――もっと、強ければ。
井上織姫がそう願ったのは、これが初めてではなかった。
自分の力がどれほど特殊なものであるかは知っている。傷ついた身体を治すのではなく、傷ついたという出来事そのものを拒絶する。盾を張れば強大な攻撃を受け止めることもできるし、かつては戦うことすらできなかった自分が、今では黒崎一護の隣に立っている。
それでも、目の前で繰り広げられている戦いを見ていると、胸の奥からどうしようもない無力感が込み上げてきた。
真世界城の床が砕け散り、黒い霊圧が荒れ狂う。その中心で、一護がユーハバッハへ斬りかかっていた。
額から伸びる一本の角。顔の半分を覆う虚の紋様。死神と虚、そして滅却師の力を併せ持つ一護が、自らの内に眠る力を解き放った姿だった。
すでに放たれた王虚の閃光は、月牙の力と融合した凄まじい一撃だった。織姫にはその威力を正確に測ることなどできなかったが、かつて見てきたどの攻撃とも異なることだけは理解できた。
それでも、ユーハバッハは倒れなかった。
霊王の力を取り込んだ男は、まるで一護の奮闘など取るに足らないものだと言わんばかりに、巨大な黒い力を振るい続けている。
誰かを護るための力など、所詮は弱者の理屈でしかない。真に強い者は他者を屈服させ、すべてを意のままにする。
ユーハバッハが語るその思想は、織姫にとって到底受け入れられるものではなかった。
けれど、それを否定するだけの力が自分たちにあるのかと問われれば、今の織姫には答えられなかった。
「黒崎くん!」
一護の身体が宙を舞った。
床へ激突した衝撃で砕けた石材が飛び散り、その中心から血が跳ねる。織姫は反射的に両手を掲げ、六花の力を一護へ向けた。
治さなければならない。あれほど深い傷を負ったままでは、いくら一護でも立ち上がれない。
光が一護の身体を包み込む。裂けた肉が戻り、傷口が塞がっていくのを確かめながら、織姫はようやく息を吐いた。
ところが、安堵したのも束の間だった。
一護は立ち上がると、ろくに身体を確かめることもなく再びユーハバッハへ向かった。自分が傷ついているという事実さえ、あの男を止めることに比べれば些細な問題なのだろう。
黒崎くんは、いつもそうだ。
織姫は一護の背中を見つめた。
尸魂界へ向かったときも、虚圏へ助けに来てくれたときも、彼は自分が傷つくことを恐れずに前へ出た。何も怖くないわけではないし、傷ついたところで痛みを感じないわけでもない。それでも、護りたいものがあるときの一護は、決して足を止めようとしなかった。
織姫はそんな彼を、ずっと追いかけてきた。
護られるだけの自分ではいたくなかった。傷ついた一護を治せるようになりたかったし、危険が迫ったときには彼の前に盾を張れるようになりたかった。
その願いは、少しずつ叶ってきたはずだった。
それなのに。
「――っ!」
視界を黒いものが横切った。
織姫が反応するより早く、鋭い影が身体を貫いていた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
胸の内側から何かを無理矢理押し広げられるような感覚があり、遅れて焼けつくような痛みが襲ってくる。息を吸おうとしても上手く吸えず、喉からは声にならない音だけが漏れた。
視線を落とす。
自分の胸から、黒い槍のようなものが突き出していた。
血が滴る。
足から力が抜けかけた。
けれど、織姫は倒れなかった。
倒れてしまえば、一護を治せなくなる。
その考えが何より先に浮かんだからだ。
震える手を自分の胸へ向け、傷ついたという事象を拒絶する。六花の光が身体を包み、貫かれた肉体が元の形へ戻っていった。
息ができるようになった途端、織姫は顔を上げた。
一護がまた倒されている。
今度は身体を貫かれていた。
織姫は自分の傷が戻ったことも確かめず、すぐに彼へ力を向けた。
黒い影が再び迫る。
逃げる時間はなかった。
もう一度、身体を貫かれる。
織姫は歯を食いしばり、自分の傷を拒絶した。
そして一護を治す。
また攻撃が来る。
今度は肩から胸にかけて深々と抉られた。痛みに視界が白く染まり、反射的に悲鳴が漏れる。それでも意識だけは手放さず、必死に六花を呼び続けた。
自分が傷つく。一護を治す。今度は一護が傷つき、その間に自分も倒される。
その繰り返しだった。
何度目かの拒絶を終えたとき、織姫は自分の手がひどく震えていることに気づいた。
怖かった。
身体を貫かれる感覚には、何度経験したところで慣れることができない。傷は拒絶できても、痛かったという記憶や、死にかけたときの恐怖まで消えてくれるわけではなかった。
また来る。
次も。
その次も。
そう考えるだけで、足が竦みそうになる。
けれど、目を逸らすことだけはできなかった。
黒崎くんが戦っている。
なら、自分も。
織姫は唇を噛み、もう一度両手を持ち上げた。
だが、力を使おうとした瞬間、全身から血の気が引くような感覚があった。身体の奥に溜めていたものが、少しずつ底をつき始めている。
拒絶する力は残っている。まだ使える。
それでも、これまでと同じではいられないことを身体の方が理解していた。
「井上!」
一護の声が聞こえた。
織姫は顔を上げる。こちらを振り返ろうとした一護が、再びユーハバッハの攻撃を受けていた。
自分を心配している場合ではない。
そう言いたかった。
黒崎くんは前だけ見ていて。
傷ついたら、あたしが治すから。
だから。
だから、お願い。
倒れないで。
織姫は残っている力を振り絞り、再び拒絶を行った。
もう何度目なのか、数える気力もなかった。
そんな織姫を、ユーハバッハは冷ややかに見下ろしていた。
どれほど傷を戻そうと、その力には限りがある。いずれ尽きると分かっていながら、それでも繰り返すのか。
男の態度からは、そんな嘲りが感じられた。
織姫は答えなかった。
答える余裕がなかった。
ただ、一護を見ていた。
あの背中がまだ立ち上がろうとしている限り、自分も諦めるわけにはいかなかった。
――もっと、力があったら。
胸の奥に、再び同じ願いが浮かぶ。
黒崎くんが傷つく前に護れたら。
自分が何度も貫かれなくても、あの人を守り続けられたら。
こんなにも苦しい思いを、誰もしなくて済むのに。
しかし、どれほど願っても、織姫の力が突然大きくなることはなかった。
やがて膝が折れ、血に濡れた床へ手をつく。
身体を支えようとしても、腕が上手く動かない。
もう駄目なのだろうか。
そんな考えが頭を掠めたときだった。
戦場の空気が変わった。
肌を刺すような冷気が流れ込み、周囲の黒い影を白い霜が覆い始める。
織姫はゆっくりと顔を上げた。
そこには、小柄な死神の姿があった。
「……朽木さん?」
朽木ルキアが、一護とユーハバッハの間に立っていた。
彼女はまず一護を、それから織姫を見た。その表情が僅かに険しくなったのを見て、織姫は自分がどれほど酷い有様なのかを思い出した。
血に濡れた衣服。力の入らない手足。何度傷を拒絶しても消えてくれない疲労。
それでもルキアは、織姫を責めなかった。
むしろ安心させるように短く声を掛けてから、一護の隣へ歩み寄った。
一護とルキアが顔を合わせる。
こんな状況だというのに、二人はほんの僅かな間だけ、昔と変わらない調子で言葉を交わしていた。
織姫はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
懐かしかった。
自分が知っている黒崎くんと朽木さんだった。
どれだけ強くなっても、どれだけ大きな戦いへ身を投じても、二人の間にあるものは変わらないのだろう。
やがて二人は同時にユーハバッハへ向き直った。
ルキアの斬魄刀から冷気が溢れる。
周囲を凍てつかせる力と、一護の荒々しい霊圧が重なり、戦場の空気が震えた。
織姫は必死に身体を起こした。
もう少しだけ。
あの二人が戦っている間に、少しでも力を取り戻さなければならない。
必要になったとき、また治せるように。
そう思っていた。
けれど、二人の力をもってしても、ユーハバッハを倒すことはできなかった。
黒い力が広がるたびに、床が裂け、氷が砕ける。ルキアは凍結させた空間を利用して一護の進路を作り、一護はそのわずかな隙を逃さず斬り込んだ。
長く一緒に戦ってきた二人だからこそ可能な連携だった。
それでも。
ユーハバッハは退かなかった。
やがて一護が大きく弾き飛ばされ、ルキアもまた攻撃を受ける。
織姫は残っている力をかき集め、二人へ六花を向けた。
身体が悲鳴を上げる。
それでも、治せた。
再び二人が立ち上がる。
その光景を見て、織姫はどうにか笑おうとした。
まだ大丈夫。
まだ終わっていない。
そう思いたかった。
◇
次に一護の霊圧が変わったとき、織姫は思わず顔を上げた。
それまで感じていたものとは、明らかに違う。
凄まじい力が一護の内側から溢れ出し、周囲の霊子が震えている。死神としての力だけでも、虚としての力だけでもない。滅却師の力も含め、一護の魂を形作るものが激しく反応していた。
彼の頭部には、もう一本の角が現れていた。
さらに首や手足から、血の色をした鎖のような霊圧が迸る。
その姿を見た瞬間、織姫の心臓が跳ねた。
恐ろしいとは思わなかった。
ただ、どれほどの力を引き出しているのか想像もできず、息を呑んだ。
一護が卍解を解き放ったのだ。
織姫は彼の背中を見つめた。
黒崎くんは、どこまで強くなるんだろう。
最初に出会った頃から、一護は何度も強くなってきた。そのたびに傷つき、時には力を失いながら、それでも立ち上がってきた。
そして今、目の前にいる一護は、そのすべてを受け入れた先の姿を見せている。
勝てるかもしれない。
初めて、その考えがはっきりと浮かんだ。
一護が動いた。
その姿が視界から消え、次の瞬間にはユーハバッハへ斬撃が叩き込まれていた。衝撃に床が砕け、黒い霊圧が大きく揺らぐ。
それまで一方的に攻撃を受け続けていた一護が、確かに相手を押している。
織姫は息を止めて見つめた。
ユーハバッハの身体が斬り裂かれる。
確かに傷を負わせた。
だが、男は倒れなかった。
それどころか、身体を覆う黒い力がさらに濃くなっていく。
織姫の胸に、嫌な予感が生まれた。
一護は攻撃を続けた。ルキアも援護へ回り、凍結によって敵の動きを封じようとする。
霊圧がぶつかり合う。
一護の斬撃が大きな弧を描き、月牙の力が炸裂した。
織姫は衝撃に目を細めた。
今度こそ。
そう思った。
けれど、黒い力の中から現れたユーハバッハは、なおも立っていた。
そして次の瞬間、一護が倒された。
信じられなかった。
あれほどの力を引き出したのに。
確かに相手を斬ったのに。
それでも。
「黒崎くん!」
織姫は叫んだ。
地面へ叩きつけられた一護の傷を、反射的に拒絶する。残っていた力が一気に失われていく感覚があったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
治せた。
一護が立ち上がる。
ルキアも隣に並んだ。
まだ二人は諦めていなかった。
織姫には、それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。
このまま戦い続ければ、きっといつか限界が来る。
それは分かっている。
しかし、ここで諦めれば何も護れない。
三界そのものが滅びようとしているのだ。
誰かが止めなければならない。
一護は、そのために戦っている。
織姫も知っていた。
彼がユーハバッハを倒したあと、どんな運命を迎えるつもりでいるのか、そのすべてを知らされていたわけではない。
ただ、一護が自分の身を顧みず、世界を護ろうとしていることだけは理解できた。
だから。
せめて、その戦いの中では。
黒崎くんを一人にしたくなかった。
織姫は再び六花へ意識を向ける。
残された力を確かめる。
ほんの僅かだった。
それでも、まだできることがある。
そう信じたかった。
だが、ユーハバッハの力は織姫の願いを嘲笑うように広がった。
黒い影が床を這い、織姫の身体へ絡みつく。
「っ……!」
振りほどこうとしても、腕が動かない。
身体を持ち上げられ、足が床から離れた。
目の前では一護が再び剣を握っている。
織姫は必死に声を上げようとした。
自分のことはいい。
今はあの人を。
どうか。
その思いに反して、一護は織姫を見た。
ユーハバッハの言葉が耳へ届く。
誰かを護りたいという願いこそ、一護を縛りつけている。自分が護ろうとしている相手がいるからこそ、剣を振るうことすら妨げられるのだと。
織姫の胸が強く締めつけられた。
自分のせいなのだろうか。
黒崎くんは、自分を護ろうとするから。
自分がここにいるから。
けれど、その考えを否定するように、一護は剣を構え直した。
ルキアが横へ並ぶ。
二人の視線が重なる。
冷気が膨れ上がった。
朽木ルキアの卍解。
白霞罸。
視界が白く染まるほどの冷気が広がり、ユーハバッハの周囲を一瞬にして凍結させた。
一護はその瞬間を逃さなかった。
月牙の斬撃が凍てついた空間を走り、ユーハバッハへ叩き込まれる。
織姫は目を見開いた。
今度こそ届いた。
そう思った直後。
氷が砕けた。
黒い力が爆発するように広がり、戦場を一瞬にして呑み込んだ。
織姫の視界が途切れる。
何かが激しくぶつかる音がした。
床が揺れ、身体を拘束していた影まで大きく震えた。
そして、ようやく視界が戻ったとき。
一護は地面に倒れていた。
その身体を縫い止めるように、ユーハバッハの力が突き立っている。
少し離れた場所には、ルキアがいた。
彼女もまた身体を貫かれ、宙へ吊り上げられるような姿勢のまま動かない。
織姫は、何が起きたのか理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「……黒崎くん?」
声が掠れる。
一護は動かない。
「朽木さん……?」
返事はなかった。
織姫の手が震えた。
今まで何度も治してきた。何度一護が倒れても、そのたびに立ち上がれるよう傷を拒絶してきた。自分がどれほど傷ついても、護りたい人たちのために力を使い続けてきた。
なのに今は、手を伸ばすことさえできない。
身体を拘束する影が食い込み、腕を上げようとするたびに痛みが走る。無理矢理に六花を呼ぼうとしても、思ったように力が集まらなかった。
おかしい。
どうして。
まだ治せるはずなのに。
黒崎くんは、そこにいるのに。
織姫の目から涙が零れた。
自分は強くなったつもりだった。
いつまでも護られているだけではなく、少しでも一護の力になれるように、ずっと努力してきた。
けれど、その結果がこれだった。
黒崎くんも、朽木さんも倒れている。
自分には、二人を救う力が足りない。
もし、もっと早く治せていたら。
もし、自分がもっと強い盾を張れていたら。
そもそも二人が傷つくこと自体を防げていたら。
織姫は血に濡れた自分の手を見つめた。
何度も傷を戻した手。
何度も誰かを護ろうと伸ばした手。
それでも、今は何もできない。
胸の奥が締めつけられる。
どうして、自分の力はこんなに小さいのだろう。
あの人たちを護りたいだけなのに。
傷ついてほしくないだけなのに。
織姫は唇を噛んだ。
もっと大きかったら。
もっと。
もっとずっと。
自分では抱えきれないほど大きな力があったなら。
この戦場を全部包み込めるほど。
さらに遠くまで。
世界の端まで届くほど。
そんな力があったなら、何ができるのだろう。
傷を治す必要さえ、なくせるのではないか。
誰かが誰かを傷つけることを。
誰かが痛みに泣くことを。
誰かが大切な人を失うことを。
そういう出来事を、全部拒絶できたなら。
戦いが始まる前に。
誰かが傷つく前に。
何もかもを包み込んでしまえたなら。
黒崎くんも。
朽木さんも。
もう、こんな思いをしなくて済むのに。
◇
髪に留めていた花飾りが、淡く輝いた。
織姫は顔を上げた。
六つの小さな光が、彼女の周囲へ浮かび上がっている。
ずっと共にいてくれた存在たち。
自分が初めて誰かを護りたいと願ったときから、何度も力を貸してくれた大切な仲間だった。
織姫は一つずつ、その姿を確かめた。
「……舜桜」
小さな光が揺れる。
「椿鬼。あやめ……火無菊、梅厳……リリィ」
声に出して呼ぶたび、懐かしい感覚が胸の奥へ戻ってきた。
初めて六花を呼んだときのことを思い出す。
あの頃の自分は、何も知らなかった。
虚が何なのかも、死神が何なのかも。自分がこれほど大きな戦いに関わることになるなんて、想像さえしていなかった。
それでも、一つだけ変わらないものがある。
誰かを護りたい。
その願いだった。
織姫は震える手を持ち上げた。
まだ、力を貸してくれるだろうか。
もう何度も無理をさせてしまった。
自分の身体も、これ以上は耐えられないかもしれない。
それでも。
最後にもう一度だけ。
織姫は六つの光を見つめた。
力を貸して。
黒崎くんを護れるくらい。
朽木さんを護れるくらい。
みんなを護れるくらい。
今までより、ずっと大きな力を。
自分だけでは到底抱えきれないほどの力を。
そう願った瞬間、六花が強く輝いた。
身体を拘束していた黒い影が軋む。
織姫の足元から赤い光が広がり、血に濡れた床へ複雑な模様を描いていった。
最初、織姫は何が起きているのか分からなかった。
六花の力が自分の中で膨れ上がっている。
それは今までの拒絶とはまるで違う感覚だった。
傷一つを治すための力ではない。
攻撃一つを防ぐための盾でもない。
もっと大きなものへ。
今まで触れたこともないほど深いところへ。
自分の意識が引き込まれていく。
織姫は息を呑んだ。
何かが見えた。
崩れていく世界。
裂ける空。
互いの境界を失い、混ざり合おうとしている幾つもの場所。
それが現実の光景なのか、六花の力が見せているものなのかは分からなかった。ただ、このまま放っておけば取り返しのつかないことになるという感覚だけが、胸の奥へ直接流れ込んでくる。
そして、その崩壊には起点があった。
世界を支えていた何かが失われたことで、そこからすべてが壊れ始めている。
織姫はそれが何なのか知らなかった。
三界を保つ楔のことも、新たな霊王が必要になることも、その役目を一護が担わされるはずだったことも。
何一つ。
けれど、壊れようとしていることだけは分かった。
なら。
これも拒絶すればいい。
戦いの中で誰かが傷つくことだけではなく。
誰かが護ろうとしている世界が、失われていくことさえ。
織姫は両手を前へ突き出した。
赤い光が広がる。
六花が織姫を取り囲むように巡り、巨大な輪を作り始めた。
その異変に、ユーハバッハが反応した。
男の視線が一護から外れ、織姫へ向けられる。
初めてだった。
これまでどれほど攻撃を拒絶しても、織姫を取るに足らない存在として扱ってきた男が、明らかな警戒を見せた。
ユーハバッハが何かを言った。
自らの存在まで差し出すつもりなのかと、問いかけているようだった。
織姫は答えられなかった。
自分がどうなるのかなど、そこまで考えていなかったからだ。
ただ。
護りたかった。
目の前で倒れている二人を。
まだどこかで戦っている仲間たちを。
そして、黒崎くんが命を懸けて護ろうとしているものを。
それだけだった。
ユーハバッハの力が織姫へ向かった。
黒い奔流が、残っていた床を削りながら迫る。
織姫は目を閉じなかった。
六花が応える。
迫ってきた攻撃が止まった。
衝突したのではない。
防いだわけでもない。
そこに存在していた攻撃が、少しずつ逆向きにほどけていく。
織姫は自分の力が、攻撃そのものよりさらに奥へ届いていることに気づいた。
攻撃が放たれたという出来事。
その攻撃を生み出した力。
さらに、その力へ繋がるもの。
織姫の拒絶は、一つの傷を元へ戻すときのように、因果を遡っていった。
ユーハバッハの黒い霊圧が乱れる。
男の身体から、これまで取り込んできた力の一部が剥がれ始めた。
それでも男は抵抗した。
世界を呑み込もうとしていた圧倒的な力が、織姫の拒絶へぶつかってくる。
身体が軋んだ。
激しい痛みが走る。
今度は拒絶しても消えなかった。
織姫は自分の手を見た。
指先が、透け始めている。
輪郭から小さな光の粒が零れていた。
何が起きているのか。
ようやく理解し始めた。
この力は、今までのように自分の霊力だけで動いているのではない。
六花を通して引き出しているのは、自分という存在そのものだった。
それを使い切ったら。
自分は、どうなるのだろう。
織姫の身体が震えた。
怖かった。
まだ死にたくなかった。
帰りたかった。
みんなのところへ。
いつもの学校へ。
朝になったら起きて、学校へ行って、帰り道に寄り道をして。
何でもない話をして、くだらないことで笑って。
そんな毎日を、まだ続けていたかった。
茶渡くんにも、石田くんにも、朽木さんにも、また会いたい。
そして。
黒崎くんと。
もっと話したかった。
伝えていないことだって、まだたくさんある。
これから先、一緒に見たいものもあった。
いつか。
戦いが全部終わったら。
何も心配せずに、みんなで笑っていられるようになったら。
そんな未来を、織姫は確かに望んでいた。
だからこそ。
今ここで力を止めてしまったら、その未来ごと失われるかもしれない。
織姫は顔を上げた。
倒れている一護が見える。
傷ついたルキアも。
ユーハバッハの力は、まだ二人を押さえつけていた。
あの人たちを、このままにはできない。
もう一度、六花へ力を注いだ。
赤い光がさらに広がる。
黒い影が引き剥がされ、一護を縫い止めていたものが崩れ始めた。ルキアの身体を貫いていた力も薄れ、彼女の身体が床へ落ちる。
織姫は二人の傷を拒絶した。
最後に残っていた力を使うように、六花の光がそれぞれの身体へ届いていく。
そして、その拒絶は止まらなかった。
世界を崩壊へ向かわせていた力の流れを辿り、失われていた中心へ向かっていく。
壊れた仕組みを元へ戻す。
世界を支えるために必要だった働きを、もう一度そこへ繋ぎ直す。
織姫は、その意味を理解していたわけではない。
自分が何を戻したのかも知らなかった。
ただ、六花の力が何かを掴んだ感覚があった。
ひび割れた世界の奥で、止まっていた何かが再び動き始める。
そこに新しい命が生まれたわけではない。
失われたすべてが蘇ったわけでもない。
けれど、世界を繋ぎ止めるために必要だったものが、再び形を取り戻していく。
そして、三界の崩壊が止まった。
織姫はその瞬間、身体から一気に力が抜けるのを感じた。
もう、足元の感覚がない。
視線を下ろせば、身体の半分近くが光へ変わっていた。
それなのに、不思議と苦しさだけは薄れていた。
怖いという気持ちは、まだ残っている。
帰りたいという思いも消えていない。
けれど。
届いた。
少なくとも、護りたかったものへ自分の力が届いた。
その感覚があった。
ユーハバッハが吠えるように力を振るう。
織姫は最後の力を込めた。
自分の存在を削り取るほどの拒絶が、男の身体を包み込んでいく。
世界を壊そうとしていた力が、世界から切り離されていく。
男の輪郭が揺らぎ、黒い影が崩れた。
ユーハバッハはなおも未来へ干渉しようとした。
だが、その力が向かう先では、織姫の拒絶がすでに働いていた。
男が世界を破壊するために選び取る結果そのものを、織姫はその都度否定していく。
そして最後には、世界を滅ぼす者としてそこに存在し続けるという可能性さえ、六花の光の中へ沈んでいった。
ユーハバッハの姿が、白い光へ呑み込まれる。
織姫はそれを見届けた。
終わったのだろうか。
もう、誰も傷つかずに済むのだろうか。
その答えを確かめようとしたとき。
「井上!」
聞き慣れた声が響いた。
◇
一護が立っていた。
傷だらけの身体で、足元も覚束ない。それでも織姫の方へ向かって走ってきていた。
織姫は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど、次の瞬間には胸がいっぱいになった。
生きている。
黒崎くんが。
ちゃんと立っている。
よかった。
本当に。
それだけで涙が出そうになった。
一護が近づいてくる。
伸ばされた手が見えた。
「井上! 手ぇ伸ばせ!」
その声に、織姫は思わず自分の手を見た。
まだ、動かせる。
今なら届く。
ほんの少しだけ腕を伸ばせば、一護の手に触れられる。
そう思った瞬間、織姫の胸に強い衝動が生まれた。
帰りたい。
今すぐ、その手を掴んで。
黒崎くんと一緒に、みんなのところへ帰りたい。
織姫の指が僅かに動いた。
けれど。
伸ばしかけた手を、止めた。
六花の光はまだ消えていない。
自分の身体は、その光を維持するために少しずつ失われ続けている。
ここで力を止めてしまえば。
今まで拒絶してきたものが、再び世界へ戻ろうとするかもしれない。
あれだけの力を持つユーハバッハが、もう一度立ち上がるかもしれない。
そうなれば、一護はまた戦う。
傷ついても。
倒れても。
最後まで。
織姫は知っていた。
黒崎一護が、そういう人間だということを。
だから。
織姫は手を伸ばさなかった。
一護がさらに近づく。
その顔には、今まで見たことがないほどの焦りが浮かんでいた。
「井上!」
もう少しだった。
あと、ほんの僅か。
一護の指先が織姫へ迫る。
織姫は、その手を見つめた。
触れたかった。
握りたかった。
離れたくなかった。
けれど、自分からは動かなかった。
一護の手が空を掴んだ。
伸ばした指は、織姫に触れない。
織姫は胸の奥が痛くなるのを感じた。
こんな顔をさせたかったわけではない。
黒崎くんには、笑っていてほしかった。
あの人が今まで護ろうとしてきた世界で、家族や友人たちと一緒に。
何でもない毎日を過ごしてほしかった。
そして本当なら。
その中に、自分もいたかった。
織姫は一度だけ目を伏せた。
泣いたら、きっと黒崎くんは余計に心配する。
困った顔をしたって、同じだ。
だから。
最後くらいは。
織姫は振り返った。
黒崎一護を、まっすぐに見た。
いつものように。
教室で目が合ったときのように。
何でもない話をして、笑いかけるときのように。
精いっぱいの笑顔を浮かべた。
そして、口を開いた。
一護が何かを叫んでいる。
けれど、その声はもう遠かった。
自分の声も、きっと届いていない。
それでも構わなかった。
伝えたかった。
少しでも。
最後まで。
織姫は一護を見つめ、言葉を紡いだ。
その瞬間、残っていた身体の輪郭が光へ変わった。
六花の輝きが大きく膨れ上がる。
赤く染まった花弁のような光が舞い、真世界城を白く塗り潰していく。
一護が最後に伸ばした手は、その中を通り抜けた。
何も掴めなかった。
そして。
井上織姫は、光の中へ消えた。
◇
音が戻ったとき、一護はまだ腕を伸ばしていた。
指先に残っているはずの感触を探すように、ゆっくりと手を握る。
何もなかった。
ほんの少し前まで、そこに井上がいた。手を伸ばせば届く距離にいたのに、気づけば目の前には白い光の名残さえ残っていない。
一護は顔を上げた。
ユーハバッハの姿は消えていた。
あれほど凄まじかった霊圧も感じられない。三界を押し潰すように広がっていた不安定な力も、いつの間にか鎮まっている。
少し離れた場所ではルキアが倒れていた。まだ傷は残っているようだが、呼吸はある。生きていると分かった途端、胸の奥に僅かな安堵が生まれた。
だが、すぐに別の感情がそれを押し流した。
「……井上?」
返事はなかった。
一護は周囲へ意識を広げた。
霊圧を探す。
これほど大きな力を使ったのだ。どこかへ飛ばされただけかもしれない。消えたように見えて、別の場所に移動しただけという可能性だってある。
そう考え、一護は必死に織姫の気配を探した。
けれど見つからなかった。
尸魂界でも、虚圏でも、どこにいても間違えるはずのない霊圧だった。何度も近くで感じてきた。自分が傷ついたときには、その気配にどれほど助けられただろう。
だから、見つけられるはずだった。
しかし、どれだけ意識を広げても、あの柔らかな気配は返ってこなかった。
一護はゆっくりと腕を下ろした。
世界は残っている。
ユーハバッハも消えた。
戦いは終わったのだろう。
本来なら、このあと自分がどうなるのかについても、一護はある程度の覚悟をしていた。失われた霊王に代わり、三界を繋ぎ止める楔になる。ユーハバッハを倒した先に待つかもしれないその運命を、一護はすでに知っていた。
それでも戦った。
そうしなければ、護りたいものがすべて失われるからだ。
なのに今は、自分の行く末について考える余裕さえなかった。
ただ、目の前からいなくなった一人の少女を探していた。
「……井上」
呼びかけても、返事はない。
一護はそこで、最後に見た織姫の顔を思い出した。
笑っていた。
あんな状況で。
自分の身体が消えかけているのに、あいつは笑っていた。
そして、何かを言っていた。
声は聞こえなかった。
けれど、唇が動いていたことだけは覚えている。
何度もその瞬間を思い返す。
織姫が振り返る。
笑う。
そして、口を開く。
最初の言葉は、すぐに分かった。
別れの言葉だった。
一護は息を呑んだ。
そんなことを言うな。
そう思った。
けれど、記憶の中の織姫はまだ口を動かしている。
続きがあった。
一護は必死に、その唇の動きを思い返した。
何を言った。
最後に。
あいつは。
やがて、聞こえなかったはずの声が、一護の記憶の中で形を持った。
――バイバイ、黒崎くん。あたしがぜーんぶ、受け止めるね!
「……ふざけんなよ」
掠れた声が漏れた。
一護は何も掴めなかった手を見つめた。
井上は自分を護った。
ルキアも。
世界も。
そのために、最後まで力を使った。
そのことを責められるはずがなかった。
一護自身、ずっと誰かを護るために戦ってきたのだから。
誰かが傷つくくらいなら自分が前へ出る。何かを失うくらいなら、自分が剣を握る。その考えを、織姫だけが間違っているなどと言えるはずもない。
だからこそ、苦しかった。
あいつは、自分が何度もしてきたことを最後にやったのだ。
ただ、相手を護りたくて。
それだけのために。
一護は歯を食いしばった。
もっと早く気づいていれば。
自分がもう少し強ければ。
最後に伸ばした手が、届いていたなら。
考えても答えは出ない。
何か一つ違えば結果が変わったのかどうかさえ、今の一護には分からなかった。
ただ、あの瞬間に自分の手が届かなかったことだけは、どうしようもない事実だった。
一護はゆっくりと顔を上げた。
戦場には、黒い影も白い光も残っていない。
荒れ果てた床と、崩れた建物。
そして、静寂。
ユーハバッハという脅威が消えたことを、世界そのものが示しているようだった。
けれど一護には、まだ知る由もなかった。
織姫の最後の拒絶が、単にユーハバッハを退けただけではなかったことを。
崩壊しかけていた三界の奥深くまで届き、失われていた楔の働きを取り戻していたことを。
その結果、本来なら自分へ課されるはずだった役目まで、必要なくなっていたことを。
ただ一つだけ、今の一護にも分かることがある。
井上織姫がいない。
世界を護るために戦った。
仲間を護るために剣を握った。
その結果、自分は生き残った。
けれど最後に自分を護ってくれた少女だけが、どこにもいなかった。
「……井上」
一護はもう一度だけ名前を呼んだ。
返事はなかった。
その日、三界は滅びを免れた。
長きにわたる戦いは終わりを迎え、黒崎一護は生き残った。
多くの命が護られた。
そして、そのすべてを受け止めた井上織姫だけが、帰ってこなかった。