神話ができるまでの千年と30日 作:想像神
プレイ4日目
四日目は、パソコンを起動してから夕食を食べることにした。
特別帰りが遅くなったわけではない。駅前の惣菜屋で買った親子丼も、電子レンジに入れればすぐに温まる。ただ、昨日のプレイの最後に表示されていた《文明探索範囲》という見慣れない項目が、朝からずっと頭の片隅に引っかかっていたのだ。
デスクの電源を入れ、上着を脱いでハンガーに掛ける間にゲームを立ち上げる。足元にすり寄ってきたミロは、俺が座るなり飯の時間だと勘違いしたのか、甘えた声で一度だけ鳴いた。
「先にちょっとだけ画面見るから、待ってろ」
猫に通じるはずもなく、すぐさま「早くしろ」と二度目の催促が飛んでくる。
諦めてキャットフードを皿に出してやってからデスクに戻ると、モニターには世界“ミロ”の定期経過レポートが開いていた。
《世界ミロは幻想歴27年を迎えました》
《干渉力:100/100》
「十六年、か」
昨日の時点では幻想歴十一年だったはずだ。俺が会社で不毛な書類を直し、帰りに夕食を買い込み、風呂に入って寝て起きるまでの間に、画面の向こうでは十六年もの歳月が過ぎ去ったことになる。
レポートには、トゥリエ村の人口爆発や、アインリト集落における本格的な採掘場の建設といったトピックが並んでいた。昨日生やしてやった乾燥麦は周辺のふたつの集落へ普及し、角羊は四十七頭まで繁殖している。魔族側では鉄製の頑丈な道具が実用化され、念願だった水不足もかなり改善されたらしい。
俺が会社でせっせと働いている間に、麦は他村へ伝播し、羊は子どもを産み増え、荒れ果てた岩場には立派な採掘所まで出来上がっていた。
「お前ら、ほんと仕事が早いな」
気になっていた文明探索範囲をマップ上に表示させてみると、人間側と魔族側の拠点から、うっすらとした領域の色が地図の中央へ向かって伸びていた。
人間側は青、魔族側は赤で色分けされている。厳密な国家の国境線というよりは、「住民たちが地理を把握している探索済みエリア」を示しているらしい。青い領域は中央山脈の西側から、赤い領域は南東側からそれぞれ山脈の奥深くまで侵入しており、どちらも例の「あの場所」のすぐ近くまで迫っていた。
そう、二日前に俺が誤操作で海抜ゼロメートルに叩き潰した、あの巨大クレーターだ。
あれから二十年以上が経過したせいか、当時は不気味な茶色一色だった地面にはうっすらと緑の草が群生し、崖から勢いよく落ちる滝の周囲には浅い池まで形成されていた。中央にドカンと配置したあの超巨大な木も相変わらず聳え立っている。周りに背の低い木々が生え揃ってきたおかげで、「デバッグ用に一本だけ置いた浮きまくりのアセット」感はだいぶ薄れていたが、引いたカメラで見れば結局あれしか目に入らない。
見れば、青い点が五つ、西側の険しい斜面をゆっくりと下っていた。
そして赤い点が四つ、反対側のゴツゴツした岩場から平地へ向かって進み出ようとしている。
それぞれのアイコンにカーソルを合わせると、《トゥリエ方面探索隊》と《アインリト探索隊》という名前が表示された。進行方向の予測線をまっすぐ伸ばしてみると、二組の探索隊は吸い寄せられるようにあの巨樹を目指していた。
《異なる文明圏の住民が接近しています》
《接触によって、友好・交易・警戒・衝突などの関係が発生します》
「おお、ついに初対面イベントか!」
親子丼をレンジに入れるつもりだったことなどすっかり忘れ、俺はゲームの時間経過速度を「早送り」に切り替えた。
マップ上の小さな点は、思いのほか亀のようなスピードで進んでいく。上空から見れば平坦なグラフィックに見えても、現地には巨大な木の根や無数の池が遮っているのだろう。青い探索隊が水辺を大きく迂回している間に、赤い探索隊が一足早く大樹の根元近くまで到達して足を止めた。
カメラを限界までズームしてみると、先頭に立つ一人だけが仲間たちから少し離れて警戒に当たっていた。頭から短い角が後ろに向かって生えており、羽織っている外套と同じダークトーンのグラフィックをしている。その隊員にカーソルを合わせると、《斥候技能:高》というステータスが目を引いた。歴史的イベントの最前線に立つなら、こいつの視点を見るのが一番わかりやすそうだ。気になってそいつを軽くクリックしてみる。
《スカウ》
《所属:アインリト探索隊》
《職業:斥候》
《状態:周辺を警戒》
「へえ、スカウって名前か。よし、お前に決めた」
詳細ウィンドウを開くと、体力や各種スキルのほかに《追跡》という謎のボタンがあった。試しにポチッと押してみると、スカウの頭上に小さなターゲットマークがつき、カメラが自動的にそいつを中心に追従し始めた。
《観察・追跡は干渉力を消費しません》
カメラの中でスカウが大きな木の影に入る。足を止める。ハッと後ろを振り返る。……だが、周りには何も起きていない。
一方、青い人間の探索隊も、ついに大樹の反対側まで辿り着いていた。そちらをよく見ると人間だけではなく、耳の尖った美しいグラフィックのキャラクターや、背の低いずんぐりした体型のキャラクターが混ざっている。エルフとドワーフだ。タイトル画面のアニメにはいたが、実際にフィールド上で動き回っているのを見るのはこれが初めてだった。
画面を再びスカウの追跡カメラに戻し、何を考えているのか気になって、もう一度スカウのアイコンを連打クリックしてみる。
《状態:強い視線を感じる》
「ん? 向こうの探索隊の気配に気づいたのか?」
どこからの視線なのかを示す矢印などは出てこない。カメラの向きをぐるりと回してみると、ちょうど太い根の影から青い探索隊の一団が姿を現したところだった。
両方の探索隊が、ピタリと動きを止める。
人間側の一人が剣らしき細い武器を構えた。エルフの一人が弓に手を伸ばしたように見える。それぞれの頭上に赤や黄色の感情アイコンがいくつも浮かび上がったが、すぐに戦闘アクションへ突入することはなかった。
緊張感のある無言の時間が流れた後、青い側の一人が地面に長い棒のようなものを突きたてた。赤い側でも誰かが背中の荷物を下ろす。互いに言葉を交わしているのか、威嚇し合っているのか、引いた画面からでは細かい動きまでは判別できない。
俺はスカウの詳細が気になり、カーソルで三度ほどポチポチとクリックし直した。だが詳細画面には《警戒》と《強い視線を感じる》というテキストが交互に点滅表示されるだけだった。
「スカウ、視線じゃなくて目の前の連中を見ろよ」
やがて、青い探索隊が来た道をゆっくりと後退し始めた。赤い探索隊もそれを深追いすることなく、少し間を置いてから反対方向へ引き返していく。
《トゥリエ方面探索隊とアインリト探索隊が接触しました》
《両文明圏の関係:未知から警戒へ変化しました》
「なんだ、血を見ずに帰ったか」
いきなり戦争が始まるよりは遥かにいい。初対面で互いに武器を構えていたわけだし、いきなり「仲良し」とはいかないのも納得だ。
追跡モードを解除すると、カメラは巨樹を中心に据えたダイナミックな全景へとスムーズに戻った。二組の小さな点は、それぞれ別々の方向へと遠ざかっていき、その間にはただただ圧倒的な存在感を放つ大樹だけが静かに佇んでいた。
右上の干渉力ゲージは、起動した時と変わらず100のままだった。今日は何もリソースを配置せず、天気も地形も指一本触れていない。それでも画面の中では、これまで交わることのなかった二つの文明の関係性が、確かに一歩動き出していた。
《実績“隣人を見つけた”を解除しました》
《住民追跡枠が追加されました》
別に特定の住民をストーカーみたいに追いかけ回したいわけでもないので、解放された追跡枠は空けたままにしておいた。画面の端のログには、今回の接触に関する「歴史的出来事」が早くも二件追加されている。
《トゥリエ方面で、“魔族による中央大樹への侵入”が記録されました》
《アインリトで、“人類諸族による中央大樹への侵入”が記録されました》
どっちの種族も、「先に侵入してきたのは相手の方だ」と認識しているらしい。
「まあ、会った場所が場所だもんなあ」
どこかの街の近くで出くわしたなら、普通の挨拶で済んだのかもしれない。よりによって、誰も知らない山脈のど真ん中にポツンと聳え立つ、いかにも「世界の中心」っぽい伝説の樹の下で鉢合わせしてしまったのだから。
ログの詳細を開けば詳しい報告書のようなテキストまで読めそうだったが、デスクの横ではミロが空になった皿をカチャカチャと舐め回していた。俺だってまだ夕食のおあずけを食らったままだ。
俺はゲーム画面を一旦最小化し、すっかり冷めてしまった親子丼を電子レンジへ放り込んだ。
幻想歴二十七年――後の神天地
広大な平地へ足を踏み入れてから、スカウはすでに三度、誰もいない大空を警戒して振り返っていた。
最初は、山生えの猛禽類かと思ったのだ。
切り立った岩の隙間から獲物を狙う鷹や鷲の類は、襲いかかる瞬間に完璧に気配を消す。その不気味な影が地面を横切るより早く、首筋の細い鱗がチクチクと不吉に逆立つ感覚を、スカウは何度も経験していた。だが、薄い雲が流れるだけで雲一つない青空には羽ばたく鳥の影など影も形もなく、周囲を囲む断崖絶壁にも動くものの気配は一切存在しなかった。
「……スカウ、また何か見えたのか?」
後ろから声をかけられ、スカウは無言で首を横に振った。
アインリトの集落を出発してから、今日で十九日目になる。隊は四人構成。斥候のスカウのほか、ルートを羊皮紙に刻む書記、岩質と湧き水の魔力を解析する術師、そして重い荷を背負う腕利きの護衛だ。彼らは険しい南東の山道を打ち破り、三日前にようやくこの平地へと降りられる岩の途切れ目を発見したのだった。
彼らが持ち帰るべき使命は二つ。中央山脈の最深部に眠るという伝説の「大樹」への確実なルートを開拓すること、そしてその土地が我ら魔族の暮らせる安住の地となり得るかを精査することだ。
二十年ほど昔、「西側の人間の地図師が山脈の奥で恐ろしいまでに巨大な樹を目撃した」という噂が、南の街道を経由してアインリトの集落にも届いていた。その地図師の残した手記には、高山植物すら育たない山脈の真っ只中に「海と同じ高さの平地」が存在するとも記されていたという。アインリトの火守りの古老たちは、そここそが世界を創り上げた「創世の神」が最初に炉を据えた聖なる地なのではないかと考えた。
似たような言い伝えは、アインリトの種族にも太古から語り継がれていた。
創世の神が世界“ミロ”を大槌で叩き上げた際、最初に打ち鍛えられて冷え固まった一片が大地の骨組みとなり、跳ね飛んだ火花があらゆる命の種へと分かれた。世界に聳える山々も深く刻まれた谷もすべては神の振るった槌の跡であり、世界の真ん中には「火と土を分かち給うた神の印」が残されているのだと。語り部によってその印は「巨大な炉」であったり「聖なる石」であったり「大樹」であったりと様々だった。だが、山脈の奥に実在する狂気じみた巨木の存在が証明されてからは、最後の大樹説を支持する者が一気に増えていたのだ。
当のスカウ自身にしてみれば、創世の神の炉がどこにあったのかなどという神学的な論争よりも、道中にいくつ確実な水場があるかの方が遥かに重要だったのだが。
その大樹は、近づけば近づくほど距離感が狂っていく不気味な存在だった。
山脈の上から見下ろした時には、平原の真ん中にポツンと立つ一本の樹に見えた。だが、平地に降り立って丸二日歩き続けても、太い幹は遥か彼方に霞んだままで、張り出した枝の先だけが頭上を覆い尽くしていく。ようやく根元へと辿り着いた今となっては、「幹」というよりは、切り立つ漆黒の岩壁がそのまま天空へと垂直に伸びているようにしか見えなかった。
地表に脈打つ根の一本を取ってみても、アインリトの一番大きな集会所より遥かに太い。根と根の間の巨大な窪みには透き通った雨水が溜まり、鏡のような浅い池を形成していた。水辺には膝の高さまで青々とした草が生い茂り、可憐な白い小花には見たこともない色鮮やかな羽虫たちが群がっている。
「……よし、ここにアインリトの印を打ち込む」
書記が背負い籠から重厚な黒鉄のプレートを取り出した。
大人の掌ふたつ分ほどの鉄板には、アインリトの象徴である「炉と大槌」の紋章と、ここまで走破した日数が刻み込まれている。自分たちがこの地に到達した証として岩肌に打ち付け、次にやってくる後続の調査隊が迷わないための道標とするのだ。アインリトが生み出した新しい鉄は、どれほど薄く叩き伸ばしても決して割れることがない。十六年前に鍛冶師フェルムが打ち上げた伝説の「第一号タガネ」以来、彼らの手にする道具の精度は飛躍的に進化していた。
「おい、幹に直接タガネを打つんじゃないぞ」
術師が釘を刺すように言った。
「分かっている。あの巨大な根の手前にある大石に打ち込む」
書記は適当な平らな岩を探し求めて周囲を見回し始めた。
スカウは大樹の巨幹を背にして立ち、自分たちが歩んできた南東とは真逆の「西側」の地平へと警戒の視線を向けた。草原の向こう側には、光を反射する浅い池が幾つも点在している。だがその先はうねる根の盛り上がりに遮られており、西側の崖の足元までは見通すことができない。
――まただ。
猛烈な「視線」が首筋を焼き、スカウはハッと西の空を見上げた。鳥の放つ殺気とは根本的に違う。どこから見下ろされているのか全く分からないのに、自分という個人だけがピンポイントで「見つけ出されている」という背筋が凍るような感覚だ。四人でまったく同じ場所に並んで立っているはずなのに、目に見えない不可視の極細の針が、スカウの首筋だけを正確に狙い定め、どれだけ歩いて位置を変えてもピタリと追従して離れない。
スカウは腰の短剣の柄に反射的に手をかけた。だが、空を睨みつけても刃を向けるべき敵の姿などどこにも存在せず、虚しく指を離すしかなかった。
この短剣は、アインリトの崖から採掘されたあの赤鉱石から打ち出された鉄製で、青銅など比べものにならないほど軽く、魔力の通りも完璧だ。道中で襲いかかってきた野犬や巨大な岩蜥蜴を八つ裂きにするのには絶大な威力を発揮したが、この天から降り注ぐ正体不明の気気圧を斬り払えるとは到底思えなかった。
その時、西側の草むらの奥で「サクッ」と乾いた足音が響いた。
スカウは瞬時に片手を高く突き上げた。
書記が鉄板を抱えたまま動きを止め、護衛は背中の荷を静かに地面へ下ろす。術師の指先には、いつでも火の術を解放できるよう青白い魔力の光が集中した。
――ザッ、ザッ。もう一度、確かな足音が近づいてくる。
巨樹の太い根の影から、五人の人影がぬっと姿を現した。
先頭に立っていたのは、陽に焼け焦げた肌を持つ人間だった。短い槍を握り締め、革の上着の上から鮮やかな青い布を巻き付けている。その後ろには、しなやかな弓を構えたエルフが二人。さらにスカウの胸ほどの背丈しかない頑強なドワーフと、ドデかい鞄を肩から下げた別の人間が続いていた。
……魔物ではない。スカウは直感で理解した。魔物はこれほど洗練された装備を揃えて歩くことはないし、足場の悪い未知の領域で互いの死角を補い合うような高度な陣形を組むこともない。目の前の五人はスカウたちと全く同じように、先頭に一番戦える者を配置し、非戦闘員と貴重な荷物を後方で守るという完璧な統制を取っていた。これほど鍛え上げられた一団が、一体何の目的でこの世界の中心に足を踏み入れたのか。
先頭の人間が、槍の穂先を斜め下へと向けた。スカウへ直接狙いを定めているわけではない。弓を構えたエルフたちも、弦に指をかけつつも矢をつがえるまではしなかった。ドワーフは腰の巨大な槌の柄を固く握りしめている。
スカウの背後で、アインリトの護衛が腰の剣をチャリッと鳴らした。
「……抜くな」
スカウは視線を前に固定したまま、低く短い声で制した。
「スカウ! 向こうは五人だぞ!」
「こちらは四人だ。数の不利が計算できるなら、なおさら武器を抜くな」
「それに……ここまで来て、聖なる創世の樹の根元を血で汚す気か?」
護衛の葛藤する息遣いが聞こえ、やがて柄に回っていた指がゆっくりと離れていった。
向こうの先頭の人間が、口を開いた。
山脈を吹き抜ける強い風に声が流され、最初はただの音にしか聞こえなかった。だが、彼が二度目にゆっくりと、区切るように言い直したことで、それが南の街道を行き交う行商人たちが使う「古い共通交易語」だと判明した。
「……ドコ・カラ……キタ?」
発音は酷く固くぎこちなかったが、意味は十分に理解できた。
「……南東。アインリトの地からだ」
スカウも拙い交易語で短く答え、彼らのやってきた西の地平を指差した。
「……お前たちは?」
「……西。トゥリエの道より来た」
先頭の人間は、スカウたちの頭上に聳え立つ大樹を仰ぎ見た。
「……この樹を……知っているのか?」
「……見つけたから……ここにいる」
スカウがそう答えた瞬間、相手の人間の眉がぴくりと動いた。
――単語のチョイスを間違えたかもしれない。スカウは心の中で舌を打った。知識として「知っている」と答えるべき場面で、目撃したという意味で「見つけた」と言ってしまったのだ。古い共通交易語の単語の中には、文脈によって「発見する」と「所有権を得る(手に入れる)」というふたつの意味が曖昧に混ざり合ってしまう危険な言葉が存在する。
人間の後ろでは、鞄を提げた男が細長い測量棒を地面へ力任せに突き立てていた。その先端には鮮やかな青い布が結びつけられており、遠くからでも一目で位置がわかるようになっている。スカウの目には、彼らがこの聖なる大樹の周りに「自分たちの領土の印」を誇らしげに打ち立てているようにしか見えなかった。
書記が地面に置いたばかりのアインリトの黒鉄板は、ちょうどスカウの足元転がっている。
「……この樹は……西の者たちのものか?」
スカウが鋭い視線で問い詰めると、人間はすぐには答えなかった。後ろのエルフと短く視線を交わし、槍の石突を地面へコンと突いた。
「……世界を造り給うた……神のものだ」
今度の言葉は、驚くほど滑らかで明瞭だった。
スカウの後ろで、アインリトの術師が息をのむ音が聞こえた。
まったく同じ概念の言葉だった。
頭に角すら生えておらず、アインリトの炉の祈りも知らないはずの異形の者たち。彼らもまた、この世界のどこかに存在する「世界を造り給うた何者か」の存在を信じ、目の前の恐ろしい大樹をその神の聖物として敬っていたのだ。相手側も同じ事実に気づいたらしく、人間の後ろでエルフたちが驚きに目を見開いて顔を見合わせていた。
互いの文化に共通する奇跡的な理解が見つかったというのに、スカウの全身の警戒が解けることはなかった。
アインリトのあの小さな貯水槽でさえ、「どの家が何時何分に桶を沈めるか」という血みどろのルールが厳密に定められているのだ。ましてや、互いに譲れぬ信念としてこの大樹を自らの神へと結びつけているのだとすれば、「神の庭の道を半分ずつ仲良く分かち合いましょう」などという甘い話で収まるはずがなかった。
その時、突風が大樹の巨大な枝葉を激しく揺らした。
遥か頭上で無数の葉が擦れ合い、遅れて雷鳴のような低い重低音が降り注ぐ。場にいた全員が、思わず同時に大空を仰ぎ見た。木漏れ日の光が激しく揺れ動き、太い根の上に落ちる陰影がめまぐるしく移動する。
――そして次の瞬間。それまで空の遠くにあった「あの視線」が、跳ね上がるような圧力となってスカウの首筋へ直接ズドンと重なった。
「ぐっ……!?」
スカウはあまりの圧倒的な圧迫感に、思わず半歩後ずさった。彼の突発的な動きに反応し、人間の槍が一瞬で跳ね上がり、アインリトの護衛も再び剣の柄へと手を伸ばす。
「違う! 待て!」
スカウは両方の陣営に聞こえるよう、裂けんばかりの大声で叫んだ。
何が違うのか、スカウ自身にもうまく説明できなかった。相手が攻撃の構えを見せたことに驚いたのではない。ただ「見られている」。天上から恐ろしい何者かの視線が自分を射抜いている。その純粋な事実だけを、拙い共通交易語で彼らに伝える術など存在しなかった。
スカウは短剣から完全に手を離し、両手を高く上げて「敵意はない」ことを全身で示した。
息をのんだ人間も、ゆっくりと槍の穂先を下げた。
「……今日は……戻る」
スカウは自分たちがやってきた南東の山道を指差し、それから相手の一団を指差した。
「……お前たちも……戻れ」
「……命令か?」
「……頼んでいる」
そのふたつのニュアンスが、拙い単語で正しく言い分けられていたかは怪しかった。
人間は再び仲間たちと短く議論を交わした。ドワーフが何やら不満げに唾を吐き捨て、エルフの一人が大樹を指差して説得するように言葉を重ねる。最後に先頭の人間が、重々しく頷いた。
「……我々は西へ戻る。お前たちは東へ」
「……南東だ」
「……では、南東へ」
互いに完全に背中を向けて背後を見せるのは、死を意味する。
人間たちは槍を下げることなく、互いに視線を合わせたまま、慎重に数歩ずつ後退していった。スカウたちもまったく同じように、ジリジリと後退しながら距離を取る。巨大な根の遮蔽物が両者の間に割り込み、完全に互いの姿が見えなくなった瞬間、向こうの一団は西の街道へと向き直って去っていった。
……追ってくる気配はない。
アインリトの護衛が、膝から崩れ落ちそうになりながら長く熱い息を吐き出した。
「……スカウ、あの鉄板はどうするんだ?」
書記が尋ねた。
ここに置いていけば、次に来た後続の調査隊が必ず見つけるだろう。だがもし、西の人類たちが再びやってきた場合、この鉄板を「魔族が土地の所有権を主張する宣戦布告の印」と受け取る危険性があった。
スカウは足元に転がっていた黒鉄板を拾い上げ、書記の胸へと押し返した。
「……今日は持ち帰る」
書記は鉄板を受け取る前に、地面に残された人間の青い測量棒を悔しそうに振り返った。
「……あいつらは、あの青い旗の棒を残していったぞ」
「あれは土地を奪う印じゃない。ただ道を測るための測量標だ」
「なぜそんなことが言い切れるんだ?」
「……俺たちのこの鉄板の意味だって、向こうには理解できないのと同じさ」
書記は納得いかないという表情を浮かべたが、それ以上は何も言わず、鉄板を厚い布で丁寧に包み直した。
四人は来た道を静かに引き返した。平地の外縁を完全に脱するまで、スカウは何度も何度も背後を警戒して振り返った。人類諸族の探索隊が追撃してくる気配はなかった。
そして――あの空からの恐ろしい視線も、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていた。
アインリトの集落へ帰り着いたのは、それから十八日後のことだった。
巨大な集会所には村の長老たちと火守りの古老が集まり、木製の机の上に平地の詳細な地図が広げられた。書記がルートと水場の位置を報告し、術師は土壌に含まれる高濃度の魔力について説明した。そして最後にスカウが、世界の中心で遭遇した「五人の異形」について詳細を語った。
人間が二人、エルフが二人、ドワーフが一人。全員が洗練された武器を携えていたこと。西側のルートから大樹へ到達したこと。そして大樹の目と鼻の先に、青い標識を打ち立てていたこと。
「……彼らもまた、あの大樹を『創世の神の聖物』と呼んだのだな?」
年長の火守りが、念を押すように確認した。
「……間違いなく、そう言いました」
老火守りは報告書の端を強く押さえ、書記が羊皮紙に書き写した共通交易語の翻訳文を指先で深く撫でた。
「……ならば彼らは、創世の神の聖地であることを知りながら、己の印を打ち立てて去ったというのか」
「……あれはただの道を測るための標識かもしれません」
「しかし書記の記録には、『彼らは大樹を手に入れたと言った』とあるぞ」
スカウは共通交易語における単語の誤訳とニュアンスの違いについて必死に説明した。「見つけた」のか「手に入れた」のか、あの切迫した現場では判別が不可能だったことも重ねて主張した。
だが、長老の一人が地図の上に身を乗り出した。
「……判別ができぬからこそ、ただちに第二の本格調査隊を派遣せねばならんのだ! 西の連中が先にあの平地に陣を固めてしまえば、我々は二度と聖なる大樹へ近づけなくなるぞ!」
対面に座る長老は、必要な食料と護衛の兵数についての議論を始めた。「今すぐ兵を送り込んで撃滅しろ」などと暴論を吐く者はいなかったが、「次はたった四人の軽装で済ませるわけにはいかない」という点において、集会所の意見は瞬く間に統一されていった。
スカウの口頭報告は、机の端で複数の書記たちの手によって速やかに書き写されていった。
誇張された噂と純粋な事実を区別するため、スカウは何度も書記の手を止めて記述を訂正させた。『武器を向けられた』ではなく『武器を持っていた』。『追い払った』ではなく『双方が平和裏に引き返した』。『奪おうとしていた』ではなく『青い標識を立てていた』。
……それでも、完成した公式報告書の表題には、残酷にもこう刻まれてしまった。
《中央大樹における西方諸族の進入記録》
「……最後にもう一つ、重大な報告があります」
同行していた術師が、静かに口を開いた。
「……スカウは、敵の一団が現れる遥か前から、何者かの圧倒的な『天からの視線』を感じ取っていました」
集会所にいた長老たちの視線が、一斉にスカウへと注がれた。
「……鷹や鷲の類ではありませんでした。彼はあの場で、何度も誰もいない大空を仰ぎ見ていたのです」
「……そんな主観的な勘など、公式の報告書には不要だ」
スカウはすげなく言った。
だが、火守りの古老だけは、全く異なる見解を示した。
「……創世の神の大樹において、異なる種族の民が歴史上初めて出会った。そしてその直前、お前だけが天からの大いなる視線を受けたのだぞ?」
「……何に見られていたのか、私自身にも分かりません」
「分からぬからこそ、歴史に刻むのだ」
老火守りは、羊皮紙を握る書記へと重々しく頷いた。
報告書の末尾に、新しい一文が付け加えられる。
スカウは、その記述から『創世の神』という軽々しい単語を外すよう強く要求した。書記は少し思案した末に――
《天上よりスカウに視線あり》
と静かに書き直した。
そのすぐ下には、双方が最後まで刃を抜くことなく平和裏に対峙したという事実も、小さく添えられた。
……しかし。集会所の外で吉報を待っていた大勢の住民たちに伝わった噂は、「西の人類たちが聖なる大樹に勝手に印を立てて領有を主張したこと」、そして「スカウが誰よりも先に神の視線に見つめられた選ばれし者であること」のふたつだけだった。
スカウたちが苦労して持ち帰ったあの黒鉄板は、結局その日のうちに激しい炉の火の中へと投げ戻された。次に立ち上がる大規模な探索隊が携えるため、表面に刻まれたアインリトの紋章を、以前よりも遥かに大きく、強く打ち鍛え直すために。