「おはよう、黒崎!」
「おう。早えな、切島」
雄英高校に入学して二日目。
教室へ入るなり声をかけられ、一護は軽く手を上げた。
切島鋭児郎はすでに席についており、隣では上鳴電気が机に突っ伏している。
「何だ、上鳴は朝から死んでんのか」
「……眠い」
「昨日、早く寝りゃよかっただろ」
「いや、昨日の個性把握テストが衝撃的すぎてさ。帰ってからずっと考えてたんだよ」
上鳴は顔を上げ、大きな欠伸をした。
「本当に除籍されんのかと思ったもんな」
「そりゃ俺も思ったけどよ」
一護が鞄を置くと、切島が笑った。
「でも、昨日は面白かったよな。あんな色んな個性、一度に見たことなかったぜ」
「ああ。確かにな」
一護は教室を見渡した。
窓際では瀬呂範太が何人かと話しており、飯田天哉は今日も背筋を伸ばして席についている。爆豪勝己は相変わらず不機嫌そうだったが、昨日の朝ほど騒がしくはなかった。
緑谷出久の姿もある。
昨日の投球で傷めた指には処置の跡が残っていた。その手でノートを開き、何やら熱心に書き込んでいる。
あれほど派手に怪我をした翌日だというのに、随分と真面目な奴らしい。
「黒崎は今日も平気そうだな」
切島に言われ、一護は顔を戻した。
「何が?」
「昨日あれだけ動いたのに、疲れてねえのかって」
「多少は疲れたけどな。寝りゃ治るだろ」
「おお、タフだな!」
「いや、お前に言われてもな」
昨日、全身を硬化させて測定に挑んでいた切島の方が、よほど頑丈そうだった。
そんなやり取りをしていると、上鳴が勢いよく身体を起こした。
「そうだ! 今日の午後ってヒーロー基礎学だよな!」
「おう!」
切島が嬉しそうに頷いた。
「いよいよ本格的な訓練って感じだな!」
「やっぱ戦闘訓練とかやんのかな? 俺、結構楽しみにしてんだけど」
「雄英だし、普通の授業じゃ終わらねえだろうな」
一護が答えると、上鳴はにやりと笑った。
「黒崎ってさ、昨日もそうだったけど、あんま緊張しないタイプ?」
「そうでもねえよ」
「いやいや、最下位除籍とか言われても普通にしてたじゃん」
「慌てたって記録が伸びるわけじゃねえだろ」
「うわ、正論!」
上鳴が大袈裟に天井を仰ぎ、切島が笑った。
一護も苦笑しながら席につく。
新しい学校。
新しいクラスメイト。
以前の人生では、学校へ通っていても、どこか別の世界との間を行き来しているような感覚があった。
今も人には話せないことがある。
それでも、こうして同級生たちと他愛のない話をする時間は、嫌いではなかった。
始業を知らせるチャイムが鳴った。
廊下にいた生徒たちが慌てて教室へ戻り、飯田が立ち上がって着席を促す。
一護も教科書を取り出した。
*
「井上さん、おはよう!」
「おはよう、拳藤さん!」
一年B組では、織姫が自分の席へ向かっていた。
拳藤一佳はすでに登校しており、机の上に今日の教材を並べている。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「うん! 駅まで迷わなかったよ!」
「あはは。よかったね」
織姫は笑いながら鞄を置いた。
昨日は、色々なことがあった。
新しいクラス。
新しい友達。
これから学ぶことへの期待。
そして、廊下で出会ったオレンジ色の髪の少年。
その姿を思い出したところで、拳藤が口を開いた。
「そういえば井上さん。昨日の黒崎くんって、井上さんの友達の幼馴染なんだっけ?」
「うん。たつきちゃんの幼馴染なんだよ。小さい頃から一緒に空手をやってたんだって」
昨日の帰り道、拳藤にはたつきとの関係を少し話していた。
織姫が中学校で仲良くなった友達の、昔からの知り合い。説明するなら、そういうことになる。
「へえ。じゃあ、黒崎くんの話も結構聞いてたんだね」
「うん。たつきちゃん、よく話してくれるから」
「そっか。同じヒーロー科なら、これからも会う機会ありそうだね」
「……うん。そうだね」
織姫も笑った。
拳藤が教材へ視線を戻したところで、織姫は窓の外を見た。
昨夜は、なかなか寝つけなかった。
目を閉じるたびに、昨日の一護の顔が浮かんできたからだ。
同じ顔。
同じ名前。
そして、記憶の中にあるものと変わらない声。
けれど、一晩考えて、ようやく少し気持ちが落ち着いた。
自分が好きだったのは、前の世界の黒崎一護だ。
一緒に過ごして、笑って、時には心配して、何度も助けられた。
その積み重ねの中で好きになった。
だから、昨日出会った少年を、顔と名前が同じだからという理由だけで、あの黒崎一護だと考えるのは違う。
もし別人だったら、彼には彼の人生があるのだから。
織姫は、そのことをよく分かっていた。
この世界のたつきと出会ったときも、最初は戸惑った。
けれど、前世の思い出を共有することはできなかったし、知らないこともたくさんあった。
それでも、一緒に過ごすうちに仲良くなった。
前のたつきに似ているからだけではない。
今のたつき自身を、大切な友達だと思うようになったのだ。
だから、黒崎くんとも。
そこまで考えて、織姫は小さく首を振った。
まだ、一度顔を合わせただけだ。
何も知らないまま、答えを出す必要はない。
「井上さん、今日の午後って個性の訓練だよね?」
拳藤の声に、織姫は顔を上げた。
「うん! 楽しみだね!」
「私も。昨日は自己紹介だけだったし、みんながどんなことできるのか早く見てみたいな」
織姫は嬉しそうに頷いた。
今の自分にも、やりたいことがある。
前世の記憶を持っているからといって、今の人生が過去の続きだけになるわけではない。
雄英へ入ったのも、自分で考えて選んだことだった。
誰かが傷ついたときに、ちゃんと助けられるようになりたい。
そして、できることなら。
傷つく前に、護れるようになりたかった。
*
昼休み。
雄英高校の食堂は、大勢の生徒で賑わっていた。
広い室内にはいくつものテーブルが並び、カウンターには料理を受け取る生徒たちの列ができている。
「……すげえ人数だな」
一護はトレーを持ったまま周囲を見渡した。
隣にいた切島も、空いている席を探している。
「どっか空いてねえかな」
「奥、見に行ってみるか」
二人が歩き出したところで、聞き覚えのある声がした。
「あれ、黒崎くん?」
顔を向けると、少し離れたテーブルで拳藤が手を振っていた。
その隣には、井上織姫が座っている。
一護は、ほんの僅かに足を緩めた。
「席、探してる?」
「ああ。どこも埋まっててさ」
「ここ、二つ空いてるよ。よかったらどう?」
切島が顔を明るくした。
「マジで? 助かる!」
「じゃあ、お邪魔するか」
一護も頷き、テーブルへ向かった。
織姫は二人を見上げた。
「こんにちは、黒崎くん」
「おう。昨日ぶりだな」
織姫の顔に笑みが浮かんだ。
昨日、廊下で顔を合わせたときよりも、今日はずっと自然に話しかけられた。
一護も普段どおりに席についた。
隣では切島が、早速拳藤と話し始めている。
「B組って今日何やってんだ?」
「午前中は普通の授業だよ。午後は個性の訓練があるみたい」
「へえ! 俺らも午後からヒーロー基礎学だぜ」
「そうなんだ! 何するの?」
「まだ詳しくは知らねえけど、実技はあると思うんだよな」
「楽しみだね!」
会話が弾む。
一護は箸を取り、目の前の料理へ手を伸ばした。
そのとき、織姫の前に置かれた小さな弁当箱が目に入った。
蓋の開いた容器には、一口大のおにぎりが並んでいる。
ただし、ご飯は淡い黄色をしており、ところどころに赤いものが混ざっていた。
「……井上、それ何だ?」
一護が弁当箱を指さすと、織姫は待っていましたとばかりに顔を輝かせた。
「今日の新作! いちごジャムとチーズのおにぎりだよ!」
一護は箸を持ったまま固まった。
何かの聞き間違いかと思ったが、織姫は実に満足げな顔をしている。
「……おにぎりにジャム入れたのかよ」
「うん! チーズの塩気と合うかなって思って。ご飯には少しバターも混ぜてあるんだ」
「そこまでやってんのか……」
呆れる一護の横から、切島が興味津々といった様子で身を乗り出した。
「すげえな! 甘いのかしょっぱいのか、全然想像つかねえ!」
「両方楽しめるんだよ!」
織姫は胸を張った。
拳藤が苦笑しながら箸を置く。
「さっきから勧めてもらってるんだけどね。私、まだ心の準備ができてなくて」
「そんなに構えなくても大丈夫なのに」
「いや、俺も拳藤の気持ちは分かるぞ」
一護が口を挟むと、織姫は不服そうに頬を膨らませた。
「黒崎くんまで!」
「お前、普通に考えてみろよ。おにぎりの具にジャムが入ってたら、そりゃ驚くだろ」
「でも、おいしいよ?」
そう言って織姫は一つ摘まみ、ためらいなく口へ運んだ。
幸せそうに頬を緩める姿に、一護は思わず笑ってしまう。
「まあ、井上なら焼いたサバをパンに挟んだやつでも、うまいうまいって食いそうだな」
何気なく口にした一言だった。
ところが、織姫の手が止まった。
「……サバを、パンに?」
「ああ。お前の料理の話聞いてると、そういうのも好きそうだなって」
一護は笑いながら答えた。
織姫は、ほんの少し目を見開いていた。
焼いたサバを挟んだパン。
以前の人生で食べた、あのパンを思い出した。
けれど、そんな組み合わせは誰でも思いつくかもしれない。
世界には様々な料理があるのだから。
「……うん。おいしいと思う!」
織姫は笑顔で頷いた。
切島が感心したように腕を組む。
「へえ、サバのパンか。そっちは普通にうまそうだな!」
「いや、それなら最初から普通のおにぎり作りゃいいだろ」
一護が呆れると、拳藤が吹き出した。
「黒崎くん、結構はっきり言うね」
「いや、だってよ……」
言いかけた一護も、結局笑ってしまった。
織姫は三人の顔を順番に見てから、何とも不思議そうに首を傾げる。
「みんな、食べてみたらきっと分かると思うんだけどなあ」
その言葉に、一護はまた笑いそうになった。
以前の人生でも、井上はよく変わった料理を作っていた。
本人は心からおいしいと思っているらしく、周囲が驚く理由を分かっていないことも多かった。
あの頃の井上なら、きっと同じことを言っただろう。
そう考えたところで、一護はふと気づいた。
自分は、今の井上のことをほとんど知らない。
それなのに、先ほどから昔の彼女に話しかけているような気分になっていた。
同じ顔。
同じ名前。
変わらない声。
料理の好みまで重なっている。
だが、だからといって本人だと決めつけるわけにはいかない。
一護は箸を持ち直した。
目の前の少女は楽しそうに笑っている。
切島と拳藤も、すっかり打ち解けた様子だった。
今は余計なことを考えるより、この時間を楽しんでいたかった。
*
「そういや井上さん、昨日、回復ができるって言ってたよな」
食事が進んだ頃、切島が織姫へ尋ねた。
「うん。傷ついたところを治すのが得意なんだ」
「すげえな。それって、どのくらいの怪我まで治せるんだ?」
「ええっと、それは怪我の状態にもよるかな。ほかにも、危ないときに人を守ったりできるよ」
拳藤が感心したように頷く。
「昨日の自己紹介でも聞いたけど、実際に使うところを見るのが楽しみなんだよね」
「午後の訓練で、ちゃんと見せられたらいいな」
織姫が笑うと、切島も嬉しそうに声を上げた。
「回復も防御もできるのか! 現場にいたら頼りになりそうだな!」
一護も頷いた。
「確かにな。怪我した奴がいたとき、そういう力があったら助かるだろうし」
織姫は少し嬉しそうに笑った。
「ありがとう。でも、私はもっと色んなことができるようになりたいな」
「色んなこと?」
拳藤が尋ねると、織姫は自分の手を見下ろした。
「怪我を治すのも大事だけど、そもそも怪我をさせないように守れたら、もっといいでしょ?」
「確かに。予防できるなら、その方がいいよね」
「うん。それにね」
織姫は顔を上げた。
「守るだけじゃ、どうにもならないこともあると思うんだ。だから、いざというときには、相手を止められるくらい強くなりたい」
その声は穏やかだった。
だが、一護は少しだけ意外に思った。
目の前の少女は、先ほどまで変わったおにぎりを楽しそうに食べていた。
けれど、今ははっきりとした意志を持って話している。
拳藤も感心したように頷いた。
「いいね。私も、ただ個性を強くするだけじゃなくて、どう使うかを考えなきゃって思ってたんだ」
「うん! 一緒に頑張ろうね!」
織姫は笑顔で答えた。
その笑顔の奥に、かつての戦いの記憶があった。
守ろうとして張った盾を、力ずくで破られたことがある。
傷ついた人へ手を伸ばしても、間に合わなかったことがある。
治す力があっても、傷つくことそのものを防げるわけではなかった。
目の前で大切な人が傷ついていくのを、見ているしかなかった瞬間もあった。
あのとき、もっと強かったら。
もう少し早く動けていたら。
そう思ったことは、一度や二度ではない。
最後の戦いでは、自分にできるすべてを使った。
それでも、その先がどうなったのかは知らない。
だからこそ、今の自分ができることを、最初から決めてしまいたくなかった。
治すことも。
守ることも。
そして、必要なら戦うことも。
全部、もっと強くなりたい。
織姫は、そう思っていた。
一護はそんな彼女の横顔を見ていた。
傷を治し、人を守る力。
かつて井上が使っていた六花を思い出す。
だが、似た性質の能力を持つ人間なら、すでに知っている。
チャドも石田も、以前と同じ顔と名前を持ち、前の世界で使っていた力を思わせる能力を備えていた。
それでも、二人に昔の記憶はなかった。
だから、目の前の井上が治癒や防御の能力を持っていたとしても、それだけで何かが分かるわけではない。
ただ、気になった。
先ほどの話し方には、単にヒーローへ憧れているだけではない、何か切実なものがあった。
「黒崎くんは?」
織姫に呼ばれ、一護は顔を上げた。
「ん?」
「黒崎くんは、どうしてヒーロー科に入ったの?」
「あー……」
一護は少しだけ困った。
改めて尋ねられると、どうにも答えづらい。
ただ、誰かを護りたい。
手の届く範囲を、もっと広げたい。
それは確かに自分の中にあるものだった。
けれど、そんなことを正面から話すのは、妙に気恥ずかしい。
しかも、今は友達と昼飯を食っている最中だ。
「……別に、大層な理由があるわけじゃねえけど」
一護は少し考えてから、肩をすくめた。
「どうせ困ってる奴がいたら、放っとけねえだろうし。だったら、ヒーロー免許があった方が何かと動きやすそうだなって」
「……そうなんだ」
「それに、助けに入って逆に足引っ張るんじゃ意味ねえからな。ここなら色々学べるだろ」
何でもないことのように言って、一護は食事へ戻った。
切島が大きく頷く。
「おお、いいじゃねえか! そういうの、俺は好きだぜ!」
「いや、別に褒めてもらうようなことじゃねえよ」
「いやいや、十分立派だって!」
一護は少し居心地悪そうに顔をしかめた。
「……だから、そういうのはいいって」
その様子に、拳藤が笑った。
「黒崎くん、褒められるの苦手なんだ?」
「そういうわけじゃねえけどよ」
照れ隠しのように答える一護を見て、織姫も笑った。
懐かしかった。
誰かを護りたいという気持ちは強いのに、それを口にするときは、どこか不器用になる。
前の世界の黒崎一護も、そんな人だった。
けれど、今の彼が話してくれたことも、ちゃんと嬉しかった。
顔や名前が同じだからではなく。
目の前の少年が、どんなことを考えて雄英へ来たのか。
その一端を知ることができたからだ。
「……ふふっ」
織姫は小さく笑った。
一護が顔を向ける。
「何だよ?」
「ううん。何でもないよ」
「……変な奴だな」
そう言いながらも、一護の表情は柔らかかった。
「そろそろ行くか」
切島が時計を確認した。
「午後から授業だしな」
「ああ、そうだったな」
一護も立ち上がる。
拳藤がトレーを持った。
「私たちも次の授業あるし、行こっか」
「うん!」
織姫も立ち上がった。
四人は食器を返却し、食堂の出口へ向かう。
別れ際、一護は織姫へ顔を向けた。
「じゃあな、井上」
織姫は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
その呼び方。
昨日、初めて会ったときには聞けなかったものだった。
今は名乗り合った相手なのだから、何も不自然ではない。
けれど、どうしても懐かしかった。
「……うん。またね、黒崎くん」
織姫は笑って答えた。
一護も軽く手を上げ、切島とともに歩き出した。
*
「私が来た!」
午後の授業が始まって間もなく、教室の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、巨大な身体と金髪を持つ男。
オールマイトだった。
教室が一気に沸き立つ。
「本物だ!」
「やべえ! オールマイトだ!」
一護も顔を上げた。
テレビで見るのとは、やはり迫力が違う。
ただ立っているだけでも、周囲の空気が引き締まるような存在感があった。
それでいて、笑顔は驚くほど明るい。
切島が興奮したように一護の肩を叩く。
「おい黒崎! オールマイトだぞ!」
「見りゃ分かるって」
一護が苦笑すると、上鳴も身を乗り出した。
「いや、普通にすげえだろ! まさか本当に授業してくれるなんて!」
その反応も無理はなかった。
平和の象徴。
この世界に生まれてから、その名前を知らずに過ごすことはできなかった。
テレビでは毎日のように活躍が報じられ、人々の期待を一身に背負っている。
その強さは、一護も素直に認めていた。
オールマイトは生徒たちを見回し、今日の授業について説明した。
ヒーロー基礎学。
今回行うのは、屋内での対人戦闘訓練だという。
ヒーロー側とヴィラン側に分かれ、建物内に設置された模擬兵器を巡って戦う。
ヒーロー側は模擬兵器の確保、あるいはヴィラン側の捕縛が目的。
ヴィラン側は制限時間までそれを阻止する。
一護は資料へ目を落とした。
ロボットを相手にする入試とは違い、今度は人間が相手になる。
しかも、相手も個性を使う。
単純に力が強ければ勝てる、というものでもないだろう。
「それでは諸君! まずはコスチュームに着替えてもらおう!」
オールマイトの声とともに、教室の壁に並んだケースが開いた。
それぞれの生徒が事前に申請した、専用のヒーローコスチュームが収められている。
歓声が上がった。
一護も自分のケースへ向かう。
黒を基調とした、動きやすさを優先したコスチューム。
余計な装飾はほとんどなく、前腕と膝には簡単な保護具が付いている。
足元は、急な加速や着地にも耐えられるよう補強されたブーツだった。
以前の人生で着ていた死覇装とは、何もかもが違う。
それでも、動きを妨げないことを第一に考えた結果、随分と地味な格好になった。
「……まあ、こんなもんだろ」
一護はコスチュームを手に取った。
*
訓練施設の入口には、色とりどりのヒーローコスチュームに身を包んだ生徒たちが集まっていた。
切島は上半身を大きく露出した格好で、腕を組んでいる。
上鳴も、黒と白を基調とした装備に着替えていた。
「おお、黒崎! 似合ってんじゃねえか!」
切島が声をかける。
「そうか?」
「なんか、すげえ実戦向きって感じだな!」
「お前も随分と動きやすそうだな」
「だろ!」
切島が笑う。
一護は周囲を見渡した。
飯田は装甲に覆われたコスチュームを着ている。
爆豪には、両腕に巨大な装備が付いていた。
轟焦凍も、普段の制服姿とは印象の違う格好をしている。
同じヒーロー科でも、個性の種類によって装備がまるで異なる。
それだけでも、なかなか面白かった。
オールマイトが生徒たちを集め、改めてルールを説明する。
基本は二人一組。
ただし、A組は一護を含めて二十一人いるため、一組だけ三人編成になるという。
「実戦で、敵と味方の人数が必ず同じになるとは限らない! 今回はその不均衡も含めて訓練してもらう!」
一護は頷いた。
相手が一人とは限らないし、味方が十分に揃っているとも限らない。
そうした状況への対応も、必要になるだろう。
組み合わせは抽選で決定された。
最初に行われたのは、緑谷と麗日がヒーロー側、爆豪と飯田がヴィラン側となる戦闘だった。
一護はモニターの前に立ち、映像を見つめた。
開始直後から、爆豪が緑谷へ激しく攻撃を仕掛けている。
「……おいおい」
思わず眉を寄せた。
爆発の威力が大きい。
それに、動きが随分と荒い。
緑谷も必死に対応していたが、昨日の個性把握テストで見たとおり、まだ自分の力を十分に扱えていないようだった。
それでも、単純に押されているわけではなかった。
相手の動きを見ている。
攻撃を受けながらも、少しずつ対処の仕方を変えていた。
「……よく見てんな、あいつ」
一護が呟く。
隣にいた切島が頷いた。
「爆豪の動き、結構読んでるよな」
「ああ。ただ……」
一護は映像へ目を向けた。
爆豪の攻撃が、建物の一部を破壊する。
もし、そこに人がいたら。
その考えが浮かんだ。
訓練だからこそ、ある程度の破壊は認められているのだろう。
だが、実際の現場ではそうはいかない。
勝つことだけを考えていれば、護るべきものまで壊してしまう。
緑谷も、爆豪も、強い力を持っている。
ただ、その使い方にはまだ危うい部分があった。
やがて、緑谷が大きく腕を振るった。
凄まじい衝撃が建物の内部を駆け抜ける。
一護は目を細めた。
直接相手へぶつけず、上方へ放った。
あの威力なら、直撃すれば大怪我では済まなかっただろう。
そして、その一撃によって生まれた隙を利用し、麗日が模擬兵器を確保した。
ヒーロー側の勝利。
教室から歓声が上がる。
一護は、モニターに映る緑谷を見つめていた。
腕は、酷い状態になっている。
それでも、彼は目的を果たした。
「……無茶苦茶だな」
呟いた声には、呆れと感心が半分ずつ混ざっていた。
緑谷の選択が正しかったのかどうかは、簡単には言えない。
ただ、あの少年が何を優先したのかは分かった気がした。
*
その後も訓練は続き、様々な個性が使われた。
勝敗が決まるたび、オールマイトが戦い方について講評する。
個性の威力。
仲間との連携。
状況判断。
そして、何を目的として行動するのか。
一護は、自分の順番が来るまで、その一つ一つへ目を向けていた。
やがて、名前が呼ばれる。
ヴィラン側は、一護、切島、上鳴の三人。
ヒーロー側は、八百万百と耳郎響香。
今回は人数差を考慮し、ヒーロー側には準備時間と建物の構造に関する情報が多めに与えられていた。
「よし! 絶対守りきってやろうぜ!」
切島が拳を握る。
上鳴も頷いた。
「俺の電気で近づけなくしてやるぜ!」
「いや、下手に撃つなよ」
一護が言う。
「建物ん中だし、俺らまで巻き込まれたら意味ねえだろ」
「分かってるって!」
「……ほんとかよ」
切島が笑った。
三人は建物の内部へ入った。
模擬兵器は、上階の一室に置かれている。
部屋には複数の入口があり、廊下からだけでなく、隣室を経由して近づくこともできる構造だった。
一護は配置を確認した。
「切島、ここ頼めるか?」
「おう。任せろ!」
「上鳴は、無理に動かず周囲を見ててくれ。相手がどこから来るか分かんねえし」
「了解!」
一護は廊下へ出た。
相手は八百万と耳郎。
どちらも、昨日の体力測定で能力を少し見ただけだ。
八百万は物を作り出すことができるらしい。
耳郎は、耳から伸びたプラグのような器官を使って、音を捉える能力を持っているようだった。
単純に正面から来るとは思えない。
一護は廊下の角へ身を寄せ、耳を澄ませた。
しばらくして、遠くから小さな金属音が聞こえた。
何かが転がる音。
続けて、廊下の向こうで煙が広がった。
「……なるほど」
視界を塞いでから近づくつもりらしい。
一護は姿勢を低くした。
煙の向こうから、人影が現れる。
耳郎だった。
床へ耳のプラグを突き立てている。
どうやら、こちらの位置を探っているらしい。
一護は動いた。
相手が顔を上げるより早く距離を詰め、その横へ回り込む。
「うわっ!?」
耳郎が驚いて身体を引いた。
一護は捕縛用のテープを取り出す。
だが、その瞬間、耳郎が床へプラグを押し当てた。
鋭い振動が足元を伝わった。
「……っ!」
一護は咄嗟に跳び退いた。
床を伝う衝撃が、すぐそばを走り抜ける。
その隙に耳郎は距離を取った。
「速すぎでしょ、あんた!」
「お前も面白えことするな!」
一護は笑った。
だが、すぐに気づいた。
耳郎は、逃げる方向を選んでいる。
こちらを建物の奥へ誘導するように。
その意図を悟った一護は、足を止めた。
「……そういうことか」
耳郎が僅かに表情を変えた。
一護は無線へ手を伸ばす。
「切島、そっちに八百万が回ってるかもしれねえ。気をつけろ!」
『おう!』
返事があった直後、別の階から物音が響いた。
どうやら、予想は当たっていたらしい。
耳郎は苦笑した。
「……バレたか」
「危ねえ危ねえ」
一護は肩を回した。
「危うく引っかかるところだった」
耳郎が再び床へプラグを伸ばす。
一護は、その動きを見ていた。
今度は足元を避けて踏み込み、相手が振り返るより早く進路へ回り込む。
耳郎は慌てて距離を取ろうとしたが、一護の方が速かった。
捕縛用のテープが腕へ巻きつく。
「……っ!」
耳郎が顔をしかめた。
一護は無理に引き倒さず、動きを止めたところで手を離した。
「悪いな」
「……いや、普通に速すぎるって」
耳郎は呆れたように息を吐いた。
無線から、切島の声が響く。
『黒崎! こっち来てくれ!』
「どうした!」
『八百万がすげえ色々作ってくる! 上鳴も対応してるけど、ちょっと厄介だ!』
一護は耳郎へ視線を戻した。
「悪い、行くわ」
「……おう。頑張れ、ヴィラン」
耳郎は苦笑していた。
一護は軽く手を上げ、廊下を駆け出した。
*
模擬兵器の置かれた部屋では、切島と八百万が向かい合っていた。
八百万の手には長い棒状の器具があり、床には複数の道具が散らばっている。
上鳴は少し離れた場所で、どう攻撃するべきか迷っているようだった。
「くそっ! 近づくと色々出してくるし、電気撃つと切島まで巻き込みそうだし!」
「だから言っただろ!」
一護が部屋へ飛び込む。
八百万がこちらを向いた。
「黒崎さん!」
一護は周囲を確認した。
八百万は模擬兵器まで、あと数歩の位置にいる。
だが、切島がその前に立って進路を塞いでいた。
「……なるほどな」
一護は八百万の手元へ目を向けた。
次に何を作り出すのか分からない。
それでも、ここで無理に攻撃する必要はなかった。
目的は、模擬兵器を守りきることだ。
「切島、そのまま頼む!」
「おう!」
一護は反対側へ回り、八百万の退路を塞いだ。
八百万が僅かに眉を寄せる。
「……手強いですわね」
「そっちこそ」
一護が答える。
「よく、ここまで来たな」
八百万は小さく笑った。
「まだ、諦めておりませんわ」
そう言って、手元の器具を床へ叩きつけた。
白い煙が広がる。
切島が目を細めた。
「うおっ!?」
一護も一瞬、視界を遮られた。
八百万が動く。
模擬兵器へ向かって踏み込む。
一護は、その足音を追った。
視界が悪くても、向かう先は最初から決まっている。
真正面から妨害するより、目的の物を守る方が確実だった。
一護は模擬兵器の前へ回り込んだ。
伸ばされた手を、寸前で制する。
「……惜しかったな」
八百万が目を見開いた。
その手首へ、捕縛用のテープを巻く。
同時に、終了を知らせる音が響いた。
『訓練終了! ヴィラン側の勝利!』
切島が大きく息を吐いた。
「よっしゃあ!」
上鳴も、その場へへたり込む。
「あー、マジで危なかった!」
一護は八百万から手を離した。
「悪いな。大丈夫か?」
「ええ。お気遣いなく」
八百万は少し悔しそうに笑った。
「あと一歩でしたのに」
「十分危なかったよ。耳郎に引っ張られてなきゃ、こっちも間に合わなかったかもしれねえ」
そう答えると、八百万は少し驚いた顔をした。
それから、表情を和らげる。
「……ありがとうございます」
一護は軽く頷いた。
勝負は、こちらの勝ちだった。
だが、人数が多かった分だけ守る側が有利だったことも確かだ。
耳郎が一護を引きつけ、八百万が別の経路から模擬兵器へ迫る。
あの二人の連携が少しでも噛み合っていれば、結果は違っていたかもしれなかった。
観察室へ戻ると、オールマイトが映像を確認しながら講評を始めた。
切島の防御力。
上鳴の個性を屋内で扱う際の難しさ。
八百万の準備と道具の使い方。
耳郎の索敵能力。
そして、一護の判断について。
「黒崎少年!」
「はい」
「君は非常に冷静だった! ただ速く動くだけでなく、相手の目的を理解していた点は素晴らしい!」
「ありがとうございます」
「しかし!」
オールマイトは人差し指を立てた。
「今回は守る側に人数の余裕があった! もし仲間がいなければ、どのように対応したかも考えておくといい!」
一護は頷いた。
「はい」
それは、もっともな指摘だった。
自分一人であの部屋を守るなら、もっと早い段階で相手の動きを封じる必要があっただろう。
あるいは、最初から模擬兵器のそばを離れない方がよかったのかもしれない。
訓練とはいえ、考えることは多かった。
一護はモニターへ目を向けた。
八百万と耳郎の動きが、もう一度映し出されている。
相手の能力を知り、状況を読み、仲間と連携する。
力を持っているだけでは、十分ではない。
そのことを、改めて実感した。
*
授業が終わると、A組の生徒たちは更衣室へ向かった。
切島は興奮した様子で、今日の戦闘について話している。
「いやー、八百万の個性すげえな! あんなに色々作れるなんて、反則じゃねえか?」
「便利そうではあるな」
一護が答える。
「けど、本人も考えて使ってたし、何も準備しなくていいってわけじゃねえんだろ」
「そっか。確かにな」
上鳴が横から口を挟んだ。
「それにしても、黒崎の動きヤバかったよな。耳郎を捕まえたとき、何が起こったか分かんなかったぜ」
「そりゃ大袈裟だろ」
「いやいや、マジだって!」
切島も頷いた。
「俺もあんな速さで動けたらなあ」
「お前はお前の得意なこと伸ばせばいいだろ」
一護は笑った。
「俺には、あんなふうに身体を硬くすることなんてできねえしな」
「おお、それもそうか!」
切島が笑う。
そんなやり取りをしているうちに、着替えは終わった。
廊下へ出ると、他のクラスの生徒たちも訓練を終えたところらしく、校舎は再び賑やかになっていた。
一護は窓の外を見た。
夕方の空。
日差しは少し傾き、校庭には長い影が伸びている。
今日も、随分と濃い一日だった。
*
「井上さん、さっきの訓練、お疲れさま!」
「拳藤さんもお疲れさま!」
織姫は拳藤と並んで、教室棟へ戻る廊下を歩いていた。
午後のB組では、個性を使った基礎的な連携訓練が行われた。
限られた空間に障害物と救助対象の人形が配置され、二人一組で指定された場所まで運び出すというものだ。
織姫は防御を担当し、拳藤は障害物の撤去を担当した。
「井上さんの盾、すごかったね。訓練用の弾、全部止めてたでしょ」
「えへへ。あれは拳藤さんが先に邪魔なものを動かしてくれたからだよ」
「いやいや、あたしが前に出たときも、ちゃんと盾の位置を変えてくれたじゃん。あれ、助かったよ」
拳藤は自分の右手を持ち上げた。
訓練中、その手は一瞬で巨大な拳へ変わった。
初めて目にしたときは、織姫も思わず歓声を上げてしまった。
「拳藤さんの個性もすごかったよ! 大きくなった手であんなに重いものまで動かせるんだね!」
「まあね。でも、狭い場所だと取り回しが難しくてさ」
拳藤は苦笑した。
「さっきも、最後の角を曲がるとき、腕が引っかかりそうになっちゃったし」
「あ、あそこ!」
織姫は思い出して手を叩いた。
「あのとき、私も盾を消すのがちょっと遅くなっちゃって。拳藤さんの通り道を塞ぎそうになったんだよね」
「大丈夫だったって。あたしが先に進むって言えばよかったんだから」
「じゃあ、今度は合図を決めておく?」
「それ、いいね!」
拳藤が笑った。
「じゃあ次は、あたしが前に出るときに声かける。井上さんは、それに合わせて盾を動かしてくれる?」
「うん! 任せて!」
織姫は力強く頷いた。
前世でも、仲間と協力して戦うことはあった。
けれど、初めて組む相手と、その場で役割を考えながら動くのは、また違った面白さがある。
拳藤の動きを知れば、自分の盾を置く場所も変えられる。
自分が何をできるかを伝えれば、拳藤も動きやすくなる。
一人で考えていたときには思いつかなかった使い方が、こうして話しているうちに見えてくる。
織姫は今日の訓練を、素直に楽しいと思っていた。
二人は昇降口へ向かって歩いた。
途中、A組の生徒たちが遠くの廊下を通り過ぎていくのが見えた。
その中に、オレンジ色の髪を見つける。
織姫は僅かに足を緩めた。
黒崎一護。
切島や上鳴と笑いながら話している。
昨日よりも、ずっと自然な表情だった。
その姿を見て、織姫は少しだけ安心した。
この世界にも、彼を大切に思う人たちがいる。
彼自身も、ここでちゃんと笑っている。
たとえ前世の一護と同じ魂を持っていたとしても、今の彼には今の人生がある。
それは、自分も同じだった。
「井上さん?」
拳藤が足を止めた。
「あ、ごめんね」
「黒崎くん?」
拳藤が廊下の向こうへ目を向けた。
「うん」
織姫は小さく頷いた。
「今日、お昼一緒に食べられてよかったね」
「うん!」
自然と笑みが浮かんだ。
食堂で交わした会話が、頭に残っている。
変わったおにぎりの話。
ヒーロー科へ入った理由。
どれも、特別な内容ではなかった。
けれど、話している間は楽しかった。
前世の一護を思い出したからだけではない。
今日話した相手が、きちんと話を聞いてくれる人だったから。
織姫は、そう思った。
*
帰りの電車で、一護はスマートフォンを手に取り、有沢たつきとのメッセージ画面を開いた。
しばらく迷ったあと、短い文章を打ち込む。
『なあ、井上ってお前の中学の友達だったんだな』
送信すると、少しして返事が届いた。
『そうだけど。会ったの?』
『ああ。昨日たまたまな』
『そっか! 織姫も雄英受けるって言ってたもんね』
一護は画面を見つめた。
それから、もう一通届く。
『変なもの食べさせられなかった?』
一護は思わず笑った。
『食わされかけた』
『やっぱり!』
続けて、たつきからメッセージが届く。
『でも、織姫は本当にいい子だからね』
『ああ』
『困ってる人を放っておけないところがあるから、たまに心配になるんだよね』
一護の指が止まった。
表示された言葉を、もう一度読む。
困っている人を放っておけない。
自分のことより、誰かを優先してしまう。
その説明は、あまりにもよく知っている少女に重なった。
けれど、それだけなら。
同じ顔と名前を持つ人間が、似た性格であっても不思議ではない。
『そっか。ありがとな』
返事を送る。
すぐに、たつきから別のメッセージが届いた。
『珍しいね、あんたがそんなこと聞くなんて』
そのあと、もう一通。
『織姫、いい子だから仲良くしてあげてよ』
一護は画面を見つめた。
それから、小さく笑った。
『分かってるよ』
送信する。
スマートフォンをしまい、窓の外へ目を向けた。
夕方の街並みが、ゆっくりと流れていく。
昨日までなら、井上織姫という名前を聞いても、遠い記憶の中にいる少女を思い出すだけだった。
それが、今は違う。
同じ学校に、同じ名前の少女がいる。
今日、一緒に昼飯を食った。
変な具の入ったおにぎりを勧められて、断った。
そんな、何でもないことがあった。
それだけのはずなのに、妙に心に残っていた。
*
自宅へ戻った織姫は、制服を着替えてから台所へ向かった。
夕食の準備を始めながら、冷蔵庫の中身を確認する。
卵。
野菜。
チーズ。
それから、今朝使ったいちごジャム。
織姫は小さく笑った。
結局、黒崎くんはおにぎりを食べてくれなかった。
以前の人生でも、似たようなことがあった気がする。
自分ではおいしいと思っているのに、周囲の人たちにはなかなか理解してもらえない。
黒崎くんも、よく困ったような顔をしていた。
今日の少年も、同じような顔をしていた。
思い出して、織姫は少しだけ頬を緩めた。
そのとき、昼間の言葉が蘇った。
――焼いたサバをパンに挟んだやつでも。
織姫は冷蔵庫の扉を閉め、しばらくその前に立っていた。
どうして、あの組み合わせだったのだろう。
別に、珍しすぎる料理というわけではないのかもしれない。
ただ、以前の人生で食べたものを、今の黒崎くんが何気なく口にした。
それが、どうしても引っかかっていた。
もしかしたら、本当に偶然なのかもしれない。
でも、もし。
そこまで考えたところで、織姫は小さく息を吐いた。
好きだった人を、思い出してしまった。
ずっと、大切にしてきた気持ちだった。
この世界へ生まれ変わってからも、それが消えたことはない。
新しい家族ができて、友達ができて、学校へ通うようになった。
楽しいことも、嬉しいことも、たくさんあった。
それでも、あの人を好きだった気持ちは、自分の中に残っていた。
忘れようとしたことがなかったわけではない。
もう会えないのだから、いつまでも想っていても仕方がない。
そう考えたこともある。
けれど、無理に忘れようとするほど、かえって思い出してしまう。
だから、いつからか考え方を変えた。
好きだったことまで、なかったことにする必要はない。
その気持ちを抱えたままでも、今の人生を大切に生きていけばいい。
織姫は、そう思っていた。
それなのに、昨日、あの少年に会ってしまった。
顔も、声も、名前も、前世の彼と同じだった。
今日、一緒に食事をして、その懐かしさはさらに強くなった。
でも、もし別人だったら。
織姫は、手にしていた卵をそっと置いた。
自分が好きだったのは、前の世界の黒崎一護だ。
目の前の少年が別人なら、その人に同じ気持ちを向けるのは違う。
顔が同じだから。
声が同じだから。
そんな理由で、誰かを好きになったつもりになるのは嫌だった。
ただ、今日話してみて思ったことがある。
今の黒崎くんも、優しい人だった。
困っている人を助けたいと話すときの顔は、真剣だった。
自分の力を自慢することもなく、切島くんたちとも楽しそうに話していた。
そういうところは、素敵だと思った。
それは、以前の一護と同じところを見つけたからなのだろうか。
それとも、今日会った少年自身を見て、そう感じたのだろうか。
織姫には、まだ分からなかった。
けれど、無理に答えを出す必要もない気がした。
まだ、会って二日目なのだから。
「……よしっ」
織姫は小さく頷いた。
まずは、もう少し話してみよう。
今の黒崎くんが、どんな人なのか。
前の世界とは違う、この場所で。
何を大切にして、どんなことを考えているのか。
それを知りたいと思った。
織姫は再び料理へ取りかかった。
鍋に火をかけ、野菜を切り始める。
いつものように、少し変わった組み合わせを思いついては、一人で楽しそうに笑っていた。
けれど、ふと手を止めたとき。
胸の奥に、昨日と同じ不安が浮かんだ。
もし、あの少年が本当に前世の黒崎一護だったら。
どうして、彼までここにいるのだろう。
あのとき、自分は世界を護れなかったのだろうか。
その疑問だけは、どうしても消えてくれなかった。
*
夜。
一護は自室で、今日の戦闘訓練の記録を見直していた。
雄英から配布された端末には、訓練中の映像が保存されている。
八百万と耳郎の連携。
切島の防御。
上鳴が電気を使うタイミングを迷っていた場面。
そして、自分が耳郎を捕縛したときの動き。
一護は映像を止め、少し考えた。
もし、相手が別の個性を持っていたら。
もし、仲間がいなかったら。
もし、模擬兵器ではなく、本当に護るべき人間がいたら。
同じように動けただろうか。
以前の人生では、力でどうにかしてきた場面も多かった。
だが、今の自分はヒーロー科の生徒だ。
相手を倒すことだけでなく、周囲の安全まで考えなければならない。
一護は端末を閉じた。
そして、机の上に置いたスマートフォンへ目を向ける。
昼間の食堂が、ふと頭に浮かんだ。
変わったおにぎり。
怪我を治せるという個性。
そして、井上織姫。
たつきから聞いた話まで、以前の彼女によく似ていた。
「……どこまで同じなんだよ」
小さく呟いた。
だが、その声には、昨日ほどの戸惑いはなかった。
少なくとも、今日の昼間は楽しかった。
それだけは確かだった。
一護は椅子から立ち上がった。
明日も学校だ。
また会うことがあれば、普通に話せばいい。
そう思いながら、部屋の明かりを消そうとした。
そのとき、昼間の織姫の言葉が頭をよぎった。
――守るだけじゃ、どうにもならないこともあると思うんだ。
一護は手を止めた。
あの言葉は、何となく出てきたものには聞こえなかった。
何かを経験して、そこから得た考えのように感じられた。
以前の井上も、何度も戦場へ立った。
誰かを守るために。
傷ついた仲間を助けるために。
それでも、彼女自身が悔しい思いをしたこともあったはずだ。
もし、今の井上にも同じ記憶があるのなら。
そう考えたところで、一護は小さく息を吐いた。
自分がそう見たいだけなのかもしれない。
彼女を知っていると思いたいから、何気ない言葉に意味を見つけようとしているのではないか。
チャドも石田も、前世と同じ顔と名前を持っていた。
能力だって、昔のものを思わせる。
それでも、二人は何も覚えていなかった。
今の井上も、そうなのかもしれない。
だが、昨日の廊下で目が合った瞬間の表情だけは、どうしても気になっていた。
まるで、こちらと同じように驚いていた。
あの顔には、何かを確かめたがっているような、そんな迷いが見えた気がした。
一護は椅子の背に手を置いた。
あの最後の光景が蘇る。
伸ばした手は届かず、織姫は光の中へ消えていった。
もし、今日会った少女が本当に井上だったなら。
あのときのことを、覚えているのだろうか。
自分が知らない彼女の時間が、そこにあるのだろうか。
一護はしばらく黙っていた。
確かめる方法がないわけではない。
ただ、目の前の少女に前世の記憶がないのだとしたら、いきなりそんな話をするのは違う気がした。
それに、もし違っていたら。
もう一度、あの別れを思い知らされることになる。
一護は小さく息を吐いた。
「……明日、か」
窓の外には、静かな夜の街が広がっていた。
明日もまた、雄英へ行く。
同じ校舎のどこかに、井上織姫という少女がいる。
昼間、笑いながら変わったおにぎりを勧めてきた少女が。
一護は部屋の明かりを消した。