【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
夏休みの終わりに、ピヴォワーヌのサマーパーティーがあった。
ピヴォワーヌは中等科と高等科の会で、プティピヴォワーヌはおまけらしい。それでも招待状は来るので、初等科の子も、お兄さんやお姉さんにエスコートしてもらって参加する。
僕のエスコートは、椿だった。
「いい、凪。よく聞きなさい」
出かける前、僕の蝶ネクタイを結びながら、椿は真剣な顔で言った。
「パーティーのビュッフェは、戦場よ」
「……せんじょう」
「最初に狙うのはローストビーフ。シェフがその場で切ってくれるところね。あれは時間がたつと乾くから、最初に行くの。次にエビ。エビはなくなるのが早いから。デザートは最後でいいわ。デザートは裏から補充されるから」
「……ん」
「それからね、凪。ピヴォワーヌのパーティーでは、みんなお話をするのに忙しくて、ほとんど誰も食べないの」
「……たべないの?」
「食べないの。もったいないでしょう」
「……もったいない」
「だから、私たちが食べるのよ」
椿の目は、とても真剣だった。テストの前より真剣だった。
蝶ネクタイは、少し曲がっていた。
玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは。今日は、よろしくおねがいいたします」
水色のドレスを着た柚葉が、ぺこりと頭を下げた。柚葉にはエスコートしてくれるお兄さんやお姉さんがいないので、今日は椿が、僕と柚葉の二人を連れていくことになっている。
その瞬間、椿の背筋が、しゃんと伸びた。
「まあ、柚葉ちゃん。なんて可愛らしいの。そのドレス、とってもよく似合っているわ」
さっきまでローストビーフの話をしていた口から、鈴を転がすような声が出てくる。
椿は、僕たち二人と手をつないで、上品に微笑んだ。
「さあ、参りましょうか」
椿は今日も、外ではずっとこの調子だ。
――――――――――
パーティーの会場は、大きなホテルの一階のホールだった。
天井にはシャンデリアがいくつも下がっていて、壁ぎわには大きな花がたくさん飾ってある。ドレスを着たお姉さんたちと、タキシードを着たお兄さんたちが、グラスを片手に、あちこちでおしゃべりをしている。ホールの奥には、楽団の人たちがいて、ゆったりした音楽を弾いていた。
そして、ホールの横の長いテーブルには、料理が並んでいた。
ローストビーフ。エビのカクテル。小さなキッシュ。色とりどりのサラダ。スモークサーモン。銀色の大きなお皿のスープ。奥のほうには、ケーキやフルーツが並んだデザートのテーブルもある。
でも、本当に、誰も食べていなかった。
みんな、グラスを持ってお話をしている。料理のテーブルの前には、白い帽子のシェフが一人、ローストビーフの塊の前で、さみしそうに立っているだけだった。
もったいない。
椿の言っていたことは、本当だった。
「凪」
椿が、外の顔のまま、僕の耳元でささやいた。
「行きなさい」
僕は、行った。
シェフのおじさんは、僕がお皿を差し出すと、ぱっと嬉しそうな顔になって、ローストビーフを切ってくれた。薄くて、ピンク色で、やわらかい。ソースをかけてもらって、一口食べた。
おいしい。
とても、おいしい。
「……おかわり」
シェフのおじさんは、もっと嬉しそうな顔になった。
僕はローストビーフを三回おかわりして、エビを食べて、キッシュを食べて、スープを飲んだ。ビュッフェのテーブルから、一歩も離れなかった。離れる理由がなかった。
「凪、少しは周りを見てください」
柚葉が、ジュースのグラスを持って、隣に立っていた。
「……みてる」
「お皿しか見ていません」
「……おさらの、まわりを、みてる」
「それは、お料理です」
そのとき、ドレスを着た中等科や高等科のお姉さんたちが、わっと僕のまわりに集まってきた。
「まあ! この子、椿さんの弟さんでしょう?」
「小さいタキシード、かわいい……!」
「見て、ローストビーフを一生懸命食べてるわ」
「ほっぺ、ふくらんでる……」
「リスみたい……」
頭をなでられた。ほっぺをつつかれた。誰かが、僕のお皿にエビを一つ追加してくれた。
プティのサロンでは、お姉さんたちは僕のことを「朝霧様」と呼んで、遠くから見守っていた。でも、中等科と高等科のお姉さんたちは、僕のことを、なんだか小さな動物みたいに扱った。
どっちでもいい。エビをくれるなら。
少し離れたところでは、プティピヴォワーヌの女の子たちが固まって、こっちをじっと見ていた。四年生のお姉さんが、真剣な顔で何か言っている。「見守る会」の人たちらしい。お姉さんたちに囲まれている僕を見て、なぜか、くやしそうな顔をしていた。
――――――――――
ローストビーフの四回目のおかわりをもらったころ、ホールの真ん中で、ワルツが始まった。
お兄さんとお姉さんたちが、くるくると回っている。その中に、一組だけ、小さな女の子がいた。
吉祥院さんだった。
吉祥院さんは、薄い緑色のドレスを着て、お兄さんと一緒に踊っていた。夏休みのあいだにずいぶん日焼けしたらしく、顔も腕も、こんがりしていた。でも、とても楽しそうだった。ドレスのすそがふわっと広がって、くるくる回るたびに、にこにこしていた。
あんなに楽しそうな吉祥院さんは、初めて見た。プリンを食べていたときより、楽しそうだった。
一曲が終わって、吉祥院さんはお兄さんと一緒に、はあっと息をついた。
そして、ぴたりと止まった。
吉祥院さんの視線の先を見ると、ホールの入り口のほうに、鏑木くんと円城くんが立っていた。
二人とも、夏休みはずっと地中海に行っている、とクラスの女の子たちが言っていた。地中海がどこかは知らないけれど、たぶん遠いところだ。でも、二人ともここにいた。鏑木くんは、変わったものを見るような顔で、吉祥院さんを見ていた。
吉祥院さんは、石みたいに固まっていた。
それから、首だけが、勢いよく、ぷいっと横を向いた。
それから、ひざを曲げずに、まっすぐな足のまま、かくかくと歩きはじめた。行き先は、ジュースの並んでいるテーブルだった。おもちゃの兵隊さんみたいな歩き方だった。
(……ジュース、のみたかったのかな)
踊ったあとは、のどがかわく。僕もさっき、スープを飲んだ。
「……凪。あれは、のどがかわいた歩き方ではありません」
柚葉が、小さな声で言った。
「……そうなの?」
「たぶん、ちがいます」
柚葉の「たぶん」は、だいたい当たる。
鏑木くんと円城くんは、すぐに人に囲まれて見えなくなった。円城くんが一度だけ、こっちのほうを見て、ローストビーフのお皿を持った僕に、ひらひらと手をふった。僕も、お皿を持ったまま、こくんとうなずいた。
――――――――――
「よう、貴輝」
「ああ、伊万里」
吉祥院さんのお兄さんのところに、背の高いお兄さんがやってきた。吉祥院さんは、そのお兄さんにぺこりと頭を下げると、ものすごい早歩きで、会場の外へ出ていってしまった。今日の吉祥院さんは、歩くのが速い。
椿が、僕と柚葉の手を取った。
「さあ、二人とも。ご挨拶に行きましょうね」
椿のもう片方の手には、いつの間にか、山盛りのお皿があった。ローストビーフと、エビと、スモークサーモンと、キッシュが、きれいに、でもたくさん乗っている。いつ取ってきたのか、まったく分からなかった。
椿は、そのお皿を、すっと僕の手に持たせた。
「凪、これはあなたの分よ。たくさん食べるものね」
僕の分ではない。
でも、椿が「黙っていなさい」という顔をしていたので、黙っていた。
「こんばんは、吉祥院くん」
「こんばんは、朝霧さん。そのドレス、よく似合っているね」
吉祥院さんのお兄さんは、穏やかににっこり笑った。椿も、にっこり笑った。二人とも、とてもきれいな笑顔だった。
「まあ、ありがとう。吉祥院くんがほめてくださるなんて、明日は雨かしら」
「じゃあ、帰りに傘を用意しておくよ」
「ご親切に」
「ところで、そのお皿。ずいぶん山盛りだけど、全部弟さんの分?」
吉祥院さんのお兄さんが、僕の持っている山盛りのお皿を見た。
「ええ。この子、本当によく食べるのよ」
「へえ。お姉さんに似たのかな」
「あら、どういう意味かしら」
「深い意味はないよ」
二人は、にこにこしたまま、見つめ合っていた。にこにこしているのに、なんだか空気が冷たかった。冷房が効きすぎているのかもしれない。
椿と吉祥院さんのお兄さんは、やっぱり仲が悪いらしい。
「お前ら、会うたびにそれやってるよな」
背の高いお兄さんが、楽しそうに笑った。伊万里さん、というらしい。伊万里さんは、柚葉の前にしゃがんで、胸ポケットから小さな花を一輪取り出した。
「はい、お嬢さん。今日のドレスに似合う色だ」
「……ありがとうございます」
柚葉は、ちょっとびっくりした顔で、花を受け取った。それから伊万里さんは、僕のほうを向いて、ポケットから小さな包みのキャンディーを出して、僕の手のひらに乗せた。
「で、君が椿の弟か。……ふうん」
伊万里さんは、僕と、山盛りのお皿と、にっこり笑っている椿を、順番に見た。それから、僕の耳元で、こっそり言った。
「君の姉ちゃん、面白いよな」
「……?」
何が面白いのかは、よく分からなかった。椿は、外ではあまり面白くない。家では面白い。
――――――――――
大人たちの話は長い。僕がローストビーフをもぐもぐしていると、柚葉が、僕の袖をくいっと引っぱった。
「凪」
「……ん」
「一曲、おねがいします」
柚葉は、ホールの真ん中を見ていた。ワルツが、まだ続いている。
「……いま、たべてる」
「ビュッフェは、逃げませんよ」
「……にげない?」
「にげません。それに、凪はダンスのお稽古に通っているでしょう。せっかく習っているのですから、使わないともったいないです」
もったいない。
それは、困る。
僕は、山盛りのお皿を、そっと椿の手に返した。椿は、外の顔のまま、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした。
柚葉と一緒に、ホールの真ん中へ出た。
いち、に、さん。いち、に、さん。
ダンスのお稽古は、あまり好きではない。でも、先生に何回も直されるのは、もっと面倒だ。だから、一回で覚えた。足が勝手に動く。
柚葉の手は、少しだけ汗ばんでいた。柚葉は、すごく真剣な顔で、足元を見ていた。
「……ゆず、したばっかり、みてる」
「凪がふまないか、見ているのです」
「……ふまない」
「わかっています」
くるり、と回る。シャンデリアが、きらきらしている。楽団の音楽が、ゆったりしている。
そのとき、ふわっと、いいにおいがした。
甘くて、やさしいにおい。あんこと、お砂糖と、少しだけ桜の葉っぱのにおい。
会場には、ローストビーフのにおいも、エビのにおいも、ケーキのにおいもある。でも、このにおいは、そのどれとも違った。
どこからだろう。
くるり、と回るたびに、においが近くなる。
柚葉だ。柚葉の髪から、においがする。
僕は、もっとよくかごうとして、柚葉の髪に、すっと顔を近づけた。
「……っ!」
柚葉が、ぴたっと固まった。
「な、凪……?」
「……ゆず、いいにおい」
「…………」
「……おまんじゅうの、におい」
「……きょうは、お店の新しいお菓子の味見を、ずっとお手伝いしていたのです」
柚葉の声は、とても小さかった。
ちょうどそこで、音楽が終わった。
顔を上げると、まわりのお姉さんたちが、みんなこっちを見ていた。
「まあ……」
「今、あの子……」
「踊りながら、パートナーの髪に、そっと顔を寄せて……」
「なんて、仲睦まじいの……」
「小さいのに、もう紳士ね」
遠くのほうで、見守る会の女の子たちが、なぜかハンカチをかんでいた。
柚葉の顔は、真っ赤だった。耳まで真っ赤だった。
(……あつい、のかな)
ホールは人が多い。冷房が効いていても、踊ったら暑くなる。
「……ゆず、かおが、あかい」
「凪のせいです」
「……なんで」
「なんでも、です」
なんで僕のせいなのかは、よく分からなかった。
僕は、もう一度だけ、すん、とにおいをかいだ。やっぱり、おまんじゅうのにおいがした。お腹はローストビーフでいっぱいのはずなのに、なぜか少しだけ、おまんじゅうが食べたくなった。
――――――――――
ビュッフェのテーブルに戻ると、椿は、さっきの山盛りのお皿を、すっかり空っぽにしていた。いつ食べたのか、まったく分からなかった。椿は、外の顔のまま、新しいお皿にデザートを取っているところだった。ケーキが四つ乗っていた。
椿は僕に気がつくと、上品に微笑んだ。
「あら凪、おかえりなさい。上手に踊れていたわね」
その後ろを、吉祥院さんのお兄さんが、飲み物のグラスを持って通りかかった。
吉祥院さんのお兄さんは、空っぽになったお皿と、ケーキが四つ乗ったお皿と、上品に微笑んでいる椿を、順番に見た。
それから、誰にも気づかれないくらい、ほんの少しだけ、口の端を上げて笑った。
椿は、気がついていなかった。
僕だけが、見ていた。
何がおかしかったのかは、よく分からなかった。