『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第10話 選ぶ道

 

 鈍い音が、ジムの中に響いた。

 

 天井から吊るされたサンドバッグが大きく揺れる。

 

「おお、いいねえ。けど、ちょっと力みすぎだな」

 

 トレーナーが笑いながら言った。

 

「拳だけで打とうとするな。足から腰、肩へ力を伝えていくんだ。ほら、もう一回」

 

「……はい」

 

 茶渡泰虎は頷き、構え直した。

 

 大柄な身体に比べると、その動きはどこか慎重だった。

 

 左足を前へ出し、拳を上げる。

 

 一度呼吸を整えてから、ゆっくりと踏み込んだ。

 

 拳がサンドバッグへ当たる。

 

 今度は先ほどよりも短く、重い音が響いた。

 

「そうそう。今の方がいい」

 

 トレーナーが頷く。

 

 茶渡は自分の拳を見下ろした。

 

「……これで、いいんですか」

 

「初日なら十分だよ。お前、体格もいいし、しっかり練習すれば面白そうだな」

 

 そう言われても、茶渡はあまり嬉しそうな顔をしなかった。

 

 むしろ、少し考え込んでいる。

 

「どうした?」

 

 トレーナーに尋ねられ、茶渡は顔を上げた。

 

「……いや」

 

「何か気になることでもあるのか?」

 

 少しの沈黙。

 

 やがて茶渡は、握った拳を見つめながら言った。

 

「……人を殴るための練習をしているんだと思うと、少し」

 

 トレーナーは一瞬きょとんとした。

 

 それから、笑った。

 

「なるほどな。そいつは大事な感覚だ」

 

 茶渡が顔を上げる。

 

「ボクシングは相手を殴る競技だ。そこは間違いない。ただし、何をしてもいいわけじゃない。ルールがあって、相手がいて、お互いに納得したうえで技術を競う」

 

 トレーナーはサンドバッグを軽く叩いた。

 

「それに、殴られる側の痛みを知らない奴は、まともにボクシングなんかできねえよ」

 

 茶渡は黙って聞いていた。

 

「まずは身体の動かし方を覚えよう。人と打ち合うのは、それからでいい」

 

「……分かりました」

 

 茶渡は深く頷き、再びサンドバッグへ向き直った。

 

 少し離れたベンチで、一護はその様子を眺めていた。

 

 茶渡とボクシングジムの見学を約束したのは、少し前のことだ。

 

 祖父から届いた手紙をきっかけに、茶渡は自分の拳について改めて考えるようになったらしい。

 

 それから自分でジムを調べ、体験練習に申し込んだ。

 

 一護は以前の約束どおり、付き添いとして来ている。

 

 壁には大会の賞状が並び、奥のリングからはミットを叩く乾いた音が聞こえていた。

 

 空手の道場とは違う。

 

 けれど、真剣に身体を動かす人間たちのいる場所特有の空気は、嫌いではなかった。

 

「おい、そこのオレンジ頭」

 

 突然呼ばれ、一護は顔を上げた。

 

「……俺っすか?」

 

「お前も少しやってみるか?」

 

 トレーナーがグローブを持ち上げた。

 

「見てるだけじゃつまんねえだろ」

 

 一護は少し考えた。

 

「じゃあ、お願いします」

 

 立ち上がってグローブを受け取り、サンドバッグの前へ移動する。

 

「お前、何か格闘技やってるか?」

 

「空手を。四歳からっすね」

 

「お、そりゃ長いな」

 

 一護が構えると、トレーナーはすぐに首を振った。

 

「そのままだとパンチを打ったあとに隙ができるな。拳はこっち。顎はもう少し引いて」

 

「……こうっすか?」

 

「そうそう。じゃあ、軽く打ってみろ」

 

 一護は右拳を伸ばした。

 

 サンドバッグが揺れる。

 

「悪くねえ。ただ、空手の突きとは違うだろ?」

 

「……ですね」

 

 拳の軌道も、足の運びも違う。

 

 腰を回して体重を乗せようとすると、普段の癖が出る。

 

 何度か打ち直すうちに、一護は小さく笑った。

 

「……なるほどな」

 

「面白いだろ?」

 

「はい」

 

 トレーナーが笑う。

 

「身体の使い方なんて、覚えれば覚えるほど分からねえことが出てくるもんさ」

 

 一護は頷き、もう一度拳を伸ばした。

 

 隣で茶渡が見ている。

 

「……一護」

 

「ん?」

 

「楽しそうだな」

 

 一護は拳を引いた。

 

「まあな。お前もだろ?」

 

 茶渡は少しだけ考え、それから頷いた。

 

「……ああ」

 

 一護は笑った。

 

「なら、よかったじゃねえか」

 

     *

 

 ジムを出る頃には、すっかり日が傾いていた。

 

 商店街を吹き抜ける風が冷たい。

 

 一護は肩を回しながら、隣を歩く茶渡へ顔を向けた。

 

「で、あそこに決めんのか?」

 

「……そのつもりだ」

 

「そっか」

 

「……付き合ってくれて、ありがとう」

 

「別に礼なんかいいって。俺も面白かったしな」

 

 茶渡は小さく頷いた。

 

 交差点へ差しかかると、信号待ちの車が列を作っていた。

 

 道路工事の影響で歩道が狭くなっており、警備員とプロヒーローが通行人を誘導している。

 

 近くのビルには、人気ヒーローの大きな広告が掲げられていた。

 

 茶渡がそれを見上げる。

 

「……一護は、将来のことを考えているか?」

 

「あ?」

 

「高校とか、その先のことだ」

 

 一護は少し考えた。

 

「……まだ、はっきりとはな」

 

「そうか」

 

「チャドは?」

 

「……俺も、まだだ」

 

 茶渡は自分の拳へ目を落とした。

 

「だが、しばらくはボクシングを続けたい」

 

「おう。それでいいんじゃねえか」

 

 一護は笑った。

 

 そのまま信号を渡り、それぞれの家へ向かう道で別れる。

 

 ヒーローの広告は、曲がり角を抜けると見えなくなった。

 

     *

 

 黒崎一護の個性検査は、相変わらず難航していた。

 

「……うーん」

 

 白衣の医師が、モニターを眺めながら唸った。

 

 机の上には、木片と金属球が置かれている。

 

 一護の隣には真咲が座っていた。

 

「発動そのものは安定してきているんだけどね」

 

 医師が映像を再生する。

 

 画面の中で、一護が手を伸ばした。

 

 木片が、何にも触れられていないのに数センチ移動する。

 

「やはり、単純な念動力とは少し違うようだ」

 

「……そうっすか」

 

「重さと動かしやすさが一致していないんだよ。こちらの金属球より、いつも使っている筆箱の方が反応がいい」

 

 一護は頷いた。

 

「確かに、そうですね」

 

「何か違いを感じる?」

 

「……慣れてる物の方が、動かしやすい感じはします」

 

 医師は記録を取った。

 

「なるほど。本人との接触頻度や愛着が関係している可能性もあるね」

 

 その言葉に、一護は小さく頷いた。

 

 完全に間違っているわけではない。

 

 物質に宿る魂。

 

 それに働きかける、完現術。

 

 以前の人生で身につけた能力だった。

 

 ただし、一護はその仕組みを医師に説明するつもりはなかった。

 

 説明したところで、理解してもらえるか分からない。

 

 まして、前世の話まで持ち出すことになる。

 

 今は、検査を通じて自分の身体の状態を知るだけで十分だった。

 

「黒崎君、以前よりも長く発動を維持できるようになっているね」

 

「はい」

 

「ただ、まだ出力にばらつきがある。これからも少しずつ慣らしていこう」

 

 一護は頷いた。

 

 診察室を出ると、真咲が横から顔を覗き込んできた。

 

「一護、最近はどう?」

 

「何が?」

 

「訓練よ。大変じゃない?」

 

 一護は少し考えた。

 

「……まあ、面倒っちゃ面倒だけど」

 

「ふふ。あなたらしいわね」

 

 真咲は笑った。

 

「でも、焦らなくていいんだからね」

 

「分かってるよ」

 

 そう答えながら、一護は少しだけ眉を寄せた。

 

 焦っているつもりはなかった。

 

 いや、まったく焦っていないと言えば嘘になる。

 

 以前の人生では、もっと自由に力を使えていた。

 

 死神の身体なら、斬月を振るうこともできる。

 

 魂の奥にある力も、消えたわけではない。

 

 ただ、人間の姿で完現術を使おうとすると、どうにも感覚が掴みきれなかった。

 

 物を動かす。

 

 それ自体はできる。

 

 しかし、そこから先がなかなか進まない。

 

 何かを見落としているような気もするが、はっきりとは分からなかった。

 

     *

 

 中学二年生になった春。

 

 一護は道場で、久しぶりに有沢たつきと組手をしていた。

 

 互いに個性は使わない。

 

 純粋な空手の稽古だった。

 

「……っ!」

 

 たつきが踏み込む。

 

 鋭い突きが伸びた。

 

 一護は半歩下がって避ける。

 

 だが、たつきはすぐに追撃へ移った。

 

「逃げんな!」

 

「逃げてねえよ!」

 

 一護は笑いながら構え直した。

 

 たつきの足が動く。

 

 今度は正面から来ると見せかけ、横へ回り込んだ。

 

 一護が反応する。

 

 しかし、その瞬間にはもう、たつきの拳が伸びていた。

 

「……っ!」

 

 咄嗟に受ける。

 

 腕へ衝撃が走った。

 

 たつきがにやりと笑う。

 

「どう?」

 

「……前より速くなったな」

 

「でしょ!」

 

 嬉しそうな声だった。

 

 そのまま攻め込もうとしたところで、師範の声が響いた。

 

「そこまで!」

 

 二人は構えを解き、礼をする。

 

 畳の端へ戻ると、たつきがタオルで汗を拭った。

 

「あー、惜しかった!」

 

 一護は水筒を取り出した。

 

「最後のやつ、結構危なかったぞ」

 

「でも当たんなかったじゃん」

 

「当てさせるかよ」

 

「次は当てる!」

 

「はいはい」

 

 たつきはむっとした顔になる。

 

 だが、すぐに笑った。

 

「そういえばさ、一護」

 

「ん?」

 

「高校、どこ行くか考えてる?」

 

 一護は水筒を下ろした。

 

「……まだ決めてねえな」

 

「ふーん。あたしも、どうしよっかなって」

 

 たつきは膝を抱えた。

 

「空手は続けたいけど、それだけで決めるのも何か違うし」

 

「まあ、まだ時間あるだろ」

 

「そうなんだけどね」

 

 たつきは少しだけ考え、それから一護を見た。

 

「一護は、何かやりたいことないの?」

 

「……やりたいこと、ねえ」

 

 口にしてから、少し黙る。

 

 何か特別な職業に憧れているわけではなかった。

 

 ただ、力を使えるようにはなりたい。

 

 昔から、そうだった。

 

「……ま、何かあったときに動けるくらいにはなっときてえな」

 

「何それ」

 

 たつきが笑った。

 

「相変わらずだね、一護は」

 

「何がだよ」

 

「別に?」

 

 そう言って、たつきは立ち上がった。

 

「よし! 次、もう一本やろ!」

 

「……お前、元気だな」

 

「当たり前でしょ!」

 

 一護は呆れながらも立ち上がり、再び畳へ向かった。

 

     *

 

 夏休みが終わって間もない、九月のある日。

 

 一護は雨竜と駅前の書店へ向かっていた。

 

 授業で使う参考書を探していたところ、雨竜が医学関係の本も見たいと言い出したのだ。

 

「お前、本当に医者になるつもりなんだな」

 

 一護が言うと、雨竜は眼鏡を押し上げた。

 

「当然だろう。前にも話したはずだ」

 

「いや、分かってるけどよ」

 

「君は進路を決めたのか?」

 

「……まだ」

 

「そろそろ考えておいた方がいいぞ」

 

「分かってるよ」

 

 雨竜は少しだけ溜息をついた。

 

「君は何事も、ぎりぎりになってから動くところがあるからな」

 

「……お前に言われると腹立つな」

 

 そんなことを話しながら、二人は商店街へ入った。

 

 午後四時を少し過ぎた頃だった。

 

 人通りは多く、買い物帰りの親子や学生たちが行き交っている。

 

 通りの向こうから、突然、悲鳴が聞こえた。

 

「きゃああっ!」

 

 一護の足が止まった。

 

 雨竜も顔を上げる。

 

 続いて、何かが派手に壊れる音。

 

 通行人が、こちらへ向かって走ってきた。

 

「ヴィランだ!」

 

「逃げろ!」

 

 一護はすぐに動いた。

 

「おい、黒崎!」

 

 雨竜が呼ぶ。

 

 だが、一護はすでに人混みを抜けていた。

 

 角を曲がる。

 

 その先には、異様な光景が広がっていた。

 

 車道の中央で、黒ずんだ粘液のようなものが蠢いている。

 

 その中心から、人間の上半身にも似た形が浮かび上がっていた。

 

 液状の身体を持つヴィランらしい。

 

 触手のようなものを伸ばし、周囲の車や街灯へ絡みついている。

 

 その正面には、プロヒーローが立っていた。

 

 両腕から青白い電流を放つ男性だった。

 

「下がってください! 危険です!」

 

 ヒーローが声を張り上げる。

 

 警察官たちは道路の両端で通行人を誘導していた。

 

 だが、一護の目は別の場所を捉えていた。

 

 ヴィランの背後。

 

 ガードレールのそばに、小学生くらいの女の子がいた。

 

 ランドセルの肩紐が黒い粘液に絡みつき、右腕にも細い触手が巻きついている。

 

 女の子は必死に身体を引いていた。

 

 しかし、動けない。

 

「……っ!」

 

 一護は顔をしかめた。

 

「ママ……!」

 

 細い声が聞こえた。

 

 ヒーローが右腕を構える。

 

 青白い電流が走った。

 

 だが、撃たなかった。

 

 ヴィランの身体へ繋がる触手。

 

 そこには女の子が捕まっている。

 

 液状の身体へ電気を流せば、女の子まで巻き込んでしまう可能性があった。

 

「くそっ……!」

 

 ヒーローは通信機へ声を飛ばした。

 

「救助班はまだか!」

 

『到着まで数分! 対象の性質に対応できるヒーローを向かわせています!』

 

「急いでくれ! こっちじゃ迂闊に攻撃できねえ!」

 

 一護にも事情は分かった。

 

 相性が悪い。

 

 大きな攻撃を仕掛ければ、人質を危険に晒してしまう。

 

 だから、適任のヒーローが来るまで待つ。

 

 間違った判断ではないのだろう。

 

 その間も、ヒーローは何もしないわけではなかった。

 

 ヴィランが移動しようとするたびに進路を塞ぎ、女の子から注意を逸らそうとしている。

 

 周囲では警察官たちが避難を進めていた。

 

 誰もが、自分にできることをしている。

 

 だが。

 

「……いや……!」

 

 女の子の身体が、ずるりと引きずられた。

 

 腕に巻きついた粘液が、少しずつ太くなっていく。

 

「たすけて……!」

 

 その声を聞いた瞬間。

 

 一護の身体は、もう動いていた。

 

「――黒崎!」

 

 後ろから雨竜の声がした。

 

 聞こえていた。

 

 危険なのも分かっている。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 車道へ踏み込む。

 

 停車していた車の脇を抜け、ヴィランの背後へ回ろうとする。

 

 そのときだった。

 

 女の子の足が、完全に地面から離れた。

 

 ヴィランの身体へ引き寄せられていく。

 

「……っ!」

 

一護は強く地面を蹴った。

 

足元に淡い緑の光が走る。

 

次の瞬間、景色が横へ流れた。

 

「……っ!?」

 

思いがけない加速に、身体が前のめりになる。

 

 つい先ほどまで数メートル先にいた女の子が、もう目の前にいた。

 

 一護は咄嗟に足を踏ん張り、勢いを殺しながら手を伸ばした。

 

「おい!」

 

 女の子が顔を上げた。

 

「……っ、たすけて!」

 

「分かってる!」

 

 一護はランドセルの肩紐を掴んだ。

 

 粘液に絡め取られた部分へ目を向ける。

 

 留め具がある。

 

 そこを外せば、少なくとも背中は自由になる。

 

 一護は片手で女の子の身体を支え、もう片方の手を伸ばした。

 

「じっとしてろ!」

 

 金具へ指をかける。

 

 粘液が滑る。

 

 だが、何とか留め具を外した。

 

 ランドセルが背中から離れる。

 

 しかし、腕に巻きついた触手は残っていた。

 

「……くそ!」

 

 一護は触手を掴んだ。

 

 引き剥がそうとする。

 

 だが、粘液は伸びるばかりで、簡単には離れない。

 

 そのとき、ヴィランがこちらへ振り返った。

 

「……何してやがる!」

 

 黒い塊から、太い触手が伸びる。

 

 一護は咄嗟に女の子を庇った。

 

 背中へ、鈍い衝撃が走る。

 

「……っ!」

 

 身体が前へ押し出された。

 

 それでも、女の子から手は離さなかった。

 

 触手が肩へ絡みつく。

 

 強く引かれた。

 

 一護は歯を食いしばった。

 

 このままでは、二人とも捕まる。

 

 視線を落とす。

 

 女の子の腕へ巻きついた粘液。

 

 その近くで、小さな金属片が揺れていた。

 

 ランドセルから外れた留め具だった。

 

 一護はそれへ意識を向けた。

 

 物質に宿る魂。

 

 その感覚は、もう何度も確かめている。

 

 金属片が僅かに動いた。

 

 触手の一部が緩む。

 

 一護はその隙間へ指を入れ、女の子の腕を引き抜いた。

 

「走れ!」

 

 女の子を歩道へ向けて押し出す。

 

 その先では、雨竜が待っていた。

 

「こっちだ!」

 

 雨竜が女の子の身体を受け止め、安全な場所へ引き寄せる。

 

 一護はそれを確認した。

 

 だが、次の瞬間。

 

 肩へ絡みついた触手が強く引かれた。

 

「……っ!」

 

 身体が車道へ引き戻される。

 

 ヴィランの顔が近づいてきた。

 

「このガキ……!」

 

一護は顔をしかめた。

 

地面に足をつける。

 

先ほどと同じ感覚が、身体の奥に残っていた。

 

一護は反射的に横へ跳んだ。

 

肩に絡みついた触手が大きく引き伸ばされ、ヴィランの上体が僅かに傾く。

 

完全には振り切れない。それでも、女の子からさらに距離を取ることはできた。

 

「今だ!」

 

 ヒーローの声が響く。

 

 青白い光が視界を横切った。

 

 電流がヴィランの身体へ走る。

 

 黒い粘液が激しく痙攣し、一護の肩を拘束していた触手が緩んだ。

 

「……っ!」

 

 一護は地面へ転がった。

 

 すぐに起き上がろうとする。

 

 しかし、肩に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。

 

 その間にも、ヒーローはヴィランへ攻撃を続けていた。

 

 人質が離れたことで、ようやく十分な力を使えるようになったのだ。

 

 さらに、別の方向から応援のヒーローたちが到着する。

 

 拘束用の装備が展開され、ヴィランの身体が固定されていった。

 

 一護はその光景を見届けた。

 

「……ふう」

 

 大きく息を吐く。

 

 どうやら、終わったらしい。

 

 歩道の向こうでは、女の子が母親に抱きしめられていた。

 

 泣きながら、何度も頷いている。

 

 一護はそれを見て、少しだけ笑った。

 

「……よかった」

 

 そのとき。

 

「黒崎!」

 

 雨竜が駆け寄ってきた。

 

 怒っているような、安心しているような顔だった。

 

「君は……!」

 

 一護は苦笑した。

 

「……悪い」

 

「悪いで済むか!」

 

 雨竜が珍しく声を荒らげた。

 

「一歩間違えば、君まで捕まっていたんだぞ!」

 

「……捕まってたけどな」

 

「冗談を言うな!」

 

 一護は言い返せなかった。

 

 雨竜は肩の傷を見て、さらに眉を寄せた。

 

「動くな。救急隊が来ている」

 

「いや、これくらいなら――」

 

「動くなと言っている!」

 

「……分かったよ」

 

 一護は大人しく座り直した。

 

 雨竜は深く息を吐く。

 

 それから、少しだけ声を落とした。

 

「……助かったんだ。あの子は」

 

 一護は顔を上げた。

 

「ああ」

 

 それだけ答えて、再び女の子の方へ目を向ける。

 

 母親に抱きしめられた小さな背中。

 

 無事だった。

 

 そのことに、ようやく実感が湧いてきた。

 

 そして、ふと。

 

 一護は自分の足元へ視線を落とした。

 

 あの加速。

 

 最初に踏み込んだときの感覚。

 

 足元で弾けた、あの音。

 

「……そういや」

 

 思わず、小さく呟いた。

 

 覚えがあった。

 

 以前の人生で、何度も使っていた。

 

 完現光。

 

 ブリンガーライト。

 

 地面や空気に宿る魂を利用し、自分自身の移動を助ける完現術の技術だった。

 

 一護はしばらく、自分の足を見つめていた。

 

「……そういうことかよ」

 

 口元に、僅かな笑みが浮かんだ。

 

 雨竜が首を傾げる。

 

「……黒崎?」

 

「いや」

 

 一護は顔を上げた。

 

「何でもねえ」

 

 そう答えながらも、頭の中では別のことを考えていた。

 

 物を動かす。

 

 そればかり練習していた。

 

 完現術の感覚を取り戻すには、まず小さな物を動かせるようにならなければならない。

 

 そう考えていた。

 

 それが間違いだったとは思わない。

 

 だが、いつの間にか、そこだけに意識が向いていた。

 

 足元の地面も。

 

 踏み込む瞬間に触れる空気も。

 

 最初から、ずっとそこにあったというのに。

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

「……ったく」

 

 自分でも、少し呆れた。

 

     *

 

 事件のあと、一護は随分と叱られた。

 

 現場のヒーローからも、警察官からも、学校の教師からも。

 

 そして何より、真咲からだった。

 

「一護!」

 

 病院の診察室で、真咲が声を上げた。

 

 一護の肩には湿布が貼られ、腕には包帯が巻かれている。

 

 幸い骨折はなかったが、筋肉を痛めているため、しばらく激しい運動は禁止された。

 

「何を考えてたの!?」

 

 一護は椅子に座ったまま、少しだけ顔を逸らした。

 

「……ごめん」

 

「ごめんじゃないでしょう!」

 

 真咲の声が震えていた。

 

 一護は顔を上げる。

 

 母親の目には、涙が浮かんでいた。

 

「あなたまで大怪我してたら、どうするつもりだったの……!」

 

 一護は何も言えなかった。

 

 その横で、一心が腕を組んでいる。

 

 普段なら大袈裟に騒ぎ出すところだが、今日は静かだった。

 

「……一護」

 

 一心が口を開いた。

 

「助かった子がいる。それはよかった」

 

「ああ」

 

「だが、お前が死んじまったら、俺たちはどうすりゃいい」

 

 一護は父親を見た。

 

 一心は真面目な顔をしていた。

 

「お前は人を助けた。けど、その代わりに自分を粗末にしていいわけじゃねえぞ」

 

 その言葉に、一護は黙って頷いた。

 

「……分かってる」

 

 本当に、分かっていた。

 

 あのとき、少しでも動きが遅れていたら。

 

 あの触手がもう少し強く締めつけていたら。

 

 女の子を助けるどころか、自分も捕まっていただろう。

 

 そうなれば、ヒーローたちに余計な負担をかけていた。

 

 下手をすれば、誰かが傷ついていたかもしれない。

 

 それでも。

 

 あの場で女の子が泣いていた。

 

 助けを求めていた。

 

 その姿を見た瞬間、もう身体が動いていた。

 

 考えるより早く。

 

 昔から、そうだった。

 

「……でも」

 

 一護は小さく口を開いた。

 

 真咲が顔を上げる。

 

「……同じような状況に出くわしたら、多分また突っ込んじまうと思う」

 

 それ以上、上手く言葉が続かなかった。

 

 真咲はしばらく一護を見つめていた。

 

 やがて、静かに息を吐く。

 

「……そう言うと思った」

 

 真咲は困ったように笑った。

 

「でもね、一護。あなたにも、帰ってきてほしいの」

 

 一護は黙っていた。

 

「誰かを助けるために頑張るのは、悪いことじゃない。でも、自分のことも大切にして」

 

 真咲は少しだけ笑った。

 

「お母さんからのお願い」

 

 一護はゆっくりと頷いた。

 

「……ああ」

 

 一心が隣で大きく息を吐いた。

 

「まったく。息子がどんどん無茶なことを覚えやがって」

 

「親父にだけは言われたくねえ」

 

「何だと!?」

 

 いつもの調子に戻った一心を見て、真咲が小さく笑った。

 

 一護も少しだけ口元を緩めた。

 

     *

 

 学校へ復帰した一護を待っていたのは、啓吾の大騒ぎだった。

 

「一護ぉぉぉ!」

 

「うおっ!?」

 

 教室へ入った途端、啓吾が飛びついてきた。

 

 一護は咄嗟に身体を引いた。

 

「危ねえだろ! 肩痛めてんだよ!」

 

「心配したんだぞ、この野郎!」

 

「分かった! 分かったから離れろ!」

 

 啓吾が大袈裟に涙を拭う。

 

 水色は隣で笑っていた。

 

「啓吾、昨日もずっと一護のこと話してたからね」

 

「うるせえ! 友達が怪我したら心配すんのは当たり前だろ!」

 

 一護は少しだけ目を瞬いた。

 

 そして、笑った。

 

「……ありがとな」

 

 啓吾は一瞬きょとんとした。

 

 それから、照れくさそうに顔を逸らす。

 

「……お、おう」

 

 茶渡が近づいてきた。

 

「……一護、肩は大丈夫か?」

 

「ああ。もうちょいしたら普通に動かせるってさ」

 

「そうか」

 

 茶渡は安心したように頷いた。

 

「無理はするな」

 

「お前まで言うのかよ」

 

「……当然だ」

 

 一護は苦笑した。

 

 そのとき、雨竜が教室の入口から顔を出した。

 

「黒崎」

 

 一護は振り返る。

 

「おう、石田」

 

「少しいいか」

 

 雨竜は手に持っていた資料を差し出した。

 

 そこには、救助活動の基本や、個性を使用する際の安全管理についての解説がまとめられていた。

 

 一護は目を瞬いた。

 

「……何だ、これ」

 

「前に医療関係の講習で使った資料と、一般向けの救助講習の案内だ。君にも役立つと思ってね」

 

「……わざわざ?」

 

「別に大した手間じゃない」

 

 雨竜は眼鏡を押し上げた。

 

「ただし、勘違いしないでくれ。あの日の君の行動を、全面的に肯定するつもりはない」

 

「分かってるよ」

 

「分かっているなら、ちゃんと読んでおけ」

 

 一護は資料へ目を落とした。

 

 救助時の優先順位。

 

 二次災害の危険。

 

 現場の安全確認。

 

 専門家への引き継ぎ。

 

 どれも、今までに訓練施設で教わってきたことだった。

 

 それでも、実際の現場では上手くできなかった。

 

 一護は資料を鞄へしまった。

 

「……ありがとな、石田」

 

 雨竜は頷いた。

 

 その横で、啓吾が勢いよく手を上げる。

 

「よーし! じゃあ今度みんなで救助講習行こうぜ!」

 

 水色が笑った。

 

「啓吾、ちゃんと勉強する気あるの?」

 

「あるに決まってんだろ!」

 

「昨日の宿題は?」

 

「……それは別の話だ!」

 

 一護は額に手を当てた。

 

「お前なあ……」

 

 教室に笑い声が広がった。

 

 茶渡も静かに笑っていた。

 

     *

 

 事件から二週間が経った頃。

 

 一護は自室で、久しぶりに身体を動かしていた。

 

 肩の痛みはほとんど引いている。

 

 医師からも、軽い運動なら問題ないと言われていた。

 

 机を端へ寄せ、床に立つ。

 

 靴は履いていない。

 

 一護は自分の足元を見つめた。

 

「……さて」

 

 あのときの感覚。

 

 地面を蹴った瞬間、身体が予想以上に前へ進んだ。

 

 完現光。

 

 間違いない。

 

 以前の人生で、銀城たちと訓練していた頃から使っていた技術だった。

 

 だが、今の身体では上手く再現できていなかった。

 

 完現術の基礎からやり直そうと思い、物体の魂へ干渉する訓練を続けていた。

 

 それ自体は無駄ではなかった。

 

 実際、以前よりも力の制御は安定している。

 

 ただ、どうやら少しばかり考え違いをしていたらしい。

 

「……物を動かすことばっか考えてたな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 足元へ意識を向ける。

 

 床。

 

 そこに宿る魂。

 

 以前は、それを無意識に引き出していた。

 

 だが、今は違う。

 

 小さな木片を動かすときのように、床そのものを操ろうとしてしまう。

 

 それでは、感覚が違う。

 

 あのとき。

 

 女の子を助けようと踏み込んだ瞬間。

 

 自分は何も考えていなかった。

 

 ただ、足を動かした。

 

 それだけだった。

 

「……そうだよな」

 

 一護は少し笑った。

 

床へ意識を集中するのをやめた。

 

 代わりに、いつものように一歩踏み出す。

 

 踏み出した瞬間、予想よりも大きく身体が前へ進んだ。

 

「……おっ」

 

 もう一度。

 

 今度は少しだけ速く踏み込む。

 

 数歩分の距離が一瞬で詰まり、一護は慌てて足を止めた。

 

「……っぶねえ!」

 

 危うく机へぶつかるところだった。

 

 一護は苦笑しながら、足元を見た。

 

「……できんじゃねえか」

 

 今まで何度も試していた。

 

 だが、上手くいかなかった。

 

 それが、ほんの少し意識を変えただけで、あっさりと動いた。

 

 いや、違う。

 

 意識を変えたからではない。

 

 余計なことを考えるのをやめたからだ。

 

 以前の自分がどう動いていたか。

 

 それを、身体へ思い出させただけだった。

 

『……ハッ』

 

 頭の奥から、笑い声が響いた。

 

 一護は顔をしかめた。

 

「……何だよ」

 

『いや、別に?』

 

 白い斬月の声だった。

 

『ずいぶん遠回りしたじゃねえか、相棒』

 

「……うるせえ」

 

『木の切れ端だの鉄の玉だの、ちまちま動かしてよ。てめえが動きゃよかっただけじゃねえか』

 

 一護は溜息をついた。

 

「分かってるよ」

 

『本当に分かってんのか?』

 

 白い男が楽しそうに笑っているのが、声だけで分かった。

 

 一護は額へ手を当てた。

 

「……ったく」

 

 そのとき、別の声が響いた。

 

『だが、無駄ではなかった』

 

 老いた斬月だった。

 

『小さなものへ力を通す訓練を続けたからこそ、今は無意識の動きを再現できる』

 

「……ああ」

 

『ただ、お前は一つ忘れていたようだな』

 

 一護は少しだけ眉を寄せる。

 

「……何をだよ」

 

『お前の力は、物を動かすためだけのものではない』

 

 その言葉に、一護は黙った。

 

 分かっていたはずだった。

 

 完現術は、物質に宿る魂を引き出す力。

 

 だが、それは決して、物体を浮かせたり移動させたりするだけのものではない。

 

 足元の魂を利用すれば、身体を動かせる。

 

 空気の魂を利用すれば、さらに移動を補助できる。

 

 そして。

 

 一護は、自分の手を握った。

 

 力を通す対象は、何も外にある物だけではなかった。

 

「……そういうことか」

 

 小さく呟いた。

 

 老いた斬月は、それ以上何も言わなかった。

 

 白い斬月が笑う。

 

『ようやく頭が回り始めたみてえだな、王様』

 

「だから、その呼び方やめろって」

 

 一護は苦笑した。

 

 そして、もう一度床へ足をつけた。

 

     *

 

 翌週。

 

 個性訓練施設の指導員は、少し驚いた顔をしていた。

 

「……黒崎君、今のもう一回できる?」

 

「はい」

 

 一護は頷き、マットの上に立った。

 

 軽く踏み込んだ一護は、一気に数メートルの距離を詰め、その場で足を止めた。

 

 そのまま姿勢を崩さず足を止める。

 

 指導員がモニターへ目を向ける。

 

「……へえ」

 

 一護は振り返った。

 

「どうっすか?」

 

「驚いたな。前回までとは、発動の仕方がかなり違う」

 

 指導員は記録を確認した。

 

「物を動かすときより、ずっと自然に力が出ているね」

 

「……そうっすね」

 

「何かきっかけがあったの?」

 

 一護は少し考えた。

 

「……ちょっと、身体の使い方を変えてみたんです」

 

「なるほど」

 

 指導員は頷いた。

 

「それで、こんなに変わるのか。面白いね」

 

 一護は小さく笑った。

 

 今までの訓練が間違っていたわけではない。

 

 だが、少し偏っていた。

 

 物を動かすことばかり考えていたせいで、自分自身の身体を動かすという発想が、どこか後回しになっていた。

 

 それに気づけただけでも、大きな収穫だった。

 

「ただし、速度が上がる分、止まるときの負担も大きくなるね」

 

 指導員が言った。

 

「今の動きだと、膝や足首にかなり負担がかかっているはずだ」

 

 一護は頷いた。

 

「……はい」

 

「ここからは、加速だけじゃなくて減速と方向転換も練習しよう。それと、身体への負担を抑える方法も考えないとね」

 

 一護は自分の足元へ視線を落とした。

 

 以前なら、そんなことは意識する必要もなかった。

 

 だが、今の身体では違う。

 

 それでも。

 

 身体を動かせるようになったのなら、話は変わる。

 

 力を通す先を、もう少し広げればいい。

 

「……やってみます」

 

 一護は顔を上げた。

 

 指導員が頷く。

 

「よし。じゃあ、次は少し速度を落として、確実に止まる練習から始めよう」

 

「はい」

 

 一護は再びスタート地点へ戻った。

 

     *

 

 それからの訓練は、以前よりもずっと順調に進んだ。

 

 完現光による短距離の加速。

 

 減速。

 

 方向転換。

 

 最初は数メートル移動するだけでも姿勢が崩れていたが、繰り返すうちに少しずつ安定してきた。

 

 特に、身体へ霊力を巡らせる感覚を取り戻してからは、動きが大きく変わった。

 

 完現術で身体を動かす。

 

 その動きに合わせて、霊力で身体を支える。

 

 どちらか一方ではなく、二つを合わせて使う。

 

 以前の人生では当たり前に行っていたことだった。

 

 だが、新しい肉体では、まずその感覚を馴染ませる必要があった。

 

 もちろん、いきなり以前と同じ出力を扱えるわけではない。

 

 だが、少なくとも、強い力を使うたびに身体が壊れそうになるという問題は、かなり改善されていった。

 

 今の身体が、特別に脆いわけではない。

 

 ただ、力の通し方が噛み合っていなかったのだ。

 

 そこが分かれば、あとは練習するだけだった。

 

 冬が過ぎ、春が近づく頃。

 

 一護は訓練施設で、以前よりもずっと自然に身体を動かせるようになっていた。

 

 短距離なら、完現光を使った加速も安定している。

 

 身体への負担も、以前ほど大きくない。

 

 さらに、霊力を巡らせることで、打撃や着地の衝撃にも対応できるようになっていた。

 

 もっとも、全力で動けるかと言われれば、まだ難しい。

 

 以前の人生で使っていた力を、そのまま再現できるわけではなかった。

 

 それでも。

 

「……よし」

 

 訓練区画の端で、一護は小さく息を吐いた。

 

 以前とは違う。

 

 確かに、前へ進んでいる。

 

     *

 

 三年生になった春。

 

 学校では進路の話題が増え始めていた。

 

 啓吾は相変わらず騒がしく、水色はそんな彼をからかいながらも、時々勉強を教えていた。

 

 茶渡はボクシングを続けている。

 

 以前より身体が引き締まり、動きにも無駄がなくなってきた。

 

 雨竜は医学部進学へ向けて、着実に準備を進めていた。

 

 それぞれが、少しずつ自分の道を考え始めていた。

 

 そして、ある日の昼休み。

 

「一護」

 

 茶渡が声をかけてきた。

 

「ん?」

 

「……進路、決めたのか?」

 

 一護は弁当箱を閉じた。

 

「……まあな」

 

「どこだ?」

 

「雄英」

 

 茶渡が顔を上げた。

 

「……ヒーロー科か?」

 

「ああ」

 

 茶渡は少しだけ考えた。

 

「……そうか」

 

「何だよ。驚かねえのか?」

 

「……あまり」

 

 一護は苦笑した。

 

「お前もかよ」

 

 茶渡は僅かに笑った。

 

「一護らしいと思う」

 

「……何なんだよ、その言い方」

 

 そこへ、啓吾が勢いよく割り込んできた。

 

「雄英!?」

 

 一護は顔をしかめた。

 

「……うるせえ!」

 

「お前、雄英受けんの!?」

 

「そうだよ」

 

「すげえじゃねえか!」

 

 啓吾は目を輝かせた。

 

「ってことは、将来は人気ヒーローになって、テレビとか出たりすんのか!?」

 

「いや、別にそんなつもりはねえけど」

 

「何でだよ! せっかくだろ!」

 

 一護は呆れた。

 

「せっかくって何だよ」

 

 水色が笑った。

 

「一護って、そういうの興味なさそうだもんね」

 

「……まあな」

 

「じゃあ、何で雄英なの?」

 

 一護は少し考えた。

 

「……資格取っときてえんだよ」

 

「資格?」

 

「ああ。ヒーローの」

 

 水色が首を傾げた。

 

 一護は肩をすくめた。

 

「この世界じゃ、力を使うにも色々面倒だろ。だったら、ちゃんとしたとこで勉強して、資格くらい持っといた方がいいかなって」

 

 水色は少し考え、それから笑った。

 

「なるほどね」

 

「何だよ」

 

「いや。一護らしいなって」

 

 一護は顔をしかめた。

 

「……お前ら、さっきからそればっかだな」

 

 茶渡が小さく笑った。

 

 そのとき、教室の入口から雨竜が顔を出した。

 

「黒崎」

 

「おう、石田」

 

「雄英の入試について、少し調べたんだ」

 

 雨竜は手に持っていた資料を差し出した。

 

 一護は目を瞬いた。

 

「……お前、医学部志望だろ」

 

「僕が受けるわけじゃない」

 

 雨竜は少しだけ眉を寄せた。

 

「君が受験するなら、知っておいた方がいい情報があると思ってね」

 

 一護は資料を受け取った。

 

 そこには、雄英高校の募集要項や過去の入試情報がまとめられていた。

 

「……ありがとな」

 

「礼はいい。ただし、読んでおけよ」

 

 雨竜は真面目な顔で続ける。

 

「雄英は学力だけでは合格できない。実技試験もあるし、個性の使い方も評価される」

 

「……ああ」

 

「君の場合、能力の仕組みがまだ完全には解明されていない。試験中に無理をするのは避けるべきだ」

 

 一護は苦笑した。

 

「……手厳しいな」

 

「事実を言っているだけだ」

 

 雨竜は眼鏡を押し上げた。

 

「それに、ヒーロー科へ入ればすぐ資格が手に入るわけでもない。学校で学び、必要な試験を受けなければならない」

 

「分かってるよ」

 

 一護は資料へ目を落とした。

 

 雄英高校。

 

 国内でも屈指のヒーロー育成校。

 

 今の自分にとって、必要なことを学べる場所。

 

 そう思っていた。

 

 だが、同時に。

 

 そこへ入ることが、決して簡単ではないことも理解していた。

 

「……まあ、やるだけやってみるさ」

 

 一護が言うと、雨竜は少しだけ口元を緩めた。

 

「君なら、そう言うと思った」

 

 その横で、啓吾が勢いよく手を上げた。

 

「よっしゃ! 一護が雄英受かったら、俺たちで盛大に祝おうぜ!」

 

「まだ受けてもねえよ!」

 

「だから受かったらだって!」

 

 水色が笑った。

 

「じゃあ、合格発表の日は予定空けておこうか」

 

「お前ら、気が早えって……」

 

 一護は呆れながらも、口元を緩めた。

 

 茶渡が静かに頷く。

 

「……応援している」

 

「おう。ありがとな」

 

     *

 

 その日の夜。

 

 一護は自室の机で、雄英高校の資料を読んでいた。

 

 ヒーロー科の教育課程。

 

 実技訓練。

 

 救助活動。

 

 個性の応用。

 

 そして、ヒーロー資格へ繋がる制度。

 

 どれも、一護にとって無関係なものではなかった。

 

 ただ、特別に胸が躍るわけでもない。

 

 オールマイトのようになりたいと思ったことはなかった。

 

 人気ヒーローとしてテレビへ出たいとも思わない。

 

 誰かから褒められたいわけでもない。

 

 ただ。

 

 あの商店街で、女の子が泣いていた。

 

 助けを求めていた。

 

 その声を聞いた瞬間、身体が動いた。

 

 ヒーローたちの判断が間違っていたとは思わない。

 

 相性が悪いなら、無理に攻撃しない方がいい。

 

 人質を巻き込む危険があるなら、なおさらだ。

 

 それでも。

 

 あの場で、自分が何もせずに待っていられたかと問われれば。

 

 一護には、頷けなかった。

 

 昔から、そうだった。

 

 誰かが傷ついているのを見れば、放っておけない。

 

 助けられるかどうかなんて、分からなくても。

 

 それでも、手を伸ばしてしまう。

 

 それが、黒崎一護だった。

 

 ならば。

 

 次は、もっと上手くやればいい。

 

 自分が傷つかずに済むように。

 

 周りの人間を危険に晒さずに済むように。

 

 そして、できるだけ多くの人へ手を伸ばせるように。

 

 一護は資料を閉じた。

 

 机の端には、進路希望調査の用紙が置かれている。

 

 第一志望。

 

 そこへ、ゆっくりと文字を書き込む。

 

 ――雄英高校 ヒーロー科。

 

 一護はしばらく、その文字を眺めていた。

 

 それから、ペンを置いた。

 

「……まあ、悪くねえか」

 

 小さく呟く。

 

 窓の外では、夜の街が静かに広がっていた。

 

     *

 

 進路を伝えたとき、真咲は少し驚いた顔をした。

 

「雄英高校?」

 

「ああ。ヒーロー科」

 

 一護は頷いた。

 

 一心は腕を組み、少しだけ考えた。

 

「ほう。雄英か」

 

「……何だよ」

 

「いや、別に反対するつもりはねえが」

 

 一心は珍しく真面目な顔をした。

 

「お前、何でそこへ行きてえんだ?」

 

 一護は少し考えた。

 

「……資格が欲しいんだよ」

 

 真咲が首を傾げる。

 

「資格?」

 

「ああ。ヒーローの」

 

 一護は自分の手を見た。

 

「今の俺じゃ、いざってときに力を使うにも色々あるだろ。だから、ちゃんと学んで資格取っときてえんだ」

 

 真咲は黙って聞いていた。

 

 一護は続ける。

 

「それに、救助のことももっと覚えたいしな」

 

 一心が少しだけ目を細めた。

 

「……あの事件のことか」

 

 一護は頷いた。

 

「ああ」

 

 あの日、助けを求める女の子を見た瞬間、身体が動いた。

 

 それを後悔しているわけではない。

 

 だが、自分の行動が危険だったことも分かっている。

 

 次に同じような状況になったら。

 

 もっと確実に助けたい。

 

 自分も、周りの人間も、無事でいられるように。

 

「……別に、ヒーローって肩書きが欲しいわけじゃねえんだ」

 

 一護は顔を上げた。

 

「ただ、護れるもんを増やしたい。それだけだ」

 

 真咲はしばらく一護を見つめていた。

 

 それから、静かに笑った。

 

「……そっか」

 

 一護は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「反対しねえの?」

 

「反対する理由はないわ」

 

 真咲はそう言って、微笑んだ。

 

「ただし、無茶はしないこと。そこは約束してね」

 

 一護は苦笑した。

 

「……努力する」

 

「もう。一護ったら」

 

 真咲が少し呆れたように笑う。

 

 その横で、一心が大きく頷いた。

 

「よし! それなら決まりだ!」

 

 一護が顔を向ける。

 

「……何が?」

 

「我が息子の雄英受験! 父として全力で応援しようじゃないか!」

 

「……親父、まだ受けるって決めただけだぞ」

 

「分かっている! だからこそ、今から準備が必要なのだ!」

 

 一心は勢いよく立ち上がった。

 

「まずは特訓だ! 父と息子の熱き修行の日々が――」

 

「いらねえよ!」

 

 一護が即座に突っ込む。

 

 その声を聞きつけ、遊子と夏梨が居間へ顔を出した。

 

「お兄ちゃん、雄英受けるの!?」

 

 遊子が目を輝かせた。

 

「ああ」

 

「すごーい!」

 

 夏梨は少しだけ口元を緩めた。

 

「一兄なら、案外受かるかもね」

 

「案外って何だよ」

 

「そのままの意味」

 

「お前なあ……」

 

 遊子が笑い、真咲も楽しそうに頷いた。

 

 一心は相変わらず何か騒いでいたが、一護はもう相手にしなかった。

 

 いつもの黒崎家だった。

 

 騒がしくて、落ち着きがなくて。

 

 それでも、帰ってくれば安心できる場所。

 

 一護は少しだけ笑った。

 

     *

 

 受験が近づくにつれ、一護の生活は少しずつ忙しくなっていった。

 

 学校の勉強。

 

 道場の稽古。

 

 個性訓練施設での練習。

 

 そして、家での自主訓練。

 

 完現光による移動は、以前よりもずっと安定していた。

 

 短い距離なら、ほとんど意識せずに加速できる。

 

 霊力による身体の補強も、少しずつ馴染んできた。

 

 ただし、どこまで出力を上げられるかは、まだ試していない。

 

 訓練施設では安全上の制限があるし、むやみに力を解放するつもりもなかった。

 

 それでも、一護は焦っていなかった。

 

 以前の人生で、何度も力を失い、取り戻してきた。

 

 そのたびに、自分の中にある力と向き合ってきた。

 

 今も同じだった。

 

 できることを一つずつ増やしていけばいい。

 

 そして、ある日の放課後。

 

「一護!」

 

 啓吾が声を上げた。

 

「雄英の入試、もうすぐなんだろ!?」

 

「ああ」

 

「よっしゃ! じゃあ今日は壮行会だ!」

 

 一護は顔をしかめた。

 

「……何でそうなるんだよ」

 

「決まってんだろ! 友達が大勝負に挑むんだぞ!」

 

 水色が笑った。

 

「僕もいいと思うよ。どうせ啓吾が何か食べたいだけだろうけど」

 

「違うわ!」

 

 茶渡が静かに頷いた。

 

「……俺も、行きたい」

 

 一護は少しだけ目を瞬いた。

 

 雨竜は腕を組んでいたが、特に反対する様子はなかった。

 

「……お前らなあ」

 

 一護は呆れたように息を吐いた。

 

 だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「……分かったよ。ちょっとだけな」

 

「よっしゃあ!」

 

 啓吾が両手を上げた。

 

 水色が笑い、茶渡も僅かに口元を緩める。

 

 雨竜は呆れたように溜息をついた。

 

 そして、五人は並んで教室を出た。

 

 廊下には、放課後の柔らかな日差しが差し込んでいた。

 

     *

 

 自室の机に、雄英高校の受験票が置かれていた。

 

 一護はそれを手に取り、しばらく眺めた。

 

 入学試験まで、あと僅か。

 

 学力試験。

 

 実技試験。

 

 どちらも簡単ではないだろう。

 

 だが、ここまで準備してきた。

 

 一護は受験票を机へ戻した。

 

 窓の外には、冬の夜空が広がっている。

 

 遠くの街灯が、静かに光っていた。

 

 以前の人生では、死神として戦った。

 

 その力で、護れるものを護ってきた。

 

 今は違う。

 

 この世界で生まれ、家族に育てられ、学校へ通い、仲間たちと出会った。

 

 その中で、もう一度自分の力を使う道を選ぼうとしている。

 

 ヒーローに憧れているわけではない。

 

 誰かに認められたいわけでもない。

 

 ただ、目の前で誰かが傷ついているのを、黙って見ていることができない。

 

 それは、以前から何も変わっていなかった。

 

 だからこそ、少しでもできることを増やしたい。

 

 どんな状況でも、手を伸ばせるように。

 

 そして、今度こそ。

 

 伸ばした手が届くように。

 

 一護は机の引き出しを開け、参考書を取り出した。

 

 まだ、やることは残っている。

 

 ペンを握り、ページを開く。

 

 窓の外では、静かに風が吹いていた。

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