【謙虚堅実】朝霧様を見守るスレ【孤高の王子様】 作:麗華様親衛隊
二年生になって、ひと月がたった。
放課後のサロンは、今日もお菓子でいっぱいだった。
僕は、いつもの窓際の、いちばん隅のソファで、フィナンシェを食べていた。三つ目だった。隣では、柚葉が、きれいな手つきで紅茶を飲んでいる。
少し離れたところでは、『あさぎりさまを見守る会』のお姉さんたちが、今日も静かに僕を見守っていた。何を見守っているのかは、よく分からない。僕は、フィナンシェを食べているだけだ。
四つ目に手を伸ばしたとき、目の前に、影ができた。
「朝霧」
顔を上げると、鏑木くんが立っていた。
腕を組んで、眉間にしわを寄せて、僕を見下ろしている。後ろには、にこにこした円城くんもいた。
サロンが、しんとした。
「勝負だ」
「……なんの」
「運動会で言っただろう。次は勝つって。お前も、『次』って言った」
言った気がする。
でも、あのとき僕が言った「次」は、お弁当のことだった。お弁当は、もう、とっくに食べた。去年の秋に。
「……もう、たべた」
「何をだ!」
円城くんが、ぶふっ、と吹き出した。
見守る会のお姉さんたちが、「まあ……」と息をのんだ。
「朝霧様、勝負はもう済んだ、とおっしゃりたいのね」
「同着で十分、ということかしら」
「なんて欲がないの……」
欲はある。お弁当は、五段とも食べた。
「ごめんね、朝霧くん。雅哉、運動会からずっと、朝霧くんと勝負したかったんだって。でも、次の運動会は秋だから、待てないんだってさ」
「秀介、余計なことは言わなくていい」
鏑木くんは、僕をまっすぐににらんだ。
「朝霧。勝負の種目は、お前が決めていい」
「……なんでも、いい」
鏑木くんが、ぎゅっとこぶしを握った。
「……なんでもいい、だと。どんな勝負でも負けないってことか」
そういう意味ではない。フィナンシェの続きが食べたい、という意味だ。
お姉さんたちが、また「まあ……」と言った。
――――――――――
「最初の勝負は、これだ」
鏑木くんは、一枚の紙を、テーブルにばんと置いた。
昨日の、算数のテストだった。右上に、赤いペンで大きく「100」と書いてある。昨日返ってきたばかりなのに、もう、しわしわだった。何回も見たらしい。
「初等科は、順位が出ない。だから、点数で勝負だ。お前のテストを出せ」
「……テスト」
昨日、たしかに算数のテストが返ってきた。
どこにやったかは、覚えていない。
僕がランドセルの中をのぞこうとすると、隣で、柚葉が静かにカップを置いた。それから、自分の鞄から、きれいに四つにたたんだ紙を取り出した。
「こちらです」
僕の、算数のテストだった。
鏑木くんが、柚葉を見た。円城くんも、柚葉を見た。
「……なんで、お前が持ってるんだ」
「凪に持たせると、お菓子の包み紙と一緒に捨ててしまうので。返ってきたテストは、私が預かって、凪のお母様にお渡ししています」
柚葉は、テストを広げて、テーブルに置いた。
右上に、赤いペンで「100」と書いてあった。しわは、ひとつもなかった。
「……引き分けか」
「……ひきわけ」
僕がうなずくと、鏑木くんは、ぐっと唇を噛んだ。
「ちっとも、うれしそうじゃないな。百点くらい、当たり前ってことか」
うれしくないわけではない。フィナンシェのほうが気になるだけだ。
円城くんが、僕のテストの端っこを指さした。
「朝霧くん、ここ、何か描いてあるね」
端っこに、鉛筆で、小さなプリンの絵が描いてあった。テストが早く終わったので、描いたのだ。
「……プリン」
「ふうん。プリン」
円城くんは、ふふ、と笑って、それ以上は何も言わなかった。
――――――――――
「次の勝負は、秀介が決めろ。俺が決めたら、ずるいとか言われそうだからな」
「えっ、僕? そうだなあ」
円城くんは、少しだけ考えるふりをして、テーブルの上のお菓子を見た。
「じゃあ、目かくしをして、お菓子の名前を当てる勝負は? 僕は甘いものはあまり食べないから、審判をするよ」
「……お菓子だと?」
鏑木くんは、ちょっとだけいやそうな顔をした。でも、すぐに腕を組み直した。
「いいだろう。どんな勝負でも、受けて立つ」
僕は、フィナンシェを置いて、背筋を伸ばした。
この勝負は、好きだ。
コンシェルジュさんが、白いナプキンで僕たちに目かくしをして、小さなお皿にお菓子をひとつずつ乗せて運んできてくれた。サロンにいる子たちが、ソファのまわりに集まってきた。
「朝霧様と鏑木様が、勝負を……!」
「目かくしをなさったお二人、まるで絵本の王子様みたい……」
一問目。
口の中で、さくっと音がした。バターのいい匂いがした。
「クッキーだ」
「……サブレ。……アーモンド、はいってる」
「せ、正解でございます。より詳しくは、アーモンドのサブレでございます」
二問目。
ふわっとして、しゅわっと消えた。
「……メレンゲ、か」
「……マカロン。……なか、フランボワーズ」
「……正解でございます」
コンシェルジュさんの声が、少しだけ小さくなった。
三問目。
これは、鏑木くんがすぐに答えた。サロンで、いつも食べているやつだ。
「チョコだ。ビターのほう」
「……ビター。……ちょっとだけ、オレンジ」
「……オレンジ?」
「……オレンジピールが、ほんの少しだけ、練りこんでございます……」
「入ってたのか!?」
鏑木くんは、毎日食べているのに、知らなかったらしい。
四問目。
しっとりして、甘くて、バターの匂いがした。さっきまで食べていたのと同じ、フィナンシェだった。
でも、少し違った。
「……フィナンシェ。……でも、きのうのと、ちがう」
サロンが、しんとした。
「……バター、かわった」
目かくしの向こうで、コンシェルジュさんが、ひゅっと息をのんだ。
「……おっしゃる通りでございます。本日から、バターの仕入れ先を変えまして……」
目かくしを外すと、コンシェルジュさんは、青い顔で胸に手を当てていた。
「……あの、朝霧様。前のバターのほうが、お好みでしたでしょうか」
「……どっちも、おいしい」
「さようでございますか……」
コンシェルジュさんは、ふらふらと奥へ戻っていった。
円城くんが、にこにこしながら手を挙げた。
「というわけで、朝霧くんの勝ち」
鏑木くんは、目かくしをむしり取った。顔が、真っ赤だった。
「こんなの、勝負じゃない! お菓子の勝負なんか、ノーカウントだ!」
「雅哉、どんな勝負でも受けて立つって言ったよね」
「言ってない」
「言ったよ」
「……言ったけど、ノーカウントだ」
円城くんは、おなかを押さえて笑っていた。
お姉さんたちは、うっとりしていた。
「バターの違いまでお分かりになるなんて……」
「きっと、幼いころから、本物だけを召し上がってきたのよ」
本物だけではない。なんでも食べてきた。
――――――――――
鏑木くんは、しばらく黙って、僕をにらんでいた。
それから、ぽつりと言った。
「……朝霧。お前、俺のことを、ライバルだと思ってないだろう」
「……ん」
思っていない。
鏑木くんの眉間のしわが、今日でいちばん深くなった。
「なんでだ。俺とお前は、同着だったんだぞ」
「……らいばるは、もう、いる」
隣で、柚葉が、はっとした顔をした。
「凪、それは――」
「誰だ」
僕は、サロンの入り口のほうを指さした。
入り口のそばのソファのかげで、吉祥院さんが、ちょうど、そうっとサロンから出ていこうとしているところだった。
「……きっしょういんさん」
吉祥院さんの足が、ぴたりと止まった。
「……プリンの、ひと」
柚葉が、両手で顔をおおった。
円城くんが、「あっ」と小さく言った。たぶん、テストの端っこのプリンを思い出したのだと思う。
鏑木くんは、くるりと振り向いて、ずんずんと入り口のほうへ歩いていった。サロンにいるみんなが、道をあけた。
吉祥院さんは、逃げようとして、間に合わなかった。
「おい」
「……ご、ごきげんよう、鏑木様」
「お前が、朝霧のライバルなのか」
吉祥院さんは、すごい速さで首を横にふった。巻いた髪が、ぶんぶん揺れた。
「ち、違いますわ! わたしは、ただ、給食のプリンを、一つ、いただいただけです!」
「……プリン?」
鏑木くんは、ゆっくりと僕のほうを振り返った。
「朝霧。プリンが、なんだ」
「……さいごの、ひとつ」
「……は?」
「……さいごの、ひとつ、だった」
鏑木くんは、口を開けて、閉じて、また開けた。何も出てこないみたいだった。
その隙に、吉祥院さんは、「では、ごきげんよう!」と、とてもきれいなおじぎをして、ものすごい速さでサロンを出ていった。出ていく前に、一度だけ、僕のほうをきっとにらんだ。
円城くんは、ソファの背もたれにつかまって、声を出して笑っていた。いつもの、ふふ、という笑い方ではなかった。
「あははっ、プリン……プリンだって、雅哉……!」
「笑うな、秀介」
鏑木くんは、僕と、吉祥院さんが出ていった扉と、笑っている円城くんを、順番に見た。それから、ものすごく疲れた顔で言った。
「……変なやつら」
それきり、鏑木くんは、部屋のまんなかの大きなソファに戻っていった。お皿のチョコレートを、いつもより、たくさん口に入れていた。オレンジが入っているか、確かめているみたいだった。
お姉さんたちは、ひそひそと言い合っていた。
「朝霧様が、鏑木様ではなく、麗華様をライバルに……」
「きっと、何か深いお考えが……」
深い考えは、ない。プリンの恨みがあるだけだ。
――――――――――
帰りの車の中で、柚葉は、ずっと黙っていた。
僕は、サロンでもらったフィナンシェの包みを、膝の上で開けた。
「凪」
「……ん」
「鏑木さまには、言わないでくださいと、言いました」
「……きかれた、から」
「聞かれても、です」
「……かくすほうが、ながい」
柚葉は、深いため息をついた。柚葉のため息は、二年生になっても、まだ深くなり続けている。
僕は、フィナンシェを半分に割って、柚葉に差し出した。柚葉は、少しだけ迷ってから、受け取った。
しばらく、二人で黙って食べた。新しいバターのフィナンシェも、やっぱりおいしかった。
「……凪」
「……ん」
「お菓子当てですけれど」
柚葉は、フィナンシェを見つめたまま、小さな声で言った。
「うちのお菓子なら、凪は、どれくらい分かりますか」
「……ぜんぶ」
「全部、ですか」
「……柚んちのは、ぜんぶ、わかる。いちばん、たべてる」
柚葉は、フィナンシェを持ったまま、しばらく固まっていた。それから、窓のほうを向いた。耳が、少しだけ赤かった。
「……そうですか」
それきり、柚葉は、家に着くまで窓の外を見ていた。
ため息は、もうつかなかった。
――――――――――
次の日、廊下で円城くんに会った。
「おはよう、朝霧くん。昨日は、あんなに笑ったの、久しぶりだったよ」
「……ん」
「雅哉ね、ノートに勝負の記録をつけ始めたんだ。こう書いてあったよ」
円城くんは、楽しそうに指を折った。
「『朝霧 〇勝〇敗一分。お菓子はノーカウント』だって。次は何で勝負するか、もう考えてるみたい。よろしくね」
円城くんは、ふふ、と笑って、行ってしまった。
教室に入ると、吉祥院さんが、自分の席から、じっと僕を見ていた。
目が合うと、吉祥院さんは、口の形だけで、何か言った。
たぶん、「おぼえてらっしゃい」だった。
僕は、少し考えた。
ライバルに、にらまれた。
すごく、ライバルっぽい。
僕は、吉祥院さんに、こくんとうなずいた。
吉祥院さんは、なぜか、机に突っ伏した。