ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ― 作:r3ir3i
## Scene 01 ―― 眠れなかった朝
翌朝、志乃は食堂が混み始める前に部屋を出た。
廊下には、朝の冷たい空気が残っていた。開け放した窓から風が通り、遠くで食器の触れ合う音がしている。
昨夜は、あまり眠れなかった。一度目を覚まして水を飲んだあと、次の眠りは浅かった。時計の針の音を何度か聞いているうちに、起きる時間になっていた。
志乃はいつもどおりに身支度を整えた。黒い帯を結び直し、軍服の襟元を正す。机の古い拳銃を取り上げて、ホルスターへ戻した。昨夜、その机の前で過ごした時間が、ふと頭をよぎる。けれど志乃は、そこで手を止めなかった。
―――
「おはよう、シノ!」
長いテーブルの端で、アブソルがパンを片手に手を振っていた。皆の前には、折り畳んだ整備記録が置かれている。
「おはよう。早いね」
「シャーリーが朝から試運転の準備をするって言うから、ちょっと早めに起きたんだ」
「アブソルの方が楽しみにしてたんじゃない?」
「……それもある!」
アブソルが笑って隣の椅子を引くと、向かいから声が掛かった。
「おはよう、柊少佐」
「おはようございます、バルクホルン少佐」
志乃はカップに指を添えた。少し熱い。湯気の動きは分からないが、顔を近づければ、香りと温度は分かる。
「今日は秋水の地上試験だったな」
「はい。交換した接続部の確認をします。高出力は使いません」
「そうか。……柊少佐。昨夜は、あまり眠れなかったのか」
カップの縁で、志乃の指がわずかに止まった。
「……分かりますか」
「いつもより返事が少し遅い。それに、食堂へ来る足取りも重かった」
隣でアブソルが顔を上げた。
「そうなの、シノ?」
「少し、寝つきが悪くて。……朝になれば、どうということはありません」
「そういう問題ではない」
バルクホルンの返事はきっぱりしていた。
「疲労は判断に響く。地上試験とはいえ、無理をする必要はない。体調が優れなければ報告しろ」
「承知しました。ありがとうございます」
「私もいるよ!」
アブソルがすかさず口を挟んだ。
「今、その話をしていたんだが」
「念のため!」
バルクホルンは呆れたように息をつき、そこへハルトマンが皿を持ってやってきた。
「トゥルーデ、朝からお説教?」
「違う。体調管理の話だ」
「似たようなものじゃない?」
志乃の口元にも、小さな笑みが浮かんだ。話は、今日の訓練の予定と朝食のことへ移っていった。
バルクホルンは、なぜ眠れなかったのかとは訊かなかった。アブソルも、パンをちぎりながら明日の整備の予定を話し始めた。志乃は、いつもどおりその話を聞いた。
## Scene 02 ―― 地上試験
午前九時、格納庫の前で、試製秋水の周りに小さな人だかりができていた。アブソルとシャーリーが点検表を見比べ、整備員が取り替えた接続部の固定を確かめている。
「右側、締め直したところは?」
「問題なし。遊びも出てないよ」
「昨日は、少し振動が残っていたからね。回転を上げたときの変化も聞いておきたい」
「うん。そこを見るつもり」
シャーリーが工具を片づけ、離れた位置まで下がった。
「よし。周り、空けるぞ。ルッキーニ、そこから先には出るなよ」
「分かってるー!」
安全線の向こうで、ルッキーニが両手を上げた。その近くで、静夏が真面目な顔で札を確かめている。
「地上試験区域、立入なし。固定具、異常ありません」
「ありがとう、服部少尉」
アブソルが答えると、静夏は少しだけ表情を緩めた。
「確かめてから報告するようにしました」
「うん、それでいいよ。私も急いでると見落とすことがあるからね」
「大尉でも、ですか?」
「あるよー。だから確かめるんだって」
やがて、地上用の手順どおりにエンジンが回り始めた。低い振動が、固定された機体から地面へ伝わる。
志乃は少し離れて、その変化に耳を澄ました。一定の周期で続く音。そこに混じる、金属の細かな震え。回転が上がるにつれて振動は大きくなるが、前の日に気になった不規則な響きはなかった。
「……どう?」
「昨日より落ち着いてるね。高い回転でも、変な揺れは感じない」
「計器も正常だ。これなら通常の運転は問題なさそうだな」
シャーリーが頷いた。エンジン音が止まると、ルッキーニの声が響いた。
「もう終わりー? 飛ばないの?」
「今日は確認だけ。飛ぶのはもう少し後!」
「えーっ! また見たいのに!」
大げさに肩を落とすルッキーニに、志乃が顔を向けた。
「ごめんね。今日は、機体を休ませてあげたいんだ」
「じゃあ、シノもお休み? じゃあ遊ぼ!」
「ルッキーニ、仕事が終わってからだ」
シャーリーにたしなめられて、ルッキーニは今度こそ渋々頷いた。その「はーい……」に、アブソルが吹き出した。
朝、バルクホルンに言い当てられた疲れは、まだ身体の奥に残っていた。けれど機体が無事に動いたと分かると、胸の中の一つが、少し軽くなったような気がした。
## Scene 03 ―― 無線の声
昼過ぎ、訓練空域から、いくつかの魔導エンジンの音が聞こえていた。今日は短い編隊飛行と、基地への進入経路の確認が行われている。
志乃は地上の通信所で、訓練記録の整理を手伝っていた。疲れを理由に飛行を外されたわけではない。秋水の試験を終えたので、地上でできる仕事を引き受けただけだった。
『宮藤、旋回前の報告を忘れるな』
『はい! 次から気をつけます!』
『服部、こちらへの返答はもう少し短くていい。必要なことだけ伝えろ』
『り、了解しました!』
『よし、二人とも慌てるな。位置を確かめてから動け』
バルクホルンと坂本の声が、交互に無線を通っていく。志乃はそれを聞きながら、記録係に口で伝えられた内容を整理していた。
前なら、誰かと飛ぶときは、ほとんどいつもアブソルが隣にいた。今は、空の上にいる仲間の名前が、次々と無線から聞こえてくる。宮藤。服部。ビショップ。クロステルマン。違う国から集まった人たちが、同じ空域の中で、互いの位置を伝え合っている。
『宮藤、今度はいいぞ』
『ありがとうございます!』
『右側との間隔、維持しています。進入を続けます』
『了解。いい判断だ』
通信所の整備兵が、少しだけ笑った。
「昨日からずいぶん元気ですね、あの二人」
「頑張っているんでしょうね。昨日も、今日も」
誰かが上達していくところを、そばで聞けるのは悪くない。志乃はそんなことを思いながら、次の報告を聞いた。
―――
午後の訓練が終わると、食堂は少し早い夕食の支度で騒がしくなった。厨房の方から、鍋の蓋が鳴る音と、芳佳の声が聞こえてくる。
「服部さん、そのお皿をお願い!」
「はい! ……宮藤さん、まだ野菜が残っていますよ」
「あっ、本当だ。ありがとう!」
志乃は食堂の端で、アブソルと並んでカップを持っていた。
「なんだか楽しそうだね」
「そうだね。昨日よりずっと賑やかだ」
二人の前を、ハルトマンが通り過ぎる。
「ご飯、まだかなー」
「エーリカ! 皿くらい運んでくれ!」
「ええー。今行こうとしてたところなのに」
「嘘をつけ」
笑いながら厨房へ向かうハルトマンを、アブソルが楽しそうに見送った。
「なんか、ここの人たちって面白いね」
「アブソルも似たようなものだと思うけど」
「えっ、私?」
「うん」
「そうかなあ」
アブソルは首を傾げ、それから自分でも笑った。
―――
夕食は、いつもより長く続いた。訓練の話から始まった会話は、いつの間にかそれぞれの故郷の食べ物や、基地での小さな失敗談へ移っていた。
ペリーヌが静夏に、補給品の整理を手伝ってもらった礼を言っている。少し離れた席では、サーニャが静かに食事を終えようとしていた。
「サーニャ、今夜は哨戒だろ? 早めに休んだ方がいいゾ」
「うん。あと少ししたら戻るね」
志乃は、その声を聞いていた。明日の任務のことを考える人。誰かと話したくて食堂に残る人。眠りに戻る支度をする人。皆が、それぞれの時間を持っている。自分も、その中の一人だった。
食事を終えると、志乃は一足先に席を立った。
「シノ、先に戻る?」
「少し外を歩いてからにするよ」
「そっか。私は格納庫に寄って、明日の記録を置いてくるね」
「分かった。お疲れさま」
背後では、まだ笑い声が続いていた。
## Scene 04 ―― 星を語る声
夜の滑走路には、昼間とは違う静けさがあった。格納庫の明かりが遠くに並び、見張りの兵士が決まった場所を巡回している。
誘導路の端、飛行の邪魔にならない草地の近くに、志乃は立っていた。身体の前で両手を軽く重ね、顔を上げている。
風が吹いた。昼間より冷たく、少し乾いた風だった。
頭上に何もない広がりがあることは分かる。格納庫の屋根も、見張り塔も、地面の起伏も捉えられる。けれど、その向こうに散る星の光は、志乃には届かない。
それでも、志乃は空へ顔を向けていた。理由を考えたわけではない。部屋へ帰る気には、まだなれなかった。夜風に当たっていれば、少し落ち着く。それだけのことだった。
足元の草が、風に擦れて小さな音を立てた。
「……あれ? 柊少佐?」
背後から、明るい声がした。
「宮藤さん」
「こんばんは! 医務室に、洗い終わったものを届けに行ってたんです。その帰りで」
「そうだったんですね。お疲れさまです」
「柊少佐は、何をしてるんですか?」
「少し、風に当たっていたんです」
芳佳は滑走路の向こうを見て、それから空を仰いだ。
「……わあ。今夜、星がすごく綺麗です」
志乃も、同じ方向へ顔を向けた。
「そう。晴れているんですね」
「はい。雲がほとんどなくて、空いっぱいに……」
芳佳の声が、そこで少し止まった。
志乃は、気づかないふりも、説明を求めるようなそぶりもしなかった。ただ、静かに尋ねた。
「どんなふうに見えているの?」
「え?」
「よかったら、教えてくれる?」
芳佳は少し驚いたようだった。それから、もう一度空を見上げた。
「ええと……まず、真上の方に、小さい星がいっぱいあります。みんな同じくらいの明るさじゃなくて、一つだけ、はっきり光っているのがあって」
「一つだけ?」
「はい。その周りにも、小さいのが並んでるんですけど……ばらばらに見えるのに、ずっと眺めていると、なんだかつながっているようにも見えてきます」
志乃は微笑んだ。
「面白いね」
「うまく言えなくて、ごめんなさい」
「そんなことはないよ。よく分かる。宮藤さんがどう見ているのか、聞いているのが楽しいんだ」
いつの間にか、志乃の言葉から丁寧語が抑けていた。芳佳は嬉しそうに笑って、志乃の隣に並んだ。
「じゃあ、もう少しお話ししてもいいですか?」
「もちろん」
「あの……空の低いところにも、星があるんです。でも、基地の建物に少し隠れちゃってて。こっちへ来ると見えるかもしれません」
芳佳が一歩横へ移った。志乃も、その足音に合わせて位置を変える。
「この辺り?」
「はい! あっ、さっき見えなかったのもあります!」
「場所を変えるだけで、見えるものも変わるんだね」
「そうですね。ちょっと不思議です」
芳佳の声は、昼間の訓練中と同じくらい素直だった。何かを覚えようとしているときも、人を助けようとしているときも、目の前のことにまっすぐ向き合う。今はただ、夜空を眺めるのが楽しいらしい。志乃も、その楽しさを声から受け取っていた。
「宮藤さんは、星を見るのが好きなの?」
「はい。扶桑でも、ときどき眺めてました。夜は静かで、星を見てると、時間を忘れちゃうことがあって……お母さんに、もう寝なさいって言われたりもしました」
「それは、私も言われたことがある気がするよ」
「柊少佐もですか?」
「昔の話だけれどね」
それから少しの間、二人は黙っていた。沈黙は気まずくなかった。見張りの足音が遠くを通り、風が草を揺らす。基地のどこかで、扉が閉まった。
「……柊少佐。今日の訓練、昨日よりは少しうまくできたと思うんですけど……どうでしょう」
「私は地上で通信を聞いていただけだから、詳しいところまでは分からないけれど。……報告を聞くかぎりでは、ずいぶん落ち着いていたよ。服部さんもね。少なくとも、宮藤さんの返事は昨日よりずっと早かった」
「本当ですか! ……坂本さんにも、同じことを言われました」
「それなら、間違いなさそうだね」
芳佳は照れくさそうに笑って、また夜空へ顔を向けた。
「早くみんなと同じように飛べるようになりたいです」
「焦らなくていいよ。今日できるようになったことを、明日もできればいい。そこからまた、少しずつ増やしていけばいいんだ」
芳佳はしばらく、その言葉を聞いていた。
「……はい。頑張ります!」
「楽しみにしているよ」
その声は、心からのものだった。
―――
夜は、ゆっくりと深まっていった。芳佳は相変わらず、見つけた星を志乃に教えていた。高いところにあるもの。並んで見えるもの。雲の端に隠れそうなもの。志乃はときどき短い質問をして、芳佳はそのたびに考えながら言葉を選んだ。
やがて、芳佳が少し肩をすくめた。
「……あ、ちょっと寒くなってきましたね」
「そうだね。もう少ししたら戻ろうか」
「はい! ……でも、今日は見られてよかったです。柊少佐とお話もできましたし」
「私もだよ。いい夜になったね」
二人は、しばらくその場所に立っていた。同じ方角を向きながら、見えているものは違う。それでもどちらも、今この場所にいることを心地よく感じていた。
## Scene 05 ―― 声を掛けない夜
格納庫から宿舎へ戻る道を、アブソルは整備記録を挟んだ薄い板を抱えて歩いていた。明日の作業に要る部品は揃った。シャーリーとの相談も済んだ。あとは記録を机に置いて眠るだけだ。
「……ん?」
滑走路の方から、聞き覚えのある笑い声がした。
少し先の草地に、二つの人影が並んでいた。長い黒いケープの志乃と、扶桑の少女。二人とも空を見上げている。芳佳が何かを言い、志乃が少し笑った。距離があって言葉のすべては聞こえない。けれど、芳佳が星の位置を説明していることは、身振りと切れ切れの言葉から分かった。
アブソルは、その場でしばらく二人を見ていた。
目が見えなくなっても、志乃は空を見上げるのをやめなかった。昔からそうだった。誰かが空の話をしていると、その声の方へ顔を向けて、よく耳を傾けていた。
その隣で、楽しそうに話していた声。
昔、同じような夜があったことを、アブソルは覚えていた。三人で並んで立っていたこと。一人が見つけたものを、もう一人へ教えていたこと。何でもないことで笑い合ったこと。思い出したのは、大きな出来事ではなかった。今ではもう戻らない、ありふれた夜のことだった。
アブソルは、抱えていた記録板を少し持ち直した。胸の奥に、懐かしさが静かに残っていた。けれど、今の光景を悲しいものだとは思わなかった。
芳佳がまた何かを言う。志乃が答えて、二人が笑う。
アブソルの口元にも、自然と笑みが浮かんだ。
「……よかったね、シノ」
声にならないほど小さく、そう呟いた。
一瞬、二人の方へ歩きかける。けれど、思い直して足を止めた。自分が入らなくても、あの二人は楽しそうに話している。それが、なんだか嬉しかった。
アブソルは声を掛けずに踵を返した。宿舎へ向かう道には、格納庫から漏れる灯りが細く伸びている。その向こうでは、二人の小さな話し声が、まだ続いていた。
アブソルは振り返らなかった。夜風の中を、いつもの足取りで歩いていった。
(第12話 終)