鈍い音が、ジムの中に響いた。
天井から吊るされたサンドバッグが大きく揺れる。
「おお、いいねえ。けど、ちょっと力みすぎだな」
トレーナーが笑いながら言った。
「拳だけで打とうとするな。足から腰、肩へ力を伝えていくんだ。ほら、もう一回」
「……はい」
茶渡泰虎は頷き、構え直した。
大柄な身体に比べると、その動きはどこか慎重だった。
左足を前へ出し、拳を上げる。
一度呼吸を整えてから、ゆっくりと踏み込んだ。
拳がサンドバッグへ当たる。
今度は先ほどよりも短く、重い音が響いた。
「そうそう。今の方がいい」
トレーナーが頷く。
茶渡は自分の拳を見下ろした。
「……これで、いいんですか」
「初日なら十分だよ。お前、体格もいいし、しっかり練習すれば面白そうだな」
そう言われても、茶渡はあまり嬉しそうな顔をしなかった。
むしろ、少し考え込んでいる。
「どうした?」
トレーナーに尋ねられ、茶渡は顔を上げた。
「……いや」
「何か気になることでもあるのか?」
少しの沈黙。
やがて茶渡は、握った拳を見つめながら言った。
「……人を殴るための練習をしているんだと思うと、少し」
トレーナーは一瞬きょとんとした。
それから、笑った。
「なるほどな。そいつは大事な感覚だ」
茶渡が顔を上げる。
「ボクシングは相手を殴る競技だ。そこは間違いない。ただし、何をしてもいいわけじゃない。ルールがあって、相手がいて、お互いに納得したうえで技術を競う」
トレーナーはサンドバッグを軽く叩いた。
「それに、殴られる側の痛みを知らない奴は、まともにボクシングなんかできねえよ」
茶渡は黙って聞いていた。
「まずは身体の動かし方を覚えよう。人と打ち合うのは、それからでいい」
「……分かりました」
茶渡は深く頷き、再びサンドバッグへ向き直った。
少し離れたベンチで、一護はその様子を眺めていた。
茶渡とボクシングジムの見学を約束したのは、少し前のことだ。
祖父から届いた手紙をきっかけに、茶渡は自分の拳について改めて考えるようになったらしい。
それから自分でジムを調べ、体験練習に申し込んだ。
一護は以前の約束どおり、付き添いとして来ている。
壁には大会の賞状が並び、奥のリングからはミットを叩く乾いた音が聞こえていた。
空手の道場とは違う。
けれど、真剣に身体を動かす人間たちのいる場所特有の空気は、嫌いではなかった。
「おい、そこのオレンジ頭」
突然呼ばれ、一護は顔を上げた。
「……俺っすか?」
「お前も少しやってみるか?」
トレーナーがグローブを持ち上げた。
「見てるだけじゃつまんねえだろ」
一護は少し考えた。
「じゃあ、お願いします」
立ち上がってグローブを受け取り、サンドバッグの前へ移動する。
「お前、何か格闘技やってるか?」
「空手を。四歳からっすね」
「お、そりゃ長いな」
一護が構えると、トレーナーはすぐに首を振った。
「そのままだとパンチを打ったあとに隙ができるな。拳はこっち。顎はもう少し引いて」
「……こうっすか?」
「そうそう。じゃあ、軽く打ってみろ」
一護は右拳を伸ばした。
サンドバッグが揺れる。
「悪くねえ。ただ、空手の突きとは違うだろ?」
「……ですね」
拳の軌道も、足の運びも違う。
腰を回して体重を乗せようとすると、普段の癖が出る。
何度か打ち直すうちに、一護は小さく笑った。
「……なるほどな」
「面白いだろ?」
「はい」
トレーナーが笑う。
「身体の使い方なんて、覚えれば覚えるほど分からねえことが出てくるもんさ」
一護は頷き、もう一度拳を伸ばした。
隣で茶渡が見ている。
「……一護」
「ん?」
「楽しそうだな」
一護は拳を引いた。
「まあな。お前もだろ?」
茶渡は少しだけ考え、それから頷いた。
「……ああ」
一護は笑った。
「なら、よかったじゃねえか」
*
ジムを出る頃には、すっかり日が傾いていた。
商店街を吹き抜ける風が冷たい。
一護は肩を回しながら、隣を歩く茶渡へ顔を向けた。
「で、あそこに決めんのか?」
「……そのつもりだ」
「そっか」
「……付き合ってくれて、ありがとう」
「別に礼なんかいいって。俺も面白かったしな」
茶渡は小さく頷いた。
交差点へ差しかかると、信号待ちの車が列を作っていた。
道路工事の影響で歩道が狭くなっており、警備員とプロヒーローが通行人を誘導している。
近くのビルには、人気ヒーローの大きな広告が掲げられていた。
茶渡がそれを見上げる。
「……一護は、将来のことを考えているか?」
「あ?」
「高校とか、その先のことだ」
一護は少し考えた。
「……まだ、はっきりとはな」
「そうか」
「チャドは?」
「……俺も、まだだ」
茶渡は自分の拳へ目を落とした。
「だが、しばらくはボクシングを続けたい」
「おう。それでいいんじゃねえか」
一護は笑った。
そのまま信号を渡り、それぞれの家へ向かう道で別れる。
ヒーローの広告は、曲がり角を抜けると見えなくなった。
*
黒崎一護の個性検査は、相変わらず難航していた。
「……うーん」
白衣の医師が、モニターを眺めながら唸った。
机の上には、木片と金属球が置かれている。
一護の隣には真咲が座っていた。
「発動そのものは安定してきているんだけどね」
医師が映像を再生する。
画面の中で、一護が手を伸ばした。
木片が、何にも触れられていないのに数センチ移動する。
「やはり、単純な念動力とは少し違うようだ」
「……そうっすか」
「重さと動かしやすさが一致していないんだよ。こちらの金属球より、いつも使っている筆箱の方が反応がいい」
一護は頷いた。
「確かに、そうですね」
「何か違いを感じる?」
「……慣れてる物の方が、動かしやすい感じはします」
医師は記録を取った。
「なるほど。本人との接触頻度や愛着が関係している可能性もあるね」
その言葉に、一護は小さく頷いた。
完全に間違っているわけではない。
物質に宿る魂。
それに働きかける、完現術。
以前の人生で身につけた能力だった。
ただし、一護はその仕組みを医師に説明するつもりはなかった。
説明したところで、理解してもらえるか分からない。
まして、前世の話まで持ち出すことになる。
今は、検査を通じて自分の身体の状態を知るだけで十分だった。
「黒崎君、以前よりも長く発動を維持できるようになっているね」
「はい」
「ただ、まだ出力にばらつきがある。これからも少しずつ慣らしていこう」
一護は頷いた。
診察室を出ると、真咲が横から顔を覗き込んできた。
「一護、最近はどう?」
「何が?」
「訓練よ。大変じゃない?」
一護は少し考えた。
「……まあ、面倒っちゃ面倒だけど」
「ふふ。あなたらしいわね」
真咲は笑った。
「でも、焦らなくていいんだからね」
「分かってるよ」
そう答えながら、一護は少しだけ眉を寄せた。
焦っているつもりはなかった。
いや、まったく焦っていないと言えば嘘になる。
以前の人生では、もっと自由に力を使えていた。
死神の身体なら、斬月を振るうこともできる。
魂の奥にある力も、消えたわけではない。
ただ、人間の姿で完現術を使おうとすると、どうにも感覚が掴みきれなかった。
物を動かす。
それ自体はできる。
しかし、そこから先がなかなか進まない。
何かを見落としているような気もするが、はっきりとは分からなかった。
*
中学二年生になった春。
一護は道場で、久しぶりに有沢たつきと組手をしていた。
互いに個性は使わない。
純粋な空手の稽古だった。
「……っ!」
たつきが踏み込む。
鋭い突きが伸びた。
一護は半歩下がって避ける。
だが、たつきはすぐに追撃へ移った。
「逃げんな!」
「逃げてねえよ!」
一護は笑いながら構え直した。
たつきの足が動く。
今度は正面から来ると見せかけ、横へ回り込んだ。
一護が反応する。
しかし、その瞬間にはもう、たつきの拳が伸びていた。
「……っ!」
咄嗟に受ける。
腕へ衝撃が走った。
たつきがにやりと笑う。
「どう?」
「……前より速くなったな」
「でしょ!」
嬉しそうな声だった。
そのまま攻め込もうとしたところで、師範の声が響いた。
「そこまで!」
二人は構えを解き、礼をする。
畳の端へ戻ると、たつきがタオルで汗を拭った。
「あー、惜しかった!」
一護は水筒を取り出した。
「最後のやつ、結構危なかったぞ」
「でも当たんなかったじゃん」
「当てさせるかよ」
「次は当てる!」
「はいはい」
たつきはむっとした顔になる。
だが、すぐに笑った。
「そういえばさ、一護」
「ん?」
「高校、どこ行くか考えてる?」
一護は水筒を下ろした。
「……まだ決めてねえな」
「ふーん。あたしも、どうしよっかなって」
たつきは膝を抱えた。
「空手は続けたいけど、それだけで決めるのも何か違うし」
「まあ、まだ時間あるだろ」
「そうなんだけどね」
たつきは少しだけ考え、それから一護を見た。
「一護は、何かやりたいことないの?」
「……やりたいこと、ねえ」
口にしてから、少し黙る。
何か特別な職業に憧れているわけではなかった。
ただ、力を使えるようにはなりたい。
昔から、そうだった。
「……ま、何かあったときに動けるくらいにはなっときてえな」
「何それ」
たつきが笑った。
「相変わらずだね、一護は」
「何がだよ」
「別に?」
そう言って、たつきは立ち上がった。
「よし! 次、もう一本やろ!」
「……お前、元気だな」
「当たり前でしょ!」
一護は呆れながらも立ち上がり、再び畳へ向かった。
*
夏休みが終わって間もない、九月のある日。
一護は雨竜と駅前の書店へ向かっていた。
授業で使う参考書を探していたところ、雨竜が医学関係の本も見たいと言い出したのだ。
「お前、本当に医者になるつもりなんだな」
一護が言うと、雨竜は眼鏡を押し上げた。
「当然だろう。前にも話したはずだ」
「いや、分かってるけどよ」
「君は進路を決めたのか?」
「……まだ」
「そろそろ考えておいた方がいいぞ」
「分かってるよ」
雨竜は少しだけ溜息をついた。
「君は何事も、ぎりぎりになってから動くところがあるからな」
「……お前に言われると腹立つな」
そんなことを話しながら、二人は商店街へ入った。
午後四時を少し過ぎた頃だった。
人通りは多く、買い物帰りの親子や学生たちが行き交っている。
通りの向こうから、突然、悲鳴が聞こえた。
「きゃああっ!」
一護の足が止まった。
雨竜も顔を上げる。
続いて、何かが派手に壊れる音。
通行人が、こちらへ向かって走ってきた。
「ヴィランだ!」
「逃げろ!」
一護はすぐに動いた。
「おい、黒崎!」
雨竜が呼ぶ。
だが、一護はすでに人混みを抜けていた。
角を曲がる。
その先には、異様な光景が広がっていた。
車道の中央で、黒ずんだ粘液のようなものが蠢いている。
その中心から、人間の上半身にも似た形が浮かび上がっていた。
液状の身体を持つヴィランらしい。
触手のようなものを伸ばし、周囲の車や街灯へ絡みついている。
その正面には、プロヒーローが立っていた。
両腕から青白い電流を放つ男性だった。
「下がってください! 危険です!」
ヒーローが声を張り上げる。
警察官たちは道路の両端で通行人を誘導していた。
だが、一護の目は別の場所を捉えていた。
ヴィランの背後。
ガードレールのそばに、小学生くらいの女の子がいた。
ランドセルの肩紐が黒い粘液に絡みつき、右腕にも細い触手が巻きついている。
女の子は必死に身体を引いていた。
しかし、動けない。
「……っ!」
一護は顔をしかめた。
「ママ……!」
細い声が聞こえた。
ヒーローが右腕を構える。
青白い電流が走った。
だが、撃たなかった。
ヴィランの身体へ繋がる触手。
そこには女の子が捕まっている。
液状の身体へ電気を流せば、女の子まで巻き込んでしまう可能性があった。
「くそっ……!」
ヒーローは通信機へ声を飛ばした。
「救助班はまだか!」
『到着まで数分! 対象の性質に対応できるヒーローを向かわせています!』
「急いでくれ! こっちじゃ迂闊に攻撃できねえ!」
一護にも事情は分かった。
相性が悪い。
大きな攻撃を仕掛ければ、人質を危険に晒してしまう。
だから、適任のヒーローが来るまで待つ。
間違った判断ではないのだろう。
その間も、ヒーローは何もしないわけではなかった。
ヴィランが移動しようとするたびに進路を塞ぎ、女の子から注意を逸らそうとしている。
周囲では警察官たちが避難を進めていた。
誰もが、自分にできることをしている。
だが。
「……いや……!」
女の子の身体が、ずるりと引きずられた。
腕に巻きついた粘液が、少しずつ太くなっていく。
「たすけて……!」
その声を聞いた瞬間。
一護の身体は、もう動いていた。
「――黒崎!」
後ろから雨竜の声がした。
聞こえていた。
危険なのも分かっている。
それでも、足は止まらなかった。
車道へ踏み込む。
停車していた車の脇を抜け、ヴィランの背後へ回ろうとする。
そのときだった。
女の子の足が、完全に地面から離れた。
ヴィランの身体へ引き寄せられていく。
「……っ!」
一護は強く地面を蹴った。
足元に淡い緑の光が走る。
次の瞬間、景色が横へ流れた。
「……っ!?」
思いがけない加速に、身体が前のめりになる。
つい先ほどまで数メートル先にいた女の子が、もう目の前にいた。
一護は咄嗟に足を踏ん張り、勢いを殺しながら手を伸ばした。
「おい!」
女の子が顔を上げた。
「……っ、たすけて!」
「分かってる!」
一護はランドセルの肩紐を掴んだ。
粘液に絡め取られた部分へ目を向ける。
留め具がある。
そこを外せば、少なくとも背中は自由になる。
一護は片手で女の子の身体を支え、もう片方の手を伸ばした。
「じっとしてろ!」
金具へ指をかける。
粘液が滑る。
だが、何とか留め具を外した。
ランドセルが背中から離れる。
しかし、腕に巻きついた触手は残っていた。
「……くそ!」
一護は触手を掴んだ。
引き剥がそうとする。
だが、粘液は伸びるばかりで、簡単には離れない。
そのとき、ヴィランがこちらへ振り返った。
「……何してやがる!」
黒い塊から、太い触手が伸びる。
一護は咄嗟に女の子を庇った。
背中へ、鈍い衝撃が走る。
「……っ!」
身体が前へ押し出された。
それでも、女の子から手は離さなかった。
触手が肩へ絡みつく。
強く引かれた。
一護は歯を食いしばった。
このままでは、二人とも捕まる。
視線を落とす。
女の子の腕へ巻きついた粘液。
その近くで、小さな金属片が揺れていた。
ランドセルから外れた留め具だった。
一護はそれへ意識を向けた。
物質に宿る魂。
その感覚は、もう何度も確かめている。
金属片が僅かに動いた。
触手の一部が緩む。
一護はその隙間へ指を入れ、女の子の腕を引き抜いた。
「走れ!」
女の子を歩道へ向けて押し出す。
その先では、雨竜が待っていた。
「こっちだ!」
雨竜が女の子の身体を受け止め、安全な場所へ引き寄せる。
一護はそれを確認した。
だが、次の瞬間。
肩へ絡みついた触手が強く引かれた。
「……っ!」
身体が車道へ引き戻される。
ヴィランの顔が近づいてきた。
「このガキ……!」
一護は顔をしかめた。
地面に足をつける。
先ほどと同じ感覚が、身体の奥に残っていた。
一護は反射的に横へ跳んだ。
肩に絡みついた触手が大きく引き伸ばされ、ヴィランの上体が僅かに傾く。
完全には振り切れない。それでも、女の子からさらに距離を取ることはできた。
「今だ!」
ヒーローの声が響く。
青白い光が視界を横切った。
電流がヴィランの身体へ走る。
黒い粘液が激しく痙攣し、一護の肩を拘束していた触手が緩んだ。
「……っ!」
一護は地面へ転がった。
すぐに起き上がろうとする。
しかし、肩に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
その間にも、ヒーローはヴィランへ攻撃を続けていた。
人質が離れたことで、ようやく十分な力を使えるようになったのだ。
さらに、別の方向から応援のヒーローたちが到着する。
拘束用の装備が展開され、ヴィランの身体が固定されていった。
一護はその光景を見届けた。
「……ふう」
大きく息を吐く。
どうやら、終わったらしい。
歩道の向こうでは、女の子が母親に抱きしめられていた。
泣きながら、何度も頷いている。
一護はそれを見て、少しだけ笑った。
「……よかった」
そのとき。
「黒崎!」
雨竜が駆け寄ってきた。
怒っているような、安心しているような顔だった。
「君は……!」
一護は苦笑した。
「……悪い」
「悪いで済むか!」
雨竜が珍しく声を荒らげた。
「一歩間違えば、君まで捕まっていたんだぞ!」
「……捕まってたけどな」
「冗談を言うな!」
一護は言い返せなかった。
雨竜は肩の傷を見て、さらに眉を寄せた。
「動くな。救急隊が来ている」
「いや、これくらいなら――」
「動くなと言っている!」
「……分かったよ」
一護は大人しく座り直した。
雨竜は深く息を吐く。
それから、少しだけ声を落とした。
「……助かったんだ。あの子は」
一護は顔を上げた。
「ああ」
それだけ答えて、再び女の子の方へ目を向ける。
母親に抱きしめられた小さな背中。
無事だった。
そのことに、ようやく実感が湧いてきた。
そして、ふと。
一護は自分の足元へ視線を落とした。
あの加速。
最初に踏み込んだときの感覚。
足元で弾けた、あの音。
「……そういや」
思わず、小さく呟いた。
覚えがあった。
以前の人生で、何度も使っていた。
完現光。
ブリンガーライト。
地面や空気に宿る魂を利用し、自分自身の移動を助ける完現術の技術だった。
一護はしばらく、自分の足を見つめていた。
「……そういうことかよ」
口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
雨竜が首を傾げる。
「……黒崎?」
「いや」
一護は顔を上げた。
「何でもねえ」
そう答えながらも、頭の中では別のことを考えていた。
物を動かす。
そればかり練習していた。
完現術の感覚を取り戻すには、まず小さな物を動かせるようにならなければならない。
そう考えていた。
それが間違いだったとは思わない。
だが、いつの間にか、そこだけに意識が向いていた。
足元の地面も。
踏み込む瞬間に触れる空気も。
最初から、ずっとそこにあったというのに。
一護は小さく息を吐いた。
「……ったく」
自分でも、少し呆れた。
*
事件のあと、一護は随分と叱られた。
現場のヒーローからも、警察官からも、学校の教師からも。
そして何より、真咲からだった。
「一護!」
病院の診察室で、真咲が声を上げた。
一護の肩には湿布が貼られ、腕には包帯が巻かれている。
幸い骨折はなかったが、筋肉を痛めているため、しばらく激しい運動は禁止された。
「何を考えてたの!?」
一護は椅子に座ったまま、少しだけ顔を逸らした。
「……ごめん」
「ごめんじゃないでしょう!」
真咲の声が震えていた。
一護は顔を上げる。
母親の目には、涙が浮かんでいた。
「あなたまで大怪我してたら、どうするつもりだったの……!」
一護は何も言えなかった。
その横で、一心が腕を組んでいる。
普段なら大袈裟に騒ぎ出すところだが、今日は静かだった。
「……一護」
一心が口を開いた。
「助かった子がいる。それはよかった」
「ああ」
「だが、お前が死んじまったら、俺たちはどうすりゃいい」
一護は父親を見た。
一心は真面目な顔をしていた。
「お前は人を助けた。けど、その代わりに自分を粗末にしていいわけじゃねえぞ」
その言葉に、一護は黙って頷いた。
「……分かってる」
本当に、分かっていた。
あのとき、少しでも動きが遅れていたら。
あの触手がもう少し強く締めつけていたら。
女の子を助けるどころか、自分も捕まっていただろう。
そうなれば、ヒーローたちに余計な負担をかけていた。
下手をすれば、誰かが傷ついていたかもしれない。
それでも。
あの場で女の子が泣いていた。
助けを求めていた。
その姿を見た瞬間、もう身体が動いていた。
考えるより早く。
昔から、そうだった。
「……でも」
一護は小さく口を開いた。
真咲が顔を上げる。
「……同じような状況に出くわしたら、多分また突っ込んじまうと思う」
それ以上、上手く言葉が続かなかった。
真咲はしばらく一護を見つめていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……そう言うと思った」
真咲は困ったように笑った。
「でもね、一護。あなたにも、帰ってきてほしいの」
一護は黙っていた。
「誰かを助けるために頑張るのは、悪いことじゃない。でも、自分のことも大切にして」
真咲は少しだけ笑った。
「お母さんからのお願い」
一護はゆっくりと頷いた。
「……ああ」
一心が隣で大きく息を吐いた。
「まったく。息子がどんどん無茶なことを覚えやがって」
「親父にだけは言われたくねえ」
「何だと!?」
いつもの調子に戻った一心を見て、真咲が小さく笑った。
一護も少しだけ口元を緩めた。
*
学校へ復帰した一護を待っていたのは、啓吾の大騒ぎだった。
「一護ぉぉぉ!」
「うおっ!?」
教室へ入った途端、啓吾が飛びついてきた。
一護は咄嗟に身体を引いた。
「危ねえだろ! 肩痛めてんだよ!」
「心配したんだぞ、この野郎!」
「分かった! 分かったから離れろ!」
啓吾が大袈裟に涙を拭う。
水色は隣で笑っていた。
「啓吾、昨日もずっと一護のこと話してたからね」
「うるせえ! 友達が怪我したら心配すんのは当たり前だろ!」
一護は少しだけ目を瞬いた。
そして、笑った。
「……ありがとな」
啓吾は一瞬きょとんとした。
それから、照れくさそうに顔を逸らす。
「……お、おう」
茶渡が近づいてきた。
「……一護、肩は大丈夫か?」
「ああ。もうちょいしたら普通に動かせるってさ」
「そうか」
茶渡は安心したように頷いた。
「無理はするな」
「お前まで言うのかよ」
「……当然だ」
一護は苦笑した。
そのとき、雨竜が教室の入口から顔を出した。
「黒崎」
一護は振り返る。
「おう、石田」
「少しいいか」
雨竜は手に持っていた資料を差し出した。
そこには、救助活動の基本や、個性を使用する際の安全管理についての解説がまとめられていた。
一護は目を瞬いた。
「……何だ、これ」
「前に医療関係の講習で使った資料と、一般向けの救助講習の案内だ。君にも役立つと思ってね」
「……わざわざ?」
「別に大した手間じゃない」
雨竜は眼鏡を押し上げた。
「ただし、勘違いしないでくれ。あの日の君の行動を、全面的に肯定するつもりはない」
「分かってるよ」
「分かっているなら、ちゃんと読んでおけ」
一護は資料へ目を落とした。
救助時の優先順位。
二次災害の危険。
現場の安全確認。
専門家への引き継ぎ。
どれも、今までに訓練施設で教わってきたことだった。
それでも、実際の現場では上手くできなかった。
一護は資料を鞄へしまった。
「……ありがとな、石田」
雨竜は頷いた。
その横で、啓吾が勢いよく手を上げる。
「よーし! じゃあ今度みんなで救助講習行こうぜ!」
水色が笑った。
「啓吾、ちゃんと勉強する気あるの?」
「あるに決まってんだろ!」
「昨日の宿題は?」
「……それは別の話だ!」
一護は額に手を当てた。
「お前なあ……」
教室に笑い声が広がった。
茶渡も静かに笑っていた。
*
事件から二週間が経った頃。
一護は自室で、久しぶりに身体を動かしていた。
肩の痛みはほとんど引いている。
医師からも、軽い運動なら問題ないと言われていた。
机を端へ寄せ、床に立つ。
靴は履いていない。
一護は自分の足元を見つめた。
「……さて」
あのときの感覚。
地面を蹴った瞬間、身体が予想以上に前へ進んだ。
完現光。
間違いない。
以前の人生で、銀城たちと訓練していた頃から使っていた技術だった。
だが、今の身体では上手く再現できていなかった。
完現術の基礎からやり直そうと思い、物体の魂へ干渉する訓練を続けていた。
それ自体は無駄ではなかった。
実際、以前よりも力の制御は安定している。
ただ、どうやら少しばかり考え違いをしていたらしい。
「……物を動かすことばっか考えてたな」
一護は小さく呟いた。
足元へ意識を向ける。
床。
そこに宿る魂。
以前は、それを無意識に引き出していた。
だが、今は違う。
小さな木片を動かすときのように、床そのものを操ろうとしてしまう。
それでは、感覚が違う。
あのとき。
女の子を助けようと踏み込んだ瞬間。
自分は何も考えていなかった。
ただ、足を動かした。
それだけだった。
「……そうだよな」
一護は少し笑った。
床へ意識を集中するのをやめた。
代わりに、いつものように一歩踏み出す。
踏み出した瞬間、予想よりも大きく身体が前へ進んだ。
「……おっ」
もう一度。
今度は少しだけ速く踏み込む。
数歩分の距離が一瞬で詰まり、一護は慌てて足を止めた。
「……っぶねえ!」
危うく机へぶつかるところだった。
一護は苦笑しながら、足元を見た。
「……できんじゃねえか」
今まで何度も試していた。
だが、上手くいかなかった。
それが、ほんの少し意識を変えただけで、あっさりと動いた。
いや、違う。
意識を変えたからではない。
余計なことを考えるのをやめたからだ。
以前の自分がどう動いていたか。
それを、身体へ思い出させただけだった。
『……ハッ』
頭の奥から、笑い声が響いた。
一護は顔をしかめた。
「……何だよ」
『いや、別に?』
白い斬月の声だった。
『ずいぶん遠回りしたじゃねえか、相棒』
「……うるせえ」
『木の切れ端だの鉄の玉だの、ちまちま動かしてよ。てめえが動きゃよかっただけじゃねえか』
一護は溜息をついた。
「分かってるよ」
『本当に分かってんのか?』
白い男が楽しそうに笑っているのが、声だけで分かった。
一護は額へ手を当てた。
「……ったく」
そのとき、別の声が響いた。
『だが、無駄ではなかった』
老いた斬月だった。
『小さなものへ力を通す訓練を続けたからこそ、今は無意識の動きを再現できる』
「……ああ」
『ただ、お前は一つ忘れていたようだな』
一護は少しだけ眉を寄せる。
「……何をだよ」
『お前の力は、物を動かすためだけのものではない』
その言葉に、一護は黙った。
分かっていたはずだった。
完現術は、物質に宿る魂を引き出す力。
だが、それは決して、物体を浮かせたり移動させたりするだけのものではない。
足元の魂を利用すれば、身体を動かせる。
空気の魂を利用すれば、さらに移動を補助できる。
そして。
一護は、自分の手を握った。
力を通す対象は、何も外にある物だけではなかった。
「……そういうことか」
小さく呟いた。
老いた斬月は、それ以上何も言わなかった。
白い斬月が笑う。
『ようやく頭が回り始めたみてえだな、王様』
「だから、その呼び方やめろって」
一護は苦笑した。
そして、もう一度床へ足をつけた。
*
翌週。
個性訓練施設の指導員は、少し驚いた顔をしていた。
「……黒崎君、今のもう一回できる?」
「はい」
一護は頷き、マットの上に立った。
軽く踏み込んだ一護は、一気に数メートルの距離を詰め、その場で足を止めた。
そのまま姿勢を崩さず足を止める。
指導員がモニターへ目を向ける。
「……へえ」
一護は振り返った。
「どうっすか?」
「驚いたな。前回までとは、発動の仕方がかなり違う」
指導員は記録を確認した。
「物を動かすときより、ずっと自然に力が出ているね」
「……そうっすね」
「何かきっかけがあったの?」
一護は少し考えた。
「……ちょっと、身体の使い方を変えてみたんです」
「なるほど」
指導員は頷いた。
「それで、こんなに変わるのか。面白いね」
一護は小さく笑った。
今までの訓練が間違っていたわけではない。
だが、少し偏っていた。
物を動かすことばかり考えていたせいで、自分自身の身体を動かすという発想が、どこか後回しになっていた。
それに気づけただけでも、大きな収穫だった。
「ただし、速度が上がる分、止まるときの負担も大きくなるね」
指導員が言った。
「今の動きだと、膝や足首にかなり負担がかかっているはずだ」
一護は頷いた。
「……はい」
「ここからは、加速だけじゃなくて減速と方向転換も練習しよう。それと、身体への負担を抑える方法も考えないとね」
一護は自分の足元へ視線を落とした。
以前なら、そんなことは意識する必要もなかった。
だが、今の身体では違う。
それでも。
身体を動かせるようになったのなら、話は変わる。
力を通す先を、もう少し広げればいい。
「……やってみます」
一護は顔を上げた。
指導員が頷く。
「よし。じゃあ、次は少し速度を落として、確実に止まる練習から始めよう」
「はい」
一護は再びスタート地点へ戻った。
*
それからの訓練は、以前よりもずっと順調に進んだ。
完現光による短距離の加速。
減速。
方向転換。
最初は数メートル移動するだけでも姿勢が崩れていたが、繰り返すうちに少しずつ安定してきた。
特に、身体へ霊力を巡らせる感覚を取り戻してからは、動きが大きく変わった。
完現術で身体を動かす。
その動きに合わせて、霊力で身体を支える。
どちらか一方ではなく、二つを合わせて使う。
以前の人生では当たり前に行っていたことだった。
だが、新しい肉体では、まずその感覚を馴染ませる必要があった。
もちろん、いきなり以前と同じ出力を扱えるわけではない。
だが、少なくとも、強い力を使うたびに身体が壊れそうになるという問題は、かなり改善されていった。
今の身体が、特別に脆いわけではない。
ただ、力の通し方が噛み合っていなかったのだ。
そこが分かれば、あとは練習するだけだった。
冬が過ぎ、春が近づく頃。
一護は訓練施設で、以前よりもずっと自然に身体を動かせるようになっていた。
短距離なら、完現光を使った加速も安定している。
身体への負担も、以前ほど大きくない。
さらに、霊力を巡らせることで、打撃や着地の衝撃にも対応できるようになっていた。
もっとも、全力で動けるかと言われれば、まだ難しい。
以前の人生で使っていた力を、そのまま再現できるわけではなかった。
それでも。
「……よし」
訓練区画の端で、一護は小さく息を吐いた。
以前とは違う。
確かに、前へ進んでいる。
*
三年生になった春。
学校では進路の話題が増え始めていた。
啓吾は相変わらず騒がしく、水色はそんな彼をからかいながらも、時々勉強を教えていた。
茶渡はボクシングを続けている。
以前より身体が引き締まり、動きにも無駄がなくなってきた。
雨竜は医学部進学へ向けて、着実に準備を進めていた。
それぞれが、少しずつ自分の道を考え始めていた。
そして、ある日の昼休み。
「一護」
茶渡が声をかけてきた。
「ん?」
「……進路、決めたのか?」
一護は弁当箱を閉じた。
「……まあな」
「どこだ?」
「雄英」
茶渡が顔を上げた。
「……ヒーロー科か?」
「ああ」
茶渡は少しだけ考えた。
「……そうか」
「何だよ。驚かねえのか?」
「……あまり」
一護は苦笑した。
「お前もかよ」
茶渡は僅かに笑った。
「一護らしいと思う」
「……何なんだよ、その言い方」
そこへ、啓吾が勢いよく割り込んできた。
「雄英!?」
一護は顔をしかめた。
「……うるせえ!」
「お前、雄英受けんの!?」
「そうだよ」
「すげえじゃねえか!」
啓吾は目を輝かせた。
「ってことは、将来は人気ヒーローになって、テレビとか出たりすんのか!?」
「いや、別にそんなつもりはねえけど」
「何でだよ! せっかくだろ!」
一護は呆れた。
「せっかくって何だよ」
水色が笑った。
「一護って、そういうの興味なさそうだもんね」
「……まあな」
「じゃあ、何で雄英なの?」
一護は少し考えた。
「……資格取っときてえんだよ」
「資格?」
「ああ。ヒーローの」
水色が首を傾げた。
一護は肩をすくめた。
「この世界じゃ、力を使うにも色々面倒だろ。だったら、ちゃんとしたとこで勉強して、資格くらい持っといた方がいいかなって」
水色は少し考え、それから笑った。
「なるほどね」
「何だよ」
「いや。一護らしいなって」
一護は顔をしかめた。
「……お前ら、さっきからそればっかだな」
茶渡が小さく笑った。
そのとき、教室の入口から雨竜が顔を出した。
「黒崎」
「おう、石田」
「雄英の入試について、少し調べたんだ」
雨竜は手に持っていた資料を差し出した。
一護は目を瞬いた。
「……お前、医学部志望だろ」
「僕が受けるわけじゃない」
雨竜は少しだけ眉を寄せた。
「君が受験するなら、知っておいた方がいい情報があると思ってね」
一護は資料を受け取った。
そこには、雄英高校の募集要項や過去の入試情報がまとめられていた。
「……ありがとな」
「礼はいい。ただし、読んでおけよ」
雨竜は真面目な顔で続ける。
「雄英は学力だけでは合格できない。実技試験もあるし、個性の使い方も評価される」
「……ああ」
「君の場合、能力の仕組みがまだ完全には解明されていない。試験中に無理をするのは避けるべきだ」
一護は苦笑した。
「……手厳しいな」
「事実を言っているだけだ」
雨竜は眼鏡を押し上げた。
「それに、ヒーロー科へ入ればすぐ資格が手に入るわけでもない。学校で学び、必要な試験を受けなければならない」
「分かってるよ」
一護は資料へ目を落とした。
雄英高校。
国内でも屈指のヒーロー育成校。
今の自分にとって、必要なことを学べる場所。
そう思っていた。
だが、同時に。
そこへ入ることが、決して簡単ではないことも理解していた。
「……まあ、やるだけやってみるさ」
一護が言うと、雨竜は少しだけ口元を緩めた。
「君なら、そう言うと思った」
その横で、啓吾が勢いよく手を上げた。
「よっしゃ! 一護が雄英受かったら、俺たちで盛大に祝おうぜ!」
「まだ受けてもねえよ!」
「だから受かったらだって!」
水色が笑った。
「じゃあ、合格発表の日は予定空けておこうか」
「お前ら、気が早えって……」
一護は呆れながらも、口元を緩めた。
茶渡が静かに頷く。
「……応援している」
「おう。ありがとな」
*
その日の夜。
一護は自室の机で、雄英高校の資料を読んでいた。
ヒーロー科の教育課程。
実技訓練。
救助活動。
個性の応用。
そして、ヒーロー資格へ繋がる制度。
どれも、一護にとって無関係なものではなかった。
ただ、特別に胸が躍るわけでもない。
オールマイトのようになりたいと思ったことはなかった。
人気ヒーローとしてテレビへ出たいとも思わない。
誰かから褒められたいわけでもない。
ただ。
あの商店街で、女の子が泣いていた。
助けを求めていた。
その声を聞いた瞬間、身体が動いた。
ヒーローたちの判断が間違っていたとは思わない。
相性が悪いなら、無理に攻撃しない方がいい。
人質を巻き込む危険があるなら、なおさらだ。
それでも。
あの場で、自分が何もせずに待っていられたかと問われれば。
一護には、頷けなかった。
昔から、そうだった。
誰かが傷ついているのを見れば、放っておけない。
助けられるかどうかなんて、分からなくても。
それでも、手を伸ばしてしまう。
それが、黒崎一護だった。
ならば。
次は、もっと上手くやればいい。
自分が傷つかずに済むように。
周りの人間を危険に晒さずに済むように。
そして、できるだけ多くの人へ手を伸ばせるように。
一護は資料を閉じた。
机の端には、進路希望調査の用紙が置かれている。
第一志望。
そこへ、ゆっくりと文字を書き込む。
――雄英高校 ヒーロー科。
一護はしばらく、その文字を眺めていた。
それから、ペンを置いた。
「……まあ、悪くねえか」
小さく呟く。
窓の外では、夜の街が静かに広がっていた。
*
進路を伝えたとき、真咲は少し驚いた顔をした。
「雄英高校?」
「ああ。ヒーロー科」
一護は頷いた。
一心は腕を組み、少しだけ考えた。
「ほう。雄英か」
「……何だよ」
「いや、別に反対するつもりはねえが」
一心は珍しく真面目な顔をした。
「お前、何でそこへ行きてえんだ?」
一護は少し考えた。
「……資格が欲しいんだよ」
真咲が首を傾げる。
「資格?」
「ああ。ヒーローの」
一護は自分の手を見た。
「今の俺じゃ、いざってときに力を使うにも色々あるだろ。だから、ちゃんと学んで資格取っときてえんだ」
真咲は黙って聞いていた。
一護は続ける。
「それに、救助のことももっと覚えたいしな」
一心が少しだけ目を細めた。
「……あの事件のことか」
一護は頷いた。
「ああ」
あの日、助けを求める女の子を見た瞬間、身体が動いた。
それを後悔しているわけではない。
だが、自分の行動が危険だったことも分かっている。
次に同じような状況になったら。
もっと確実に助けたい。
自分も、周りの人間も、無事でいられるように。
「……別に、ヒーローって肩書きが欲しいわけじゃねえんだ」
一護は顔を上げた。
「ただ、護れるもんを増やしたい。それだけだ」
真咲はしばらく一護を見つめていた。
それから、静かに笑った。
「……そっか」
一護は少しだけ肩の力を抜いた。
「反対しねえの?」
「反対する理由はないわ」
真咲はそう言って、微笑んだ。
「ただし、無茶はしないこと。そこは約束してね」
一護は苦笑した。
「……努力する」
「もう。一護ったら」
真咲が少し呆れたように笑う。
その横で、一心が大きく頷いた。
「よし! それなら決まりだ!」
一護が顔を向ける。
「……何が?」
「我が息子の雄英受験! 父として全力で応援しようじゃないか!」
「……親父、まだ受けるって決めただけだぞ」
「分かっている! だからこそ、今から準備が必要なのだ!」
一心は勢いよく立ち上がった。
「まずは特訓だ! 父と息子の熱き修行の日々が――」
「いらねえよ!」
一護が即座に突っ込む。
その声を聞きつけ、遊子と夏梨が居間へ顔を出した。
「お兄ちゃん、雄英受けるの!?」
遊子が目を輝かせた。
「ああ」
「すごーい!」
夏梨は少しだけ口元を緩めた。
「一兄なら、案外受かるかもね」
「案外って何だよ」
「そのままの意味」
「お前なあ……」
遊子が笑い、真咲も楽しそうに頷いた。
一心は相変わらず何か騒いでいたが、一護はもう相手にしなかった。
いつもの黒崎家だった。
騒がしくて、落ち着きがなくて。
それでも、帰ってくれば安心できる場所。
一護は少しだけ笑った。
*
受験が近づくにつれ、一護の生活は少しずつ忙しくなっていった。
学校の勉強。
道場の稽古。
個性訓練施設での練習。
そして、家での自主訓練。
完現光による移動は、以前よりもずっと安定していた。
短い距離なら、ほとんど意識せずに加速できる。
霊力による身体の補強も、少しずつ馴染んできた。
ただし、どこまで出力を上げられるかは、まだ試していない。
訓練施設では安全上の制限があるし、むやみに力を解放するつもりもなかった。
それでも、一護は焦っていなかった。
以前の人生で、何度も力を失い、取り戻してきた。
そのたびに、自分の中にある力と向き合ってきた。
今も同じだった。
できることを一つずつ増やしていけばいい。
そして、ある日の放課後。
「一護!」
啓吾が声を上げた。
「雄英の入試、もうすぐなんだろ!?」
「ああ」
「よっしゃ! じゃあ今日は壮行会だ!」
一護は顔をしかめた。
「……何でそうなるんだよ」
「決まってんだろ! 友達が大勝負に挑むんだぞ!」
水色が笑った。
「僕もいいと思うよ。どうせ啓吾が何か食べたいだけだろうけど」
「違うわ!」
茶渡が静かに頷いた。
「……俺も、行きたい」
一護は少しだけ目を瞬いた。
雨竜は腕を組んでいたが、特に反対する様子はなかった。
「……お前らなあ」
一護は呆れたように息を吐いた。
だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……分かったよ。ちょっとだけな」
「よっしゃあ!」
啓吾が両手を上げた。
水色が笑い、茶渡も僅かに口元を緩める。
雨竜は呆れたように溜息をついた。
そして、五人は並んで教室を出た。
廊下には、放課後の柔らかな日差しが差し込んでいた。
*
自室の机に、雄英高校の受験票が置かれていた。
一護はそれを手に取り、しばらく眺めた。
入学試験まで、あと僅か。
学力試験。
実技試験。
どちらも簡単ではないだろう。
だが、ここまで準備してきた。
一護は受験票を机へ戻した。
窓の外には、冬の夜空が広がっている。
遠くの街灯が、静かに光っていた。
以前の人生では、死神として戦った。
その力で、護れるものを護ってきた。
今は違う。
この世界で生まれ、家族に育てられ、学校へ通い、仲間たちと出会った。
その中で、もう一度自分の力を使う道を選ぼうとしている。
ヒーローに憧れているわけではない。
誰かに認められたいわけでもない。
ただ、目の前で誰かが傷ついているのを、黙って見ていることができない。
それは、以前から何も変わっていなかった。
だからこそ、少しでもできることを増やしたい。
どんな状況でも、手を伸ばせるように。
そして、今度こそ。
伸ばした手が届くように。
一護は机の引き出しを開け、参考書を取り出した。
まだ、やることは残っている。
ペンを握り、ページを開く。
窓の外では、静かに風が吹いていた。