ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ― 作:r3ir3i
## Scene 01 ―― 来客の知らせ
翌朝、作戦室の窓から差し込む陽は、まだ低かった。机には前日の戦闘報告が広げられ、交戦空域の図には、何色もの鉛筆で七機の航跡が書き込まれている。
「こちらが宮藤さんの位置ね。最初は後方警戒。その後、動けなくなった車両の上空へ移って、防護を受け持ったわ」
ミーナが地図の南端を指すと、坂本がすぐ隣の線を目で追った。
「服部はその右側か。途中からは二人とも、よく持ち場を分かっていたな」
「ええ。ただ、最初の報告にはまだ間があった。それと、柊少佐とクルス大尉。中型を押さえていた二人が、途中で別々の役目に移っているの。離れる前に指揮官へ伝えて、許可を取っているわ。クルス大尉も、一人で中型への圧を保っていた」
「長く一緒に飛んでいるからといって、互いだけを見ているわけではない、か」
坂本が笑った。
「よいことだ。今の501には、そういう連携が要る」
ミーナは頷き、机の端の別の書類を手に取った。
「それで、今日の来客なのだけれど。ウィッチの訓練に携わっている連合軍の教官よ。近くの部隊を回る用務に合わせて、こちらにも寄ってくださるそうなの。昨日の戦闘についても、意見を聞いてみたいわ。午後は地上訓練を入れるつもりだから、射撃にも付き合っていただけると助かるのだけれど」
前線の戦闘記録は、教導の現場にとっても貴重な資料になる。とりわけ、いくつもの部隊から集まったウィッチたちが、互いの癖を知って連携できるようになるまでの過程は、教本だけでは伝えきれない。
坂本は、書類に記された名前を読んだ。
「キャサリン・アシュフォード……」
「何か?」
「いや。どこかで聞いたような気がしてな。……まあ、会えば分かるだろう」
## Scene 02 ―― 聞き慣れた声
午前十時前、格納庫では、前日の出撃で使った装備の点検が続いていた。金属の留め具を外す音。整備用の油の匂い。時折、滑走路を横切る補給車のエンジン音。
アブソルは長い作業台に対物ライフルを載せて、シャーリーと並んで銃身の取り付けを確かめていた。
「やっぱり、ここの締め付けだと思うんだよね。弾の入り方は悪くなかったけど、反動が少しだけ違ってて」
「よくそんな違いが分かるな」
「そりゃ、毎日触ってるからね!」
少し離れたところでは、志乃が点検の終わった秋水に手を添えていた。昨日は高出力を使っていない。機体への負荷は小さかったが、実戦の後に整備を省くつもりはなかった。
「シノ、そっち終わりそう?」
「うん。通常の運転なら問題なさそうだよ」
そのとき、格納庫の外に車が入ってきた。補給車とは違う、軽いエンジンの音だった。扉が開き、見張りの兵士と女性の話し声が聞こえてくる。
「こちらでお待ちいただければ――」
「ありがとう。あら、格納庫はこちらかしら?」
秋水の外装の上で、志乃の指が止まった。一度だけ、入口の方へ顔を向ける。
アブソルも手を止めていた。
「どうした、シノ?」
シャーリーが尋ねるより早く、アブソルが声を上げた。
「……えっ?」
格納庫の入口に、書類鞄を提げた一人の女性が立っていた。連合軍の軍服。顔には長旅の疲れより、目の前の光景を楽しんでいるような笑みが浮かんでいる。女性は格納庫を見渡して、すぐに目当ての二人を見つけた。
「あら。こんなところにいたのね。シノ、アブソル」
「キャサリン!」
アブソルは工具を置いて、足早に入口へ向かった。途中で油のついた手を見下ろし、慌てて作業布で拭う。
「来るなんて聞いてなかったよ!」
「そうなの? 今朝、こちらに連絡したはずなのだけれど」
「私たちには!」
「あらあら」
キャサリンは楽しそうに笑って、両腕を広げたアブソルをそのまま抱きとめた。
「久しぶりね。元気にしていた?」
「うん! 元気!」
「それは見れば分かるわ。相変わらず、じっとしていられないのね」
「ちょっと!」
志乃も、ゆっくりと歩み寄っていた。足取りはいつもどおり落ち着いている。ただ、声の方へ向かうまでに、普段なら置くはずの短い間がなかった。
「キャサリン」
「シノ。久しぶりね。こちらへいらっしゃい」
「……もう、子供じゃないんですよ」
「知っているわ」
そう答えながら、キャサリンは近づいた志乃の肩に手を置いた。手の位置を知らせるような、軽い触れ方だった。
「お元気そうで何よりです」
「あなたもね。少し声が大人びたかしら」
「以前と変わらないと思いますよ」
「そういう返し方は、まったく変わっていないわね」
キャサリンはもう一度笑い、二人を順に見た。
「本当に、二人とも元気そうでよかった」
何気ない言葉だった。けれど、その声だけは少し静かだった。
「こっちこそ! 教官の仕事、忙しいんでしょ?」
「おかげさまで。でも今日は、あなたたちにも少し働いてもらうわよ」
「えー!」
「さっきまで楽しそうに銃をいじっていたじゃない。入口から丸見えだったわ」
「教官からは逃げられそうにないね、アブソル」
「シノまで!」
三人のやり取りを、シャーリーはしばらく黙って見ていた。それから、隣で工具を持ったままの整備兵に小声で言った。
「……シノって、ああいう顔もするんだな」
「ええ。私も初めて見ました」
―――
「アシュフォード教官」
入口からミーナの声がした。キャサリンが振り向き、姿勢を正す。
「ヴィルケ中佐。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
「いいえ。ようこそ、サン・トロン基地へ」
続いて坂本も歩み寄った。
「坂本美緒だ。今はこの基地で訓練の支援をしている。よろしく頼む」
「キャサリン・アシュフォードです。こちらこそ、よろしくお願いします」
ミーナは志乃とアブソルを見て微笑んだ。
「お知り合いだったのね」
「ええ。昔から、お世話になっています」
「お世話、なんて他人行儀ね。……二人がまだ子供だった頃から、知っているんですよ」
「子供だった頃?」
坂本が興味深そうに眉を上げると、アブソルが慌てて口を挟んだ。
「キャサリン、その話は今しなくていいからね! 絶対何か余計なこと言うでしょ!」
「ふふ。だったら、よく考えておくわね」
「ほら!」
## Scene 03 ―― 作戦室
午前十一時、作戦室で、キャサリンは教官用の記録帳を開き、ミーナと坂本の説明に耳を傾けていた。
「ここで二機が下がったのは?」
「宮藤と服部だ。車両の上空を宮藤が防護し、服部が右側を警戒した。最初はどちらも判断を急ぎかけたが、報告し直して立て直したんだ」
「守るものを見つける力はあっても、部隊に知らせる順序で迷うことがあるんですね」
「そうなの。二人とも真面目で前向きなのだけれど、自分が見つけたことを、ほかの人がまだ知らないかもしれない、ということを忘れがちなの」
キャサリンはしばらく航跡を追っていた。
「射撃訓練の前に、報告を組み合わせた短い課目を入れてもよろしいですか。撃つ直前に、目標と味方の位置を言葉にしてもらうんです。撃てると分かってすぐ引き金を引くのではなく、一度、誰に何を伝えるべきかを整理してもらう」
「ちょうどいいな。昨日の経験を、そのまま訓練につなげられる」
「ただし、全員に同じやり方を押しつけるつもりはありません。狙撃手には狙撃手の、迎撃に出る者には迎撃の優先すべきことがありますから」
ミーナは中型の航跡へ指を移した。
「ここではクルス大尉が装甲を崩して、柊少佐が接近したの。服部少尉から、核の位置の報告を受けているわ。柊少佐は敵の形や位置は捉えられるけれど、核の色までは見分けられないから」
「……そうですね」
キャサリンは静かに頷いた。初めて教わることではなかった。
「昔から、自分に分からないことを、無理に分かったふりはしない子でした。要るなら人に訊くし、手も借りる。それが、あの子の強さの一つだと思います。アブソルも、賑やかなので気づかれにくいけれど、相手をよく見てから動く子です」
「それはもう、少しずつ分かってきたわ」
ミーナが笑うと、キャサリンは鉛筆を置いた。
「二人だけのやり方を守るために、ほかの誰かを遠ざける子たちではありません。……501に来てからどんなふうに飛んでいるのか、私も見てみたいです」
そこから話は、次の演習の予定へ移っていった。避難路を背にした戦闘での射線の制限。敵が高度を変えたときの報告。編隊を組み替えるときの指揮の受け渡し。キャサリンは自分の訓練生たちの例を挙げながら尋ね、坂本は実際の飛行から答え、ミーナは501の編制に照らして使えることを整理していった。
三人はそれぞれ、別の場所から同じ空を見ていた。
## Scene 04 ―― 射撃場
午後一時半、基地の射撃場には乾いた風が吹いていた。土手を背にした標的と、決められた射撃位置。その手前には安全線が引かれ、使う銃は一丁ずつ確かめられている。
「皆さん、今日は私も少しお手伝いします。キャサリン・アシュフォードです。普段は連合軍で、ウィッチの訓練を受け持っています」
「よろしくお願いします!」
芳佳と静夏が真っ先に答え、ルッキーニが勢いよく手を上げた。
「ねえ、教官って、シノとアブソルの先生だったの?」
「先生、というより……そうね。一緒に訓練していた時期があるのよ」
「ルッキーニ。質問は後だ」
バルクホルンにたしなめられ、ルッキーニが「はーい」と返す。キャサリンは笑いをこらえるように目を細め、地面に置かれた目印の板を示した。
「では、空の上にいるつもりで。前方が目標、右側に味方、さらに下には守るべき車両があるとします。皆さんなら、撃つ前に何を伝える?」
「目標の位置です!」
静夏が答えた。
「ええ。それから?」
「……味方との距離でしょうか。「右前方の目標を確認。味方との間隔を保持。これより射撃します」――と」
「十分伝わるわね。では、目標が突然右へずれたら?」
「……その変化を、すぐ報告します」
「そう。そのときは、言葉を綺麗に整えようとしなくていいのよ。まず、変わったことを伝えて」
静夏は、はっとしたように顔を上げた。
「昨日、さんざん言われたことだな、服部」
「はい! 忘れません!」
坂本が豪快に笑った。キャサリンは芳佳へ向き直した。
「宮藤さんはどうかしら」
「はい! 私は……車両が危なかったら、すぐ守りに行きたいです」
「あなたにはそれができるんでしょう。頼もしいわ。でも、あなたが動いた場所に、ほかの人が入ろうとしていたら?」
芳佳は一瞬、口をつぐんだ。
「……ぶつかってしまうかもしれません」
「だから、守りに行く前に知らせてね。あなたが何をするか分かっていれば、ほかの仲間が守れるものも増えるわ」
「はい!」
昨日の空を思い出しているのだろう。返事には、元気だけではない重みがあった。
―――
最初の実射は静夏だった。「準備よし。前方の標的へ射撃します!」と言ってから引き金を引き、銃口を定められた方向へ保ったまま「射撃終了!」と続ける。
「よくまとまっているわね。少し肩に力が入っていたけれど、それ以外は落ち着いていた。最初の報告もよかったわ」
続いて芳佳が射撃位置に入った。位置を報告し、銃を構える。けれど発砲の直前に、少しだけ姿勢が揺れた。着弾は、狙った場所より外側だった。
「……あっ。思ったより、ずれちゃった……」
「今、何を考えていた?」
「えっと、ちゃんと当てなきゃって……。それで、ちょっと急いじゃいました」
「では、今度は当てることを一度忘れてみましょう。最初は姿勢と報告をきちんと。撃つのはその後よ。順番を一つずつ守るの」
「芳佳ちゃん、私が最初に習ったときも、似たことを言われたよ。狙うのに夢中になって、身体まで固くなっちゃって」
後ろからリーネが声を掛けた。芳佳はもう一度構えた。さっきより、動きが少しゆっくりになる。
「前方、標的確認。射撃します!」
今度は、標的の中央寄りに穴が開いた。
「やった!」
「よかったね、芳佳ちゃん!」
「今の方がずっとよかったわ。……リーネさん、少し彼女に付き合ってあげてくれる?」
「はい。喜んで!」
上手な者が、一人で上手に撃つだけでは足りない。できる者が隣に立ち、まだ慣れない者の背中を支える。キャサリンが教官として見慣れてきた光景が、ここにもあった。
―――
射撃記録を係員に預けると、見学位置にいた坂本とミーナがキャサリンを迎えた。
「いい訓練ね。二人とも、午前中より落ち着いているわ」
「覚えたことをすぐ試してくれるので、教える方も嬉しいです。普段から、お二人の指導が行き届いているのだと思います」
キャサリンは少し離れたところへ目を向けた。そこではアブソルがシャーリーと整備記録を見比べていて、その近くで志乃がときどき短く口を挟んでいる。
「それにしても、今朝の再会には驚いたわ。柊少佐もクルス大尉も、あんなに嬉しそうで。ずいぶん前からの付き合いなのね」
「はい。元々、同じ部隊にいたんです。当時は、連合軍司令部の指揮で特別な任務を引き受ける、小さな部隊がありまして。必要に応じて各地へ派遣されて、現地の部隊と協力することもありました」
「なるほど。だから二人は、相手が変わっても連携を組むのが上手いのかもしれんな」
「もちろん、最初から何でもできたわけではありませんけれど。アブソルなんて、訓練が終わっても銃から離れようとしなくて。シノがそれを迎えに行って、結局二人とも遅くなるんです」
「はっはっは! 今でも似たようなことをしていそうだな!」
「ええ。見ていると、懐かしくなります」
キャサリンの声は明るかった。ミーナはその横顔を見て、静かに微笑んだ。
「今は二人とも、501の大切な仲間よ」
「……ありがとうございます、ヴィルケ中佐」
短い返事だった。その先を尋ねる前に、射撃位置から静夏の報告が聞こえてきて、キャサリンはすぐに教官の顔に戻った。
―――
射撃場の脇では、アブソルが大型の対物ライフルを専用の架台へ載せていた。
「おっきーい! 今日はこれを撃つの?」
「ううん。弾も用意してないよ。昨日の射撃の記録を見てもらうだけ。……教官、ちょっといい? これね、昨日の出撃で少し反動の感じが違ったんだ。命中には問題なかったんだけど、固定が気になって」
「さっき調べたら、取り付けにごく小さな緩みがあった。もう締め直してあるけど、記録には残しとこうと思ってさ」
シャーリーが横から説明を加えた。
「それがいいわね。射撃の腕で補えてしまう不具合ほど、見落とされやすいもの」
「でしょ! 武器はちゃんと手入れしなきゃ!」
「ええ、それは立派なことよ。……ただし、自分の眠る時間を削ってまで、というのは別の話ね」
「……えっ」
「なんだ、昔からなのか?」
「ちょっと、キャサリン!」
「私、誰がそうだったとは言っていないわ」
「言ってるようなものだよ!」
「はははっ! 気が合うと思った!」
少し離れたところで、志乃が笑った。
「アブソル、今夜は早めに休もうね」
「シノは黙ってて!」
「心配しているだけなんだけど」
「その言い方がいちばんずるい!」
## Scene 05 ―― 変わらないもの
午後三時、射撃訓練も終わりに近づいていた。キャサリンは、射撃場の端で待っていた志乃に声を掛けた。
「シノ。今の課目、あなたならどう受け取る? 前方に目標があって、味方は右側。どんな情報が欲しい?」
志乃は少し考えた。
「目標の位置と進路。それに、味方がどの方向から攻撃するつもりなのか、でしょうか。核の位置は、分かる方が教えてくださると助かります。距離や輪郭だけでは、判断できませんから」
「昨日は服部さんが知らせてくれたそうね。いつもと違う組み合わせだったんでしょう」
「はい。でも、思ったよりずっとやりやすかったですよ。皆さん、必要なことを伝えてくださるから」
キャサリンは、少し離れたところでシャーリーと記録を片づけているアブソルを見た。
「あなたたち、前はいつも二人で飛んでいたものね。ほかの人と飛ぶのは、窮屈じゃない?」
志乃は、すぐには答えなかった。遠くでルッキーニが笑っている。静夏が坂本に何か報告し、芳佳とリーネが標的の紙を外しながら、次の訓練の話をしている。
「……いいえ。できることが増えるのは、楽しいですから」
キャサリンはしばらく、その言葉を聞いていた。
「それなら安心したわ」
「心配をかけましたか」
「少しだけ。久しぶりに会うのだもの」
「相変わらずですね」
「あなたに言われたくないわ」
そこへアブソルが記録帳を抱えて近づいてきた。
「ねえ、そっち何の話?」
「シノが501で楽しそうにしている話よ」
「ほんと? よかったじゃん、シノ!」
「アブソルも楽しそうだね」
「そりゃそうだよ。シャーリーと機体の話できるし、リーネにも銃のこと聞けるし!」
「ほらね。どちらも、思ったより心配いらなかったみたい」
「心配しすぎなんです」
「そうかしら。では、夕食をちゃんと食べているところを見てから判断しましょう」
「……それは別の話では?」
「ほら、シノ! 教官の言うことは聞かなきゃ!」
「さっきまで一番叱られていたのは、アブソルだけどね」
「うっ」
キャサリンは二人の間に立って、声を上げて笑った。
「……本当に、変わらないわね。二人とも、私が知っている頃から、ちっとも」
志乃はしばらく黙っていた。それから、穏やかに言った。
「それなら、よかった」
キャサリンは、その短い返事を聞いていた。何も付け加えず、ただ頷いた。
## Scene 06 ―― 夕食
夕刻の食堂には、いつもより一つ多く椅子が用意されていた。キャサリンはミーナと坂本の隣に座り、今日の訓練の感想を話していた。
「宮藤さんも服部さんも、飲み込みが早いですね」
「そうだろう! まだ足りないところも多いが、二人とも素直だ。教えたことを次に生かせる」
「坂本さん、褒めすぎですよ!」
「はっはっは! 褒められるうちに喜んでおけ!」
少し向こうの席では、ルッキーニがアブソルへ身を乗り出している。
「ねえねえ、キャサリンって昔からシノたちにあんな感じなの? 怒ると怖い?」
「怖いよー。私が工具を片づけ忘れたときなんか――」
「アブソル。それ以上は、キャサリンにも聞こえるんじゃないかな」
志乃が静かに言ったときには、もう遅かった。
「ちゃんと聞こえているわよ」
「うわっ!」
食堂のあちこちから笑いが起きた。
「教官、今の話、聞きたい!」
「ふふ。そうねえ。今度、アブソル本人の許可を取ってからにしましょうか」
「やだー!」
志乃は口元に手を添えて、声を立てずに笑っていた。
その隣で、バルクホルンがふと目を留めた。いつも落ち着いていて、誰かを気遣うことの多い柊少佐。それが今は、長く離れていた家族に会ったように、ごく自然に冗談を交わしている。ここでの志乃も、もちろんいつもの彼女には違いない。ただ、自分たちがまだ知らない時間が、確かにあるのだろう。
バルクホルンは食事へ目を戻した。その目は、志乃の腰へは向かわなかった。
## Scene 07 ―― 談話室の前
キャサリンはミーナから、教導資料の整理と合同訓練のために、しばらく来客用の部屋を使ってよいと言われていた。近くの部隊を回る仕事はまだ残っているが、当面はここで訓練記録を確かめることになる。
夕食後、談話室へ向かう廊下には、まだ少し賑わいが残っていた。
「そっちは宿舎なの?」
「はい。同じ廊下の部屋を使っています」
「向かい同士だよ!」
「あら。それなら、夜中まで銃の話をしていて叱られることもないわね」
「しないって!」
「本人は今でも、ときどき遅くまで起きていますよ」
「シノ! じゃあシノだって、夜遅くまでラジオを聞いてたりするじゃん!」
「それは静かでしょう?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
キャサリンは呆れたように笑った。
「あなたたち、私がいなくてもちゃんと喧嘩できるのね」
「喧嘩じゃないよ!」
「ただの会話です」
「……本当に、そういうところまで変わらないんだから」
三人は、談話室の前で足を止めた。開いた扉の奥に、使い込まれた椅子と小さな本棚が並んでいる。壁際には、古いピアノが一台置かれていた。誰かが昼間に蓋を開けたのか、鍵盤の上に落ちた明かりが、白い列を浮かび上がらせている。
「あ、そうだ。キャサリン、シノね、ピアノを弾くようになったんだよ」
「……ピアノ? シノが?」
「そんなに意外ですか」
「ええ、少し」
「ブリタニアで、教えていただいたんです」
キャサリンは興味深そうにピアノへ目を向けた。
「それは聞いてみたいわね」
「大した腕前ではありませんよ」
「腕前の話をしているんじゃないの。あなたが何を弾くようになったのか、聞いてみたいのよ」
志乃は、少しだけ黙った。
「……そうですか。では、そのうちに」
「楽しみにしているわ」
「うん。私も聞きたいな」
「アブソルは何度も聞いているよね?」
「何度聞いたっていいじゃん!」
キャサリンは二人を見つめて、何も言わずに微笑んだ。
志乃は談話室の奥へ顔を向けた。ピアノのある場所は分かる。けれど今夜は、まだその前へ歩いていかなかった。
「明日もお仕事でしょう、キャサリン。今日はゆっくり休んでください」
「あら。今度はあなたに心配される番なのね」
「いつも心配されてばかりでは、申し訳ないですから」
「ふふ。ありがとう」
キャサリンは志乃の肩に、もう一度だけ手を置いた。昔と同じ、軽い触れ方だった。
「おやすみなさい、シノ。アブソルも」
「おやすみなさい」
「おやすみ、キャサリン!」
キャサリンの足音が遠ざかる。アブソルは隣の志乃へ顔を向けた。
「……来てくれて、よかったね」
「そうだね。明日は、もう少しゆっくり話せるかな」
「きっとね!」
二人は並んで宿舎へ戻っていった。今夜の基地には、新しい仲間の声に混じって、ずっと昔から知っている声が一つ増えていた。
(第14話 終)