの影が長く伸びた。

 

西へ傾いた陽が、地面も格納庫の壁も赤く染めている。着陸した機体の周りを、乾いた土埃が低く流れていった。海上ではあれほど耳についていた風の音が、推進音の止まった途端、ひどく遠いものになる。

 

シャーリーは先に着陸し、ストライカーユニットを外した。両足で地面に立ってから、肩越しに後ろを見る。

 

ライーサが、ルッキーニの機体を支えていた。

 

「ほら、ルッキーニ。足元、気をつけてくださいね」

 

「……うん」

 

返事は、それだけだった。差し出された手に従って足を下ろしても、少女の顔は上がらない。いつもなら真っ先に聞こえてくる声を待ってしまい、シャーリーは息を吐いた。

 

「……ったく」

 

「なんだ、リベリオン。ずいぶん元気がないじゃないか」

 

後から降り立ったマルセイユの声だった。

 

「誰のせいだと思ってるんだよ」

 

「ほう? 私のせいだとでも?」

 

「そうは言ってないだろ!」

 

「なら、そういう顔をするな」

 

「お前なあ……!」

 

「二人とも、もうやめましょうよ……」

 

ライーサが間に入る。普段なら、その困った顔を面白がってルッキーニが騒ぎを大きくするところだった。

 

だが、今日は何も言わない。

 

俯いた頭を見て、シャーリーは続けかけた言葉を飲み込んだ。マルセイユへ向けていた身体を戻す。

 

「……まあ、いいや」

 

最後に、試製秋水の推進が止まった。

 

志乃が地面へ降り立ち、近づいてきた整備兵へ機体を預ける。

 

「推進機構の点検をお願いします」

 

「了解しました、少佐」

 

志乃は頷き、風にめくれた黒いケープの裾を整えた。出撃前、作戦会議室にいたときと変わらない。腰にも背中にも、武器らしいものは見当たらなかった。赤い陽を受けても、その黒だけは濃いままだった。

 

「……志乃」

 

マルセイユが呼んだ。

 

「どうしたの?」

 

志乃が、その方へ顔を向けた。整備兵に点検を頼んでいたときより、言葉の調子がくだけている。

 

「報告に行くぞ」

 

「うん」

 

五人は滑走路を離れた。機体を運ぶ整備兵たちの間を抜け、作戦会議室へと向かっていく。ルッキーニの足音は、シャーリーのすぐ後ろに続いていた。

 

―――

 

海図の上に、窓枠の影が斜めに掛かっていた。

 

デロス島の輪郭も、周囲に広がる海の色も、出撃前と変わっていない。机を囲む顔だけが違っていた。誰もが一度はあの洞窟の前へ行き、そして、何も終わらせられずに戻ってきた。

 

「……つまり、敵の誘い出しには成功したものの、爆弾は迎撃されたということだな」

 

ノイマン大佐が報告書を机に置いた。紙の端が海図を擦る音がした。

 

「はい」

 

シャーリーが答えた。

 

「ネウロイは予想以上に素早く、こちらの攻撃にも反応しました。爆弾を落としても、あれじゃ簡単には当たりません」

 

「ふむ……」

 

ロンメル将軍は腕を組み、海図から顔を上げた。

 

「マルセイユ大尉。君はどう見る?」

 

「正面からの攻撃では厳しいかと。あのネウロイは洞窟の地形を上手く利用しています。多少の損傷を与えても、すぐに内部へ引き返してしまう」

 

「なるほど」

 

「それに、上方への迎撃能力も確認されました」

 

ライーサが続ける。マルセイユと同じように背筋を伸ばし、一つずつ、確認できたことを言葉にした。

 

「爆弾を投下した時点で反応されています。再度同じ攻撃を行っても、成功する可能性は低いと思います」

 

「……そうか」

 

ロンメルが頷いた。その隣で、ノイマンは資料に目を落とした。

 

「であれば、当初の計画に戻すしかあるまい」

 

ルッキーニの肩が固くなった。

 

その先に続く言葉は、もう分かっていた。分かっていても、聞かずに済むものなら聞きたくなかった。机の上にある島の形を、少女は見つめた。

 

「ヴェネツィア艦隊による艦砲射撃を予定どおり実施する。諸君には艦隊の護衛と、洞窟から出てきた敵への対処を命じる」

 

「……!」

 

ルッキーニが顔を上げた。

 

「そんな……」

 

ノイマンの視線が、海図から少女へ移った。

 

「ルッキーニ少尉。残念だが、我々にも守らなければならないものがある」

 

「でも……」

 

「君たちには機会を与えた。その結果を踏まえての判断だ」

 

口を開いたまま、ルッキーニは言葉を失った。

 

作戦は失敗した。戻ってきた自分たちの誰にも、それを変える報告はできない。シャーリーは唇を噛み、机の縁へ落としていた視線を持ち上げた。

 

「それから、マルセイユ大尉」

 

「はっ」

 

「アフリカの星ともあろう者が、ずいぶんと不甲斐ない結果ではないか」

 

マルセイユの顎が引かれた。さっきまでの報告とは違う硬さが、その顔に現れる。

 

「……申し訳ありません」

 

「君には期待していたのだがな」

 

「……」

 

「次の作戦では、その名に恥じない働きを見せてもらいたい」

 

「了解しました」

 

マルセイユは敬礼した。指先まで揃ったその手を、ライーサが横から見つめている。声を掛けることのできる場ではなかった。

 

ノイマンは続いて志乃へ向き直った。

 

「柊少佐」

 

「はい」

 

「撤退を判断したのは君だな?」

 

「はい」

 

「その判断に間違いはなかったと考えているか?」

 

「はい。現状の戦力で攻撃を継続しても、損害が増える可能性が高いと判断しました」

 

「……そうか」

 

ノイマンは頷いた。志乃の返答には、弁明するような響きも、ためらいもなかった。

 

「ルッキーニ少尉の独断行動についても報告を受けている。監督として、各員の行動には十分注意するように」

 

「承知しました」

 

それ以上、志乃は付け加えなかった。

 

ロンメルが五人を見渡す。窓から入る光は、海図の片側へ寄り始めていた。

 

「ともかく、全員が無事に帰還できたことは何よりだ」

 

将軍は、先ほどより声を和らげた。

 

「戦いはまだ終わっていない。明日も諸君の力を借りることになる」

 

五人は敬礼した。

 

会議が終わると、ルッキーニは誰よりも早く扉へ向かった。椅子や机を避ける足取りにも、振り返る気配がない。

 

「……ルッキーニ」

 

シャーリーの声は届いたはずだった。それでも少女は顔を向けず、部屋を出ていった。ライーサがその後を追う。

 

シャーリーは、閉じた扉を見ていた。

 

―――

 

格納庫では、帰還したストライカーユニットが整備台へ運び込まれていた。

 

開け放たれた入口から夕方の光が差し込み、床に長い四角を作っている。その内側を人が行き来するたび、影が横切った。機体の金属はまだ昼間の熱を残し、油の匂いに混じって、工具が打ち合う高い音が響いていた。

 

「……まったく」

 

戻ってきたマルセイユが、息を吐く。

 

「散々な作戦だったな」

 

「……なんだよ」

 

シャーリーが振り返った。

 

「まだ何か言いたいことでもあるのか?」

 

「別に。ただ、作戦に失敗したうえに命令違反まで出るとはな」

 

「ルッキーニのことなら、もういいだろ」

 

「よくないな」

 

マルセイユは腕を組んだ。シャーリーから目を逸らさない。

 

「あのまま洞窟へ入っていたら、どうなっていたと思う?」

 

「そんなこと分かってるよ!」

 

「なら、なぜ止めなかった?」

 

「止めただろ!」

 

「止まっていなかったじゃないか!」

 

その声が、天井の高い格納庫に強く返った。

 

「志乃が止めなかったら、今頃どうなっていたことか」

 

「……っ!」

 

シャーリーの眉が吊り上がる。洞窟へ向かったルッキーニの姿が、言葉と一緒に突きつけられた。分かっていることを、もう一度、目の前で言われていた。

 

「だったら、お前はどうなんだよ!」

 

「何?」

 

「アフリカの星だか何だか知らないけどさ! お前だって結局、あのネウロイを倒せなかっただろ!」

 

「なんだと!?」

 

マルセイユが踏み出した。床を打った靴音に、シャーリーも一歩詰める。

 

「それとこれとは別の話だ!」

 

「都合のいいこと言うなよ!」

 

「お前こそ、責任を他人に押しつけるな!」

 

二人の間から、距離がなくなっていった。

 

いつもの口喧嘩なら、どこかに相手の反応を楽しむ余裕がある。今日はそれがなかった。ノイマンの叱責も、作戦の失敗も、帰りの空を飛んでいたときから胸に残っていた。何より、あのネウロイを倒せなかった。二人とも、それだけは相手のせいにできないと知っていた。

 

「……そこまでにしてください」

 

工具の音の間を通って、穏やかな声が届いた。

 

離れた場所で整備兵と話していた志乃が、こちらへ歩いてくる。黒いケープの裾が、床の光を横切った。二人の間へ入り、その足が止まる。

 

「作戦はもう終わっています。ここで言い争っても、仕方ありません」

 

シャーリーは向き直った。

 

「……柊少佐。そういえば、あんたにも聞きたいことがあったんだ」

 

志乃は返事を挟まず、その声の方へ顔を向けた。

 

「さっき、ルッキーニに言っただろ。命を落としても島は守れない、って」

 

「言いました」

 

「あんた、あいつがどんな顔してたか分かってんのか?」

 

答えはなかった。シャーリーはその顔を見つめた。言葉遣いは丁寧だった。けれど、その顔からは、どう受け止められたのかが分からない。

 

「ルッキーニは、ただ島を守りたかったんだよ。それを、あんな言い方しなくたっていいだろ!」

 

「単独での突入は危険でした」

 

「そんなの分かってる!」

 

声が、思ったよりも大きく出た。喉の奥に力が入ったまま、シャーリーは続ける。

 

「だからって、あいつの気持ちを考えなくていいってことにはならないだろ!」

 

「……」

 

「そもそも、あんたは何のために上空にいたんだよ!」

 

志乃が顔を傾けた。

 

「監督を任されていましたから」

 

「そういうことを聞いてるんじゃない!」

 

シャーリーは一歩近づいた。もう、マルセイユへ向けていた苛立ちだけではなかった。問いには答えが返る。それでも、ルッキーニのことを話そうとするほど、訊きたいことから離れていく。そのことが、胸の内側を熱くした。

 

「もし何かあったら、助けるためじゃないのか!?」

 

「……」

 

「ルッキーニが洞窟に入ったとしても、あんたなら助けられたんじゃないのか!?」

 

すぐ近くで、工具が金属を擦った。

 

返答までの間、志乃は動かなかった。

 

「……私には、守ることができない」

 

「…………は?」

 

シャーリーの口元が止まった。

 

「……今、何て言った?」

 

「私には守ることができない」

 

同じ声だった。

 

聞き違いではなかった。言い直したその言葉にも、苦しさや怒りを読み取れるような揺れがない。シャーリーは、志乃を見つめたまま息を吸った。

 

「……お前」

 

指が掌へ食い込んだ。

 

「お前、それ本気で言ってるのか?」

 

「……ええ」

 

「だったら、最初から助けるつもりなんかなかったってことか!?」

 

「……」

 

「ルッキーニが危険な目に遭っても、何もできないから仕方ないって、そう言いたいのかよ!」

 

志乃は答えなかった。

 

シャーリーは奥歯を噛んだ。俯いていたルッキーニの顔が、頭から離れなかった。その前で言った言葉を、今も同じ調子で口にできる。それが、どうしても許せなかった。

 

「……ふざけんなよ」

 

「リベリオン!」

 

マルセイユの声がした。

 

聞こえていた。それでも、足は止まらなかった。

 

「だったら、そんな簡単に言うなよッ!」

 

シャーリーが踏み込む。

 

握り込んだ拳が、志乃の顔へ向かった。

 

「シャーリー!」

 

叫び声が重なった。

 

届く距離だった。志乃は目の前に立っている。身を引いてもいない。顔を背ける動きさえなかった。

 

それなのに、拳は空を切った。

 

「……えっ?」

 

当たる寸前まで見えていたものが、その先だけ、繋がらなかった。

 

拳が横へ流れている。弾かれた衝撃はない。シールドの光もなかった。打ちつけるはずだった力はどこにも受け止められず、そのままシャーリー自身の身体を引っ張っていった。

 

「うわっ……!」

 

志乃のすぐ横を抜け、前へつんのめる。その向こうにいたマルセイユの身体が、急に近づいた。

 

「おいっ!」

 

両肩を掴まれた。マルセイユが足を踏ん張り、倒れ込んできたシャーリーを受け止める。

 

「リベリオン! 何をしている!」

 

「い、いや、今のは……!」

 

シャーリーは慌てて身体を起こした。

 

拳には、何の手応えも残っていない。避けられたわけでも、受け止められたわけでもなかった。そこにいた相手へ向けて、ただ殴った。それだけの動きの終わりが、なくなっていた。

 

振り返る。

 

志乃は、もう背を向けていた。

 

何も言い残さず、顔も向けずに歩いていく。揺れる黒いケープが、夕方の光の外へ出た。格納庫の奥で、その輪郭が暗くなる。

 

「……柊?」

 

返事はなかった。

 

「……おい、リベリオン」

 

マルセイユに呼ばれ、シャーリーはようやく顔を戻した。

 

「何を考えている! 相手は上官だぞ!」

 

「……分かってるよ」

 

「だったら少し頭を冷やせ」

 

言い返す言葉は出てこなかった。

 

上官を殴ろうとした。その事実が、今になって胸へ戻ってくる。だが、拳が届かなかった理由は、考え直しても分からない。二つのことを一緒に思おうとすると、頭の中でどちらも途切れた。

 

掌が痛かった。

 

シャーリーは自分の手へ目を落とす。指先が震えていた。固く握ったままだった拳を、一本ずつ、ほどくように開いた。

 

―――

 

日が沈むと、中庭の建物は互いに重なる暗い影になった。

 

頭上には薄い雲が広がっている。海から入ってきた風が建物の角を回り、外階段を上へ抜けていった。

 

「……はあ」

 

ルッキーニは、階段の途中に座っていた。

 

抱えた膝の上へ顎を下ろし、足元を見ている。いつもなら、もう食堂へ駆け込んでいる時間だった。夕食を思い浮かべてみても、立ち上がろうという気にはなれない。お腹がすいているかどうかも、よく分からなかった。

 

「……ルッキーニさん?」

 

顔を上げると、ライーサがいた。階段の下から、こちらを見上げている。

 

「ここにいたんですね」

 

「……ライーサ」

 

「隣、いいですか?」

 

「……うん」

 

ライーサは段を上がり、隣へ腰を下ろした。座り直したとき、衣服が階段の面を擦る音がした。それきり、どちらも口を開かなかった。

 

格納庫の方から、整備兵たちの声が聞こえてくる。遠い声は言葉になる前に風へ混じり、ときおり工具の音だけが、はっきりと届いた。まだ、作業が続いている。

 

「……シャーリーさん、心配してましたよ」

 

ライーサが話しかけた。

 

「……うん」

 

「夕食も一緒にどうかって」

 

「……お腹すいてない」

 

「そうですか」

 

それ以上は勧めず、ライーサは少女の横に座っていた。

 

風が、ルッキーニの髪を頬へ運んだ。手で払うと、また膝を抱える。ライーサが急かさずにいることは、分かっていた。何を言えばいいのか決まらないまま、しばらく、階段の下を見ていた。

 

「……ねえ、ライーサ」

 

「はい?」

 

「やっぱり、島は壊されちゃうのかな」

 

ライーサはすぐには答えなかった。ここからデロス島は見えない。それでも、少女が向けている目の先に何があるのかは分かった。

 

「……作戦が変更されなければ、そうなると思います」

 

「……そっか」

 

膝へ顔を埋めると、自分の声がくぐもって聞こえた。

 

「……やだなあ」

 

ライーサは、隣で丸くなった背中を見ていた。会議室で命令を聞いたときよりも、少女の身体が幼く見える。

 

「ルッキーニさん」

 

「……なに?」

 

「どうして、そんなにデロス島を守りたいんですか?」

 

膝に押しつけていた頬が離れた。

 

「……あそこね」

 

言い始めてから、ルッキーニは一度、息を継いだ。

 

「パパとママと、初めて旅行に行った場所なんだ」

 

「……そうだったんですか」

 

「うん」

 

ルッキーニは、建物の屋根の向こうへ視線を移した。まだ明るさの残っている空が、雲の下に細く見えていた。

 

「あたし、まだちっちゃかったから、あんまり覚えてないんだけどね」

 

「はい」

 

「でも、すっごく楽しかったのは覚えてる」

 

口元がほころんだ。思い出そうとすると、細かな順番は曖昧だった。それでも、楽しかったということだけは、誰かに確かめるまでもなかった。

 

「パパがね、色んなところに連れていってくれたんだ。昔の神殿とか、大きな石の柱がいっぱいあるところとか」

 

「へえ……」

 

「ママも一緒でね、みんなでいっぱい歩いたの!」

 

ルッキーニは抱えていた膝から手を離し、両腕を広げた。さっきまで縮めていた肩が開く。その仕草の中に、ライーサの知っている少女が戻ってきた。

 

「それでね、パパが言ったんだ」

 

「なんて?」

 

「戦争が終わったら、また三人で来ようって」

 

ライーサは、何も挟まずに聞いていた。

 

広げていたルッキーニの手が、膝へ戻る。

 

「……でも、まだ行けてないんだ」

 

空へ向いていた顔が、下がった。

 

「だから、あそこがなくなっちゃったら……」

 

続けようとして、唇が止まる。ライーサは続きを求めなかった。少女がもう一度口を開くまで、隣で待った。

 

「……もう、行けなくなっちゃう」

 

ライーサは、膝の上で自分の手を重ねた。

 

島を守りたい。

 

会議室で繰り返された言葉の向こうに、ようやく、別の景色が見えた気がした。古い神殿や石の柱。その間を、両親と並んで歩いた少女。もう一度そこへ行くという約束は、まだ果たされていない。

 

あの島が壊れることを、ルッキーニはその場所から考えていたのだ。

 

「……ルッキーニさん」

 

「なに?」

 

「ご家族のこと、大好きなんですね」

 

「……うん」

 

少女は頷いた。今度は、答えまでに迷う間がなかった。

 

「大好き」

 

ライーサは微笑んだ。

 

「そうですか」

 

二人は、そのまま並んで座っていた。

 

建物の間を抜ける風が、さっきより冷たくなっていた。中庭の上に残っていた明るい空も、いつの間にか薄れている。

 

やがて、ライーサが立ち上がった。

 

「……そろそろ戻りましょうか」

 

「……うん」

 

「シャーリーさんも待ってますよ」

 

ルッキーニは膝を抱いた手をほどいた。すぐには動かなかったが、やがて階段に手をつき、ゆっくり腰を上げる。

 

「ねえ、ライーサ」

 

「はい?」

 

「……あたし、やっぱり諦めたくない」

 

ライーサは少女を見た。立ち上がっても、二人の目の高さは違う。今は、その目が逸れずにこちらを向いていた。

 

「……そうですね」

 

ライーサは声を和らげた。

 

「私も、できれば壊したくありません」

 

ルッキーニの顔が上がった。

 

「ほんと?」

 

「はい」

 

ライーサは笑ってから、少女の目を見て付け加えた。

 

「でも、今度は一人で行っちゃだめですよ?」

 

「……うん」

 

ルッキーニの笑顔に、気まずそうなものが混じる。

 

「ごめんなさい」

 

「ふふっ」

 

ライーサは手を伸ばし、その頭を撫でた。風に乱れた髪が、掌の下で柔らかく伏せる。

 

「さあ、行きましょう」

 

二人は並んで階段を下り、建物へ戻っていった。入口の明かりの中へ、ルッキーニの足が先に入った。

 

―――

 

その頃、基地の浴場では、湯気が高いところまで立ち上っていた。

 

「……まったく、今日は散々だったな」

 

マルセイユが湯船の中で息を吐いた。肩を沈めると、縁へ向かって広がった湯が、壁に当たって戻ってくる。

 

「リベリオンの奴と組まされた挙げ句、ネウロイを一機も落とせずに帰ってくるとは……」

 

天井を見上げた。

 

湯に入っても、ノイマンの声は耳から離れなかった。アフリカの星。その呼び名を、マルセイユ自身も誇りに思っている。ここへ来たときから、それに見合う働きをするつもりだった。

 

だが、今日は一機も落とせなかった。

 

その事実は、湯の熱で身体が緩んでも変わらない。

 

「……ふん」

 

鼻を鳴らしたとき、浴場の扉が開いた。

 

「ハンナ?」

 

「ライか」

 

「ここにいたんですね」

 

「なんだ、探していたのか?」

 

「はい。少しお話があって」

 

ライーサは身体を洗い、湯船に入った。マルセイユの隣へ腰を下ろすと、水面がまた揺れる。

 

「……あの、ルッキーニさんのことなんですけど」

 

「……あのチビか」

 

「はい」

 

マルセイユは腕を組んだ。

 

「ずいぶん無茶をする奴だな。命令も聞かずに洞窟へ突っ込もうとするなんて」

 

「……そうですね」

 

「志乃が止めなかったらどうなっていたことか」

 

「でも、理由があったみたいなんです」

 

「理由?」

 

ライーサは、外階段で聞いた話を伝えた。

 

幼いルッキーニが、両親と初めてデロス島へ旅行したこと。神殿や石の柱を見て回り、今も、楽しかったことをよく覚えているということ。そして、戦争が終わったら、三人でもう一度訪れる約束をしていること。

 

マルセイユは口を挟まなかった。腕を組んだ姿勢のまま、ライーサの声を聞いていた。

 

「……そうか」

 

話が終わると、短く言った。

 

「だから、あそこまで必死だったのか」

 

「はい」

 

ライーサは頷いた。

 

「ただ遺跡を守りたいだけじゃなかったんですね」

 

「……ふむ」

 

マルセイユは天井へ顔を向けた。さっきから同じところに、湯気で曇った明かりが見えている。

 

「だが、だからといって命令違反が許されるわけではない」

 

「それは、そうですけど……」

 

「……」

 

湯が、縁に当たって音を立てた。

 

マルセイユは、その先を言わなかった。命令に従うべきだったという考えは変わらない。それでも、洞窟へ突っ込もうとした少女の姿が、話を聞く前と同じには見えなくなっていた。

 

「……戦争が終わったら、か」

 

「ハンナ?」

 

「いや、何でもない」

 

戦争が終わったら、家族であの島へ行く。

 

そんな約束があるとは知らなかった。今日、自分が戦ったあの島に、少女はまだ先の時間を持っていた。

 

マルセイユは、天井から目を戻さずに呟いた。

 

「……まったく」

 

息を一つ、吐く。

 

「面倒なことになったな」

 

言葉はそうでも、先ほどの苛立ちはもう、その声に残っていなかった。

 

「……あの、ハンナ」

 

「なんだ?」

 

「もう一つ、聞いてもいいですか?」

 

「ん?」

 

ライーサは口を開きかけ、隣の顔を見た。それから、ためらっていた言葉を続ける。

 

「……柊少佐のことなんですけど」

 

マルセイユの表情が変わった。湯の縁へ預けていた身体が、わずかに動く。

 

「志乃?」

 

ライーサは、その呼び声に笑みを浮かべた。

 

志乃の名を口にするとき、ハンナの声が、ほんのわずかに柔らかくなる。今日一日、一緒にいるうちに、何となく気づいていたことだった。今も隣で聞いていて、その違いが分かった。

 

「はい。今日、作戦会議で柊少佐がいらっしゃったとき、ハンナ、すごく驚いてましたよね」

 

「……ああ」

 

「昔からのお知り合いなんですか?」

 

「アフリカで一緒に戦ったことがある」

 

「どんな方だったんです?」

 

「……どんな、か」

 

マルセイユは湯船の縁へ頭を預けた。

 

すぐには言葉が出てこなかった。顔を合わせたときの驚きだけなら、説明はできる。だが、どんな人間だったかと訊かれると、思い浮かぶものは、いつも同じ場所へ戻っていった。

 

「……ライ」

 

「はい?」

 

「お前、アフリカの戦線が崩壊しかけたことを知っているか?」

 

「何度も危ない時期があったとは聞いていますけど……」

 

「そうだな。その中でも、特にひどい戦いがあった」

 

マルセイユは目を閉じた。

 

湯に温められた瞼の裏へ、乾いた大地の色が戻ってきた。

 

「……あれは忘れられない」

 

―――

 

数年前。アフリカ戦線。

 

砲声が、乾いた大地を震わせていた。

 

最前線の陸上部隊は、すでに壊滅的な損害を受けていた。砲撃を続けていた戦車が撃ち抜かれ、その隣でもう一台が炎を上げる。黒煙の根元を、兵士たちが低い姿勢で走った。立ち上る煙は一か所ではない。見渡す先のあちこちで、空が黒く汚れていた。

 

ウィッチたちは、その上で迎撃を続けていた。

 

「くそっ! まだ来るのか!」

 

一人が叫んだ。

 

地平線の向こうから、また黒い影が現れた。一機を落としても、その後ろに次がいる。照準の先で敵を砕いた破片が消える頃には、もう別の機体が同じ空を埋めていた。

 

数えようのないネウロイが、前へ出てくる。

 

『こちら前線指揮所! 各部隊へ告ぐ!』

 

無線の声が切迫していた。地上の爆発音に重なっても、その息の詰まった調子は聞き取れた。

 

『これ以上の戦線維持は不可能! 全部隊、直ちに撤退せよ!』

 

「撤退!?」

 

『繰り返す! 全部隊、後方陣地まで撤退!』

 

部隊が動き始めた。

 

残った車両が向きを変え、兵士たちがその後を追う。だが、退却する車列へ、ビームが降り注いだ。地面が爆ぜ、土が車体より高く吹き上がる。横転した車両の傍から、兵士たちが散り散りに走り出した。

 

「駄目だ! これじゃ撤退できない!」

 

「敵が近すぎる!」

 

上空のウィッチたちにも、余力は残っていなかった。

 

弾薬が尽きかけている。負傷して飛び続けている者も少なくない。後方へ向かおうとすれば、その背をネウロイが追った。誰かを援護するために振り向けば、下がるはずだった距離を詰められる。

 

撤退の命令は出た。

 

それでも、この空から抜けられない。

 

このままでは全滅する。そのことを、誰も口に出す必要がなかった。

 

『……各機へ』

 

無線に、別の声が入った。

 

怒鳴ってはいない。途切れる銃声の間に、落ち着いた声が届いた。

 

『私がここで時間を稼ぎます。皆さんは、その間に撤退してください』

 

「……え?」

 

聞き慣れない声だった。

 

『あなたは……!?』

 

『……柊です』

 

短い返答の後、声は続いた。

 

『負傷者の撤退を優先してください』

 

「ま、待ってください!」

 

一人のウィッチが声を上げる。

 

『一人では無理です!』

 

『……』

 

『あの数を相手に、一人でなんて!』

 

通信が、短く空いた。その間も、敵影は近づいてきていた。

 

『……時間がありません。行ってください』

 

「でも!」

 

『早く』

 

それを最後に、通信が切れた。

 

ウィッチたちは顔を見合わせた。誰も、残ると言ったその機を連れ戻しには動けなかった。下では今も、兵士たちが車列の間を逃げている。

 

「……全機、後退!」

 

一人が叫んだ。

 

「負傷者を優先! 急いで!」

 

各機が向きを変え、陸上部隊の撤退する方へ下がっていった。

 

ただ一機が、その流れを遡っていた。

 

黒い軍服。風に引かれるケープ。両眼を覆った黒い帯。

 

そのウィッチは、一度も後ろを振り返らなかった。去っていく仲間たちから離れ、無数の黒い影へ向かっていく。向きの違うその一機だけが、敵との間の距離を縮めていった。

 

―――

 

「何だと!?」

 

後方陣地で、マルセイユは兵士の報告を聞き返した。

 

「前線にウィッチが一人残っているだと!?」

 

「は、はい!」

 

答えた兵士の顔には、泥と煤がこびりついていた。帰還したばかりの身体が、まだ息を整えきれていない。

 

「我々の撤退を援護すると……柊というウィッチが、一人で残ってくれました!」

 

「……柊?」

 

聞き覚えのない名前だった。

 

今回の作戦に、他の戦域から派遣されたウィッチが加わっていることは知っている。だが、その全員と顔を合わせたわけではなかった。名前に対応する顔が浮かばないことが、今はひどくもどかしかった。

 

「どこの部隊の者だ!?」

 

「分かりません! 無線でそう名乗ったと……!」

 

「そのウィッチは、まだ前線にいるのか!?」

 

「最後に確認したときには……!」

 

「通信は!?」

 

「途絶えています!」

 

マルセイユは歯を食いしばった。

 

前線の報告は、逐次入ってきていた。圧倒的な数の敵。支えきれなくなったウィッチ部隊と陸上部隊。撤退を命じられてなお、退路を攻撃され続けていたという。

 

そこに、一人で残った。

 

まだ顔も知らないウィッチが、今もあの空の下にいる。

 

「……馬鹿な」

 

声が漏れた。

 

「何を考えているんだ……!」

 

「マルセイユ大尉!」

 

別の兵士が駆け寄ってきた。

 

「第二陣の出撃準備が整いました!」

 

「よし、私も行く!」

 

「しかし、大尉は先ほど帰還されたばかりで……!」

 

「そんなことはどうでもいい!」

 

言い終わるより先に、マルセイユはストライカーユニットへ向かっていた。

 

「まだ一人、前線に残っているんだぞ!」

 

装備を整える手を止めなかった。自分が帰還したばかりかどうかなど、考える理由にならない。第二陣が、救援へ向けて次々と離陸していく。

 

『各機、急げ!』

 

マルセイユは、その先頭を飛んだ。

 

『生存者を確認次第、直ちに援護する!』

 

呼びかけても、前線からは返答がなかった。

 

聞こえてくるのは、遠方の爆発音だけだった。風の唸りの奥で一つ響き、途切れ、また別の音がする。そのたびに、マルセイユは進行方向を見据えた。

 

『……くそっ』

 

速度を上げる。もっと先へ行かなければ、何も見えなかった。

 

『間に合ってくれ……!』

 

―――

 

やがて、戦場が見えた。

 

「……なんだ、これは」

 

マルセイユは呟いた。

 

乾いた大地が、黒く焼けていた。破壊された戦車の砲身が傾き、剥がれた装甲片が地面へ突き刺さっている。その間に、ネウロイの残骸があった。一つの交戦地点だけではない。目を走らせた先の至るところに、激しい戦闘の跡が続いていた。

 

だが、空が空いていた。

 

『……敵は?』

 

後続のウィッチが訊いた。

 

『ネウロイは、どこへ行ったんですか?』

 

誰も答えなかった。

 

押し寄せていたはずだった。一個戦線を押し潰しかねない数が、撤退する部隊を追っていた。そのほとんどが、もうどこにも見当たらない。

 

マルセイユは、焼けた地面から上空へ、もう一度視線を走らせた。

 

『……馬鹿な』

 

残っていた数機のネウロイに、第二陣が向かった。

 

銃声が響く。散発的な射撃が終わるまでに、長くは掛からなかった。最後の敵影が砕け、空から消えていく。

 

『こちらマルセイユ! 前線の状況を確認する!』

 

マルセイユは高度を下げた。

 

焦げた大地が近づいてくる。戦車と残骸の間を見ていく。そのどこかに、残ったウィッチがいるはずだった。

 

『……あっ!』

 

後続から声が上がった。

 

『あそこに誰かいます!』

 

指示された方へ顔を向ける。

 

戦場の中心に、一人が立っていた。

 

「……!」

 

黒い軍服と、肩から垂れ下がるケープ。顔に巻かれた黒い帯が、両眼を覆っている。

 

近づいてみれば、それは少女だった。

 

「……おい!」

 

マルセイユは降下した。地面へ足を下ろすと、そのまま駆け寄る。靴の下で、焼けた土が崩れた。

 

「おい! 大丈夫か!?」

 

少女が声の方へ顔を向けた。

 

「……ええ」

 

息を切らしたマルセイユに、落ち着いた声が返ってきた。

 

「……お前が、柊か?」

 

「……はい」

 

マルセイユは息を呑んだ。

 

軍服は煤と土埃にまみれていた。ケープの端が裂け、その下の足元には、砕けたネウロイの装甲片がいくつも転がっている。黒い帯の下に覗く顔にも、煤がついていた。

 

他のウィッチはいない。

 

どこを見ても、ここに立っているのは、この少女だけだった。

 

「……敵は?」

 

「ほとんど倒しました」

 

「倒したって……」

 

マルセイユは辺りを見回した。

 

目の前にあるものは、上空から見たときよりも生々しかった。焼けた土。形の分からなくなった残骸。地面に残る破壊の跡。その中心に立つ少女を見てからでは、何もかもが一度には頭へ入ってこなかった。

 

「……お前が、全部やったのか?」

 

少女は答えなかった。

 

代わりに、顔をこちらへ向けたまま訊いた。

 

「……撤退は?」

 

「……え?」

 

「皆は、無事に撤退できましたか?」

 

返事が遅れた。

 

マルセイユは、少女の顔を見た。自分の周囲に何が残っているかよりも、後方へ行った者たちのことを確かめようとしていた。

 

「あ、ああ……」

 

ようやく、声が出た。

 

「損害は出たが、残った部隊は後方陣地まで下がっている」

 

「……そうですか」

 

少女は頷いた。

 

「よかった」

 

それきり、何も言わなかった。

 

マルセイユは唇を引き結んだ。

 

「……お前」

 

一歩、近づく。

 

「お前、何を考えているんだ……?」

 

「……?」

 

「一人で、あの数を相手にして……!」

 

返答はない。黒い帯に隠れた目がどこを向いているのか、マルセイユには見えなかった。

 

もう一歩進み、両手でその肩を掴んだ。

 

「……っ!」

 

掴んだ勢いのまま、身体を引き寄せていた。煤に汚れた軍服の感触が、掌に伝わってくる。そこに、確かに人の身体があった。

 

「馬鹿者……!」

 

声が震えた。

 

「お前、死ぬつもりだったのか!?」

 

「……」

 

「一人で残って、皆を逃がして……!」

 

マルセイユは歯を食いしばった。そうしないと、言おうとする声がうまく続かなかった。

 

「……それで、自分はどうなってもよかったのか!」

 

しばらくして、少女が答えた。

 

「……撤退させる必要がありました」

 

声は変わらなかった。肩を掴まれたまま、ただ、その理由を口にしていた。

 

「そんなことは分かっている!」

 

マルセイユの声が荒くなる。

 

「分かっているが……!」

 

その先が出てこなかった。

 

煤のついた顔を、見つめた。傷んだ軍服を着て、それでも背筋を伸ばしている。今、自分に何が起きたかではなく、先に撤退した者たちの安否を尋ねてきた。

 

その気持ちが分からないわけではなかった。

 

自分でも、仲間を見捨てて行くことはできない。兵士たちが逃げるための時間が必要なら、最後まで戦おうとしただろう。だからこそ、ここへ向かっている間、何を考えずにはいられなかったかも分かる。

 

間に合わなかったかもしれない。

 

目の前に立っている相手が、もういなかったかもしれない。その結末を、今になっても、頭から追い出せなかった。

 

「……っ」

 

目の奥が熱くなった。マルセイユは瞬きをしたが、浮かんだ涙はすぐには消えなかった。

 

「……生きていて、よかった」

 

声はほとんど、自分の口元に落ちた。

 

少女が顔を傾ける。

 

「……?」

 

マルセイユは慌てて顔を背けた。

 

「……何でもない!」

 

それでも、肩を掴んだ手は離せなかった。両手の間に少女の重みがあることを、まだ確かめていた。

 

「……まったく」

 

大きく息を吐いてから、顔を戻す。

 

「とんでもない奴だな、お前は……」

 

「……ごめんなさい」

 

「謝れとは言っていない!」

 

言い返して、マルセイユは笑った。目元には、まだ涙の跡が残っていた。

 

「……ハンナ・ユスティーナ・マルセイユだ」

 

「……?」

 

「私の名前だ。覚えておけ」

 

少女が頷いた。

 

「……柊志乃」

 

「柊という名前は、さっき聞いたぞ」

 

「……そうですか」

 

「そうですか、じゃない!」

 

思わず声が出た。その直後、もう一度笑っていた。

 

「……まったく」

 

そのとき、手の中で、志乃の身体が揺れた。

 

「……おい!」

 

マルセイユは慌てて支え直した。

 

「大丈夫か!?」

 

「……はい」

 

「大丈夫なわけがあるか!」

 

片腕を背中へ回す。肩だけを掴んでいたときより、身体の重さがはっきりと伝わってきた。

 

「帰るぞ。もう十分だ」

 

「……」

 

「今度はお前が撤退する番だ」

 

志乃は答えずにいた。やがて、マルセイユのすぐ隣で頷いた。

 

「……分かった」

 

二人は歩き出した。

 

志乃を支えたまま、マルセイユは一度だけ振り返った。焼けた大地の上に、無数の残骸が広がっている。さっきまで、その真ん中に一人だけ立っていた。

 

地獄のような戦場だった。

 

そこに残っていた、たった一人のウィッチ。あの姿を、生涯忘れることはないだろうと思った。

 

―――

 

「……それが、志乃と初めて会った日のことだ」

 

クレタ島、連合軍基地の浴場。

 

マルセイユの声が止まると、湯の音が戻ってきた。ライーサはしばらく、何も言えずにいた。

 

「……そんなことが」

 

「ああ」

 

「本当に、一人で……?」

 

「私も最初は信じられなかったさ」

 

マルセイユは腕を組んだ。瞼を上げたその顔に、先ほどの回想の名残は、もうはっきりとは見えない。

 

「だが、あの戦場を見れば疑いようもなかった」

 

「……」

 

「増援部隊が到着したときには、戦闘はほとんど終わっていたんだ」

 

ライーサは息を呑んだ。

 

会議室でも、今日の空でも、志乃はほとんど口を開かなかった。黒いケープを纏った、あの姿を思い浮かべる。今聞いた戦場の光景と重ねようとしても、すぐには一つにならなかった。

 

「……すごい方なんですね」

 

「そうだな」

 

マルセイユは頷いた。

 

「相当な腕だ。それは間違いない」

 

「ハンナがそこまで言うなんて……」

 

「何だ、その言い方は」

 

「い、いえ! だって、ハンナもアフリカの星じゃないですか!」

 

「……ふん」

 

鼻を鳴らす音が、浴場に返った。

 

「私だって、そう簡単に負けるつもりはないさ」

 

ライーサは笑った。言い返してくる調子に、いつものハンナが戻っていた。

 

「……それで、その後は?」

 

「ん?」

 

「柊少佐とは、その後も一緒に戦ったんですか?」

 

「ああ」

 

マルセイユは頷いた。

 

「しばらく同じ作戦に参加した。あいつが回復してからは、何度か共同で出撃したこともある」

 

「そうだったんですね」

 

「……まあ、最初は随分とやりにくかったがな」

 

「え?」

 

「必要なこと以外、ほとんど喋らないんだ。こちらが何を言っても、『ええ』だの『そうか』だの『分かった』だの、そればかりでな」

 

ライーサは思わず笑った。会議室でのやり取りを思い出せば、容易に想像できた。

 

「……今日もそうでしたね」

 

「ああ。昔から変わらん」

 

マルセイユも笑みを浮かべた。

 

「だが、悪い奴じゃない。むしろ……」

 

言葉を探す間、湯の中で腕が動いた。水面にできた波が、二人の間を抜けていく。

 

「……仲間のためなら、無茶をする奴だ」

 

今の声には、呆れるだけではない響きがあった。ライーサは、隣の横顔を見た。

 

「……そうなんですね」

 

微笑んでから、ふと思い出したことを尋ねる。

 

「でも、それならどうして、今日の作戦会議であんなに驚いていたんですか?」

 

「……ああ」

 

マルセイユは天井を見上げた。

 

「まさか、志乃が来るとは思っていなかったからな」

 

「……?」

 

「デロス島の作戦は重要だ。だが、あいつほどの戦力を、わざわざここへ投入するとは思わなかった」

 

眉の間が寄った。

 

「もっと大きな戦線にいるものだとばかり思っていたんだ」

 

「なるほど……」

 

「それに」

 

「はい?」

 

「……いや」

 

マルセイユは首を横に振った。

 

「何でもない」

 

ライーサが、不思議そうに見ていた。マルセイユは、その顔へ続きを返さなかった。

 

ルッキーニの前に立ちはだかり、撤退を命じていた志乃を思い出す。それから、格納庫での一瞬。リベリオンの拳は届くはずだった。なのに、当たらなかった。あのとき両肩を受け止めた重さは、まだ覚えている。

 

力を持っている。そのことを、マルセイユは知っていた。

 

それでも、志乃は自分のことをほとんど語らない。何を訊いても返事が短いのは、アフリカで会った頃から変わらなかった。

 

「……まったく」

 

呟いてから、息を吐く。

 

「相変わらずだな、志乃」

 

マルセイユは湯船から立ち上がった。肩から落ちた湯が、水面を打った。

 

「そろそろ上がるぞ、ライ」

 

「えっ? もうですか?」

 

「ああ。明日も出撃だ」

 

「……はい!」

 

ライーサも慌てて腰を上げた。二人の動きで揺れた湯が、縁に沿って長く音を立てていた。

 

―――

 

夜の格納庫には、まだ工具の音が響いていた。

 

昼間の光があった床を、今は作業灯が照らしている。灯りの届く範囲で整備兵たちの手が動き、その向こうには、機体と支柱の暗い影が立ち並んでいた。

 

その一角に、志乃がいた。

 

試製秋水は整備台に固定されていた。開かれた箇所から推進機構を確かめていた整備兵が、手を止めて顔を上げる。

 

「……少佐」

 

志乃が、その方へ顔を向けた。

 

「確認したところ、推進機構に大きな異常はありません」

 

「分かりました」

 

「ただ、次の出撃前に再調整を行いたい箇所があります。高出力運転は、なるべく控えていただきたいのですが……」

 

「承知しました。気をつけます」

 

整備兵は工具を手に取り、再び機体へ向かった。

 

志乃はその場に立ち、試製秋水の方へ顔を向けていた。作業灯の下で、黒いケープの縁だけが淡く浮かんでいる。

 

「……おっ、まだいたのか」

 

背後から、シャーリーの声がした。

 

「ええ」

 

「こんな時間まで整備か?」

 

「機体の確認です」

 

「なるほどね」

 

シャーリーは近づきながら、整備台の上を見上げた。明かりを受けた試製秋水の輪郭を、目で辿る。

 

「そういや、今日も結局、その機体の本気は見られなかったな」

 

「そうですね」

 

「ああ。ロケット式なんて珍しいんだ。どんな飛び方するのか、気になって仕方ないよ」

 

機体の横まで来ると、シャーリーは歩みを止めた。覗き込む顔には、さっきまでの険しさがない。話しているうちに、いつもの調子が声に戻ってきた。

 

「なあ、いつか乗ってみてもいいか?」

 

志乃は、一拍置いて答えた。

 

「……調整が終われば、いいですよ」

 

許可は、思っていたよりあっさりと返ってきた。シャーリーは機体から顔を上げた。

 

「おっ、約束だぞ!」

 

シャーリーが笑う。志乃は頷いた。

 

それから、会話が途切れた。

 

工具を置く音がした。遠くの作業台では、整備兵が何かを話している。シャーリーはしばらく機体を眺めていた。見に来たかったのは本当だったが、それだけを話しに来たわけではなかった。

 

「……なあ、柊少佐」

 

「はい」

 

「……昼間のことなんだけどさ」

 

志乃は返事をせず、続きを待った。

 

「その……悪かった」

 

シャーリーは頭を掻いた。軽い調子のまま始められると思った言葉が、いざ口にすると、うまく続かなかった。

 

「カッとなって、殴ろうとしただろ。あれはあたしが悪かった」

 

志乃は黙って聞いていた。遮られないまま、シャーリーはその先を言った。

 

「当たらなかったからいいって話でもないしな」

 

息を吐いて、顔を戻す。

 

「……ごめん」

 

間が空いた。視線を逸らしたくなったが、シャーリーは待っていた。

 

「……気にしていませんよ」

 

志乃が答えた。

 

「……そうか」

 

「ええ」

 

それ以上、志乃は言葉を続けなかった。

 

何か言われる覚悟はしていた。叱られるか、理由を問われるか。そのために用意していたものが、穏やかに返された言葉の前で行き場を失った。シャーリーは一度口を閉じてから、肩の力を抜いた。

 

「……あんた、本当に変わった奴だな」

 

シャーリーは苦笑し、整備台へ軽く身体を預けた。縁に触れたところから、金属の硬さが伝わってくる。

 

「……でもさ」

 

「はい」

 

「あたし、ルッキーニのことはまだ納得してないからな」

 

「……ええ」

 

「あいつが無茶したのは分かってる。止めなきゃいけなかったのも分かる」

 

ルッキーニの顔を思い出すと、シャーリーの笑みが薄れた。自分のしたことを謝るのと、あのとき感じたものを片づけるのとは、同じにはできなかった。

 

「でも、もう少し違う言い方もあったんじゃないかって思うんだ」

 

少しの間があった。

 

「……そうですね。言葉が足りませんでした」

 

シャーリーは志乃を見た。

 

意外だった。何を言っても、自分の判断を曲げない人間なのだと思っていた。正しいと言ったことは、そのまま押し通すのだと。

 

だが、今の言葉を出すことに、志乃は抵抗する様子を見せなかった。

 

「……まあ、そうだな」

 

シャーリーは、また苦笑した。

 

「次からは、もうちょっと優しくしてやってくれよ」

 

「……分かりました」

 

返事は短くても、今度は、頼んだことへの答えだと分かった。シャーリーは整備台に預けていた身体の重みを移した。もう、続きを怒鳴る気にはならなかった。

 

「……あとさ」

 

「何でしょう?」

 

「あんた、昼間言ってたよな」

 

「……?」

 

「守ることができない、って」

 

志乃は黙っていた。

 

シャーリーは整備台から身を起こした。

 

「……あれ、どういう意味なんだ?」

 

二人の間で、工具の音がした。整備兵が部品を合わせ、組み立てている。その手が動く間、返事はなかった。

 

「……言葉どおりです」

 

志乃が答えた。

 

「……そっか」

 

シャーリーは、それ以上訊かなかった。

 

昼間、殴ろうとした拳は、届くはずだった。志乃は避けず、シールドも張っていなかった。目の前にいたその顔へ、あの一撃だけが当たらなかった。

 

そのことを思い出してから、今聞いた言葉を考える。

 

守ることができない。

 

どうしても、うまく繋がらなかった。拳を握り直してみても、手応えのなかった感覚を確かめられるわけではない。シャーリーは手を開いた。

 

「……なあ、柊少佐」

 

「はい、何ですか?」

 

「今度、あんたの戦い方も見せてくれよ」

 

志乃が顔を傾けた。

 

「……必要なら、お見せしますよ」

 

その返事を聞いて、シャーリーの口元が緩んだ。

 

「ははっ、そっか!」

 

笑うと、自分の声が格納庫に返ってきた。さっきまでの気まずい間も、その音に紛れて薄れた。

 

「じゃあ、明日はその必要があるといいな」

 

「……どうでしょうね」

 

「んじゃ、あたしは戻るわ。ルッキーニの様子も見てやらないとな」

 

「ええ」

 

「お前も、あんまり遅くなるなよ」

 

言い残して、シャーリーは入口へ向かった。作業台の間を抜けていく足音を、志乃は聞いていた。

 

音が遠ざかると、再び整備台へ顔を向ける。

 

「……少佐?」

 

整備兵が顔を上げた。

 

「何かご用ですか?」

 

「いえ」

 

志乃は首を横に振った。

 

「作業をお願いします」

 

「了解しました」

 

志乃は踵を返した。ケープの裾が揺れ、作業灯の光から離れていく。

 

格納庫の外は、すっかり暗くなっていた。建物の外へ出た身体を、夜の海風が通り過ぎる。志乃は足を止めず、宿舎へと歩いていった。

 

―――

 

翌朝。

 

東の空が明るみ始める頃には、クレタ島の連合軍基地は、すでに動き出していた。

 

格納庫へ続く道を、兵士や整備兵が行き来する。夜明け前の冷たさが残る空気の中へ、出撃を控えた人々の声が重なっていた。

 

ヴェネツィア艦隊は、デロス島へ向けて出航する。

 

洞窟を艦砲射撃で破壊し、ネウロイを外へ誘い出す。当初の作戦どおりに実施すると決まった。昨日の攻撃の後も、その決定が変わることはなかった。

 

「よし、これでいいな」

 

格納庫で、シャーリーは愛機の点検を終えた。ストライカーユニットを履き、もう一度、自分の手で状態を確かめる。

 

隣に、ルッキーニがいた。

 

昨日の帰還直後とは違って、こちらの動きを目で追っている。顔を上げている時間も増えていた。だが、口を開くときには、まだためらいがあった。

 

「……ねえ、シャーリー」

 

「ん?」

 

「……今日、本当に島を壊しちゃうの?」

 

シャーリーは頭を掻いた。

 

ルッキーニは、答えが分からずに訊いているのではない。それを思うと、簡単な調子では返せなかった。

 

「……今のところは、そういう作戦だからな」

 

「……そっか」

 

少女の顔が下がった。

 

シャーリーは手を伸ばし、その頭へぽんと置いた。

 

「……でもさ」

 

「うにゃ?」

 

「まだ全部終わったわけじゃないだろ?」

 

「……え?」

 

ルッキーニが見上げる。その顔へ、シャーリーはにっと笑ってみせた。

 

「ネウロイを倒すまでは、何が起こるか分からないんだからさ」

 

「……うん!」

 

ルッキーニは頷いた。頭に置いた手の下で、その動きが伝わってきた。

 

「おい、リベリオン!」

 

格納庫の向こうから声が飛んだ。

 

マルセイユが立っていた。隣にはライーサもいる。

 

「いつまで準備しているつもりだ! 出撃時刻が近いぞ!」

 

「うるさいな! 今終わったところだよ!」

 

「ふん。相変わらず遅い奴だ」

 

「なんだと!?」

 

「ハンナ、また始まっちゃいますよ……」

 

ライーサが困ったように笑う。

 

ルッキーニは二人の顔を見比べた。それから、堪えきれなかったように口元を緩めた。

 

「……ふふっ」

 

シャーリーが振り返った。

 

「おっ、やっと笑ったな」

 

「……うん!」

 

昨日、滑走路で待っていた声が、ようやく返ってきた。シャーリーは、その笑顔を見ていた。

 

離れたところでは、志乃が整備兵の説明を受けていた。試製秋水の最終点検が終わり、整備兵は機体から手を離している。

 

「少佐、最終点検完了しました。高出力運転も可能ですが、連続使用は避けてください」

 

「分かりました。ありがとうございます」

 

志乃は頷いた。その姿に気づいたマルセイユが、声を掛ける。

 

「志乃!」

 

「ハンナ」

 

志乃が、整備兵からマルセイユへ顔を向けた。機体の説明を聞いていた姿勢が、そこでほどける。

 

「準備はできたか?」

 

「うん」

 

「なら、行くぞ」

 

志乃はもう一度頷いた。

 

五人は格納庫を出て、滑走路へ向かった。

 

朝の海は、明るみ始めた空の下に広がっていた。遠くで、ヴェネツィア艦隊がすでに動き始めている。艦影が向かう先に、デロス島があった。

 

古い神殿と遺跡の眠る、小さな島。

 

ルッキーニは空を見上げた。昨日と同じ海へ、これからもう一度飛んでいく。

 

「……絶対に」

 

声は、すぐそばにいる者へ届くほどの大きさだった。

 

「……絶対に、守るんだから」

 

シャーリーは聞いていた。

 

返事はせず、少女の肩へ手を置いた。ルッキーニの身体が、その重みを受けた。

 

やがて、五人のストライカーユニットが一斉に始動した。

 

魔導エンジンの音が、朝の空気を震わせる。滑走路の向こうへ、エーゲ海の光が続いていた。

 

五人は地面を離れ、その空へと飛び立った。

 

第二次作戦が、始まろうとしていた。

 

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## Scene 04 ―― エーゲ海の女神

 

エーゲ海、デロス島沖。

 

朝の光を受けた海に、幾筋もの白い航跡が伸びていた。ヴェネツィア艦隊が、その先端をゆっくりと進んでいる。舷側で砕けた水が白く泡立ち、船尾へ回り込むころには、もう濃い青に呑まれていた。

 

波の頂が、陽のある方角だけで細かく光っている。風に押された海面の模様は絶えず形を変えたが、艦影の並びは崩れなかった。船の大きさを確かめられる高さまで近づくと、その周りの水の広さが、かえって際立って見えた。

 

その上空を、五人のウィッチが飛んでいた。

 

向かう先に、デロス島がある。海からせり上がった乾いた陸地。その上に残る古代の石柱は、この距離からでは、白い点がいくつか並んでいるようにしか見えなかった。

 

『こちらノイマン。各機、状況を報告せよ』

 

耳元に、司令部の声が入る。

 

『こちらマルセイユ。異常なし』

 

『ライーサ、異常ありません』

 

『こちらシャーリー。問題なし』

 

『ルッキーニも大丈夫!』

 

四人の応答が、魔導エンジンの響きに重なって続いた。

 

『柊少佐』

 

『異常ありません』

 

最後に答えた志乃は、四人よりもさらに高い空域にいた。風を受けた黒いケープが、肩の後ろへ長く引かれている。一定の速度で旋回しながら、下方に散った四つの位置と、艦隊の進む方向を確かめていた。

 

魔法が捉える距離と位置関係に、乱れはない。志乃は高度を保った。

 

『各機、了解した。間もなく目標海域へ到達する。艦砲射撃開始まで、警戒を続けよ』

 

『了解!』

 

シャーリーは答えた。視線は、艦隊の砲塔を通り越して、島の方へ向いていた。

 

隣のルッキーニも、黙ってデロス島を見ている。普段なら何か見つけるたびに声を上げる少女が、今日は、前を向いたまま口を閉ざしていた。

 

「……」

 

横顔を窺いながら、シャーリーは昨夜のライーサの話を思い出した。家族と歩いた島。戦争が終わったら、もう一度訪れようと交わした約束。眼下の海の向こうにあるのは、ルッキーニにとって、ただの目標海域ではなかった。

 

『……なあ、ルッキーニ』

 

『うにゃ?』

 

『昨日のこと、まだ気にしてるか?』

 

『……うん』

 

風に髪を揺らしながら、ルッキーニは頷いた。

 

『でも、もう勝手なことはしないよ』

 

『……そっか』

 

シャーリーは前へ向き直った。返ってきた声が妙におとなしく、胸のどこかに残った。

 

言いつけを守ろうとしているのは分かる。だが、従うと答えたからといって、目の前の島を失うことまで納得できるはずがなかった。シャーリーも、それを分からないふりで押し切る気にはなれなかった。風に目を細め、近づく岸を見続けた。

 

島が近づく。海岸の起伏が、朝日に削り出されるようにはっきりしてきた。切り立った岩壁。その下に口を開ける、ネウロイの潜む洞窟。そして、そこから離れた海岸に、一隻の船が乗り上げている。

 

『……ん?』

 

シャーリーは目を細めた。

 

『どうしたんですか?』

 

ライーサが尋ねる。

 

『いや、あの船……』

 

速度を落とすと、岩礁に傾いだ船体が視界に留まった。長く潮風に晒されてきたのだろう。甲板の機械も、手すりも、赤茶けた錆を浮かせている。

 

その中に見つけた一つの形に、シャーリーの目が止まった。

 

『……そうか!』

 

『シャーリー?』

 

『あれだ!』

 

『うにゃ?』

 

『あの船のウインチ!』

 

ルッキーニは、船とシャーリーの顔を交互に見た。

 

『ういんち?』

 

『そう! あれを使えば……!』

 

言い終えるより先に、シャーリーは機体を傾けていた。旋回した先で、洞窟と座礁船が一つの視界に収まる。

 

『おい、リベリオン!』

 

マルセイユの声が飛んだ。

 

『どこへ行くつもりだ!』

 

『ちょっと付き合え、マルセイユ!』

 

『何!?』

 

『いい方法を思いついたんだ!』

 

『お前、また勝手なことを……!』

 

『説明は後だ!』

 

シャーリーは、もう降下に入っていた。甲板がみるみる大きくなる。背後で舌打ちが聞こえた。

 

『……まったく!』

 

そう言いながら、マルセイユも続く。

 

『ハンナ!?』

 

取り残されたライーサが、二人の進路へ顔を向けた。

 

『ライ、お前たちは上空で待機していろ!』

 

『えっ!? でも!』

 

『すぐに戻る!』

 

通信が切れる。二つの姿は、海の青を背景に遠ざかっていった。

 

『もー! シャーリーまで勝手なことしてる!』

 

ルッキーニが頬を膨らませる。ライーサは返す言葉を見つけられず、二人が降りていく先を見守っていた。

 

『ライーサ少尉』

 

上空からの声に、背筋が伸びる。

 

『は、はい!』

 

『二人の位置を確認しておいてくれますか』

 

『了解しました』

 

志乃はそれ以上、何も付け加えなかった。旋回を続ける黒い姿は高度を変えず、下へ離れていく二人を捉え続けていた。

 

―――

 

座礁船の甲板に降りると、靴底の下で、錆の剥がれた金属が鳴った。波が船腹を叩いている。シャーリーはその音も気に留めず、大きなウインチへ駆け寄った。

 

「よし、これだ!」

 

「おい、リベリオン!」

 

後から着いたマルセイユの声が、甲板を渡ってくる。

 

「いったい何のつもりだ! 作戦を無視する気か!?」

 

「ちょっと待ってろって!」

 

シャーリーは腰を屈め、機械の各部を確かめた。ドラムに巻かれた太い鋼索。その脇の動力装置。表面こそ錆びているが、機械そのものはまだ使えそうだった。目で追った鋼索の行き先を、頭の中で洞窟まで延ばしてみる。

 

錆に触れた指先が、赤茶色に汚れた。汚れを払う手間も惜しく、今度は機械の側面へ手をつく。海から見つけたときには思いつきだったものが、ここで実物を確かめるほど、使える形になっていった。

 

「……よし!」

 

「おい、聞いているのか!」

 

ようやく顔を上げた。

 

「あのネウロイ、洞窟から出てこないんだろ?」

 

「だからどうした!」

 

「だったら、引きずり出せばいいんだよ!」

 

マルセイユの眉が寄る。

 

「……何?」

 

シャーリーはドラムを指差した。

 

「こいつの鋼索をネウロイに引っ掛ける。それで洞窟から引っ張り出すんだ!」

 

「……」

 

マルセイユは機械へ目を移した。鋼索を見て、それから、海越しの岩壁を見る。洞窟の暗い入口が、その下にあった。

 

「……なるほど」

 

「どうだ?」

 

シャーリーの口元に笑みが広がる。

 

「悪くないだろ?」

 

「……ふん」

 

腕を組み直したマルセイユは、ウインチをもう一度見た。

 

「発想だけは褒めてやる」

 

「素直にいい案だって言えよ!」

 

「調子に乗るな!」

 

顔を見合わせる。一拍置いて、ほとんど同時に笑った。

 

その笑いを、耳元の怒声が断ち切った。

 

『こちらノイマン! イェーガー大尉、マルセイユ大尉! 何をしている! 直ちに編隊へ戻れ!』

 

シャーリーは通信機へ手を添えた。今度は、笑ってはいなかった。

 

『ノイマン大佐! 敵を洞窟から引きずり出す方法を思いつきました!』

 

『何だと!?』

 

『座礁船のウインチを使うんです! あれでネウロイを外へ引きずり出せば、島を砲撃する必要はありません!』

 

海の向こうに並ぶ艦影が見える。射撃が始まれば、あの岩壁も、その奥の島も砲火に包まれる。

 

『馬鹿な! そんな思いつきで作戦を変更できるものか!』

 

『でも!』

 

『命令だ! 直ちに戻れ!』

 

言い返しかけたところへ、別の声が入った。

 

『……ノイマン大佐』

 

ロンメルだった。

 

『閣下?』

 

『話を聞いてみようではないか』

 

『しかし、閣下!』

 

『戦場では、計画どおりに物事が進まないこともある。現場で生まれた好機を、むざむざ捨てる必要もあるまい』

 

『……』

 

ノイマンの声が止まった。通信の向こうから返事が来るまで、シャーリーはウインチの上に置いた手を動かさずにいた。

 

甲板の向こうで、波が一度大きく砕けた。さっきまで自分が口にしていた案が、今は返事一つを待っている。その短い時間だけが、ひどく長かった。

 

『艦隊には射撃を待機させよう。イェーガー大尉、君の案を試してみたまえ』

 

『ありがとうございます!』

 

返す声が、弾んだ。

 

『ただし、無理は禁物だ。失敗と判断した時点で、当初の作戦に戻る』

 

『了解!』

 

通信が途切れると、シャーリーはマルセイユへ向き直った。

 

「よし! やるぞ!」

 

「……ああ」

 

マルセイユは銃を構え直した。銃床を握り、洞窟へ視線を据える。

 

「今度こそ仕留めてやる」

 

―――

 

『ライーサ! ルッキーニ!』

 

待機していた二人の耳へ、マルセイユの声が届いた。

 

『はい!』

 

『うにゃ!』

 

『こちらへ来い! 新しい作戦だ!』

 

『了解しました!』

 

ライーサとルッキーニが進路を変える。二機分の推進音が高まり、座礁船へ向けて降りていった。

 

その動きを、志乃は上空から捉えていた。

 

『柊少佐』

 

呼びかけたのは、ロンメルだった。

 

『君も作戦変更を聞いていたね?』

 

『はい』

 

『引き続き、上空から監督を頼む』

 

『了解しました』

 

答えると、志乃はさらに高度を上げた。風の冷たさが、襟元から入り込む。下方で四人が動き始めるのを感じ取りながら、その上に距離を保った。

 

―――

 

デロス島、北部沿岸。

 

岩壁の下で、波が砕けていた。洞窟の入口だけが、朝の光を受けずに黒く沈んでいる。

 

『よし、行くぞ!』

 

マルセイユが先行し、その後ろへライーサがついた。二人は海岸沿いを詰め、洞窟へ向けて引き金を引く。

 

銃声が岩壁にぶつかり、短い反響となって返った。入口の奥で、黒いものが動いた。

 

『来ました!』

 

ライーサの声とともに、巨大なネウロイが身を現した。幾重にもつながる黒い装甲。その細長い身体が、入口の岩に沿って這い出してくる。奥に続く胴は、まだ闇の中にあった。

 

『よし、こっちだ!』

 

マルセイユが急旋回する。追うように赤い光が集まり、ビームが放たれた。

 

『遅い!』

 

機体を傾けた、そのすぐ脇を光が抜けた。熱を感じるほどの間隔を残してやり過ごし、マルセイユは銃口を戻す。弾丸が装甲を砕き、飛び散った黒い破片が海へ落ちた。

 

『ライ! 反対側から頼む!』

 

『了解!』

 

ライーサは側面へ回り込んだ。二方向の銃撃を浴びて、ネウロイが長い胴をくねらせる。だが、こちらを追って出てくることはなかった。入口を塞ぐ黒い身体が、また奥へと引き始める。

 

『やっぱり引っ込む気か!』

 

マルセイユが舌打ちした。

 

『そうはさせるか!』

 

再び距離を詰め、攻撃部位へ銃弾を集める。機銃の振動が腕を打った。黒い外装の一部が崩れると、集まりかけていた赤い光が途切れた。

 

『よし! 今だ、リベリオン!』

 

『任せろ!』

 

座礁船の甲板から、シャーリーが飛び上がった。握った手の先に太い鋼索が続き、ウインチのドラムから海上へ引き出されていく。腕に、その重さがかかった。

 

『ルッキーニ! 援護頼む!』

 

『うん!』

 

ルッキーニが機銃を持ち上げる。

 

『いっけー!』

 

洞窟の入口へ弾丸が走った。ネウロイの身体が反応した、その隙へシャーリーは飛び込む。黒い胴の曲線に沿って鋼索を回した。

 

『よしっ!』

 

鋼索が装甲の一部に掛かった。手に返った感触を確かめ、シャーリーは反対側へ旋回した。

 

『引っ掛かったぞ!』

 

『本当!?』

 

『ああ! あとは引っ張り出すだけだ!』

 

船へ戻る。甲板を踏むなり、シャーリーは動力装置へ駆け寄った。

 

『頼むぞ……!』

 

始動を試みる。一度。機械は応えない。もう一度操作すると、低い振動が金属の甲板を伝ってきた。

 

『よし!』

 

ドラムが回り始めた。鋼索のたるみが消え、次いで、洞窟に掛かったネウロイの胴が外へ動く。

 

『動いた!』

 

ルッキーニが叫んだ。

 

その声が終わらないうちに、ガクン、と機械が揺れた。

 

巻き取りが止まる。

 

『……え?』

 

シャーリーは操作し直した。返ってくるはずの振動が、なかった。たった今まで回っていたドラムが、何をしても動こうとしない。

 

「……嘘だろ!?」

 

燃料が足りなかった。

 

『シャーリー! どうしたの!?』

 

『くそっ! 燃料切れだ!』

 

『ええっ!?』

 

ルッキーニの悲鳴が響く。

 

『もう少しなのに!』

 

洞窟では、ネウロイが身体を奥へ引き戻そうとしていた。その動きが鋼索を伝わり、甲板の上で張った索が激しく震える。

 

『おい、リベリオン!』

 

マルセイユの声にも余裕がなかった。

 

『どうするつもりだ!』

 

『どうするって……!』

 

シャーリーは唇を噛んだ。止まった機械へ手を置いたまま、洞窟を見る。引き出せる。ここまで来たのだ。もう一度あのドラムさえ動けば、その先へ。

 

機械の熱は掌に残っているのに、力を出す音だけがない。鋼索の震えが金具を鳴らすたびに、入口へ戻されていく黒い身体が目に入った。止めておける時間は、長くない。

 

上空から、エンジンの音が近づいてきた。

 

一機の連絡機が、降下してくる。

 

『諸君!』

 

聞き覚えのある声だった。

 

『ロンメル閣下!?』

 

ライーサが顔を上げた。連絡機は座礁船の近くへ着水し、水面に白い筋を引いて止まった。機体から姿を現したロンメルが、甲板へ声を掛ける。

 

「イェーガー大尉!」

 

「閣下!?」

 

「燃料が必要なのだろう?」

 

目を丸くしたシャーリーへ、機体に積まれた燃料容器を示した。

 

「使いたまえ!」

 

「……ありがとうございます!」

 

シャーリーは駆け寄った。容器を受け取り、補給する。その間も鋼索の向こうでは、ネウロイが動いていた。

 

燃料の匂いが、潮風の中で強く立った。受け取った容器の重さが腕へかかる。通信の向こうにいた将軍が、今はすぐそばにいる。その驚きを考えるより先に、今は機械を動かすために手を働かせた。

 

再び始動させる。今度は、動力装置が力のこもった音を返した。

 

ウインチのドラムが回り、鋼索が張る。マルセイユもシャーリーの隣へ加わった。

 

『もう少しだ!』

 

シャーリーの声が、機械の唸りを押し越えた。座礁船から伸びる索は限界まで張り詰め、ドラムに巻き取られるにつれて、重い振動を返してくる。

 

『マルセイユ! もう一息だ!』

 

『分かっている!』

 

二人は鋼索へ力を加えた。ストライカーユニットの出力を上げる。腕から肩へ、索の引き戻そうとする重さがかかった。

 

洞窟の入口で、ネウロイが激しく身体をくねらせていた。細長い胴を覆う黒い装甲が岩壁に擦れ、耳障りな音を立てる。その音が止まるたびに、胴がまた外へずれた。

 

『ルッキーニ! ライーサ!』

 

シャーリーは通信機に叫んだ。

 

『敵が出てきたら頼むぞ!』

 

『うん!』

 

『了解しました!』

 

二人は洞窟の上空で待っていた。構えた銃口の先に、引き出されていく黒い身体がある。

 

突然、鋼索が大きく震えた。

 

『……っ!』

 

マルセイユの腕が引かれる。歯を食いしばって持ち直した。

 

『出てこいっ!』

 

二機の推進音が高まった。岩に掛かっていた装甲が擦れ、長い胴が、さらに外へ滑り出す。

 

『出たっ!』

 

ルッキーニの声が跳ねた。

 

『シャーリー! 出てきたよ!』

 

『よっしゃあ!』

 

洞窟の闇から、ついにネウロイの長い身体が抜け出した。日の下に晒された装甲が、海岸の上に連なっている。

 

『今だ! 撃て!』

 

ルッキーニとライーサが、一斉に引き金を引いた。機銃の連射音が重なり、海岸線に響き渡る。無数の弾丸が黒い装甲へ叩き込まれた。

 

『……あれ?』

 

ルッキーニは目を丸くした。

 

当たっている。銃口の先で、確かに破片は飛んでいた。だが、剥がれ落ちるのは表面のわずかな部分だけだった。その下には、まだ同じ黒が続いている。

 

ルッキーニは目を凝らした。壊れていく手応えがあれば、撃つ場所も、その次に狙うところも見えてくる。それが、どこにもなかった。銃だけが腕の中で跳ね続け、敵の形は変わらない。

 

『硬い……!』

 

ライーサは照準越しに、削れた箇所を捉え直した。

 

『ルッキーニさん! もう一度!』

 

『うん!』

 

再び掃射する。銃床から伝わる振動を押さえ込み、弾を集めた。それでも、コアの赤い光は見えなかった。

 

『くそっ!』

 

シャーリーの肩には、まだ鋼索の重さがかかっている。

 

『なんで壊れないんだよ!』

 

『装甲が厚すぎます!』

 

ライーサは攻撃を続けながら答えた。

 

『このままではコアを狙えません!』

 

『だったら、もっと撃ち込め!』

 

マルセイユが声を張る。

 

『ここまで引きずり出したんだ! 逃がすわけにはいかない!』

 

『分かってるよ!』

 

ルッキーニは歯を食いしばった。握った指を緩めずに撃ち続ける。空薬莢が光りながら海へ落ちていった。

 

ネウロイは倒れなかった。拘束された長い胴を、いっそう激しく振り回し始める。

 

『まずい!』

 

シャーリーの手元で、鋼索が跳ねた。

 

『このままじゃ鋼索が持たない!』

 

張り詰めた索から、きりきりと嫌な音がした。引き出すときとは違う、材そのものが耐えかねている音だった。

 

『ルッキーニ! ライーサ! 急げ!』

 

『やってるよー!』

 

『もう少し……!』

 

ライーサは照準を修正した。同じ箇所へ撃ち込む。弾丸の当たる先で破片が散り、その下に、また黒い装甲が残った。

 

『……駄目です!』

 

喉から出た声が、思うように整わない。

 

『これ以上撃っても……!』

 

ネウロイが身体を大きく反らせた。鋼索が悲鳴を上げる。たった一度、大きく引き戻されれば切れるかもしれない。洞窟の入口が、黒い胴の向こうにまだ開いていた。

 

『――ネウロイから離れろ』

 

通信に入った声は、ひどく落ち着いていた。

 

『……え?』

 

ルッキーニが顔を上げる。

 

志乃だった。

 

『全員、離れろ』

 

それだけを告げた。

 

『志乃!?』

 

マルセイユが呼んだ。返事はなかった。次の瞬間には、自分も声を張っていた。

 

『ライ! ルッキーニ! 退避しろ!』

 

『は、はい!』

 

『うにゃっ!?』

 

二人は銃口を下げ、ネウロイから離れた。シャーリーとマルセイユも、握っていた鋼索から手を放す。左右へ離脱する二機の下で、索が大きく揺れた。

 

五人の通信から、声が消えた。

 

―――

 

遥か上空。

 

志乃は、四人が敵から離れていくのを捉えていた。それぞれの位置と、広がっていく間隔。確かめるように身体を傾ける。

 

試製秋水のエンジンを停止させた。

 

背後を満たしていた推進音が消えた。急に広くなった空の中を、機体は惰性で進む。やがて機首が下がり、地上へ向かって落ち始めた。

 

志乃は両腕を左右に広げた。鳥が翼を開くように。押し上げてくる風を受けて、黒いケープが大きく膨らむ。

 

その長い袖から、二つの黒い刀身が音もなく滑り出した。

 

鞘も、留め具も見えなかった。何もなかった袖口に、細長い黒い直刀が現れる。志乃は広げた両手で、その柄を握った。

 

二振りの刀を携え、空へ身体を預ける。

 

自由落下。

 

推進を止めた身体には、さっきまでの飛行とは違う力がかかっていた。風が袖を押し、広げた腕を持ち上げようとする。志乃は刀の柄を握ったまま、地上に残るネウロイと、離れていった四人の位置を捉え続けた。

 

高度が下がる。空気を裂く音が、耳元で高まっていく。ケープを引く風の力が強くなり、地上との距離が縮まっていった。

 

そこで、試製秋水が再び唸った。

 

轟音。

 

ロケット式の高出力推進が始動した。落ちていた身体が、その先へ押し込まれる。黒い影は、さらに速度を増して地上へ突き進んだ。

 

―――

 

『……ん?』

 

ルッキーニは顔を上げた。空から、聞き慣れない音が来る。さっきまでの飛行音よりも重く、急速に大きくなっていた。

 

『ライーサ?』

 

『はい?』

 

『なんか……』

 

ネウロイの身体の一部が、上を向いた。黒い外装に、赤い光が集まる。

 

『あっ!』

 

ライーサが叫んだ。

 

『上です! ネウロイが!』

 

数条のビームが、空へ突き抜けた。狙いはすべて、降下してくる一つの影へ向いていた。

 

『柊少佐!』

 

光が伸びる。志乃との距離が、一息に消えていく。

 

『危ないっ!』

 

ルッキーニは、思わず目を閉じかけた。

 

『……え?』

 

閉じる前に見えたものが、理解できなかった。

 

ビームは、確かに志乃へ向かっている。進路を変えずに落ちてくる黒い姿と、光の筋は重なるはずだった。

 

重ならなかった。

 

彼女のすぐ手前で、光が曲がった。一本が右へ、もう一本は左へ。届く寸前の場所だけで進路が変わり、身体を避けて抜けていく。

 

『……なに、あれ』

 

ルッキーニの口から、声が漏れた。

 

ライーサも、返事をしなかった。魔法陣は見えない。ビームを受け止めるシールドもなかった。ただ攻撃の方が逸れ、志乃の背後の空へ消えていく。

 

『……シールドが』

 

いつもならあるはずの光を探しながら、ライーサは呟いた。

 

『出てない……?』

 

今、目で追っているのは、確かに同じ空を飛ぶウィッチだった。けれど、知っている防御の姿と、起きていることが結びつかない。見落としてはいけないと思うほど、次のビームが来るまでの間隔が短く感じられた。

 

『おいおい……』

 

離れた場所で、シャーリーも上を見ていた。

 

『なんだよ、あれ……』

 

ネウロイが、またビームを放つ。赤い筋がいくつも伸び、そのすべてが志乃を捉える直前に外れていった。

 

志乃自身は、ほとんど進路を変えていない。右にも左にも逃げず、真っ直ぐに落ちてくる。その速さだけが増していた。

 

『……ハンナ!』

 

ライーサが呼ぶ。

 

『あれ、どうなってるんですか!?』

 

マルセイユは上空を見たまま、答えなかった。その顔に驚きはない。迫る黒い姿を捉え、口元だけを緩める。

 

『……前を見ていろ、ライ』

 

『えっ?』

 

『来るぞ』

 

ゴウッ、と空気が鳴った。

 

『きゃあっ!?』

 

『うにゃあっ!?』

 

黒い影が、ルッキーニとライーサのすぐ横を通り過ぎた。遅れて押し寄せた風圧に、二人の身体が煽られる。ルッキーニは両腕で顔を庇い、ライーサは機体を傾けて姿勢を立て直した。

 

『な、何!?』

 

『い、今の……!』

 

振り返ったときには、もうそこにいなかった。ネウロイへ向かう影だけが、急速に遠ざかっていく。

 

『……柊!?』

 

シャーリーは目を見開いた。

 

『なんだよ、あの速度……!』

 

速い機体を見ることはあった。自分でも、その速さを追い求めてきた。だが、高高度から落ち、その途中からさらに加速してくる、あの飛び方は初めてだった。

 

海岸までの距離が、見る間に食い尽くされる。二振りの刀を広げた影は、今や一本の矢にしか見えなかった。

 

―――

 

ネウロイは、なおも上空へビームを放とうとしていた。

 

その真上に、志乃が迫る。

 

両手の黒刀。そのうちの一振りが、硬い外装へ叩き込まれた。

 

鋭い破砕音がした。

 

銃撃を受けても表面しか削れなかった装甲が、深く裂ける。黒い破片が吹き上がり、その切れ目の奥に、赤い光が覗いた。

 

『……っ!』

 

シャーリーが息を呑んだ。

 

コアだった。

 

見えた、その瞬間には、もう一方の刃が振り抜かれていた。

 

甲高い音が響く。コアに亀裂が走り、中心から白い光が溢れた。

 

一瞬だった。

 

志乃の身体は、すでにネウロイを通り過ぎていた。黒い姿が、今度は海面へ迫る。

 

『おい、下!』

 

シャーリーの声が追いかけた。

 

海面すれすれで、機体が起きた。試製秋水の推進音が高く響き、水の青に沿って黒い影が走る。その先で、緩やかな上昇へ移っていった。

 

『……え?』

 

ルッキーニは、ネウロイへ視線を戻した。

 

まだ、そこにいる。長い胴を洞窟の外へ伸ばしたまま、巨大な姿は動かなくなっていた。

 

『……何が、起きたんですか?』

 

ライーサが尋ねる。答えは返らなかった。

 

その間に、装甲へ一本の亀裂が走った。先端から胴へ、細かな割れ目が連なっていく。黒い隙間から白い光が漏れ、みるみる増えていった。

 

『……まさか』

 

シャーリーは、まだ呼吸を詰めていた。

 

音を立てて、ネウロイが崩れ始めた。

 

硬質な装甲が砕け、白い破片に変わる。長い身体が、端からその輪郭を失っていった。空へ舞い上がる無数の欠片の向こうに、洞窟の入口が見える。

 

そこにはもう、何も残っていなかった。

 

銃声が止んでいることに、ようやく気づいた。白い破片は海風に流され、さっきまで巨大な胴があった場所を離れていく。耳に戻ってきたのは、仲間の機体が立てる推進音と、岸で砕ける波の響きだった。

 

『……やった』

 

ルッキーニが呟いた。呟きが、そのまま歓声になる。

 

『やったああああっ! シャーリー! やったよ!』

 

『あ、ああ……!』

 

応えながらも、シャーリーの目は白い欠片を追っていた。

 

『なんだよ、今の……』

 

あれだけ撃ち込んでも壊れなかった装甲。それを、二振りの刀で斬った。シールドも見せずにビームの中を突っ切り、海面へ落ちる寸前で引き起こしてみせた。

 

自分が見た動きを、一つずつ思い返しても、驚きは収まらなかった。

 

『……ハンナ』

 

ライーサが呼びかけた。

 

『柊少佐って、いったい……』

 

マルセイユは、海上を旋回する黒い影を見ていた。

 

「……ああ」

 

漏れた返事は短かった。初めて見るものに驚く顔ではなかった。その口元に、懐かしいものを確かめたような笑みが戻る。

 

「……相変わらずだな」

 

―――

 

志乃が速度を落とし、四人の方へ戻ってきた。ケープの翻る幅が狭まり、並んで飛べる距離に入る。手にしていた二振りの刀は、すでに長い袖の内へ収められていた。

 

『……柊少佐!』

 

シャーリーが呼んだ。

 

『どうしました?』

 

『お前、今の……!』

 

何から訊けばよいのか、言葉が続かなかった。志乃は顔を傾ける。

 

『……ネウロイは?』

 

『え?』

 

『撃破を確認できましたか?』

 

シャーリーの頬が緩んだ。あれだけのことをした本人が、まず確認するのはそれなのか。

 

『……ああ』

 

今度は、はっきりと頷いた。

 

『完全に消滅したよ!』

 

『了解しました』

 

返事は、それだけだった。

 

『……ったく』

 

シャーリーは笑った。握り続けていた鋼索の感触が、まだ掌に残っている。

 

『すげえ奴だな、お前』

 

志乃は答えなかった。その横へ、ルッキーニが飛び寄った。

 

『シノ!』

 

志乃が速度を合わせる。

 

『ありがとう!』

 

風の音だけが続いた。やがて、志乃が口を開いた。

 

『……お礼なら、皆さんにも伝えてください』

 

『うにゃ?』

 

『四人が引きずり出してくれたから、私は斬れたんですよ』

 

ルッキーニは目をぱちくりさせた。それから、シャーリーたちの方を振り返り、顔いっぱいに笑った。

 

『うん!』

 

直後、司令部の通信が入る。

 

『こちら司令部! ネウロイの消滅を確認した! 各機、よくやった!』

 

『やったー!』

 

ルッキーニが両手を上げた。だが、すぐに通信機へ呼びかける。

 

『ねえねえ! 島は!? 島はどうなるの!?』

 

『艦砲射撃は中止だ。これ以上、デロス島を攻撃する必要はない』

 

『ほんと!?』

 

『ああ』

 

ルッキーニは、大きく息を吸い込んだ。胸の奥へ朝の空気をいっぱいに入れ、それを声にして吐き出した。

 

『やったあああああっ!』

 

海の上に、どこまでも通る声が響いた。

 

『よかったな、ルッキーニ!』

 

シャーリーも笑っていた。

 

『うん!』

 

少女は何度も頷いた。すぐそこの島を見て、もう一度シャーリーを見る。

 

『島、守れたね!』

 

『ああ!』

 

シャーリーは手を伸ばし、その頭を軽く撫でた。

 

『みんなで守ったんだよ』

 

ルッキーニの笑顔が、いっそう明るくなった。

 

離れたところで、志乃は二人のやり取りを聞いていた。やがて機体を旋回させると、その横へマルセイユが並んできた。

 

『……志乃』

 

『うん?』

 

『また無茶な飛び方をしたな』

 

『……そうかな』

 

『ああ』

 

マルセイユが笑う。揃った二機の下で、海は朝と変わらない色に広がっていた。

 

『だが、見事だった』

 

返事までに、わずかな間があった。

 

『……ありがとう』

 

二人はそのまま、海上を飛び続けた。

 

## Scene 05 ―― 丘の上の墓標

 

デロス島。

 

ネウロイの撃破が確認され、島内の安全が確保されるまでに、しばらくの時間がかかった。その後、五人には短い上陸が許された。

 

「わああっ!」

 

地面へ降り立つなり、ルッキーニの声が上がった。

 

「ほらほら! シャーリー、こっちこっち!」

 

「おいおい、そんなに急ぐなって!」

 

シャーリーは、まだストライカーユニットを外しているところだった。顔を上げると、ルッキーニはすでに、待ちきれない様子でこちらを振り返っていた。

 

「だって! 見せたいところがいっぱいあるんだもん!」

 

両手を広げた少女の向こうに、遺跡が続いていた。

 

並んだ白い石柱。途中で崩れた壁。建物が失われた後にも、地面に残っている石の基部。欠けた角には長い年月が刻まれ、その間を、潮の匂いを含んだ風が抜けていった。

 

低い壁の向こうには、エーゲ海が見えた。飛んでいる間には一面の色だった青が、陸から見ると、波の動きに合わせて幾つもの濃淡に分かれている。

 

「へえ……」

 

シャーリーはユニットから身体を離し、辺りを見回した。

 

「空から見るのとは、ずいぶん違うな」

 

「でしょでしょ!」

 

ルッキーニは胸を張った。

 

「だから壊しちゃだめだったんだよ!」

 

「そうだな」

 

シャーリーは笑った。見上げる柱の高さも、足元の石の古さも、ここに立ってみて、ようやく分かる。

 

「……ああ。確かに、綺麗な島だ」

 

マルセイユも周囲を見渡していた。

 

「こんな場所が残っていたとはな」

 

「歴史のある島ですからね」

 

ライーサは、日に明るく照らされた石畳へ視線を落とした。

 

「戦争が終わったら、観光に来る人も増えるかもしれませんね」

 

「うん! 絶対そうだよ!」

 

ルッキーニは勢いよく頷いた。

 

「ねえねえ、みんな! 早く行こうよ!」

 

言うなり、遺跡の方へ駆け出す。乾いた地面を蹴る足音が、石の間へ遠ざかった。

 

「こら、ルッキーニ!」

 

シャーリーが後を追う。

 

「もう、しょうがないなあ」

 

ライーサも笑って続いた。マルセイユは肩をすくめ、三人の後から歩き始める。

 

その声を、志乃は離れた場所で聞いていた。ルッキーニの弾んだ声と、それを呼び止める声。足音が遠のくにつれて、間に海風の音が入ってくる。

 

志乃は、顔を動かした。

 

島の奥へ続く、細い道がある。

 

何も言わず、そちらへ歩き出した。

 

―――

 

「ここ! ここ見て!」

 

ルッキーニが指差す先に、石柱の並ぶ広場があった。かつて大きな建物が立っていたのだろう。柱と柱の間には崩れた石材が重なり、地面に残った石畳が、その広さを伝えていた。

 

「すっごいなあ……」

 

シャーリーは足を止め、首を反らした。柱の上端が、青い空を背に白く浮かんでいる。

 

「これ、何百年も前からあるんだろ?」

 

「もっと昔だよ!」

 

「へえ!」

 

「ここにはね、昔の神様の神殿があったんだって!」

 

ルッキーニは、両手で建物の大きさを示すように説明を続けた。あちらを指し、こちらへ向き直る。聞いている三人の顔を確かめてから、また次の石を示した。すっかり、この島の案内人だった。

 

「……よく知っているな」

 

感心したマルセイユに、ルッキーニは顔をほころばせる。

 

「えへへ!」

 

「前にパパが教えてくれたんだ!」

 

ライーサの口元に、微笑みが浮かんだ。

 

昨夜聞いた家族との旅行の話が、少女の指差す景色に重なった。誰かに教えてもらったことを覚えていて、今度は自分が人に教える。その声の明るさが、昨日よりも近くで聞こえていた。

 

戦争が終わったら、もう一度来る。その約束を交わした場所が、こうして残っている。

 

「……よかったですね、ルッキーニさん」

 

「うにゃ?」

 

「島を守れて」

 

「うん!」

 

ルッキーニは大きく頷いた。

 

「みんなのおかげだよ!」

 

そして、もう次の場所へ顔を向けている。

 

「あっ! あっちにも行こう!」

 

「まだあるのかよ!」

 

シャーリーが笑った。

 

「いっぱいあるんだよー!」

 

ルッキーニが駆け出す。四人は遺跡の間を抜け、小高い場所へ続く道を登っていった。石畳が途切れると、踏みしめる足元に土と草が増えた。途中まで視界を遮っていた斜面の縁を越えたところで、風が正面から吹いてきた。

 

「……わあ」

 

ライーサは、思わず立ち止まった。

 

花畑が広がっていた。

 

背の低い草花が、緩やかな斜面を覆っている。白い花に、黄色い花。淡い紫の花が、その間を埋めるように咲いていた。風の通る場所から順に茎が傾き、また起き上がる。近くを見ていた目を上げると、その向こうに海が続いていた。

 

水平線に浮かぶ幾つかの島影は、青の中に薄く溶けている。

 

「……すごいな」

 

シャーリーの声も、ここでは自然と低くなった。

 

「本当に綺麗ですね……」

 

ライーサが答えた。空から降りてきたときより、海が遠くまで見渡せる気がした。

 

「ふふん!」

 

ルッキーニは、三人の反応に満足そうだった。

 

「ここ、あたしのお気に入りなんだ!」

 

「なるほどな」

 

マルセイユが腕を組む。

 

「確かに、悪くない景色だ」

 

「でしょ!」

 

ルッキーニは花畑へ駆け出した。後を追ったシャーリーと並び、花の間を歩いていく。楽しげな会話が風に運ばれ、ときどき、言葉の終わりだけがこちらへ届いた。

 

マルセイユは、その声から離れた場所で海を眺めていた。

 

「……あれ?」

 

背後で、ライーサが言った。

 

「どうした、ライ?」

 

振り返ると、ライーサは来た道を見ていた。

 

「……柊少佐は?」

 

「……ん?」

 

マルセイユは辺りを見回した。花の中にシャーリーとルッキーニがいる。そばにはライーサ。黒い軍服の姿だけが、どこにもなかった。

 

「おい、リベリオン!」

 

「なんだよー!」

 

シャーリーが顔を上げる。

 

「志乃はどこへ行った?」

 

「え?」

 

その顔が、左右へ動いた。

 

「……あれ?」

 

「一緒じゃなかったのか?」

 

「いや、てっきり後ろから来てるもんだと思ってたけど……」

 

シャーリーは遺跡へ戻る道を見た。石の陰にも、こちらへ歩いてくる人影にも、心当たりの黒はない。

 

「そういえば……」

 

ライーサも、上陸してからを思い返していた。

 

「上陸してから、一度も姿を見ていませんね」

 

「あいつ、どこ行ったんだ?」

 

シャーリーが首を傾げる。その横で、ルッキーニが口元に両手を添えた。

 

「シノー!」

 

花畑を越えて、声が飛んでいく。

 

「シノー! どこー!?」

 

返ってきたのは、草花を鳴らす風の音だけだった。

 

「……まったく」

 

マルセイユが息をつく。

 

「いつの間にいなくなったんだ、あいつは」

 

「とにかく探してみようぜ」

 

シャーリーは来た道へ身体を向けた。

 

「そんなに遠くへは行ってないだろ」

 

四人は花畑を離れ、志乃を探しに引き返した。

 

―――

 

「シノー!」

 

ルッキーニの声が、石柱の間に響いた。反響が消えるまで待っても、返事はなかった。

 

「こっちにはいないぞ!」

 

崩れた神殿の陰から、シャーリーが顔を出した。

 

「こちらも見当たりません!」

 

ライーサの返事が、別の方角から届く。

 

遺跡の周囲を歩き、海岸沿いの道も確かめた。明るい石の上へ落ちた自分たちの影だけが、行く先々についてくる。志乃の姿は見つからなかった。

 

「……どこに行ったんだ、あいつ」

 

シャーリーが頭を掻く。

 

「まさか、もう基地に戻ったんじゃないだろうな」

 

「いや、それなら一言くらいあるだろう」

 

マルセイユは答えた。続く声には、断言しきれない間が挟まる。

 

「……多分な」

 

「多分ってなんだよ!」

 

「志乃だからな」

 

「説明になってないぞ!」

 

やり取りを聞きながら、ライーサは周囲を見渡していた。遺跡の外れからは、先ほどの花畑の向こうまで見通せる。そのさらに先に、緑の丘があった。斜面をたどって、一本の細い道が続いている。

 

「……あの」

 

三人を呼び止めた。

 

「向こうは、まだ探していませんよね?」

 

指差した先へ、三人の視線が揃った。

 

「……あそこか」

 

マルセイユが呟く。

 

「行ってみるか」

 

シャーリーが歩き出し、ルッキーニも後を追った。四人はもう一度花畑を通り、丘への道を登っていった。細くなった道では自然と縦に並ぶ。草を分けて進む足元から、乾いた土の匂いが立った。

 

―――

 

丘の上では、低い草が海からの風に揺れていた。

 

神殿も、背の高い石柱もない。島を訪れた人が見物するためのものは、何もなかった。緩やかな斜面の上に、背の低い石がいくつも並んでいる。

 

「……あれ?」

 

ルッキーニが足を止めた。

 

近づくにつれ、一つ一つの違いが分かってきた。石を幾つか積んだもの。粗く削った石板を、地面へ立てたもの。木で作られた十字架は、風雨に晒され、朽ちかけている。

 

そうしたものが、何十と続いていた。

 

「……これ」

 

ライーサの声が途切れる。

 

「お墓……ですか?」

 

誰も答えなかった。

 

刻まれた名前の読める石もあった。文字が薄れ、判別できなくなったものもある。初めから何も記されていない石は、それだけでは、ただそこに置かれた石と変わらなかった。

 

立派な墓石も、花輪もない。それでも、ほぼ同じ間隔で並ぶ一つ一つが、人の眠る場所だった。

 

その間に、黒いケープの後ろ姿があった。

 

風に持ち上がった黒髪の、白い毛先だけが明るい。

 

「……シノ?」

 

ルッキーニが呼ぶと、その人影が振り返った。

 

「……ルッキーニ」

 

名前を呼び返した声は、いつもより少しだけ低かった。

 

「こんなところにいたのかよ」

 

シャーリーが近づいた。探し当てた安堵と、墓標の間に立つ相手の姿が、うまくつながらなかった。

 

「探したんだぞ?」

 

「……すみません。何も言わずに離れてしまって」

 

短く答えた志乃の手には、花が数本握られていた。先ほどの花畑に咲いていたものと、よく似ている。細い茎の先で、花びらが風に震えていた。

 

志乃は墓標へ向き直り、そのうちの一つの前へ花を置いた。石の根元まで手を下ろし、指を離す。その動きを、ライーサは黙って見ていた。

 

「……柊少佐」

 

「はい」

 

「こちらのお墓は……?」

 

志乃はすぐには答えなかった。風がケープの裾をめくり、また元へ戻した。

 

「……以前、この海域で作戦がありました」

 

風の音の間に、落ち着いた声がした。

 

「そのときに亡くなった方々です」

 

「……そうだったんですか」

 

ライーサは、足元に並ぶ石へ目を落とした。

 

「軍人の方々ですか?」

 

「……いいえ」

 

志乃が首を横に振る。

 

「民間の方々です」

 

シャーリーの表情が変わった。

 

「……民間人?」

 

「ええ」

 

「作戦の後、ここに埋葬されました」

 

ライーサは、改めて丘を見回した。近くの列から、その向こうへ。数えようとしなくても、三十を超えているように思えた。それが皆、この海域で亡くなった人たちなのだ。

 

「……こんなに」

 

声が漏れた。

 

ルッキーニも、墓標を見つめていた。今まで楽しそうに案内してきた島に、こんな場所がある。唇を閉じ、目の前の石から、志乃へ顔を向けた。

 

「……シノ」

 

「どうしたの?」

 

「……知ってる人たちなの?」

 

志乃の顔が、わずかに伏せられた。

 

「……うん」

 

間を置いて、続けた。

 

「私も、その作戦に参加していました」

 

「……」

 

「……救えなかった人たちです」

 

志乃は、それ以上言葉を継がなかった。墓標へ顔を戻し、花を置いた場所の前に立っている。

 

海から吹き上げる風が、短い草を伏せていった。乾いた土に、細かな砂が溜まっている。石の根元に生えた葉が、揺れるたびに、その角を叩いていた。

 

シャーリーは、足元の墓を見下ろした。平たい石が二つ重ねられ、その上に石板が立っている。表面には文字の跡があった。目でたどってみても、風雨に削られた線は、もう名前には戻らなかった。

 

先には、木片を組んだだけの十字架がある。その隣には、名前のない石の山。どれも簡素で、立派な墓とは呼べなかった。それでも、ここに人が眠っていることだけは分かった。

 

同じ島だった。つい先ほどまで柱を見上げ、遺跡の美しさに見とれていた場所から、いくらも離れていない。こんな丘があることすら知らずに、歩いていた。

 

志乃の供えた花が、石の前で揺れた。

 

「……そう、だったんですね」

 

ライーサは墓標を見たまま答えた。続ける言葉を探しているようだったが、声は出てこなかった。

 

シャーリーも黙っていた。耳には、志乃の言葉が残っている。

 

――救えなかった。

 

その言い方が、引っ掛かった。

 

あれほどの力を持っているのに。そう思いかけたところで、数時間前の光景が浮かんだ。空を落ちてくる黒い影。そこへ伸びる、幾筋もの赤いビーム。

 

志乃は避けなかった。光の方が、身体へ届く直前に曲がり、両脇を抜けていった。あのときは、ただ驚いた。あんなことのできるウィッチがいるのかと、見ているだけだった。

 

けれど、シールドはなかった。

 

何度攻撃されても、一度も魔法陣は現れなかった。普通なら盾を張るはずの場面で、志乃は別の方法でビームをやり過ごしていた。

 

格納庫で、自分が拳を振り上げたときも同じだった。

 

受け止められた手応えはなかった。拳は、見えない何かに行き先を逸らされただけだった。ビームも、拳も、向かっていたのは志乃自身だ。

 

そして、そのどちらのときも、志乃は顔を背けなかった。

 

ビームが迫ったとき、ルッキーニは思わず目を閉じかけていた。格納庫で拳を振るったときも、目の前にいる相手なら、反射的に瞼を閉じるか、顔を庇うはずだった。志乃は、そのどちらもしなかった。避けようとする動きさえなかった。

 

それなのに、会議室でも格納庫でも、一度も足元を探らなかった。今も、墓標の間を迷わず歩き、花を石の根元へ置いてみせた。

 

――やっぱり、見えていないんだ。

 

目で見ているのではない。何か別のもので、周りを捉えている。そうとしか考えられなかった。

 

あの帯の下のことを、マルセイユは話そうとしなかった。本人に聞けと言った、その理由が、少しだけ分かる気がした。

 

「……まさか」

 

声が漏れた。ライーサがこちらを見たことにも、気づかなかった。

 

あの攻撃を逸らす力がある。銃弾で崩せなかった装甲を斬り、たった一人で戦況を変えてしまう力もある。

 

だが、それは、誰かを包み込む盾ではない。

 

――あいつ、シールドを張れないのか。

 

昨日のやり取りが、一度につながった。

 

『ルッキーニが洞窟に入ったとしても、あんたなら助けられたんじゃないのか!?』

 

自分は、そう詰め寄った。志乃は答えた。

 

『……私には、守ることができない』

 

あの言葉を聞いて、何を決めつけたのか。助けるつもりがないのだと思った。ルッキーニの命も気持ちも、どうでもいいのかと怒鳴った。

 

けれど、志乃はルッキーニを止めていた。洞窟へ飛び込もうとした少女を、自分の手で引き止めていた。

 

奥で何が起こるかは分からない。ルッキーニが攻撃に晒されたとしても、その身体を覆うシールドを張ってはやれない。だから、行かせなかったのだ。

 

守る気がなかったのではない。守りたくても、守れないことがあると知っていた。

 

シャーリーは、もう一度石の列を見た。読めなくなった名前。名前さえ記されていない墓。その前に、花を供えて立つ志乃がいる。

 

石に刻まれた名前を、あの帯の下の目で読むことはできないのだろう。それでも志乃は、迷わず一つの墓の前へ花を置いていた。

 

あの短い言葉に何が含まれていたのか、今なら、ほんの少しだけ分かる気がした。

 

殴ろうとしたことは、格納庫で謝った。けれど、投げつけた言葉については、まだ何も言っていない。

 

「……っ」

 

奥歯を噛みしめた。謝りたかった。口を開けばよいだけのことが、今、墓の前にいる相手には言えなかった。

 

志乃は何も知らないかのように、墓標へ顔を向けている。黒い帯に覆われた目元から、表情は読み取れない。

 

傍らでは、ルッキーニが小さな墓を見つめていた。少女がここにいる。無事に、二本の足で立っている。その姿を改めて確かめ、シャーリーは胸の中で息を吐いた。

 

―――

 

風が丘を渡った。草の先が擦れ合い、供えたばかりの花も揺れる。

 

志乃は顔を動かし、目の前の墓標の位置を確かめた。手前に幾つ、その奥に幾つ。どこに誰が眠っているのか。その配置は、今も覚えていた。

 

この海域で行われた作戦のことも。

 

ネウロイの襲撃を受けて逃げる人々。悲鳴。爆発音。人の声と爆音が重なり、どこから呼んでいるのかを捉えなければならなかった、あのときのこと。

 

もっと早く動いていれば。

 

敵を、もう少し早く倒せていれば。

 

あるいは、自分にも、誰かを覆う盾を張ることができていたなら。

 

考えた回数は、もう分からなかった。どの順序で思い返しても、最後に残るものは同じだった。

 

自分へ向けられた攻撃なら、逸らせる。それは今日もできた。だが、自分の背後にいる人々を、同じように魔法の盾で覆うことはできない。魔法力の多さで埋められる違いではなかった。

 

戦いを重ねても、その性質は変わらない。

 

志乃は手を下ろした。袖の内側に、二振りの黒刀がある。今日のネウロイを斬った、あの刀だった。どれほど鋭く、どれほど早く振るうことができても、墓標の下に眠る命を取り戻すことはできなかった。

 

「……志乃」

 

マルセイユが呼んだ。

 

「……うん」

 

「そろそろ戻る時間だ」

 

「分かった」

 

返事はすぐだった。足は、すぐには動かなかった。

 

マルセイユは急かさなかった。距離を置いて立ち、同じ墓標へ目を向けている。シャーリーも腕を組んだまま、丘の上を見渡していた。いつもなら何か冗談を言って、皆を動かすところだった。口を開いても、今はその言葉が浮かばなかった。

 

ライーサも、言葉を探していた。戦果を褒めることも、過ぎたことだと慰めることも、ここに置くには違うように思えた。結局、何も言えずにいた。

 

「……ねえ、シノ」

 

ルッキーニの声が、その間に入った。

 

「……ここも、壊れちゃうところだったんだね」

 

志乃が、声の方へ顔を向けた。

 

「……うん」

 

ルッキーニは、石の列を見ていた。島を砲撃していたら、白い神殿も、花畑も、ここも。自分が知っていた景色だけでなく、この名前のある石も、名前のない石も失われていたかもしれない。

 

「……そっか」

 

呟いて、志乃の隣へ歩いた。さっきまで少し離れて見ていた墓標が、すぐ足元になった。

 

「……でも」

 

「今日は守れたよ」

 

ルッキーニは石を見たまま、続けた。

 

「神殿も、お花畑も……ここも」

 

志乃は答えなかった。

 

「みんなで守ったんだよね」

 

返事を待つあいだ、シャーリーはルッキーニの横顔を見ていた。昨日、あれほど必死に飛び出そうとしていた少女が、今はこうして墓標の前に立っている。そのことが、何よりもありがたかった。

 

やがて、志乃の顎がわずかに下がった。

 

「……そうだね」

 

ルッキーニは笑った。それ以上は言わず、花の供えられた墓標の前へしゃがみ込む。

 

「……あたしも、お花持ってこようかな」

 

「ルッキーニ?」

 

シャーリーが呼びかけた。

 

「だって、ここ、あんまりお花ないんだもん」

 

立ち上がり、丘を下る道へ目を向ける。

 

「さっきのところ、いっぱい咲いてたでしょ?」

 

ライーサは、少女の顔を見て微笑んだ。

 

「そうですね」

 

「じゃあ、少しだけ持ってこようよ!」

 

シャーリーは一度、墓標へ目をやった。それから、腕をほどいた。

 

「……そうだな」

 

「私も手伝います」

 

ライーサも歩き出す。

 

「……おい、あまり遠くへ行くなよ」

 

マルセイユが三人に声を掛けた。

 

「分かってるよー!」

 

返事をしたルッキーニは、もう花畑へ向けて駆けていた。シャーリーとライーサも続く。丘を下る足音が遠ざかるまで、マルセイユはその背中を見ていた。

 

やがて、隣へ顔を向ける。

 

「……志乃」

 

「なに、ハンナ」

 

「……お前、ここに来たことがあったんだな」

 

「うん」

 

「そうか」

 

それ以上は、尋ねなかった。志乃も説明しなかった。二人の間を風が抜け、ケープと草の先を同じ方向へ揺らした。

 

しばらくして、道の下から足音が戻ってきた。

 

「ただいまー!」

 

ルッキーニの両手には、色とりどりの花があった。細い茎が指の間からはみ出し、歩くたびに白や黄色が揺れる。

 

「ほら、シノ! 一緒に置こうよ!」

 

差し出された花の前で、志乃はすぐには答えなかった。

 

「……うん」

 

五人は墓標の間へ入っていった。一つの前で足を止め、花を置いて、また次へ進む。名前が刻まれた墓にも、何も記されていない墓にも。同じ丘に眠る人たちの間を、順に歩いた。

 

ルッキーニは花を置くたびに頭を下げた。ライーサも、それに倣った。シャーリーとマルセイユは、言葉を交わさずに二人の後を歩いている。

 

志乃は少し遅れて歩きながら、その動きを感じ取っていた。しゃがむ位置。立ち上がる気配。また次の石へ移る足音。覚えていた墓標の配置の上を、四人が歩いていく。

 

やがて、どの墓標の前にも花が置かれた。

 

「……よしっ!」

 

最後の石の前から、ルッキーニが立ち上がる。

 

「これでいいね!」

 

「そうだな」

 

シャーリーは、並んだ花を見て微笑んだ。

 

「……綺麗になりましたね」

 

ライーサも頷く。古びた石の根元に、今摘んだばかりの色があった。

 

マルセイユは空を見上げた。陽の位置が、先ほどより下がっている。

 

「……そろそろ本当に戻らないとな」

 

「あっ、そうだった!」

 

ルッキーニが顔を上げた。

 

「シャーリー! まだ見せたいところがあるのに!」

 

「おいおい、もう時間だって!」

 

「えー!」

 

いつもの調子の声が、丘に戻ってきた。志乃はそのやり取りを聞き、やがて墓標の方へ顔を向けた。

 

「……」

 

言葉を残すことはなかった。頭を下げ、それから四人の後へ続いた。

 

丘を下る途中で、ルッキーニが振り返った。

 

「ねえ、シノ! また来ようね!」

 

志乃は足を止め、声の方へ顔を向けた。

 

「……うん」

 

「約束だよ!」

 

「うん。約束」

 

満足したルッキーニが、またシャーリーのそばへ駆けていく。志乃はその足音を聞きながら、道を下り続けた。

 

背後の丘では、墓標が海を見下ろしていた。その根元で、花が風に揺れている。斜面の下には花畑が続き、白い石柱の影が地面に伸びていた。

 

失われたものは、戻らない。

 

それでも、今日、砲火に晒されずに残ったものがある。遠ざかる丘も、古い柱も、そこへ至る道も、その先の海と同じ夕日に照らされていた。

 

五人のウィッチは、デロス島を後にした。

 

―――

 

### エピローグ「静かな格納庫」

 

クレタ島、連合軍基地。

 

デロス島から帰還したころには、日が暮れていた。格納庫の中には、外の潮の匂いに混じって、油と金属の匂いがこもっている。広い屋根の下に立つと、遠くの物音までが長く残った。

 

整備台に、試製秋水が置かれていた。

 

その前に、志乃が一人で立っている。何かを調べる手つきもなく、機体の前から動かなかった。

 

背後から、足音が近づいた。

 

「柊少佐」

 

志乃が振り返る。

 

「……ロンメル閣下」

 

ロンメル将軍が、入口の方から歩いてきていた。

 

「こんなところにいたのかね」

 

「はい」

 

将軍は隣に並んだ。二人の前には、同じ一組の試製秋水がある。飛行を終えた機体は動かず、昼間の轟音が、ここでは遠い出来事のようだった。

 

「……今日は見事だった」

 

「ありがとうございます」

 

「君たちのおかげで、デロス島を破壊せずに済んだ」

 

「……四人の働きによるものです」

 

「ははっ。君なら、そう言うと思っていたよ」

 

ロンメルは笑った。試製秋水を見ていた顔を、志乃へ向ける。

 

「しかし、それ以上に喜ばしいことがある」

 

志乃も、声の方へ顔を向けた。

 

「……?」

 

「君たちが、五人揃って無事に帰還してくれたことだよ」

 

声は穏やかだった。戦果を告げる通信とは違う響きで、格納庫の中に落ちる。

 

「どれほど立派な戦果を挙げようとも、君たちを失ってしまっては意味がない」

 

「……」

 

「もちろん、戦争である以上、危険な任務を命じなければならないこともある。だが、できることなら、誰一人失いたくないものだ」

 

志乃は、黙って聞いていた。整備台の前に立つ姿勢は変わらない。

 

「……だからこそ、今日は本当に良かった」

 

ロンメルが微笑む。

 

「ありがとうございます」

 

志乃は頭を下げた。

 

しばらく、言葉が途切れた。昼間なら機械の音に紛れてしまうような物音が、屋根の下を渡って消えた。

 

「……それから」

 

ロンメルが続ける。

 

「今回の作戦への参加を引き受けてくれて、ありがとう」

 

志乃は再び頭を下げた。

 

「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」

 

ロンメルは、その返答に顔を向けた。

 

「……ほう?」

 

間を置いて、志乃が尋ねた。

 

「議長から伺ったのですか?」

 

「ん?」

 

「私の、エーゲ海での作戦の話です」

 

将軍はすぐには答えなかった。機体へ目を戻し、それから頷いた。

 

「……ああ、そうだ」

 

続く声も、急がなかった。

 

「君の提案で、あの島に墓地が設けられたこともな」

 

「…………」

 

志乃は、何も答えなかった。

 

顔を伏せることも、姿勢を崩すこともない。ケープの下の手も動かなかった。将軍には黒い帯しか見えず、その奥の瞳を窺うことはできなかった。

 

それでも、今の沈黙の中に、まだ消えていない後悔があるように思えた。

 

そう受け取ったのは、彼自身の想像に過ぎないのかもしれない。志乃が何を思っているのかを、確かめる言葉はなかった。ただ、あの墓地が彼女にとって、報告書に記された一つの埋葬地ではないことは分かる。

 

ロンメルは、それ以上尋ねなかった。志乃も話さなかった。

 

二人は、動かない機体の前に立っていた。

 

「……さて」

 

やがて、ロンメルが口を開いた。志乃へ背を向ける。

 

「そろそろ失礼しよう」

 

「はい」

 

足音が、入口へ向かった。ゆっくりと離れていき、出口のところで止まる。

 

「……柊少佐」

 

「はい」

 

将軍は振り返らなかった。

 

「期待しているよ。柊志乃少佐」

 

「……はい」

 

返事を聞くと、ロンメルは歩き出した。遠ざかった足音が、やがて外の暗がりへ消える。

 

格納庫には、再び静けさが戻った。

 

志乃は、しばらく動かなかった。やがて、試製秋水の方へ顔を向けた。

 

何も言わず、その前に佇んでいた。

 

## Scene 06 ―― 旅立ち

 

クレタ島、連合軍基地。

 

翌朝、東の空には薄い雲がかかっていた。まだ低い陽の光を受け、雲の縁だけが明るい。海から吹く穏やかな風が、滑走路の上を渡ってくる。

 

その端に、一組の試製秋水が置かれていた。

 

傍らに立つ柊志乃は、出発の準備を終えていた。黒い軍服の裾とケープが、風の来るたびに同じ方向へ動く。

 

「……おーい!」

 

離れたところから、声がした。

 

「シノー!」

 

志乃が顔を向ける。滑走路の向こうから、ルッキーニが駆けてきていた。少し遅れて、シャーリー、マルセイユ、ライーサの三人も来る。

 

「ルッキーニ」

 

「もう行っちゃうの!?」

 

駆け寄ったルッキーニは、試製秋水と志乃を見比べた。

 

「うん」

 

「えー! 早いよー!」

 

膨らませた頬のまま、志乃を見上げる。

 

「せっかく仲良くなれたのに!」

 

志乃は顔を傾けた。朝の滑走路に、少女の不満そうな声がよく通った。

 

「……また会えますよ」

 

「ほんと!?」

 

「うん」

 

返事を聞くと、ルッキーニの顔が明るくなった。

 

「じゃあ、デロス島の約束も忘れないでね!」

 

「忘れませんよ」

 

「絶対だよ!」

 

志乃は頷いた。ルッキーニは、その頷きを見届けるように彼女の顔を見ていた。

 

「ったく、ルッキーニ。そんなに騒ぐなって」

 

追いついたシャーリーが、笑いながら言った。

 

「だってー!」

 

「まあ、気持ちは分かるけどさ」

 

シャーリーは志乃へ向き直った。

 

「……柊少佐」

 

「何でしょう?」

 

「色々あったけど、世話になったな」

 

「……こちらこそ、お世話になりました」

 

「お前のおかげで、あの島を守れたよ」

 

志乃が首を横に振る。

 

「皆さんの作戦が成功したからですよ」

 

「……ははっ」

 

昨日と同じ返事だった。シャーリーは笑って、肩の力を抜いた。

 

「最後までそういう奴なんだな」

 

視線が、その脇の機体へ移る。朝の光に晒された試製秋水は、昨夜の格納庫にあったときより、各部の形がはっきり見えた。

 

「それにしても、いい機体だよなあ」

 

「……ええ」

 

「乗せてくれるって話、忘れてないからな!」

 

「ええ。調整が済んだら、ですよ」

 

「よし!」

 

シャーリーは満足そうに笑った。昨日見た加速を思えば、試してみたいことはいくらでもあった。

 

その隣から、ライーサが一歩進んだ。

 

「柊少佐」

 

「はい」

 

「本当に、お世話になりました」

 

丁寧に頭を下げる。

 

「またご一緒できる日を楽しみにしています」

 

「ええ。私もです」

 

志乃も頭を下げた。

 

「ありがとうございました、ライーサさん」

 

言葉は多くなかった。だが、ライーサにはそれで十分だった。

 

昨日、丘の上で花を置いていた姿が心に残っている。どれほど強くても、救えなかった命がある。そのことを短い言葉で告げた人が、今は、自分たちと次に会う話をしている。

 

ライーサは、下げていた頭を上げた。見送るのは寂しい。それでも、この穏やかな挨拶を交わせることが嬉しかった。

 

「……さて」

 

マルセイユが口を開いた。

 

「そろそろ出発の時間じゃないのか?」

 

「うん」

 

「なら、いつまでも引き止めるわけにはいかないな」

 

腕を組んだマルセイユは、しばらく志乃を見ていた。すぐに続く言葉はなく、息だけが一度、落ちた。

 

「……志乃。少し、いいか?」

 

「うん」

 

マルセイユは、三人へ顔を向けた。

 

「先に行っていてくれ」

 

「ん? なんだよ、内緒話か?」

 

シャーリーの口元が上がる。

 

「うるさいぞ、リベリオン」

 

「へいへい!」

 

笑ったまま、ルッキーニの肩を抱いた。

 

「ほら、ルッキーニ。あっちで見送ろうぜ」

 

「えー! シノとまだお話したい!」

 

「また会えるって言ってただろ?」

 

「……うん!」

 

ルッキーニが頷き、シャーリーと歩き出す。ライーサも続いた。二人から距離ができたところで、一度だけ振り返る。

 

滑走路の端に、マルセイユと志乃が並んでいた。三人が離れていくあいだも、その場を動いていなかった。

 

ライーサは、アフリカでの話を思い出した。再会したときのマルセイユの驚き。今は当たり前のように交わされる、互いの名前。その間には、自分の知らない時間があるのだろう。

 

そう思うと、嬉しかった。二人の邪魔をしないように前を向き、シャーリーとルッキーニの後を歩いた。

 

―――

 

「……早いものだな」

 

マルセイユが呟いた。

 

「まさか、こんなに早く別れることになるとは」

 

「……そうだね」

 

「少しくらい、残っていけばいいものを」

 

「次の任務がある」

 

「分かっている」

 

マルセイユは苦笑した。分かっていることを、改めて真っ直ぐ返される。その調子も、以前と変わらない。

 

「言ってみただけだ」

 

風が、二人の間を通り抜けた。離れた三人の声は、ここまではもうはっきり届かなかった。

 

しばらくして、マルセイユが口を開いた。

 

「……志乃」

 

「……何?」

 

「アフリカのこと、覚えているか?」

 

「うん」

 

志乃は答えた。

 

「あのときは、世話になったね」

 

「……ふん」

 

マルセイユは鼻を鳴らす。

 

「世話になったのは、こちらの方だ」

 

視線を、遠くの空へ逃がした。クレタ島の朝は、あの日の戦場と重ならないほど穏やかだった。それでも、思い出すときには、いつも同じ姿が浮かんだ。

 

「……今でも、時々思い出すんだ」

 

「……」

 

「お前と初めて会った日のことをな」

 

志乃は、何も答えなかった。

 

「……正直に言えば、もう駄目だと思っていた」

 

マルセイユの声は、先ほどより低くなっていた。

 

「間に合わなかったんじゃないか、とな」

 

「……そうだったんだね」

 

「ああ」

 

マルセイユは笑った。あのとき志乃を見つけた瞬間の感覚が、今も胸の奥に残っている。

 

「それがどうだ。行ってみれば、当の本人は何事もなかったような顔をしている」

 

「……何事もなくはなかった」

 

「分かっている!」

 

声が大きくなった。自分でもそれを聞き、マルセイユは一度、息を吐いた。

 

「……まったく。そういうところも変わらんな」

 

志乃が、わずかに首を傾ける。

 

「……そうかな?」

 

「ああ」

 

頷いたマルセイユの表情が、緩んだ。

 

「……でもな、志乃」

 

「うん」

 

「生きていてくれて、本当によかったと思っている」

 

返事はなかった。帯に覆われた顔は、マルセイユの方を向いたままだった。

 

「あの日も、今日もだ」

 

言葉の後に、風が通った。ケープの裾が動き、その内側に、今ここに立っている身体がある。

 

マルセイユは何かを言いかけた。口を開き、閉じる。代わりに、一歩近づいた。

 

「……?」

 

両腕を志乃の背中へ回した。

 

黒いケープごと、しっかりと抱きしめる。腕の中に、布の厚みと、その下の身体の重さがあった。

 

「……ハンナ?」

 

志乃の声が、すぐそばでした。

 

「……少し黙っていろ」

 

普段の言い方とは違う、抑えた声だった。

 

志乃は答えなかった。突然触れられた身体が、わずかに強張っている。マルセイユは、その背へ回した腕に力を足した。

 

「……お前は、いつも無茶ばかりする」

 

「……」

 

「仲間を助けるためなら、自分がどうなっても構わないとでも思っているんだろう?」

 

「……そんなことはない」

 

「……そうか」

 

マルセイユは笑った。

 

「なら、いい」

 

腕は離さなかった。返事を確かめるように、そのまま立っていた。

 

志乃も動かなかった。風が二人の横を抜け、広がりかけたケープを、背中へ回した腕が押さえていた。

 

やがて、志乃が口を開いた。

 

「……ハンナ」

 

「なんだ?」

 

「……心配をかけたね」

 

「……まったくだ」

 

短く返した。その先を急かす言葉は、どちらからも出なかった。

 

しばらくして、志乃の片手が上がった。腕がゆっくり動き、マルセイユの背中へ添えられる。

 

「……私も」

 

「……ん?」

 

「また会えて、よかった」

 

マルセイユの表情が止まった。

 

「…………」

 

返事の代わりに、腕へ力がこもった。ほんの一瞬、先ほどより強く。

 

「……そうか」

 

ようやく声にした。

 

「……うん」

 

それから、身体を離した。背中にあった手が下がり、二人の間へ朝の風が戻ってくる。

 

マルセイユは軽く咳払いをした。腕を組み直すと、顔を上げた。

 

「……よし!」

 

声が、いつもの大きさへ戻る。

 

「湿っぽいのはここまでだ!」

 

「……うん」

 

「次は、もう少し長く一緒に飛びたいものだ」

 

「そうだね」

 

「それと、志乃」

 

「まだあるの?」

 

マルセイユは、今度は真剣な声で告げた。

 

「次に無茶をするなら、私も連れていけ」

 

「……」

 

「一人で何もかも背負う必要はないだろう?」

 

志乃は答えずにいた。マルセイユは、組んだ腕をほどかず待った。

 

やがて、志乃が頷く。

 

「……分かった」

 

マルセイユの口元が上がった。

 

「それでいい」

 

右手を差し出す。志乃はその動きを感じ取り、自分の右手を伸ばした。

 

二人の掌が重なった。

 

「……また会おう、志乃」

 

「うん」

 

志乃が頷く。

 

「またね、ハンナ」

 

「……ああ!」

 

マルセイユは、握った手にもう一度力を込めた。

 

―――

 

試製秋水の魔導エンジンが始動した。低い唸りが次第に高まり、鋭い噴射音へと変わっていく。その響きが、朝の滑走路を満たした。

 

志乃は、四人へ身体を向けた。

 

「皆さんも、どうかお元気で」

 

シャーリーが笑った。

 

「おう! 元気でな!」

 

「シノー! またねー!」

 

ルッキーニは両手を大きく振っていた。

 

「お気をつけて!」

 

ライーサも、笑顔で手を振る。マルセイユは腕を組んだまま、何も言わずに志乃を見ていた。

 

志乃が頭を下げた。

 

地面から、機体が離れる。高度を上げた試製秋水が、ひときわ甲高い推進音を響かせた。

 

レシプロ式のストライカーとは、明らかに音が違っていた。ジェット機を思わせる鋭い轟音の中で、黒いケープが大きく広がる。

 

次の瞬間、機体が一気に加速した。

 

志乃は振り返らなかった。朝日を受けた海の上へ、黒い姿が駆けていく。滑走路のそばにあった音が、急速に遠ざかった。

 

四人は、その姿を追って顔を上げていた。

 

「……行っちゃった」

 

ルッキーニの手が、下りた。

 

「そうだな」

 

シャーリーが答える。

 

「……また会えるかな?」

 

「会えるさ」

 

マルセイユの返事に、シャーリーが振り返った。

 

「おっ、ずいぶん自信あるじゃないか」

 

「当然だ」

 

マルセイユは、まだ空を見ている。

 

「約束したからな」

 

「……ふーん?」

 

シャーリーは、にやりと笑った。

 

「お前、あいつのこと相当気に入ってるんだな」

 

「……何?」

 

「いやあ、珍しいなあと思ってさ!」

 

「うるさいぞ、リベリオン!」

 

「はははっ!」

 

いつもの声の応酬が、滑走路に戻ってきた。シャーリーが笑い、マルセイユが言い返す。

 

「ハンナ、シャーリーさん!」

 

ライーサが慌てて間に入った。

 

「もう、二人とも……!」

 

その隣で、ルッキーニは楽しそうに笑っていた。

 

マルセイユは、一度だけ空へ視線を戻した。志乃の姿は、もうほとんど見えない。

 

アフリカで初めて会ったとき、志乃はたった一人で戦場に残っていた。焼けた大地の真ん中で、その姿を見つけた日のことを、今でも覚えている。

 

生きていてよかった。

 

あのときは、それだけだった。ほかに何か考えられるほどの余地は、なかった。

 

今は、遠ざかる姿を見ながら、次の再会を思うことができる。志乃は自分の意思で空へ出て、次の任務へ向かった。二人は、また会う約束を交わしている。

 

「……まったく」

 

マルセイユは笑った。

 

「次は、いつになることやら」

 

その声は、誰にも聞こえなかった。

 

朝のエーゲ海に、一筋の飛行機雲が伸びていた。

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