雄英高校の正門前が、妙に騒がしかった。
「……何だ、ありゃ」
登校してきた一護は、思わず足を止めた。
校門の周囲にはカメラを構えた報道陣が集まり、警備員に向かって盛んに質問を投げかけている。
その隙間から、雄英の制服を着た生徒たちが迷惑そうに通り抜けていた。
「オールマイトが雄英で教鞭を執っているというのは本当ですか!」
「授業の様子について、お話を!」
なるほど。
昨日の授業を思い出し、一護は納得した。
平和の象徴が教師になった。
世間にとっては、それだけ大きな出来事なのだろう。
「……朝っぱらから元気だな」
呟きながら歩き出したところで、横から声が飛んできた。
「黒崎くん!」
振り返ると、飯田天哉が大股でこちらへ向かってきていた。
「おう。飯田か」
「君も今来たところか!」
「ああ。すげえ人だな」
「まったくだ! 取材したい気持ちは分かるが、生徒の通行を妨げるのは感心しない!」
飯田は腕を直角に動かしながら、門の方を見た。
その真面目すぎる反応に、一護は少し笑った。
「お前、ああいうのに注意しに行ったりすんなよ」
「むっ。何故だね?」
「余計に囲まれるぞ」
飯田は一瞬、口を閉じた。
それから、神妙な顔で頷く。
「……確かに、その可能性はあるな」
「だろ」
「では速やかに登校しよう! 遅刻は厳禁だ!」
「まだ余裕あるだろ」
「余裕があるからこそ、早めに行動するべきなのだ!」
一護は肩をすくめた。
昨日までは、やたらと堅苦しい奴だと思っていた。
今もその印象はあまり変わらない。
ただ、こうして話してみると、悪い奴ではなさそうだった。
*
「学級委員長を決める」
朝のホームルーム。
相澤消太がそう告げた途端、教室が沸いた。
「はい! 俺やりたい!」
「私も!」
「委員長って、何か響きいいよな!」
あちこちから手が挙がる。
一護は頬杖をついたまま、その光景を眺めていた。
意外だった。
面倒な役職を進んで引き受けたがる奴が、こんなにいるとは。
「黒崎! お前は立候補しねえのか?」
隣から切島が尋ねてきた。
「しねえよ」
「即答か!」
「向いてねえしな」
「でも、昨日の訓練じゃ結構仕切ってたじゃん」
「あれは必要だったからだろ。毎日クラスまとめんのとは話が違う」
そう答えると、切島は納得したように頷いた。
「確かに、そういうのは別か」
その間にも、教室は騒がしくなっていた。
誰が委員長にふさわしいか、という話よりも、自分がやりたいという声の方が目立つ。
そんな中、飯田が立ち上がった。
「諸君! ここは公平な投票によって決めるべきだ!」
よく通る声が、教室に響く。
「この役職は、クラス全体の信任を得た者が務めるべきだと考える!」
勢いのある身振りに、何人かが笑った。
だが、提案そのものに異論はなかった。
結局、投票で決めることになる。
一護は渡された紙へ目を落とした。
誰に入れるか。
昨日の今日で、クラス全員のことを知っているわけではない。
だが、朝の校門前でのやり取りが頭をよぎった。
少々堅苦しいところはある。
それでも、人が困っていると放っておけない性分らしい。
そういう奴が一人くらい、クラスの先頭にいてもいいだろう。
一護は名前を書き、紙を折った。
やがて、集計が始まる。
「委員長、緑谷出久」
「えええっ!?」
ひっくり返ったような声を上げたのは、当の緑谷だった。
教室中の視線が集まる。
緑谷は机の上で両手をばたつかせていた。
「ぼ、僕!? 何で!?」
「最多得票だからだろ」
一護が言うと、緑谷はさらに慌てた。
「で、でも、僕なんかが……!」
「投票で決まったんだし、そんな気負わなくてもいいんじゃねえの」
「そ、そうかな……」
緑谷は困ったように笑った。
副委員長には八百万百が選ばれた。
こちらは、本人も落ち着いた様子で結果を受け止めている。
一方、飯田は悔しそうにしながらも、すぐに姿勢を正した。
「緑谷くん! 私は君を支持する!」
「い、飯田くん……!」
「選出された以上、堂々と務めてほしい!」
その言葉に、緑谷は少しだけ表情を和らげた。
一護は二人のやり取りを眺めながら、机に肘をついた。
何だかんだで、うまくやっていけそうなクラスだと思った。
*
午前の授業が終わると、教室は再び賑やかになった。
「黒崎くん」
鞄から財布を取り出していた一護へ、声がかかった。
顔を上げると、緑谷が立っている。
「ん? どうした」
「あの、昨日の戦闘訓練のことで、ちょっと聞きたいことがあって……」
緑谷は手帳を抱えていた。
開かれたページには細かな文字と図がびっしり並んでいる。
一護は思わず目を見張った。
「……すげえな。全部書いたのか?」
「う、うん。気になったところだけだけど」
「これで気になったところだけかよ」
覗き込んだ切島が笑った。
緑谷は恥ずかしそうに手帳を引き寄せる。
「黒崎くんって、どうして耳郎さんの誘導に気づけたの?」
「ああ、あれか」
一護は少し考えた。
「逃げる方向が妙だったんだよ。俺から距離を取るなら、もっと近い曲がり角もあったのに、わざわざ奥へ下がってたからな」
「そっか……移動方向そのものに目的があったんだ」
緑谷はすぐに手帳へ何かを書き込んだ。
「でも、そういうのって、すぐに気づけるものなの?」
「慣れもあるだろうな。相手が何したいのか考えながら動く癖がついてるだけだ」
「癖……」
「お前だって、爆豪の動きをよく見てただろ」
緑谷の鉛筆が止まった。
「え?」
「昨日の訓練。あいつの攻撃、結構読んでたじゃねえか」
「あ、あれは……昔から知ってる相手だから」
「それでも、あの状況で考えて動けるのはすげえと思うぞ」
緑谷は目を丸くした。
そのあと、少し照れたように笑った。
「あ、ありがとう」
「ただ、腕は大事にしろよ」
一護は、緑谷の腕へ視線を向けた。
「昨日みてえなの、何回もやってたら身がもたねえだろ」
「……うん。分かってる」
緑谷は真剣な顔で頷いた。
どうやら、本人にも思うところはあるらしい。
「デクくん!」
そのとき、廊下から麗日お茶子が顔を出した。
「お昼行かへん? 飯田くんも待っとるよ!」
「あっ、うん!」
緑谷は手帳を閉じた。
「黒崎くんたちも、一緒にどう?」
「お、いいじゃん!」
切島が即座に答える。
上鳴も後ろから顔を出した。
「俺も行く!」
「お前、いつからそこにいたんだよ」
「今来たとこ!」
一護は笑いながら立ち上がった。
こうして、昼食へ向かう人数は自然と増えていった。
*
食堂へ入ると、緑谷たちは奥のテーブルを選んだ。
椅子を引いて腰を下ろしたところで、近くにいた耳郎響香がこちらを見つけた。
「あ、昨日のヴィランチーム」
隣には八百万百もいる。
上鳴が顔を上げた。
「おっ、耳郎じゃん!」
「何、その反応。昨日は大変だったんだからね」
耳郎は呆れたように笑った。
一護が軽く手を上げる。
「悪かったな。怪我とかしてねえか?」
「してないって。あんた、ちゃんと加減してくれてたし」
「ならよかった」
「でも、次やったらそう簡単には捕まらないから」
「おう。楽しみにしとく」
あっさり答えた一護を見て、耳郎は少し意外そうな顔をした。
それから、口元を緩める。
「……余裕だね」
「そういうわけじゃねえよ」
八百万も会釈した。
「昨日は勉強になりましたわ。黒崎さん」
「俺もだよ。お前の個性、思ってた以上に厄介だったしな」
「まあ」
八百万は驚いたように瞬いた。
「そう言っていただけると、少し救われますわ」
「実際、あとちょっとだったろ」
「……ええ。次は負けませんわ」
その表情に、昨日の悔しさが少し残っている。
一護は笑った。
「そりゃ、こっちも負けるつもりはねえけどな」
「おお、いいねえ!」
切島が楽しそうに声を上げた。
そんなやり取りをしているうちに、耳郎と八百万も同じテーブルにつくことになった。
飯田は緑谷の隣に座り、先ほどの委員長選出について何やら話している。
麗日はその様子を笑いながら眺めていた。
騒がしいが、不思議と居心地は悪くない。
一護は食事へ手を伸ばした。
そのときだった。
校内に、甲高い警報音が響いた。
*
『警戒レベル三。校内に侵入者あり。生徒は速やかに避難してください』
食堂の空気が、一変した。
「えっ、侵入者!?」
「誰か入ってきたの!?」
椅子を引く音が重なり、生徒たちが一斉に立ち上がる。
誰かが非常口へ走り出すと、周囲の生徒もそれに続いた。
出口へ向かう流れが急激に太くなる。
「おい、待て! 押すな!」
一護が声を上げた。
しかし、警報と人々の声にかき消される。
前方で一人の生徒が足をもつれさせた。
その背中へ、後ろから別の生徒がぶつかりそうになる。
一護はすぐに手を伸ばした。
転びかけた生徒の腕を掴み、もう片方の手で後続の肩を押しとどめる。
「落ち着け! 前が詰まってんだ!」
「ご、ごめんなさい!」
「いいから足元見ろ。走んな!」
二人が体勢を立て直したのを確認して、一護は手を離した。
だが、出口付近の混雑は増すばかりだった。
無理に押し返せば、かえって危ない。
人の流れを止めるには、まず原因を確かめる必要がある。
一護は窓の方へ目を向けた。
校門のあたりに、朝と同じような報道陣が見える。
「……マスコミ?」
どういう経緯かは分からない。
だが、少なくとも窓から見える範囲で暴れている人間はいなかった。
「黒崎くん!」
飯田が人の波をかき分けて近づいてきた。
「君も見えたか!?」
「ああ。今のところ、外にいるのは報道陣みてえだな」
「私もそう思う! だが、この状況では周囲へ伝えられない!」
飯田は非常口付近を見上げた。
その視線を追うと、頭上に大きな非常口の表示がある。
人々の目が集まりやすい場所だ。
「……あそこか」
一護が呟いた。
飯田は頷くと、近くの麗日へ向き直った。
「麗日くん! 頼みがある!」
「えっ、何!?」
「君の個性で、私の身体を浮かせてほしい!」
麗日は一瞬驚いたが、すぐに意図を察したらしい。
「分かった!」
一護は出口の方へ目を向けた。
いい判断だ。
このまま人波の中から叫んでも、声が届く相手は限られる。
目立つ場所へ出れば、少なくとも何人かは気づくだろう。
麗日の個性で身体が浮いた飯田は、そのまま脚部のエンジンを使って勢いよく移動した。
少々派手な音とともに、非常口の上へ辿り着く。
そして。
「みんな! 大丈夫だ!」
大声が響いた。
周囲の生徒たちが顔を上げる。
「確認できる侵入者は報道陣だ! 慌てずに行動してほしい!」
飯田は身振りを交えながら訴えた。
その声が届くにつれ、人の流れが少しずつ緩み始める。
誰かが足を止め、後ろにいる生徒へ事情を伝える。
やがて、押し合っていた人々の間にも落ち着きが戻ってきた。
「……やるじゃねえか」
一護は小さく笑った。
朝、校門前で会ったときは少々堅苦しいと思った。
だが、今の飯田は、自分に何ができるかを考えて動いていた。
周囲の誰よりも目立つ場所に出て、混乱を収める。
そのために麗日の力を借りることも、ためらわなかった。
いいヒーローになりそうだ。
そう思った。
*
警報騒ぎが収まり、生徒たちは順番に教室へ戻っていった。
A組でも、先ほどの出来事が話題になっていた。
「いやあ、飯田すげえな!」
切島が笑う。
「マジで助かったぜ!」
「でもさ、非常口の看板と並んでたの、ちょっと面白くなかった?」
上鳴が言うと、何人かが吹き出した。
「上鳴くん! 私は真剣だったのだぞ!」
「分かってるって!」
一護も口元を緩めた。
飯田は真面目な顔で反論していたが、その耳は少し赤くなっていた。
そこへ、緑谷が立ち上がった。
「あの、みんなに言いたいことがあるんだけど……」
教室が静かになる。
緑谷は一度息を吸った。
「委員長のことなんだけど、僕より飯田くんの方が向いてると思うんだ」
「緑谷くん!?」
飯田が驚いた声を上げた。
「だって、さっきの混乱で、飯田くんはちゃんとみんなを落ち着かせてくれたでしょ。僕には、あんなふうにできなかったから」
緑谷は少し照れたように笑う。
「だから、飯田くんにお願いしたい」
飯田は言葉を失ったようだった。
一護は二人を見ていた。
自分に向いていないことを認めるのも、別の誰かを推薦するのも、簡単なことではない。
緑谷は緑谷で、よく周囲を見ている。
「俺は賛成だな」
一護が言うと、切島も頷いた。
「おう! 俺も!」
「異議なーし!」
上鳴が手を上げる。
何人かから賛成の声が上がり、飯田はますます困惑したような顔になった。
「し、しかし……!」
「やってみりゃいいじゃねえか」
一護は肩をすくめた。
「さっきは実際、お前のおかげで助かったんだし」
「黒崎くん……」
「ただし、何でも一人で背負うなよ。委員長だからって、全部やる必要はねえだろ」
飯田は一護を見つめた。
それから、姿勢を正す。
「……分かった。引き受けよう!」
その声は、さっきまでより少し落ち着いていた。
「皆の期待に応えられるよう、精一杯務めさせてもらう!」
教室に拍手が起こる。
八百万も、隣で微笑んでいた。
「よろしくお願いいたしますわ、飯田さん」
「こちらこそ! 副委員長として、力を貸してほしい!」
「ええ、もちろんです」
一護はそのやり取りを眺めながら、椅子の背にもたれた。
まだ入学して三日目。
それでも、クラスの雰囲気は少しずつ形になってきている。
自分もその中にいることが、何だか不思議だった。
*
放課後。
一護は教室に残り、配布された資料を鞄へしまっていた。
昼の騒ぎの後始末もあって、今日は普段より少し下校が遅くなっている。
窓際では、常闇踏陰が自分の机を整理していた。
落ち着いた物腰と、鳥のような頭部。
入学初日から印象に残っていたが、まともに話したことはまだなかった。
常闇が机の上へ置いた冊子を取ろうとした、そのとき。
重ねてあった資料が床へ滑り落ちた。
「あっ」
一護が手を伸ばすより先に、黒いものが動いた。
常闇の身体から伸びた影が、床へ落ちかけた資料を受け止めたのだ。
「おっと、危ない!」
影が声を上げた。
一護は目を瞬かせる。
「……喋るのか、そいつ」
常闇が顔を向けた。
「ああ。我が個性、黒影だ」
「黒影?」
「ダークシャドウとも呼ぶ。見ての通り、ある程度は自らの意思を持っている」
黒い影が、ひょいと顔を上げた。
「よろしくな!」
「お、おう」
一護は思わず返事をした。
影が得意げに笑う。
常闇はその様子を見て、静かに資料を受け取った。
「……便利だな」
「便利って何だよ!」
黒影が抗議する。
一護は苦笑した。
「悪い悪い」
そう答えながら、改めて黒影を見た。
常闇の身体から伸びた、黒い存在。
独立した意思を持ちながら、その力は常闇自身の個性として扱われている。
身体と繋がっているようにも見えるし、離れて動いているようにも見える。
「なあ、常闇」
「何だ?」
「そいつが出てる間、お前の身体はどうなってんだ?」
常闇は僅かに首を傾げた。
「どう、とは?」
「いや……身体から何かが抜けていくとか、そういう感覚はねえのかと思って」
「ふむ」
常闇は少し考えた。
「そういう感覚とは違うな。黒影は我が内に宿る個性だ。外へ現れていても、俺自身が抜け殻になるわけではない」
「なるほどな……」
「何か気になるのか?」
「ちょっとな」
一護は黒影へ目を向けた。
影は常闇の肩の辺りまで戻り、何やら上機嫌に揺れている。
あくまで個性だ。
魂魄や霊力とは、成り立ちが違うのだろう。
それでも、一護には妙に引っかかるものがあった。
自分の内にある力。
それを、身体から離れることなく外へ現す。
以前の自分は、死神になるとき、必ず肉体から魂魄を分離していた。
それが当たり前だった。
だが、本当にそうする必要があるのだろうか。
「……黒崎?」
常闇に呼ばれ、一護は顔を上げた。
「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」
「そうか」
常闇はそれ以上追及しなかった。
代わりに、黒影が一護の方へ身を乗り出す。
「お前の個性も速いんだろ? 昨日の訓練、見たぞ!」
「そうなのか」
「ああ! 耳郎を捕まえるところ、なかなか面白かったぜ!」
黒影が楽しそうに笑う。
常闇は少し呆れたように目を細めた。
「……騒がしいな」
「いいだろ、別に!」
一護は二人のやり取りを見て、思わず笑った。
「お前ら、仲いいんだな」
「……そう見えるか?」
「少なくとも、退屈はしなさそうだ」
黒影が嬉しそうに声を上げた。
常闇は小さく息を吐いたが、否定はしなかった。
*
教室を出たところで、一護は切島と出くわした。
「お、黒崎。まだ残ってたのか」
「ああ。ちょっと常闇と話してた」
「常闇? あいつの個性、面白えよな!」
「そうだな」
切島は一護の隣へ並んだ。
「なあ、昨日の訓練のことでちょっと思ったんだけどさ」
「ん?」
「俺の硬化って、防御はできるけど、やっぱ相手に近づかねえとどうにもならないじゃん」
「まあ、そうだな」
「だから、もっと動きながら使えるようにしたいんだよな。昨日も八百万に色々作られて、結構苦戦したし」
切島は自分の腕を見下ろした。
次の瞬間、肌の表面が硬く変化する。
角張った輪郭が浮かび、皮膚が岩のような質感になった。
「これ、別に何かを着けてるわけじゃねえんだよな。身体そのものが変わるっていうか」
一護はその腕を見た。
「……確かにな」
「だから、まだまだ鍛えられると思うんだ」
「いいんじゃねえか」
一護は頷いた。
「昨日だって、お前があそこに立ってなきゃ、八百万はもっと早く模擬兵器まで行ってただろ」
「おお、マジか!」
「俺はあんなふうに身体を硬くできねえしな。普通に羨ましいぞ」
「へへっ、ありがとな!」
切島が笑った。
一護も笑い返したが、頭の片隅では別のことを考えていた。
身体そのものを変える個性。
身体の内側から別の存在を現す個性。
雄英へ来てから、これまで自分が知っていた力とはまるで違うものを、いくつも目にしている。
前世でも、様々な能力を持つ相手と戦ってきた。
けれど、あの頃の自分は、目の前の敵を倒す方法を考えることがほとんどだった。
今は違う。
相手の力を見て、自分の力の使い方を考える。
そのこと自体が、少し新鮮だった。
*
昇降口へ向かう途中、廊下の向こうに見覚えのある姿を見つけた。
拳藤一佳と、井上織姫だった。
二人は何やら楽しそうに話している。
織姫が先にこちらへ気づいた。
「あ、黒崎くん!」
「おう、井上」
切島も手を上げた。
「よっ、二人とも!」
「切島くんも、こんにちは!」
拳藤が笑う。
「A組も今帰り?」
「ああ。今日はちょっと遅くなったな」
「こっちも。昼の警報のこと、少し話があったから」
織姫が頷いた。
「すごかったね。急にみんな走り出しちゃって」
「お前ら、平気だったか?」
一護が尋ねると、拳藤が肩をすくめた。
「うん。人は多かったけど、怪我した子はいなかったと思う」
「よかった」
織姫がほっとしたように笑った。
その表情に、一護も小さく頷いた。
「そっちは?」
織姫が尋ねる。
「大丈夫だった?」
「ああ。飯田が上手いことやってくれたしな」
「あっ! 出口の上にいた人?」
「そうそう!」
切島が笑った。
「あいつ、マジで目立ってたよな!」
拳藤も思い出したように頷く。
「ちゃんと状況説明してくれて、助かったよ」
「後で言っとくわ。喜ぶと思うぞ」
一護が答えると、織姫は嬉しそうに笑った。
「……黒崎くんも、怪我してなくてよかった」
「そりゃこっちの台詞だ」
ごく自然に返した言葉だった。
だが、織姫は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……うん」
小さく頷いたあと、笑みを浮かべる。
切島はそんな二人のやり取りを特に気にした様子もなく、拳藤と今日の授業の話を始めていた。
一護は織姫へ視線を戻す。
「そういや、井上。昨日言ってた個性の訓練、どうだったんだ?」
「楽しかったよ! 拳藤さんと一緒にやったの」
「へえ」
「二人で救助対象を運ぶ訓練だったんだけどね。次はもっと上手くできそうなんだ」
織姫は楽しそうに話した。
その声を聞きながら、一護は少し笑った。
昨日の昼休みに見た真剣な顔とは違う。
今は、ただ新しいことを覚えるのが嬉しいという顔だった。
「そりゃよかったな」
「うん!」
織姫は大きく頷いた。
やがて、下校する生徒たちの流れが増えてきた。
「じゃ、俺ら行くわ」
切島が手を上げる。
「またね!」
拳藤も手を振った。
一護は織姫へ顔を向ける。
「じゃあな、井上」
「うん。またね、黒崎くん」
その笑顔を見て、一護も軽く手を上げた。
*
夜。
一護は自室の床に座り、目を閉じていた。
学校から帰って夕食を済ませ、家族がそれぞれの時間を過ごし始めた頃。
ようやく、一人で集中できる時間になった。
呼吸を整える。
自分の内側へ意識を向ける。
霊力の流れを確かめるのは、今では難しいことではない。
転生して間もない頃は、まともに身体を動かすことさえできなかった。
その頃から少しずつ、できることを増やしてきた。
幼い身体では無理なことも多かった。
力を出しすぎれば、身体の方が耐えられない。
だから、最初に覚え直したのは、力を大きくすることではなく、抑えることだった。
必要なところへ。
必要な量だけ。
霊力を流す。
今では、以前よりずっと細かな調整ができる。
ただ、ひとつだけ、ずっと気になっていたことがあった。
死神の力だ。
一護は目を開いた。
自分の内側に、その力が存在することは分かっている。
斬月も、消えたわけではない。
精神世界へ意識を向ければ、今でもその気配を感じられる。
だが、それを生身のまま使おうとすると、どうにも噛み合わなかった。
以前なら、魂魄を肉体から抜けばよかった。
けれど、今回はそうしたくない。
肉体を置き去りにするのは不便だし、何より、誰かを護ろうとして自分の身体を無防備にしていては本末転倒だ。
これまでは、別の方法を探していた。
そして今日。
常闇の黒影を見て、ひとつ思いついたことがある。
――外に出す必要があるのか。
一護は自分の右腕を見た。
完現術。
物質に宿る魂へ干渉し、その力を引き出す技術。
幼い頃から使い続けてきた力だ。
床を蹴るとき。
物に触れるとき。
周囲の物質へ働きかける感覚は、すっかり身体に馴染んでいる。
だが、それを自分自身へ向けて使うことは、あまり考えてこなかった。
自分の身体も、物質であることに変わりはない。
そして、自分の魂は、その身体の内側にある。
ならば。
「……いけるか?」
一護は右手を握った。
まずは、完現術で自身の肉体へ働きかける。
普段、周囲の物質に向けている感覚を、今度は自分の腕へ向けた。
奇妙な感覚だった。
外側へ伸ばしていた意識が、自分の内側へ折り返してくる。
それだけなら、できる。
問題はここからだ。
一護はゆっくりと霊力を動かした。
死神の力を、魂魄ごと外へ押し出すのではない。
今ある肉体へ重ねる。
完現術を使い、肉体そのものを受け皿にする。
足りない部分は、滅却師の霊子操作で補う。
いくつもの異なる力を、同時に制御する必要があった。
「……っ」
右腕に、微かな圧迫感が生まれた。
霊力が一ヶ所へ集まり、形を取ろうとする。
だが、次の瞬間には散ってしまった。
一護は息を吐いた。
「やっぱ、そう簡単にはいかねえか」
それでも、手応えはあった。
これまでとは違う。
何も起こらなかったわけではない。
もう一度、意識を集中させる。
今度は少し出力を落とした。
無理に形を作ろうとせず、肉体と霊力の境目を確かめる。
しばらくして。
右腕に、何かが触れた。
「……!」
一護は目を開いた。
肘の辺りから手首にかけて、黒い布が現れていた。
袖だった。
見覚えのある、深い黒。
手首を動かすと、生地に小さな皺が寄る。
腕を覆う布の重みさえ、かすかに感じられた。
「……死覇装」
思わず、その名が口をついた。
かつて自分が身にまとっていたもの。
完現術を修得した頃に使っていた装甲とは違う。
霊力が黒く見えているだけでもない。
間違いなく、死神としての自分に属する衣だった。
一護は左手を伸ばし、袖に触れようとした。
だが、その指が届く直前。
黒い布の輪郭が揺らいだ。
袖口から細かな霊子がほどけ、次の瞬間には腕を覆っていた布が消えてしまう。
「……あー、くそ」
一護は思わず声を漏らした。
もう少しだった。
布の感触も、形も、確かにあった。
しかし、維持するための霊力が安定していない。
死神の力を肉体へ重ねるところまではできても、外側へ定着させようとすると、霊子が散ってしまうらしい。
一護は何もない右腕を見つめた。
それから、小さく笑った。
「……なるほどな」
完全な成功にはほど遠い。
死覇装の袖ひとつ、まともに維持できなかった。
斬月を顕現させるには、まだまだ先がありそうだ。
それでも。
今のは、確かに死覇装だった。
自分の魂にあるものを、生身の肉体へ重ね、現実に形として現した。
これまで、何度試してもできなかったことだ。
方向は間違っていない。
少なくとも、それだけは分かった。
死神の力を、生身のまま使う。
以前なら、考えもしなかった方法だった。
常闇の黒影は、一護の魂魄とはまったく違う仕組みで動いている。
切島の硬化も、自分の力とは別物だ。
だが、違うからこそ気づけたことがある。
今までのやり方に、こだわる必要はない。
使えるものは使えばいい。
前世の知識も。
今世で身につけた技術も。
この学校で知った、新しい考え方も。
一護はもう一度右手を握った。
「……よし」
今夜のところは、ここまでにしておこう。
焦って霊力を使い切る必要はない。
昔の自分なら、できるまで無理に続けていたかもしれない。
だが、今は違う。
明日も学校がある。
その次の日も。
急いで結果を出さなくても、試す機会はある。
一護は立ち上がり、窓を少し開けた。
夜風が部屋へ入ってくる。
遠くに街の明かりが見えた。
この世界で生まれ育った家。
通い始めたばかりの学校。
新しくできた友人たち。
その中には、以前の人生では出会わなかった人間も大勢いる。
常闇も、切島も、その一人だ。
彼らの力を見なければ、今日の発想には辿り着かなかったかもしれない。
「……雄英、か」
一護は小さく呟いた。
ここへ来たのは、もっと多くの人を護れるようになるためだった。
だが、まだ三日目だというのに、自分が思っていた以上に学ぶことがある。
それが、少し面白かった。
*
翌朝。
「黒崎! おはよう!」
「おう、飯田」
教室へ入るなり声をかけてきた飯田は、昨日にも増して背筋が伸びていた。
「委員長として、今日もクラスのために尽力するつもりだ!」
「……あんま張り切りすぎんなよ」
「心配には及ばない!」
その返事に、一護は少し笑った。
席へ向かう途中、緑谷と麗日にも声をかけられた。
切島は上鳴と何やら話しており、耳郎はその会話に呆れた顔をしている。
窓際では、常闇が静かに本を読んでいた。
昨日までより、教室の中に知っている顔が増えた気がした。
席についたところで、相澤が教室へ入ってきた。
「座れ。今日のヒーロー基礎学について話す」
教室が静かになる。
「今回は救助訓練だ」
一護は顔を上げた。
相澤は黒板へ、施設の名前を書いた。
ウソの災害や事故ルーム。
通称、USJ。
「水難、土砂災害、火災。そういった状況を想定した施設で、個性を使った救助を学んでもらう」
教室のあちこちから、期待の声が上がる。
昨日の戦闘訓練とは、まったく違う内容だ。
一護は黒板の文字を見つめた。
敵を倒すためではなく、人を助けるために力を使う。
その訓練なら、学びたいことがいくらでもある。
「……面白そうだな」
小さく呟くと、隣の切島が笑った。
「だろ! 今回も気合い入れていこうぜ!」
「ああ」
一護は頷いた。
右腕を軽く動かす。
昨夜、ほんの一瞬だけ袖をまとったときの感覚が、まだ残っていた。
布が肌に触れた感触。
指先に感じた、僅かな重み。
もう少しで、何かを掴めそうな気がする。
それでも、今は授業だ。
一護は手を下ろし、相澤の説明へ意識を戻した。