『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第12話 春の残像

 

 雄英高校、一年A組。

 

 教室の扉を開けた黒崎一護は、まず、その広さに驚いた。

 

 中学校の教室とは比べものにならない高い天井。机や椅子も一回り大きく、窓の向こうには広大な校庭が見える。

 

 すでに何人もの生徒が登校していた。

 

 友人同士らしい者もいれば、緊張した面持ちで席についている者もいる。初対面の相手へ声をかけようとして、なかなか踏み出せずにいる生徒の姿もあった。

 

 そんな教室の一角から、ひときわ大きな声が響く。

 

「君! 机に足を乗せるのはやめたまえ!」

 

「あァ? うっせえな!」

 

 一護は声の方へ目を向けた。

 

 眼鏡を掛けた少年が、金髪の少年へ説教している。

 

 どちらも見覚えがあった。

 

 眼鏡の少年は、入学試験の説明会でプレゼント・マイクに質問していた生徒だ。金髪の方も、入試の記録映像で見た気がする。

 

「朝から元気だな、おい」

 

 一護は苦笑し、黒板の横に貼られた座席表を確かめた。

 

 自分の名前を見つけ、指定された席へ向かう。鞄を机の横へ掛けたところで、隣から声がかかった。

 

「おっ、お前も今日からA組か!」

 

 顔を向けると、赤い髪を逆立てた少年が笑っていた。

 

「俺、切島鋭児郎! よろしくな!」

 

「黒崎一護。よろしく」

 

「黒崎か! なあ、入試ってどこの会場だった?」

 

「D演習区」

 

「おー、じゃあ別だな。俺はEだったんだよ」

 

 切島は椅子を少し寄せた。

 

「あのロボット、結構硬くなかったか? 俺、個性で身体を硬くできるんだけど、それでも壊すのに苦労してさ」

 

「へえ、硬化か。便利そうだな」

 

「防御には自信あるぜ!」

 

「そりゃ頼もしいな」

 

 一護が笑うと、切島も嬉しそうに笑った。

 

 初対面だというのに、随分と話しやすい。

 

「黒崎はどんな個性なんだ?」

 

「周りの物に、ちょっと力を加えられるんだよ」

 

「物を動かせるってことか?」

 

「まあな。自分が動くときにも使えるから、そっちの方が得意だけど」

 

「へえ! 面白え個性だな!」

 

「名前も、まだはっきり決まってねえんだけどな」

 

 切島が不思議そうに眉を上げた。

 

「そんなこともあるのか?」

 

「仕組みがよく分かんねえらしくてさ。医者にも色々調べられたけど、結局はっきりしなくてな」

 

「へえ……そりゃ大変だな」

 

「慣れたけどな」

 

 一護は肩をすくめた。

 

 実際、幼い頃から何度も検査を受けてきた。

 

 個性が発現する年齢になっても、医師たちは一護の能力を上手く分類できなかった。

 

 物体への干渉。

 

 移動速度の変化。

 

 それに伴う身体能力の向上。

 

 観察された現象を並べることはできても、そのすべてを説明できる仕組みは見つからなかったらしい。

 

 もっとも、一護自身はその理由を知っている。

 

 完現術も、霊力も、そもそも個性とは異なる力なのだから。

 

 それを医師たちへ一から説明しようとしたところで、かえって話がややこしくなるだけだった。

 

「でも、速く動けるのはいいよな!」

 

 切島が自分の腕を見た。

 

「俺なんか身体を硬くできても、敵に追いつけなきゃ意味ねえだろ?」

 

「確かにな。俺も速く動けるだけじゃ駄目だしな」

 

「だよな!」

 

 二人が話していると、教室の入口が再び開いた。

 

 緑色の癖毛をした少年が立っている。

 

 一護は、その顔に見覚えがあった。

 

 入試の日、正門で見かけた少年だ。

 

 ひどく緊張しているらしく、教室へ入るだけでも随分と勇気を振り絞っているようだった。

 

 先ほどまで金髪の少年へ説教していた眼鏡の少年が、彼に気づいて近づいていく。

 

 何やら真剣に話しかけているうちに、茶色い髪の少女まで加わった。

 

 緑髪の少年は、今にも倒れそうなほど顔を赤くしている。

 

「大丈夫か、あいつ」

 

 一護が呟くと、切島が笑った。

 

「緊張してんだろ。まあ、初日だしな」

 

「それもそうか」

 

 そう言いながらも、一護は少しだけ気になっていた。

 

 入試の日にも思ったが、随分と落ち着きのない少年だ。

 

 もっとも、周囲の人間に比べて自分が落ち着いているかと言われれば、そうとも限らない。

 

 そのとき、教室の入口から低い声が響いた。

 

「お前ら、いつまで騒いでるつもりだ」

 

 生徒たちが振り返る。

 

 入口の床に、黄色い寝袋が転がっていた。

 

「……何だ、あれ」

 

 一護が眉を寄せたところで、寝袋がもぞりと動いた。

 

 ファスナーが開き、中から黒髪の男が顔を出す。

 

 目の下には濃い隈があり、酷く眠そうな顔をしていた。

 

「八秒。静かになるまで八秒もかかった」

 

 男は寝袋から這い出すと、生徒たちを見回した。

 

「時間は有限だ。合理的に使え」

 

 そして、何事もなかったかのように言った。

 

「担任の相澤消太だ。よろしく」

 

 一護は隣の切島を見た。

 

 切島も、同じように一護を見返している。

 

「……先生?」

 

「……みてえだな」

 

 二人が小声で言葉を交わす間に、相澤は袋の中から体操服を取り出していた。

 

「全員、これに着替えてグラウンドへ来い。個性把握テストをやる」

 

 教室にどよめきが広がった。

 

 入学式はどうなるのか。

 

 オリエンテーションはないのか。

 

 何人かが質問したものの、相澤は取り合わない。

 

「雄英は自由な校風が売りなんでね。教師側も自由にやらせてもらう」

 

 それだけ告げて、さっさと教室を出ていった。

 

 一護はしばらく扉を見つめていた。

 

「……とんでもねえ先生だな」

 

「初日からこれかよ……」

 

 切島が苦笑する。

 

 一護は体操服を手に取った。

 

 確かに予想外ではあったが、身体を動かすことに不満はない。

 

 むしろ、雄英がどんな訓練をする学校なのか、早速知ることができそうだった。

 

     *

 

「中学までの体力測定は、個性の使用を制限されていただろう」

 

 グラウンドに集まった生徒たちへ、相澤が説明を始めた。

 

「ここでは、それを使ってもらう」

 

 五十メートル走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び。

 

 見慣れた種目が並んでいる。

 

 ただし、個性の使用が認められるなら、結果はまるで違ってくるはずだ。

 

 最初に指名されたのは、爆豪勝己だった。

 

 爆豪はボールを受け取り、投球サークルへ入る。

 

 そして、腕を振りかぶった。

 

 次の瞬間、轟音が響く。

 

 爆風に押し出されたボールが、空の彼方へ飛んでいった。

 

「……おお」

 

 一護は素直に感心した。

 

 手のひらから爆発を起こす。

 

 それだけでも十分に強力だが、爆風を投球の推進力に利用するとは、なかなか器用な使い方をする。

 

 表示された記録を見て、周囲から歓声が上がった。

 

 その様子を、相澤は冷ややかに眺めていた。

 

「楽しそうで何よりだな」

 

 生徒たちの視線が集まる。

 

「じゃあ、総合成績が最下位だった奴は、除籍も考える」

 

 グラウンドが静まり返った。

 

「えええっ!?」

 

 次の瞬間、悲鳴にも似た声が上がる。

 

 一護も思わず相澤を見た。

 

「……マジかよ」

 

 相澤の表情からは、冗談なのかどうか判断できなかった。

 

 初日から随分と厳しい。

 

 だが、いくら文句を言ったところで、試験がなくなるわけではない。

 

 一護は軽く息を吐き、測定の準備に入った。

 

 五十メートル走では、スタートの合図と同時に地面を蹴った。

 

 一気に加速し、白線を次々と置き去りにする。

 

 ゴールを越えると、数歩かけて速度を落とした。

 

 測定器から読み上げられた記録に、隣のレーンにいた常闇踏陰が目を向ける。

 

「……見事な速さだな」

 

「移動は得意な方だからな」

 

 一護は肩をすくめた。

 

 全力というわけではない。

 

 だが、今の身体で十分に安定して出せる速度だった。

 

 昨年まで苦労していた加速後の姿勢制御も、随分と馴染んできている。

 

 それからも測定は続いた。

 

 握力。

 

 立ち幅跳び。

 

 反復横跳び。

 

 それぞれの種目で、得意不得意がはっきり現れる。

 

 飯田天哉の五十メートル走は凄まじかったし、八百万百の個性は、一護にはまだ想像もつかない使い方ができそうだった。

 

 常闇の背後に浮かぶ黒い存在にも、少し興味を惹かれた。

 

 まるで、意思を持つ影のようだ。

 

 ただ、それが何なのかを尋ねる機会はなかった。

 

 反復横跳びを終え、一護は水筒に口をつけた。

 

 思った以上に、細かな方向転換が面倒だった。

 

 速さだけなら十分でも、狭い範囲で何度も切り返すとなれば、まだ改善の余地がある。

 

「黒崎!」

 

 切島が近づいてきた。

 

「お前、めちゃくちゃ速えな!」

 

「そうか?」

 

「そうかって……あの動き、普通じゃねえぞ」

 

「お前も握力すごかっただろ」

 

「俺はまだまだだって。もっと鍛えねえとな」

 

 一護は笑った。

 

「じゃあ、お互い頑張んねえとな」

 

「おう!」

 

 切島が力強く頷いた。

 

 その後も測定は続き、やがてソフトボール投げの順番が回ってきた。

 

 茶色い髪の少女が投げたボールは、重力を失ったように空高く昇っていった。

 

 周囲から驚きの声が上がる。

 

「……すげえな」

 

 一護は空を見上げた。

 

 自分の持つ力とはまるで違う。

 

 ここにいる生徒たちは、それぞれ異なる能力を持っている。

 

 それをどう使うかによって、戦い方も、できることも変わってくるのだろう。

 

「次、黒崎」

 

「はい」

 

 一護はボールを受け取った。

 

 相澤が端末へ目を落とす。

 

「個性は発動型、詳細未確定。物体への干渉と移動能力が確認されているな」

 

「はい」

 

「出力は自分で調整できるのか?」

 

「ある程度は」

 

「なら、まずは制御できる範囲で測定しろ」

 

「分かりました」

 

 一護は投球サークルへ入った。

 

 ボールの重さを確かめ、肩を回す。

 

 そして、踏み込みと同時に腕を振り抜いた。

 

 勢いよく放たれたボールが、空へ伸びていく。

 

 表示された記録に、周囲から声が上がった。

 

 十分な距離だった。

 

 一護はサークルを出ようとした。

 

「黒崎」

 

 相澤に呼び止められる。

 

「はい?」

 

「まだ余裕があるな」

 

 一護は少しだけ眉を上げた。

 

「……多少は」

 

「自分の限界を把握しているのか、それとも出す気がないのか」

 

 相澤は一護を見た。

 

「どっちだ?」

 

「今のところは、前者っすね」

 

 一護は答えた。

 

「無理に上げても、制御できなきゃ意味ねえんで」

 

 相澤は数秒、一護を見つめていた。

 

「……ならいい。次」

 

 一護は軽く頭を下げ、その場を離れた。

 

 相澤の視線には、妙な鋭さがあった。

 

 ぼんやりしているようで、生徒の動きはよく見ているらしい。

 

 その後、緑谷出久の順番が回ってきた。

 

 一護は少し離れた場所から見ていた。

 

 緑谷は緊張した様子でボールを握っている。

 

 投球しようとした瞬間、相澤の髪が逆立った。

 

 緑谷の動きが僅かに変わり、ボールは大して飛ばなかった。

 

 一護は目を細めた。

 

 今のは、単なる失投ではない。

 

 何かを使おうとして、妨げられたように見えた。

 

「……なるほどな」

 

 相澤の個性だろうか。

 

 相手の能力を封じる。

 

 少なくとも、それに近いことができるらしい。

 

 やがて、緑谷はもう一度ボールを握った。

 

 今度は、指先へ意識を集中しているようだった。

 

 腕を振る。

 

 直後、ボールが凄まじい勢いで飛び出した。

 

 周囲から驚きの声が上がる。

 

 だが、一護の目は、緑谷の手へ向いていた。

 

 指が一本、不自然に曲がっている。

 

「……おいおい」

 

 思わず顔をしかめた。

 

 どうやら、今の一球で指を折ったらしい。

 

 強い力を持っている。

 

 だが、それを身体が受け止めきれていない。

 

 以前、霊力の扱い方に苦労していた頃のことが、少し頭をよぎった。

 

 緑谷は痛みを堪えながらも、相澤へ何かを訴えている。

 

 その表情には、確かな意志があった。

 

「……無茶する奴だな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 もっとも、自分に人のことを言う資格があるかどうかは、怪しいところだった。

 

     *

 

「それじゃ、改めて自己紹介から始めるぞ」

 

 大柄な男が教卓の前に立っていた。

 

 ブラドキング。

 

 雄英高校ヒーロー科、一年B組の担任教師だった。

 

 教室には、新しい制服に身を包んだ生徒たちが座っている。

 

 その中に、井上織姫の姿があった。

 

 窓際の席に座り、前の生徒が話す自己紹介へ耳を傾けている。

 

 隣の席の少女が、こっそりと声をかけてきた。

 

「緊張してる?」

 

 織姫は顔を向けた。

 

 赤みがかった髪を後ろでまとめた、快活そうな少女だった。

 

「ちょっとだけ」

 

「分かる。あたしも、初日はこういうの緊張するんだよね」

 

 少女は笑った。

 

「拳藤一佳。よろしく!」

 

「井上織姫です! よろしくね、拳藤さん!」

 

 織姫が笑顔で答える。

 

 拳藤は嬉しそうに頷いた。

 

「何か困ったことあったら言ってね」

 

「ありがとう!」

 

 そのとき、教卓から名前を呼ばれた。

 

「次、井上」

 

「はい!」

 

 織姫は立ち上がった。

 

 クラスメイトたちの視線が集まる。

 

 少しだけ緊張したが、大きく息を吸ってから口を開いた。

 

「井上織姫です。好きなことはお料理と、おいしいものを食べることです!」

 

 教室に笑い声が広がった。

 

「料理得意なの?」

 

 誰かが尋ねる。

 

「うん! 自分では得意だと思ってるよ!」

 

 織姫が胸を張る。

 

 拳藤が楽しそうに笑った。

 

「今度、食べてみたいな!」

 

「じゃあ、何か作ってくるね!」

 

 明るい声が重なり、教室の空気が少し和らいだ。

 

 ブラドキングが咳払いをする。

 

「よし、趣味は分かった。個性についても簡単に頼む」

 

「あ、はい!」

 

 織姫は自分の胸元へ手を添えた。

 

「個性名は『六花』です。傷ついた人を治すのが得意で、ほかにも人を守ることができます」

 

「治癒系か」

 

 ブラドキングが頷いた。

 

「ヒーロー活動では貴重な能力だな。どの程度の傷に対応できるか、細かいことは今後の訓練で確認していこう」

 

「はい!」

 

 織姫は元気よく頷き、席へ戻った。

 

 拳藤が顔を寄せてくる。

 

「すごいね、井上さん。人を治せるんだ?」

 

「うん。でも、まだ勉強しなきゃいけないこともいっぱいあるから」

 

「それはみんな同じだよ」

 

 拳藤は笑った。

 

「これから一緒に頑張ろうね!」

 

「うん!」

 

 織姫も笑顔で応じた。

 

 自分の力が、この世界では個性として扱われている。

 

 それは、今ではすっかり当たり前になっていた。

 

 盾舜六花。

 

 かつて、仲間たちとともに戦ったときも使っていた力。

 

 今の世界でも、その力は失われていなかった。

 

 だからこそ、雄英に来た。

 

 誰かが傷ついたとき、手を伸ばせるように。

 

 自分ができることを、もっと増やすために。

 

 窓の外では、桜の枝が春の風に揺れている。

 

 織姫はその光景を眺め、小さく笑った。

 

 新しい学校生活。

 

 新しいクラスメイト。

 

 これからの三年間が、少し楽しみになっていた。

 

     *

 

 昼休みになると、B組の生徒たちは校内施設の案内を受けた。

 

 雄英の敷地は広い。

 

 教室棟だけでも相当な規模があり、訓練施設や食堂、保健室などが各所に配置されている。

 

「すごいねえ、拳藤さん」

 

「本当だよね。普通の学校とは全然違う」

 

「私、絶対迷子になっちゃうと思う」

 

「あはは。それ、ちょっと分かる!」

 

 二人は笑いながら廊下を歩いた。

 

 途中、別のクラスの生徒たちとすれ違う。

 

 人間とは思えない姿の生徒もいれば、制服を着ていなければ小学生に見えそうな生徒までいる。

 

 織姫は興味深そうに周囲を眺めた。

 

 こんなにも違う人たちが、同じ目標を持って集まっている。

 

 そのことが、何だか不思議だった。

 

「そういえば、井上さん」

 

「ん?」

 

「ヒーロー科に入った理由って、やっぱり人を助けたいから?」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

「誰かが怪我したときに、ちゃんと助けられるようになりたいなって」

 

「そっか。いいね!」

 

 拳藤が笑う。

 

「私も、せっかくこの個性があるんだから、誰かの役に立てたいって思ってるんだ」

 

「……うん。そうだよね」

 

 織姫は微笑んだ。

 

 その言葉に、以前の人生で出会った人たちのことを少し思い出した。

 

 たつき。

 

 茶渡。

 

 石田。

 

 そして、黒崎一護。

 

 皆、それぞれのやり方で誰かを護ろうとしていた。

 

 今でも、あの世界はどこかで続いているのだろうか。

 

 時折、そんなことを考える。

 

 けれど、確かめる方法はなかった。

 

 自分が最後に見た光景の先で、何が起こったのか。

 

 織姫には、まだ分からないままだった。

 

「井上さん?」

 

 拳藤に呼ばれ、織姫は顔を上げた。

 

「あっ、ごめんね。ちょっと考えごとしちゃった」

 

「いいって。ほら、次は食堂だって!」

 

「えっ! 食堂!」

 

 織姫の表情が一気に明るくなった。

 

「楽しみ!」

 

 その反応に、拳藤が思わず吹き出した。

 

     *

 

 すべての測定が終わった頃には、A組の生徒たちの間に疲労が広がっていた。

 

 結果発表を待つ間、切島は落ち着かない様子で何度も端末を見ている。

 

「……やっべえ。めちゃくちゃ緊張してきた」

 

「そうか?」

 

「そりゃそうだろ! 最下位なら除籍だぞ!?」

 

「……まあ、そうだったな」

 

 一護はグラウンドの中央へ目を向けた。

 

 相澤が結果を表示する。

 

 生徒たちが一斉に順位を確認した。

 

 一護も自分の名前を探す。

 

 総合順位は上位だった。

 

 ただし、首位ではない。

 

 能力の性質上、単純に数値を伸ばすことに向いていない種目もあったし、必要以上に出力を上げなかったことも影響しているのだろう。

 

 だが、不満はなかった。

 

 今日の測定で、今の自分にできることと、まだ足りないことが見えてきた。

 

 それだけでも十分だった。

 

 緑谷は最下位だったらしい。

 

 彼は青ざめた顔で結果を見つめている。

 

 相澤は生徒たちの反応をしばらく眺めたあと、除籍について説明した。

 

 結局、今日の結果だけで誰かを退学させるつもりはなかったという。

 

「……は?」

 

 一護は思わず声を漏らした。

 

 切島が大きく息を吐く。

 

「何だよそれ! めちゃくちゃ焦ったじゃねえか!」

 

 一護も額へ手を当てた。

 

「……ほんと、性格悪ぃな」

 

 思わず本音が漏れた。

 

 相澤はそんな生徒たちを気にする様子もなく、さっさと片づけを始めている。

 

 ただ、言いたいことは何となく分かった。

 

 力を持っているからといって、それだけで何でもできるわけではない。

 

 自分の限界を知らずに動けば、いずれ取り返しのつかないことになる。

 

 それは、一護自身もよく知っていた。

 

 とはいえ。

 

 初日からここまでやる必要があったのかについては、少々疑問が残った。

 

     *

 

 着替えを終えて教室へ戻る頃には、すっかり午後になっていた。

 

 相澤から今後の予定について説明を受け、その日の授業は終了となった。

 

 一護は鞄を肩に掛ける。

 

「黒崎!」

 

 切島が声をかけてきた。

 

「帰り、一緒にどうだ?」

 

「ああ、いいぜ」

 

「よっしゃ!」

 

 そこへ、金髪の少年が顔を出した。

 

「なあなあ、俺も一緒でいい?」

 

「おう!」

 

「黒崎だっけ? 俺、上鳴電気。よろしく!」

 

「黒崎一護。よろしくな」

 

 上鳴はにやりと笑った。

 

「なあ、今日の五十メートル走、めっちゃ速かったよな。どんな個性なんだ?」

 

「移動が得意なんだよ」

 

「へえ! いいなあ。俺なんか電気出せるけど、加減が難しくてさ」

 

「電気?」

 

「そ。今度見せるぜ!」

 

 上鳴が親指を立てる。

 

 一護は少し笑った。

 

 どうやら、A組には面白い連中が揃っているらしい。

 

 三人は教室を出て、昇降口へ向かった。

 

 廊下には、下校する生徒たちの声が響いていた。

 

「しかし、雄英って本当に広いな」

 

 切島が天井を見上げた。

 

「だよな。俺、さっき階段間違えたわ」

 

 上鳴が笑う。

 

「お前、初日から迷子になってんのかよ」

 

「しょうがねえだろ!」

 

「まあ、俺も危なかったけどな」

 

 一護が言うと、切島が笑った。

 

 そんな話をしながら、三人は廊下の角を曲がった。

 

 ちょうど、向こうから女子生徒が二人歩いてくるところだった。

 

 一人は赤みがかった髪を後ろでまとめた少女。

 

 もう一人は、長い髪の少女だった。

 

 切島が先に気づき、通路を空けようと身体を寄せる。

 

「おっと、悪い」

 

「ううん、大丈夫!」

 

 赤毛の少女が笑って答えた。

 

 一護も何気なく横へ目を向けた。

 

 そして、足を止めた。

 

 長い髪の少女が、隣の友人へ何かを話している。

 

 その横顔。

 

 柔らかな目元。

 

 ふわりと揺れる髪。

 

 見覚えがあった。

 

 いや、見覚えがあるなどというものではない。

 

 何度も見てきた。

 

 何度も、その顔に助けられた。

 

 笑っている顔も、泣いている顔も、必死に誰かを救おうとしている姿も。

 

 忘れられるはずがなかった。

 

 少女がこちらを向く。

 

 目が合った。

 

 一護の呼吸が、僅かに止まった。

 

 その瞬間、少女の表情から笑みが消えた。

 

 大きく目を見開き、立ち尽くしている。

 

 まるで、信じられないものを見たかのように。

 

「……黒崎、くん?」

 

 小さな声だった。

 

 一護の心臓が、大きく跳ねた。

 

 声まで同じだった。

 

 以前の人生で、何度も自分の名前を呼んでくれた、あの声。

 

 だが、同時に頭の奥で別の考えが浮かぶ。

 

 この世界には、かつて知っていた人間と同じ顔を持つ者がいる。

 

 自分の家族も、友人たちもそうだった。

 

 だから、目の前の少女があの井上織姫だとは限らない。

 

 それでも。

 

「……俺のこと、知ってんのか?」

 

 気づけば、そう尋ねていた。

 

 少女は、はっとしたように瞬きをした。

 

「え……あ、うん」

 

 それから、少し慌てた様子で続ける。

 

「有沢たつきちゃんから、話を聞いたことがあって……」

 

「たつき?」

 

 一護は目を瞬いた。

 

「お前、あいつの知り合いなのか?」

 

「うん。同じ中学だったの」

 

「……そうか」

 

 一護は小さく頷いた。

 

 それなら、名前を知っていることにも説明がつく。

 

 たつきなら、確かに自分の話をしていても不思議ではない。

 

 同じ顔の人間。

 

 同じ声の人間。

 

 だが、それだけで本人だと決めつけるわけにはいかない。

 

 一護は、もう一度少女の顔を見た。

 

 少女も、こちらを見つめている。

 

 何かを言いたそうにしているのに、言葉が出てこないらしい。

 

「井上さん?」

 

 隣の赤毛の少女が声をかけた。

 

 一護の目が動いた。

 

 井上。

 

 今、そう呼んだのか。

 

「……あっ、ごめんね、拳藤さん」

 

 長い髪の少女が答えた。

 

 拳藤と呼ばれた少女は、心配そうに顔を覗き込んでいる。

 

「大丈夫? 急に黙っちゃったから」

 

「う、うん。大丈夫だよ」

 

 そう言って笑う。

 

 その笑い方にも、覚えがあった。

 

 一護は思わず口を開きかけた。

 

 だが、何を言えばいいのか分からなかった。

 

 自分の知っている井上織姫は、目の前で消えた。

 

 あのあと、どれほど探しても見つけることができなかった。

 

 だからこそ、この世界で同じ名前を聞くことが、こんなにも胸に刺さるとは思わなかった。

 

 拳藤が一護たちへ顔を向けた。

 

「あ、そうだ。私、一年B組の拳藤一佳。こっちは井上織姫。よろしくね!」

 

 井上織姫。

 

 名前まで、同じだった。

 

 一護は、すぐには返事ができなかった。

 

 その様子を見て、切島が横から声をかける。

 

「俺、切島鋭児郎! A組だ。よろしくな!」

 

「上鳴電気! 俺もA組!」

 

 上鳴が軽く手を上げる。

 

 拳藤が二人へ笑顔で応じた。

 

 一護はようやく口を開いた。

 

「……黒崎一護。A組だ」

 

「うん……」

 

 織姫が頷く。

 

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 

「よろしくね、黒崎くん」

 

「……おう」

 

 何でもない挨拶だった。

 

 同じ学校に入学したばかりの生徒同士なら、当たり前に交わす言葉。

 

 それなのに、ひどくぎこちなかった。

 

 織姫は目の前の少年を見つめていた。

 

 黒崎一護。

 

 たつきから、名前は聞いていた。

 

 この世界にも、同じ名前の少年がいることは知っていた。

 

 けれど、実際に顔を見たのは初めてだった。

 

 あまりにも似ている。

 

 髪の色も、目つきも、声も。

 

 話し方まで。

 

 以前の人生で知っていた黒崎一護が、そのまま少しだけ若くなったようだった。

 

 もし、本人だったら。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

 もう一度、会えたのかもしれない。

 

 でも。

 

 違ったら。

 

 自分だけが勝手に期待して、相手を困らせてしまったら。

 

 織姫は、すぐに次の言葉を見つけられなかった。

 

「あのさ」

 

 一護が口を開いた。

 

 織姫は顔を上げる。

 

「たつき、元気にしてたか?」

 

 尋ねられたのは、そんな何気ないことだった。

 

「うん! 元気だよ。空手もずっと頑張ってるし」

 

「そっか。あいつらしいな」

 

 一護が小さく笑った。

 

 その表情を見て、織姫の胸がまた強く鳴った。

 

 知っている。

 

 その笑い方を。

 

 少し照れくさそうに、口元だけを緩めるところまで。

 

「黒崎くんは……」

 

 織姫は思わず口を開いた。

 

 一護が顔を向ける。

 

「ん?」

 

 その返事に、言葉が詰まった。

 

 何を聞くつもりだったのだろう。

 

 たつきちゃんとは、今でも会っているの?

 

 雄英に入ろうと思ったのは、どうして?

 

 そんなことなら、いくらでも聞ける。

 

 けれど、本当に聞きたいことは違った。

 

 それを、初めて会ったばかりの相手に尋ねてもいいのだろうか。

 

「……ううん。何でもない」

 

 結局、織姫はそう答えた。

 

 一護は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 

 拳藤が二人の様子を見比べる。

 

「井上さん、黒崎くんとは初対面なんだよね?」

 

「う、うん」

 

「なんか、二人ともびっくりしてたみたいだから」

 

 織姫は慌てて頷いた。

 

「たつきちゃんから話を聞いてたから、会えてびっくりしちゃって」

 

「そっか!」

 

 拳藤は納得したように笑った。

 

 一護も、何も言わなかった。

 

 それで説明がついてしまう。

 

 少なくとも、周囲の人間にとっては。

 

「じゃあ、俺たちそろそろ帰るか」

 

 切島が言った。

 

「そうだな」

 

 一護は頷いた。

 

 そして、織姫へ目を向ける。

 

 言いたいことがないわけではなかった。

 

 むしろ、聞いてみたいことは山ほどある。

 

 けれど、何から聞けばいいのか分からなかった。

 

「……じゃ、またな」

 

 そう言って、軽く手を上げる。

 

 織姫は一瞬、目を見開いた。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「……うん。またね、黒崎くん」

 

 一護は切島たちと歩き出した。

 

 織姫は、その背中を見送った。

 

 遠ざかっていくオレンジ色の髪。

 

 少し前屈みになった、見慣れた歩き方。

 

 そのすべてが、記憶の中にあるものと重なっていた。

 

 廊下の角を曲がる直前、一護が一度だけ振り返った。

 

 二人の視線が合った。

 

 どちらも何も言わなかった。

 

 やがて、一護の姿は見えなくなった。

 

「……井上さん?」

 

 拳藤に呼ばれ、織姫はようやく顔を戻した。

 

「あっ、ごめんね」

 

「ううん。大丈夫?」

 

「……うん」

 

 織姫は笑った。

 

 けれど、その笑顔は、先ほどまでとは少し違っていた。

 

 拳藤はそれ以上聞かなかった。

 

「じゃあ、私たちも帰ろっか」

 

「……うん」

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 織姫は、もう一度だけ振り返った。

 

 廊下の向こうには、誰もいなかった。

 

     *

 

「黒崎、さっきの子、知り合いじゃなかったんだな」

 

 昇降口へ向かう途中、切島が言った。

 

「……ああ」

 

 一護は短く答えた。

 

「たつきの知り合いらしい」

 

「へえ。幼馴染の友達ってやつか」

 

「まあ、そんなとこだろ」

 

 上鳴が横から顔を出す。

 

「でもよ、あの子、お前見たときめちゃくちゃ驚いてなかった?」

 

「……そうか?」

 

「そうそう。お前も一瞬固まってたし」

 

 一護は返事に困った。

 

 見間違いではない。

 

 織姫も、確かに驚いていた。

 

 ただ、その理由までは分からない。

 

 たつきから聞いていた相手を実際に見て、想像と違っただけかもしれない。

 

 自分が何か変な顔をしていたのかもしれない。

 

「……まあ、初めて会ったからな」

 

 結局、そう答えた。

 

 上鳴は特に気にする様子もなく、別の話題を持ち出した。

 

「それより、今日の担任やばくね? 初日から除籍とかさ!」

 

「マジで焦ったよな!」

 

 切島が笑う。

 

 話は、いつの間にか相澤のことになっていた。

 

 一護も時折相槌を打ちながら、二人と並んで歩いた。

 

 だが、頭の片隅には、先ほどの少女の姿が残っていた。

 

 井上織姫。

 

 自分が知っている名前。

 

 知っている顔。

 

 知っている声。

 

 同じものが、あまりにも多すぎた。

 

 それでも。

 

 彼女が、本当にあの井上織姫なのかどうか。

 

 今の一護には、まだ分からなかった。

 

     *

 

 帰りの電車で、織姫は窓の外を眺めていた。

 

 夕方の街並みが、ゆっくりと流れていく。

 

 隣の席では、同じ制服を着た生徒たちが楽しそうに話していた。

 

 新しいクラスのこと。

 

 担任の先生のこと。

 

 明日から始まる授業のこと。

 

 織姫も、つい先ほどまでは同じような話をしていた。

 

 拳藤と別れ、一人で電車に乗ってから、急に静かになったように感じる。

 

 膝の上で、指を組んだ。

 

 黒崎一護。

 

 あの名前を、心の中でもう一度呟いた。

 

 たつきから話を聞いていたときは、何とか納得できていた。

 

 この世界にも、同じ名前の人間がいる。

 

 それだけのことなのだと。

 

 自分の知っているたつきと、この世界のたつきがそうだったように。

 

 けれど、今日の少年は。

 

 声まで、同じだった。

 

 あの話し方も。

 

 少し不機嫌そうに見える顔も。

 

 けれど、笑うと優しそうに見えるところまで。

 

「……黒崎くん」

 

 唇だけで名前を呼んだ。

 

 もし、本当にあの黒崎くんだったら。

 

 そう考えた瞬間、胸の奥に小さな喜びが生まれた。

 

 もう一度、会える。

 

 あのとき、もう二度と会えないと思った人に。

 

 今度こそ、伝えられなかったことも話せるかもしれない。

 

 けれど、その喜びは長く続かなかった。

 

 ある疑問が浮かんだからだ。

 

 ――どうして、黒崎くんがここにいるんだろう。

 

 織姫は、膝の上で手を握りしめた。

 

 自分は、あのとき消えた。

 

 三つの世界が崩壊しようとしている中で、最後の力を使った。

 

 壊れていくものを、拒絶しようとした。

 

 それが成功したのかどうかは、分からない。

 

 最後に見たのは、こちらへ手を伸ばす一護の姿だった。

 

 眩しい光。

 

 遠ざかる景色。

 

 そして、次に気づいたときには、この世界で新しい命を得ていた。

 

 あの世界は、どうなったのだろう。

 

 残してきた人たちは、無事だったのだろうか。

 

 朽木さんも。

 

 石田くんも。

 

 茶渡くんも。

 

 みんな、ちゃんと生きているのだろうか。

 

 ずっと、そう願ってきた。

 

 自分がいなくなっても、あの世界が続いていてくれるように。

 

 みんなが、また笑って暮らせるように。

 

 なのに。

 

 もし、今日会った少年が、本当に黒崎一護だったとしたら。

 

 どうして、彼までこの世界にいるのだろう。

 

「……っ」

 

 織姫は俯いた。

 

 ひょっとしたら、あのとき自分は失敗してしまったのではないか。

 

 世界の崩壊を止められず、黒崎くんまで巻き込んでしまったのではないか。

 

 あるいは、自分が消えたあとに何かが起こったのかもしれない。

 

 そう考え始めると、胸が苦しくなった。

 

 違う。

 

 まだ、何も分からない。

 

 今日会った少年が、同じ顔と名前を持つ別人である可能性だってある。

 

 それなのに、勝手に悪い方へ考えてしまっている。

 

 織姫は小さく首を振った。

 

 窓に映った自分の顔は、思っていたよりも不安そうだった。

 

 確かめたい。

 

 でも、怖い。

 

 もし本物だったら、あの世界で何があったのか聞かなければならない。

 

 その答えを知るのが、怖かった。

 

     *

 

「お兄ちゃん、初日どうだった?」

 

 夕食の席で、遊子が尋ねた。

 

 一護は箸を動かしながら答える。

 

「……初日から体力測定やらされた」

 

「えっ、もう?」

 

「ああ。担任がすげえ変わった先生でさ」

 

「へえ!」

 

 遊子が興味深そうに身を乗り出した。

 

 夏梨も顔を上げる。

 

「どんな先生?」

 

「なんつーか……寝袋に入って教室に来るような先生」

 

「……は?」

 

 夏梨が目を丸くした。

 

 一護は苦笑する。

 

「俺も最初そう思った」

 

 遊子が笑い、一心が大袈裟に声を上げた。

 

「何だと!? 我が息子の担任は寝袋で登校するのか!」

 

「……多分、そうなんじゃねえの」

 

「ならば父として一度、その教師と――」

 

「やめろ!」

 

 いつもの調子に戻った父親を、一護は即座に止めた。

 

 真咲が楽しそうに笑っている。

 

 食卓は、いつもどおり賑やかだった。

 

 一護も、今日の出来事を話した。

 

 爆発を使う生徒。

 

 脚にエンジンを備えている生徒。

 

 身体を硬くできる切島という少年。

 

 指を折りながらボールを投げていた緑谷のことも、少しだけ話した。

 

 それでも、廊下で会った少女については口にしなかった。

 

 話すことを避けたというより、どう説明すればいいのか分からなかった。

 

 井上織姫という名前の少女に会った。

 

 それだけなら、家族には何も伝わらない。

 

 今の世界で初めて会った相手なのだから、当然だ。

 

 だが、一護にとっては、それだけでは済まなかった。

 

     *

 

 夜。

 

 一護は自室の机に向かっていた。

 

 明日の授業で使う資料を鞄に入れ、スマートフォンを手に取る。

 

 画面には、切島から届いたメッセージが表示されていた。

 

『明日もよろしくな!』

 

 一護は短く返事を送った。

 

 そのあと、何となく連絡先の一覧を開く。

 

 啓吾。

 

 水色。

 

 チャド。

 

 石田。

 

 たつき。

 

 見慣れた名前が並んでいた。

 

 今の世界で出会った友人たち。

 

 どれも、以前の人生で知っていた人間と同じ顔を持っている。

 

 けれど、違う人生を生きている。

 

 一護は、幼い頃からそのことを理解してきた。

 

 父親も、母親も、妹たちもそうだった。

 

 何度も経験してきたことなのだから、今さら驚くようなことではない。

 

 それなのに。

 

 あの少女のことだけは、どうしても頭から離れなかった。

 

「……井上織姫、か」

 

 思わず名前を口にした。

 

 返事はない。

 

 あるはずもなかった。

 

 一護は椅子へ背中を預け、目を閉じた。

 

 真世界城。

 

 最後に見た、織姫の姿。

 

 自分の手は届かなかった。

 

 あのあと、どれほど探しても、彼女の気配を見つけることはできなかった。

 

 だからこそ、今さら同じ顔を見たところで、簡単に期待する気にはなれない。

 

 もし違っていたら。

 

 今日会った少女は、ただ、この世界で生まれ育った井上織姫なのだろう。

 

 それなら、それでいい。

 

 彼女には彼女の人生がある。

 

 勝手に誰かを重ねるのは、違う。

 

 一護は目を開けた。

 

 窓の外には、夜の街が広がっていた。

 

「……でもよ」

 

 小さく呟く。

 

 あのとき。

 

 目が合った瞬間の、少女の顔。

 

 まるで、自分と同じように、信じられないものを見たような表情だった。

 

 たつきから名前を聞いていただけで、あんな顔をするだろうか。

 

 そう考えたところで、一護は小さく息を吐いた。

 

「……考えても仕方ねえか」

 

 明日も学校はある。

 

 同じヒーロー科なのだから、また顔を合わせることもあるだろう。

 

 そのときに、普通に話してみればいい。

 

 今日、名乗り合ったばかりの相手として。

 

 一護は机の上の資料を閉じた。

 

 だが、立ち上がろうとしたところで、ふと動きを止めた。

 

 ――黒崎くん?

 

 あの声が、また頭の中に響いた。

 

 一護はしばらく黙っていた。

 

 それから、苦笑した。

 

「……まったく」

 

 自分でも、何を期待しているのか分からなかった。

 

     *

 

 織姫は、ベッドの上でスマートフォンを眺めていた。

 

 画面には、有沢たつきの連絡先が表示されている。

 

 今日、黒崎一護に会った。

 

 そう伝えようとして、指が止まった。

 

 たつきなら、きっと驚かない。

 

 ああ、黒崎に会ったんだ。

 

 雄英に行くって言ってたもんね。

 

 おそらく、そんなふうに答えるだろう。

 

 たつきにとって、黒崎一護は幼い頃からの知り合いだ。

 

 空手道場で競い合い、喧嘩をして、また仲直りしてきた相手。

 

 彼女が知っているのは、この世界で生まれ育った黒崎一護だった。

 

 織姫が本当に確かめたいのは、そこではない。

 

 あの人は、以前の人生を覚えているのだろうか。

 

 尸魂界のこと。

 

 虚圏のこと。

 

 そして、最後に起こったことを。

 

 もし覚えていなかったら。

 

 それなら、ただの別人なのかもしれない。

 

 でも、もし覚えていたら。

 

 織姫はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。

 

 考えたいことは、いくらでもある。

 

 けれど、何度考えても答えは出なかった。

 

 結局、たつきへのメッセージは送らなかった。

 

 ベッドへ横になる。

 

 すると、昼間の光景が何度も浮かんできた。

 

 廊下。

 

 春の日差し。

 

 オレンジ色の髪。

 

 そして。

 

 ――じゃ、またな。

 

 あの言葉が、胸に残っていた。

 

 以前の人生では、何度も交わしていた言葉だった。

 

 明日も会えると思って、当たり前のように別れていた。

 

 それが、ある日突然、叶わなくなった。

 

 だから。

 

 今日のあの一言が、どうしても嬉しかった。

 

 織姫は目を閉じた。

 

 明日になれば、また学校へ行く。

 

 あの少年も、同じ校舎のどこかにいる。

 

 もう一度、会えるかもしれない。

 

 そのときは、少しだけ話してみよう。

 

 今日よりも、もう少しだけ。

 

 織姫は、そう心の中で決めた。

 

「……また明日、黒崎くん」

 

 小さな声が、部屋の中に落ちた。

 

 返事はなかった。

 

 それでも、明日という日が、少しだけ待ち遠しかった。

 

     *

 

 翌朝。

 

 一護は雄英高校へ向かう電車の中で、窓の外を眺めていた。

 

 昨日と同じ時間。

 

 昨日と同じ路線。

 

 だが、昨日までとは少し違う気分だった。

 

 ふと、廊下で出会った少女の顔が浮かぶ。

 

 井上織姫。

 

 もう一度、会うことがあるだろうか。

 

 もし会えたら、何を話そうか。

 

 そんなことを考えながら、一護は駅へ降り立った。

 

 同じ頃、織姫もまた、雄英へ向かっていた。

 

 鞄の中には、新しい教科書。

 

 胸の中には、昨日から消えない疑問。

 

 二人は、まだ知らない。

 

 互いが、あの日からずっと会いたかった相手であることを。

 

 そして、その答えが、今は同じ学校の中にあるということも。

 

 春の風が、桜の花びらを運んでいく。

 

 新しい一日が、始まろうとしていた。

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