【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】   作:麗華様親衛隊

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6話

 二学期になって、運動会があった。

 運動会の朝、僕は柚葉に起こされる前に起きた。サロンの日の次に早かった。

 

「……凪が、また自分で起きています」

 

 迎えに来た柚葉は、玄関で目をまるくした。

 

「運動会が、そんなに楽しみなのですか」

 

「……ん」

 

「凪が運動を楽しみにするなんて、意外です」

 

「……おべんとう」

 

「……はい?」

 

「……きょう、おべんとうの日」

 

 柚葉は、しばらく僕の顔を見ていた。それから、深くため息をついた。

 

「そうでした。凪は、そういう人でした」

 

 運動会の日は、家族が見に来て、お昼にみんなでお弁当を食べる。母は張り切って、朝早くから台所に立っていた。台所からは、唐揚げと、おいなりさんと、甘く煮た黒豆のにおいがしていた。

 テーブルの上には、重箱が五段、積んであった。

 五段。

 椿は、白い体操服姿の僕を見て、外では絶対に見せない顔で、にやりと笑った。

 

「凪。お昼までに、お腹をすかせておきなさいよ」

 

「……ん」

 

「私は、もうすかせてあるわ。朝ごはん、二杯しか食べてないもの」

 

 中等科はお休みなので、椿も見に来るらしい。たぶん、目当ては僕ではなく、重箱だ。

 

――――――――――

 

 瑞鸞学院の校庭は、広かった。

 白いテントがいくつも並んでいて、その下が保護者席になっていた。テントの中には椅子とテーブルがあって、日傘を差したお母さんたちや、大きなカメラを構えたお父さんたちが座っている。運動会というより、外でお茶会をしているみたいだった。

 うちの家族は、柚葉の家族の隣のテントだった。母と柚葉のお母さんは、さっそくおしゃべりを始めていた。柚葉のお母さんの腕の中では、生まれたばかりの樹くんが、すやすやと眠っていた。

 父は、テントの隅の椅子に座って、腕を組んで、黙って校庭を見ていた。それだけで、まわりのお父さんたちが、なぜか少しずつ背筋を伸ばしていった。

 椿は、外の顔で、上品に日傘を差していた。足元には、五段の重箱が置いてあった。日傘の陰から、ときどき重箱を見ていた。

 

「凪」

 

 整列の前に、柚葉が小さな声で言った。

 

「一年生の徒競走は、午前中の最後です」

 

「……さいご」

 

「はい。徒競走が終わったら、すぐにお昼です」

 

 徒競走が終わったら、すぐにお弁当。

 僕は、校庭の向こうの白いテントを見た。あそこに、五段の重箱がある。

 そのとき、僕の中で、何かが決まった。

 

――――――――――

 

 一年生の最初の競技は、玉入れだった。

 笛が鳴ると、みんなが一斉に、校庭に転がった赤と白の玉を拾って、高いところのかごに向かって、ぽんぽん投げはじめた。

 僕は、足元の赤い玉を一つ拾った。

 お手玉みたいで、少しだけ紅白まんじゅうに似ていた。お腹が鳴った。

 投げて入らなかったら、もう一回拾って、もう一回投げなければいけない。それは面倒だ。だから、一回で入れることにした。

 かごをよく見て、ゆっくり投げた。

 入った。

 もう一つ拾って、よく見て、ゆっくり投げた。

 入った。

 まわりの子たちは、十個投げて二個入る速さで、どんどん投げている。僕は、一個投げて一個入る速さで、ゆっくり投げた。終わりの笛が鳴るまでに、僕は五個投げて、五個入れた。

 僕たちの組は、負けた。

 隣の組は、圧勝だった。鏑木くんと円城くんのいる組だった。かごの中は、玉でぎゅうぎゅうになっていた。

 

「凪。玉入れは、速さの勝負です」

 

 柚葉が、後ろからぼそっと言った。

 

「……はずさなかった」

 

「はずさなくても、負けました」

 

 でも、近くの子たちは、なぜか感心していた。

 

「あさぎりくん、ひとつも、はずさなかった……」

 

「いっこずつ、ていねいに……」

 

 保護者席のほうからも、「一球入魂ね」「なんて落ち着いていらっしゃるの」という声が聞こえた。

 組は負けたのに、褒められた。瑞鸞の運動会は、ふしぎだ。

 次は、一年生のダンスだった。練習で何回も先生に直されるのが面倒だったので、一回で覚えた。だから、ちゃんと踊れた。でも、楽しくはなかったので、顔はいつも通りだった。

 

「朝霧様、表情ひとつ変えずに、完璧に踊っていらっしゃるわ」

 

「クールね……」

 

 お腹がすいていただけだ。

 

――――――――――

 

 それから、上級生の競技が続いた。僕たち一年生は、テントの横の席に座って、応援をしていた。

 応援をしながら、僕はずっと、自分のお腹の音を聞いていた。朝ごはんは、いつも通り食べた。でも、運動会の日の朝ごはんは、なぜかすぐにお腹から消える。たぶん、重箱のせいだ。

 一年生の席の前のほうでは、鏑木くんと円城くんが、上級生の女の子たちに囲まれていた。玉入れでもダンスでも、二人だけ動きが違ったらしい。「鏑木様」「円城様」と、きゃあきゃあ言われていた。

 僕は、玉入れのあいだも、ダンスのあいだも、重箱のことを考えていた。五段だった。何回思い出しても、五段だった。

 ふと振り返ると、一年生の席の少し後ろに、上の学年の女の子たちが集まっていた。みんな、手に小さなうちわを持っている。うちわには、きらきらしたシールで、文字が貼ってあった。

 あ、さ、ぎ、り、さ、ま。

 見守る会の人たちだった。真ん中で、四年生の会長のお姉さんが、真剣な顔で何か指示を出していた。

 

(……あおいで、くれるのかな)

 

 今日は、少し暑い。あおいでくれるなら、助かる。

 でも、見守る会の人たちは、うちわを胸の前でぎゅっと握りしめたまま、こっちを見ているだけだった。

 あおいではくれなかった。見守る会は、本当に見守るだけらしい。

 

――――――――――

 

 そして、いよいよ、一年生の徒競走の番がきた。

 六人ずつ並んで、順番に走る。スタートラインに並ぶと、隣のレーンに、見覚えのある顔があった。

 鏑木くんだった。

 鏑木くんは、サロンにいるときと同じ、つまらなそうな顔で、体操服の袖をまくっていた。でも、スタートラインの白い線を見る目だけは、少しだけ違った。きらきらしていた。

 鏑木くんは、走るのが好きらしい。

 僕は、走るのは別に好きではない。走ると疲れるし、お腹がすく。

 でも、今日は違う。

 このあと、すぐに、お弁当だ。

 

「位置について」

 

 僕は、まっすぐ前を見た。ゴールのテープの向こうに、白いテントが見える。テントの下で、唐揚げと、おいなりさんと、黒豆が、僕を待っている。

 

「よーい」

 

 パン、と音がした。

 僕は、走った。

 今までの人生で、一番速く走った。六年しかないけれど、その中で一番だ。

 風が、耳の横をびゅうびゅう通りすぎていく。地面を蹴るたびに、テントが近くなる。重箱が近くなる。

 隣に、誰かがいた。

 鏑木くんだった。鏑木くんも、すごく速かった。すごく必死な顔をしていた。さっきまでのつまらなそうな顔は、どこにもなかった。

 でも、僕は、鏑木くんを見ていなかった。

 僕が見ていたのは、ずっと、テントの下の重箱だけだった。

 ゴールのテープが、胸に当たった。

 鏑木くんの胸にも、同時に当たった。

 まわりから、わあっと大きな声があがった。

 でも、僕は止まらなかった。

 だって、重箱は、テープの先にある。

 僕はそのまま走り続けた。ゴールの係の先生の横を抜けて、一年生の席の前を抜けて、保護者席の白いテントに、まっすぐ飛びこんだ。

 

「あら、凪ちゃん。早いわね」

 

 母は、少しも驚かずに、重箱の蓋を開けて、唐揚げを一つ、僕の口に入れてくれた。

 おいしい。

 とても、おいしい。

 椿は、日傘の陰で、笑いをこらえていた。肩がぷるぷる震えていた。

 父は、腕を組んだまま、黙って僕を見ていた。それから、ほんの少しだけうなずいた。たぶん、「よく、噛め」という意味だと思う。

 

「朝霧くーん! ゴールは、そっちじゃありません! 着順の旗のところに、並んでくださーい!」

 

 遠くから、担任の先生が、ものすごい顔で走ってきた。

 

――――――――――

 

 先生に連れられて、着順の旗のところへ戻ると、鏑木くんが立っていた。

 係の先生たちが、何か相談をしていた。それから、一人の先生がこっちを向いて言った。

 

「今の組は、鏑木くんと朝霧くんが、同着で一位です」

 

 同着。一位が、二人。

 鏑木くんは、すごく悔しそうな顔をしていた。眉間にしわを寄せて、くちびるをぎゅっと結んで、僕を見ていた。サロンではあんなにつまらなそうだったのに、今は、ぜんぜんつまらなそうではなかった。

 

「……お前」

 

 鏑木くんが、口を開いた。

 

「ゴールしても、止まらなかったな」

 

「……ん」

 

 止まらなかった。重箱があったから。

 

「まだ、走れたってことか」

 

「……ん?」

 

「ゴールのあとも、あんなに速く走れるってことは、本気じゃなかったってことだろ」

 

 本気だった。重箱に向かって、本気だった。

 でも、それを説明するのは、長い。

 

「……おなか、すいてた」

 

「は?」

 

「……おべんとう」

 

 鏑木くんは、ぽかんとした。それから、もっと眉間にしわを寄せた。

 

「……ふざけてるのか」

 

「……ふざけてない」

 

「お前、名前は」

 

「……あさぎり、なぎ」

 

「朝霧」

 

 鏑木くんは、僕の名前を一回だけ口にして、まっすぐに僕をにらんだ。

 

「次は、勝つ」

 

「……ん。つぎ」

 

 次は、お弁当だ。

 僕がうなずくと、鏑木くんは、なぜか、ぐっとこぶしを握った。

 

「……いい度胸だ」

 

 鏑木くんは、くるりと背中を向けて、自分のクラスの席へ戻っていった。途中で、円城くんが鏑木くんの肩をぽんとたたいて、何か言っていた。円城くんは、鏑木くんの肩ごしにこっちを見て、ふふ、と笑った。

 円城くんは、たぶん、僕が重箱に向かって走っていったのを、ちゃんと見ていたのだと思う。

 

――――――――――

 

 お昼の時間になった。

 五段の重箱は、すごかった。一段目は唐揚げとおいなりさん。二段目はおにぎり。三段目は煮物と黒豆。四段目はエビフライとハンバーグ。五段目は、フルーツだった。

 僕と椿と母で、どんどん食べた。椿は、まわりから見えないように日傘を低く差して、その陰で、外の顔のまま、ものすごい速さで食べていた。

 途中で、テントの前を、吉祥院さんのお兄さんが通りかかった。妹の運動会を見に来ていたらしい。お兄さんは、椿の低すぎる日傘を見て、足を止めた。

 

「こんにちは、朝霧さん。ずいぶん低く日傘を差しているね」

 

「こんにちは、吉祥院くん。今日は、日差しが強いのよ」

 

「そうかな。もう秋だけど」

 

「秋の日差しは、あなどれないの」

 

「なるほど。気をつけるよ」

 

 お兄さんは、穏やかににっこり笑って、行ってしまった。

 日傘の陰で、椿は、おにぎりを持ったまま、しばらく固まっていた。

 

「……あの人、絶対に分かって言ってるわ」

 

 椿は、小さな声でそう言うと、おにぎりを三つ、立て続けに食べた。

 柚葉の家からは、デザートに、きれいな和菓子が届いた。紅葉の形の練り切りと、栗きんとんだった。

 

「凪、おいしいですか」

 

「……ん。いちばん、おいしい」

 

「凪は、なんでも、いちばんおいしいと言います」

 

「……これは、ほんとうに、いちばん」

 

「……そうですか」

 

 柚葉は、ちょっとだけ、うれしそうな顔をした。

 まわりのテントからは、ひそひそ声が聞こえていた。

 

「朝霧様、鏑木様と同着ですって」

 

「ゴールしたあとも、止まらずに走っていかれて……」

 

「まだまだ余力がおありだったのね」

 

「しかも、ご家族のもとへ、一番に駆けつけるなんて」

 

「なんて、ご家族思いなの……」

 

 家族ではない。重箱だ。

 少し離れたテントの下から、吉祥院さんが、こっちをじっと見ていた。吉祥院さんは、五段の重箱と、口いっぱいに栗きんとんを詰めこんでいる僕を、順番に見た。それから、小さく首をふった。

 遠くて、声は聞こえなかった。でも、口の形は、たぶん「へんなこ」だった。

 

――――――――――

 

 帰りの車を待つあいだ、柚葉が、少し心配そうな顔で言った。

 

「凪。鏑木さまは、たぶん、凪のことを『ライバル』だと思っています」

 

「……らいばる?」

 

「負けたくない相手のことです。鏑木さまは、とても負けずぎらいなのだと思います。きっと来年の運動会も、凪と勝負するつもりです」

 

「……ふうん」

 

 負けたくない相手。

 僕は、少し考えた。

 僕にも、負けたくない相手はいる。

 春の給食の、ひとつだけ残っていた、あのプリン。あのプリンを、僕の目の前で、とてもおいしそうに食べた人。

 

「……ぼくの、らいばるは、きっしょういんさん」

 

「……はい?」

 

「……プリンの」

 

 柚葉は、また深いため息をついた。柚葉のため息は、入学してから、どんどん深くなっている気がする。

 

「凪。それは、鏑木さまには、絶対に言わないでください」

 

「……なんで」

 

「なんでも、です」

 

 言わないでおこう、と思った。

 言うのは、長いから。

 

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