【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】   作:麗華様親衛隊

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2話

 机の上のお弁当は、三つとも、とてもおいしそうだった。

 黒い漆塗りの重箱には、大きなエビの天ぷらと、つやつやの煮物と、小さな俵のおにぎりがきっちり並んでいた。銀色のランチボックスには、耳を切り落としたサンドイッチ。紫色の風呂敷の中からは、僕の頭くらいある、まんまるのおにぎりが出てきた。

 カードを見ると、重箱はポニーの星野さん、ランチボックスはヘリコプターの高宮くん、まんまるのおにぎりはクルーザーの子からだった。

 三人とも、僕の机のまわりで、そわそわしながらこっちを見ている。

 

「あさぎりくん、おなかすいてるんでしょ?」

 

「たべていいよ!」

 

「うちのシェフのおにぎり、すっごくおいしいんだから!」

 

「……いいの?」

 

 三人が、こくこくとうなずいた。

 いいらしい。

 僕は、もう一度手を合わせた。

 

「……いただきます」

 

 エビの天ぷらは、さくさくだった。サンドイッチは、ふわふわだった。まんまるのおにぎりは、中から鮭と、おかかと、梅干しと、昆布が出てきた。一つのおにぎりに、具が四つ入っていた。すごい。クルーザーの家のシェフは、すごい。

 一時間目のチャイムが鳴る前に、三つとも空っぽになった。

 

「……ごちそうさまでした」

 

「ぜんぶたべた!」

 

「すごい!」

 

「あさぎりくん、すごい!」

 

 いつの間にか、クラスのみんなが僕の机を囲んでいた。拍手している子もいる。何がすごいのかは、よく分からない。お弁当がおいしかっただけだ。

 人垣の向こうから、柚葉がずんずんとやってきた。

 

「凪」

 

「……ん」

 

「朝ごはんを食べてきたのに、お弁当を三つも食べたのですか」

 

「……おいしかった」

 

「お腹をこわします」

 

「……こわれない」

 

「こわれます」

 

「……こわれたこと、ない」

 

 柚葉は、口をぱくぱくさせて、何か言おうとして、やめた。言い返せなかったらしい。僕のお腹は、今まで一度もこわれたことがない。本当のことだ。

 教室に入ってきた担任の先生は、僕の机の上に積まれた空っぽのお弁当箱を見て、しばらく動かなかった。

 

――――――――――

 

 次の日、僕の机の上には、お弁当が五つ並んでいた。昨日の三人に、新しく二人が加わったらしい。

 

「うちのシェフのほうが、おいしいもん!」

 

「ちがうよ、うちのシェフのほうがすごいよ! フランスで、いちばんになったんだから!」

 

 なぜか、シェフ自慢が始まっていた。

 僕は、全部食べた。どれもおいしかった。さすがに五つ目は、少しだけ時間がかかった。

 柚葉は、僕の横で頭を抱えていた。

 

「凪のお腹は、いったいどうなっているのですか」

 

「……ふつう」

 

「ふつうではありません」

 

 その日の帰りの会で、担任の先生が、教壇でこほんと咳払いをした。空っぽのお弁当箱を見たおうちの人から、学校に電話があったらしい。

 

「みなさん。おうちから、おともだちに、おべんとうを、もってきてはいけません」

 

「えーっ!」

 

 教室中から、がっかりした声があがった。僕も、少しだけがっかりした。

 

「あさぎりくん、おなかすいちゃうよ!」

 

「かわいそう!」

 

 星野さんが、泣きそうな顔で手をあげた。

 

「せんせい、じゃあ、あさぎりくんは、どうしたらいいんですか!」

 

 先生は、困った顔で僕を見た。僕は、別にどうもしなくていいと思う。お腹はすいていない。少なくとも、今は。

 

「あ、朝霧くんは、ちゃんと朝ごはんを食べてきているから、大丈夫よ。ね、朝霧くん?」

 

「……ん」

 

「ほら、大丈夫ですって」

 

 でも、クラスのみんなは、あんまり信じていないみたいだった。

 

「……じゃあ、きゅうしょくのおかずを、あげればいいんだ」

 

 高宮くんが、ぽつりとそう言った。

 みんなの目が、きらりと光った。

 

――――――――――

 

 その日の夜ごはんで、お弁当の話をしたら、椿がお箸を止めた。

 

「なにそれ、ずるい」

 

「……ずるくない」

 

「ずるいわよ。朝からお弁当が届くなんて、夢みたいじゃない。凪、明日からお姉ちゃんの分ももらってきなさい」

 

「……やだ」

 

「五つもあるなら、一個くらいいいでしょ」

 

「……もう、だめになった。せんせいが」

 

「先生、余計なことを……」

 

 椿は本気でくやしそうだった。お茶碗には、四杯目のご飯が盛られていた。

 

「あら、いいわねえ。凪ちゃん、みんなに好かれてるのね」

 

 母はにこにこしながら、僕の焼き魚に手を伸ばしかけて、父ににらまれてやめた。父はそれから、僕のほうを見て、ひとことだけ言った。

 

「……よく、噛め」

 

「……ん」

 

 父の言葉は、いつも短い。病院の人たちは、父のひとことを、とてもありがたがるらしい。今のは、よく噛んで食べなさい、という意味だと思う。たぶん、そのままの意味だ。

 

――――――――――

 

 瑞鸞学院の給食は、シェフが作っている。

 お昼になると、一年生はみんなで食堂に移動する。食堂には、白いテーブルクロスのかかった長いテーブルが並んでいて、黒いベストを着た給仕さんたちが、一人ずつにお皿を運んできてくれる。給食当番はない。テーブルマナーのお勉強も兼ねているのだそうだ。飲み物は紅茶で、レモンかミルクを選べる。

 今日は、カボチャの冷たいスープと、白身魚のポワレと、色とりどりの温野菜だった。デザートには、小さなガラスの器に入ったプリンがつくらしい。

 最高だ。

 僕の前にお皿が置かれると、向かいの席の高宮くんが、待ってましたという顔で身を乗り出した。

 

「あさぎりくん、これ、あげる!」

 

 僕のお皿に、緑色のものが乗った。

 ピーマンだった。

 

「わたしも、あげる!」

 

 にんじんが乗った。

 

「ぼくも!」

 

 ブロッコリーが乗った。

 

「これも!」

 

 セロリが乗った。

 あっという間に、僕のお皿の上に、野菜の山ができた。白身魚が見えない。

 みんな、にこにこしている。とても親切だ。

 

「凪」

 

 隣の席から、柚葉の低い声がした。

 

「それは、みんなが、きらいなものを、おしつけているだけです」

 

「……そうなの?」

 

「そうです」

 

 僕は野菜の山を見た。ピーマンも、にんじんも、ブロッコリーも、セロリも、シェフが作ったソテーなので、つやつやしていて、とてもおいしそうだ。

 

「……でも、おいしい」

 

 ぱくり。

 うん、おいしい。

 

「あさぎりくんが、ピーマンたべた!」

 

「にんじんも!」

 

「すごい! おとなだ!」

 

 またしても拍手が起きた。担任の先生は、テーブルの端で、喜んでいいのか叱っていいのか分からない顔をしていた。給仕さんは、銀のお盆を持ったまま固まっていた。

 僕は野菜の山を崩し、白身魚を掘り出し、スープを飲み、最後に、給仕さんが運んできてくれたプリンを食べた。

 プリンは、甘くて、なめらかで、カラメルが少しだけほろ苦かった。今まで食べた中で、一番おいしいプリンかもしれなかった。

 一瞬でなくなった。

 空っぽのガラスの器を、僕はじっと見つめた。

 

「デザートのおかわりをご希望の方は、どうぞこちらへ」

 

 給仕さんの声に、僕はぱっと顔を上げた。

 食堂の壁ぎわの、銀色のワゴンの上に、プリンがひとつ、残っていた。

 ひとつだけ。

 僕は立ち上がった。お腹はいっぱいだったけれど、プリンが入る場所は別にある。そういうものだと、椿が言っていた。

 ワゴンの前に着いて、プリンに手を伸ばす。

 ガラスの器に、指先がふれた。

 そのとき、反対側から、もうひとつの手が伸びてきた。

 白くて、小さくて、とても上品な手だった。

 顔を上げると、吉祥院さんが立っていた。

 教室では窓際の席で、いつもたくさんの女の子に囲まれている子だ。吉祥院さんは、プリンの器のふちに指をかけたまま、にっこりと笑った。

 

「あら。朝霧くんも、プリン、お好きなの?」

 

「……ん」

 

「そう。わたしも、だいすきなの」

 

 吉祥院さんは、笑っている。笑っているけれど、指はプリンから離れない。僕の指も、プリンから離れない。

 ひとつのプリンを、二人で持っている。

 

「……」

 

「……」

 

 食堂が、ざわっとした。

 

「れいかさまと、あさぎりくんが……!」

 

「プリンを、とりあってる……!」

 

「どっちがかつの!?」

 

 みんなが、給食を食べるのも忘れて、こっちを見ていた。となりのクラスのテーブルにいる鏑木くんまで、頬杖をついたまま、ちらりとこっちを見た。「……なにやってんだ、あいつら」という顔をしていた。

 吉祥院さんの目は、まっすぐ僕を見ている。とても強い目だ。プリンへの気持ちが強い。

 僕も、吉祥院さんを見た。

 負けたくない。プリンだから。

 僕たちは、見つめ合った。

 窓から、春のお日さまが差しこんでいる。ぽかぽかしている。お腹は、白身魚と野菜の山とプリンで、いっぱいだ。

 ぽかぽか。

 いっぱい。

 まぶたが、重い。

 ……。

 だめだ。今、寝てはいけない。プリンが。

 プリンが……。

 ……。

 

「――凪。凪、起きてください」

 

 ゆさゆさと肩を揺すられて、目が覚めた。

 気がつくと、僕はワゴンの前に立ったまま、手をだらんと下ろしていた。プリンから、指が離れていた。

 そして、食堂中が、大騒ぎになっていた。

 

「あさぎりくんが、れいかさまに、ゆずった!」

 

「プリン、ゆずってあげたんだ!」

 

「やさしい……!」

 

「おうじさまみたい……!」

 

 女の子たちが、きゃあきゃあ言っている。男の子たちは、「かっこいい」と言っている。拍手をしている子もいる。今日はよく拍手される日だ。

 ゆずった。

 ゆずって、ない。

 僕は、目の前の吉祥院さんを見た。

 吉祥院さんは、プリンを両手で持ったまま、なんとも言えない顔をしていた。笑っているけれど、口の端がちょっとだけひくひくしている。

 吉祥院さんは、僕のほうにすっと顔を寄せて、みんなには聞こえない小さな声で言った。

 

「……あなた、いま、寝てたわよね?」

 

「……ねてない」

 

「目、閉じてたわよ」

 

「……やすめてた」

 

「すうすう言ってたわよ」

 

 吉祥院さんは、小さくため息をついた。柚葉みたいな、六歳とは思えないため息だった。

 それから、くるりとみんなのほうを向いた。

 

「あの、みなさん。これは、ゆずってもらったのではなくて――」

 

「あさぎりくん、かっこいい!」

 

「おうじさまー!」

 

 吉祥院さんの声は、拍手にかき消された。

 吉祥院さんは、一度口を閉じて、もう一度開いて、それから、とてもきれいな笑顔になった。

 

「……ありがとう、朝霧くん。いただくわね」

 

 わあっ、と食堂がわいた。

 吉祥院さんは、席に戻って、プリンを食べた。

 周りの女の子たちが、吉祥院さんを囲んでにこにこしている。

 

「れいかさま、よかったですね。あさぎりくんに、ゆずってもらえて」

 

「あさぎりくん、やさしいですね」

 

「……ええ。ほんとうに」

 

 吉祥院さんは、にっこり笑ってうなずいた。笑っているのに、スプーンを持つ手に、ぎゅっと力が入っていた。

 プリンは、とてもおいしそうだった。ひとさじずつ、ゆっくり、大事そうに食べていた。最後の一口を食べたとき、ほんの少しだけ幸せそうな顔をして、それから、なぜか負けたみたいな顔をした。

 プリンを手に入れたのは、吉祥院さんなのに。

 あれは、僕のプリンだ。

 まだ僕のではなかったけれど、もう少しで僕のプリンになるはずだった、僕のプリンだ。

 僕が席に戻ると、柚葉がじとっとした目で僕を見ていた。

 

「凪。立ったまま、ねてはいけません。二回目ですよ」

 

「……ねてない」

 

「ねていました」

 

 向こうの席から、吉祥院さんの小さなつぶやきが聞こえた気がした。

 

「……やっぱり、ちょっと変な子ね」

 

――――――――――

 

 次の日の夜、椿が、ものすごく変な顔をして家に帰ってきた。

 

「凪。あんた、吉祥院さんの妹さんに、プリンを譲ったんですって?」

 

「……ゆずってない」

 

「今日、吉祥院くんに言われたのよ。教室で、みんなの前で、にっこり笑って。『妹が、朝霧さんの弟さんにプリンを譲っていただいたそうで。ありがとうございます』って」

 

 吉祥院さんのお兄さんは、椿と同じクラスらしい。

 椿は、鞄をソファに投げ出して、ぷんぷん怒っていた。

 

「吉祥院くんにお礼なんか言われるの、ものすごく癪なのよ。あの人、絶対に腹の中で笑ってたわ。『朝霧さんのところの弟さんは、お優しいですね』ですって。お優しいですね、よ。何なのよ、あの人」

 

 椿と吉祥院さんのお兄さんは、仲が悪いらしい。よく分からないけれど、椿がこんなに怒るのは、お夕飯のおかずが一品少なかったとき以来だ。

 

「で、あんた、本当に譲ったの?」

 

「……とられた」

 

「は?」

 

「……ねてるあいだに、とられた」

 

 椿は、しばらく僕の顔を見ていた。それから、ソファにばったりと倒れて、お腹を抱えて笑いだした。

 

「ねて……ねてるあいだに……! あははは! なにそれ! 朝霧家の男は、どうしてみんなそうなのよ!」

 

 父の新聞が、ほんの少しだけ揺れた。

 

――――――――――

 

 僕は、プリンのことを忘れていなかった。

 次の週の給食の時間も、その次の給食の時間も、プリンが出る日は、ワゴンのおかわりを見張った。けれど、あれからプリンが残ることは、一度もなかった。

 帰りの車を待つあいだ、僕はぼんやりと空を見ていた。

 プリン。

 ひとつだけ残っていた、あのプリン。

 

「……凪。まだ、プリンのことを考えているのですか」

 

「……ん」

 

 柚葉は、あきれたように首をふった。それから、ちょっとだけ迷うような顔をして、こう言った。

 

「凪。わたしたちは、プティピヴォワーヌでしょう」

 

「……ん」

 

「来週から、プティピヴォワーヌのサロンに、行けるそうです。おかあさまが、言っていました」

 

「……さろん」

 

「サロンには、お菓子が、いくらでもあるそうですよ。ケーキも、クッキーも、マカロンも。好きなだけ、食べていいそうです」

 

 いくらでも。

 好きなだけ。

 その瞬間、僕の目は、たぶん生まれて初めて、ぱっちりと開いた。

 柚葉が、一歩あとずさった。

 

「……凪の目が、そんなに開くところ、はじめて見ました」

 

「それから、サロンには、吉祥院さんもいらっしゃるそうですよ」

 

「……プリン」

 

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