ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ― 作:r3ir3i
## Scene 01 ―― 朝
午前七時の宿舎の廊下には、いつもより多くの足音が響いていた。
階段を下りる者。食堂へ急ぐ者。訓練の予定を確かめながら歩く者。ついこの間まで別々の場所にいたウィッチたちが、今朝は同じ建物で一日の始まりを迎えている。
「シノ、おはよ!」
向かいの扉から、アブソルが顔を出した。短い金髪が、後ろだけ少し跳ねている。
「おはよう。ずいぶん早いね」
「今日はみんなで飛ぶんだよ? 寝坊なんてしてられないって!」
「昨日は夜遅くまで、機体を見ていたのに」
「そこはそれ。楽しみの方が勝っちゃった」
志乃が小さく笑うと、アブソルは片方の肩に掛けたケープの位置を直して、隣に並んだ。
「秋水の接続部、朝一番でもう一回だけ見るね」
「お願い。私も一緒に行くよ。……その前に、朝ご飯かな」
「それは賛成!」
曲がり角から、元気な声が飛んできた。
「おはようございます、柊少佐!」
芳佳だった。すぐ後ろから、静夏が小走りで追いついてくる。
「宮藤さん、そんなに急がなくても食堂は逃げません!」
「だって、今日から訓練だよ。楽しみで!」
「楽しみなのは結構ですが、まずは時間と手順を守ってください」
そう言う静夏の足も、普段より速かった。アブソルが笑いをこらえる。
「二人とも、同じくらい楽しみなんじゃない?」
「えっ」
「そ、それは……!」
声の上ずった静夏に、志乃が穏やかに言った。
「初めての組み合わせが多いですからね。私も、楽しみにしています」
偽りのない言葉だった。
## Scene 02 ―― 組み替えの空
午前八時半、飛行場脇の会議室に、再編された第501統合戦闘航空団の面々が集まった。
「今日の目的は、編隊の組み直しに慣れることよ」
ミーナが一同を見渡した。
「速く飛ぶことや、上手に旋回することだけではありません。初めて隣を飛ぶ相手に、必要なことをきちんと伝えられるか。それを確かめます」
壁際で、坂本が腕を組んでいた。
「相手が何を見ていて、何を見落とすか。そこまで考えて飛ぶんだ。分かったな」
「はい!」
芳佳と静夏の声が重なった。
「午前は基礎編隊、位置の変更、交差時の間隔の確認。午後は索敵の情報を加えた訓練を行います。まずはバルクホルン少佐とハルトマン中尉を中心に八機。ビショップ曹長、クロステルマン中尉、宮藤さん、服部少尉。それから、柊少佐とクルス大尉」
「午後は別の組み合わせにします。シャーリーさん、ルッキーニさん、サーニャさん、エイラさんにも、順に加わってもらうわ」
「やったー!」
「喜ぶのは後にしとけ。まず説明を聞くんだ」
シャーリーがルッキーニの肩を押さえた。ミーナは微笑んで、志乃に空域の境界と進入方位、隊形を崩した場合の離脱方向を、一つずつ言葉で伝えた。志乃は聞きながら、いくつかの位置関係を確かめた。
隣で、アブソルが訓練表を眺めていた。前なら、二人の名前が同じ組に並んでいることなど、確かめるまでもなかった。今日は、別々の列に書かれている。
それでよかった。二人とも、そう思っていた。
―――
午前九時過ぎ、八機のストライカーが順に高度を上げ、指定の編隊に移っていった。
『全機、間隔を保て。まずは北東へ直進する』
バルクホルンの声が飛んだ。
志乃は右の列に入った。すぐ後ろにリーネ、左の少し前に芳佳。アブソルは反対側の列で、ペリーヌと間隔を取っている。
『柊少佐、後方は問題ありません』
『ありがとうございます、ビショップ曹長』
初めて組む相手でも、今のところ不自由はなかった。リーネの報告は丁寧で、芳佳の反応は早い。
『第一列、右へ旋回。第二列は高度を上げて位置を交換しろ』
志乃が内側へ入り、リーネが少し高度を下げた。そのとき、左から芳佳が急に速度を落とした。
『宮藤、どうした!』
『あっ、すみません! リーネちゃんの位置が近いかなって……!』
リーネを避けようとして、芳佳は自分の進路まで大きく変えてしまっていた。
『まず自分の持ち場を守れ。お前が予定外に動けば、後続も動かざるを得なくなる!』
『はい!』
志乃は、芳佳の機体が移ってくる方向を捉え、自分の旋回を少しだけ広げた。隊形の外側へ回って、芳佳が元の位置に戻れるだけの間隔を作る。それから無線を開いた。
『宮藤さん、私が外側へ出ます。今なら、元の列へ戻れますよ。速度は急に変えなくて大丈夫。そのまま、少しずつ進路を戻してください』
『……はい。戻ります!』
芳佳は慌てて傾けかけた機体を立て直し、ゆっくりと元の位置に収まった。
『柊少佐、ありがとうございました!』
『リーネさんを気にしてくれたのは、分かりましたよ。でも、まず自分の進路を伝えてもらえると、みんなが動きやすくなります』
『……はい!』
助けようとしたのだろう。声の調子から、それは伝わってきた。けれど空では、善意で動いた機体が、別の危険を作ることもある。
次の位置変更では、静夏が隊形の外側を受け持った。
『服部少尉、右後方の間隔を報告しろ』
『はい。……ええと、規定の位置へ戻るまで、もう少しです』
静夏は進路をきっちり保っていた。けれど、後ろに入るはずの機体が予定より遅れていることを、自分からは言わなかった。
『確認したことは報告しろ。こちらが聞くまで待たなくていい』
『も、申し訳ありません!』
焦った拍子に、静夏の機体がわずかに傾いた。
『謝るのは地上でいい。まず高度を戻せ』
志乃は後続との間隔を確かめてから、無線に入った。
『こちら柊。服部少尉の外側へ少し広がって、間隔を取ります』
『了解した』
周りの機体が無理に避けなくて済むよう、志乃は速度と位置をわずかに直した。
『服部さん、こちらは余裕があります。機体を水平に戻したら、分かっていることだけ伝えてください。正確な数字は後からで構いません。「離れている」「近づいている」だけでも、次の人は動けますから』
静夏は一呼吸置いた。
『右後方の一機が、予定の位置より遅れています。私は高度を維持します!』
『よし。それでいい。次からは聞かれる前に言え』
『はい!』
二人とも、飛べないわけではなかった。芳佳は仲間に気を向けすぎる。静夏は自分の役目を正確に果たそうとするあまり、声が遅れる。違う癖だが、編隊の中ではどちらも目立った。
そして志乃自身にも、今までになかった小さな癖が出ていた。
進路を変える直前、ほんの一瞬だけ、別の列にいる一機の位置を確かめてしまう。アブソルの機体だった。それを確かめてから、ようやく次の動きに移る。遅れと呼ぶほどのものではない。リーネは正確に後ろを知らせてくれるし、志乃の動きは指示から外れていない。それでも空に生じたその短い間を、志乃は何度か感じ取った。
―――
『第三列、交差位置へ』
アブソルは指示どおりに高度を変え、ペリーヌがその外側へ移った。
『クルス大尉、次はわたくしが先へ出ますわ』
『うん。後ろを見ておくね』
二機は滑らかに位置を入れ替えた。ペリーヌの飛び方は丁寧で、報告も分かりやすい。アブソルは安心して自分の位置に入れた。
その一方で、遠くの志乃の機体が気になっていた。いつもなら、あの旋回の少し手前で角度が変わる。今日は、わずかに遅い。何度目かの通過点で、志乃が一瞬だけ機体を傾けた。いつもアブソルが待っていることの多い方角へ。けれどすぐに直して、リーネの報告どおりの進路に入った。
アブソルは、無線に手を伸ばさなかった。
『クルス大尉?』
『うん、聞いてるよ。次は私が少し前に出るね』
今日の訓練で、アブソルが見るのは隣のペリーヌだった。それが、自分に与えられた役目だった。
## Scene 03 ―― 願い出
午前十時、最初の組が帰投した。滑走路脇で、坂本が記録を手に待っていた。
「宮藤。仲間を気遣うのは悪いことではない。だが、勝手に進路を変えると、その仲間がかえって困る。要るならまず声を掛けろ」
「……はい」
「柊少佐が位置を調整してくれただろう」
記録から顔を上げて、バルクホルンが言った。
「お前が仲間を気にかけるように、周りもお前を見て飛んでいる。だが、誰かが毎回あの余裕を作ってくれるとは限らん。覚えておけ」
「……はい!」
「戻るときは、落ち着いていましたよ。次は先に一声もらえれば、私ももっと早く合わせられます」
志乃が言い添えると、芳佳が顔を明るくした。
「服部。お前は自分の位置を正確に守っていた。そこはいい」
静夏が顔を上げた。
「だが、知ったことを伝えなければ、編隊の役には立たん。報告するのも、お前の仕事だ。柊少佐がお前の外側へ位置を変えたのには、気づいたな」
「……はい。私が姿勢を戻す間、周りとの間隔を保ってくださっていました」
「あの調整も、お前が先に報告していれば、もっと少ない動きで済んだかもしれん」
「服部さん。さっきの報告は、十分伝わりましたよ」
志乃が言った。
「最初から完璧に言おうとしなくて大丈夫です。短くても、声があるだけで助かりますから」
「……はい。ありがとうございます!」
「二人とも、直すところが分かれば十分だ。午後に試してみろ」
坂本が笑った。
―――
志乃は少し離れて、試製秋水の具合を確かめていた。いつもなら今頃、アブソルが機体に触れて、小さな振動の違いまで話し始めている。今、アブソルはペリーヌと飛行記録を見比べていた。
「さっきの交換、私がもう少し先に出てもよかったかも」
「いいえ。あの位置なら十分ですわ。ただ、次は一声早くいただけると助かります」
「了解!」
楽しそうな声だった。
志乃は、接続部から手を離した。アブソルが遠くへ行ったわけではない。それは、よく分かっている。けれど、訓練の予定を読み上げる声を聞いているうちに、志乃の足は自然とミーナの方へ向いていた。
「ヴィルケ中佐。一つ、お願いがあります」
「何かしら?」
「今日の訓練の最後に、アブソルと二機だけで飛ぶ時間をいただけないでしょうか。十分ほどで構いません」
言葉は、いつもどおり落ち着いていた。ミーナは予定表を確かめ、飛行場の方へ目をやった。午後にはまだ、何組もの訓練が残っている。
「今すぐではなくて、最後がいいのね」
「はい。皆さんの訓練が終わってからで結構です」
「……分かりました。日没前の最終枠を使ってちょうだい。指定空域の中だけ。帰投の時刻はこちらで決めます」
「ありがとうございます」
ミーナは少し離れたところへ声を掛けた。
「クルス大尉。柊少佐から、今日の最後に二人で飛びたいと申し出がありました。あなたも構わない?」
アブソルは一度、志乃の方を見た。
「もちろんです!」
ミーナが次の訓練表に目を落とすと、アブソルは志乃の隣に来た。
「夕方だってね」
「うん」
「秋水、それまでに見ておくよ」
「お願い」
それだけだった。なぜ今、二人だけの時間が欲しくなったのか。アブソルは訊かなかった。志乃も、理由を付け足さなかった。
「じゃ、次の準備してくるね!」
ペリーヌのいる方へ戻っていく足音を、志乃は聞いていた。
## Scene 04 ―― 午後の空
昼の食堂は、午前の訓練を終えた隊員たちで賑わっていた。
「芳佳ちゃん、さっき大丈夫だった?」
「うん。ちょっと慌てちゃったけど、午後は大丈夫だと思う。……坂本さんの言うとおりだったね」
向かいでは、静夏が食事の手を止めていた。
「私は、報告が遅れました。確かめてから伝えるつもりだったのですが……」
「服部少尉は、真面目なんですのね」
ペリーヌが言った。
「ですが、空では完璧な言葉を考えている暇がないこともありますわ。まず、何が起きているかを伝えることです」
「でもさ、失敗したのが訓練でよかったじゃん。次に飛ぶとき直せるんだから」
パンを手にしたハルトマンの一言に、静夏の肩から少し力が抜けた。
奥のテーブルでは、シャーリーとアブソルが午後の科目の話をしていた。志乃は、サーニャから索敵の段取りを聞いていた。
「午後は、私が広い範囲の反応を知らせます」
「ありがとう。エイラさんも一緒かな」
「サーニャの探知した方向なら、私が先に見ておくゾ」
エイラが得意げに言った。
「心強いです」
周りに、知らない声はもうほとんどなかった。新しい仲間と飛ぶのは、楽しかった。その気持ちに、嘘はなかった。
―――
午後一時半、訓練空域では、索敵報告を受けて進路を変える科目が始まった。サーニャとエイラが志乃の組に入り、別の方角では、アブソルがシャーリーとルッキーニを支えていた。
『北東側、反応が二つに分かれます。片方は少し南へ』
サーニャの静かな声。
『了解。南側へ進むね』
サーニャの索敵が届く距離は、志乃の知覚だけでは捉えきれない。知らせてくれる情報は正確で、余計なものがなかった。
『柊少佐、左から先に風が変わるゾ。内側へ寄った方がいい』
『ありがとうございます、ユーティライネン中尉』
少し離れた空域から、アブソルの声が無線に入った。
『シャーリー、次の標識は左下! そのまま行くと通り過ぎるよ!』
『おっと、助かった! ルッキーニ、外側を頼む!』
『あいあーい!』
その声が入るたびに、志乃は自然とアブソルの位置を確かめていた。一度だけ、いつもなら自分が入るはずの空間を、シャーリーの機体が通っていくのを感じた。
志乃は、すぐにサーニャの方へ意識を戻した。
『柊少佐、次は西側です』
『了解。今度は私が先に行くね』
―――
午後三時、組がもう一度入れ替わった。
『左の列、位置を入れ替えろ』
リーネが少し遅れて高度を変えた。
『リーネちゃん、私、右側を空けるね。こっちへ入って』
芳佳は、進路を大きく変える前に声を掛けた。朝は慌てて大きく曲がってしまった場面だった。地上で見ていた坂本が、小さく頷いた。
『右後方、後続の一機が遅れています。こちらは速度を少し落として調整します』
静夏も、確かめた時点で先に報告していた。
「二人とも、少しずつ直してきたな」
坂本が記録用紙に短く書き込んだ。隣でミーナが微笑む。
「ええ。何より、みんなが教え合っているわ」
「それが部隊というものだ」
坂本の目は、それから志乃の機体へ移った。四年前に読んだのは、名前と戦歴と、いくつかの能力の記述だった。今は、彼女がいろいろな相手と飛ぶところを見ている。視力がないことも、シールドを張れないことも、変わらない。けれど彼女は与えられた位置を守り、報告を受け、相手に応じて飛び方を変えていた。坂本は、そのことを記録に残した。
## Scene 05 ―― 夕暮れの二機
午後四時過ぎ、最後の合同科目が終わった。
「今日はこれで合同訓練を終えます。講評は明日の朝にしましょう。まずは機体を点検して、ゆっくり休んでちょうだい」
「ねえ、おなかすいたー!」
「お前、さっきもそんなこと言ってたろ」
賑やかな声の広がる飛行場の端で、志乃とアブソルはそれぞれの機体を確かめていた。
「こっちは大丈夫。夕方の分も十分もつよ。変な振動も出てないし」
アブソルが秋水から手を離したところへ、ミーナが近づいてきた。
「空域の確認が取れたわ。予定どおり、最後に二人で飛んでちょうだい。……それから、もう一つ」
ミーナは手にした整備記録へ目を落とした。
「試製秋水の高出力運転について、昨日までの記録を読ませてもらったわ。今の機体の状態なら、一度やってみたらどう? 実際の加速を、部隊として把握しておきたいの。もちろん、機体に不安があるなら今日は見送ります」
「アブソル。どう思う?」
「朝からの点検では異常なし。さっきも接続部を見直したよ。負荷にはまだ余裕がある。でも長く使えば使うほど、機体には厳しい。様子を見ながら、一度だけにしよう。帰ってきたら、すぐ点検するから」
「分かった。では、許可をいただけるなら、一度だけ行います」
「基地から離れた指定空域の上層で。ほかの機体がいないことは、こちらで確かめます。高出力は一回だけ。機体の限界に近づく前に切り上げること。異常を感じたら、すぐに中止して」
「了解しました」
「えっ、まだ飛ぶの?」
ルッキーニが振り返った。
「うん。シノと二人だけで、少しね」
「見ててもいい?」
その声に、ほかの隊員たちも足を止めた。坂本は少し離れたところで、ミーナに声を掛けた。
「……私も、最後まで見せてもらっていいか」
「ええ。もちろん」
朝から見てきたのは、ほかの仲間と飛ぶ二人だった。二機だけで飛ぶところは、これが初めてだった。
志乃はもうストライカーを装着していた。長い袖が風に揺れ、二振りの黒刀はいつものように、その内側に収まっている。その隣で、アブソルが整備兵から大型の対物ライフルを受け取った。太い銃身も頑丈な機関部も、見ただけで相当な重さだと分かる。アブソルは慣れた手つきで重心を確かめ、身体へ引き寄せるように抱えた。
「……あれも持って飛ぶんですか?」
静夏が思わず尋ねた。
「アブソルにとっては、いつもの装備だからな」
シャーリーが答えた。
『柊少佐、クルス大尉。出発を許可します』
二人は、最後の空へ飛び立った。
―――
西の空が、薄い金色から深い橙へと移り始めていた。日中は慰ただしかった滑走路にも静けさが戻り、管制所からの短い連絡だけが、時折風に混じる。
志乃が先に高度を取り、一拍遅れてアブソルが続いた。長い銃身を身体の軸に沿わせ、風と重さに姿勢を崩されないよう、腕と肩で支えている。戦場に出るときと変わらない姿だった。
『指定空域に入ったよ』
『了解』
『風は、さっきとあんまり変わらないね』
『そうだね』
短いやり取りのあと、二人は通信を開いたまま黙った。
始まりの合図はなかった。
まず志乃が、ほんの少し機体を左に傾けた。アブソルはそれを見てから追うのではなく、右へ進路を取った。二機の距離が、ゆっくり開いていく。
昼間の訓練なら、志乃はここで速度を抑え、後ろの機体の位置を確かめる間を置いただろう。違う機体に合わせ、相手が次の動きを決められるだけの余裕を作る。今日一日、ずっとそうしてきた。
今は、その間を置かなかった。
試製秋水が滑らかに速度を上げ、アブソルもためらいなく出力を上げた。志乃は左上へ、アブソルは右下へ。上下に離れた二人が、互いを目指すように進路を変える。けれど、正面で交わることはない。アブソルが機首を下げたときには、志乃はもうその上を通り過ぎる軌道に入っていた。すれ違った二機は反対へ弧を描き、次の瞬間には、また同じ方角を向いていた。
志乃は何も言わない。アブソルも訊かない。
速度も、曲がり方も揃えようとはしていなかった。志乃が小さく鋭く向きを変えれば、アブソルは大きな円弧を使って先の位置を取る。志乃が上へ駆け上がれば、アブソルは高度を保ったまま、下りてくる場所で待つ。その動きが、いつの間にか一つの流れになっていた。
―――
「……速いですね」
滑走路脇で、リーネが帽子を握り直した。
「昨日の実戦でも速いとは思いましたけれど……今は、別の飛び方をしていますわ」
ペリーヌが空を見上げた。二機は何度も互いの進路を横切っていた。わずかにずれれば危うく見える。けれど、そのたびに十分な間隔が残り、どちらも急いで進路を直すことがない。
「あの距離で、どうして迷わないんでしょう」
静夏の呟きに、バルクホルンが腕を組んだまま答えた。
「迷っていないわけではない。判断が早いんだ。それに、あの二人は互いの限界を知っている。無茶に見えても、必要な間隔は決して潰していない」
坂本は、黙って双眼鏡を構えていた。四年前の報告書には、離れた位置から互いを援護する戦い方だと書かれていた。けれど目の前の光景は、連携という言葉では捉えきれなかった。攻撃すべき敵はいない。守るべき隊形もない。それなのに、一つ一つの動きに、はっきりと次があった。
「……踊ってるみたい」
芳佳がぽつりと言った。誰も笑わなかった。その言葉が、妙にしっくり来たからだ。
―――
志乃が、さらに速度を上げた。高出力ではない。それでも、今日見せたどの旋回よりも速かった。風がケープを引き、袖が後ろへ流れる。右へ身体を倒し、続けて大きく上昇する。そこから進路を戻すとき、両腕が自然に動いた。
長い袖の内側へ指が掛かり、二つの柄をそれぞれの手が捉える。刀身が、袖から滑り出た。旋回の途中に紛れた動作で、志乃自身、抜いたことを意識していなかった。反りのない二振りの黒刀が、夕陽を受けて鈍く光る。敵を斬るためではない。長い時間をかけて身についた、彼女の飛び方だった。
「刀が……! いつ抜いたんですか」
静夏が声を上げた。
「今の旋回の途中だな。だが、それで姿勢が変わらん。あの刀まで含めて、自分の身体の使い方になっているんだろう」
坂本が言った。その先で、アブソルは重いライフルを抱えたまま速度を落とさずに旋回していた。片方の肩をわずかに引き、銃身の向きを保っている。
「武器を持っていることまで、普段の飛行に組み込まれているのね」
ミーナが静かに言った。サーニャは、しばらく黙って空を見ていた。
「……音楽みたいです」
「次にどっちへ行くか、もう分かってるみたいダナ」
エイラが、その隣で頷いた。
―――
二機は、また離れた。志乃が上へ、アブソルが下へ。距離は、さっきよりも大きい。
志乃は、周りの空間を捉えていた。上空の雲の位置。遠い地面との隔たり。秋水が空気を裂いて進む感触。地平線を染める夕焼けは、志乃には分からない。けれどアブソルの位置だけは、ひどく馴染んだものとして感じられた。
そこにいる。少し速くなっても。いつもと違う角度から近づいても。見失いそうなほど距離を開いても。
志乃は、また速度を上げた。
アブソルは、その変化をすぐに受け取った。今日の午前、何度か志乃の動きがこちらを探すように止まったこと。ほかの仲間と飛ぶとき、いつもより慎重に位置を確かめていたこと。そして、訓練が終わるのを待って、二人で飛ぶ時間を願い出たこと。
志乃は、理由を話さなかった。アブソルも、今さら訊こうとは思わなかった。ただ、目の前の飛び方を見ていた。旋回に入るのが、いつもよりほんの少し早い。空を広く使うのに、戻ってくる場所は変わらない。長い直線のあと、普段なら置くはずの短い間がない。
港のバーで志乃が弾いていたピアノを、ふと思い出した。同じ曲でも、ある夜だけ、次の音を急ぐことがあった。音が乱れるわけではない。指の動きは正確なまま、ほんのわずかに先へ進もうとする。
あのときと、同じだった。
アブソルは機体を傾け、志乃が戻ってくる位置に、いつもより少し早く入った。その場所を、志乃が通った。何も言わずに。
アブソルは笑った。志乃に見えなくても、構わなかった。
二人の間で交わされたものは、無線には残らなかった。
―――
日が、さらに傾いていた。地上では、いつの間にか誰も喋らなくなっていた。
二機は揃って上昇し、途中で別々の方向へ曲がる。遠ざかり、重なり、また離れる。黒いケープと金色の髪が、夕陽の中で違う線を描いていた。同じ動きは一つもない。それなのに、片方だけが取り残されたようには、一度も見えなかった。
やがて志乃が速度を落とし、アブソルが一回り大きな弧を描いて隣に戻った。初めて一緒に飛んだときから、何度繰り返したか分からない動きだった。二機は同じ方角へ向かい、しばらく並んで飛んだ。
これで終わるのだろう、と地上の誰もが思った。
そのとき、志乃が緩やかに高度を上げた。アブソルが少し後ろへ下がる。互いの機体を知っているからこそ取れる、十分な間隔だった。
『アブソル、行くよ』
『うん!』
いつもの声だった。
## Scene 06 ―― 魔法陣
志乃の背後に、巨大な魔法陣が開いた。
夕暮れの空に、幾重にも重なる幾何学の模様が広がっていく。光の輪が生まれ、その内側を複雑な線が走る。輪郭が定まるより早く次の線が重なり、見上げる者たちの視界を大きく占めた。
「……大きい……!」
リーネの声が震えた。ミーナは、一瞬言葉を失った。報告書で、志乃の魔法力が極めて大きいことは知っていた。高出力を提案したのも自分だ。それでも、目の前に立ち上がった魔法陣は、想像していたよりはるかに大きかった。
『柊少佐。指定空域、進路ともに安全を確認。許可した条件を守って』
『了解しました』
推進音が変わった。低い唸りが、次第に高く鋭い音へ移っていく。志乃は二振りの刀を握ったまま、機体の力を受け止めた。背後の魔法陣がどれほど眩しく輝いているのか、志乃には分からない。けれど身体に満ちる魔法力と、足元の機体が応える感触は分かる。その先に、進むべき空間が広がっていた。
一瞬、推進音が途切れたように感じられた。
そして、志乃は空の向こうへ飛び出した。
―――
声を上げる者はいなかった。上げる間もなかった。
さっきまで確かに見えていた黒いケープが、夕焼けの中を凄まじい速さで駆け抜けていく。目で追うより早く位置が変わる。空そのものが、彼女を押し出したかのようだった。
その速さは、一瞬では終わらなかった。長い直線を抜けても魔法陣の光は残り、志乃は高い空を横切って、大きく向きを変える。推進音は衰えない。高出力を保ったまま、次の軌道に入っていく。
「……まだ、出力を落とさないのか」
坂本が呟いた。
「加速だけじゃない。あの出力を、維持してる……!」
シャーリーの声が上ずった。秋水の高出力は、短い切り札だと聞いていた。だから誰もが、直進を抜けたところで出力が落ちると思っていた。
アブソルも、速度を上げていた。腕の中のライフルを身体へ引き寄せ、長い銃身が振れない角度を肩で保つ。モスキートの推進音が高まった。志乃と同じ加速は、できない。それは、誰よりもアブソル自身がよく知っていた。だから、志乃の背中をまっすぐには追わなかった。志乃が大きく外側を飛ぶ間に、内側の短い軌道へ入る。高度差を使って次の位置を取り、志乃が向きを変える頃には、もうその先へ向かっていた。
速さで競えば、追いつけない。それでも、二人の距離は決定的には開かなかった。
『……シノ!』
『なに?』
『いいね!』
志乃は答えなかった。けれど、次の旋回に入る角度を、ほんの少し変えた。アブソルは笑って機体を傾けた。その角度を、知っていた。
―――
魔法陣は、まだ消えなかった。
「……思ったより、ずっと長いわ」
ミーナは無線機を手にしたまま、空を見守った。志乃の動きに乱れはなく、運転の条件から外れる気配もない。高出力を保っても、一つ一つの曲線は、さっきまでと同じように正確だった。
坂本は、言葉を探すのをやめた。四年前、紙の上で読んだのは、視力を失ったという事実と、シールドを張れないという事実だった。今目の前にいるのは、その条件のまま空を知り尽くしたように飛ぶウィッチと、二十ミリのライフルを抱えて当然のようについていくもう一人だった。
―――
志乃の足元に、かすかな振動の変化が伝わった。秋水が、そろそろ余裕を使い切ろうとしている。まだ力は出せる。けれど、それを理由に続けるつもりはなかった。
志乃は一度だけ広い弧を描き、出力を戻した。巨大な魔法陣の輪郭が薄れ、鋭かった推進音が静まっていく。空に、いつもの音が戻った。
そのとき、アブソルはもう、志乃が帰ってくる場所にいた。追いついたのではない。最初から、そこへ来るつもりで飛んでいた。
『シノ、機体は?』
『問題ない。そっちは?』
『大丈夫!』
『よかった』
志乃は、もう一度アブソルの側へ寄った。昼間なら、ほかの誰かが入れるだけの間隔を空けていただろう。今は、二人で覚えた距離だった。今度はどちらも速さを求めず、西の空を横切って、ゆっくりと基地の方角へ機首を向けた。
志乃は、ふと自分の両手に気づいた。握ったままの、二振りの黒刀。いつ抜いたのか、はっきり覚えていない。小さく息を吐いて、一振りずつ袖の内側へ収めた。
帰投へ向けて高度を落とす直前、志乃がほんのわずかに速度を緩めた。アブソルは少しだけ外へ広がり、すぐに隣へ戻った。
『ヴィルケ中佐。高出力運転を終了しました。機体に異常はありません。これより帰投します』
『了解。二人とも、お疲れさま』
## Scene 07 ―― 帰り道
「シノー! アブソルー! すごかったー!」
ルッキーニが大きく手を振った。二人がストライカーを外すと、芳佳も駆け寄ってきた。
「さっきの飛行、すごくきれいでした! 踊ってるみたいだなって思いました!」
「踊り? そう見えた?」
アブソルが笑った。
「はい! それに、アブソル大尉も、あんなに大きな銃を持ったまま、ちゃんとついていってましたよね!」
「うん。シノがどこへ行くかは、だいたい分かるから!」
銃の重さについて、アブソルは何も言わなかった。あの装備で飛ぶことも、長年の当たり前だった。
少し離れたところで、ペリーヌが坂本に話しかけていた。
「坂本少佐、あの動きは……」
「ああ。見事だった。連携というのは、相手と同じように飛ぶことじゃない。あの二人は、別々に動いていても、相手が何を必要とするかを知っている」
「……私も、明日はもう少し早く判断できるようにします」
真剣な静夏に、坂本は笑った。
「焦るなよ。今日のお前たちに要るのは、今日より一つ先へ進むことだ。あの二人の年月を、一日で追いかける必要はない」
ミーナが二人のもとへ来た。
「お疲れさま。時間どおりね」
「はい。高出力運転も、許可された範囲で一回だけ行いました。機体に異常はありませんが、念のため負荷の掛かった箇所を再点検します」
「整備記録も残してちょうだい。……とても素敵な飛行だったわ」
「ありがとうございます」
志乃の声は、朝と同じように穏やかだった。誰も、それ以上は尋ねなかった。
―――
格納庫へ戻る道で、皆は夕食の話や、さっき見た夕空の話をしていた。リーネと芳佳が並んで歩き、静夏は坂本の隣で何か質問している。シャーリーは明日アブソルの機体をもう少し見たいと言い、ルッキーニが横から口を挟み、ハルトマンが笑った。
その少し後ろを、志乃とアブソルは歩いていた。
「……シノ。秋水、今夜も見ておこうか。高出力を使ったし」
「そうだね。私も手伝うよ」
短い沈黙が落ちた。志乃が、いつもより少しだけ歩調を早めた。アブソルは何も言わず、その隣に並んだ。
「……お腹、空いたね」
志乃が言った。
「うん。今日、いっぱい飛んだからね!」
それだけの会話だった。
アブソルは、志乃が最後に描いた小さな減速と、そこへ自分が入った場所を覚えていた。明日もきっと、別の誰かと飛ぶのだろう。それでも今、隣には志乃がいる。
二人は、仲間たちの声がする方へ歩いていった。
(第10話 終)