【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
二学期になって、運動会があった。
運動会の朝、僕は柚葉に起こされる前に起きた。サロンの日の次に早かった。
「……凪が、また自分で起きています」
迎えに来た柚葉は、玄関で目をまるくした。
「運動会が、そんなに楽しみなのですか」
「……ん」
「凪が運動を楽しみにするなんて、意外です」
「……おべんとう」
「……はい?」
「……きょう、おべんとうの日」
柚葉は、しばらく僕の顔を見ていた。それから、深くため息をついた。
「そうでした。凪は、そういう人でした」
運動会の日は、家族が見に来て、お昼にみんなでお弁当を食べる。母は張り切って、朝早くから台所に立っていた。台所からは、唐揚げと、おいなりさんと、甘く煮た黒豆のにおいがしていた。
テーブルの上には、重箱が五段、積んであった。
五段。
椿は、白い体操服姿の僕を見て、外では絶対に見せない顔で、にやりと笑った。
「凪。お昼までに、お腹をすかせておきなさいよ」
「……ん」
「私は、もうすかせてあるわ。朝ごはん、二杯しか食べてないもの」
中等科はお休みなので、椿も見に来るらしい。たぶん、目当ては僕ではなく、重箱だ。
――――――――――
瑞鸞学院の校庭は、広かった。
白いテントがいくつも並んでいて、その下が保護者席になっていた。テントの中には椅子とテーブルがあって、日傘を差したお母さんたちや、大きなカメラを構えたお父さんたちが座っている。運動会というより、外でお茶会をしているみたいだった。
うちの家族は、柚葉の家族の隣のテントだった。母と柚葉のお母さんは、さっそくおしゃべりを始めていた。柚葉のお母さんの腕の中では、生まれたばかりの樹くんが、すやすやと眠っていた。
父は、テントの隅の椅子に座って、腕を組んで、黙って校庭を見ていた。それだけで、まわりのお父さんたちが、なぜか少しずつ背筋を伸ばしていった。
椿は、外の顔で、上品に日傘を差していた。足元には、五段の重箱が置いてあった。日傘の陰から、ときどき重箱を見ていた。
「凪」
整列の前に、柚葉が小さな声で言った。
「一年生の徒競走は、午前中の最後です」
「……さいご」
「はい。徒競走が終わったら、すぐにお昼です」
徒競走が終わったら、すぐにお弁当。
僕は、校庭の向こうの白いテントを見た。あそこに、五段の重箱がある。
そのとき、僕の中で、何かが決まった。
――――――――――
一年生の最初の競技は、玉入れだった。
笛が鳴ると、みんなが一斉に、校庭に転がった赤と白の玉を拾って、高いところのかごに向かって、ぽんぽん投げはじめた。
僕は、足元の赤い玉を一つ拾った。
お手玉みたいで、少しだけ紅白まんじゅうに似ていた。お腹が鳴った。
投げて入らなかったら、もう一回拾って、もう一回投げなければいけない。それは面倒だ。だから、一回で入れることにした。
かごをよく見て、ゆっくり投げた。
入った。
もう一つ拾って、よく見て、ゆっくり投げた。
入った。
まわりの子たちは、十個投げて二個入る速さで、どんどん投げている。僕は、一個投げて一個入る速さで、ゆっくり投げた。終わりの笛が鳴るまでに、僕は五個投げて、五個入れた。
僕たちの組は、負けた。
隣の組は、圧勝だった。鏑木くんと円城くんのいる組だった。かごの中は、玉でぎゅうぎゅうになっていた。
「凪。玉入れは、速さの勝負です」
柚葉が、後ろからぼそっと言った。
「……はずさなかった」
「はずさなくても、負けました」
でも、近くの子たちは、なぜか感心していた。
「あさぎりくん、ひとつも、はずさなかった……」
「いっこずつ、ていねいに……」
保護者席のほうからも、「一球入魂ね」「なんて落ち着いていらっしゃるの」という声が聞こえた。
組は負けたのに、褒められた。瑞鸞の運動会は、ふしぎだ。
次は、一年生のダンスだった。練習で何回も先生に直されるのが面倒だったので、一回で覚えた。だから、ちゃんと踊れた。でも、楽しくはなかったので、顔はいつも通りだった。
「朝霧様、表情ひとつ変えずに、完璧に踊っていらっしゃるわ」
「クールね……」
お腹がすいていただけだ。
――――――――――
それから、上級生の競技が続いた。僕たち一年生は、テントの横の席に座って、応援をしていた。
応援をしながら、僕はずっと、自分のお腹の音を聞いていた。朝ごはんは、いつも通り食べた。でも、運動会の日の朝ごはんは、なぜかすぐにお腹から消える。たぶん、重箱のせいだ。
一年生の席の前のほうでは、鏑木くんと円城くんが、上級生の女の子たちに囲まれていた。玉入れでもダンスでも、二人だけ動きが違ったらしい。「鏑木様」「円城様」と、きゃあきゃあ言われていた。
僕は、玉入れのあいだも、ダンスのあいだも、重箱のことを考えていた。五段だった。何回思い出しても、五段だった。
ふと振り返ると、一年生の席の少し後ろに、上の学年の女の子たちが集まっていた。みんな、手に小さなうちわを持っている。うちわには、きらきらしたシールで、文字が貼ってあった。
あ、さ、ぎ、り、さ、ま。
見守る会の人たちだった。真ん中で、四年生の会長のお姉さんが、真剣な顔で何か指示を出していた。
(……あおいで、くれるのかな)
今日は、少し暑い。あおいでくれるなら、助かる。
でも、見守る会の人たちは、うちわを胸の前でぎゅっと握りしめたまま、こっちを見ているだけだった。
あおいではくれなかった。見守る会は、本当に見守るだけらしい。
――――――――――
そして、いよいよ、一年生の徒競走の番がきた。
六人ずつ並んで、順番に走る。スタートラインに並ぶと、隣のレーンに、見覚えのある顔があった。
鏑木くんだった。
鏑木くんは、サロンにいるときと同じ、つまらなそうな顔で、体操服の袖をまくっていた。でも、スタートラインの白い線を見る目だけは、少しだけ違った。きらきらしていた。
鏑木くんは、走るのが好きらしい。
僕は、走るのは別に好きではない。走ると疲れるし、お腹がすく。
でも、今日は違う。
このあと、すぐに、お弁当だ。
「位置について」
僕は、まっすぐ前を見た。ゴールのテープの向こうに、白いテントが見える。テントの下で、唐揚げと、おいなりさんと、黒豆が、僕を待っている。
「よーい」
パン、と音がした。
僕は、走った。
今までの人生で、一番速く走った。六年しかないけれど、その中で一番だ。
風が、耳の横をびゅうびゅう通りすぎていく。地面を蹴るたびに、テントが近くなる。重箱が近くなる。
隣に、誰かがいた。
鏑木くんだった。鏑木くんも、すごく速かった。すごく必死な顔をしていた。さっきまでのつまらなそうな顔は、どこにもなかった。
でも、僕は、鏑木くんを見ていなかった。
僕が見ていたのは、ずっと、テントの下の重箱だけだった。
ゴールのテープが、胸に当たった。
鏑木くんの胸にも、同時に当たった。
まわりから、わあっと大きな声があがった。
でも、僕は止まらなかった。
だって、重箱は、テープの先にある。
僕はそのまま走り続けた。ゴールの係の先生の横を抜けて、一年生の席の前を抜けて、保護者席の白いテントに、まっすぐ飛びこんだ。
「あら、凪ちゃん。早いわね」
母は、少しも驚かずに、重箱の蓋を開けて、唐揚げを一つ、僕の口に入れてくれた。
おいしい。
とても、おいしい。
椿は、日傘の陰で、笑いをこらえていた。肩がぷるぷる震えていた。
父は、腕を組んだまま、黙って僕を見ていた。それから、ほんの少しだけうなずいた。たぶん、「よく、噛め」という意味だと思う。
「朝霧くーん! ゴールは、そっちじゃありません! 着順の旗のところに、並んでくださーい!」
遠くから、担任の先生が、ものすごい顔で走ってきた。
――――――――――
先生に連れられて、着順の旗のところへ戻ると、鏑木くんが立っていた。
係の先生たちが、何か相談をしていた。それから、一人の先生がこっちを向いて言った。
「今の組は、鏑木くんと朝霧くんが、同着で一位です」
同着。一位が、二人。
鏑木くんは、すごく悔しそうな顔をしていた。眉間にしわを寄せて、くちびるをぎゅっと結んで、僕を見ていた。サロンではあんなにつまらなそうだったのに、今は、ぜんぜんつまらなそうではなかった。
「……お前」
鏑木くんが、口を開いた。
「ゴールしても、止まらなかったな」
「……ん」
止まらなかった。重箱があったから。
「まだ、走れたってことか」
「……ん?」
「ゴールのあとも、あんなに速く走れるってことは、本気じゃなかったってことだろ」
本気だった。重箱に向かって、本気だった。
でも、それを説明するのは、長い。
「……おなか、すいてた」
「は?」
「……おべんとう」
鏑木くんは、ぽかんとした。それから、もっと眉間にしわを寄せた。
「……ふざけてるのか」
「……ふざけてない」
「お前、名前は」
「……あさぎり、なぎ」
「朝霧」
鏑木くんは、僕の名前を一回だけ口にして、まっすぐに僕をにらんだ。
「次は、勝つ」
「……ん。つぎ」
次は、お弁当だ。
僕がうなずくと、鏑木くんは、なぜか、ぐっとこぶしを握った。
「……いい度胸だ」
鏑木くんは、くるりと背中を向けて、自分のクラスの席へ戻っていった。途中で、円城くんが鏑木くんの肩をぽんとたたいて、何か言っていた。円城くんは、鏑木くんの肩ごしにこっちを見て、ふふ、と笑った。
円城くんは、たぶん、僕が重箱に向かって走っていったのを、ちゃんと見ていたのだと思う。
――――――――――
お昼の時間になった。
五段の重箱は、すごかった。一段目は唐揚げとおいなりさん。二段目はおにぎり。三段目は煮物と黒豆。四段目はエビフライとハンバーグ。五段目は、フルーツだった。
僕と椿と母で、どんどん食べた。椿は、まわりから見えないように日傘を低く差して、その陰で、外の顔のまま、ものすごい速さで食べていた。
途中で、テントの前を、吉祥院さんのお兄さんが通りかかった。妹の運動会を見に来ていたらしい。お兄さんは、椿の低すぎる日傘を見て、足を止めた。
「こんにちは、朝霧さん。ずいぶん低く日傘を差しているね」
「こんにちは、吉祥院くん。今日は、日差しが強いのよ」
「そうかな。もう秋だけど」
「秋の日差しは、あなどれないの」
「なるほど。気をつけるよ」
お兄さんは、穏やかににっこり笑って、行ってしまった。
日傘の陰で、椿は、おにぎりを持ったまま、しばらく固まっていた。
「……あの人、絶対に分かって言ってるわ」
椿は、小さな声でそう言うと、おにぎりを三つ、立て続けに食べた。
柚葉の家からは、デザートに、きれいな和菓子が届いた。紅葉の形の練り切りと、栗きんとんだった。
「凪、おいしいですか」
「……ん。いちばん、おいしい」
「凪は、なんでも、いちばんおいしいと言います」
「……これは、ほんとうに、いちばん」
「……そうですか」
柚葉は、ちょっとだけ、うれしそうな顔をした。
まわりのテントからは、ひそひそ声が聞こえていた。
「朝霧様、鏑木様と同着ですって」
「ゴールしたあとも、止まらずに走っていかれて……」
「まだまだ余力がおありだったのね」
「しかも、ご家族のもとへ、一番に駆けつけるなんて」
「なんて、ご家族思いなの……」
家族ではない。重箱だ。
少し離れたテントの下から、吉祥院さんが、こっちをじっと見ていた。吉祥院さんは、五段の重箱と、口いっぱいに栗きんとんを詰めこんでいる僕を、順番に見た。それから、小さく首をふった。
遠くて、声は聞こえなかった。でも、口の形は、たぶん「へんなこ」だった。
――――――――――
帰りの車を待つあいだ、柚葉が、少し心配そうな顔で言った。
「凪。鏑木さまは、たぶん、凪のことを『ライバル』だと思っています」
「……らいばる?」
「負けたくない相手のことです。鏑木さまは、とても負けずぎらいなのだと思います。きっと来年の運動会も、凪と勝負するつもりです」
「……ふうん」
負けたくない相手。
僕は、少し考えた。
僕にも、負けたくない相手はいる。
春の給食の、ひとつだけ残っていた、あのプリン。あのプリンを、僕の目の前で、とてもおいしそうに食べた人。
「……ぼくの、らいばるは、きっしょういんさん」
「……はい?」
「……プリンの」
柚葉は、また深いため息をついた。柚葉のため息は、入学してから、どんどん深くなっている気がする。
「凪。それは、鏑木さまには、絶対に言わないでください」
「……なんで」
「なんでも、です」
言わないでおこう、と思った。
言うのは、長いから。