【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
机の上のお弁当は、三つとも、とてもおいしそうだった。
黒い漆塗りの重箱には、大きなエビの天ぷらと、つやつやの煮物と、小さな俵のおにぎりがきっちり並んでいた。銀色のランチボックスには、耳を切り落としたサンドイッチ。紫色の風呂敷の中からは、僕の頭くらいある、まんまるのおにぎりが出てきた。
カードを見ると、重箱はポニーの星野さん、ランチボックスはヘリコプターの高宮くん、まんまるのおにぎりはクルーザーの子からだった。
三人とも、僕の机のまわりで、そわそわしながらこっちを見ている。
「あさぎりくん、おなかすいてるんでしょ?」
「たべていいよ!」
「うちのシェフのおにぎり、すっごくおいしいんだから!」
「……いいの?」
三人が、こくこくとうなずいた。
いいらしい。
僕は、もう一度手を合わせた。
「……いただきます」
エビの天ぷらは、さくさくだった。サンドイッチは、ふわふわだった。まんまるのおにぎりは、中から鮭と、おかかと、梅干しと、昆布が出てきた。一つのおにぎりに、具が四つ入っていた。すごい。クルーザーの家のシェフは、すごい。
一時間目のチャイムが鳴る前に、三つとも空っぽになった。
「……ごちそうさまでした」
「ぜんぶたべた!」
「すごい!」
「あさぎりくん、すごい!」
いつの間にか、クラスのみんなが僕の机を囲んでいた。拍手している子もいる。何がすごいのかは、よく分からない。お弁当がおいしかっただけだ。
人垣の向こうから、柚葉がずんずんとやってきた。
「凪」
「……ん」
「朝ごはんを食べてきたのに、お弁当を三つも食べたのですか」
「……おいしかった」
「お腹をこわします」
「……こわれない」
「こわれます」
「……こわれたこと、ない」
柚葉は、口をぱくぱくさせて、何か言おうとして、やめた。言い返せなかったらしい。僕のお腹は、今まで一度もこわれたことがない。本当のことだ。
教室に入ってきた担任の先生は、僕の机の上に積まれた空っぽのお弁当箱を見て、しばらく動かなかった。
――――――――――
次の日、僕の机の上には、お弁当が五つ並んでいた。昨日の三人に、新しく二人が加わったらしい。
「うちのシェフのほうが、おいしいもん!」
「ちがうよ、うちのシェフのほうがすごいよ! フランスで、いちばんになったんだから!」
なぜか、シェフ自慢が始まっていた。
僕は、全部食べた。どれもおいしかった。さすがに五つ目は、少しだけ時間がかかった。
柚葉は、僕の横で頭を抱えていた。
「凪のお腹は、いったいどうなっているのですか」
「……ふつう」
「ふつうではありません」
その日の帰りの会で、担任の先生が、教壇でこほんと咳払いをした。空っぽのお弁当箱を見たおうちの人から、学校に電話があったらしい。
「みなさん。おうちから、おともだちに、おべんとうを、もってきてはいけません」
「えーっ!」
教室中から、がっかりした声があがった。僕も、少しだけがっかりした。
「あさぎりくん、おなかすいちゃうよ!」
「かわいそう!」
星野さんが、泣きそうな顔で手をあげた。
「せんせい、じゃあ、あさぎりくんは、どうしたらいいんですか!」
先生は、困った顔で僕を見た。僕は、別にどうもしなくていいと思う。お腹はすいていない。少なくとも、今は。
「あ、朝霧くんは、ちゃんと朝ごはんを食べてきているから、大丈夫よ。ね、朝霧くん?」
「……ん」
「ほら、大丈夫ですって」
でも、クラスのみんなは、あんまり信じていないみたいだった。
「……じゃあ、きゅうしょくのおかずを、あげればいいんだ」
高宮くんが、ぽつりとそう言った。
みんなの目が、きらりと光った。
――――――――――
その日の夜ごはんで、お弁当の話をしたら、椿がお箸を止めた。
「なにそれ、ずるい」
「……ずるくない」
「ずるいわよ。朝からお弁当が届くなんて、夢みたいじゃない。凪、明日からお姉ちゃんの分ももらってきなさい」
「……やだ」
「五つもあるなら、一個くらいいいでしょ」
「……もう、だめになった。せんせいが」
「先生、余計なことを……」
椿は本気でくやしそうだった。お茶碗には、四杯目のご飯が盛られていた。
「あら、いいわねえ。凪ちゃん、みんなに好かれてるのね」
母はにこにこしながら、僕の焼き魚に手を伸ばしかけて、父ににらまれてやめた。父はそれから、僕のほうを見て、ひとことだけ言った。
「……よく、噛め」
「……ん」
父の言葉は、いつも短い。病院の人たちは、父のひとことを、とてもありがたがるらしい。今のは、よく噛んで食べなさい、という意味だと思う。たぶん、そのままの意味だ。
――――――――――
瑞鸞学院の給食は、シェフが作っている。
お昼になると、一年生はみんなで食堂に移動する。食堂には、白いテーブルクロスのかかった長いテーブルが並んでいて、黒いベストを着た給仕さんたちが、一人ずつにお皿を運んできてくれる。給食当番はない。テーブルマナーのお勉強も兼ねているのだそうだ。飲み物は紅茶で、レモンかミルクを選べる。
今日は、カボチャの冷たいスープと、白身魚のポワレと、色とりどりの温野菜だった。デザートには、小さなガラスの器に入ったプリンがつくらしい。
最高だ。
僕の前にお皿が置かれると、向かいの席の高宮くんが、待ってましたという顔で身を乗り出した。
「あさぎりくん、これ、あげる!」
僕のお皿に、緑色のものが乗った。
ピーマンだった。
「わたしも、あげる!」
にんじんが乗った。
「ぼくも!」
ブロッコリーが乗った。
「これも!」
セロリが乗った。
あっという間に、僕のお皿の上に、野菜の山ができた。白身魚が見えない。
みんな、にこにこしている。とても親切だ。
「凪」
隣の席から、柚葉の低い声がした。
「それは、みんなが、きらいなものを、おしつけているだけです」
「……そうなの?」
「そうです」
僕は野菜の山を見た。ピーマンも、にんじんも、ブロッコリーも、セロリも、シェフが作ったソテーなので、つやつやしていて、とてもおいしそうだ。
「……でも、おいしい」
ぱくり。
うん、おいしい。
「あさぎりくんが、ピーマンたべた!」
「にんじんも!」
「すごい! おとなだ!」
またしても拍手が起きた。担任の先生は、テーブルの端で、喜んでいいのか叱っていいのか分からない顔をしていた。給仕さんは、銀のお盆を持ったまま固まっていた。
僕は野菜の山を崩し、白身魚を掘り出し、スープを飲み、最後に、給仕さんが運んできてくれたプリンを食べた。
プリンは、甘くて、なめらかで、カラメルが少しだけほろ苦かった。今まで食べた中で、一番おいしいプリンかもしれなかった。
一瞬でなくなった。
空っぽのガラスの器を、僕はじっと見つめた。
「デザートのおかわりをご希望の方は、どうぞこちらへ」
給仕さんの声に、僕はぱっと顔を上げた。
食堂の壁ぎわの、銀色のワゴンの上に、プリンがひとつ、残っていた。
ひとつだけ。
僕は立ち上がった。お腹はいっぱいだったけれど、プリンが入る場所は別にある。そういうものだと、椿が言っていた。
ワゴンの前に着いて、プリンに手を伸ばす。
ガラスの器に、指先がふれた。
そのとき、反対側から、もうひとつの手が伸びてきた。
白くて、小さくて、とても上品な手だった。
顔を上げると、吉祥院さんが立っていた。
教室では窓際の席で、いつもたくさんの女の子に囲まれている子だ。吉祥院さんは、プリンの器のふちに指をかけたまま、にっこりと笑った。
「あら。朝霧くんも、プリン、お好きなの?」
「……ん」
「そう。わたしも、だいすきなの」
吉祥院さんは、笑っている。笑っているけれど、指はプリンから離れない。僕の指も、プリンから離れない。
ひとつのプリンを、二人で持っている。
「……」
「……」
食堂が、ざわっとした。
「れいかさまと、あさぎりくんが……!」
「プリンを、とりあってる……!」
「どっちがかつの!?」
みんなが、給食を食べるのも忘れて、こっちを見ていた。となりのクラスのテーブルにいる鏑木くんまで、頬杖をついたまま、ちらりとこっちを見た。「……なにやってんだ、あいつら」という顔をしていた。
吉祥院さんの目は、まっすぐ僕を見ている。とても強い目だ。プリンへの気持ちが強い。
僕も、吉祥院さんを見た。
負けたくない。プリンだから。
僕たちは、見つめ合った。
窓から、春のお日さまが差しこんでいる。ぽかぽかしている。お腹は、白身魚と野菜の山とプリンで、いっぱいだ。
ぽかぽか。
いっぱい。
まぶたが、重い。
……。
だめだ。今、寝てはいけない。プリンが。
プリンが……。
……。
「――凪。凪、起きてください」
ゆさゆさと肩を揺すられて、目が覚めた。
気がつくと、僕はワゴンの前に立ったまま、手をだらんと下ろしていた。プリンから、指が離れていた。
そして、食堂中が、大騒ぎになっていた。
「あさぎりくんが、れいかさまに、ゆずった!」
「プリン、ゆずってあげたんだ!」
「やさしい……!」
「おうじさまみたい……!」
女の子たちが、きゃあきゃあ言っている。男の子たちは、「かっこいい」と言っている。拍手をしている子もいる。今日はよく拍手される日だ。
ゆずった。
ゆずって、ない。
僕は、目の前の吉祥院さんを見た。
吉祥院さんは、プリンを両手で持ったまま、なんとも言えない顔をしていた。笑っているけれど、口の端がちょっとだけひくひくしている。
吉祥院さんは、僕のほうにすっと顔を寄せて、みんなには聞こえない小さな声で言った。
「……あなた、いま、寝てたわよね?」
「……ねてない」
「目、閉じてたわよ」
「……やすめてた」
「すうすう言ってたわよ」
吉祥院さんは、小さくため息をついた。柚葉みたいな、六歳とは思えないため息だった。
それから、くるりとみんなのほうを向いた。
「あの、みなさん。これは、ゆずってもらったのではなくて――」
「あさぎりくん、かっこいい!」
「おうじさまー!」
吉祥院さんの声は、拍手にかき消された。
吉祥院さんは、一度口を閉じて、もう一度開いて、それから、とてもきれいな笑顔になった。
「……ありがとう、朝霧くん。いただくわね」
わあっ、と食堂がわいた。
吉祥院さんは、席に戻って、プリンを食べた。
周りの女の子たちが、吉祥院さんを囲んでにこにこしている。
「れいかさま、よかったですね。あさぎりくんに、ゆずってもらえて」
「あさぎりくん、やさしいですね」
「……ええ。ほんとうに」
吉祥院さんは、にっこり笑ってうなずいた。笑っているのに、スプーンを持つ手に、ぎゅっと力が入っていた。
プリンは、とてもおいしそうだった。ひとさじずつ、ゆっくり、大事そうに食べていた。最後の一口を食べたとき、ほんの少しだけ幸せそうな顔をして、それから、なぜか負けたみたいな顔をした。
プリンを手に入れたのは、吉祥院さんなのに。
あれは、僕のプリンだ。
まだ僕のではなかったけれど、もう少しで僕のプリンになるはずだった、僕のプリンだ。
僕が席に戻ると、柚葉がじとっとした目で僕を見ていた。
「凪。立ったまま、ねてはいけません。二回目ですよ」
「……ねてない」
「ねていました」
向こうの席から、吉祥院さんの小さなつぶやきが聞こえた気がした。
「……やっぱり、ちょっと変な子ね」
――――――――――
次の日の夜、椿が、ものすごく変な顔をして家に帰ってきた。
「凪。あんた、吉祥院さんの妹さんに、プリンを譲ったんですって?」
「……ゆずってない」
「今日、吉祥院くんに言われたのよ。教室で、みんなの前で、にっこり笑って。『妹が、朝霧さんの弟さんにプリンを譲っていただいたそうで。ありがとうございます』って」
吉祥院さんのお兄さんは、椿と同じクラスらしい。
椿は、鞄をソファに投げ出して、ぷんぷん怒っていた。
「吉祥院くんにお礼なんか言われるの、ものすごく癪なのよ。あの人、絶対に腹の中で笑ってたわ。『朝霧さんのところの弟さんは、お優しいですね』ですって。お優しいですね、よ。何なのよ、あの人」
椿と吉祥院さんのお兄さんは、仲が悪いらしい。よく分からないけれど、椿がこんなに怒るのは、お夕飯のおかずが一品少なかったとき以来だ。
「で、あんた、本当に譲ったの?」
「……とられた」
「は?」
「……ねてるあいだに、とられた」
椿は、しばらく僕の顔を見ていた。それから、ソファにばったりと倒れて、お腹を抱えて笑いだした。
「ねて……ねてるあいだに……! あははは! なにそれ! 朝霧家の男は、どうしてみんなそうなのよ!」
父の新聞が、ほんの少しだけ揺れた。
――――――――――
僕は、プリンのことを忘れていなかった。
次の週の給食の時間も、その次の給食の時間も、プリンが出る日は、ワゴンのおかわりを見張った。けれど、あれからプリンが残ることは、一度もなかった。
帰りの車を待つあいだ、僕はぼんやりと空を見ていた。
プリン。
ひとつだけ残っていた、あのプリン。
「……凪。まだ、プリンのことを考えているのですか」
「……ん」
柚葉は、あきれたように首をふった。それから、ちょっとだけ迷うような顔をして、こう言った。
「凪。わたしたちは、プティピヴォワーヌでしょう」
「……ん」
「来週から、プティピヴォワーヌのサロンに、行けるそうです。おかあさまが、言っていました」
「……さろん」
「サロンには、お菓子が、いくらでもあるそうですよ。ケーキも、クッキーも、マカロンも。好きなだけ、食べていいそうです」
いくらでも。
好きなだけ。
その瞬間、僕の目は、たぶん生まれて初めて、ぱっちりと開いた。
柚葉が、一歩あとずさった。
「……凪の目が、そんなに開くところ、はじめて見ました」
「それから、サロンには、吉祥院さんもいらっしゃるそうですよ」
「……プリン」