『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第11話 試されるもの

 

 雄英高校の入学試験当日。

 

「一護、受験票は持った?」

 

「持った」

 

「筆記用具は?」

 

「入ってる」

 

「お昼は?」

 

「さっき鞄に入れたろ」

 

 玄関で靴を履いていた一護は、振り返って苦笑した。

 

 母の真咲が、いつになく落ち着かない様子で立っている。

 

 普段は何事にも明るく、多少の騒ぎなら笑い飛ばしてしまう母親だが、今日は朝から何度も同じ確認をしていた。

 

「あと、ハンカチと――」

 

「母さん」

 

 一護は靴紐を結び終え、立ち上がった。

 

「大丈夫だって」

 

 真咲は一瞬口を閉じた。

 

 それから、少し困ったように笑う。

 

「……そうね」

 

 台所から遊子が顔を出した。

 

「お兄ちゃん、お弁当の中に卵焼き入れたからね!」

 

「おう。ありがとな」

 

「頑張ってね!」

 

 居間では夏梨がテレビを見ていたが、一護が鞄を持ち上げると、ちらりと顔を向けた。

 

「一兄」

 

「ん?」

 

「遅刻しないようにね」

 

「しねえよ」

 

「どうだか」

 

 そう言いながらも、夏梨は口元を少し緩めていた。

 

 その後ろで、新聞を読んでいた一心が立ち上がる。

 

「一護ぉぉ!」

 

「……何だよ」

 

「ついにこの日が来たか! 我が息子が雄英の門を叩く日が!」

 

 両腕を広げて近づいてくる父親を、一護は片手で制した。

 

「朝からうるせえ!」

 

「何を言う! 父としての激励を――」

 

「時間ねえんだよ!」

 

 一心が大袈裟に崩れ落ちる。

 

 遊子が笑い、夏梨が呆れたように溜息をついた。

 

 いつもの黒崎家だった。

 

 一護は鞄を肩に掛け直した。

 

 真咲が玄関まで見送りに来る。

 

「一護」

 

「ん?」

 

「無理はしないでね」

 

 その声は、先ほどまでと違って静かだった。

 

 一護は母親を見た。

 

 昨年の商店街での事件以来、真咲は以前にも増して、一護が怪我をして帰ってくることを心配するようになっていた。

 

 それも無理はない。

 

 助けようとして飛び込んだ先で、自分まで捕まってしまったのだから。

 

「……分かってるよ」

 

 一護が答えると、真咲は微笑んだ。

 

「うん。行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

 扉を開ける。

 

 二月の冷たい空気が頬に触れた。

 

 一護は肩をすくめ、駅へ向かって歩き出した。

 

     *

 

「……でけえな」

 

 雄英高校の正門を見上げ、一護は思わず呟いた。

 

 テレビや資料で何度も見ていたが、実際に訪れると印象が違う。

 

 巨大な校舎。

 

 広い敷地。

 

 整備された道路の向こうには、さらに別の施設が見えた。

 

 学校というより、ちょっとした街のようだった。

 

 門の前には、受験生らしい少年少女が大勢集まっていた。

 

 緊張した顔で資料を見直している者。

 

 友人同士で話している者。

 

 すでに準備運動を始めている者もいる。

 

 一護は受験票を取り出し、案内を確認した。

 

 集合場所は校舎内の講堂。

 

 まずは筆記試験。その後、実技試験の説明を受け、指定された演習会場へ移動する。

 

「……さて」

 

 受験票をしまい、門をくぐった。

 

 その途中で、前を歩いていた少年が立ち止まった。

 

 緑色の癖毛をした少年だった。

 

 雄英の校舎を見上げ、何やら小さく呟いている。

 

 表情は随分と緊張していた。

 

 一護はその横を通り過ぎた。

 

 少し進んだところで、背後から慌ただしい声と、小さな物音が聞こえる。

 

 振り返ると、先ほどの少年が足を滑らせかけ、茶色い髪の少女に支えられていた。

 

 少女が何かを話し、少年は真っ赤になって頭を下げている。

 

 怪我はなさそうだった。

 

 一護はそれを確認すると、再び校舎へ向かった。

 

     *

 

 筆記試験は、思っていたほど苦労しなかった。

 

 もちろん、簡単というわけではない。

 

 一般科目に加え、状況判断を問う設問もあり、単純な暗記だけでは対応できない問題が並んでいた。

 

 それでも、一護は落ち着いて解答を進められた。

 

 中学に入ってから、成績を大きく落としたことはない。

 

 以前の人生で苦労した分、今度は余裕を持って準備しておこうと考えたこともある。

 

 それに、雨竜から渡された参考書が案外役に立っていた。

 

 最後の問題を書き終え、一護は時計を確認した。

 

 少しだけ時間が残っている。

 

 解答欄を見直し、誤字や計算の間違いがないか確かめる。

 

 やがて、終了を知らせる声が響いた。

 

 答案用紙が回収されていく。

 

 一護は椅子へ背中を預けた。

 

「……ふう」

 

 ひとまず、最初の関門は終わった。

 

 残るは実技試験だ。

 

     *

 

「ヘイ、受験生諸君!」

 

 講堂に大きな声が響いた。

 

 壇上に立っているのは、派手な髪型とサングラスが特徴的な男だった。

 

 プロヒーロー、プレゼント・マイク。

 

 音声を使った個性を持つヒーローとして知られている。

 

 一護は配布された資料から顔を上げた。

 

 男は、どうやら実技試験の説明を担当するらしい。

 

 マイク越しの声が講堂全体を震わせている。

 

「ここからは実技試験の説明だ! しっかり聞いてくれよ!」

 

 一護は資料へ目を落とした。

 

 演習用に作られた市街地。

 

 そこに配置された仮想敵を制圧し、得点を獲得する。

 

 制限時間は十分間。

 

 仮想敵には、それぞれ一点から三点までの得点が設定されているらしい。

 

 つまり、制限時間内にできるだけ多く倒せばいいというわけだ。

 

「……なるほどな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 ロボットなら、多少力を使っても人間を傷つける心配は少ない。

 

 むしろ、今の自分がどこまで動けるのか確かめるには都合がいい。

 

 ただし、試験である以上、無茶はできない。

 

 完現光による移動も、霊力を使った身体強化も、今ではかなり安定している。

 

 それでも、どこまで出力を上げられるかは慎重に見極めるつもりだった。

 

 そんなことを考えていると、前方から手が上がった。

 

 眼鏡を掛けた少年だった。

 

 背筋を伸ばし、実に真面目そうな顔で壇上を見つめている。

 

「質問があります!」

 

 プレゼント・マイクが応じる。

 

 少年は資料に記載された四種類目の仮想敵について説明を求めた。

 

 その後、近くで何やら呟いていた緑髪の少年へ注意を向ける。

 

 一護は二人を眺め、少しだけ眉を上げた。

 

 真面目なのは結構だが、随分と勢いのある奴だ。

 

 緑髪の少年は、申し訳なさそうに身を縮めている。

 

 壇上ではプレゼント・マイクが説明を続けていた。

 

 四種類目の仮想敵。

 

 それは、倒しても得点にならない巨大な障害物だという。

 

 資料には、ゼロポイントと記されていた。

 

「……ゼロねえ」

 

 一護はその欄を見た。

 

 得点にならないなら、わざわざ倒す必要はない。

 

 ただし、実際の演習ではどういう動きをするのか分からない。

 

 それも含めて、現場で判断しろということなのだろう。

 

 やがて説明が終わり、受験生たちは各自の演習会場へ向かうよう指示された。

 

 一護の指定は、D演習区。

 

 受験票を確認し、案内に従って講堂を出た。

 

     *

 

 演習区の入口には、すでに多くの受験生が集まっていた。

 

 巨大なゲートの向こうには、建物が立ち並んでいる。

 

 道路。

 

 交差点。

 

 商店街を模した建物。

 

 窓にはガラスの代わりに安全性を考慮した素材が使われており、倒壊を想定した障害物も置かれていた。

 

 見た目だけなら、本物の市街地とほとんど変わらない。

 

 一護は腕を軽く回した。

 

 周囲では、受験生たちがそれぞれ準備をしている。

 

 身体から光を放つ少年。

 

 指先を伸ばしている少女。

 

 脚部の筋肉をほぐしている者もいた。

 

 それぞれ、使える個性も違うのだろう。

 

 自分の手を見る。

 

 この身体に宿っているのは、個性とは別の力だ。

 

 だが、この場でそれを説明する必要はない。

 

 今は、できることをやるだけだった。

 

「……よし」

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 そのとき、会場に大きな声が響いた。

 

「何を止まってる! 実戦なら始まりを知らせてくれる敵ばかりじゃないぞ!」

 

 受験生たちが一斉に顔を上げる。

 

 ゲートが開いていた。

 

 一護は少し目を見開いた。

 

「……おいおい、そういうことかよ」

 

 周囲の受験生が走り始める。

 

 一護も、その流れに続いた。

 

 開かれたゲートを抜け、演習区へ踏み込む。

 

 その瞬間、建物の陰から金属音が響いた。

 

 道路の向こうに、車輪を備えたロボットが現れる。

 

 赤いランプが点灯した。

 

 機体の側面には、数字の「1」が記されている。

 

「……まず一体か」

 

 ロボットがこちらへ向かって走り出した。

 

 一護は軽く地面を蹴り、真正面から距離を詰めた。

 

 ロボットが機械腕を振り上げる。

 

 一護は半身になって避け、その懐へ踏み込んだ。

 

 右拳を握る。

 

 機体の関節部分へ、鋭い一撃を打ち込んだ。

 

 金属が潰れる音が響いた。

 

 ロボットの腕が折れ曲がる。

 

 続けて、一護は機体を横から蹴りつけた。

 

 車輪が浮き、ロボットが道路へ転がった。

 

 警告音。

 

 赤いランプが消える。

 

「……よし」

 

 拳を開閉してみる。

 

 痛みはない。

 

 打撃の際の衝撃も、問題なく受け止められていた。

 

 そこへ、別のロボットが現れた。

 

 今度は二点。

 

 腕の先に、打撃用の装置が備えられている。

 

 一護は姿勢を低くした。

 

 機械腕が振り下ろされる。

 

 その軌道を見切って身をかわし、ロボットの背後へ回り込んだ。

 

 振り返ろうとした機体へ、すかさず蹴りを叩き込む。

 

 装甲が凹み、ロボットが壁へ衝突した。

 

 動きが止まる。

 

 一護は息を吐いた。

 

 実戦とは違う。

 

 こちらを殺そうとしてくる相手ではない。

 

 だが、訓練相手としては悪くなかった。

 

 身体の動きも、距離感も確かめられる。

 

「……さて、次だな」

 

 一護は周囲を見渡した。

 

 遠くから、別の受験生が仮想敵を倒す音が響いていた。

 

 制限時間は十分間。

 

 立ち止まっている暇はない。

 

 一護は次の通りへ駆け出した。

 

     *

 

 演習区の中央へ近づくにつれ、仮想敵の数は増えていった。

 

 三点のロボットは、これまでのものより動きが速い。

 

 機体も大きく、正面から打撃を加えただけでは簡単に倒れなかった。

 

「……っ!」

 

 一護は突き出された機械腕を避けた。

 

 そのまま側面へ回り込み、深く踏み込む。

 

 狙うのは、膝に当たる関節部分。

 

 蹴りが命中し、金属が軋んだ。

 

 ロボットの姿勢が崩れる。

 

 続けて、車体を支える軸へ拳を打ち込んだ。

 

 大きな音とともに機体が傾き、地面へ倒れ込む。

 

 警告音が鳴った。

 

 一護は息を吐いた。

 

「……結構硬えな」

 

 それでも、今のところ大きな問題はない。

 

 装甲の厚い場所へ無理に攻撃を加える必要はなかった。

 

 機体の動きを見れば、狙える部分はいくらでもある。

 

 一護は倒れたロボットを一瞥し、先へ進んだ。

 

 角を曲がったところで、別の三点ロボットが現れる。

 

 今度は二体だった。

 

 片方が腕を振り上げ、もう片方が進路を塞ぐように前へ出てくる。

 

 一護は足を止めなかった。

 

 先に動いた一体目の懐へ入り、伸びてきた腕を掴む。

 

 その勢いを利用して機体を横へ引くと、もう一体の進路が塞がれた。

 

 二体がぶつかり合う。

 

 金属音が響いた。

 

 一護はその隙を逃さず、体勢を崩した一体目の関節を蹴り抜いた。

 

 倒れた機体を飛び越え、二体目へ向き直る。

 

 振り上げられた腕の下をくぐり、側面へ回る。

 

 次の一撃で、二体目も地面へ沈んだ。

 

「……っと」

 

 一護は軽く肩を回した。

 

 まだ余裕はある。

 

 足運びにも無理がない。

 

 急な方向転換でも、以前のように姿勢が乱れることはなかった。

 

 そのとき。

 

 左手の通りから、悲鳴が上がった。

 

「うわっ!」

 

 一護は顔を向けた。

 

 建物の角を曲がったところで、一人の受験生が地面へ倒れていた。

 

 近くには、三点のロボットがいる。

 

 どうやら戦闘中に足を滑らせたらしい。

 

 少年の右脚が、倒れた金属製の看板の下敷きになっていた。

 

 ロボットがゆっくりと近づく。

 

「……くそ!」

 

 少年は身体を起こそうとした。

 

 だが、脚が抜けない。

 

 一護は駆け出した。

 

 ロボットが機械腕を振り上げるより早く、その側面へ飛び込む。

 

 繰り出された一撃を蹴りで逸らし、相手をよろめかせた。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 少年が顔を上げた。

 

「足が……!」

 

「分かった。ちょっと待ってろ」

 

 一護は看板へ目を向けた。

 

 大きな板が斜めに倒れ、少年の脚を挟んでいる。

 

 無理に持ち上げれば、かえって脚を痛めるかもしれない。

 

 一護は看板の端を掴んだ。

 

 金属の重みを確かめ、少しずつ持ち上げる。

 

 片手で板を支え、もう片方の手で隙間を広げた。

 

「今だ、脚抜け!」

 

「……っ!」

 

 少年が身体を引く。

 

 脚が抜けた。

 

 一護は看板をゆっくりと地面へ下ろした。

 

「立てるか?」

 

「た、多分……」

 

 少年は足をついた。

 

 だが、痛みがあるらしく、すぐに顔をしかめる。

 

 一護は周囲を見た。

 

 仮想敵はまだ動いている。

 

 少年を置いたまま戦うわけにはいかなかった。

 

「肩貸すぞ」

 

「えっ?」

 

「ほら、掴まれ」

 

 少年の腕を自分の肩へ回し、立ち上がらせる。

 

 そこへ、再びロボットが近づいてきた。

 

 一護は顔をしかめた。

 

「……しつけえな」

 

 少年を支えたまま、ロボットの動きを見る。

 

 相手の進行方向。

 

 近くの建物。

 

 道路脇には、仮設の柵が置かれている。

 

 機械腕が振り下ろされる直前、一護は少年を支えながら道路の反対側へ退いた。

 

 ロボットの攻撃が空を切る。

 

 勢い余った機体が柵へぶつかり、姿勢を崩した。

 

 一護は少年を建物の陰へ座らせた。

 

「ここで待ってろ。係の人呼んでくる」

 

 少年は何か言おうとした。

 

 だが、一護はすでに通りへ戻っていた。

 

 ロボットが機体を立て直す。

 

 一護は正面から踏み込んだ。

 

 腕を避け、関節を打ち抜く。

 

 続けて機体の側面へ蹴りを叩き込む。

 

 ロボットが横転した。

 

 ランプが消える。

 

 すぐに近くの監視装置へ向け、一護は声を張り上げた。

 

「おい! 怪我してる奴がいる! 係の人、来てくれ!」

 

 近くにいた運営スタッフが、安全確認のための通路から現れた。

 

 事情を説明すると、すぐに少年のもとへ向かってくれた。

 

 一護はその姿を見届けた。

 

「……よし」

 

 再び通りへ目を向ける。

 

 少し遠くで、別のロボットが受験生に倒されていた。

 

 時計を見る。

 

 思ったより時間が経っている。

 

 得点になる仮想敵を探すなら、急いだ方がいいだろう。

 

 一護は再び走り出した。

 

     *

 

 試験も終盤へ差しかかっていた。

 

 街路には動かなくなったロボットが転がり、あちこちから金属の軋む音が響いている。

 

 一護は建物の壁へ手をつき、息を整えた。

 

 ここまでで、かなりの数を倒した。

 

 ただし、正確な得点は分からない。

 

 何体かは別の受験生が先に倒していたし、途中で救助に時間を使った。

 

「……ま、こんなもんか」

 

 そう呟いたときだった。

 

 足元が震えた。

 

 低い音。

 

 最初は、どこかの建物が崩れたのかと思った。

 

 だが、違う。

 

 地面そのものが、重い何かに踏みつけられている。

 

 一護は顔を上げた。

 

 通りの向こう。

 

 建物の屋根より高い位置から、巨大な機械の頭部が現れた。

 

「……でっけえな」

 

 思わず声が漏れた。

 

 ゼロポイント。

 

 説明で聞いた、得点にならない仮想敵だった。

 

 巨大な脚が道路へ降りる。

 

 地面が震え、近くの窓が揺れた。

 

 受験生たちが一斉に走り出す。

 

「逃げろ!」

 

「ゼロポイントだ!」

 

「相手にするだけ無駄だ!」

 

 確かに、わざわざ倒す必要はない。

 

 あの巨体を相手にすれば、余計な時間を使うだけだ。

 

 一護は進路を変えようとした。

 

 だが、そのとき。

 

 通りの端で、何かが倒れる音がした。

 

 振り返る。

 

 歩道脇に設置されていた大きな標識が、地面へ傾いていた。

 

 その下に、一人の少女がいる。

 

 逃げようとして転んだらしい。

 

 膝を押さえ、立ち上がろうとしている。

 

 しかし、頭上では標識の支柱が軋んでいた。

 

 一護は走り出した。

 

 考えるより先に、足が地面を蹴っていた。

 

 倒れかけた標識へ飛び込み、少女の前へ回る。

 

 片腕を伸ばし、支柱を受け止めた。

 

 鈍い衝撃が走る。

 

「……っ!」

 

 靴底が地面を擦った。

 

 肩へ、重い負荷がかかる。

 

 だが、一護はその場で踏みとどまった。

 

「立てるか!」

 

 少女が顔を上げた。

 

「……あ、はい!」

 

「じゃあ、早く向こうへ!」

 

 少女が立ち上がる。

 

 足を引きずりながらも、通りの反対側へ走った。

 

 一護はそれを確認してから、支柱をゆっくりと横へ倒した。

 

 金属が地面を打つ。

 

 大きな音が響いた。

 

「……ふう」

 

 息を吐いた、そのとき。

 

 巨大な影が落ちた。

 

 一護は顔を上げた。

 

 ゼロポイントの仮想敵が、すぐ近くまで迫っていた。

 

 巨大な脚が持ち上がる。

 

 その下には、まだ逃げ遅れている受験生がいた。

 

「……おい!」

 

 一護は声を上げた。

 

 少年が振り返る。

 

 巨大な脚を見上げ、顔を強張らせた。

 

 足がすくんでいる。

 

 一護は飛び出した。

 

 少年の襟元を掴み、その身体を横へ引く。

 

 次の瞬間、巨大な脚が道路へ降りた。

 

 轟音。

 

 地面が大きく揺れる。

 

 一護は少年を抱えたまま転がり、建物の陰へ飛び込んだ。

 

 粉塵が舞い上がる。

 

「……っぶねえ!」

 

 腕で顔を庇いながら、一護は息を吐いた。

 

 少年は呆然としている。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「……あ、ああ」

 

「なら、さっさと逃げろ。あんなもんに踏まれたら洒落になんねえぞ」

 

 少年は何度も頷き、走っていった。

 

 一護はその背中を見届けた。

 

 ゼロポイントの巨大な脚が、再び動き始める。

 

 あのまま進めば、建物の一部が崩れるかもしれない。

 

 だが、周囲に残っている受験生は、ほとんどいない。

 

 一護は目を細めた。

 

 倒せない相手ではないかもしれない。

 

 以前の力を十分に使えれば、あの程度の巨体を相手にすることは難しくない。

 

 だが、今の身体で同じことをする必要があるか。

 

 周囲への被害はどうなる。

 

 倒した結果、建物が崩れれば、別の場所にいる受験生を巻き込むかもしれない。

 

 一護は道路の向こうへ目を向けた。

 

 先ほど助けた少女は、すでに安全な場所へ移動している。

 

 他の受験生も、避難を終えつつあった。

 

 ならば、無理に倒す必要はない。

 

 そう判断したところで、終了を知らせる音が響いた。

 

『試験終了! 受験生はその場で行動を停止してください!』

 

 一護は足を止めた。

 

 ゼロポイントの仮想敵も、動きを止めている。

 

 大きな機体が静かになると、先ほどまでの騒音が嘘のようだった。

 

 残ったのは、受験生たちの荒い呼吸と、遠くから聞こえる運営スタッフの声だけ。

 

 一護は大きく息を吐いた。

 

「……終わりか」

 

 腕を軽く回す。

 

 多少の疲労はある。

 

 だが、まだ動ける。

 

 試験中の動きにも、大きな問題はなかった。

 

 あれだけ走り回っても、身体は十分についてきている。

 

 そのことに、一護は少し満足していた。

 

     *

 

「君、さっきの……!」

 

 演習区の出口へ向かっていると、背後から声をかけられた。

 

 振り返る。

 

 先ほど標識の下敷きになりかけていた少女だった。

 

 膝には応急処置が施されている。

 

 一護は足を止めた。

 

「おう。大丈夫だったか?」

 

「うん。ちょっと擦りむいただけ」

 

「そっか。よかったな」

 

 少女は少しだけ頭を下げた。

 

「本当にありがとう。あのままだったら、私……」

 

「気にすんなって。怪我なくてよかったよ」

 

 一護がそう答えると、少女は少し驚いたような顔をした。

 

「……でも、あなた、試験の途中だったのに」

 

「ん?」

 

「私を助けてたら、その分ポイント取れなくなるでしょ?」

 

 一護は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

 それから、肩をすくめる。

 

「……別に。あのままほっとけねえだろ」

 

 少女は黙った。

 

 一護はそれ以上何も言わず、軽く手を上げた。

 

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

 

 そう言って、出口へ向かった。

 

 少女はしばらくその背中を見ていた。

 

     *

 

 雄英高校の監視室では、試験の記録映像が確認されていた。

 

 複数のモニターに、それぞれの演習区の映像が映し出されている。

 

 教員たちが受験生の動きを確認しながら、採点を進めていた。

 

 その中の一つに、黒崎一護の姿があった。

 

「……ほう」

 

 小柄な校長、根津が画面へ目を向ける。

 

 映像の中では、一護が仮想敵の攻撃を避け、関節を正確に破壊していた。

 

 続いて、別の映像。

 

 怪我をした受験生を助け、支えながら安全な場所へ運んでいる。

 

 さらに、ゼロポイントの仮想敵が現れた際の記録。

 

 倒れかけた標識を支え、逃げ遅れた受験生を助けていた。

 

「面白いね」

 

 根津が呟いた。

 

 隣にいた教師が、資料へ目を落とす。

 

「黒崎一護。個性は発動型として登録されていますが、詳細は不明です」

 

「不明?」

 

「はい。物体への干渉と、身体能力の補助が確認されています。ただし、発動の仕組みについては医療機関でも結論が出ていないようです」

 

 根津は映像を見つめた。

 

 一護がロボットの懐へ飛び込む。

 

 反撃を受けるより早く背後へ回り込み、関節へ蹴りを叩き込んでいた。

 

 その速度は、同年代の一般的な身体能力を明らかに超えている。

 

「……なるほど」

 

 根津は小さく頷いた。

 

「それにしても、戦闘経験が豊富そうな動きだね」

 

 別の教師が言った。

 

「個性の出力だけに頼っていません。相手の関節や機構を観察して、必要な場所へ正確に攻撃を加えています」

 

「空手を長く続けているそうだよ」

 

 根津は資料をめくった。

 

「それだけでは説明できない部分もあるけれどね」

 

 モニターでは、一護がゼロポイントの仮想敵から逃げ遅れた少年を助けていた。

 

 救助を終えると、巨大な仮想敵へ目を向ける。

 

 だが、攻撃は仕掛けなかった。

 

 周囲の状況を確認し、危険がないと判断すると、そこで足を止めている。

 

「無理に得点を取りにいくのではなく、必要な行動を選んでいる」

 

 根津が言った。

 

 その横で、腕を組んでいた相澤消太が口を開いた。

 

「……ただ、危険な場所へ飛び込む癖があるようですね」

 

 根津が顔を向ける。

 

「そうだね」

 

「最初の救助も、ゼロポイントのときも。判断は速いですが、本人の安全を十分に確保できているとは言い難い」

 

 相澤は映像を見つめていた。

 

「それに、あの速度。本人が制御できているようには見えますが、限界がどこにあるのか分からない」

 

 根津は頷いた。

 

「そこは今後、確認が必要だろうね」

 

 相澤は資料へ目を落とした。

 

 黒崎一護。

 

 個性の詳細は不明。

 

 幼少期から空手を続け、個性訓練施設へも定期的に通っている。

 

 記録上は、比較的地道な訓練を積み重ねてきた生徒だった。

 

 だが、映像に映っている動きは、単に訓練を積んだだけのものには見えなかった。

 

「……妙な奴ですね」

 

 相澤が呟く。

 

 根津は小さく笑った。

 

「雄英には、そういう生徒が集まるものさ」

 

     *

 

 試験から一週間が経った。

 

 黒崎家の郵便受けに、雄英高校からの封筒が届いた。

 

「お兄ちゃん!」

 

 遊子が嬉しそうに声を上げる。

 

「来てるよ! 雄英から!」

 

 一護は居間から顔を上げた。

 

「……もう来たのか」

 

「早く開けようよ!」

 

 遊子が封筒を差し出す。

 

 一護は受け取り、差出人を確認した。

 

 確かに雄英高校だ。

 

 少し厚みのある封筒だった。

 

 居間には真咲と一心、夏梨もいた。

 

 どうやら、家族全員が結果を気にしていたらしい。

 

「一護、開けてみたら?」

 

 真咲が言った。

 

「……ああ」

 

 一護は封を切った。

 

 中には、薄い円盤状の装置と説明書が入っている。

 

 机の上へ置くと、自動的に起動した。

 

 光が広がり、立体映像が浮かび上がる。

 

「おおっ!」

 

 一心が声を上げた。

 

 映し出されたのは、筋骨隆々とした金髪の男だった。

 

 オールマイト。

 

 国内でも知らない者はいないほど有名なプロヒーローだ。

 

 遊子が目を輝かせる。

 

「オールマイトだ!」

 

 夏梨も少し驚いた顔をしている。

 

 一護は椅子へ座り直した。

 

「……へえ」

 

 映像の中のオールマイトが、いつもの大きな笑顔を浮かべた。

 

『黒崎少年! 雄英高校を受験してくれてありがとう!』

 

 部屋いっぱいに、よく通る声が響いた。

 

 一護は少しだけ眉を上げた。

 

 随分と元気な人だ。

 

『さて、早速だが試験の結果を伝えよう!』

 

 一護は机へ肘をついた。

 

 映像が切り替わる。

 

 そこには、試験結果が表示されていた。

 

 筆記試験。

 

 実技試験。

 

 そして、得点の内訳。

 

 実技試験の欄には、数字が並んでいた。

 

 仮想敵ポイント――四十二点。

 

 一護はそれを見て、小さく頷いた。

 

「……まあ、そんなもんか」

 

 途中で救助に時間を使ったこともあり、もう少し低いかと思っていた。

 

 だが、四十点以上取れていたなら悪くない。

 

 そのとき、オールマイトの声が続いた。

 

『しかし、雄英の実技試験は仮想敵を倒すだけではない!』

 

 一護は顔を上げた。

 

「……ん?」

 

 映像が切り替わる。

 

 そこには、演習区で怪我をした受験生を助けている一護の姿が映っていた。

 

 倒れた看板を持ち上げ、少年の脚を引き抜く。

 

 肩を貸して安全な場所へ移動させる。

 

 続いて、ゼロポイントの仮想敵が現れた場面。

 

 一護が標識を支え、少女を逃がす。

 

 さらに、巨大な脚の下から別の少年を救出する様子が映し出された。

 

『我々は、受験生たちのこうした行動も評価している!』

 

 一護は目を細めた。

 

 救助活動。

 

 まさか、それにも点数がついていたとは思わなかった。

 

 映像の横に、新たな数字が表示される。

 

 レスキューポイント――二十七点。

 

 合計――六十九点。

 

『戦闘能力だけではなく、目の前の危険へどう向き合うか。それもまた、雄英が重視する資質だ!』

 

 オールマイトが大きく頷いた。

 

『そして、黒崎少年!』

 

 一護は顔を上げた。

 

『君の合計得点は六十九点!』

 

 映像が切り替わる。

 

 大きな文字が浮かび上がった。

 

 ――合格。

 

『雄英高校ヒーロー科への合格を、ここに通知する!』

 

 一護はしばらく、その文字を見つめていた。

 

 それから、小さく息を吐いた。

 

「……よし」

 

 声は、それだけだった。

 

 だが、口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「やったぁ!」

 

 遊子が歓声を上げた。

 

「お兄ちゃん、おめでとう!」

 

 夏梨も少し笑った。

 

「へえ。本当に受かったんだ」

 

「何だよ、本当にって」

 

「別に?」

 

 一護は苦笑した。

 

 その横で、一心が突然立ち上がった。

 

「一護ぉぉぉ!」

 

「……うわっ!」

 

「我が息子よ! よくぞやったぁぁ!」

 

 勢いよく抱きつこうとしてくる父親を、一護は咄嗟に避けた。

 

「だから飛びつくなって!」

 

 一心が床へ崩れ落ちる。

 

 遊子が笑い、夏梨が呆れたように首を振った。

 

 真咲はそんな家族の様子を見ていた。

 

 そして、一護と目が合うと、穏やかに微笑んだ。

 

「おめでとう、一護」

 

 一護は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「……ありがとな、母さん」

 

 真咲は頷いた。

 

「頑張ったものね」

 

 その言葉に、一護は小さく息を吐いた。

 

 確かに、頑張ってきた。

 

 勉強も。

 

 空手も。

 

 完現術の練習も。

 

 そして、霊力の扱い方も。

 

 以前の人生で身につけた力を、少しずつ今の身体へ馴染ませてきた。

 

 それが、今日の結果へ繋がった。

 

 一護はもう一度、映像へ目を向けた。

 

 合格の文字が、静かに輝いている。

 

 悪い気分ではなかった。

 

     *

 

 その日の夜、一護のスマートフォンは随分と騒がしかった。

 

 合格を報告した途端、啓吾が大量のメッセージを送ってきたのだ。

 

『一護ぉぉぉぉ!!』

 

『おめでとう!!!!』

 

『マジで受かりやがった!!』

 

『祝勝会だあああああ!!』

 

 一護は画面を見ながら、呆れたように息を吐いた。

 

「……あいつ、うるせえな」

 

 続いて、水色からメッセージが届いた。

 

『合格おめでとう。一護なら大丈夫だと思ってたよ』

 

 茶渡からは、短い文章だった。

 

『おめでとう、一護』

 

 雨竜からも連絡が来た。

 

『合格したと聞いた。おめでとう。ただし、入学してからが本番だぞ』

 

 一護は少し笑った。

 

「……分かってるって」

 

 それぞれに返事を送る。

 

 最後に、たつきからもメッセージが届いていた。

 

『雄英合格おめでとう! 今度道場で会ったら相手してよね!』

 

 一護は苦笑した。

 

『おう。手加減しねえぞ』

 

 すぐに返事が届く。

 

『こっちの台詞!』

 

 一護は小さく笑った。

 

 スマートフォンを机へ置き、椅子へ背中を預ける。

 

 窓の外には、静かな夜の街が広がっていた。

 

 雄英高校。

 

 ヒーロー科。

 

 今まで資料でしか見たことのなかった場所へ、四月から通うことになる。

 

 そのことが、ようやく少しずつ実感になってきた。

 

     *

 

 春。

 

 まだ冷たい風の残る朝、一護は新しい制服に袖を通していた。

 

 黒崎家の居間では、遊子が朝食を並べている。

 

 夏梨はいつものようにテレビを見ていた。

 

 真咲が一護の制服姿を見て、嬉しそうに笑う。

 

「似合ってるわね、一護」

 

「……そうか?」

 

「うん。すっかり高校生ね」

 

 一護は少し照れくさそうに顔を逸らした。

 

 そこへ、一心が勢いよく現れた。

 

「一護ぉぉ!」

 

「……朝から何だよ」

 

「息子の晴れ姿だ! 写真を撮らせろ!」

 

「学校行くんだよ!」

 

「一枚くらいいいだろう!」

 

 一心がスマートフォンを構える。

 

 一護は呆れながらも、玄関で立ち止まった。

 

 真咲と遊子が隣へ並ぶ。

 

 夏梨も渋々、顔を出した。

 

 一心が画面を確認する。

 

「よーし、撮るぞ!」

 

 シャッター音が響いた。

 

 写真の中では、一護が少し面倒そうな顔をしていた。

 

 だが、その口元は僅かに緩んでいた。

 

「……じゃあ、行ってくる」

 

 鞄を肩に掛け、玄関へ向かう。

 

 真咲が微笑んだ。

 

「行ってらっしゃい、一護」

 

「おう」

 

 扉を開ける。

 

 柔らかな春の光が差し込んだ。

 

 外では、桜が咲き始めていた。

 

 一護は空を見上げた。

 

 以前の人生では、想像もしなかった未来だ。

 

 死神として戦い、何度も死線を越えた。

 

 その果てに、もう一度生まれ、こうして高校へ通おうとしている。

 

 妙なものだと思う。

 

 それでも、悪くない。

 

 家族がいる。

 

 仲間がいる。

 

 そして、まだ知らない人間たちとの出会いが待っている。

 

 一護は鞄を掛け直した。

 

「……さて」

 

 小さく呟き、歩き出す。

 

 向かう先は、雄英高校。

 

 新しい生活が、始まろうとしていた。

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