【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
その朝、僕は柚葉に起こされる前に、自分で起きた。
生まれて初めてのことだった。
窓の外はまだ少し薄暗くて、鳥が鳴いていた。早起きの世界は、思っていたより静かだった。
着替えて、顔を洗って、食堂に下りた。父が新聞から顔を上げて、僕を見た。母はトーストを持ったまま固まった。椿は、ご飯をかきこむ手を止めて、お茶碗ごとこっちを向いた。
「……凪?」
「……おはよう」
「あんた、熱でもあるの?」
「……ない」
「じゃあ、何があったのよ」
「……きょう、さろん」
椿は、しばらく黙っていた。それから、全部わかったという顔で、深くうなずいた。
「ああ……プティのサロンね。お菓子、食べ放題だものね」
「……ん」
「分かるわ。私も一年生のとき、初めてのサロンの日は、朝四時に起きたもの」
姉弟だな、と思った。
父の新聞が、ほんの少しだけ揺れた。
しばらくして、いつもの時間に柚葉が迎えに来た。もう起きている僕を見て、柚葉は玄関で立ち止まり、目をまんまるにした。
「……凪が、おきています」
「……ん」
「わたしは、まだ、一回も起こしていません」
「……ん」
「……サロンですね」
「……ん」
柚葉は、大きなため息をついた。
「凪がお菓子で起きるのなら、毎朝お菓子を持ってくればよかったです」
――――――――――
プティピヴォワーヌのサロンは、学院の奥の、特別な建物の中にあった。
大きな扉を開けると、ふかふかの絨毯が敷いてあって、天井から小さなシャンデリアがいくつも下がっていた。窓辺には白いレースのカーテン。座り心地のよさそうなソファが、あちこちに置いてある。家のリビングより広い。たぶん、家の食堂とリビングを足したよりも広い。
入り口では、黒い服を着た大人の人が、にこやかに頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。朝霧様、日向様」
コンシェルジュさん、というらしい。サロンのお世話をしてくれる人だそうだ。僕のことを「朝霧様」と呼んだ。様、がついた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
部屋のまんなかの長いテーブルの上に、お菓子が並んでいたからだ。
イチゴのショートケーキ。チョコレートケーキ。小さなタルト。色とりどりのマカロン。クッキー。シュークリーム。フルーツがたっぷり乗ったゼリー。銀色のお皿の上に、宝石みたいに、きらきらと並んでいる。
僕は、しばらく動けなかった。
「……凪。よだれが出ています」
「……でてない」
「出ています」
柚葉にハンカチで口を拭かれた。
「お好きなものを、お好きなだけどうぞ」
コンシェルジュさんが、にこにこしながらお皿を渡してくれた。
お好きなだけ。
柚葉の言っていたことは、本当だった。
――――――――――
サロンには、プティピヴォワーヌの子が、たくさんいた。
一年生は、男の子と女の子を合わせて十人くらい。それから、上の学年のお兄さんやお姉さんたち。ソファでおしゃべりしたり、本を読んだり、ゲームをしたりしている。
お皿を持ってテーブルに向かおうとしたところで、上の学年のお姉さんたちが、わっと僕のまわりに集まってきた。
「まあ! あなたが、椿お姉さまの弟さん?」
「朝霧凪くんでしょう? お名前、聞いているわ」
「目元が、椿お姉さまにそっくり……!」
椿お姉さま。
姉は、おととしまで、この初等科にいた。プティピヴォワーヌでは、みんなの憧れの「おしとやかな椿お姉さま」だったらしい。家でご飯を四杯食べるところは、誰も見たことがないのだと思う。
「凪くん、ケーキはどれがいい? 取ってきてあげる」
「このマカロン、おいしいのよ。はい、どうぞ」
「紅茶とジュース、どっちがいいかしら」
お皿の上に、次々とお菓子が乗せられていく。自分で取りに行かなくても、お菓子のほうからやってくる。
サロンは、すごいところだ。
「椿お姉さまはね、サロンでは、いつもケーキを一つだけ、とっても上品に召し上がっていたのよ」
「そうそう。小鳥みたいに、少しずつ」
朝四時に起きた人とは思えない。
たぶん、家に帰ってから、残りの分を全部食べていたのだと思う。
お姉さんたちにお礼を言って、僕は、お菓子でいっぱいのお皿を持って、窓際の、いちばん隅のソファに座った。人の多いところは、少し疲れる。それに、ここはテーブルからそんなに遠くない。おかわりに行きやすい。
まず、ショートケーキを食べた。
スポンジがふわふわで、生クリームが甘くて、イチゴが甘酸っぱい。
次に、チョコレートケーキを食べた。
次に、マカロンを三つ食べた。ピンクと、黄色と、緑。ピンクはイチゴの味で、黄色はレモンの味で、緑はピスタチオという豆の味だった。どれもおいしい。
次に、クッキーを食べて、シュークリームを食べて、タルトを食べた。
隣に座った柚葉は、コンシェルジュさんに入れてもらった紅茶を、とてもきれいな手つきで飲んでいた。背筋がぴんと伸びていて、カップを持つ指の形まで、きちんとしている。近くにいた上の学年のお姉さんたちが、「まあ、なんてお行儀のいい子」と感心していた。
その柚葉が、カップを置いて、静かに僕のお皿を見た。
「凪。それで、十個目です」
「……まだ、九こ」
「マカロンを三つ食べたので、十個目です」
数えられていた。
柚葉は、ずっと数えていたらしい。紅茶を飲みながら。
「……マカロンは、ちいさいから、ひとつ」
「三つは三つです」
僕が、おかわりを取りにいこうとして立ち上がると、テーブルの向こうから、コンシェルジュさんが、すっとやってきた。さっきまでのにこにこ顔が、少しだけ心配そうになっていた。
「朝霧様。たいへん失礼ですが……お腹のお加減は、いかがでしょうか」
「……へいき」
「さようでございますか……」
「凪は、お腹をこわしたことが、一度もないそうです」
柚葉が、真顔でつけ足した。コンシェルジュさんは、「さようでございますか……」と、もう一度言った。
――――――――――
ゼリーを取って戻ってくる途中で、部屋のまんなかのソファのところが、なんだかにぎやかなことに気がついた。
鏑木くんが、部屋のまんなかの、いちばん大きくて立派なソファに、深く座っていた。上の学年の子がいても、席をゆずるつもりはないらしい。
頬杖をついて、ときどき窓の外をつまらなそうに見ている。そのまわりには、一年生も上の学年の子も、たくさんの子が集まっている。鏑木くんは、ちっとも気にしていない。ときどき、お皿のチョコレートをひとつ、口に入れるだけだ。
退屈そうなのに、チョコレートを食べる手だけは止まらない。チョコレートが好きなら、たぶん悪い人ではない。
鏑木くんの隣には、もう一人、男の子が座っていた。黒い髪の、にこにこした男の子だ。鏑木くんに何か話しかけては、ふふ、と笑っている。
そのとき、少し離れたソファのかげから、吉祥院さんがこっそり鏑木くんのほうを見ているのに気がついた。
吉祥院さんは、なんだか少しだけ楽しそうな顔をしていた。何か面白いことを考えているみたいな顔だった。そして、窓の外から顔を戻した鏑木くんと、ぱちりと目が合った。
鏑木くんが、眉間にぎゅっとしわを寄せた。吉祥院さんは、一瞬だけ固まった。
それから、すました顔のまま、さりげなく、とてもさりげなく向きを変えて、そのままサロンから出ていってしまった。近くにいたお姉さんが、「あら?」と首をかしげていた。
(……もう、かえるのかな。お菓子、まだたくさんあるのに)
もったいない。僕だったら、絶対に帰らない。
僕はゼリーを持って、隅のソファに戻った。
――――――――――
ゼリーを食べ終わって、二個目のショートケーキに手をつけようとしたとき、目の前に、誰かが立った。
顔を上げると、さっき鏑木くんの隣にいた、にこにこした男の子だった。
「こんにちは。僕、円城秀介。君、朝霧くんだよね」
「……ん」
「ここに来てから、ずっと食べてるね」
「……ん」
円城くんは、僕の隣に積み重なったお皿を見て、ふふ、と笑った。
「雅哉がね、退屈だって言うから、面白いことを探してたんだ。そうしたら、隅っこで、ずーっとお菓子を食べてる子がいるなあって」
まさや。鏑木くんのことらしい。
面白いこと、と言われた。僕は、お菓子を食べていただけだ。
僕は、お皿の上に一つだけ残っていたマカロンを見た。ピンクの、イチゴのマカロン。さっき食べて、いちばんおいしかったやつだ。
円城くんは、何も食べていない。
お菓子がこんなにあるのに、食べていない。それは、とてももったいないことだと思う。
僕は、ピンクのマカロンをつまんで、円城くんに差し出した。
「……これ、おいしい」
円城くんは、少しだけ目をまるくした。それから、にっこり笑って、首を横にふった。
「ありがとう、朝霧くん。でも僕、甘いもの、あんまり食べないんだ」
……。
あまいものを、たべない。
僕は、マカロンを差し出したまま、固まった。
そんな人がいるなんて、知らなかった。六年生きてきて、初めて聞いた。お菓子がこんなにあるサロンで、甘いものを食べない。それは、海に来て泳がないのと同じくらい、もったいないことだと思う。
「……かわいそう」
思ったことが、そのまま口から出た。
円城くんは、一瞬きょとんとして、それから、くすくす笑いだした。
「かわいそう、かあ。初めて言われたよ」
「……ん」
「だいじょうぶ。僕は、コーヒーのほうが好きなんだ。まだ、飲ませてもらえないけど」
僕は、差し出したマカロンを、自分の口に入れた。おいしい。やっぱり、かわいそうだと思う。
円城くんは、にっこり笑った。とてもやさしそうな笑い方だった。
それから、少しだけ首をかしげて、僕の顔をのぞきこんだ。
「ねえ、朝霧くん。入学式のとき、ずっと立ってたよね」
「……ん」
「あのとき、何を考えてたの?」
僕は、少し考えた。入学式のときに考えていたこと。
「……おなか、すいてた」
円城くんは、ぱちぱちとまばたきをした。
それから、口元に手を当てて、肩をふるわせて笑った。
「そっか。……そっかあ」
「……ん」
「うん。朝霧くんって、やっぱり面白いね」
何が面白いのかは、よく分からなかった。
「秀介」
部屋のまんなかから、鏑木くんの声がした。退屈そうな顔のまま、円城くんのほうを見ている。
「じゃあね、朝霧くん。またね」
円城くんは手をふって、鏑木くんのところへ戻っていった。戻る途中で、一度だけこっちを振り返って、また、ふふ、と笑った。
柚葉が、紅茶のカップを持ったまま、じっと円城くんの背中を見ていた。
「……凪。あのひとには、気をつけたほうがいいかもしれません」
「……なんで」
「なんとなく、です」
柚葉の「なんとなく」は、だいたい当たる。でも、マカロンをおいしいと言ってくれた人なので、たぶん悪い人ではないと思う。
――――――――――
二個目のショートケーキを、お皿に乗せた。
さあ食べよう、と思ったところで、問題が起きた。
このソファが、ふかふかすぎるのだ。
家のソファより、ずっとふかふかしている。窓からは、午後のお日さまが差しこんでいる。カーテン越しのやわらかい光が、ちょうど僕の座っているところに当たっている。
お腹は、ケーキとマカロンとクッキーとシュークリームとタルトとゼリーで、いっぱいだ。
ふかふか。
ぽかぽか。
いっぱい。
これは、いけない。
僕は、二個目のショートケーキの乗ったお皿を、しっかりと両手で持った。これを食べるまでは、寝てはいけない。
イチゴが、赤くて、つやつやしている。
……。
生クリームが、白くて、ふわふわしている。
……。
ふわふわ……。
……。
ひそひそ、という声で、少しだけ目が覚めた。
まぶたが重くて、ちゃんとは開かない。うっすら開いた目の向こうに、たくさんの影が見えた。
女の子たちだった。
一年生の女の子と、上の学年のお姉さんたちが、僕の座っているソファのまわりを、ぐるりと囲んでいた。みんな、なぜか声をひそめている。
「しーっ。おきちゃう」
「ねてる……」
「ケーキ、もったまま、ねてる……」
「おさら、ぜったいにはなさないの、なんで……?」
「ねがおも、きれい……」
「まつげ、ながい……」
上の学年のお姉さんが、うっとりとため息をついた。
「入学式で、理事長先生に一礼なさった子でしょう。こんなに小さいのに、ケーキを持ったまま、姿勢を崩さずにお休みになるなんて」
「お行儀がいいのね」
「さすが、椿お姉さまの弟さん……」
姿勢を崩さなかったのは、ケーキを落としたくなかったからだ。
そう言いたかったけれど、口が動かなかった。眠い。
少し離れたところに、柚葉が立っているのが見えた。柚葉は、両手で顔をおおっていた。
「ねえ、みんな。おこしちゃ、かわいそうよ」
一年生の女の子の一人が、小さな声で言った。
「みんなで、そっと、あさぎりさまを、みまもりましょう」
あさぎり、さま。
いつから、様になったんだろう。
みまもる、ってなんだろう。
考えようとしたけれど、ソファがふかふかで、お日さまがぽかぽかだったので、僕はもう一度、目を閉じた。
お皿は、最後まで離さなかった。
――――――――――
目が覚めたのは、帰りの時間だった。
二個目のショートケーキは、お皿の上に、そのまま残っていた。誰も取らなかったらしい。家だったら、とっくに椿のお腹の中だ。
僕は、ショートケーキを食べた。
少し、ぬるくなっていた。でも、おいしかった。
帰りの車を待つあいだ、柚葉は、ずっと黙っていた。何かを言おうとしては、やめる、を三回くらいくり返していた。
「……ゆず」
「……なんですか」
「……さろん、またいく」
「知っています」
柚葉は、もう一度ため息をついた。それから、とても言いにくそうに、口を開いた。
「凪。さっき、凪が寝ているあいだに、女の子たちが、会をつくりました」
「……かい?」
「『あさぎりさまを見守る会』だそうです」
「……なにそれ」
「わたしが聞きたいです」
柚葉は、遠くを見るような目をした。六歳のする目ではなかった。
「会長は、椿お姉さまの大ファンだった、四年生のお姉さまだそうです。会員は、もう、二十人をこえたそうです。サロンにいなかった子まで、入りたいと言っているそうです」
「……にじゅう」
「プティピヴォワーヌの女の子の、ほとんどです」
「……なに、するの」
「凪を、見守るそうです」
「……みまもって、どうするの」
「見守るだけだそうです」
よく分からなかった。
でも、見守られるだけなら、別に困らない。ケーキを取られるわけではないし。
「……ふうん」
「『ふうん』ではありません」
柚葉は、なぜか少しだけ、むっとした顔をしていた。