雄英高校の入学試験当日。
「一護、受験票は持った?」
「持った」
「筆記用具は?」
「入ってる」
「お昼は?」
「さっき鞄に入れたろ」
玄関で靴を履いていた一護は、振り返って苦笑した。
母の真咲が、いつになく落ち着かない様子で立っている。
普段は何事にも明るく、多少の騒ぎなら笑い飛ばしてしまう母親だが、今日は朝から何度も同じ確認をしていた。
「あと、ハンカチと――」
「母さん」
一護は靴紐を結び終え、立ち上がった。
「大丈夫だって」
真咲は一瞬口を閉じた。
それから、少し困ったように笑う。
「……そうね」
台所から遊子が顔を出した。
「お兄ちゃん、お弁当の中に卵焼き入れたからね!」
「おう。ありがとな」
「頑張ってね!」
居間では夏梨がテレビを見ていたが、一護が鞄を持ち上げると、ちらりと顔を向けた。
「一兄」
「ん?」
「遅刻しないようにね」
「しねえよ」
「どうだか」
そう言いながらも、夏梨は口元を少し緩めていた。
その後ろで、新聞を読んでいた一心が立ち上がる。
「一護ぉぉ!」
「……何だよ」
「ついにこの日が来たか! 我が息子が雄英の門を叩く日が!」
両腕を広げて近づいてくる父親を、一護は片手で制した。
「朝からうるせえ!」
「何を言う! 父としての激励を――」
「時間ねえんだよ!」
一心が大袈裟に崩れ落ちる。
遊子が笑い、夏梨が呆れたように溜息をついた。
いつもの黒崎家だった。
一護は鞄を肩に掛け直した。
真咲が玄関まで見送りに来る。
「一護」
「ん?」
「無理はしないでね」
その声は、先ほどまでと違って静かだった。
一護は母親を見た。
昨年の商店街での事件以来、真咲は以前にも増して、一護が怪我をして帰ってくることを心配するようになっていた。
それも無理はない。
助けようとして飛び込んだ先で、自分まで捕まってしまったのだから。
「……分かってるよ」
一護が答えると、真咲は微笑んだ。
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
扉を開ける。
二月の冷たい空気が頬に触れた。
一護は肩をすくめ、駅へ向かって歩き出した。
*
「……でけえな」
雄英高校の正門を見上げ、一護は思わず呟いた。
テレビや資料で何度も見ていたが、実際に訪れると印象が違う。
巨大な校舎。
広い敷地。
整備された道路の向こうには、さらに別の施設が見えた。
学校というより、ちょっとした街のようだった。
門の前には、受験生らしい少年少女が大勢集まっていた。
緊張した顔で資料を見直している者。
友人同士で話している者。
すでに準備運動を始めている者もいる。
一護は受験票を取り出し、案内を確認した。
集合場所は校舎内の講堂。
まずは筆記試験。その後、実技試験の説明を受け、指定された演習会場へ移動する。
「……さて」
受験票をしまい、門をくぐった。
その途中で、前を歩いていた少年が立ち止まった。
緑色の癖毛をした少年だった。
雄英の校舎を見上げ、何やら小さく呟いている。
表情は随分と緊張していた。
一護はその横を通り過ぎた。
少し進んだところで、背後から慌ただしい声と、小さな物音が聞こえる。
振り返ると、先ほどの少年が足を滑らせかけ、茶色い髪の少女に支えられていた。
少女が何かを話し、少年は真っ赤になって頭を下げている。
怪我はなさそうだった。
一護はそれを確認すると、再び校舎へ向かった。
*
筆記試験は、思っていたほど苦労しなかった。
もちろん、簡単というわけではない。
一般科目に加え、状況判断を問う設問もあり、単純な暗記だけでは対応できない問題が並んでいた。
それでも、一護は落ち着いて解答を進められた。
中学に入ってから、成績を大きく落としたことはない。
以前の人生で苦労した分、今度は余裕を持って準備しておこうと考えたこともある。
それに、雨竜から渡された参考書が案外役に立っていた。
最後の問題を書き終え、一護は時計を確認した。
少しだけ時間が残っている。
解答欄を見直し、誤字や計算の間違いがないか確かめる。
やがて、終了を知らせる声が響いた。
答案用紙が回収されていく。
一護は椅子へ背中を預けた。
「……ふう」
ひとまず、最初の関門は終わった。
残るは実技試験だ。
*
「ヘイ、受験生諸君!」
講堂に大きな声が響いた。
壇上に立っているのは、派手な髪型とサングラスが特徴的な男だった。
プロヒーロー、プレゼント・マイク。
音声を使った個性を持つヒーローとして知られている。
一護は配布された資料から顔を上げた。
男は、どうやら実技試験の説明を担当するらしい。
マイク越しの声が講堂全体を震わせている。
「ここからは実技試験の説明だ! しっかり聞いてくれよ!」
一護は資料へ目を落とした。
演習用に作られた市街地。
そこに配置された仮想敵を制圧し、得点を獲得する。
制限時間は十分間。
仮想敵には、それぞれ一点から三点までの得点が設定されているらしい。
つまり、制限時間内にできるだけ多く倒せばいいというわけだ。
「……なるほどな」
一護は小さく呟いた。
ロボットなら、多少力を使っても人間を傷つける心配は少ない。
むしろ、今の自分がどこまで動けるのか確かめるには都合がいい。
ただし、試験である以上、無茶はできない。
完現光による移動も、霊力を使った身体強化も、今ではかなり安定している。
それでも、どこまで出力を上げられるかは慎重に見極めるつもりだった。
そんなことを考えていると、前方から手が上がった。
眼鏡を掛けた少年だった。
背筋を伸ばし、実に真面目そうな顔で壇上を見つめている。
「質問があります!」
プレゼント・マイクが応じる。
少年は資料に記載された四種類目の仮想敵について説明を求めた。
その後、近くで何やら呟いていた緑髪の少年へ注意を向ける。
一護は二人を眺め、少しだけ眉を上げた。
真面目なのは結構だが、随分と勢いのある奴だ。
緑髪の少年は、申し訳なさそうに身を縮めている。
壇上ではプレゼント・マイクが説明を続けていた。
四種類目の仮想敵。
それは、倒しても得点にならない巨大な障害物だという。
資料には、ゼロポイントと記されていた。
「……ゼロねえ」
一護はその欄を見た。
得点にならないなら、わざわざ倒す必要はない。
ただし、実際の演習ではどういう動きをするのか分からない。
それも含めて、現場で判断しろということなのだろう。
やがて説明が終わり、受験生たちは各自の演習会場へ向かうよう指示された。
一護の指定は、D演習区。
受験票を確認し、案内に従って講堂を出た。
*
演習区の入口には、すでに多くの受験生が集まっていた。
巨大なゲートの向こうには、建物が立ち並んでいる。
道路。
交差点。
商店街を模した建物。
窓にはガラスの代わりに安全性を考慮した素材が使われており、倒壊を想定した障害物も置かれていた。
見た目だけなら、本物の市街地とほとんど変わらない。
一護は腕を軽く回した。
周囲では、受験生たちがそれぞれ準備をしている。
身体から光を放つ少年。
指先を伸ばしている少女。
脚部の筋肉をほぐしている者もいた。
それぞれ、使える個性も違うのだろう。
自分の手を見る。
この身体に宿っているのは、個性とは別の力だ。
だが、この場でそれを説明する必要はない。
今は、できることをやるだけだった。
「……よし」
一護は小さく息を吐いた。
そのとき、会場に大きな声が響いた。
「何を止まってる! 実戦なら始まりを知らせてくれる敵ばかりじゃないぞ!」
受験生たちが一斉に顔を上げる。
ゲートが開いていた。
一護は少し目を見開いた。
「……おいおい、そういうことかよ」
周囲の受験生が走り始める。
一護も、その流れに続いた。
開かれたゲートを抜け、演習区へ踏み込む。
その瞬間、建物の陰から金属音が響いた。
道路の向こうに、車輪を備えたロボットが現れる。
赤いランプが点灯した。
機体の側面には、数字の「1」が記されている。
「……まず一体か」
ロボットがこちらへ向かって走り出した。
一護は軽く地面を蹴り、真正面から距離を詰めた。
ロボットが機械腕を振り上げる。
一護は半身になって避け、その懐へ踏み込んだ。
右拳を握る。
機体の関節部分へ、鋭い一撃を打ち込んだ。
金属が潰れる音が響いた。
ロボットの腕が折れ曲がる。
続けて、一護は機体を横から蹴りつけた。
車輪が浮き、ロボットが道路へ転がった。
警告音。
赤いランプが消える。
「……よし」
拳を開閉してみる。
痛みはない。
打撃の際の衝撃も、問題なく受け止められていた。
そこへ、別のロボットが現れた。
今度は二点。
腕の先に、打撃用の装置が備えられている。
一護は姿勢を低くした。
機械腕が振り下ろされる。
その軌道を見切って身をかわし、ロボットの背後へ回り込んだ。
振り返ろうとした機体へ、すかさず蹴りを叩き込む。
装甲が凹み、ロボットが壁へ衝突した。
動きが止まる。
一護は息を吐いた。
実戦とは違う。
こちらを殺そうとしてくる相手ではない。
だが、訓練相手としては悪くなかった。
身体の動きも、距離感も確かめられる。
「……さて、次だな」
一護は周囲を見渡した。
遠くから、別の受験生が仮想敵を倒す音が響いていた。
制限時間は十分間。
立ち止まっている暇はない。
一護は次の通りへ駆け出した。
*
演習区の中央へ近づくにつれ、仮想敵の数は増えていった。
三点のロボットは、これまでのものより動きが速い。
機体も大きく、正面から打撃を加えただけでは簡単に倒れなかった。
「……っ!」
一護は突き出された機械腕を避けた。
そのまま側面へ回り込み、深く踏み込む。
狙うのは、膝に当たる関節部分。
蹴りが命中し、金属が軋んだ。
ロボットの姿勢が崩れる。
続けて、車体を支える軸へ拳を打ち込んだ。
大きな音とともに機体が傾き、地面へ倒れ込む。
警告音が鳴った。
一護は息を吐いた。
「……結構硬えな」
それでも、今のところ大きな問題はない。
装甲の厚い場所へ無理に攻撃を加える必要はなかった。
機体の動きを見れば、狙える部分はいくらでもある。
一護は倒れたロボットを一瞥し、先へ進んだ。
角を曲がったところで、別の三点ロボットが現れる。
今度は二体だった。
片方が腕を振り上げ、もう片方が進路を塞ぐように前へ出てくる。
一護は足を止めなかった。
先に動いた一体目の懐へ入り、伸びてきた腕を掴む。
その勢いを利用して機体を横へ引くと、もう一体の進路が塞がれた。
二体がぶつかり合う。
金属音が響いた。
一護はその隙を逃さず、体勢を崩した一体目の関節を蹴り抜いた。
倒れた機体を飛び越え、二体目へ向き直る。
振り上げられた腕の下をくぐり、側面へ回る。
次の一撃で、二体目も地面へ沈んだ。
「……っと」
一護は軽く肩を回した。
まだ余裕はある。
足運びにも無理がない。
急な方向転換でも、以前のように姿勢が乱れることはなかった。
そのとき。
左手の通りから、悲鳴が上がった。
「うわっ!」
一護は顔を向けた。
建物の角を曲がったところで、一人の受験生が地面へ倒れていた。
近くには、三点のロボットがいる。
どうやら戦闘中に足を滑らせたらしい。
少年の右脚が、倒れた金属製の看板の下敷きになっていた。
ロボットがゆっくりと近づく。
「……くそ!」
少年は身体を起こそうとした。
だが、脚が抜けない。
一護は駆け出した。
ロボットが機械腕を振り上げるより早く、その側面へ飛び込む。
繰り出された一撃を蹴りで逸らし、相手をよろめかせた。
「おい、大丈夫か!」
少年が顔を上げた。
「足が……!」
「分かった。ちょっと待ってろ」
一護は看板へ目を向けた。
大きな板が斜めに倒れ、少年の脚を挟んでいる。
無理に持ち上げれば、かえって脚を痛めるかもしれない。
一護は看板の端を掴んだ。
金属の重みを確かめ、少しずつ持ち上げる。
片手で板を支え、もう片方の手で隙間を広げた。
「今だ、脚抜け!」
「……っ!」
少年が身体を引く。
脚が抜けた。
一護は看板をゆっくりと地面へ下ろした。
「立てるか?」
「た、多分……」
少年は足をついた。
だが、痛みがあるらしく、すぐに顔をしかめる。
一護は周囲を見た。
仮想敵はまだ動いている。
少年を置いたまま戦うわけにはいかなかった。
「肩貸すぞ」
「えっ?」
「ほら、掴まれ」
少年の腕を自分の肩へ回し、立ち上がらせる。
そこへ、再びロボットが近づいてきた。
一護は顔をしかめた。
「……しつけえな」
少年を支えたまま、ロボットの動きを見る。
相手の進行方向。
近くの建物。
道路脇には、仮設の柵が置かれている。
機械腕が振り下ろされる直前、一護は少年を支えながら道路の反対側へ退いた。
ロボットの攻撃が空を切る。
勢い余った機体が柵へぶつかり、姿勢を崩した。
一護は少年を建物の陰へ座らせた。
「ここで待ってろ。係の人呼んでくる」
少年は何か言おうとした。
だが、一護はすでに通りへ戻っていた。
ロボットが機体を立て直す。
一護は正面から踏み込んだ。
腕を避け、関節を打ち抜く。
続けて機体の側面へ蹴りを叩き込む。
ロボットが横転した。
ランプが消える。
すぐに近くの監視装置へ向け、一護は声を張り上げた。
「おい! 怪我してる奴がいる! 係の人、来てくれ!」
近くにいた運営スタッフが、安全確認のための通路から現れた。
事情を説明すると、すぐに少年のもとへ向かってくれた。
一護はその姿を見届けた。
「……よし」
再び通りへ目を向ける。
少し遠くで、別のロボットが受験生に倒されていた。
時計を見る。
思ったより時間が経っている。
得点になる仮想敵を探すなら、急いだ方がいいだろう。
一護は再び走り出した。
*
試験も終盤へ差しかかっていた。
街路には動かなくなったロボットが転がり、あちこちから金属の軋む音が響いている。
一護は建物の壁へ手をつき、息を整えた。
ここまでで、かなりの数を倒した。
ただし、正確な得点は分からない。
何体かは別の受験生が先に倒していたし、途中で救助に時間を使った。
「……ま、こんなもんか」
そう呟いたときだった。
足元が震えた。
低い音。
最初は、どこかの建物が崩れたのかと思った。
だが、違う。
地面そのものが、重い何かに踏みつけられている。
一護は顔を上げた。
通りの向こう。
建物の屋根より高い位置から、巨大な機械の頭部が現れた。
「……でっけえな」
思わず声が漏れた。
ゼロポイント。
説明で聞いた、得点にならない仮想敵だった。
巨大な脚が道路へ降りる。
地面が震え、近くの窓が揺れた。
受験生たちが一斉に走り出す。
「逃げろ!」
「ゼロポイントだ!」
「相手にするだけ無駄だ!」
確かに、わざわざ倒す必要はない。
あの巨体を相手にすれば、余計な時間を使うだけだ。
一護は進路を変えようとした。
だが、そのとき。
通りの端で、何かが倒れる音がした。
振り返る。
歩道脇に設置されていた大きな標識が、地面へ傾いていた。
その下に、一人の少女がいる。
逃げようとして転んだらしい。
膝を押さえ、立ち上がろうとしている。
しかし、頭上では標識の支柱が軋んでいた。
一護は走り出した。
考えるより先に、足が地面を蹴っていた。
倒れかけた標識へ飛び込み、少女の前へ回る。
片腕を伸ばし、支柱を受け止めた。
鈍い衝撃が走る。
「……っ!」
靴底が地面を擦った。
肩へ、重い負荷がかかる。
だが、一護はその場で踏みとどまった。
「立てるか!」
少女が顔を上げた。
「……あ、はい!」
「じゃあ、早く向こうへ!」
少女が立ち上がる。
足を引きずりながらも、通りの反対側へ走った。
一護はそれを確認してから、支柱をゆっくりと横へ倒した。
金属が地面を打つ。
大きな音が響いた。
「……ふう」
息を吐いた、そのとき。
巨大な影が落ちた。
一護は顔を上げた。
ゼロポイントの仮想敵が、すぐ近くまで迫っていた。
巨大な脚が持ち上がる。
その下には、まだ逃げ遅れている受験生がいた。
「……おい!」
一護は声を上げた。
少年が振り返る。
巨大な脚を見上げ、顔を強張らせた。
足がすくんでいる。
一護は飛び出した。
少年の襟元を掴み、その身体を横へ引く。
次の瞬間、巨大な脚が道路へ降りた。
轟音。
地面が大きく揺れる。
一護は少年を抱えたまま転がり、建物の陰へ飛び込んだ。
粉塵が舞い上がる。
「……っぶねえ!」
腕で顔を庇いながら、一護は息を吐いた。
少年は呆然としている。
「おい、大丈夫か?」
「……あ、ああ」
「なら、さっさと逃げろ。あんなもんに踏まれたら洒落になんねえぞ」
少年は何度も頷き、走っていった。
一護はその背中を見届けた。
ゼロポイントの巨大な脚が、再び動き始める。
あのまま進めば、建物の一部が崩れるかもしれない。
だが、周囲に残っている受験生は、ほとんどいない。
一護は目を細めた。
倒せない相手ではないかもしれない。
以前の力を十分に使えれば、あの程度の巨体を相手にすることは難しくない。
だが、今の身体で同じことをする必要があるか。
周囲への被害はどうなる。
倒した結果、建物が崩れれば、別の場所にいる受験生を巻き込むかもしれない。
一護は道路の向こうへ目を向けた。
先ほど助けた少女は、すでに安全な場所へ移動している。
他の受験生も、避難を終えつつあった。
ならば、無理に倒す必要はない。
そう判断したところで、終了を知らせる音が響いた。
『試験終了! 受験生はその場で行動を停止してください!』
一護は足を止めた。
ゼロポイントの仮想敵も、動きを止めている。
大きな機体が静かになると、先ほどまでの騒音が嘘のようだった。
残ったのは、受験生たちの荒い呼吸と、遠くから聞こえる運営スタッフの声だけ。
一護は大きく息を吐いた。
「……終わりか」
腕を軽く回す。
多少の疲労はある。
だが、まだ動ける。
試験中の動きにも、大きな問題はなかった。
あれだけ走り回っても、身体は十分についてきている。
そのことに、一護は少し満足していた。
*
「君、さっきの……!」
演習区の出口へ向かっていると、背後から声をかけられた。
振り返る。
先ほど標識の下敷きになりかけていた少女だった。
膝には応急処置が施されている。
一護は足を止めた。
「おう。大丈夫だったか?」
「うん。ちょっと擦りむいただけ」
「そっか。よかったな」
少女は少しだけ頭を下げた。
「本当にありがとう。あのままだったら、私……」
「気にすんなって。怪我なくてよかったよ」
一護がそう答えると、少女は少し驚いたような顔をした。
「……でも、あなた、試験の途中だったのに」
「ん?」
「私を助けてたら、その分ポイント取れなくなるでしょ?」
一護は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、肩をすくめる。
「……別に。あのままほっとけねえだろ」
少女は黙った。
一護はそれ以上何も言わず、軽く手を上げた。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
そう言って、出口へ向かった。
少女はしばらくその背中を見ていた。
*
雄英高校の監視室では、試験の記録映像が確認されていた。
複数のモニターに、それぞれの演習区の映像が映し出されている。
教員たちが受験生の動きを確認しながら、採点を進めていた。
その中の一つに、黒崎一護の姿があった。
「……ほう」
小柄な校長、根津が画面へ目を向ける。
映像の中では、一護が仮想敵の攻撃を避け、関節を正確に破壊していた。
続いて、別の映像。
怪我をした受験生を助け、支えながら安全な場所へ運んでいる。
さらに、ゼロポイントの仮想敵が現れた際の記録。
倒れかけた標識を支え、逃げ遅れた受験生を助けていた。
「面白いね」
根津が呟いた。
隣にいた教師が、資料へ目を落とす。
「黒崎一護。個性は発動型として登録されていますが、詳細は不明です」
「不明?」
「はい。物体への干渉と、身体能力の補助が確認されています。ただし、発動の仕組みについては医療機関でも結論が出ていないようです」
根津は映像を見つめた。
一護がロボットの懐へ飛び込む。
反撃を受けるより早く背後へ回り込み、関節へ蹴りを叩き込んでいた。
その速度は、同年代の一般的な身体能力を明らかに超えている。
「……なるほど」
根津は小さく頷いた。
「それにしても、戦闘経験が豊富そうな動きだね」
別の教師が言った。
「個性の出力だけに頼っていません。相手の関節や機構を観察して、必要な場所へ正確に攻撃を加えています」
「空手を長く続けているそうだよ」
根津は資料をめくった。
「それだけでは説明できない部分もあるけれどね」
モニターでは、一護がゼロポイントの仮想敵から逃げ遅れた少年を助けていた。
救助を終えると、巨大な仮想敵へ目を向ける。
だが、攻撃は仕掛けなかった。
周囲の状況を確認し、危険がないと判断すると、そこで足を止めている。
「無理に得点を取りにいくのではなく、必要な行動を選んでいる」
根津が言った。
その横で、腕を組んでいた相澤消太が口を開いた。
「……ただ、危険な場所へ飛び込む癖があるようですね」
根津が顔を向ける。
「そうだね」
「最初の救助も、ゼロポイントのときも。判断は速いですが、本人の安全を十分に確保できているとは言い難い」
相澤は映像を見つめていた。
「それに、あの速度。本人が制御できているようには見えますが、限界がどこにあるのか分からない」
根津は頷いた。
「そこは今後、確認が必要だろうね」
相澤は資料へ目を落とした。
黒崎一護。
個性の詳細は不明。
幼少期から空手を続け、個性訓練施設へも定期的に通っている。
記録上は、比較的地道な訓練を積み重ねてきた生徒だった。
だが、映像に映っている動きは、単に訓練を積んだだけのものには見えなかった。
「……妙な奴ですね」
相澤が呟く。
根津は小さく笑った。
「雄英には、そういう生徒が集まるものさ」
*
試験から一週間が経った。
黒崎家の郵便受けに、雄英高校からの封筒が届いた。
「お兄ちゃん!」
遊子が嬉しそうに声を上げる。
「来てるよ! 雄英から!」
一護は居間から顔を上げた。
「……もう来たのか」
「早く開けようよ!」
遊子が封筒を差し出す。
一護は受け取り、差出人を確認した。
確かに雄英高校だ。
少し厚みのある封筒だった。
居間には真咲と一心、夏梨もいた。
どうやら、家族全員が結果を気にしていたらしい。
「一護、開けてみたら?」
真咲が言った。
「……ああ」
一護は封を切った。
中には、薄い円盤状の装置と説明書が入っている。
机の上へ置くと、自動的に起動した。
光が広がり、立体映像が浮かび上がる。
「おおっ!」
一心が声を上げた。
映し出されたのは、筋骨隆々とした金髪の男だった。
オールマイト。
国内でも知らない者はいないほど有名なプロヒーローだ。
遊子が目を輝かせる。
「オールマイトだ!」
夏梨も少し驚いた顔をしている。
一護は椅子へ座り直した。
「……へえ」
映像の中のオールマイトが、いつもの大きな笑顔を浮かべた。
『黒崎少年! 雄英高校を受験してくれてありがとう!』
部屋いっぱいに、よく通る声が響いた。
一護は少しだけ眉を上げた。
随分と元気な人だ。
『さて、早速だが試験の結果を伝えよう!』
一護は机へ肘をついた。
映像が切り替わる。
そこには、試験結果が表示されていた。
筆記試験。
実技試験。
そして、得点の内訳。
実技試験の欄には、数字が並んでいた。
仮想敵ポイント――四十二点。
一護はそれを見て、小さく頷いた。
「……まあ、そんなもんか」
途中で救助に時間を使ったこともあり、もう少し低いかと思っていた。
だが、四十点以上取れていたなら悪くない。
そのとき、オールマイトの声が続いた。
『しかし、雄英の実技試験は仮想敵を倒すだけではない!』
一護は顔を上げた。
「……ん?」
映像が切り替わる。
そこには、演習区で怪我をした受験生を助けている一護の姿が映っていた。
倒れた看板を持ち上げ、少年の脚を引き抜く。
肩を貸して安全な場所へ移動させる。
続いて、ゼロポイントの仮想敵が現れた場面。
一護が標識を支え、少女を逃がす。
さらに、巨大な脚の下から別の少年を救出する様子が映し出された。
『我々は、受験生たちのこうした行動も評価している!』
一護は目を細めた。
救助活動。
まさか、それにも点数がついていたとは思わなかった。
映像の横に、新たな数字が表示される。
レスキューポイント――二十七点。
合計――六十九点。
『戦闘能力だけではなく、目の前の危険へどう向き合うか。それもまた、雄英が重視する資質だ!』
オールマイトが大きく頷いた。
『そして、黒崎少年!』
一護は顔を上げた。
『君の合計得点は六十九点!』
映像が切り替わる。
大きな文字が浮かび上がった。
――合格。
『雄英高校ヒーロー科への合格を、ここに通知する!』
一護はしばらく、その文字を見つめていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……よし」
声は、それだけだった。
だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「やったぁ!」
遊子が歓声を上げた。
「お兄ちゃん、おめでとう!」
夏梨も少し笑った。
「へえ。本当に受かったんだ」
「何だよ、本当にって」
「別に?」
一護は苦笑した。
その横で、一心が突然立ち上がった。
「一護ぉぉぉ!」
「……うわっ!」
「我が息子よ! よくぞやったぁぁ!」
勢いよく抱きつこうとしてくる父親を、一護は咄嗟に避けた。
「だから飛びつくなって!」
一心が床へ崩れ落ちる。
遊子が笑い、夏梨が呆れたように首を振った。
真咲はそんな家族の様子を見ていた。
そして、一護と目が合うと、穏やかに微笑んだ。
「おめでとう、一護」
一護は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……ありがとな、母さん」
真咲は頷いた。
「頑張ったものね」
その言葉に、一護は小さく息を吐いた。
確かに、頑張ってきた。
勉強も。
空手も。
完現術の練習も。
そして、霊力の扱い方も。
以前の人生で身につけた力を、少しずつ今の身体へ馴染ませてきた。
それが、今日の結果へ繋がった。
一護はもう一度、映像へ目を向けた。
合格の文字が、静かに輝いている。
悪い気分ではなかった。
*
その日の夜、一護のスマートフォンは随分と騒がしかった。
合格を報告した途端、啓吾が大量のメッセージを送ってきたのだ。
『一護ぉぉぉぉ!!』
『おめでとう!!!!』
『マジで受かりやがった!!』
『祝勝会だあああああ!!』
一護は画面を見ながら、呆れたように息を吐いた。
「……あいつ、うるせえな」
続いて、水色からメッセージが届いた。
『合格おめでとう。一護なら大丈夫だと思ってたよ』
茶渡からは、短い文章だった。
『おめでとう、一護』
雨竜からも連絡が来た。
『合格したと聞いた。おめでとう。ただし、入学してからが本番だぞ』
一護は少し笑った。
「……分かってるって」
それぞれに返事を送る。
最後に、たつきからもメッセージが届いていた。
『雄英合格おめでとう! 今度道場で会ったら相手してよね!』
一護は苦笑した。
『おう。手加減しねえぞ』
すぐに返事が届く。
『こっちの台詞!』
一護は小さく笑った。
スマートフォンを机へ置き、椅子へ背中を預ける。
窓の外には、静かな夜の街が広がっていた。
雄英高校。
ヒーロー科。
今まで資料でしか見たことのなかった場所へ、四月から通うことになる。
そのことが、ようやく少しずつ実感になってきた。
*
春。
まだ冷たい風の残る朝、一護は新しい制服に袖を通していた。
黒崎家の居間では、遊子が朝食を並べている。
夏梨はいつものようにテレビを見ていた。
真咲が一護の制服姿を見て、嬉しそうに笑う。
「似合ってるわね、一護」
「……そうか?」
「うん。すっかり高校生ね」
一護は少し照れくさそうに顔を逸らした。
そこへ、一心が勢いよく現れた。
「一護ぉぉ!」
「……朝から何だよ」
「息子の晴れ姿だ! 写真を撮らせろ!」
「学校行くんだよ!」
「一枚くらいいいだろう!」
一心がスマートフォンを構える。
一護は呆れながらも、玄関で立ち止まった。
真咲と遊子が隣へ並ぶ。
夏梨も渋々、顔を出した。
一心が画面を確認する。
「よーし、撮るぞ!」
シャッター音が響いた。
写真の中では、一護が少し面倒そうな顔をしていた。
だが、その口元は僅かに緩んでいた。
「……じゃあ、行ってくる」
鞄を肩に掛け、玄関へ向かう。
真咲が微笑んだ。
「行ってらっしゃい、一護」
「おう」
扉を開ける。
柔らかな春の光が差し込んだ。
外では、桜が咲き始めていた。
一護は空を見上げた。
以前の人生では、想像もしなかった未来だ。
死神として戦い、何度も死線を越えた。
その果てに、もう一度生まれ、こうして高校へ通おうとしている。
妙なものだと思う。
それでも、悪くない。
家族がいる。
仲間がいる。
そして、まだ知らない人間たちとの出会いが待っている。
一護は鞄を掛け直した。
「……さて」
小さく呟き、歩き出す。
向かう先は、雄英高校。
新しい生活が、始まろうとしていた。