【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
夏休みの最初の日、椿が、玄関でスーツケースを開けて見せてくれた。
中身の半分は、おやつだった。
「いい、凪。今年の旅行は、南の島よ。一週間、知っている人が、だあれもいないの」
「……ん」
「つまり、一週間、食べ放題ってこと。朝はビュッフェ、昼もビュッフェ、夜は……夜も、たぶんビュッフェ」
椿の目は、きらきらしていた。学校のサロンで、ケーキを一つしか食べない人の目ではなかった。
僕も、うれしかった。ビュッフェは、好きだ。
「……のこりの、はんぶんは」
「服よ。いらないけど」
――――――――――
空港の出発ロビーで、だれかが、こちらに手をふっていた。
「凪くーん、椿ちゃーん」
柚葉のお母さんだった。その隣に、柚葉のお父さんと、ベビーカーに乗った樹くんと、麦わら帽子の柚葉がいた。
「……柚」
「おはようございます、凪。おじさま、おばさま、椿お姉さま」
柚葉が、ぺこりと頭を下げた。
その瞬間、椿の背筋が、しゃんと伸びた。
「まあ、柚葉ちゃん。ごきげんよう。……あの、お母様。日向さんたちも、どちらかへ?」
「あら、言ってなかったかしら。今年は、二家族で行くのよ。向こうで大きなヴィラを一つ借りたの。毎朝、みんなで一緒にごはんを食べられるわよ」
母は、大事なことを、よく言い忘れる。
椿は、にっこり笑ったまま、動かなくなった。
「……まあ。すてき」
鈴を転がすような声だった。でも、スーツケースの持ち手を握る指が、白くなっていた。
この瞬間に、椿の一週間が決まった。
おしとやかな椿お姉さまの、一週間だ。
荷物を預けるカウンターで、椿のスーツケースは、重すぎると言われた。ここで中身を減らしてください、と係の人が言った。
日向家の四人が、すぐ後ろに並んでいた。
椿は、スーツケースを、ほんの少しだけ開けた。それから、おやつを一袋ずつ取り出して、にっこり笑った。
「まあ、ちょうどよかったわ。これ、皆さまに、機内で召し上がっていただこうと思っていましたの」
おやつは、ぜんぶ、柚葉のお父さんのかばんに入った。
――――――――――
飛行機は、とても長かった。
機内食が出た。僕はすぐに食べ終わって、パンをもう一つもらった。
隣の席で、椿は、機内食のふたを上品に開けた。それから、半分だけ食べて、ナプキンで口をふいた。
「わたくし、もう、おなかいっぱい」
うそだ。椿は、去年の夏、機内食を三つ食べた。
「凪、よかったら、どうぞ」
椿は、残りを僕のほうへ差し出した。その目は、「あとで返しなさい」と言っていた。
返すのは、無理だと思う。もう食べた。
通路の向こうで、柚葉のお母さんが、ほうっとため息をついた。
「椿ちゃんは、本当にお上品ねえ。柚葉も見習わないと」
「はい、お母様」
柚葉は、椿のトレーと、僕の口のまわりを、順番に見た。それから、何も言わずに、おしぼりで僕の口をふいた。
そのさらに向こうでは、柚葉のお父さんが、椿のおやつの袋を開けていた。
「いやあ、椿ちゃん、これはおいしいねえ。どこのお店のだい」
「……お口に合って、うれしいですわ」
椿は、柚葉のお父さんの口に消えていくおやつを、着陸まで、ずっと見ていた。
――――――――――
南の島の海は、水色だった。
ヴィラは海の上に建っていて、床の一部がガラスになっていた。足の下を、魚が泳いでいた。
「……すごい」
「凪がそんなに目を開けているのを、初めて見ました」
柚葉が言った。
朝ごはんは、毎朝、近くのレストランのビュッフェだった。
最初の朝、僕は、レストランの入り口で立ち止まった。
長いテーブルが、はしからはしまで、食べ物でうまっていた。パンだけで二十種類あった。オムレツは、目の前で焼いてくれた。パイナップルとマンゴーと、名前の分からない赤い果物が、山になっていた。
ここが、天国だと思った。
僕は、お皿を二枚持って、はしから順番に取っていった。
テーブルに戻ると、椿のお皿には、ヨーグルトと、キウイが二切れだけ乗っていた。
「わたくし、朝は、あまり食べられなくて」
椿は、柚葉のお母さんに、そう言ってほほえんだ。
うそだ。家では、毎朝、ご飯を三杯食べる。
僕が席に着くと、テーブルの下で、椿の足が、僕の足をつついた。
「凪、それ食べないならちょうだい」
「……たべる」
「じゃあ、ちょうだい」
椿の口は、にっこり笑ったまま、ほとんど動いていなかった。どうやって声を出しているのか、分からない。
山盛りのお皿から、クロワッサンが一つ消えた。ベーコンが消えた。マンゴーが三切れ消えた。椿の手は、一度もテーブルの上に出てこなかった。
僕は、急いで食べた。早い者勝ちだ。
向かいでは、母が、オムレツを四つ食べていた。母は、どこでも母だ。
「凪くん、今日はいつもよりたくさん食べるのねえ。もうお皿が空っぽ」
柚葉のお母さんが、目を丸くした。
「成長期なのねえ。椿ちゃんも、お母さんくらい食べればいいのに」
「まあ、おばさまったら」
椿は、上品に笑った。テーブルの下で、僕の足を、さっきより強く踏んだ。
お皿が空っぽなのは、半分は、僕のせいではない。
二日目から、僕は、お皿を三枚持つことにした。
三枚目は、最初から、テーブルの下に回す分だ。
三日目の朝、柚葉のお母さんは、とうとう心配そうな顔になった。
「凪くん、毎朝こんなに食べて、大丈夫なの? どこか悪いんじゃ……」
父が、新聞から目を上げずに言った。
「……健康だ」
「まあ、朝霧さんがそうおっしゃるなら、安心ね」
柚葉のお母さんは、ほっとした顔になった。
父は、三枚目のお皿がどこに消えているのか、知っている。たぶん。
柚葉は、三枚目のお皿がテーブルの下に消えていくのを、毎朝、見ていた。そして毎朝、紅茶を一口飲んで、何も言わなかった。
――――――――――
昼間は、柚葉と海に入った。
水中めがねをつけて顔をつけると、水の中は、魚だらけだった。青いのと、黄色いのと、しましまのがいた。
僕は、顔を上げた。
「……おいしそう」
「見るための魚です」
柚葉も顔を上げて言った。おでこに、水中めがねのあとが、赤く残っていた。
浅いところに座って、朝ごはんのときに持ってきたロールパンを食べていると、足のまわりに、魚が集まってきた。
「凪。魚が、パンをほしがっていますよ」
「……ん」
「あげないんですか」
「……ぼくの」
魚たちは、しばらく僕の足のまわりを回っていた。それから、あきらめて、柚葉のほうへ行った。柚葉は、自分のパンを、小さくちぎってあげていた。
魚にも、どっちがやさしいか、分かるらしい。
プールサイドでは、父と、柚葉のお父さんが、並んでデッキチェアに寝ころんでいた。
柚葉のお父さんは、ずっとしゃべっていた。父は、ずっと黙っていた。
「いやあ、朝霧さんは、お休みの日まで遠くを見ていらっしゃる。病院の将来のことを、お考えなんでしょうなあ」
「……」
父は、黙って、海のほうを見ていた。
でも、僕には分かった。父が見ているのは、海ではない。海の手前に立っている、バーベキューの看板だ。今夜のメニューが書いてある。
僕も、さっきから同じところを見ていたからだ。
――――――――――
四日目の夜、椿の様子が、おかしくなった。
二家族で囲んだバーベキューで、椿は、エビを二尾と、とうもろこしを半分だけ食べた。四日間、ずっとそんな調子だった。
椿の目は、焼き網の上の大きな肉から、はなれなくなっていた。
柚葉のお父さんが、その肉を、トングでつまみ上げた。
「椿ちゃん、遠慮しないで。ほら、いちばんいいところだ」
「まあ、おじさま。わたくし、もう、本当に――」
ぐうううう、と、大きな音がした。
テーブルが、しんとした。
波の音だけがしていた。
「……あら。今の、何の音かしら」
柚葉のお母さんが、きょろきょろした。
椿は、にっこり笑ったまま、耳まで真っ赤になっていた。
「あら、椿、いまのはあなたのお――」
母が言いかけた。父が、母のお皿に、黙っていちばん大きな肉を乗せた。母は肉を食べ始めて、何を言おうとしたのか忘れた。
「……波だ」
父が言った。
みんなが、父を見た。父は、それ以上何も言わずに、肉を食べていた。
ぐうう、と、もう一度鳴った。
「……大きい波だ」
「ああ、なるほど、波ですか。さすが朝霧さん、よく聞いていらっしゃる」
柚葉のお父さんが、感心したようにうなずいた。
父は、一度も海のほうを見ていなかった。
――――――――――
その夜、のどがかわいて目が覚めた。
ヴィラの台所のほうから、かすかな光がもれていた。冷蔵庫の明かりだった。
冷蔵庫の前に、椿がしゃがんでいた。
「……ねえちゃん」
椿は、びくっとして振り向いた。それから、僕だと分かって、ほうっと息をはいた。
「凪……。なんにも、ないの」
冷蔵庫の中には、水と、樹くんの離乳食と、柚葉のお父さんのビールしか入っていなかった。
「四日よ。四日間、ヨーグルトとキウイとエビ二尾。もう、だめかもしれない」
椿は、冷蔵庫の扉につかまったまま、小さな声で言った。
僕は、少し考えた。それから、部屋に戻って、リュックを持ってきた。
リュックを開けると、ナプキンにくるんだパンが出てきた。ロールパンと、クロワッサンと、マフィンと、チョコのパン。毎朝、ビュッフェから少しずつ持って帰ってきたものだ。あとで、ゆっくり食べるつもりだった。
ぜんぶで、十一個あった。
椿は、パンの山を見て、それから、僕を見た。
「……凪。あんた、これ」
「……あとで、たべる、よう」
椿の目が、うるっとした。
「凪……。あんた、お姉ちゃんのために……」
ちがう。僕のためだった。
でも、椿があんまりうれしそうなので、黙っていた。
二人で台所の床に座って、パンを食べた。椿は、クロワッサンを二口で食べた。マフィンは、一口だった。外の椿お姉さまを知っている人が見たら、たぶん、気を失う。
「……はんぶん」
「分かってるわよ」
椿は、最後のチョコのパンを半分に割って、僕にくれた。大きいほうではなかった。
そのとき、廊下の床が、ぎい、と鳴った。
僕と椿は、パンをくわえたまま固まった。
暗がりから出てきたのは、父だった。
父は、僕たちを見た。床に散らばったナプキンを見た。それから、何も言わずにパンの山からロールパンを一つ取って、そのまま部屋に戻っていった。
僕と椿は、顔を見合わせた。
少しして、父は、もう一度出てきた。今度は、マフィンを取っていった。
やっぱり、何も言わなかった。
椿が、小さな声で言った。
「……お父様も、おなか、すいてたのかしら」
思い出した。父は、毎晩、柚葉のお父さんとお酒を飲んでいた。でも、父のおつまみは、毎晩、母がぜんぶ食べていた。
朝霧家は、みんな、それぞれに大変だった。
――――――――――
最後の夜、柚葉と二人で、ヴィラの前の桟橋に座った。
大人たちは、まだレストランでおしゃべりをしていた。樹くんは、柚葉のお母さんの腕の中で眠っていた。
空は、星でいっぱいだった。足の下で、波が、ちゃぷちゃぷ鳴っていた。
「凪」
「……ん」
「ここでは、だれも、凪を見守っていませんね」
言われてみれば、そうだった。
この島では、だれも僕を「朝霧様」と呼ばない。山盛りのお皿を持って歩いていても、だれも「なんて欲がないの」と言わない。レストランのおじさんは、僕のお皿を見て、親指を立てて笑っただけだった。
「……らく」
「凪は、ここなら、王子様でなくていいですね」
「……もとから、ちがう」
柚葉が、ふふ、と笑った。
「学校に戻ったら、また、見守られますよ」
「……ん」
「いやですか」
僕は、少し考えた。見守る会のお姉さんたちは、ときどき、お菓子をくれる。いやではない。でも、少し、めんどうくさい。
「……べつに。……柚が、いれば、いい」
柚葉が、ぴたりと動かなくなった。
星の明かりでも分かるくらい、顔が赤くなっていた。
「……それは、どういう」
「……柚が、いれば、テスト、もっててくれる。おこしてくれる。おかしも、くれる」
柚葉は、しばらく黙っていた。
それから、深い、深いため息をついた。この旅行で、いちばん深いため息だった。
「……そうですね。凪は、そういう人でした」
柚葉は、僕のほっぺたを、むにっとつまんだ。痛くはなかった。
でも、つまんだまま、なかなかはなしてくれなかった。
柚葉の指は、少しだけ熱かった。
昼間、日焼けしたのかもしれない。
――――――――――
帰りの空港で、母が、柚葉のお母さんの手を取った。
「楽しかったわあ。来年も、ご一緒しましょうね」
「ええ、ぜひ。今度は、二週間くらい」
椿の笑顔が、そのままの形で、固まった。
「……まあ。すてき」
出発の日と、同じ声だった。僕の服のすそを、椿がぎゅっとつかんでいた。指が、白かった。
飛行機に乗る前に、柚葉が、椿に小さな包みを渡した。
「椿お姉さま。うちのお店の、夏の新作です。お家に帰ったら、ゆっくり召し上がってください」
「まあ、ありがとう、柚葉ちゃん」
包みは、小さいのに、ずっしりしていた。あとで数えたら、水ようかんが十二個入っていた。
お家に帰ったら、と、柚葉は言った。
どうして、お家に帰ったら、なのだろう。
僕が柚葉を見ると、柚葉は、知らん顔で、樹くんの帽子をなおしていた。
――――――――――
家に着くと、椿は、スーツケースを玄関に置いたまま、台所に走っていった。
その夜、朝霧家の食卓には、晩ごはんが、いつもの三倍並んでいた。母が、帰りの空港から頼んでおいたらしい。母は、大事なことはよく言い忘れるけれど、ごはんのことは忘れない。
椿は、ご飯を五杯食べて、それから水ようかんを十一個食べた。
十二個目は、僕がもらった。
「凪。……パン、ありがとね」
椿は、そう言って、僕の頭をぐしゃぐしゃとなでた。外では、ぜったいにしないなで方だった。
水ようかんは、冷たくて、つるんとしていて、柚葉の家の味がした。
柚んちのは、やっぱり、ぜんぶ分かる。