ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ― 作:r3ir3i
## Scene 01 ―― 朝食の約束
翌朝の食堂には、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。窓際の長いテーブルでは、ルッキーニが皿の上に最後の一切れを積み上げている。
「ルッキーニさん。もう少しお行儀よく食べられませんの?」
「ちゃんと食べてるもん!」
「まあまあ、ちゃんと座ってるだけ昨日よりましだろ?」
その横を、志乃とアブソルが並んで通った。
「あっ、シノ! 今日、あれ見せてくれる? 刀! この前、今度って言ってたやつ!」
「そうだね。訓練が終わってからなら、いいよ。ただし、持つのは私だからね」
「やったあ!」
「振り回さないように言っとくぞ」
シャーリーがすかさず釘を刺し、アブソルが笑う。
「シノ、人気者だね」
「物珍しいだけじゃないかな」
志乃は、アブソルに引かれた椅子へ腰を下ろした。その少し先の席に、キャサリンがいた。
「おはよう、二人とも」
「おはようございます。よく休めましたか」
「ええ。久しぶりに、夜中に誰かの銃の話を聞かずに済んだもの」
「ちょっと! まだその話するの?」
志乃がカップに触れながら、静かに笑った。キャサリンはその笑い声を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
昨日の再会では、ゆっくり話す時間があるようで、実際にはほとんどなかった。作戦会議に射撃訓練、隊員たちとの挨拶。夕食が終わるまで、誰かが必ず話しかけてきた。
「今日は午後から、昨日の訓練記録をまとめるつもりよ。二人も、あとで確認してくれる?」
「もちろん!」
「承知しました。……それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「また何か、私たちに仕事を任せるおつもりかと思って」
キャサリンは楽しそうに笑った。
「よく分かっているじゃない。記録が終わったら、少し時間をちょうだい。昨日、聞かせてもらえなかったものがあるでしょう?」
カップの取っ手に添えたまま、志乃の手が止まった。
「……そうでしたね」
「ピアノよ」
隣のテーブルから、リーネが顔を上げた。
「柊少佐、ピアノを弾かれるんですか?」
「少しだけです。教えてくださった方がいて、それから、ときどき」
「私、聞いてみたいです!」
芳佳も興味深そうに振り向いた。
「シノ、上手なんだよ。私がいくら言っても、本人は『まだまだ』って言うけどさ」
「アブソルはいつも褒めすぎだよ」
キャサリンは口を挟まなかった。ただ、志乃が答えるのを待っていた。
やがて、志乃は小さく笑った。
「……分かりました。夕方、談話室が空いていたら。ただし、演奏会になるほどのものじゃありませんからね」
「もちろん。あなたが弾きたいものを、聞かせてちょうだい」
## Scene 02 ―― 記録と女将
午前十一時、格納庫の一角には前日の射撃訓練の記録が積まれていた。静夏が命中の位置を表に写し、リーネがその隣で、報告に掛かった時間や射撃姿勢を書き込んでいる。少し離れた作業台では、アブソルとシャーリーが、もう交換部品の話を始めていた。
志乃は向かいの椅子で、キャサリンが読み上げる訓練資料を聞いていた。
「……宮藤さんは、最初の射撃では目標に意識が向きすぎた。二回目はよくなっているわ。服部さんは報告が正確。ただ、要ることだけを先に出す癖をつけた方がいい」
「そうですね。実戦でも、そこを迷っていました」
志乃は、おとといの出撃で聞いた静夏の声を思い出した。最初はためらいがちだった報告が、最後には迷いなく届いたこと。志乃には分からない核の位置を、知らせてくれたこと。
「二人とも、きっと上達しますよ」
「そうね。あなたたちが一緒に飛んでいるなら、なおさら」
「私たちだけのおかげには、できませんけれど」
「ええ。もちろん。……昔のあなたなら、きっと同じことを言ったでしょうね」
二人は小さく笑った。キャサリンは、その笑い方をよく知っている。
変わったところもある。背筋の伸ばし方。報告するときの言葉の選び方。初めて会う相手との距離の取り方。十五だった頃に比べれば、志乃はずっと大人になった。けれど、話を聞くときにほんの少しだけ頭を傾ける癖や、冗談を言ったあと、自分からは笑いを広げないところは、あの頃と同じだった。
キャサリンは、それを口にはしなかった。
「そういえば、シノ。ピアノを教えてくれたのは、ブリタニアの方なの?」
「ええ。港町にある、馴染みのお店の方です。女将さんと呼んでいるんですが、とてもお上手で」
志乃の声が、少し柔らかくなった。
「初めは聞いていただけだったんですが、そのうち弾いてみたくなってしまって。何度も同じところを間違えて、ずいぶん困らせました」
「あなたが?」
「私だって間違えますよ」
「ええ、知っているわ。けれど、それを人に話すなんて、少し珍しいから」
「……あのお店では、誰も気にしませんから」
キャサリンはしばらく黙っていた。戦地から戦地へ移るばかりだった二人に、帰っていく場所ができたこと。そこには、訓練の成績も戦闘の記録も、軍での階級も関係なく、何度でも同じ音を弾き直せる時間があったのだろう。
「いい人たちに会えたのね」
「……ええ。とても」
志乃の返事には、迷いがなかった。
## Scene 03 ―― 談話室
午後四時、地上訓練が終わる頃、談話室では小さな騒ぎが起きていた。ピアノの前にルッキーニが座り、鍵盤の端を一本の指で順番に押している。高い音が続き、やがて急に低い音になる。
「これ押すと音出るの、面白ーい! あれ? こっちは重い!」
「ルッキーニ、そこで跳ねるなって!」
「でも、あんまり強く叩くとよくないよ」
「叩いてないもん!」
廊下から、落ち着いた声がした。
「ずいぶん楽しそうだね」
「シノ! あたしもピアノ弾けるようになるかな?」
「練習すれば、きっと。私より上手になるかもしれないよ」
「じゃあ、今度教えてね!」
「うん。まずは音の名前からかな」
「えー、先に曲がいい!」
「欲張りだね」
談話室の奥では、サーニャが窓際の椅子に腰を下ろしていた。膝の上に、借りてきた薄い本がある。
「柊少佐、今日は弾かれるんですか」
「キャサリンと約束してしまってね」
「……楽しみにしています」
「ありがとう。でも、あまり期待しないでね」
「どうして? 期待したっていいでしょう?」
入口から、キャサリンが入ってきた。彼女はピアノへ目を向ける。
「いい楽器ね」
「さっき少し触ってみましたが、鍵盤もちゃんと戻ります」
誰かが椅子を引き、別の誰かが窓を少し閉める。演奏会にするつもりはなかった。それでも、談話室にいた人たちは、自然と音の聞こえる場所へ集まってきた。芳佳はリーネの隣へ座り、エイラはサーニャの椅子のそばに立ち、ルッキーニはシャーリーに手招きされて、少し後ろの長椅子へ移る。
報告を終えて通りかかったミーナとバルクホルンが、入口で足を止めた。
「……あら。何か始まるの?」
「シノがピアノ弾くんだって!」
「柊少佐が?」
「うん! 聞いてく?」
「……少しなら構わんが」
「私も聞いてみたいわ」
人が増えたことが分かると、志乃は少し困ったように笑った。
「思ったより大勢になってしまいましたね」
「嫌だったら、またにしてもいいのよ」
キャサリンが言った。
「いいえ。……弾きたくなったのは、私ですから」
そう言って、志乃はピアノの前に座った。
## Scene 04 ―― 夜想曲
長いケープの裾を椅子の横へ流し、志乃は手袋を外して、鍵盤の端に触れた。白鍵の縁。黒鍵の高さ。隣り合う音の間隔。指先で二、三度確かめると、両手を離した。
部屋の奥で椅子が小さく軋んだ。誰かが咳払いをしようとして、やめた。
「……では」
それきり、言葉はなかった。
最初の音が鳴った。低く、静かな響き。少し遅れて、細い旋律がその上に重なる。談話室の空気が、ゆっくり変わっていった。
楽譜は置かれていない。幾度も弾いてきた曲だった。指の動きを思い出すというより、耳が次の音を待っている。それを確かめながら、一つずつ音を置いていく。
窓際のサーニャが、膝の上の本をそっと閉じた。聞き覚えのある旋律だった。ショパンの夜想曲、第二十番。サーニャは本を脇に置き、椅子に深く腰を下ろした。隣でエイラも口を閉じている。
左手の低音が続く。その上で、右手の音がふわりと長く伸びた。消えきる前に次の音が触れ、二つの響きが短いあいだ重なる。
芳佳は、いつの間にか膝の上で両手を組んでいた。始まる前は、どんな曲だろう、知っている曲かな、と考えていた。今は、そういうことを忘れている。
ルッキーニが身じろぎした。シャーリーが肩へ置きかけた手を止める。注意するまでもなく、ルッキーニは鍵盤の方へ顔を向け直していた。
―――
アブソルは、長椅子の端に座っていた。
この曲を聞くのは、初めてではない。ブリタニアの店で、営業を終えたあとに聞いたこともある。開店前、女将さんに同じ小節を繰り返し教わっていた日もあった。あの頃、志乃はときどき途中で指を止めた。「今のところ、もう一度いいですか」と言って、女将さんの弾く音に耳を澄ましていた。
今では、そうすることも少なくなった。音は途切れずに流れていく。
ただ、よく知っているはずの旋律が、今日はほんの少し違って聞こえた。アブソルが覚えているより、一つの音が長い。次の音へ移る前に、ほんの短い間がある。弾き誤ったのではない。シノは、時々こういう弾き方をする。夕暮れの空で、普段より早く旋回へ入ったときのように。
音が少しずつ厚みを増す。右手が高い方へ向かい、左手の響きがその下を追いかける。やがて、強い和音が鳴った。
その余韻に、アブソルはふと、おとといの格納庫を思い出した。ルッキーニが志乃の腰の拳銃を見つけた朝。
『えっ、見せて見せて!』
無邪気な声だった。志乃は一瞬だけ動きを止め、それからいつもの穏やかな口調で断った。
『これは、見せられないんだ』
『なんでー?』
『大切なものだからね』
そのあと、ルッキーニは刀の話を始め、シャーリーが注意して、皆で笑った。アブソルも笑っていた。志乃も、笑っていた。確かに、いつもどおりの光景だった。
なのに今、鍵盤から聞こえる音が、あのとき志乃の返事の前にあった短い沈黙を連れてくる。
胸の奥が、ふいに詰まった。
アブソルは一度、静かに瞬きをした。目の縁が熱くなる。もう一度瞬きをすれば、何かがこぼれてしまいそうだった。それでも、顔を伏せることはしなかった。鍵盤へ向かう志乃を見ていた。
その横顔は、いつもと変わらない。黒い帯の下の目は見えないけれど、音を聴きながらわずかに傾く首も、指が次の位置へ移る前の小さな仕草も、何度も見てきたものだった。
アブソルはゆっくりと息を吐いた。涙は、落ちなかった。
―――
キャサリンは、入口に近い椅子から志乃を見ていた。
訓練場で聞く、落ち着いた指示の声。朝食の席でアブソルをからかったときの笑い声。今、音を重ねているのは、その同じ少女だった。――いや、もう少女と呼ぶのはおかしいだろう。久しぶりに会った二人は、知らない間にずいぶん大人になっていた。
何度か、志乃の手が鍵盤の上でわずかに止まった。次の音は必ず来る。それでもキャサリンは、その間を待つたびに、胸のどこかをそっと掴まれるような気がした。
以前の志乃を、よく知っていた。訓練で上手くいかないことがあれば、何度でもやり直す子だった。褒めると少し困ったように笑い、アブソルに急かされれば仕方なさそうに付き合った。
あの頃の声が、ふと耳の奥によみがえる。いくつもの笑い声。狭い部屋に並んだ椅子。誰かが遅くまで起きていると、もう寝なさいと注意した夜。
今でも、志乃とアブソルは笑っている。きっとこれからも、笑うのだろう。けれど、同じ場所には戻れない時間があることも、キャサリンは知っていた。
旋律が静かになった。志乃の右手が、高いところから少しずつ下りてくる。
この音を、どこか寂しいと思った。けれど、寂しいだけの音ではなかった。誰かに教わり、自分で選び、長い時間をかけて弾けるようになった音だった。そのことが、胸に沁みた。
―――
バルクホルンは、いつの間にか腕を組むのをやめていた。ミーナの膝の上では、書類が閉じられたままになっている。遅れて入ってきたペリーヌも、入口のところで足を止めていた。誰も話しかけない。志乃も、聞き手の様子を確かめようとはしなかった。
旋律が終わりの方へ差しかかる。それまで滑らかに続いていた音の間に、一拍だけ、少し長い静けさが生まれた。
アブソルが、そっと唇を結んだ。キャサリンは膝の上の手をほどいた。
志乃は、その間を急いで埋めようとはしなかった。右手が、もう一度動いた。残りの音は静かに重なり、最後の和音へたどり着いた。
低い響きが消え、その上に残っていた細い音も、やがて聞こえなくなる。志乃はすぐには手を離さなかった。ただ、音の終わりを待っていた。
そして、両手を膝へ戻した。
窓の外で、小鳥が一度鳴いた。
「……お粗末さまでした」
少し遅れて、拍手が起きた。最初に手を叩いたのはリーネだった。続いて芳佳、ミーナ、そしてほかの隊員たち。
「シノ、すごーい!」
「お前、ちゃんと最後まで聞いてたな」
「聞いてたよ! すっごく綺麗だった!」
「柊少佐、素敵でした!」
「ありがとうございます。皆さんにこんなに聞いていただくつもりは、なかったんですが……」
「でも、聞けてよかったわ」
ミーナの返事は柔らかかった。サーニャが、静かに口を開いた。
「……好きな曲です。とても。また聞きたいです」
「うん。私も、また弾きたいな」
「サーニャが気に入ったなら、私も大賛成ダナ」
部屋の隅で、アブソルが立ち上がった。
「シノ! よかったよ。やっぱり、上手だね!」
「アブソルはいつもそう言ってくれるね」
「だって本当なんだもん」
もう、普段どおりの声だった。
キャサリンは少し遅れて立ち上がり、志乃のそばへ歩み寄った。
「……シノ。聞かせてくれて、ありがとう」
「こちらこそ。キャサリンが聞きたいと言ってくれたから、久しぶりに皆さんの前で弾けました」
「……いい曲ね」
「ええ。女将さんに教わった曲の中でも、好きな曲なんです」
キャサリンは志乃の肩へ、そっと手を置いた。そこに込めたものを、言葉にすることはしなかった。志乃も何も尋ねず、ただその手に軽く触れた。
二人は、それだけで少し笑った。
## Scene 05 ―― 草地の二人
夕食のあとも、談話室の賑わいは廊下の端まで聞こえていた。演奏の話は、いつの間にかルッキーニがどの曲なら弾けるかという話に変わっている。
志乃は少し早く部屋を出ていた。廊下の窓から、夜の風が入ってくる。
「シノ。一人で行っちゃうんだもん」
後ろからアブソルが追いついた。
「アブソルはみんなと話していたからね」
「それはそうだけど! ……ちょっと外、歩かない?」
「いいよ」
二人は宿舎の外へ出た。建物から離れるにつれて、食堂の声が遠くなっていく。
「ねえ、シノ。今日の曲、あの店でも弾いてたよね」
「うん」
「前に聞いたときとは、ちょっと違ってた。途中、少しだけ長く弾いたところがあったでしょ」
志乃は、足を止めかけた。
「……気づいてたんだね」
「聞いてるからね、いつも」
「アブソルには隠せないな」
「隠すようなこと?」
「ううん」
短い返事だった。それ以上、志乃は続けなかった。アブソルも、問いを重ねなかった。
二人は滑走路の端、整備車両の通らない草地へ向かった。夜間哨戒へ向かう機体が、遠くで離陸の支度をしている。誘導灯が等間隔に並び、見張りの兵士が決まった場所を巡回していた。
「今日は、少し雲があるね。でも、星は見えるよ」
志乃も、同じ方向へ顔を向けた。遠くの滑走路、格納庫の壁、見張り塔の位置は分かる。その先にある光だけは、どれほど顔を上げても届かない。
「……宮藤さんも、星が好きだそうだよ。この前、ここで少し話したんだ」
「うん。知ってる」
「知ってたの?」
「帰り道に二人を見かけたんだよ。楽しそうだったから、声を掛けなかった。宮藤さん、手を動かしながら空を説明してたでしょ」
志乃は一瞬黙り、それから夜風の中で笑った。
「……いい子だよ、宮藤さんは」
「そうだね」
それは、誰かを懐かしむためだけの言葉ではなかった。明るくて、思いついたら先に身体が動いてしまう。困っている人を見つければ、じっとしていられない。そのぶん失敗することもあるが、言われたことを忘れず、次には少しずつ直してくる。二人とも、芳佳がそういう人であることを、この数日で知った。
「サーニャも、また聞きたいって言ってたね」
「うん。それなら、練習を続けないとね」
「シノがそう言うなら、女将さんも喜ぶよ」
「帰ったら、聞いてもらわないとね」
「うん!」
言葉が途切れた。二人はそのまま、しばらく空へ顔を向けていた。志乃のケープが風に揺れ、アブソルの短い金髪も、時折ふわりと持ち上がる。何かを確かめ合う必要はなかった。ただ、同じ場所にいることが自然だった。
## Scene 06 ―― 遠くから
同じ頃、作戦室へ続く廊下で、ミーナは数枚の書類を胸に抱えていた。隣でバルクホルンが、明日の予定に頷いている。そこへ、キャサリンと芳佳が合流した。
「中佐、すみません。さっきの医務室の備品の件なんですが……」
「ありがとう、宮藤さん。確かめておくわ。……キャサリン教官、今日は本当に助かりました。それと、さっきのピアノ。思いがけない贈り物だったわね」
「ええ。私も、あんなふうに弾くシノを見るのは初めてでした」
四人は格納庫脇の通路へ出た。外気に触れて、芳佳が小さく肩をすくめる。
「……あれ、柊少佐?」
少し離れた滑走路の端。二つの人影が、草地に並んで立っている。長い黒いケープの志乃と、短い金髪のアブソル。二人とも空へ顔を向けている。話しているのか、黙っているのか、ここからでは分からない。
「あの……私、この前も柊少佐をここで見かけたんです。私が星が綺麗だって言ったら、どんなふうに見えているか教えてほしいって。……うまく説明できなかったんですけど、柊少佐は、聞いているのが楽しいって言ってくださいました」
「そう。素敵な夜だったのね」
ミーナが微笑む。キャサリンは何も言わず、遠くの二人を見ていた。アブソルが何かを言ったらしく、志乃がわずかに肩を揺らした。笑ったのだろう。その仕草に、ずいぶん昔の光景が静かに重なった。けれど、それが何だったのかを、ここで言葉にするつもりはなかった。
「……昔から、空の話を聞くのが好きな子でした。見えないからといって、興味をなくすような子じゃなかったんです」
「はい。私も、そんなふうに感じました」
バルクホルンは、二人のいる方へもう一度目を向けた。格納庫で拳銃を見せるのを断ったときも、そうだった。あの少佐は、無理に笑っているようには見えなかった。けれど、自分から話そうとしないことが、確かにある。それが何なのか、訊く理由はないと思っていた。今も、その考えは変わらなかった。
ミーナが小さく息をついた。
「……不思議ね。今日の演奏を聞いて、少しだけ、柊少佐のことを知れた気がしたの。でも、あの二人が過ごしてきた時間のことは、まだほとんど知らないのよね」
「……そうですね」
遠くでは、アブソルが先に一歩歩き出し、志乃も少し遅れて隣へ並んだ。二人の足取りに、急ぐ様子はない。
ミーナは少し迷ってから、隣の教官へ尋ねた。
「キャサリン教官。あの二人は、いつからあんなふうに、黙って空を見上げるようになったのかしら」
キャサリンは、すぐには答えなかった。遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……大切な人を、亡くしてからです」
(第15話 終)