ストライクウィッチーズ ― あの空の続き ― 作:r3ir3i
## Scene 01 ―― 連合軍司令部
港町に一通の電報が届く、少し前のこと。
1945年。ブリタニア、連合軍司令部。
「これ以上の抽出は認められん!」
大会議室に、苛立った声が響いた。
長机を囲むのは、各国軍の将校たちだった。机には欧州の地図が広げられ、部隊の配置を示す駒が隙間なく並んでいる。壁際の掲示板には、各戦線から届いた偵察写真と損害報告が、何枚も重ねて留められていた。
「我々の方面では、警戒飛行の回数をこれ以上増やせない。隊員も機材も限界に近いんだ」
「こちらとて事情は同じだ。後方へ大型個体が侵入したら、どう迎撃するつもりだ?」
「それを止めるウィッチを、どこから持ってくると言うのかね!」
誰かが机を叩き、駒が一つ倒れた。
議論が荒れる理由は、誰の目にも明らかだった。ここしばらく、各戦域で大型ネウロイの出現が相次いでいる。従来の機銃では容易に傷を与えられない個体もいれば、広い範囲へ同時に攻撃を仕掛ける個体もいた。対応できるウィッチを一か所に集めれば、別の防衛線が薄くなる。今の配置を守れば、被害の拡大を許しかねない。自分の受け持つ地域を危険に晒したい者は、一人もいなかった。
「第501統合戦闘航空団の再編を急ぐべきではないのか」
「隊員を集めるにも、各国との調整が要る」
「調整が終わるまで、敵は待ってくれんぞ」
議長が、何度目かの静粛を求めた。
そのやり取りを、会議室の一角で黙って聞いている男がいた。アドルフだった。隣には、エルヴィン・ロンメル将軍が座っている。
「なかなか折り合いがつかないようだね」
ロンメルが声を落とした。
「どの意見にも理由があります。前線の維持は譲れない。ですが、目の前の敵に対処できなければ、その前線自体が失われます」
「それで、君には考えがあるわけだ」
「一つ、提案を持参しています」
ロンメルの目が、アドルフの手元の薄い書類束に落ちた。
「……例の二人かな」
「はい」
議長が再び発言を求めたところで、アドルフは静かに手を挙げた。
「よろしいでしょうか」
室内の視線が集まる。アドルフは立ち上がり、書類を机の中央へ置いた。
「各方面から戦力を引き抜くことが難しいのであれば、現在いずれの編成にも組み込まれていないウィッチの活用を提案します。二名です」
「……二名?」
将校の一人が眉をひそめた。
「たった二名で、状況を変えられると?」
「二名で戦争を終わらせられるとは申しません。ただ、適切な部隊で適切な任務に就かせれば、大型個体に対抗できる戦力を増やせます」
アドルフは書類の表紙をめくった。
「柊志乃少佐。アブソル・R・クルス大尉。両名の、第501統合戦闘航空団への派遣を提案します」
―――
資料が出席者の手に回っていく。
最初に目を引いたのは、年齢の欄だった。どちらも十九歳。若いウィッチが前線に立つこと自体は、珍しくない。ただ、その下に続く勤務歴は、誰もがすぐに読み終えられる量ではなかった。
「……柊少佐の記録は、これで全部なのか」
「お配りしたのは要約です」
「要約?」
聞き返した将校の手元で、頁には年月と地名と作戦名が、途切れずに並んでいた。ブリタニア防衛戦。アフリカ方面の撤退援護。各地での迎撃、護衛、偵察支援。損耗した部隊の救援。敵拠点への攻撃。そして直近の、エーゲ海での作戦。
一つの航空団に腰を据えて戦った記録ではない。必要とされるたびに土地を移り、違う部隊の中で戦っている。
「……1941年、ブリタニア沿岸防衛」
別の将校が、頁の一行を指で押さえた。
「この二人は、あの頃からここにいたのか」
「はい。港湾地区へのネウロイ襲撃に際し、迎撃と住民の退避支援に参加しています。その後も、地域の警戒任務を続けました」
「当時は、まだ十五歳だぞ」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
「それから四年。各方面へ派遣され続けているというわけか」
「はい。ただ、評価いただきたいのは作戦の数だけではありません」
アドルフが次の頁を示した。エーゲ海、デロス島での戦闘報告だった。
「洞窟内に潜伏した大型ネウロイへの対処です。柊少佐は作戦に参加した他のウィッチと協力し、島を破壊することなく敵を撃破しました」
「共同作戦だったのだろう?」
「そのとおりです。仲間の働きがなければ、彼女の攻撃も成立しませんでした。彼女の能力は単独戦闘に向いています。しかし、他者の判断を受け入れ、必要であれば自分の案を退けることもできる。統合部隊では、その点が重要だと考えます」
「だが、通常のシールドを張れないとある」
別の将校が、資料の一行を指で叩いた。
「この記録は確かなのかね。仲間を守ることもできないウィッチを、なぜ部隊へ加える?」
アドルフは否定しなかった。
「他の隊員を直接防護することはできません。視力も失っています。空間を知覚する魔法と、自分への攻撃を逸らす魔法を用いて戦っていますが、認識していない攻撃には脆い。万能な戦力ではありません」
「ならば、なおさら……」
「それでも、他のウィッチには難しい接近戦を担えます」
アドルフは一枚の写真を机に置いた。見慣れない形の機体に、将校たちの目が止まる。
「試製秋水。柊少佐が使用する実験的なストライカーユニットです。通常の巡航に加え、短時間の高出力運転を行えます」
「実験機を前線へ?」
「機体への負荷と、整備上の制約はあります。ただ、それを把握している人物がいます」
アドルフは、もう一人の資料を開いた。
「クルス大尉です。銃器の扱いと射撃に秀で、機体の整備にも深く携わっています。試製秋水を実戦で使える状態に仕上げたのも、彼女の働きが大きい」
「つまり、整備員も兼ねると?」
「整備のできる戦闘要員です。彼女にも、単独で任務を遂行する力があります。私は二人を一組の戦力として評価しています。同時に、二人だけで完結させるべき戦力だとも考えていません」
そのとき、隣のロンメルが口を開いた。
「私からも、よろしいかな」
議長が頷く。
「私はエーゲ海で、柊少佐と行動を共にした」
ロンメルは、机の上の報告書に目を落とした。
「彼女の攻撃は、確かに目を見張るものだったよ。だが、私が覚えているのは別の場面だ。状況が悪くなったとき、彼女は無理に戦果を求めなかった。味方が危険を冒そうとしたときには止め、作戦を立て直す判断をした。強い者ほど、つい自分の力に頼りたくなるものだがね」
ロンメルは、少しだけ笑った。
「そういう意味で、私は彼女を信頼している」
「将軍は、派遣に賛成だと?」
「うむ。大型ネウロイへの対応には、ウィッチの数を増やすだけでなく、それぞれの強みを生かすことが必要だと思う」
しばらく、頁をめくる音だけが続いた。
反対の声が消えたわけではない。ただ、二人を検討から外す理由も、もう見当たらなかった。
「では、両名を第501統合戦闘航空団の増援候補として承認し、関係部局との最終調整を進める。異議は?」
数人の将校が短く言葉を交わし、やがて声が揃った。
「……異議なし」
「決定とする。正式な派遣命令は、調整完了後に発出する」
アドルフは静かに頭を下げた。
散会の気配が広がる中で、ロンメルが彼に声を掛けた。
「二人には、また忙しい思いをさせるね」
「ええ」
「……柊少佐が、今度こそ、背負わなくていいものまで背負わずに済むといいのだが」
アドルフは、すぐには答えなかった。
「だからこそ、あの部隊へ送りたいのです」
## Scene 02 ―― 二冊の記録
同じ日の午後、会議室の扉の前に、一人の女性将校が立っていた。
ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐。
「ヴィルケ中佐、どうぞ」
「はい」
案内を受けて入ると、机にはまだ欧州の地図が残っていた。倒れた駒が一つ、元の位置へ戻されている。
「ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐、出頭いたしました」
「ご苦労。掛けたまえ」
議長役の将校が、手短に状況を説明していく。大型ネウロイの活動が増えていること。各地の防衛線に余力がないこと。再編される第501統合戦闘航空団には、広い範囲へ素早く対応する力が求められていること。ミーナは要点を手帳に書き留めながら、一つずつ聞いた。
「そこで本日、二名のウィッチの派遣を決めた」
差し出されたのは、厚い書類束だった。
「柊志乃少佐。アブソル・R・クルス大尉。着任後は第501統合戦闘航空団に編入し、君の指揮下に置く」
「承知いたしました」
ミーナは資料を開いた。数頁めくったところで、指が止まる。十九歳という年齢の下に、作戦記録が延々と続いていた。これで抜粋なのだと、表紙の注記が告げている。
ブリタニア防衛戦。その一行に、ミーナの目が留まった。
「……ブリタニアにも、いたのね」
思わず、小さく声に出た。当時の沿岸防衛記録には、二人が同じ部隊で飛び、民間人の避難援護と港湾施設の防衛に当たったことが記されていた。自分たちがブリタニアに着任するより、ずっと前のことだ。
出身の欄には、扶桑。武装の欄には、二振りの刀。
「……刀、ですか」
胸の奥に、懐かしい顔が浮かんだ。坂本美緒。あの人も、扶桑の刀を手に空を飛んでいた。けれど読み進めるほどに、同じなのは出身と武器の種類くらいなのだと分かってくる。
「柊少佐は、通常のシールドを使えないのですね」
尋ねると、同席していたアドルフが頷いた。
「はい。自分への攻撃は固有魔法で逸らせますが、他者を直接防護することはできません。また、両眼の視力を失っています」
「その状態で、これだけの記録を……」
ミーナは二冊の資料を並べた。射撃と整備を得意とするクルス大尉。近接戦闘を主とする柊少佐。戦い方はまるで違う。それでいて、作戦履歴の年月と地名は、ほとんどの行で揃っていた。
「……一つ、確認させてください」
ミーナは顔を上げた。
「二人の部隊内での指揮関係は、どうなりますか。柊少佐はこれまで、独自の任務を受けてきたようですが」
「第501での作戦行動中は、ヴィルケ中佐の指揮を受けます。両名にも、その点は明確に伝えます」
アドルフの答えは早かった。ミーナは頷き、資料を閉じた。
「では、受け入れの準備を進めます。ただ、お願いがあります。着任後、まず二人の能力と装備を確かめる時間をいただきたいのです。実戦経験が豊富でも、仲間との連携は別ですから」
「必要な確認だろう。認めよう」
議長が言い、ロンメルが穏やかに笑った。
「よろしく頼むよ、ヴィルケ中佐」
ミーナは立ち上がり、敬礼した。
「はい。二人が安心して力を発揮できるよう、努めます」
## Scene 03 ―― 待合室
会議室を出ると、廊下の先から聞き慣れた声がした。
「あ、ミーナ! お疲れさま!」
待合室のソファから、エーリカ・ハルトマンが身を起こした。その隣で、ゲルトルート・バルクホルンが腕を組んでいる。
「待たせちゃったわね、二人とも」
「私は構わん。だが、随分と長かったな」
「話し合いが少し長引いたの。……実はね、新しい仲間が来ることになったのよ」
「へえ、誰?」
「二名。柊志乃少佐と、アブソル・R・クルス大尉」
ミーナが差し出した資料を、バルクホルンが受け取った。氏名、階級、年齢。そこまでは普段どおりの速さで目を通し、頁をめくる。もう一枚。さらに一枚。
「……トゥルーデ?」
ハルトマンが首を傾げても、バルクホルンは答えなかった。紙面を追う目だけが、少しずつ遅くなっていく。
「……これが一人の記録か」
ようやく顔を上げたバルクホルンが、低く言った。
「主要な作戦だけを抜き出したものだそうよ」
「数の問題ではない」
バルクホルンの指が、頁の端を押さえた。
「一つの戦線にいれば、その土地の気象も、敵の動きも、味方の癖も覚えられる。だが、ここに並んでいる作戦は、場所も任務もまるで違う。そのたびに条件が一から変わる。……こんな経歴は、見たことがない」
隣から覗き込んだハルトマンが、黙って頁を見直した。
「……1941年、ブリタニア沿岸防衛」
バルクホルンの指が止まる。
「私たちより先に、ブリタニアで飛んでいたのか」
「港への襲撃を退けて、住民の避難も助けたそうよ」
「でも、今の住まいもブリタニアって書いてあるよ」
ハルトマンが別の欄を指した。
「港町の、武器商店?」
「ええ。そこを生活の拠点にしているそうよ」
「武器商店とは、また変わった話だな」
「あの土地に、何か縁があるのかもしれないわね」
ハルトマンは、さらに別の行に目を移した。
「あ、柊少佐って扶桑出身なんだ。それに武器が刀だって。二本使うみたい」
「二刀流か。扶桑の刀を使うウィッチといえば……」
「美緒ね」
ミーナが先に言った。ハルトマンが笑う。
「美緒が聞いたら喜びそう! 絶対、手合わせしたいって言うよ」
「いきなりそんなことを申し出るものではないだろう」
「でも言いそうじゃん」
バルクホルンは少し考え、否定しなかった。
「……まあ、否定はできんな」
けれど、その目はもう次の行へ移っていた。
「……通常シールド形成不可。両眼の視力なし」
資料を持つ手が、そこで止まった。
「この条件で、あれだけの戦いを続けてきたのか」
「独自の魔法で、周りの形を知覚できるそうよ。ただし、何でも分かるわけではないみたい」
「味方をシールドで守ることもできない、と」
バルクホルンは腕を組んだ。
「実際の飛行を見るまでは、部隊での役割は慎重に考える必要があるな」
「トゥルーデ、もう作戦のこと考えてる」
「当たり前だ。新しい仲間が来るんだぞ」
「でもさ、こういう人って、会ってみないと分からないよね」
ハルトマンが何気なく言うと、バルクホルンは少し間を置いて頷いた。
「……そうだな」
ミーナは資料を受け取り、胸の前で抱え直した。
「私たちが迎えるのは、戦闘記録じゃなくて、二人のウィッチだもの」
「うん! クルス大尉も面白そう。銃が好きで、ストライカーも直せるんでしょ?」
「試製秋水の整備にも携わっているそうだ。実験機を運用するなら頼りになるだろう。ただ、着任後は整備体制も確かめたい」
「ほら、また仕事の話」
「エーリカ!」
ミーナが思わず笑った。三人の足音が、廊下に重なっていく。
経歴から分かることは多い。けれど、紙の上からは分からないことも、同じくらい多かった。
「……二人に会うのが楽しみね」
「うん!」
「ああ」
## Scene 04 ―― 派遣命令
電報から数日後。港町の武器商店の前に、軍用車両が停まった。
入口のベルが鳴る。
「失礼します。連合軍司令部から参りました」
カウンターの店長は、兵士の手にある鞄を見ただけで、用件を察したようだった。
「命令書だな。二人なら二階だ」
それから奥へ声を張る。
「おーい、シノ! アブソル! 来たぞ!」
「はーい!」
軽い足音が階段を下りてきて、アブソルが顔を出した。その後ろから、志乃が続く。兵士は二人の姿を確かめ、姿勢を正した。
「柊少佐、クルス大尉。正式な派遣命令書をお持ちしました」
アブソルが、隣の志乃へ顔を向けた。
「……来たね」
「うん」
「第501統合戦闘航空団への派遣を命じます。合流先はベルギカ、サン・トロン基地。現地では、ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ中佐の指揮を受けてください」
アブソルが書類を受け取り、目を走らせながら読み上げていく。
「……出発は三日後。指定の駅から鉄道で港へ。連絡船で海峡を渡って、ベルギカ側でまた鉄道……」
「ストライカーも輸送ですか」
志乃が尋ねた。
「はい。二機とも貨物として輸送計画に組み込まれています。固定と梱包については、添付の指示をご確認ください」
「秋水は、向こうで点検し直しだね」
「そうだね」
アブソルは輸送条件をいくつか確かめてから受領書に署名し、そのたびに要点を志乃へ伝えた。
「承知しました。準備を進めます」
志乃が敬礼し、兵士たちは敬礼を返して店を出ていった。ベルの音が消えると、いつもの静けさが戻った。
「……三日後か」
店長が呟いた。
「思ってたより早かったね。でも列車なら、荷物もちゃんと運べそう」
「なら、決まりだな」
店長はカウンターを出て、奥の倉庫を顎で示した。
「例のやつ、詰めてある。見ていけ」
―――
倉庫の作業台には、蓋の開いた木箱が二つ並んでいた。
一つにはアブソル用の予備弾薬と交換部品、もう一つには革帯や留め具、輸送用の保護布、手入れの道具。先日の書き付けに印を付けた品が、もう箱の中で揃っていた。
「軍の輸送に載せる分は、担当者と申告を合わせる必要がある。どれを持っていくか、決めてくれ」
「はーい」
アブソルは自分の装備表を取り出し、箱の中身と一つずつ照らし合わせ始めた。
「向こうでも補給はあるだろうし……こっちの弾は残していく。交換部品は持っていきたいな。あと、この留め具も」
「余ったものは、こっちで預かる」
「うん。いつもどおりね」
志乃はもう一つの箱に手を入れ、革帯と留め具を一つずつ指先で確かめていった。どれも普段の装備に合う幅と形で、傷みのあるものは一つもない。
「……ありがとうございます。助かります」
「礼なら、帰ってきてからにしてくれ」
店長は笑った。
「それより、忘れ物のないようにな。……特に、アブソル」
「なんで私だけ!」
店長の笑い声が倉庫に響いた。志乃の口元も、かすかに緩んでいた。
## Scene 05 ―― 支度
翌日、屋上の整備台には、二機のストライカーユニットが並んでいた。試製秋水と、アブソルのモスキート系の機体。
アブソルは秋水の接続部に工具を当て、もう一度締まり具合を確かめた。
「……よし。こっちは大丈夫」
「終わった?」
少し離れたところから、志乃が尋ねる。
「一通りはね。あとは輸送中に動かないように固定して、向こうでまた点検」
「手伝えることは?」
「箱、運んでもらっていい?」
「うん」
それきり、二人はほとんど口を利かなかった。アブソルが工具を片づけ、志乃が保護材を運ぶ。どこに何を置けばいいのか、言わなくても互いの手が知っていた。
「それにしても、列車と船でよかったねえ」
固定具を締めながら、アブソルが言った。
「そう?」
「そうだよ。私の工具だけでも結構あるし、秋水を長い距離飛ばしたら、せっかく済ませた点検を最初からやり直したくなるもん。それに、移動中はちょっと休めるしね」
「……アブソルは、移動中も休まなそうだけど」
「えっ、なんで?」
「部品の図面、持っていくんでしょう?」
アブソルの手が止まった。それから、吹き出した。
「……ばれた?」
―――
夕方、志乃の部屋には、小さな旅行鞄が一つ置かれていた。
着替えを畳み、使い慣れた日用品を収める。本棚から点字の本を一冊だけ選んで、鞄の端に差し入れた。二振りの黒刀と、袖の内側に収める機構は、もう点検を終えている。
最後に、机の上の古い拳銃を手に取った。
今ではあまり見かけない型の銃だった。指先で金属の表面をなぞっていくと、小さな刻印に行き当たる。名前だった。自分のものでも、アブソルのものでもない名前。
その場所に、志乃はほんの一瞬だけ指を留めた。
それから、いつものように弾倉と作動を確かめ、銃をホルスターへ収めた。
出撃するときには、必ず携える。けれど、戦場で抜いたことは一度もない。それでも、置いていくという選択肢は、志乃にはなかった。
―――
向かいのアブソルの部屋では、作業台がまだ片づいていなかった。
「……これは持っていく。こっちは置いてく……」
銃架の前で、アブソルは腕を組んで唸っていた。工具箱が二つ。交換部品の包みは、もういくつも積み上がっている。持っていくつもりだった銃を一挺、名残惜しそうに棚へ戻した。
「……さすがに全部は無理だよね」
扉が叩かれた。
「アブソル、入ってもいい?」
「あ、シノ! いいよ!」
扉を開けた志乃は、足元に置かれた箱の手前で一歩横へずれた。作業台の前まで来て、足を止める。
「……準備は?」
「もう少しで終わるよ」
「そっか」
志乃は、作業台の上と床に積まれた包みの方へ顔を向けた。
「……ブリタニアに来たときより、荷物が多くない?」
「え」
アブソルが箱を見下ろした。四年前、この港町に降りたとき、二人の荷物は鞄一つずつだった。
「……そりゃ、四年もいたら増えるよ!」
「そうだね」
志乃の口元が、わずかに緩んだ。アブソルもつられて笑った。
## Scene 06 ―― 出発前夜
出発の前の晩、バーの奥のテーブルには、湯気の立つスープ皿が並んだ。
具は、刻んだ玉ねぎと芋と、少しの塩漬け肉。特別な料理ではない。けれど、二人が任務で町を離れる前の晩には、女将は決まってこのスープを作った。四年前、瓦礫を片づけていた二人に、女将が最初に出してくれたものだった。
「さあ、たくさん食べてね」
「いただきます!」
「……いただきます」
アブソルがさっそく一口目を運び、志乃も静かに匙を取った。
「二人とも、明日は早いんでしょう? ちゃんと食べて、ちゃんと休むのよ」
「特にアブソル。寝坊はするなよ」
向かいの席から、店長が口を挟んだ。
「しないってば!」
「そう言いながら、いつもぎりぎりまで工具をいじってるだろうが。……シノ、本当か?」
志乃は少し考えた。
「……荷物は、まとめていたようです」
「ほら!」
「ただ、机の上には、まだ図面がありました」
「シノ!」
店長が笑い、女将もつられて笑った。
食卓では、いつもの話が続いた。女将は市場で聞いた噂や、今日の客の話をする。アブソルは新しく見つけた部品の話をして、店長にまた笑われる。明日のことを、誰も口に出さなかった。志乃はそれを聞きながら、スープを少しずつ口へ運んだ。
「……シノちゃん」
「はい」
「向こうでも、ご飯はちゃんと食べるのよ」
「分かっています」
「アブソルちゃんも、シノちゃんをお願いね」
「もちろん!」
志乃は匙を置いて、少し考えてから言った。
「私も、アブソルのことは見ておきます」
「それがいいわね」
「えー、私そんなに心配されるようなことしてる?」
「どうだろうな」
店長の笑い声が、灯りの下に響いた。
―――
夜の屋上には、港からの風が吹いていた。
二機のストライカーは、もう輸送のために運び出されている。いつも整備台が置かれていた場所は、ぽっかりと空いていた。志乃は、その空いた場所の脇に立っていた。
遠くで汽笛が鳴る。石畳を家路につく足音。酒場から漏れる笑い声。
背後で扉が開いた。
「……やっぱりここにいた。明日早いよ、シノ」
「分かってるよ」
アブソルは笑って、隣に並んだ。しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……変わったねえ、この町」
アブソルが言った。
「最初に来た頃は、こんなに賑やかじゃなかったもん」
1941年。ブリタニア沿岸を襲ったネウロイへの対処命令を受けて、二人はこの港町へ降りた。
港には被弾した船が傾いたまま残り、岸壁の一部は崩れていた。建物の壁が倒れ、通りには木材と石が散らばっていた。避難を急ぐ人々の声。負傷者を運ぶ足音。救いを求める呼び声。二人は他の部隊と共に港へ迫るネウロイを迎え撃ち、人々が逃げるための時間を稼いだ。
「戦いが終わって、最初にこの通りを歩いたときのこと、覚えてる?」
「覚えているよ」
志乃の中には、当時の町の形が残っていた。崩れた石壁。瓦礫で塞がれた小道。輪郭を失った家々。どの通りを歩くにも、まず障害物を避けなければならなかった。
「あのとき、店長と会ったんだよね。お店の前の瓦礫を運んでたら、すごい勢いで飛び出してきてさ」
アブソルは声を低くして、あの日の店長を真似た。
「『軍人さんにまで片づけさせるわけにはいかん!』」
志乃が小さく笑った。
「……そうだった」
「でも結局、みんなでやったんだよね」
「うん」
壊れた建物を直すのも、倒れた柱を起こすのも、簡単なことではなかった。それでも町の人々は、ネウロイが去ったその日から動き始めた。二人も任務の合間に瓦礫を運び、使える資材を集めるのを手伝った。
「それで、女将さんがスープを作ってくれたんだ。片づけてる私たちを見つけて、『お腹空いてるでしょう』って。……今日のと、同じ味だった」
「うん。同じだったね」
「まさか、あれからずっとお世話になるなんてね」
「私も、思わなかった」
二人は、港の方へ向き直った。
「もう四年かあ。向こうの倉庫なんて、壁が丸ごとなくなってたのに」
志乃は、かつてその建物があった方へ顔を向けた。今はそこに壁があり、その先へ建物の輪郭が続いている。瓦礫で行き止まりになっていた通りには、道が通っていた。空き地だった場所にも、新しい建物が建っている。
街灯の光も、塗り直された壁の色も、志乃には分からない。けれど、失われた形が戻り、そこを人が行き交っていることは分かった。
「……前は、もっと静かだった。今は、あちこちから声がする」
遠くで子供が笑った。荷車が石畳を鳴らし、魚を運ぶ男が誰かに声を掛けている。
「……よかったね。町が元気になって」
アブソルが言った。
志乃は、少し黙っていた。
「……本当によかった」
その声は、いつもより少しだけはっきりしていた。アブソルが隣を見る。
「皆さんが、頑張ったんだね」
「……うん。私たちができたのは、ネウロイを追い払うことだけだったもんね」
「町を建て直したのは、ここに住んでいる人たちだよ」
風が吹いた。
あの頃、二人にとってこの町は、数ある戦場の一つにすぎなかった。任務が終われば、次の命令に従って別の土地へ向かう。それだけのはずだった。
けれど、店長が声を掛けてくれた。女将が温かいスープを出してくれた。何度かこの町へ戻るうちに、二階には二人の部屋ができた。アブソルの部屋には銃と工具が増え、志乃の部屋には点字の本が並んだ。そして夜には、酒場からピアノが聞こえるようになった。
「……ねえ、シノ。今度は、どれくらい向こうにいるんだろうね」
「分からないね」
「そっか」
アブソルは小さく笑った。
「でも、まあいいか。帰ってくる場所は決まってるから」
志乃は、その声の方へ顔を向けた。
「……そうだね」
階下から、ピアノの音が上がってきた。女将の弾く、軽やかな曲だった。
「あ、女将さんだ。今日も元気だねえ」
志乃は、しばらくその音を聞いていた。初めてこの町に降りた頃には、なかった音だった。
「……戻ろうか」
「うん。明日は早いしね」
二人は並んで屋上を後にした。階段を下りるにつれて、ピアノの音が近くなる。
志乃は、ふと足を緩めた。
「……行ってきます」
誰に向けたともつかない、小さな声だった。
「ん? 何か言った?」
アブソルが振り返った。
「……ううん」
志乃は小さく首を振った。
「明日も、よろしくね」
アブソルは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「こちらこそ!」
二人は、廊下を挟んだそれぞれの部屋へ戻っていった。
酒場からは、まだピアノの音が聞こえていた。
(第04話 終)