【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】   作:麗華様親衛隊

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3話

 その朝、僕は柚葉に起こされる前に、自分で起きた。

 生まれて初めてのことだった。

 窓の外はまだ少し薄暗くて、鳥が鳴いていた。早起きの世界は、思っていたより静かだった。

 着替えて、顔を洗って、食堂に下りた。父が新聞から顔を上げて、僕を見た。母はトーストを持ったまま固まった。椿は、ご飯をかきこむ手を止めて、お茶碗ごとこっちを向いた。

 

「……凪?」

 

「……おはよう」

 

「あんた、熱でもあるの?」

 

「……ない」

 

「じゃあ、何があったのよ」

 

「……きょう、さろん」

 

 椿は、しばらく黙っていた。それから、全部わかったという顔で、深くうなずいた。

 

「ああ……プティのサロンね。お菓子、食べ放題だものね」

 

「……ん」

 

「分かるわ。私も一年生のとき、初めてのサロンの日は、朝四時に起きたもの」

 

 姉弟だな、と思った。

 父の新聞が、ほんの少しだけ揺れた。

 しばらくして、いつもの時間に柚葉が迎えに来た。もう起きている僕を見て、柚葉は玄関で立ち止まり、目をまんまるにした。

 

「……凪が、おきています」

 

「……ん」

 

「わたしは、まだ、一回も起こしていません」

 

「……ん」

 

「……サロンですね」

 

「……ん」

 

 柚葉は、大きなため息をついた。

 

「凪がお菓子で起きるのなら、毎朝お菓子を持ってくればよかったです」

 

――――――――――

 

 プティピヴォワーヌのサロンは、学院の奥の、特別な建物の中にあった。

 大きな扉を開けると、ふかふかの絨毯が敷いてあって、天井から小さなシャンデリアがいくつも下がっていた。窓辺には白いレースのカーテン。座り心地のよさそうなソファが、あちこちに置いてある。家のリビングより広い。たぶん、家の食堂とリビングを足したよりも広い。

 入り口では、黒い服を着た大人の人が、にこやかに頭を下げた。

 

「ようこそいらっしゃいました。朝霧様、日向様」

 

 コンシェルジュさん、というらしい。サロンのお世話をしてくれる人だそうだ。僕のことを「朝霧様」と呼んだ。様、がついた。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 部屋のまんなかの長いテーブルの上に、お菓子が並んでいたからだ。

 イチゴのショートケーキ。チョコレートケーキ。小さなタルト。色とりどりのマカロン。クッキー。シュークリーム。フルーツがたっぷり乗ったゼリー。銀色のお皿の上に、宝石みたいに、きらきらと並んでいる。

 僕は、しばらく動けなかった。

 

「……凪。よだれが出ています」

 

「……でてない」

 

「出ています」

 

 柚葉にハンカチで口を拭かれた。

 

「お好きなものを、お好きなだけどうぞ」

 

 コンシェルジュさんが、にこにこしながらお皿を渡してくれた。

 お好きなだけ。

 柚葉の言っていたことは、本当だった。

 

――――――――――

 

 サロンには、プティピヴォワーヌの子が、たくさんいた。

 一年生は、男の子と女の子を合わせて十人くらい。それから、上の学年のお兄さんやお姉さんたち。ソファでおしゃべりしたり、本を読んだり、ゲームをしたりしている。

 お皿を持ってテーブルに向かおうとしたところで、上の学年のお姉さんたちが、わっと僕のまわりに集まってきた。

 

「まあ! あなたが、椿お姉さまの弟さん?」

 

「朝霧凪くんでしょう? お名前、聞いているわ」

 

「目元が、椿お姉さまにそっくり……!」

 

 椿お姉さま。

 姉は、おととしまで、この初等科にいた。プティピヴォワーヌでは、みんなの憧れの「おしとやかな椿お姉さま」だったらしい。家でご飯を四杯食べるところは、誰も見たことがないのだと思う。

 

「凪くん、ケーキはどれがいい? 取ってきてあげる」

 

「このマカロン、おいしいのよ。はい、どうぞ」

 

「紅茶とジュース、どっちがいいかしら」

 

 お皿の上に、次々とお菓子が乗せられていく。自分で取りに行かなくても、お菓子のほうからやってくる。

 サロンは、すごいところだ。

 

「椿お姉さまはね、サロンでは、いつもケーキを一つだけ、とっても上品に召し上がっていたのよ」

 

「そうそう。小鳥みたいに、少しずつ」

 

 朝四時に起きた人とは思えない。

 たぶん、家に帰ってから、残りの分を全部食べていたのだと思う。

 お姉さんたちにお礼を言って、僕は、お菓子でいっぱいのお皿を持って、窓際の、いちばん隅のソファに座った。人の多いところは、少し疲れる。それに、ここはテーブルからそんなに遠くない。おかわりに行きやすい。

 まず、ショートケーキを食べた。

 スポンジがふわふわで、生クリームが甘くて、イチゴが甘酸っぱい。

 次に、チョコレートケーキを食べた。

 次に、マカロンを三つ食べた。ピンクと、黄色と、緑。ピンクはイチゴの味で、黄色はレモンの味で、緑はピスタチオという豆の味だった。どれもおいしい。

 次に、クッキーを食べて、シュークリームを食べて、タルトを食べた。

 隣に座った柚葉は、コンシェルジュさんに入れてもらった紅茶を、とてもきれいな手つきで飲んでいた。背筋がぴんと伸びていて、カップを持つ指の形まで、きちんとしている。近くにいた上の学年のお姉さんたちが、「まあ、なんてお行儀のいい子」と感心していた。

 その柚葉が、カップを置いて、静かに僕のお皿を見た。

 

「凪。それで、十個目です」

 

「……まだ、九こ」

 

「マカロンを三つ食べたので、十個目です」

 

 数えられていた。

 柚葉は、ずっと数えていたらしい。紅茶を飲みながら。

 

「……マカロンは、ちいさいから、ひとつ」

 

「三つは三つです」

 

 僕が、おかわりを取りにいこうとして立ち上がると、テーブルの向こうから、コンシェルジュさんが、すっとやってきた。さっきまでのにこにこ顔が、少しだけ心配そうになっていた。

 

「朝霧様。たいへん失礼ですが……お腹のお加減は、いかがでしょうか」

 

「……へいき」

 

「さようでございますか……」

 

「凪は、お腹をこわしたことが、一度もないそうです」

 

 柚葉が、真顔でつけ足した。コンシェルジュさんは、「さようでございますか……」と、もう一度言った。

 

――――――――――

 

 ゼリーを取って戻ってくる途中で、部屋のまんなかのソファのところが、なんだかにぎやかなことに気がついた。

 鏑木くんが、部屋のまんなかの、いちばん大きくて立派なソファに、深く座っていた。上の学年の子がいても、席をゆずるつもりはないらしい。

 頬杖をついて、ときどき窓の外をつまらなそうに見ている。そのまわりには、一年生も上の学年の子も、たくさんの子が集まっている。鏑木くんは、ちっとも気にしていない。ときどき、お皿のチョコレートをひとつ、口に入れるだけだ。

 退屈そうなのに、チョコレートを食べる手だけは止まらない。チョコレートが好きなら、たぶん悪い人ではない。

 鏑木くんの隣には、もう一人、男の子が座っていた。黒い髪の、にこにこした男の子だ。鏑木くんに何か話しかけては、ふふ、と笑っている。

 そのとき、少し離れたソファのかげから、吉祥院さんがこっそり鏑木くんのほうを見ているのに気がついた。

 吉祥院さんは、なんだか少しだけ楽しそうな顔をしていた。何か面白いことを考えているみたいな顔だった。そして、窓の外から顔を戻した鏑木くんと、ぱちりと目が合った。

 鏑木くんが、眉間にぎゅっとしわを寄せた。吉祥院さんは、一瞬だけ固まった。

 それから、すました顔のまま、さりげなく、とてもさりげなく向きを変えて、そのままサロンから出ていってしまった。近くにいたお姉さんが、「あら?」と首をかしげていた。

 

(……もう、かえるのかな。お菓子、まだたくさんあるのに)

 

 もったいない。僕だったら、絶対に帰らない。

 僕はゼリーを持って、隅のソファに戻った。

 

――――――――――

 

 ゼリーを食べ終わって、二個目のショートケーキに手をつけようとしたとき、目の前に、誰かが立った。

 顔を上げると、さっき鏑木くんの隣にいた、にこにこした男の子だった。

 

「こんにちは。僕、円城秀介。君、朝霧くんだよね」

 

「……ん」

 

「ここに来てから、ずっと食べてるね」

 

「……ん」

 

 円城くんは、僕の隣に積み重なったお皿を見て、ふふ、と笑った。

 

「雅哉がね、退屈だって言うから、面白いことを探してたんだ。そうしたら、隅っこで、ずーっとお菓子を食べてる子がいるなあって」

 

 まさや。鏑木くんのことらしい。

 面白いこと、と言われた。僕は、お菓子を食べていただけだ。

 僕は、お皿の上に一つだけ残っていたマカロンを見た。ピンクの、イチゴのマカロン。さっき食べて、いちばんおいしかったやつだ。

 円城くんは、何も食べていない。

 お菓子がこんなにあるのに、食べていない。それは、とてももったいないことだと思う。

 僕は、ピンクのマカロンをつまんで、円城くんに差し出した。

 

「……これ、おいしい」

 

 円城くんは、少しだけ目をまるくした。それから、にっこり笑って、首を横にふった。

 

「ありがとう、朝霧くん。でも僕、甘いもの、あんまり食べないんだ」

 

 ……。

 あまいものを、たべない。

 僕は、マカロンを差し出したまま、固まった。

 そんな人がいるなんて、知らなかった。六年生きてきて、初めて聞いた。お菓子がこんなにあるサロンで、甘いものを食べない。それは、海に来て泳がないのと同じくらい、もったいないことだと思う。

 

「……かわいそう」

 

 思ったことが、そのまま口から出た。

 円城くんは、一瞬きょとんとして、それから、くすくす笑いだした。

 

「かわいそう、かあ。初めて言われたよ」

 

「……ん」

 

「だいじょうぶ。僕は、コーヒーのほうが好きなんだ。まだ、飲ませてもらえないけど」

 

 僕は、差し出したマカロンを、自分の口に入れた。おいしい。やっぱり、かわいそうだと思う。

 円城くんは、にっこり笑った。とてもやさしそうな笑い方だった。

 それから、少しだけ首をかしげて、僕の顔をのぞきこんだ。

 

「ねえ、朝霧くん。入学式のとき、ずっと立ってたよね」

 

「……ん」

 

「あのとき、何を考えてたの?」

 

 僕は、少し考えた。入学式のときに考えていたこと。

 

「……おなか、すいてた」

 

 円城くんは、ぱちぱちとまばたきをした。

 それから、口元に手を当てて、肩をふるわせて笑った。

 

「そっか。……そっかあ」

 

「……ん」

 

「うん。朝霧くんって、やっぱり面白いね」

 

 何が面白いのかは、よく分からなかった。

 

「秀介」

 

 部屋のまんなかから、鏑木くんの声がした。退屈そうな顔のまま、円城くんのほうを見ている。

 

「じゃあね、朝霧くん。またね」

 

 円城くんは手をふって、鏑木くんのところへ戻っていった。戻る途中で、一度だけこっちを振り返って、また、ふふ、と笑った。

 柚葉が、紅茶のカップを持ったまま、じっと円城くんの背中を見ていた。

 

「……凪。あのひとには、気をつけたほうがいいかもしれません」

 

「……なんで」

 

「なんとなく、です」

 

 柚葉の「なんとなく」は、だいたい当たる。でも、マカロンをおいしいと言ってくれた人なので、たぶん悪い人ではないと思う。

 

――――――――――

 

 二個目のショートケーキを、お皿に乗せた。

 さあ食べよう、と思ったところで、問題が起きた。

 このソファが、ふかふかすぎるのだ。

 家のソファより、ずっとふかふかしている。窓からは、午後のお日さまが差しこんでいる。カーテン越しのやわらかい光が、ちょうど僕の座っているところに当たっている。

 お腹は、ケーキとマカロンとクッキーとシュークリームとタルトとゼリーで、いっぱいだ。

 ふかふか。

 ぽかぽか。

 いっぱい。

 これは、いけない。

 僕は、二個目のショートケーキの乗ったお皿を、しっかりと両手で持った。これを食べるまでは、寝てはいけない。

 イチゴが、赤くて、つやつやしている。

 ……。

 生クリームが、白くて、ふわふわしている。

 ……。

 ふわふわ……。

 ……。

 ひそひそ、という声で、少しだけ目が覚めた。

 まぶたが重くて、ちゃんとは開かない。うっすら開いた目の向こうに、たくさんの影が見えた。

 女の子たちだった。

 一年生の女の子と、上の学年のお姉さんたちが、僕の座っているソファのまわりを、ぐるりと囲んでいた。みんな、なぜか声をひそめている。

 

「しーっ。おきちゃう」

 

「ねてる……」

 

「ケーキ、もったまま、ねてる……」

 

「おさら、ぜったいにはなさないの、なんで……?」

 

「ねがおも、きれい……」

 

「まつげ、ながい……」

 

 上の学年のお姉さんが、うっとりとため息をついた。

 

「入学式で、理事長先生に一礼なさった子でしょう。こんなに小さいのに、ケーキを持ったまま、姿勢を崩さずにお休みになるなんて」

 

「お行儀がいいのね」

 

「さすが、椿お姉さまの弟さん……」

 

 姿勢を崩さなかったのは、ケーキを落としたくなかったからだ。

 そう言いたかったけれど、口が動かなかった。眠い。

 少し離れたところに、柚葉が立っているのが見えた。柚葉は、両手で顔をおおっていた。

 

「ねえ、みんな。おこしちゃ、かわいそうよ」

 

 一年生の女の子の一人が、小さな声で言った。

 

「みんなで、そっと、あさぎりさまを、みまもりましょう」

 

 あさぎり、さま。

 いつから、様になったんだろう。

 みまもる、ってなんだろう。

 考えようとしたけれど、ソファがふかふかで、お日さまがぽかぽかだったので、僕はもう一度、目を閉じた。

 お皿は、最後まで離さなかった。

 

――――――――――

 

 目が覚めたのは、帰りの時間だった。

 二個目のショートケーキは、お皿の上に、そのまま残っていた。誰も取らなかったらしい。家だったら、とっくに椿のお腹の中だ。

 僕は、ショートケーキを食べた。

 少し、ぬるくなっていた。でも、おいしかった。

 帰りの車を待つあいだ、柚葉は、ずっと黙っていた。何かを言おうとしては、やめる、を三回くらいくり返していた。

 

「……ゆず」

 

「……なんですか」

 

「……さろん、またいく」

 

「知っています」

 

 柚葉は、もう一度ため息をついた。それから、とても言いにくそうに、口を開いた。

 

「凪。さっき、凪が寝ているあいだに、女の子たちが、会をつくりました」

 

「……かい?」

 

「『あさぎりさまを見守る会』だそうです」

 

「……なにそれ」

 

「わたしが聞きたいです」

 

 柚葉は、遠くを見るような目をした。六歳のする目ではなかった。

 

「会長は、椿お姉さまの大ファンだった、四年生のお姉さまだそうです。会員は、もう、二十人をこえたそうです。サロンにいなかった子まで、入りたいと言っているそうです」

 

「……にじゅう」

 

「プティピヴォワーヌの女の子の、ほとんどです」

 

「……なに、するの」

 

「凪を、見守るそうです」

 

「……みまもって、どうするの」

 

「見守るだけだそうです」

 

 よく分からなかった。

 でも、見守られるだけなら、別に困らない。ケーキを取られるわけではないし。

 

「……ふうん」

 

「『ふうん』ではありません」

 

 柚葉は、なぜか少しだけ、むっとした顔をしていた。

 

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