【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】   作:麗華様親衛隊

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10話

 夏休みの最初の日、椿が、玄関でスーツケースを開けて見せてくれた。

 中身の半分は、おやつだった。

 

「いい、凪。今年の旅行は、南の島よ。一週間、知っている人が、だあれもいないの」

 

「……ん」

 

「つまり、一週間、食べ放題ってこと。朝はビュッフェ、昼もビュッフェ、夜は……夜も、たぶんビュッフェ」

 

 椿の目は、きらきらしていた。学校のサロンで、ケーキを一つしか食べない人の目ではなかった。

 僕も、うれしかった。ビュッフェは、好きだ。

 

「……のこりの、はんぶんは」

 

「服よ。いらないけど」

 

――――――――――

 

 空港の出発ロビーで、だれかが、こちらに手をふっていた。

 

「凪くーん、椿ちゃーん」

 

 柚葉のお母さんだった。その隣に、柚葉のお父さんと、ベビーカーに乗った樹くんと、麦わら帽子の柚葉がいた。

 

「……柚」

 

「おはようございます、凪。おじさま、おばさま、椿お姉さま」

 

 柚葉が、ぺこりと頭を下げた。

 その瞬間、椿の背筋が、しゃんと伸びた。

 

「まあ、柚葉ちゃん。ごきげんよう。……あの、お母様。日向さんたちも、どちらかへ?」

 

「あら、言ってなかったかしら。今年は、二家族で行くのよ。向こうで大きなヴィラを一つ借りたの。毎朝、みんなで一緒にごはんを食べられるわよ」

 

 母は、大事なことを、よく言い忘れる。

 椿は、にっこり笑ったまま、動かなくなった。

 

「……まあ。すてき」

 

 鈴を転がすような声だった。でも、スーツケースの持ち手を握る指が、白くなっていた。

 この瞬間に、椿の一週間が決まった。

 おしとやかな椿お姉さまの、一週間だ。

 荷物を預けるカウンターで、椿のスーツケースは、重すぎると言われた。ここで中身を減らしてください、と係の人が言った。

 日向家の四人が、すぐ後ろに並んでいた。

 椿は、スーツケースを、ほんの少しだけ開けた。それから、おやつを一袋ずつ取り出して、にっこり笑った。

 

「まあ、ちょうどよかったわ。これ、皆さまに、機内で召し上がっていただこうと思っていましたの」

 

 おやつは、ぜんぶ、柚葉のお父さんのかばんに入った。

 

――――――――――

 

 飛行機は、とても長かった。

 機内食が出た。僕はすぐに食べ終わって、パンをもう一つもらった。

 隣の席で、椿は、機内食のふたを上品に開けた。それから、半分だけ食べて、ナプキンで口をふいた。

 

「わたくし、もう、おなかいっぱい」

 

 うそだ。椿は、去年の夏、機内食を三つ食べた。

 

「凪、よかったら、どうぞ」

 

 椿は、残りを僕のほうへ差し出した。その目は、「あとで返しなさい」と言っていた。

 返すのは、無理だと思う。もう食べた。

 通路の向こうで、柚葉のお母さんが、ほうっとため息をついた。

 

「椿ちゃんは、本当にお上品ねえ。柚葉も見習わないと」

 

「はい、お母様」

 

 柚葉は、椿のトレーと、僕の口のまわりを、順番に見た。それから、何も言わずに、おしぼりで僕の口をふいた。

 そのさらに向こうでは、柚葉のお父さんが、椿のおやつの袋を開けていた。

 

「いやあ、椿ちゃん、これはおいしいねえ。どこのお店のだい」

 

「……お口に合って、うれしいですわ」

 

 椿は、柚葉のお父さんの口に消えていくおやつを、着陸まで、ずっと見ていた。

 

――――――――――

 

 南の島の海は、水色だった。

 ヴィラは海の上に建っていて、床の一部がガラスになっていた。足の下を、魚が泳いでいた。

 

「……すごい」

 

「凪がそんなに目を開けているのを、初めて見ました」

 

 柚葉が言った。

 朝ごはんは、毎朝、近くのレストランのビュッフェだった。

 最初の朝、僕は、レストランの入り口で立ち止まった。

 長いテーブルが、はしからはしまで、食べ物でうまっていた。パンだけで二十種類あった。オムレツは、目の前で焼いてくれた。パイナップルとマンゴーと、名前の分からない赤い果物が、山になっていた。

 ここが、天国だと思った。

 僕は、お皿を二枚持って、はしから順番に取っていった。

 テーブルに戻ると、椿のお皿には、ヨーグルトと、キウイが二切れだけ乗っていた。

 

「わたくし、朝は、あまり食べられなくて」

 

 椿は、柚葉のお母さんに、そう言ってほほえんだ。

 うそだ。家では、毎朝、ご飯を三杯食べる。

 僕が席に着くと、テーブルの下で、椿の足が、僕の足をつついた。

 

「凪、それ食べないならちょうだい」

 

「……たべる」

 

「じゃあ、ちょうだい」

 

 椿の口は、にっこり笑ったまま、ほとんど動いていなかった。どうやって声を出しているのか、分からない。

 山盛りのお皿から、クロワッサンが一つ消えた。ベーコンが消えた。マンゴーが三切れ消えた。椿の手は、一度もテーブルの上に出てこなかった。

 僕は、急いで食べた。早い者勝ちだ。

 向かいでは、母が、オムレツを四つ食べていた。母は、どこでも母だ。

 

「凪くん、今日はいつもよりたくさん食べるのねえ。もうお皿が空っぽ」

 

 柚葉のお母さんが、目を丸くした。

 

「成長期なのねえ。椿ちゃんも、お母さんくらい食べればいいのに」

 

「まあ、おばさまったら」

 

 椿は、上品に笑った。テーブルの下で、僕の足を、さっきより強く踏んだ。

 お皿が空っぽなのは、半分は、僕のせいではない。

 二日目から、僕は、お皿を三枚持つことにした。

 三枚目は、最初から、テーブルの下に回す分だ。

 三日目の朝、柚葉のお母さんは、とうとう心配そうな顔になった。

 

「凪くん、毎朝こんなに食べて、大丈夫なの? どこか悪いんじゃ……」

 

 父が、新聞から目を上げずに言った。

 

「……健康だ」

 

「まあ、朝霧さんがそうおっしゃるなら、安心ね」

 

 柚葉のお母さんは、ほっとした顔になった。

 父は、三枚目のお皿がどこに消えているのか、知っている。たぶん。

 柚葉は、三枚目のお皿がテーブルの下に消えていくのを、毎朝、見ていた。そして毎朝、紅茶を一口飲んで、何も言わなかった。

 

――――――――――

 

 昼間は、柚葉と海に入った。

 水中めがねをつけて顔をつけると、水の中は、魚だらけだった。青いのと、黄色いのと、しましまのがいた。

 僕は、顔を上げた。

 

「……おいしそう」

 

「見るための魚です」

 

 柚葉も顔を上げて言った。おでこに、水中めがねのあとが、赤く残っていた。

 浅いところに座って、朝ごはんのときに持ってきたロールパンを食べていると、足のまわりに、魚が集まってきた。

 

「凪。魚が、パンをほしがっていますよ」

 

「……ん」

 

「あげないんですか」

 

「……ぼくの」

 

 魚たちは、しばらく僕の足のまわりを回っていた。それから、あきらめて、柚葉のほうへ行った。柚葉は、自分のパンを、小さくちぎってあげていた。

 魚にも、どっちがやさしいか、分かるらしい。

 プールサイドでは、父と、柚葉のお父さんが、並んでデッキチェアに寝ころんでいた。

 柚葉のお父さんは、ずっとしゃべっていた。父は、ずっと黙っていた。

 

「いやあ、朝霧さんは、お休みの日まで遠くを見ていらっしゃる。病院の将来のことを、お考えなんでしょうなあ」

 

「……」

 

 父は、黙って、海のほうを見ていた。

 でも、僕には分かった。父が見ているのは、海ではない。海の手前に立っている、バーベキューの看板だ。今夜のメニューが書いてある。

 僕も、さっきから同じところを見ていたからだ。

 

――――――――――

 

 四日目の夜、椿の様子が、おかしくなった。

 二家族で囲んだバーベキューで、椿は、エビを二尾と、とうもろこしを半分だけ食べた。四日間、ずっとそんな調子だった。

 椿の目は、焼き網の上の大きな肉から、はなれなくなっていた。

 柚葉のお父さんが、その肉を、トングでつまみ上げた。

 

「椿ちゃん、遠慮しないで。ほら、いちばんいいところだ」

 

「まあ、おじさま。わたくし、もう、本当に――」

 

 ぐうううう、と、大きな音がした。

 テーブルが、しんとした。

 波の音だけがしていた。

 

「……あら。今の、何の音かしら」

 

 柚葉のお母さんが、きょろきょろした。

 椿は、にっこり笑ったまま、耳まで真っ赤になっていた。

 

「あら、椿、いまのはあなたのお――」

 

 母が言いかけた。父が、母のお皿に、黙っていちばん大きな肉を乗せた。母は肉を食べ始めて、何を言おうとしたのか忘れた。

 

「……波だ」

 

 父が言った。

 みんなが、父を見た。父は、それ以上何も言わずに、肉を食べていた。

 ぐうう、と、もう一度鳴った。

 

「……大きい波だ」

 

「ああ、なるほど、波ですか。さすが朝霧さん、よく聞いていらっしゃる」

 

 柚葉のお父さんが、感心したようにうなずいた。

 父は、一度も海のほうを見ていなかった。

 

――――――――――

 

 その夜、のどがかわいて目が覚めた。

 ヴィラの台所のほうから、かすかな光がもれていた。冷蔵庫の明かりだった。

 冷蔵庫の前に、椿がしゃがんでいた。

 

「……ねえちゃん」

 

 椿は、びくっとして振り向いた。それから、僕だと分かって、ほうっと息をはいた。

 

「凪……。なんにも、ないの」

 

 冷蔵庫の中には、水と、樹くんの離乳食と、柚葉のお父さんのビールしか入っていなかった。

 

「四日よ。四日間、ヨーグルトとキウイとエビ二尾。もう、だめかもしれない」

 

 椿は、冷蔵庫の扉につかまったまま、小さな声で言った。

 僕は、少し考えた。それから、部屋に戻って、リュックを持ってきた。

 リュックを開けると、ナプキンにくるんだパンが出てきた。ロールパンと、クロワッサンと、マフィンと、チョコのパン。毎朝、ビュッフェから少しずつ持って帰ってきたものだ。あとで、ゆっくり食べるつもりだった。

 ぜんぶで、十一個あった。

 椿は、パンの山を見て、それから、僕を見た。

 

「……凪。あんた、これ」

 

「……あとで、たべる、よう」

 

 椿の目が、うるっとした。

 

「凪……。あんた、お姉ちゃんのために……」

 

 ちがう。僕のためだった。

 でも、椿があんまりうれしそうなので、黙っていた。

 二人で台所の床に座って、パンを食べた。椿は、クロワッサンを二口で食べた。マフィンは、一口だった。外の椿お姉さまを知っている人が見たら、たぶん、気を失う。

 

「……はんぶん」

 

「分かってるわよ」

 

 椿は、最後のチョコのパンを半分に割って、僕にくれた。大きいほうではなかった。

 そのとき、廊下の床が、ぎい、と鳴った。

 僕と椿は、パンをくわえたまま固まった。

 暗がりから出てきたのは、父だった。

 父は、僕たちを見た。床に散らばったナプキンを見た。それから、何も言わずにパンの山からロールパンを一つ取って、そのまま部屋に戻っていった。

 僕と椿は、顔を見合わせた。

 少しして、父は、もう一度出てきた。今度は、マフィンを取っていった。

 やっぱり、何も言わなかった。

 椿が、小さな声で言った。

 

「……お父様も、おなか、すいてたのかしら」

 

 思い出した。父は、毎晩、柚葉のお父さんとお酒を飲んでいた。でも、父のおつまみは、毎晩、母がぜんぶ食べていた。

 朝霧家は、みんな、それぞれに大変だった。

 

――――――――――

 

 最後の夜、柚葉と二人で、ヴィラの前の桟橋に座った。

 大人たちは、まだレストランでおしゃべりをしていた。樹くんは、柚葉のお母さんの腕の中で眠っていた。

 空は、星でいっぱいだった。足の下で、波が、ちゃぷちゃぷ鳴っていた。

 

「凪」

 

「……ん」

 

「ここでは、だれも、凪を見守っていませんね」

 

 言われてみれば、そうだった。

 この島では、だれも僕を「朝霧様」と呼ばない。山盛りのお皿を持って歩いていても、だれも「なんて欲がないの」と言わない。レストランのおじさんは、僕のお皿を見て、親指を立てて笑っただけだった。

 

「……らく」

 

「凪は、ここなら、王子様でなくていいですね」

 

「……もとから、ちがう」

 

 柚葉が、ふふ、と笑った。

 

「学校に戻ったら、また、見守られますよ」

 

「……ん」

 

「いやですか」

 

 僕は、少し考えた。見守る会のお姉さんたちは、ときどき、お菓子をくれる。いやではない。でも、少し、めんどうくさい。

 

「……べつに。……柚が、いれば、いい」

 

 柚葉が、ぴたりと動かなくなった。

 星の明かりでも分かるくらい、顔が赤くなっていた。

 

「……それは、どういう」

 

「……柚が、いれば、テスト、もっててくれる。おこしてくれる。おかしも、くれる」

 

 柚葉は、しばらく黙っていた。

 それから、深い、深いため息をついた。この旅行で、いちばん深いため息だった。

 

「……そうですね。凪は、そういう人でした」

 

 柚葉は、僕のほっぺたを、むにっとつまんだ。痛くはなかった。

 でも、つまんだまま、なかなかはなしてくれなかった。

 柚葉の指は、少しだけ熱かった。

 昼間、日焼けしたのかもしれない。

 

――――――――――

 

 帰りの空港で、母が、柚葉のお母さんの手を取った。

 

「楽しかったわあ。来年も、ご一緒しましょうね」

 

「ええ、ぜひ。今度は、二週間くらい」

 

 椿の笑顔が、そのままの形で、固まった。

 

「……まあ。すてき」

 

 出発の日と、同じ声だった。僕の服のすそを、椿がぎゅっとつかんでいた。指が、白かった。

 飛行機に乗る前に、柚葉が、椿に小さな包みを渡した。

 

「椿お姉さま。うちのお店の、夏の新作です。お家に帰ったら、ゆっくり召し上がってください」

 

「まあ、ありがとう、柚葉ちゃん」

 

 包みは、小さいのに、ずっしりしていた。あとで数えたら、水ようかんが十二個入っていた。

 お家に帰ったら、と、柚葉は言った。

 どうして、お家に帰ったら、なのだろう。

 僕が柚葉を見ると、柚葉は、知らん顔で、樹くんの帽子をなおしていた。

 

――――――――――

 

 家に着くと、椿は、スーツケースを玄関に置いたまま、台所に走っていった。

 その夜、朝霧家の食卓には、晩ごはんが、いつもの三倍並んでいた。母が、帰りの空港から頼んでおいたらしい。母は、大事なことはよく言い忘れるけれど、ごはんのことは忘れない。

 椿は、ご飯を五杯食べて、それから水ようかんを十一個食べた。

 十二個目は、僕がもらった。

 

「凪。……パン、ありがとね」

 

 椿は、そう言って、僕の頭をぐしゃぐしゃとなでた。外では、ぜったいにしないなで方だった。

 水ようかんは、冷たくて、つるんとしていて、柚葉の家の味がした。

 柚んちのは、やっぱり、ぜんぶ分かる。

 

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