【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
春になって、僕は二年生になった。
クラス替えは三年生のときなので、クラスは一年生のときと同じだ。柚葉も、吉祥院さんも、同じクラスのままだった。
吉祥院さんは、僕のライバルだ。去年の給食で、最後のプリンを、僕の目の前で食べた人だ。だから僕は、ときどき心の中で、こっそり「プリンの人」と呼んでいる。
そして椿は、中等科の三年生になった。
「凪。今度の土曜日、お茶会に行くわよ」
夕ごはんのとき、椿がお茶碗を置いて、真剣な顔で言った。三杯目だった。
「……おちゃかい」
「ピヴォワーヌの、春のお茶会。中等科と高等科のサロンでやるの。新しく入った一年生を歓迎する会でね、プティピヴォワーヌのきょうだいがいる人は、一緒に連れていってもいいことになってるの」
「……なんで、ぼく」
「お茶会のお菓子は、ものすごくおいしいのよ」
行く、と思った。
「でもね、凪」
椿は、声を低くした。
「お茶会のお菓子は、一人ひとつずつしか出てこないの。お皿に、ちょこんと、ひとつ」
「……ひとつ」
「ひとつよ。しかも、みんなお話に夢中で、そのひとつさえ残す人がいるの。信じられる?」
「……しんじられない」
「でしょう?」
椿は、身を乗り出した。
「だから、作戦があるの。小さい子は、おかわりをお願いしても、誰も何も言わない。むしろ、かわいいと思われる。だから凪は、どんどんおかわりをしなさい。そして、それを、こっそり私に回しなさい」
「……ぼくのは」
「あなたの分は、あなたが食べればいいわ。おかわりの、そのまたおかわりを、私に回すのよ」
椿の目は、テストの前より真剣だった。去年のサマーパーティーの前と、同じ目だった。
父の新聞が、ほんの少しだけ揺れた。
――――――――――
土曜日。
中等科と高等科のピヴォワーヌのサロンは、プティのサロンよりも、もっと広くて、もっときらきらしていた。天井が高くて、大きな窓から春の光が差しこんでいる。壁ぎわには、ランプやソファや、背の高い花瓶が並んでいた。
白いブレザーのお兄さんやお姉さんたちが、あちこちでおしゃべりをしている。紺のブレザーを着た初等科の子は、僕のほかに数人しかいなかった。
「まあ、椿さんの弟さん?」
「去年のサマーパーティーで、ローストビーフを食べていた子ね」
「大きくなったわね」
高等科のお姉さんたちに、また頭をなでられた。どこへ行っても、だいたいこうなる。
椿は、上品に微笑んでいた。
「ええ。今日は、弟に社会勉強をさせようと思って」
社会勉強ではない。作戦だ。
サロンの真ん中には、白いクロスのかかった丸いテーブルがいくつも並んでいて、その上に、ティーカップと、小さなお皿が並べられていた。
お皿の上には、本当に、ひとつずつしかお菓子が乗っていなかった。
桜の花びらを乗せた、小さなタルト。
一口で、なくなりそうだった。
僕と椿は、窓際のテーブルに座った。椿は、膝の上にナプキンを広げながら、ひそひそと言った。
「いい? まずは一つ目を食べて、すぐにおかわり。私が合図したら、テーブルの下で、そっと渡して」
「……あいず、なに」
「咳払い。こほん、って」
「……こほん」
「今やらなくていいの」
――――――――――
「やあ、朝霧さん」
僕たちのテーブルに、白いブレザーのお兄さんがやってきた。
吉祥院さんのお兄さんだった。
その後ろから、紺のブレザーの女の子が、ひょこっと顔を出した。
吉祥院さんだった。
プリンの人だ。
「あら、朝霧くん」
「……ん」
吉祥院さんは、お兄さんの腕にしっかりつかまっていた。くっついて、お茶会に来たらしい。
僕は、その顔を見て、思い出した。
「……プリン」
「その話は、もういいでしょう!」
「……プリンの、ひと」
「その呼び方も、やめてちょうだい!」
小声で、でもすごい勢いで言われた。お兄さんが、くすっと笑った。
「こんにちは、吉祥院くん。妹さんも、ようこそ」
椿が、外の顔で、上品に微笑んだ。
「こんにちは、朝霧さん。今日は、弟さんも一緒なんだね」
「ええ。社会勉強に」
「そう。熱心だね」
「吉祥院くんこそ。お茶会に出るなんて、珍しいわね。いつもは『用事がある』って、すぐに帰ってしまうのに」
「今日は用事がなかったんだ」
「まあ。明日は雪かしら」
「春だけどね」
二人は、にこにこしたまま見つめ合っていた。春なのに、テーブルのまわりだけ、少しひんやりしていた。
椿とお兄さんは、学年が上がっても、やっぱり仲が悪いらしい。
でも、吉祥院さんは、二人のやり取りなんて、まったく聞いていなかった。椿の顔を、きらきらした目で、じっと見上げていた。
「……お兄様。こちらが、朝霧くんのお姉様ですの?」
「そうだよ。朝霧椿さん。僕の同級生」
それを聞くと、吉祥院さんは、ぱっと背筋を伸ばして、とてもきれいにおじぎをした。
「はじめまして。吉祥院麗華です。いつも、兄がお世話になっております」
「まあ、ご丁寧に。朝霧椿です。こちらこそ、弟がいつもお世話になっているわね」
椿は、外の顔の、一番上品な笑顔で笑った。
それから、ほうっとため息をついた。
「……すてき」
小さな声だった。
「椿お姉様、とってもおしとやかで、すてきですわ……」
椿お姉様、と呼ばれた椿は、ほんの少しだけ、口の端が引きつった。
お兄さんが、どこかを見ながら、肩を小さく震わせていた。
二人は、同じテーブルに座ることになった。
――――――――――
お茶会が始まった。
お菓子の説明があって、紅茶が注がれて、みんなが上品にフォークを手に取った。
僕は、桜のタルトを一口で食べた。
さくさくで、甘酸っぱくて、桜のいい香りがした。一口で、なくなった。
僕は、近くにいた給仕のお姉さんを見上げた。
「……おかわり」
「まあ、かわいらしい。ええ、どうぞ」
給仕のお姉さんは、にっこり笑って、新しいタルトを持ってきてくれた。まわりのテーブルのお姉さんたちが、「かわいい」「たくさん召し上がるのね」「成長期ね」と、くすくす笑っている。
椿の言った通りだった。小さい子は、おかわりをしても、何も言われない。
二つ目も、一口で食べた。
「……おかわり」
「まあ。ええ、どうぞ」
三つ目が来た。
そのとき、隣から、小さな音がした。
「こほん」
合図だ。
僕は、三つ目のタルトのお皿を、テーブルクロスの陰で、そっと椿のほうへすべらせた。椿は、紅茶のカップを口元に運ぶふりをしながら、もう片方の手で、お皿を膝の上に受け取った。
次に椿のほうを見たときには、タルトはもう、なかった。
いつ食べたのか、まったく分からなかった。椿は、外の顔のまま、上品に紅茶を飲んでいた。
すごい。
向かいの席を見ると、吉祥院さんは、自分のタルトを、フォークでほんの少しずつ、大事そうに食べていた。それから、ちらちらと椿のほうを見ては、うっとりしていた。
「椿お姉様は、お菓子はお好きですか?」
「ええ。でも、少しだけね。たくさんは、いただけないの」
「まあ……! 小鳥みたいですわ……!」
小鳥は、タルトを一つ食べたあと、テーブルの下でもう一つ食べたりしない。
僕の膝の上には、椿に渡すための、四つ目のタルトのお皿が乗っていた。
四つ目も、五つ目も、同じようにした。
「おかわり」と言うたびに、まわりのお姉さんたちは「まあ」と笑った。「こほん」と聞こえるたびに、僕はテーブルの下でお皿を渡した。椿は、紅茶を飲みながら、上品な笑顔のまま、タルトを消した。
四回目のおかわりのとき、給仕のお姉さんが、ほんの少しだけ首をかしげた。でも、僕と目が合うと、「……成長期ね」と自分に言い聞かせるようにうなずいて、新しいタルトを置いていった。
向かいの席からは、ずっと「すてき」という小さな声が聞こえていた。
と思ったら、吉祥院さんが、ふいに僕のほうへ顔を寄せてきた。
「……朝霧くん。あなた、いくつ目?」
僕の空っぽのお皿を、じっと見ていた。
「……ふたつ」
本当だ。僕が食べたのは、二つだけだ。
「でも、おかわりは、もう四回もお願いしていたわよね?」
「……ん」
「残りの三つは、どこに行ったの?」
僕は、黙った。
椿の膝が、テーブルの下で、僕の膝をぎゅっと押した。
「……きえた」
「消えた?」
吉祥院さんは、眉をひそめて、僕のお腹をじっと見ていた。それから、とても真剣な顔で、小さくつぶやいた。
「……このお腹、どこか別の場所につながっているのかしら」
つながっていない。椿につながっている。
でも、それきり、また椿のほうを向いて、うっとりし始めた。椿お姉様が三つも食べた、とは、少しも思っていないみたいだった。
お兄さんは、ずっと、静かに紅茶を飲んでいた。
――――――――――
六つ目のタルトを渡したあとだった。
「朝霧さん」
お兄さんが、ふいに、椿の名前を呼んだ。
「なにかしら、吉祥院くん」
椿は、にっこり笑った。
お兄さんは、何も言わずに、自分の口の端を、指先で、とん、と軽くさわった。
それから、まっさらなナプキンを一枚、すっと椿の前に差し出した。
椿の笑顔が、固まった。
椿の口の端に、桜のタルトの、ピンク色のクリームが、ちょこんとついていた。
椿は、ナプキンを受け取って、目にもとまらない速さで口元をぬぐった。それから、また、上品に微笑んだ。でも、耳が、少しだけ赤かった。
「……ありがとう。春は、花粉がひどくて」
「そうだね。気をつけて」
お兄さんは、それ以上、何も言わなかった。テーブルの下のお皿のことも、タルトの数のことも、何も聞かなかった。ただ、穏やかに笑って、また紅茶を飲んだ。
吉祥院さんは、何も気がついていなかった。
「椿お姉様、花粉症ですの? お大事になさってくださいね」
「……ありがとう、麗華ちゃん」
椿は、少しだけ引きつった笑顔で笑った。
僕は、椿の口の端を見た。もう、クリームはついていなかった。
(……ねえちゃん、くちに、ついてた)
言おうかと思ったけれど、テーブルの下で、椿の靴の先が、僕の靴をこつんと蹴った。黙っていなさい、という意味だと思う。
黙っていた。
――――――――――
お茶会の終わりに、背の高いお兄さんが、僕たちのテーブルに顔を出した。去年のサマーパーティーで会った、伊万里さんだった。
「よう、貴輝。椿も。……お、椿の弟もいるのか」
伊万里さんは、テーブルの上を見た。椿のお皿は、きれいに空っぽだった。僕のお皿も空っぽだった。テーブルの下にも、空っぽのお皿が何枚か重ねてあった。
伊万里さんは、それを見て、それから椿の顔を見て、ものすごく楽しそうに笑った。
「今日も、いい社会勉強になったみたいだな」
「……ええ、とっても」
椿は、外の顔のまま、にっこり笑った。笑いながら、テーブルの下で、伊万里さんの靴の先を、ぎゅっと踏んでいた。
伊万里さんは、「いてっ」と小さく言って、それでも笑っていた。
帰りぎわ、吉祥院さんは、椿の手をとって、きらきらした目で言った。
「椿お姉様。また、お会いできますか?」
「ええ、もちろん」
「わたし、椿お姉様みたいな、おしとやかなレディになりますわ!」
椿の笑顔が、もう一度、ほんの少しだけ引きつった。
お兄さんは、また、どこかを見ながら、肩を小さく震わせていた。
――――――――――
家に帰ると、椿は、ソファにばったりと倒れこんだ。
「……つかれた」
外の顔が、はがれ落ちていた。
「あの人、絶対、分かってて黙ってたわ。何枚食べたかまで、絶対に数えてた」
「……あのひと?」
「吉祥院くんよ」
椿は、クッションに顔をうずめて、足をばたばたさせた。
「しかも、ナプキンよ。ナプキン。何も言わずに。あんなの、言われるより恥ずかしいじゃない」
椿は、怒っているらしい。でも、顔が少し赤いので、怒っているのとは、少し違う気もした。
その日の夕ごはん、椿はご飯を四杯食べた。
お茶会で、タルトを五つも食べたのに。
椿は、あのお兄さんの話をした日は、いつもより、ご飯をたくさん食べる。最近、気がついた。
次の日の朝、迎えに来た柚葉に、お茶会の話をした。
「……ねえちゃんの、くちに、クリームがついてた」
「それで、どうなったのですか」
「……プリンのひとの、おにいさんが、ナプキン、くれた」
「凪。プリンのひとではなく、吉祥院さんです」
「……プリンのひと」
柚葉は、小さくため息をついた。それから、ナプキンの話を思い出したように、少しだけ目をまるくして、なぜか、ちょっとだけうれしそうな顔をした。
「……すてきなお話ですね」
「……どこが」
「凪には、まだ分からないと思います」
柚葉は、そう言って、僕の寝ぐせを直した。その手つきは、いつもより、ほんの少しだけやさしかった。