ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ―   作:r3ir3i

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## Scene 01 ―― 港町の屋上

 

ブリタニア、とある港町。

 

夕方の光が、石造りの家並みを西側からだけ染めていた。港には大小の船が肩を寄せ合うように停泊し、岸壁では荷下ろしがまだ続いている。クレーンの軋み、遠くの汽笛、石畳を叩く荷馬車の車輪。どれも一日の終わりへ向かう、急ぎすぎない音だった。

 

戦争は、この町にも傷を残していた。屋根瓦の色が途中から新しくなった建物がある。通りの角には、積み直したばかりの石垣がある。それでも店は開き、荷は運ばれ、人々は今日を終える支度をしていた。

 

港から一本入った通りに、小さな武器商店がある。

 

木の看板は日に焼け、文字の端が薄れていた。通りに面した窓の奥には、銃器や装備品が整然と並んでいる。大きな店ではない。けれど床板の擦り減り方にも、棚の角の丸みにも、長く商いを続けてきた時間が残っていた。

 

その屋上に、簡素な発着場が設けられている。

 

隅に置かれた整備台の前で、一人の少女が胡座をかいていた。短く切った金髪が、潮風に軽く煽られる。黒い軍服の片方の肩にだけ、短いケープが掛かっていた。

 

「……よしっと」

 

アブソル・R・クルスは、締め終えた最後のボルトから工具を離した。

 

整備台に固定されているのは、彼女のストライカーユニットだった。モスキート系の機体に、自分の手で改良を重ねてきたものだ。外板を指の背で叩くと、思ったとおりの音が返ってくる。

 

「うん。悪くないね」

 

工具箱の蓋を閉め、両腕を空へ伸ばす。凝った肩が鳴った。

 

そのとき、港の向こうから低い音が届いた。

 

プロペラの唸りとは違う。空気そのものを押し出して進むような、太く途切れない推進音。この町でその音を立てる機体は、一つしかなかった。

 

アブソルは顔を上げた。

 

夕空の低いところに、黒い点が一つあった。点はすぐに影になり、影は人の形になる。風を受けて広がる長いケープ。肩の上で揺れる黒髪。脚に履いた機体の後ろで、噴射の揺らぎが空気を歪めていた。

 

「あっ」

 

アブソルは立ち上がった。

 

「シノー!」

 

大きく手を振る。上空の影が、わずかに顔をこちらへ向けた。返事の代わりに速度が落ち、機体が屋上の真上で緩やかに向きを変える。推進音が絞られていくにつれ、港の物音が戻ってきた。

 

黒いケープが、発着場の板の上に降りた。

 

両眼を覆う黒い帯の下で、口元が小さく動く。

 

「……ただいま」

 

「おかえり!」

 

アブソルは駆け寄った。

 

「お疲れさま! もう少しかかると思ってたよ」

 

「予定より早く終わった」

 

「そうみたいだね。で、怪我は?」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「機体は?」

 

「問題ない」

 

アブソルはそこで言葉を止め、相手の顔を下から覗き込んだ。帯に隠れた目元から読み取れるものは何もない。それでも覗き込んでしまうのは、昔からの癖だった。

 

「……それ、シノの言う『問題ない』でしょ?」

 

志乃は答えなかった。

 

「ちょっと見せて」

 

「……うん」

 

志乃が試製秋水から脚を抜く。アブソルは機体を受け取って整備台へ移し、推進機構の点検口を開けた。指先で内側をなぞっていく。噴射口の縁に、出発の時にはなかった焼けの色があった。

 

手が止まった。

 

「シノ」

 

「どうしたの?」

 

「高出力、使った?」

 

「うん」

 

「何回?」

 

「……数回」

 

「数回って?」

 

返事がない。

 

「シノ?」

 

「……必要なだけ」

 

アブソルは長く息を吐いた。

 

「……もう! こっちはその『必要なだけ』が知りたいの!」

 

「報告書には記録してあるよ」

 

「そういうことじゃなくて!」

 

志乃が少しだけ首を傾ける。何を怒られているのか分からない、という仕草ではない。分かったうえで、それ以上は言わないときの傾け方だった。アブソルはそれを知っている。だから余計に、呆れた顔のまま機体へ目を戻した。

 

「高出力が使えるからって、機体まで無理がきくわけじゃないんだからね」

 

「分かってるよ」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「……まあ、帰ってきたからいいけどさ」

 

アブソルは点検口を閉じ、固定具を掛け直した。

 

「点検は明日やるよ。今日はもう休みな」

 

「……ありがとう」

 

「今さら何言ってるの」

 

アブソルは笑って、志乃の肩を軽く叩いた。

 

「おかえり、シノ」

 

志乃は小さく頷いた。

 

「……うん」

 

## Scene 02 ―― 帰る場所

 

階段を下りると、油と鉄の匂いがした。

 

「店長ー! シノが帰ってきたよ!」

 

アブソルの声が、店の中を渡っていく。帳場の奥の棚の陰から、男が顔を出した。手には磨きかけの銃身を持ったままだった。

 

「おう、帰ったか!」

 

「……ただいま戻りました」

 

志乃が軽く頭を下げる。

 

「おかえり。今回はどうだった?」

 

「作戦は成功しました」

 

「そうか。それなら何よりだ」

 

店長は銃身を作業台へ置き、布で手を拭った。

 

「荷物を置いて、ゆっくり休みな。それから女将にも顔を見せてやれよ。ずいぶん気にしてたぞ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

横から、アブソルが割り込んだ。

 

「ねえ店長、私もずっと待ってたんだけど?」

 

「お前はここにいるだろうが」

 

「そういう問題じゃないって!」

 

店長が声を上げて笑った。

 

志乃は二人のやり取りを背に、店の奥の階段へ向かった。並んだ銃架の間を、迷わずに抜けていく。客が置いていった木箱が通路の端に出ていたが、その手前で、足は自然に一歩ずれた。

 

「……ねえ、シノ」

 

追いついたアブソルが、隣へ並ぶ。

 

「クレタ島、どうだった?」

 

「……暑かった」

 

「いや、そうじゃなくて!」

 

志乃は階段の一段目で足を止めた。少し考えてから答える。

 

「……賑やかだったよ」

 

「へえ」

 

「よく喧嘩をする二人がいた」

 

「それはまた、大変そうだね」

 

「うん」

 

「シノ、止めたでしょ?」

 

「……うん」

 

「やっぱり!」

 

アブソルは手を叩いて笑った。

 

「で、作戦は大丈夫だったの?」

 

「成功した」

 

「そっか」

 

それ以上は訊かずに、アブソルは志乃の背中を軽く押した。

 

「じゃあ、荷物置いておいで」

 

―――

 

二階の奥が、志乃の部屋だった。

 

扉を開けても、明かりは点けない。点ける理由が、志乃にはなかった。

 

壁際に寝台。窓の下に机と椅子。その脇に、背の低い本棚が一つ。並んでいるのは点字の本ばかりで、背の厚みがそれぞれに違う。飾りと呼べるものはほとんどなく、使い道のない物も置かれていない。部屋の形は、出かける前と何も変わっていなかった。

 

志乃は、まずケープの襟元の留め具を外した。

 

肩から下ろす前に、右の袖の内側へ左手を差し入れる。指先が、布の奥に収めた硬いものに触れた。留め具を一つずつ外していくと、長い袖の中から、細く真っ直ぐな黒い刀身が抜け出てくる。鞘はない。刃を壁の側へ向けて、机の上の決まった場所へ横たえる。左の袖からも、同じものをもう一振り。

 

二振りが机に並ぶと、袖はようやく、ただの布の重さに戻った。

 

志乃はケープを肩から外し、扉の脇の掛け釘に掛けた。軽くなった袖が、まっすぐに垂れる。軍服の襟を一つ緩めて、椅子に腰を下ろした。

 

窓の外から汽笛が届いた。少し遅れて、階下で店長が客と話す声。誰かが通りで荷車を止める音。

 

戦場では聞こえなかった音だった。

 

階段を上ってくる足音があった。軽く、少し急いでいる。誰のものかは、二段目で分かった。

 

扉が叩かれる。

 

「シノー? 入っていい?」

 

「うん」

 

扉が開いた。戸口に立ったアブソルの顔が、まず机の上へ向いた。

 

「あ、もう外したんだ」

 

並んだ二振りを確かめてから、部屋をぐるりと見回す。

 

「相変わらず物が少ないねえ」

 

「……そうかな」

 

「私の部屋と大違い」

 

「そうだね」

 

「そこは否定してよ!」

 

志乃は何も言わなかった。

 

「まあ、いいや。明日は朝から秋水の点検だからね。ついでに、そっちも見ようか?」

 

「ううん。刀は自分でやる」

 

「はいはい」

 

アブソルは、すぐには出ていかなかった。戸口の枠に肩を預け、少し間を置いてから尋ねる。

 

「……ねえ、シノ。向こうで、ちゃんと休めた?」

 

「移動中には休んだ」

 

「そうじゃなくて。仕事じゃない時間はあった?」

 

志乃の返事が、少し遅れた。

 

「……デロス島を歩いた」

 

「へえ。観光?」

 

「……そうだね」

 

「シノが?」

 

「……うん」

 

「珍しい!」

 

アブソルは目を丸くした。

 

「誰かと一緒に?」

 

「うん」

 

「そっか」

 

それ以上、アブソルは訊かなかった。ただ、戸口の枠から肩を離すとき、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「……よかったね、シノ」

 

志乃は小さく頷いた。

 

「……うん」

 

「あ、そうだ」

 

戸口から半歩出たところで、アブソルが振り返った。

 

「女将さん、もう厨房に入ってたよ。シノが帰ってくるって聞いて、張り切ってた」

 

「……分かった」

 

足音が階段を下りていく。

 

志乃は机の端へ手を伸ばし、出かける前に読みかけていた本の背に指を置いた。挟んだ紐は、出かけた日と同じ頁に残っている。

 

続きは、夜に読めばいい。

 

志乃は椅子から立ち上がった。

 

―――

 

バーの厨房は、店の表より一足先に夜の支度を始めていた。

 

竈の上で鍋が湯気を上げ、まな板の脇には洗ったばかりの野菜が積まれている。玉ねぎを刻む音が、規則正しく続いていた。

 

「……女将さん」

 

戸口で声を掛けると、包丁の音が止まった。

 

「シノちゃん!」

 

振り返った女将が、濡れた手のまま寄ってくる。前掛けで慌ただしく手を拭き、それから志乃の両肩に手を置いた。

 

「おかえりなさい。怪我は? ちゃんと食べてた?」

 

「……ただいま戻りました。怪我はありません」

 

「食べてたかの方は?」

 

「……食べていました」

 

「本当かしら」

 

女将は志乃の腕を軽く叩いて、ようやく手を離した。

 

「店長から聞いたわ。作戦、うまくいったんですって?」

 

「はい」

 

「そう。よかった」

 

声の調子が、ほんの少しだけ低くなった。それから、いつもの明るさに戻る。

 

「それで、どうしたの。休んでなさいって言われなかった?」

 

「……何か、手伝えることはありますか」

 

女将は一瞬黙り、それから、笑いを堪えきれないように口元を緩めた。

 

「もう。帰ってきた日くらい、座ってればいいのに」

 

そう言いながら、まな板の前を半分空ける。

 

「じゃあ、そっちの人参をお願い。いつもの大きさでね」

 

「はい」

 

志乃は袖をまくり、包丁を手に取った。人参を板の上に置き、指を添える。刃が落ちるたびに、同じ厚みの輪切りが並んでいった。音の間隔が、少しも乱れない。

 

隣で玉ねぎを刻みながら、女将はその手元を横目で見た。

 

「相変わらず上手ねえ。私より揃ってるわ」

 

「……そうでしょうか」

 

「そうよ」

 

初めて台所に立たせた日、女将が怖かったのは、目を帯で覆った娘に刃物を持たせることだった。その心配がいらないと分かるまで、何日もかからなかった。

 

鍋の蓋が、小さく鳴り始めた。

 

「シノちゃん、鍋の方、見ててくれる?」

 

言ってから、女将は言い直した。

 

「ふつふつ言い始めたら、火を弱めて」

 

「はい」

 

志乃は包丁を置き、竈の前へ移った。鍋の中の音に耳を向ける。泡の割れる音が、少しずつ細かくなっていく。

 

その音が変わったところで、志乃は火を絞った。

 

「……弱めました」

 

「ありがとう。ちょうどいいわ」

 

刻む音と、煮える音。窓の外が、少しずつ暗くなっていく。二人はそれ以上多くを話さず、並んで夕食の支度を続けた。

 

## Scene 03 ―― 夜想曲

 

日が落ちると、港町の通りには、昼とは別の賑わいが生まれた。

 

仕事を終えた荷役夫たちが、肩を叩き合いながら坂を上ってくる。酒場の扉が開くたびに、笑い声と灯りが石畳へこぼれた。

 

武器商店の近くにある小さなバーも、その一つだった。

 

「はい、お待たせ!」

 

女将がカウンター越しにグラスを二つ置いた。木の天板が、硬く短い音を立てる。

 

「おう、ありがとう!」

 

「今日はずいぶん遅かったわね」

 

「聞いてくれよ。港で荷下ろしが長引いてさ!」

 

「ふふっ、お疲れさま」

 

グラスの触れ合う音。天井近くに溜まる煙草の煙。どこかのテーブルで、誰かがまた大きな声で笑う。いつもと変わらない夜だった。

 

店の隅には、使い込まれたアップライトピアノが置かれている。

 

手が空いたとき、女将はときどきそれを弾いた。明るく、跳ねるような曲が多い。旋律が弾み出すと客たちの肩も揺れ始め、手拍子が起こり、誰かが調子の外れた鼻歌を重ねる。女将のピアノは、いつだって賑やかだった。

 

その店の奥のテーブルに、志乃とアブソルもいた。夕食の皿はとうに下げられ、テーブルには飲み物だけが残っている。

 

「……それでさ!」

 

アブソルは両手を使って話していた。

 

「私が整備を終わらせたと思ったら、店長ったら、また別の銃を持ってくるんだよ!」

 

「……そうか」

 

「そうか、じゃないよ! 私だって暇じゃないんだから!」

 

「……そうだね」

 

「ほんとにもう!」

 

アブソルは呆れたように笑い、自分の飲み物に口をつけた。志乃は静かにカップを持ち上げた。

 

「あら、シノちゃん」

 

カウンターの向こうから、女将の声がした。

 

「……はい」

 

「今日は久しぶりに、弾いていかない?」

 

志乃が、声の方へ顔を向けた。

 

「……ピアノですか」

 

「ええ。せっかく帰ってきたんだもの」

 

女将は布巾を置いて微笑んだ。

 

「みんなも、あなたの演奏を楽しみにしてるのよ」

 

カウンターの端にいた常連の一人が、グラスから顔を上げた。

 

「なんだ、今日はシノが弾くのか?」

 

「そうよ」

 

「そいつはいい! しばらく聴いてなかったからなあ」

 

アブソルも、テーブル越しに身を乗り出した。

 

「いいじゃん、シノ。久しぶりに弾いてあげなよ」

 

志乃は少し考えた。それから、カップを静かに受け皿へ戻した。

 

「……私でよければ」

 

女将の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「もちろんよ!」

 

―――

 

志乃が席を立った。

 

ケープを外した黒い軍服に、両眼を覆う黒い帯。初めてこの店に来たらしい客が二人、グラスを持ったまま、その姿を目で追っていた。帯を巻いた娘が、どこへ手をつくこともなく、テーブルの間を真っ直ぐに抜けていく。

 

志乃はピアノの前の椅子を引いて腰を下ろした。蓋を上げ、鍵盤の上にそっと両手を置く。

 

女将は、カウンターの内側からその背中を見ていた。

 

この子にピアノを教えたのは、自分だった。

 

最初は、指の置き方からだった。鍵盤のどこにどの音があるのか。指をどう渡せば、旋律が途切れずに続くのか。志乃は目で楽譜を追うことができない。だから女将が弾いてみせ、志乃が耳で覚え、それを指に移していく。急がずに、何度も、同じところを繰り返した。

 

それなのに、志乃は女将と同じようには弾かなかった。

 

女将が好むのは、客が笑って手拍子を打つような曲だ。志乃が選ぶのは、いつも静かな曲だった。教えた指遣いで、教えたことのない音を出す。いつからか女将は、その違いを聴くのを楽しみにするようになっていた。

 

志乃の両手が、わずかに沈んだ。

 

柔らかな和音が、酒場の空気の中に置かれた。

 

ゆったりとした左手の伴奏の上に、右手が穏やかな旋律を乗せていく。夜想曲だった。一つひとつの音を確かめるように指が降り、ところどころに細やかな装飾が添えられる。

 

最初の数音で、アブソルにはその曲が分かった。何度も聴いたことがあった。志乃が好んで弾く曲だということも知っている。

 

頬杖をついて、アブソルは耳を傾けた。

 

志乃とは、もうずいぶん長い付き合いになる。訓練生の頃から一緒だった。同じ空を飛び、同じ戦場から帰ってきた。誰よりも近くで、この相棒を見てきたつもりでいる。

 

それでも、志乃が本当は何を思っているのか、自分はどこまで知っているのだろう。そう考えることが、ときどきあった。

 

志乃は、自分のことをほとんど話さない。何かを訊いても、返ってくるのは短い言葉ばかりだ。つらかったか、苦しかったかと訊いたところで、答えは決まっている。大丈夫、と。どれほど危ない空から帰ってきても、声の調子は出かける前と変わらない。怪我をしていても、痛いとは言わないことがある。泣いているところとなると、アブソルにはほとんど覚えがなかった。

 

それなのに、この曲だけは、泣いているように聞こえることがある。

 

アブソルはピアノの方を見た。

 

志乃の表情は、いつもと変わらなかった。帯の下の顔は鍵盤に向いたまま、口元にも目立った動きはない。指だけが、鍵盤の上を静かに行き来している。

 

デロス島を歩いた、と言っていた。誰と、何を見てきたのかまでは訊いていない。

 

旋律が一巡りして、また最初の形に戻ってきた。同じ音の並びなのに、さっきとは少しだけ表情が違う。何かを懐かしむように。何かを惜しむように。あるいは、手の中のものを落とさないように抱え直すように。

 

アブソルは目を伏せた。

 

悲しみなのか、後悔なのか。それとも、まったく別のものなのか。アブソルには分からなかった。分からないまま、聴いていたいと思った。いつも誰かのために飛んでいる相棒が、今だけは、誰のためでもなく弾いている。そう思えたからだ。

 

呼びかけたくなった名前を、アブソルは口の中に留めた。

 

―――

 

いつの間にか、酒場は静まり返っていた。

 

さっきまで大声で笑っていた常連が、グラスをテーブルに置いたまま動かない。荷下ろしの愚痴をこぼしていた男も、口を閉じている。カウンターの奥で、女将の手が布巾を握ったまま止まっていた。

 

開け放した扉の外でも、通りを行く足音が途切れていた。一人、また一人と、戸口に人影が増えていく。誰も中へは入ってこなかった。誰も声を出さなかった。

 

ここにいる者の多くは、戦争を知っていた。家を焼かれて、この町へ流れてきた者がいる。海の向こうへ出たまま戻らない息子を、まだ待っている者がいる。戸口に杖をついて立つ老人の上着には、古い従軍章が縫いつけてあった。

 

志乃のピアノは、何かを訴えはしなかった。励ますような強い音もない。ただ、その人々の間を、低く静かに流れていった。

 

志乃にも、それは分かっていた。

 

店の中にいる人の数。戸口に寄り集まった身体の形。グラスから離れたまま止まっている腕。そのどれもが、こちらを向いている。どんな顔をしているのかまでは分からない。それでも、店の中から自分の音以外のものが消えていく気配だけは、指先の向こうにはっきりとあった。

 

曲は終わりへ向かっていた。細やかな音が重なり、最後にもう一度、あの静かな旋律が戻ってくる。

 

最後の和音を押さえたまま、志乃は指を離さずにいた。

 

音が、ゆっくりと消えていった。

 

誰も、すぐには拍手をしなかった。

 

静けさだけが、店の中に残っていた。アブソルも、何も言わずに座っていた。ピアノの前では、志乃が両手を膝の上へ下ろしている。背筋の伸ばし方も、肩の位置も、いつもの志乃だった。

 

少なくとも、その姿は。

 

アブソルは小さく笑った。

 

――やっぱり、シノだね。

 

カウンターの奥で、女将が手を打った。一つ、二つ。その音に促されるように、客たちの手が動き出す。歓声は上がらなかった。けれど、拍手は途切れることなく、店の中を満たしていった。

 

志乃は椅子から立ち、小さく頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

いつもと変わらない、落ち着いた声だった。

 

アブソルは、その声を聞いて笑った。何も言わないまま、誰よりも長く手を叩き続けていた。

 

(第01話 終)

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