雄英高校、一年A組。
教室の扉を開けた黒崎一護は、まず、その広さに驚いた。
中学校の教室とは比べものにならない高い天井。机や椅子も一回り大きく、窓の向こうには広大な校庭が見える。
すでに何人もの生徒が登校していた。
友人同士らしい者もいれば、緊張した面持ちで席についている者もいる。初対面の相手へ声をかけようとして、なかなか踏み出せずにいる生徒の姿もあった。
そんな教室の一角から、ひときわ大きな声が響く。
「君! 机に足を乗せるのはやめたまえ!」
「あァ? うっせえな!」
一護は声の方へ目を向けた。
眼鏡を掛けた少年が、金髪の少年へ説教している。
どちらも見覚えがあった。
眼鏡の少年は、入学試験の説明会でプレゼント・マイクに質問していた生徒だ。金髪の方も、入試の記録映像で見た気がする。
「朝から元気だな、おい」
一護は苦笑し、黒板の横に貼られた座席表を確かめた。
自分の名前を見つけ、指定された席へ向かう。鞄を机の横へ掛けたところで、隣から声がかかった。
「おっ、お前も今日からA組か!」
顔を向けると、赤い髪を逆立てた少年が笑っていた。
「俺、切島鋭児郎! よろしくな!」
「黒崎一護。よろしく」
「黒崎か! なあ、入試ってどこの会場だった?」
「D演習区」
「おー、じゃあ別だな。俺はEだったんだよ」
切島は椅子を少し寄せた。
「あのロボット、結構硬くなかったか? 俺、個性で身体を硬くできるんだけど、それでも壊すのに苦労してさ」
「へえ、硬化か。便利そうだな」
「防御には自信あるぜ!」
「そりゃ頼もしいな」
一護が笑うと、切島も嬉しそうに笑った。
初対面だというのに、随分と話しやすい。
「黒崎はどんな個性なんだ?」
「周りの物に、ちょっと力を加えられるんだよ」
「物を動かせるってことか?」
「まあな。自分が動くときにも使えるから、そっちの方が得意だけど」
「へえ! 面白え個性だな!」
「名前も、まだはっきり決まってねえんだけどな」
切島が不思議そうに眉を上げた。
「そんなこともあるのか?」
「仕組みがよく分かんねえらしくてさ。医者にも色々調べられたけど、結局はっきりしなくてな」
「へえ……そりゃ大変だな」
「慣れたけどな」
一護は肩をすくめた。
実際、幼い頃から何度も検査を受けてきた。
個性が発現する年齢になっても、医師たちは一護の能力を上手く分類できなかった。
物体への干渉。
移動速度の変化。
それに伴う身体能力の向上。
観察された現象を並べることはできても、そのすべてを説明できる仕組みは見つからなかったらしい。
もっとも、一護自身はその理由を知っている。
完現術も、霊力も、そもそも個性とは異なる力なのだから。
それを医師たちへ一から説明しようとしたところで、かえって話がややこしくなるだけだった。
「でも、速く動けるのはいいよな!」
切島が自分の腕を見た。
「俺なんか身体を硬くできても、敵に追いつけなきゃ意味ねえだろ?」
「確かにな。俺も速く動けるだけじゃ駄目だしな」
「だよな!」
二人が話していると、教室の入口が再び開いた。
緑色の癖毛をした少年が立っている。
一護は、その顔に見覚えがあった。
入試の日、正門で見かけた少年だ。
ひどく緊張しているらしく、教室へ入るだけでも随分と勇気を振り絞っているようだった。
先ほどまで金髪の少年へ説教していた眼鏡の少年が、彼に気づいて近づいていく。
何やら真剣に話しかけているうちに、茶色い髪の少女まで加わった。
緑髪の少年は、今にも倒れそうなほど顔を赤くしている。
「大丈夫か、あいつ」
一護が呟くと、切島が笑った。
「緊張してんだろ。まあ、初日だしな」
「それもそうか」
そう言いながらも、一護は少しだけ気になっていた。
入試の日にも思ったが、随分と落ち着きのない少年だ。
もっとも、周囲の人間に比べて自分が落ち着いているかと言われれば、そうとも限らない。
そのとき、教室の入口から低い声が響いた。
「お前ら、いつまで騒いでるつもりだ」
生徒たちが振り返る。
入口の床に、黄色い寝袋が転がっていた。
「……何だ、あれ」
一護が眉を寄せたところで、寝袋がもぞりと動いた。
ファスナーが開き、中から黒髪の男が顔を出す。
目の下には濃い隈があり、酷く眠そうな顔をしていた。
「八秒。静かになるまで八秒もかかった」
男は寝袋から這い出すと、生徒たちを見回した。
「時間は有限だ。合理的に使え」
そして、何事もなかったかのように言った。
「担任の相澤消太だ。よろしく」
一護は隣の切島を見た。
切島も、同じように一護を見返している。
「……先生?」
「……みてえだな」
二人が小声で言葉を交わす間に、相澤は袋の中から体操服を取り出していた。
「全員、これに着替えてグラウンドへ来い。個性把握テストをやる」
教室にどよめきが広がった。
入学式はどうなるのか。
オリエンテーションはないのか。
何人かが質問したものの、相澤は取り合わない。
「雄英は自由な校風が売りなんでね。教師側も自由にやらせてもらう」
それだけ告げて、さっさと教室を出ていった。
一護はしばらく扉を見つめていた。
「……とんでもねえ先生だな」
「初日からこれかよ……」
切島が苦笑する。
一護は体操服を手に取った。
確かに予想外ではあったが、身体を動かすことに不満はない。
むしろ、雄英がどんな訓練をする学校なのか、早速知ることができそうだった。
*
「中学までの体力測定は、個性の使用を制限されていただろう」
グラウンドに集まった生徒たちへ、相澤が説明を始めた。
「ここでは、それを使ってもらう」
五十メートル走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び。
見慣れた種目が並んでいる。
ただし、個性の使用が認められるなら、結果はまるで違ってくるはずだ。
最初に指名されたのは、爆豪勝己だった。
爆豪はボールを受け取り、投球サークルへ入る。
そして、腕を振りかぶった。
次の瞬間、轟音が響く。
爆風に押し出されたボールが、空の彼方へ飛んでいった。
「……おお」
一護は素直に感心した。
手のひらから爆発を起こす。
それだけでも十分に強力だが、爆風を投球の推進力に利用するとは、なかなか器用な使い方をする。
表示された記録を見て、周囲から歓声が上がった。
その様子を、相澤は冷ややかに眺めていた。
「楽しそうで何よりだな」
生徒たちの視線が集まる。
「じゃあ、総合成績が最下位だった奴は、除籍も考える」
グラウンドが静まり返った。
「えええっ!?」
次の瞬間、悲鳴にも似た声が上がる。
一護も思わず相澤を見た。
「……マジかよ」
相澤の表情からは、冗談なのかどうか判断できなかった。
初日から随分と厳しい。
だが、いくら文句を言ったところで、試験がなくなるわけではない。
一護は軽く息を吐き、測定の準備に入った。
五十メートル走では、スタートの合図と同時に地面を蹴った。
一気に加速し、白線を次々と置き去りにする。
ゴールを越えると、数歩かけて速度を落とした。
測定器から読み上げられた記録に、隣のレーンにいた常闇踏陰が目を向ける。
「……見事な速さだな」
「移動は得意な方だからな」
一護は肩をすくめた。
全力というわけではない。
だが、今の身体で十分に安定して出せる速度だった。
昨年まで苦労していた加速後の姿勢制御も、随分と馴染んできている。
それからも測定は続いた。
握力。
立ち幅跳び。
反復横跳び。
それぞれの種目で、得意不得意がはっきり現れる。
飯田天哉の五十メートル走は凄まじかったし、八百万百の個性は、一護にはまだ想像もつかない使い方ができそうだった。
常闇の背後に浮かぶ黒い存在にも、少し興味を惹かれた。
まるで、意思を持つ影のようだ。
ただ、それが何なのかを尋ねる機会はなかった。
反復横跳びを終え、一護は水筒に口をつけた。
思った以上に、細かな方向転換が面倒だった。
速さだけなら十分でも、狭い範囲で何度も切り返すとなれば、まだ改善の余地がある。
「黒崎!」
切島が近づいてきた。
「お前、めちゃくちゃ速えな!」
「そうか?」
「そうかって……あの動き、普通じゃねえぞ」
「お前も握力すごかっただろ」
「俺はまだまだだって。もっと鍛えねえとな」
一護は笑った。
「じゃあ、お互い頑張んねえとな」
「おう!」
切島が力強く頷いた。
その後も測定は続き、やがてソフトボール投げの順番が回ってきた。
茶色い髪の少女が投げたボールは、重力を失ったように空高く昇っていった。
周囲から驚きの声が上がる。
「……すげえな」
一護は空を見上げた。
自分の持つ力とはまるで違う。
ここにいる生徒たちは、それぞれ異なる能力を持っている。
それをどう使うかによって、戦い方も、できることも変わってくるのだろう。
「次、黒崎」
「はい」
一護はボールを受け取った。
相澤が端末へ目を落とす。
「個性は発動型、詳細未確定。物体への干渉と移動能力が確認されているな」
「はい」
「出力は自分で調整できるのか?」
「ある程度は」
「なら、まずは制御できる範囲で測定しろ」
「分かりました」
一護は投球サークルへ入った。
ボールの重さを確かめ、肩を回す。
そして、踏み込みと同時に腕を振り抜いた。
勢いよく放たれたボールが、空へ伸びていく。
表示された記録に、周囲から声が上がった。
十分な距離だった。
一護はサークルを出ようとした。
「黒崎」
相澤に呼び止められる。
「はい?」
「まだ余裕があるな」
一護は少しだけ眉を上げた。
「……多少は」
「自分の限界を把握しているのか、それとも出す気がないのか」
相澤は一護を見た。
「どっちだ?」
「今のところは、前者っすね」
一護は答えた。
「無理に上げても、制御できなきゃ意味ねえんで」
相澤は数秒、一護を見つめていた。
「……ならいい。次」
一護は軽く頭を下げ、その場を離れた。
相澤の視線には、妙な鋭さがあった。
ぼんやりしているようで、生徒の動きはよく見ているらしい。
その後、緑谷出久の順番が回ってきた。
一護は少し離れた場所から見ていた。
緑谷は緊張した様子でボールを握っている。
投球しようとした瞬間、相澤の髪が逆立った。
緑谷の動きが僅かに変わり、ボールは大して飛ばなかった。
一護は目を細めた。
今のは、単なる失投ではない。
何かを使おうとして、妨げられたように見えた。
「……なるほどな」
相澤の個性だろうか。
相手の能力を封じる。
少なくとも、それに近いことができるらしい。
やがて、緑谷はもう一度ボールを握った。
今度は、指先へ意識を集中しているようだった。
腕を振る。
直後、ボールが凄まじい勢いで飛び出した。
周囲から驚きの声が上がる。
だが、一護の目は、緑谷の手へ向いていた。
指が一本、不自然に曲がっている。
「……おいおい」
思わず顔をしかめた。
どうやら、今の一球で指を折ったらしい。
強い力を持っている。
だが、それを身体が受け止めきれていない。
以前、霊力の扱い方に苦労していた頃のことが、少し頭をよぎった。
緑谷は痛みを堪えながらも、相澤へ何かを訴えている。
その表情には、確かな意志があった。
「……無茶する奴だな」
一護は小さく呟いた。
もっとも、自分に人のことを言う資格があるかどうかは、怪しいところだった。
*
「それじゃ、改めて自己紹介から始めるぞ」
大柄な男が教卓の前に立っていた。
ブラドキング。
雄英高校ヒーロー科、一年B組の担任教師だった。
教室には、新しい制服に身を包んだ生徒たちが座っている。
その中に、井上織姫の姿があった。
窓際の席に座り、前の生徒が話す自己紹介へ耳を傾けている。
隣の席の少女が、こっそりと声をかけてきた。
「緊張してる?」
織姫は顔を向けた。
赤みがかった髪を後ろでまとめた、快活そうな少女だった。
「ちょっとだけ」
「分かる。あたしも、初日はこういうの緊張するんだよね」
少女は笑った。
「拳藤一佳。よろしく!」
「井上織姫です! よろしくね、拳藤さん!」
織姫が笑顔で答える。
拳藤は嬉しそうに頷いた。
「何か困ったことあったら言ってね」
「ありがとう!」
そのとき、教卓から名前を呼ばれた。
「次、井上」
「はい!」
織姫は立ち上がった。
クラスメイトたちの視線が集まる。
少しだけ緊張したが、大きく息を吸ってから口を開いた。
「井上織姫です。好きなことはお料理と、おいしいものを食べることです!」
教室に笑い声が広がった。
「料理得意なの?」
誰かが尋ねる。
「うん! 自分では得意だと思ってるよ!」
織姫が胸を張る。
拳藤が楽しそうに笑った。
「今度、食べてみたいな!」
「じゃあ、何か作ってくるね!」
明るい声が重なり、教室の空気が少し和らいだ。
ブラドキングが咳払いをする。
「よし、趣味は分かった。個性についても簡単に頼む」
「あ、はい!」
織姫は自分の胸元へ手を添えた。
「個性名は『六花』です。傷ついた人を治すのが得意で、ほかにも人を守ることができます」
「治癒系か」
ブラドキングが頷いた。
「ヒーロー活動では貴重な能力だな。どの程度の傷に対応できるか、細かいことは今後の訓練で確認していこう」
「はい!」
織姫は元気よく頷き、席へ戻った。
拳藤が顔を寄せてくる。
「すごいね、井上さん。人を治せるんだ?」
「うん。でも、まだ勉強しなきゃいけないこともいっぱいあるから」
「それはみんな同じだよ」
拳藤は笑った。
「これから一緒に頑張ろうね!」
「うん!」
織姫も笑顔で応じた。
自分の力が、この世界では個性として扱われている。
それは、今ではすっかり当たり前になっていた。
盾舜六花。
かつて、仲間たちとともに戦ったときも使っていた力。
今の世界でも、その力は失われていなかった。
だからこそ、雄英に来た。
誰かが傷ついたとき、手を伸ばせるように。
自分ができることを、もっと増やすために。
窓の外では、桜の枝が春の風に揺れている。
織姫はその光景を眺め、小さく笑った。
新しい学校生活。
新しいクラスメイト。
これからの三年間が、少し楽しみになっていた。
*
昼休みになると、B組の生徒たちは校内施設の案内を受けた。
雄英の敷地は広い。
教室棟だけでも相当な規模があり、訓練施設や食堂、保健室などが各所に配置されている。
「すごいねえ、拳藤さん」
「本当だよね。普通の学校とは全然違う」
「私、絶対迷子になっちゃうと思う」
「あはは。それ、ちょっと分かる!」
二人は笑いながら廊下を歩いた。
途中、別のクラスの生徒たちとすれ違う。
人間とは思えない姿の生徒もいれば、制服を着ていなければ小学生に見えそうな生徒までいる。
織姫は興味深そうに周囲を眺めた。
こんなにも違う人たちが、同じ目標を持って集まっている。
そのことが、何だか不思議だった。
「そういえば、井上さん」
「ん?」
「ヒーロー科に入った理由って、やっぱり人を助けたいから?」
「うん!」
織姫は頷いた。
「誰かが怪我したときに、ちゃんと助けられるようになりたいなって」
「そっか。いいね!」
拳藤が笑う。
「私も、せっかくこの個性があるんだから、誰かの役に立てたいって思ってるんだ」
「……うん。そうだよね」
織姫は微笑んだ。
その言葉に、以前の人生で出会った人たちのことを少し思い出した。
たつき。
茶渡。
石田。
そして、黒崎一護。
皆、それぞれのやり方で誰かを護ろうとしていた。
今でも、あの世界はどこかで続いているのだろうか。
時折、そんなことを考える。
けれど、確かめる方法はなかった。
自分が最後に見た光景の先で、何が起こったのか。
織姫には、まだ分からないままだった。
「井上さん?」
拳藤に呼ばれ、織姫は顔を上げた。
「あっ、ごめんね。ちょっと考えごとしちゃった」
「いいって。ほら、次は食堂だって!」
「えっ! 食堂!」
織姫の表情が一気に明るくなった。
「楽しみ!」
その反応に、拳藤が思わず吹き出した。
*
すべての測定が終わった頃には、A組の生徒たちの間に疲労が広がっていた。
結果発表を待つ間、切島は落ち着かない様子で何度も端末を見ている。
「……やっべえ。めちゃくちゃ緊張してきた」
「そうか?」
「そりゃそうだろ! 最下位なら除籍だぞ!?」
「……まあ、そうだったな」
一護はグラウンドの中央へ目を向けた。
相澤が結果を表示する。
生徒たちが一斉に順位を確認した。
一護も自分の名前を探す。
総合順位は上位だった。
ただし、首位ではない。
能力の性質上、単純に数値を伸ばすことに向いていない種目もあったし、必要以上に出力を上げなかったことも影響しているのだろう。
だが、不満はなかった。
今日の測定で、今の自分にできることと、まだ足りないことが見えてきた。
それだけでも十分だった。
緑谷は最下位だったらしい。
彼は青ざめた顔で結果を見つめている。
相澤は生徒たちの反応をしばらく眺めたあと、除籍について説明した。
結局、今日の結果だけで誰かを退学させるつもりはなかったという。
「……は?」
一護は思わず声を漏らした。
切島が大きく息を吐く。
「何だよそれ! めちゃくちゃ焦ったじゃねえか!」
一護も額へ手を当てた。
「……ほんと、性格悪ぃな」
思わず本音が漏れた。
相澤はそんな生徒たちを気にする様子もなく、さっさと片づけを始めている。
ただ、言いたいことは何となく分かった。
力を持っているからといって、それだけで何でもできるわけではない。
自分の限界を知らずに動けば、いずれ取り返しのつかないことになる。
それは、一護自身もよく知っていた。
とはいえ。
初日からここまでやる必要があったのかについては、少々疑問が残った。
*
着替えを終えて教室へ戻る頃には、すっかり午後になっていた。
相澤から今後の予定について説明を受け、その日の授業は終了となった。
一護は鞄を肩に掛ける。
「黒崎!」
切島が声をかけてきた。
「帰り、一緒にどうだ?」
「ああ、いいぜ」
「よっしゃ!」
そこへ、金髪の少年が顔を出した。
「なあなあ、俺も一緒でいい?」
「おう!」
「黒崎だっけ? 俺、上鳴電気。よろしく!」
「黒崎一護。よろしくな」
上鳴はにやりと笑った。
「なあ、今日の五十メートル走、めっちゃ速かったよな。どんな個性なんだ?」
「移動が得意なんだよ」
「へえ! いいなあ。俺なんか電気出せるけど、加減が難しくてさ」
「電気?」
「そ。今度見せるぜ!」
上鳴が親指を立てる。
一護は少し笑った。
どうやら、A組には面白い連中が揃っているらしい。
三人は教室を出て、昇降口へ向かった。
廊下には、下校する生徒たちの声が響いていた。
「しかし、雄英って本当に広いな」
切島が天井を見上げた。
「だよな。俺、さっき階段間違えたわ」
上鳴が笑う。
「お前、初日から迷子になってんのかよ」
「しょうがねえだろ!」
「まあ、俺も危なかったけどな」
一護が言うと、切島が笑った。
そんな話をしながら、三人は廊下の角を曲がった。
ちょうど、向こうから女子生徒が二人歩いてくるところだった。
一人は赤みがかった髪を後ろでまとめた少女。
もう一人は、長い髪の少女だった。
切島が先に気づき、通路を空けようと身体を寄せる。
「おっと、悪い」
「ううん、大丈夫!」
赤毛の少女が笑って答えた。
一護も何気なく横へ目を向けた。
そして、足を止めた。
長い髪の少女が、隣の友人へ何かを話している。
その横顔。
柔らかな目元。
ふわりと揺れる髪。
見覚えがあった。
いや、見覚えがあるなどというものではない。
何度も見てきた。
何度も、その顔に助けられた。
笑っている顔も、泣いている顔も、必死に誰かを救おうとしている姿も。
忘れられるはずがなかった。
少女がこちらを向く。
目が合った。
一護の呼吸が、僅かに止まった。
その瞬間、少女の表情から笑みが消えた。
大きく目を見開き、立ち尽くしている。
まるで、信じられないものを見たかのように。
「……黒崎、くん?」
小さな声だった。
一護の心臓が、大きく跳ねた。
声まで同じだった。
以前の人生で、何度も自分の名前を呼んでくれた、あの声。
だが、同時に頭の奥で別の考えが浮かぶ。
この世界には、かつて知っていた人間と同じ顔を持つ者がいる。
自分の家族も、友人たちもそうだった。
だから、目の前の少女があの井上織姫だとは限らない。
それでも。
「……俺のこと、知ってんのか?」
気づけば、そう尋ねていた。
少女は、はっとしたように瞬きをした。
「え……あ、うん」
それから、少し慌てた様子で続ける。
「有沢たつきちゃんから、話を聞いたことがあって……」
「たつき?」
一護は目を瞬いた。
「お前、あいつの知り合いなのか?」
「うん。同じ中学だったの」
「……そうか」
一護は小さく頷いた。
それなら、名前を知っていることにも説明がつく。
たつきなら、確かに自分の話をしていても不思議ではない。
同じ顔の人間。
同じ声の人間。
だが、それだけで本人だと決めつけるわけにはいかない。
一護は、もう一度少女の顔を見た。
少女も、こちらを見つめている。
何かを言いたそうにしているのに、言葉が出てこないらしい。
「井上さん?」
隣の赤毛の少女が声をかけた。
一護の目が動いた。
井上。
今、そう呼んだのか。
「……あっ、ごめんね、拳藤さん」
長い髪の少女が答えた。
拳藤と呼ばれた少女は、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「大丈夫? 急に黙っちゃったから」
「う、うん。大丈夫だよ」
そう言って笑う。
その笑い方にも、覚えがあった。
一護は思わず口を開きかけた。
だが、何を言えばいいのか分からなかった。
自分の知っている井上織姫は、目の前で消えた。
あのあと、どれほど探しても見つけることができなかった。
だからこそ、この世界で同じ名前を聞くことが、こんなにも胸に刺さるとは思わなかった。
拳藤が一護たちへ顔を向けた。
「あ、そうだ。私、一年B組の拳藤一佳。こっちは井上織姫。よろしくね!」
井上織姫。
名前まで、同じだった。
一護は、すぐには返事ができなかった。
その様子を見て、切島が横から声をかける。
「俺、切島鋭児郎! A組だ。よろしくな!」
「上鳴電気! 俺もA組!」
上鳴が軽く手を上げる。
拳藤が二人へ笑顔で応じた。
一護はようやく口を開いた。
「……黒崎一護。A組だ」
「うん……」
織姫が頷く。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「よろしくね、黒崎くん」
「……おう」
何でもない挨拶だった。
同じ学校に入学したばかりの生徒同士なら、当たり前に交わす言葉。
それなのに、ひどくぎこちなかった。
織姫は目の前の少年を見つめていた。
黒崎一護。
たつきから、名前は聞いていた。
この世界にも、同じ名前の少年がいることは知っていた。
けれど、実際に顔を見たのは初めてだった。
あまりにも似ている。
髪の色も、目つきも、声も。
話し方まで。
以前の人生で知っていた黒崎一護が、そのまま少しだけ若くなったようだった。
もし、本人だったら。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
もう一度、会えたのかもしれない。
でも。
違ったら。
自分だけが勝手に期待して、相手を困らせてしまったら。
織姫は、すぐに次の言葉を見つけられなかった。
「あのさ」
一護が口を開いた。
織姫は顔を上げる。
「たつき、元気にしてたか?」
尋ねられたのは、そんな何気ないことだった。
「うん! 元気だよ。空手もずっと頑張ってるし」
「そっか。あいつらしいな」
一護が小さく笑った。
その表情を見て、織姫の胸がまた強く鳴った。
知っている。
その笑い方を。
少し照れくさそうに、口元だけを緩めるところまで。
「黒崎くんは……」
織姫は思わず口を開いた。
一護が顔を向ける。
「ん?」
その返事に、言葉が詰まった。
何を聞くつもりだったのだろう。
たつきちゃんとは、今でも会っているの?
雄英に入ろうと思ったのは、どうして?
そんなことなら、いくらでも聞ける。
けれど、本当に聞きたいことは違った。
それを、初めて会ったばかりの相手に尋ねてもいいのだろうか。
「……ううん。何でもない」
結局、織姫はそう答えた。
一護は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
拳藤が二人の様子を見比べる。
「井上さん、黒崎くんとは初対面なんだよね?」
「う、うん」
「なんか、二人ともびっくりしてたみたいだから」
織姫は慌てて頷いた。
「たつきちゃんから話を聞いてたから、会えてびっくりしちゃって」
「そっか!」
拳藤は納得したように笑った。
一護も、何も言わなかった。
それで説明がついてしまう。
少なくとも、周囲の人間にとっては。
「じゃあ、俺たちそろそろ帰るか」
切島が言った。
「そうだな」
一護は頷いた。
そして、織姫へ目を向ける。
言いたいことがないわけではなかった。
むしろ、聞いてみたいことは山ほどある。
けれど、何から聞けばいいのか分からなかった。
「……じゃ、またな」
そう言って、軽く手を上げる。
織姫は一瞬、目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「……うん。またね、黒崎くん」
一護は切島たちと歩き出した。
織姫は、その背中を見送った。
遠ざかっていくオレンジ色の髪。
少し前屈みになった、見慣れた歩き方。
そのすべてが、記憶の中にあるものと重なっていた。
廊下の角を曲がる直前、一護が一度だけ振り返った。
二人の視線が合った。
どちらも何も言わなかった。
やがて、一護の姿は見えなくなった。
「……井上さん?」
拳藤に呼ばれ、織姫はようやく顔を戻した。
「あっ、ごめんね」
「ううん。大丈夫?」
「……うん」
織姫は笑った。
けれど、その笑顔は、先ほどまでとは少し違っていた。
拳藤はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、私たちも帰ろっか」
「……うん」
二人は並んで歩き出した。
織姫は、もう一度だけ振り返った。
廊下の向こうには、誰もいなかった。
*
「黒崎、さっきの子、知り合いじゃなかったんだな」
昇降口へ向かう途中、切島が言った。
「……ああ」
一護は短く答えた。
「たつきの知り合いらしい」
「へえ。幼馴染の友達ってやつか」
「まあ、そんなとこだろ」
上鳴が横から顔を出す。
「でもよ、あの子、お前見たときめちゃくちゃ驚いてなかった?」
「……そうか?」
「そうそう。お前も一瞬固まってたし」
一護は返事に困った。
見間違いではない。
織姫も、確かに驚いていた。
ただ、その理由までは分からない。
たつきから聞いていた相手を実際に見て、想像と違っただけかもしれない。
自分が何か変な顔をしていたのかもしれない。
「……まあ、初めて会ったからな」
結局、そう答えた。
上鳴は特に気にする様子もなく、別の話題を持ち出した。
「それより、今日の担任やばくね? 初日から除籍とかさ!」
「マジで焦ったよな!」
切島が笑う。
話は、いつの間にか相澤のことになっていた。
一護も時折相槌を打ちながら、二人と並んで歩いた。
だが、頭の片隅には、先ほどの少女の姿が残っていた。
井上織姫。
自分が知っている名前。
知っている顔。
知っている声。
同じものが、あまりにも多すぎた。
それでも。
彼女が、本当にあの井上織姫なのかどうか。
今の一護には、まだ分からなかった。
*
帰りの電車で、織姫は窓の外を眺めていた。
夕方の街並みが、ゆっくりと流れていく。
隣の席では、同じ制服を着た生徒たちが楽しそうに話していた。
新しいクラスのこと。
担任の先生のこと。
明日から始まる授業のこと。
織姫も、つい先ほどまでは同じような話をしていた。
拳藤と別れ、一人で電車に乗ってから、急に静かになったように感じる。
膝の上で、指を組んだ。
黒崎一護。
あの名前を、心の中でもう一度呟いた。
たつきから話を聞いていたときは、何とか納得できていた。
この世界にも、同じ名前の人間がいる。
それだけのことなのだと。
自分の知っているたつきと、この世界のたつきがそうだったように。
けれど、今日の少年は。
声まで、同じだった。
あの話し方も。
少し不機嫌そうに見える顔も。
けれど、笑うと優しそうに見えるところまで。
「……黒崎くん」
唇だけで名前を呼んだ。
もし、本当にあの黒崎くんだったら。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな喜びが生まれた。
もう一度、会える。
あのとき、もう二度と会えないと思った人に。
今度こそ、伝えられなかったことも話せるかもしれない。
けれど、その喜びは長く続かなかった。
ある疑問が浮かんだからだ。
――どうして、黒崎くんがここにいるんだろう。
織姫は、膝の上で手を握りしめた。
自分は、あのとき消えた。
三つの世界が崩壊しようとしている中で、最後の力を使った。
壊れていくものを、拒絶しようとした。
それが成功したのかどうかは、分からない。
最後に見たのは、こちらへ手を伸ばす一護の姿だった。
眩しい光。
遠ざかる景色。
そして、次に気づいたときには、この世界で新しい命を得ていた。
あの世界は、どうなったのだろう。
残してきた人たちは、無事だったのだろうか。
朽木さんも。
石田くんも。
茶渡くんも。
みんな、ちゃんと生きているのだろうか。
ずっと、そう願ってきた。
自分がいなくなっても、あの世界が続いていてくれるように。
みんなが、また笑って暮らせるように。
なのに。
もし、今日会った少年が、本当に黒崎一護だったとしたら。
どうして、彼までこの世界にいるのだろう。
「……っ」
織姫は俯いた。
ひょっとしたら、あのとき自分は失敗してしまったのではないか。
世界の崩壊を止められず、黒崎くんまで巻き込んでしまったのではないか。
あるいは、自分が消えたあとに何かが起こったのかもしれない。
そう考え始めると、胸が苦しくなった。
違う。
まだ、何も分からない。
今日会った少年が、同じ顔と名前を持つ別人である可能性だってある。
それなのに、勝手に悪い方へ考えてしまっている。
織姫は小さく首を振った。
窓に映った自分の顔は、思っていたよりも不安そうだった。
確かめたい。
でも、怖い。
もし本物だったら、あの世界で何があったのか聞かなければならない。
その答えを知るのが、怖かった。
*
「お兄ちゃん、初日どうだった?」
夕食の席で、遊子が尋ねた。
一護は箸を動かしながら答える。
「……初日から体力測定やらされた」
「えっ、もう?」
「ああ。担任がすげえ変わった先生でさ」
「へえ!」
遊子が興味深そうに身を乗り出した。
夏梨も顔を上げる。
「どんな先生?」
「なんつーか……寝袋に入って教室に来るような先生」
「……は?」
夏梨が目を丸くした。
一護は苦笑する。
「俺も最初そう思った」
遊子が笑い、一心が大袈裟に声を上げた。
「何だと!? 我が息子の担任は寝袋で登校するのか!」
「……多分、そうなんじゃねえの」
「ならば父として一度、その教師と――」
「やめろ!」
いつもの調子に戻った父親を、一護は即座に止めた。
真咲が楽しそうに笑っている。
食卓は、いつもどおり賑やかだった。
一護も、今日の出来事を話した。
爆発を使う生徒。
脚にエンジンを備えている生徒。
身体を硬くできる切島という少年。
指を折りながらボールを投げていた緑谷のことも、少しだけ話した。
それでも、廊下で会った少女については口にしなかった。
話すことを避けたというより、どう説明すればいいのか分からなかった。
井上織姫という名前の少女に会った。
それだけなら、家族には何も伝わらない。
今の世界で初めて会った相手なのだから、当然だ。
だが、一護にとっては、それだけでは済まなかった。
*
夜。
一護は自室の机に向かっていた。
明日の授業で使う資料を鞄に入れ、スマートフォンを手に取る。
画面には、切島から届いたメッセージが表示されていた。
『明日もよろしくな!』
一護は短く返事を送った。
そのあと、何となく連絡先の一覧を開く。
啓吾。
水色。
チャド。
石田。
たつき。
見慣れた名前が並んでいた。
今の世界で出会った友人たち。
どれも、以前の人生で知っていた人間と同じ顔を持っている。
けれど、違う人生を生きている。
一護は、幼い頃からそのことを理解してきた。
父親も、母親も、妹たちもそうだった。
何度も経験してきたことなのだから、今さら驚くようなことではない。
それなのに。
あの少女のことだけは、どうしても頭から離れなかった。
「……井上織姫、か」
思わず名前を口にした。
返事はない。
あるはずもなかった。
一護は椅子へ背中を預け、目を閉じた。
真世界城。
最後に見た、織姫の姿。
自分の手は届かなかった。
あのあと、どれほど探しても、彼女の気配を見つけることはできなかった。
だからこそ、今さら同じ顔を見たところで、簡単に期待する気にはなれない。
もし違っていたら。
今日会った少女は、ただ、この世界で生まれ育った井上織姫なのだろう。
それなら、それでいい。
彼女には彼女の人生がある。
勝手に誰かを重ねるのは、違う。
一護は目を開けた。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
「……でもよ」
小さく呟く。
あのとき。
目が合った瞬間の、少女の顔。
まるで、自分と同じように、信じられないものを見たような表情だった。
たつきから名前を聞いていただけで、あんな顔をするだろうか。
そう考えたところで、一護は小さく息を吐いた。
「……考えても仕方ねえか」
明日も学校はある。
同じヒーロー科なのだから、また顔を合わせることもあるだろう。
そのときに、普通に話してみればいい。
今日、名乗り合ったばかりの相手として。
一護は机の上の資料を閉じた。
だが、立ち上がろうとしたところで、ふと動きを止めた。
――黒崎くん?
あの声が、また頭の中に響いた。
一護はしばらく黙っていた。
それから、苦笑した。
「……まったく」
自分でも、何を期待しているのか分からなかった。
*
織姫は、ベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
画面には、有沢たつきの連絡先が表示されている。
今日、黒崎一護に会った。
そう伝えようとして、指が止まった。
たつきなら、きっと驚かない。
ああ、黒崎に会ったんだ。
雄英に行くって言ってたもんね。
おそらく、そんなふうに答えるだろう。
たつきにとって、黒崎一護は幼い頃からの知り合いだ。
空手道場で競い合い、喧嘩をして、また仲直りしてきた相手。
彼女が知っているのは、この世界で生まれ育った黒崎一護だった。
織姫が本当に確かめたいのは、そこではない。
あの人は、以前の人生を覚えているのだろうか。
尸魂界のこと。
虚圏のこと。
そして、最後に起こったことを。
もし覚えていなかったら。
それなら、ただの別人なのかもしれない。
でも、もし覚えていたら。
織姫はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
考えたいことは、いくらでもある。
けれど、何度考えても答えは出なかった。
結局、たつきへのメッセージは送らなかった。
ベッドへ横になる。
すると、昼間の光景が何度も浮かんできた。
廊下。
春の日差し。
オレンジ色の髪。
そして。
――じゃ、またな。
あの言葉が、胸に残っていた。
以前の人生では、何度も交わしていた言葉だった。
明日も会えると思って、当たり前のように別れていた。
それが、ある日突然、叶わなくなった。
だから。
今日のあの一言が、どうしても嬉しかった。
織姫は目を閉じた。
明日になれば、また学校へ行く。
あの少年も、同じ校舎のどこかにいる。
もう一度、会えるかもしれない。
そのときは、少しだけ話してみよう。
今日よりも、もう少しだけ。
織姫は、そう心の中で決めた。
「……また明日、黒崎くん」
小さな声が、部屋の中に落ちた。
返事はなかった。
それでも、明日という日が、少しだけ待ち遠しかった。
*
翌朝。
一護は雄英高校へ向かう電車の中で、窓の外を眺めていた。
昨日と同じ時間。
昨日と同じ路線。
だが、昨日までとは少し違う気分だった。
ふと、廊下で出会った少女の顔が浮かぶ。
井上織姫。
もう一度、会うことがあるだろうか。
もし会えたら、何を話そうか。
そんなことを考えながら、一護は駅へ降り立った。
同じ頃、織姫もまた、雄英へ向かっていた。
鞄の中には、新しい教科書。
胸の中には、昨日から消えない疑問。
二人は、まだ知らない。
互いが、あの日からずっと会いたかった相手であることを。
そして、その答えが、今は同じ学校の中にあるということも。
春の風が、桜の花びらを運んでいく。
新しい一日が、始まろうとしていた。