『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第15話 護るための刃

 

 目を覚ましたとき、窓の外はまだ薄暗かった。

 

 一護は枕元の時計を確かめ、布団から起き上がった。

 

 普段より一時間ほど早い。

 

 別に、目覚ましをかけていたわけではない。ただ、昨夜のことが頭から離れなかったのだ。

 

 一護は自分の右腕を見下ろした。

 

 そこに現れた、見慣れた黒い布。

 

 死覇装の袖だった。

 

 ほんの数秒しか保たなかったものの、布が腕に触れた感触も、手首を動かしたときの重みも覚えている。

 

 完現術で作った装甲でも、霊力が黒く見えていただけでもない。

 

 死神としての自分が身にまとっていた、あの衣だった。

 

「……もう一回、やってみるか」

 

 ベッドから降り、部屋の中央へ移動する。

 

 呼吸を整え、自分の肉体へ意識を向けた。

 

 完現術。

 

 物質に宿る魂へ干渉し、その力を引き出す技術。

 

 これまでは主に周囲の物質へ働きかけていた力を、自分自身へ向ける。

 

 肉体の内側にある魂魄と、死神の力。

 

 それらを分離させるのではなく、重ね合わせる。

 

 必要な部分には滅却師の霊子操作を加え、外側へ形を定着させる。

 

 理屈は、昨日ようやく掴めた。

 

 問題は、それを維持できるかだった。

 

 一護は右手を握った。

 

 手首の辺りに、黒い布が現れる。

 

 袖口が形を取り、前腕を覆っていった。

 

 肘。

 

 肩。

 

 そして胸元へ。

 

 昨日は、ここで崩れた。

 

 今度は、無理に霊力を流し込まない。

 

 衣そのものを力で押さえつけるのではなく、形が崩れないように流れを整える。

 

 やがて、黒い生地が反対側の腕まで覆った。

 

 腰に白い帯が現れる。

 

 袴の裾が足元へ落ちた。

 

 一護はゆっくりと両腕を広げる。

 

 見慣れた死覇装が、そこにあった。

 

「……おお」

 

 思わず声が漏れた。

 

 袖を軽く引いてみる。

 

 布が引っ張られ、肩に抵抗が伝わった。

 

 足元も確かめた。

 

 床を踏む感覚は変わらない。

 

 呼吸も、鼓動も、そのままだ。

 

 自分の肉体がここにある。

 

 それなのに、死神としての力も同時に存在している。

 

「……いけるな」

 

 口元が緩んだ。

 

 だが、まだ終わりではない。

 

 一護は右手を横へ伸ばした。

 

 意識を、さらに深く沈める。

 

 そこには、昔から変わらず存在するものがあった。

 

 斬月。

 

 己の魂の奥にある、一振りの刀。

 

 その名を思い浮かべた途端、右手に重みが生まれた。

 

 まず、晒しの巻かれた持ち手が形を取る。

 

 続いて、鍔のない幅広の刀身。

 

 巨大な包丁にも似た、無骨な形。

 

 黒い峰と、鈍い銀色を帯びた刃。

 

 一護は現れた刀を握り直した。

 

 確かな重さが、掌へ伝わってくる。

 

「……久しぶりだな」

 

 長い間、精神世界でその存在を感じることはできても、こうして握ることはできなかった。

 

 指に馴染む感触。

 

 刀身を通じて伝わってくる、自分自身の霊力。

 

 間違いない。

 

 本物の斬月だった。

 

 しかし。

 

「……っ」

 

 刀身の輪郭が僅かに揺らいだ。

 

 一護は咄嗟に霊力を整えようとした。

 

 だが、間に合わない。

 

 斬月が細かな粒子となってほどけ、続いて死覇装の袖口が崩れ始める。

 

「おっと……!」

 

 慌てて出力を落としたが、すでに遅かった。

 

 数秒後。

 

 部屋の中央に立っていたのは、寝間着姿の一護だけだった。

 

「……まだ駄目か」

 

 右手を開き、握り直す。

 

 霊力が足りないわけではない。

 

 むしろ逆だった。

 

 死覇装と斬月を同時に顕現させようとすると、全身へ流れる霊力の均衡が崩れてしまう。

 

 強く出せばいいというものでもない。

 

 昔の自分が苦手としていたことだった。

 

 もっとも、それを鍛える時間は今世では十分にあった。

 

「……まあ、もうちょいだな」

 

 そう呟いて、窓の外を見る。

 

 空が少しずつ明るくなっていた。

 

 今日も学校がある。

 

 ここで無理をして、授業中に眠くなるのも馬鹿らしい。

 

 一護はもう一度右手を握った。

 

 あの重みは、まだ掌に残っている。

 

 昨日は袖だけ。

 

 今日は死覇装と斬月まで。

 

 少なくとも、前には進んでいた。

 

     *

 

「黒崎! おはよう!」

 

 雄英へ到着すると、切島が大きく手を振ってきた。

 

 隣には上鳴もいる。

 

「おう」

 

「今日、USJだろ! 楽しみだよな!」

 

「救助訓練だっけか」

 

「そうそう! 俺の硬化なら瓦礫とかも受け止められるし、結構活躍できそうじゃね?」

 

 切島は自分の腕を軽く叩いた。

 

 上鳴も笑いながら割って入る。

 

「俺の電気だって、停電した建物とかなら役立つと思うんだよな」

 

「お前、それ昨日も言ってただろ」

 

「だから! 昨日考えたことを今日試すんだよ!」

 

「ははっ、そりゃそうか!」

 

 一護は二人のやり取りを聞きながら笑った。

 

 教室へ向かう途中、常闇とすれ違う。

 

「おう、常闇」

 

「黒崎か。おはよう」

 

「昨日はありがとな」

 

 常闇が僅かに首を傾げた。

 

「何のことだ?」

 

「黒影を見せてもらっただろ。あれ、結構参考になった」

 

「……俺の個性が?」

 

「ああ。ちょっと考え方を変えられたんだ」

 

 常闇は一護を見つめた。

 

 そして、静かに頷く。

 

「そうか。それならば何よりだ」

 

 肩の辺りから、黒い影が顔を出した。

 

「おっ、昨日の奴!」

 

「おう。元気そうだな」

 

「当然!」

 

 黒影が得意げに笑う。

 

 切島もそれを見て笑った。

 

「お前ら、もう仲良くなってんのか!」

 

「昨日ちょっと話しただけだって」

 

 一護は肩をすくめた。

 

 だが、常闇の黒影がいなければ、今朝の成果はなかったかもしれない。

 

 そう考えると、雄英に来た意味も少しずつ増えている気がした。

 

     *

 

 USJへ向かうバスの中では、早速賑やかな会話が始まっていた。

 

 座席は向かい合わせになっており、飯田が整列について説明していたものの、途中でその構造に気づいて頭を抱えている。

 

「……あいつ、いつも全力だな」

 

 一護が呟くと、切島が笑った。

 

「委員長だからな!」

 

「そういう問題か?」

 

「いや、知らねえけど!」

 

 二人が笑っていると、向かい側から声がかかった。

 

「黒崎ちゃん」

 

 一護は顔を上げた。

 

 そこには蛙吹梅雨が座っていた。

 

「……俺か?」

 

「ええ。あなたのことよ」

 

「いや、今の呼び方……」

 

「嫌だったかしら?」

 

「嫌ってわけじゃねえけど、ちょっと慣れねえな」

 

 蛙吹は特に気にした様子もなく、首を傾げた。

 

「黒崎ちゃんの個性って、移動系なの?」

 

「ん?」

 

「昨日の訓練で、すごく速く動いていたでしょう? でも、見た感じでは身体が変化しているわけでもなさそうだし」

 

「ああ……まあ、身体能力の強化と高速移動ってところだな」

 

「ふうん。どういう仕組みなのかしら」

 

「足元に力をかけて、普通より速く踏み込めるんだよ」

 

 一護はそう説明した。

 

 完現光の仕組みを、この世界の言葉でどこまで伝えるべきか。

 

 その辺りは、まだ自分でも整理しきれていなかった。

 

 蛙吹は少し考えてから頷いた。

 

「それなら、救助にも役立ちそうね」

 

「そうだといいけどな」

 

「でも、救助する相手が同じ速さに耐えられるとは限らないわ。移動するときは気をつけないと」

 

 一護は目を瞬かせた。

 

 なるほど。

 

 自分自身が速く動けることと、人を安全に運べることは別だ。

 

 前世でも人を抱えて移動した経験はある。

 

 だが、普通の人間がどこまでの加速に耐えられるかは、改めて考える必要がある。

 

「……確かにな。蛙吹、ありがとな」

 

「梅雨ちゃんよ」

 

「……あ?」

 

「私のことは梅雨ちゃんと呼んで」

 

 一護は一瞬、言葉に詰まった。

 

「いや、普通に蛙吹じゃ駄目なのか?」

 

「梅雨ちゃんと呼んでほしいの」

 

「……そうかよ」

 

 蛙吹はじっと一護を見ている。

 

 悪気はなさそうだった。

 

 むしろ、本人にとってはごく当たり前のお願いらしい。

 

 一護は少しだけ視線を逸らした。

 

「……分かったよ。梅雨ちゃん」

 

「ケロ」

 

 蛙吹は満足そうに頷いた。

 

 隣で切島が吹き出す。

 

「ぶっ……黒崎、お前そういうの苦手なのか!」

 

「うるせえ」

 

「いや、何か意外でさ!」

 

 上鳴まで笑い始めた。

 

 一護は溜息をつき、窓の外へ目を向ける。

 

 まったく。

 

 変わった奴が多いクラスだ。

 

 もっとも、退屈しないという意味では悪くなかった。

 

     *

 

 USJは、想像していた以上に巨大な施設だった。

 

 入口を抜けると、広大な空間が視界いっぱいに広がっている。

 

 中央広場を囲むように、水難、火災、土砂崩れ、倒壊した建物など、様々な災害を再現した区域が造られていた。

 

「うおお……!」

 

 切島が目を輝かせる。

 

「何だよここ! すげえな!」

 

「学校の施設って規模じゃねえだろ……」

 

 上鳴も呆然としていた。

 

 一護は周囲を見渡した。

 

 これだけの設備を、学生の訓練のために用意している。

 

 雄英という学校が、ヒーローを育てることにどれほど力を入れているのか、改めて感じさせられた。

 

 生徒たちの前に立ったのは、宇宙服のようなコスチュームを着たヒーロー、十三号だった。

 

「皆さん、ようこそUSJへ!」

 

 柔らかな声が響く。

 

「ここでは、皆さんの個性を使った様々な救助訓練を行います」

 

 生徒たちから歓声が上がった。

 

 十三号は施設について説明したあと、少し声の調子を変えた。

 

「皆さんの個性は、使い方によっては人を助けることも、人を傷つけることもできます」

 

 十三号は、自分の手袋へ視線を落とした。

 

「僕の個性も、とても危険な力です。だからこそ、何のために使うのかを忘れないでください」

 

 一護は黙って聞いていた。

 

 人を助けるための力。

 

 それが、時には人を傷つける。

 

 思い当たることはいくらでもあった。

 

 斬月は、護るために握ってきた刀だ。

 

 だが、刃である以上、斬ることもできる。

 

 月牙天衝も同じだった。

 

 どれだけ強い力でも、扱いを間違えれば、護りたいものを傷つけてしまう。

 

 そんなことは、何度も思い知らされてきた。

 

「……いい話だな」

 

 一護が小さく呟くと、隣の緑谷が頷いた。

 

「うん。僕もそう思う」

 

 十三号の説明が終わり、生徒たちが拍手を送る。

 

 相澤が前へ進み出た。

 

「じゃあ、始めるぞ」

 

 そのときだった。

 

 一護は、中央広場の空気が変わったことに気づいた。

 

「……ん?」

 

 何もない空間に、黒いものが滲み出していた。

 

 霧だった。

 

 それが地面から湧き上がるように広がり、やがて大きな渦を形作る。

 

 その奥から、人影が現れた。

 

 一人。

 

 二人。

 

 さらに、その後ろから何人も。

 

 生徒たちの間に、戸惑いが広がった。

 

「何だ、あれ……?」

 

「訓練の演出か?」

 

 一護は答えなかった。

 

 霧の向こうから漂ってくるものに、覚えがあったからだ。

 

 敵意。

 

 ただの威嚇や喧嘩とは違う。

 

 明確に人を傷つけようとする気配。

 

 相澤の声が鋭く響いた。

 

「全員、その場を動くな!」

 

 生徒たちが息を呑んだ。

 

「あれは敵だ!」

 

     *

 

 中央広場に現れた集団は、明らかに異様だった。

 

 武器を持つ者。

 

 顔を覆った者。

 

 身体の一部が変形している者。

 

 その中に、ひときわ目立つ人物がいた。

 

 顔や首筋に、いくつもの手を貼りつけた男。

 

 そして、その傍らには、異様に大きな人影が立っていた。

 

 頭部から脳が露出した、黒い巨体。

 

 一護は眉を寄せた。

 

 普通の人間とは思えない。

 

 立っているだけなのに、身体の構造そのものが不自然だった。

 

「オールマイトはいねえのか」

 

 手を貼りつけた男が、苛立ったように呟いた。

 

「せっかく殺しに来てやったのに」

 

 周囲の空気が凍りつく。

 

 一護は相澤へ目を向けた。

 

 相澤はすでにゴーグルを下ろし、捕縛布を手にしていた。

 

「十三号、生徒を頼む」

 

「分かりました!」

 

「待てよ、先生」

 

 一護は思わず声をかけた。

 

 相澤が振り返る。

 

「何だ」

 

「あいつら、人数が多すぎる。先生一人で行く気か?」

 

「だからこそ、お前らを避難させる必要がある」

 

 相澤は短く答えた。

 

「お前らはまだ生徒だ。ここで戦う必要はない」

 

 一護は口を閉じた。

 

 言っていることは分かる。

 

 教師として、当然の判断だ。

 

 だが、敵は単なる暴徒ではない。

 

 少なくとも、中央に立っているあの黒い巨体だけは、明らかに危険だった。

 

「……分かった」

 

 一護は頷いた。

 

 ただし、何かあればすぐに動けるよう、身体の力を抜かずにおく。

 

 相澤はそれを確認すると、中央広場へ飛び降りた。

 

 ほぼ同時に、十三号が生徒たちを入口へ誘導する。

 

「皆さん、こちらへ! 落ち着いて避難してください!」

 

 生徒たちが動き出した。

 

 しかし、出口へ続く通路の前に、黒い霧が現れた。

 

「申し訳ありません」

 

 霧の中から声が響く。

 

「ここから先へは、通せません」

 

 黒い渦が、大きく広がる。

 

 その奥には、暗い空間が見えた。

 

「……ワープか!」

 

 一護が気づいたときには、すでに遅かった。

 

「みんな、離れて!」

 

 十三号が前へ出る。

 

 だが、黒い霧はその動きを見越していたかのように広がり、生徒たちの間へ押し寄せた。

 

「散るな!」

 

 一護が叫ぶ。

 

 すぐそばの上鳴の腕を掴んだ。

 

 だが、その足元が黒く染まる。

 

 床が消えた。

 

 身体が落ちる。

 

「黒崎!?」

 

 切島の声が遠くなった。

 

 一護は反射的に足元へ霊力を集中させた。

 

 完現光。

 

 だが、踏み込むべき床そのものがない。

 

 黒い空間が、一護の身体を呑み込んだ。

 

     *

 

「みんな! 返事をしてくれ!」

 

 入口付近に残された飯田は、思わず声を張り上げた。

 

 先ほどまで周囲にいたクラスメイトたちが、何人も消えていた。

 

 別の場所へ飛ばされたのか。

 

 それとも。

 

「飯田くん!」

 

 麗日が駆け寄ってくる。

 

 その後ろには瀬呂、障子、砂藤たちの姿があった。

 

 全員ではない。

 

 だが、無事な者もいる。

 

「麗日くん! 他の皆は!?」

 

「分からへん! あの黒い霧に呑まれて……!」

 

 飯田は奥歯を噛んだ。

 

 状況が悪すぎる。

 

 突然現れたヴィラン。

 

 各地へ散り散りにされた仲間たち。

 

 そして、中央広場では相澤が一人で戦っている。

 

 すぐに、応援を呼ばなければならない。

 

「十三号先生! 学校へ連絡を!」

 

 飯田が叫ぶ。

 

 十三号は通信機を操作した。

 

 だが、返ってきたのは雑音だけだった。

 

「……駄目です。外部への通信が妨害されています」

 

「そんな……!」

 

 飯田の表情が強張った。

 

 そのとき、十三号が顔を向けた。

 

「飯田くん」

 

「はい!」

 

「あなたはここを出て、雄英へ救援を呼んでください」

 

 飯田は目を見開いた。

 

「私が、ですか!?」

 

「あなたの個性なら、ほかの生徒より早く学校へ戻れます」

 

 確かに、そうだった。

 

 自分の脚にはエンジンがある。

 

 走ることなら、誰にも負けないつもりだった。

 

 だが。

 

「しかし、それでは皆を置いて逃げることに――!」

 

「違いますわ!」

 

 麗日が声を上げた。

 

「飯田くんが先生たちを呼んでくれへんかったら、みんな困るんやで!」

 

「そうだぜ!」

 

 瀬呂も頷く。

 

「今ここで一番速く助けを呼べるの、お前だろ!」

 

 飯田は言葉を失った。

 

 逃げる。

 

 自分の中では、そう考えてしまっていた。

 

 仲間が危険な場所に残っているのに、自分だけ外へ出る。

 

 それが、どうしても卑怯なことのように感じられた。

 

 だが、違う。

 

 自分が走れば、もっと多くの人を助けられる。

 

「……分かりました」

 

 飯田は拳を握った。

 

「私が、必ず応援を連れてきます!」

 

 その言葉に、十三号は頷いた。

 

「お願いします」

 

 だが、黒霧がその会話を見逃すはずもなかった。

 

「それは困りますね」

 

 霧が大きく広がる。

 

「外へ逃がすわけにはいきません」

 

 十三号が前へ出た。

 

「あなたの相手は僕です!」

 

 手袋の指先が開き、強烈な吸引が始まる。

 

 黒霧の身体が引き寄せられた。

 

 だが、相手もただの霧ではない。

 

「残念ですが」

 

 黒霧の声が響く。

 

「その個性は、あなた自身にも危険なのでは?」

 

 次の瞬間、十三号の背後に黒い渦が開いた。

 

「……っ!」

 

 自らの吸引が、背後へ繋がる。

 

 十三号は咄嗟に個性を止めようとした。

 

 だが、すでに遅かった。

 

 コスチュームが激しく損傷し、その身体が床へ倒れ込む。

 

「十三号先生!」

 

 飯田が叫んだ。

 

 反射的に駆け寄ろうとする。

 

 だが、その前へ障子が腕を広げた。

 

「飯田。行け」

 

「しかし!」

 

「先生のところには俺たちが行く。お前は外だ」

 

 障子の声は低く、落ち着いていた。

 

 黒霧が再び広がる。

 

 その霧が飯田へ迫った。

 

 障子は複製した腕を大きく広げ、進路を塞ぐ。

 

「今だ!」

 

 飯田は歯を食いしばった。

 

 脚部のエンジンが唸る。

 

 地面を蹴り、出口へ走り出した。

 

 黒霧の一部が、障子の防御を回り込む。

 

「逃がしませんよ」

 

「させへん!」

 

 麗日が飛び出した。

 

 霧の中に見えた、金属製の装具。

 

 そこへ手を伸ばし、触れる。

 

「無重力!」

 

 装具がふわりと浮き上がった。

 

 黒霧の位置が大きくずれる。

 

「瀬呂くん!」

 

「任せろ!」

 

 飛び出したテープが装具へ絡みついた。

 

 砂藤も力を込め、瀬呂と一緒に黒霧を引き離す。

 

 飯田を追おうとしていた霧が、横へ流された。

 

「飯田!」

 

 瀬呂が叫ぶ。

 

「止まんなよ!」

 

 飯田は振り返らなかった。

 

 振り返れば、足が止まる。

 

 ここで自分がやるべきことは、ただ一つ。

 

「……必ず!」

 

 エンジンの音が、さらに大きくなる。

 

「必ず、戻ってくる!」

 

 飯田はUSJの扉を押し開け、外へ飛び出した。

 

     *

 

 一護が足裏に硬い感触を捉えたとき、そこは岩だらけの斜面だった。

 

 膝を曲げて衝撃を逃がし、周囲を見渡す。

 

 険しい岩場。

 

 崩れた土砂。

 

 人工的に造られた山岳地帯らしい。

 

「……ちっ」

 

 舌打ちする。

 

 どうやら、施設内の別の区域へ飛ばされたようだった。

 

「うわああっ!」

 

 頭上から声がした。

 

 見上げると、上鳴が空中で手足をばたつかせている。

 

 一護は地面を蹴った。

 

 跳び上がって上鳴の襟元を掴み、そのまま斜面を蹴って勢いを殺す。

 

 二人が平らな場所へ着地すると、上鳴が目を瞬かせた。

 

「黒崎!?」

 

「おう。怪我ねえか?」

 

「え、あ、うん! 助かった!」

 

「ならいい」

 

 少し離れた場所から声がした。

 

「黒崎さん! 上鳴さん!」

 

 八百万だった。

 

 隣には耳郎もいる。

 

「お前らもここか」

 

「ええ。何とか無事ですわ」

 

 八百万は周囲を警戒しながら答えた。

 

 耳郎が片耳のプラグを伸ばす。

 

「……まずいね」

 

「何か聞こえるのか?」

 

「足音。何人か、こっちに来てる」

 

 一護も気配を探った。

 

 確かに、複数の人間が近づいている。

 

 それだけではない。

 

 別の方向にも何人かいる。

 

 囲まれかけていた。

 

「……お前ら、あんまり離れんなよ」

 

 一護が言うと、上鳴が頷いた。

 

「お、おう」

 

 八百万はすでに周囲の地形を確認していた。

 

「この斜面では無闇に動くのは危険ですわ。まずは足場を確保しましょう」

 

「だな」

 

 そのとき、岩陰から男が現れた。

 

「おいおい、ガキが四人かよ」

 

 後ろにも数人。

 

 手には武器を持っている。

 

「……雄英のヒーロー科ってのは、思ったより大したことなさそうだな」

 

 男が笑った。

 

 上鳴が一歩前へ出る。

 

「おい、こいつら……!」

 

「落ち着け」

 

 一護は短く言った。

 

 敵の人数。

 

 立ち位置。

 

 退路。

 

 一瞬で確認する。

 

「耳郎、後ろも頼む。八百万は足場。上鳴は俺が合図するまで撃つな」

 

「分かった!」

 

「承知しましたわ」

 

「おう!」

 

 返事を聞いて、一護は前へ出た。

 

 男が武器を振り上げる。

 

「まずはお前からだ!」

 

 その腕が振り下ろされるより早く、一護は踏み込んだ。

 

「……遅えよ」

 

 男の手首を掴み、身体をひねる。

 

 勢いをそのまま利用して、地面へ倒した。

 

「がっ!?」

 

 武器が岩場を転がる。

 

 後続の二人が動いた。

 

 一護は片方の足を払い、もう一人の拳を受け流す。

 

 腹部へ短く打撃を入れると、男が膝をついた。

 

 ほとんど一瞬だった。

 

「……え?」

 

 上鳴が間の抜けた声を出した。

 

「何してんだ。後ろ!」

 

「あっ、やべ!」

 

 岩陰から別の敵が飛び出した。

 

 だが、次の瞬間。

 

「上鳴さん、右ですわ!」

 

 八百万が作り出した盾が、敵の攻撃を受け止めた。

 

 上鳴は咄嗟に飛び退く。

 

「助かった、八百万!」

 

「今です!」

 

 耳郎がプラグを地面へ突き立てた。

 

 振動が岩場を伝わり、敵の体勢が崩れる。

 

「上鳴!」

 

「任せろ!」

 

 上鳴の手から電気が放たれた。

 

 敵の身体が痙攣し、そのまま倒れる。

 

「よっしゃ!」

 

 上鳴が拳を握った。

 

 一護は周囲を確認した。

 

 まだ数人いる。

 

 だが、こちらの連携を目にしたせいか、敵たちの足は止まっていた。

 

「……今なら抜けられるな」

 

 八百万が頷く。

 

「ええ。ですが、他の皆さんが心配です」

 

「分かってる」

 

 一護は中央広場の方向へ目を向けた。

 

 ここからでは直接様子を見ることはできない。

 

 だが、遠くから断続的に衝撃音が響いている。

 

 相澤が戦っているのだろう。

 

 それに、あの黒い巨体。

 

 あれがまだ動いているなら、危険だった。

 

「耳郎。中央の方、何か分かるか?」

 

 耳郎はプラグを岩へ押し当てた。

 

 しばらく耳を澄ませる。

 

「……すごい音。何人も動いてる。だけど、一つだけ明らかにおかしい」

 

「何だ?」

 

「足音が重すぎる。あれ、人間なの?」

 

 一護は目を細めた。

 

 脳が露出した、あの巨体。

 

 やはり、普通の相手ではないらしい。

 

「……一回、入口まで戻るぞ」

 

「戻れるのか?」

 

 上鳴が尋ねた。

 

「道はあるだろ。ここも施設ん中なんだしな」

 

 八百万がすぐに頷く。

 

「それでしたら、私が道具を用意しますわ」

 

「頼む」

 

 一護は最後に倒れた敵たちを確認した。

 

 意識はある。

 

 だが、しばらくは動けないだろう。

 

 まずは仲間と合流する。

 

 そして、必要なら。

 

 一護は右手を軽く握った。

 

 今朝、ほんの僅かな時間だけ握った斬月の感触を思い出す。

 

 使わずに済むなら、それに越したことはない。

 

     *

 

 人工の湖に、激しい水音が響いていた。

 

 広い水面のあちこちに波紋が重なり、浮かんでいる船の船体を揺らしている。

 

 船を取り囲むように、いくつもの人影が水中を移動していた。

 

 その影が近づくたびに、水面が不自然に盛り上がる。

 

 船の上では、三人の生徒が身を寄せ合っていた。

 

「もう嫌だああああっ!」

 

 峰田実の悲鳴が響く。

 

「何で入学してすぐ殺されかけなきゃいけねえんだよおお!」

 

「峰田ちゃん、落ち着いて」

 

 蛙吹梅雨は比較的冷静だった。

 

 もっとも、その視線は水面から離れていない。

 

 水の中には、何人ものヴィランがいた。

 

 彼らがいるのは、人工の湖に浮かぶ船の上。

 

 周囲はすでに囲まれていた。

 

「どうしよう、緑谷ちゃん」

 

 蛙吹が隣へ目を向ける。

 

 緑谷出久は、拳を握ったまま水面を見つめていた。

 

 相手の人数が多い。

 

 しかも、水中ではこちらの動きが大きく制限される。

 

 まともに飛び込めば、あっという間に囲まれるだろう。

 

 けれど。

 

「……二人とも、ちょっと聞いて」

 

 緑谷は顔を上げた。

 

「向こうは、僕たちの個性を詳しく知らないはずなんだ」

 

「え?」

 

 峰田が涙目のまま振り返る。

 

「だから?」

 

「だから、まだやりようはある」

 

 緑谷は水面へ目を向けた。

 

 ここで助けを待つだけでは、状況は変わらない。

 

 かといって、無闇に戦えば危険だ。

 

 必要なのは、自分たちが持っている力を組み合わせること。

 

「梅雨ちゃん。水中でも動けるんだよね?」

 

「ええ」

 

「峰田くんの球って、水に濡れてもくっつく?」

 

「そ、そりゃ当然だろ!」

 

 緑谷は頷いた。

 

 頭の中で、いくつもの選択肢を組み立てる。

 

 そのとき、船体が大きく揺れた。

 

「うわあっ!」

 

 ヴィランの一人が船へ攻撃を加えたのだ。

 

 船体にひびが入り、水が入り込んでくる。

 

 もう、時間はない。

 

「……やろう!」

 

 緑谷が叫んだ。

 

 峰田は目を見開く。

 

「何を!?」

 

「ここを突破するんだ!」

 

     *

 

 緑谷の拳が、水面へ向けて振り抜かれた。

 

「デラウェア……スマッシュ!」

 

 凄まじい衝撃が水を押し分ける。

 

 水面が大きく割れ、周囲のヴィランたちが押し流された。

 

「うわああっ!?」

 

 緑谷自身も勢いで空中へ投げ出される。

 

 だが、その身体を蛙吹の舌が捉えた。

 

「捕まえたわ!」

 

 峰田も両手を振り回す。

 

「もうどうにでもなれええ!」

 

 頭から引き抜いた球が、次々に水面へ落ちる。

 

 水流に巻き込まれたヴィランたちが、粘着球に触れた。

 

 身体がくっつく。

 

 腕が、脚が、互いに絡み合う。

 

 水が元へ戻る頃には、ヴィランたちは身動きも取れなくなっていた。

 

「……や、やった?」

 

 峰田が目を瞬かせる。

 

 緑谷は荒い息を吐いた。

 

 指が痛む。

 

 また、力を使いすぎた。

 

 だが、今はそれを気にしている場合ではない。

 

「二人とも、大丈夫?」

 

「ええ」

 

「だ、大丈夫じゃねえけど生きてる!」

 

 峰田が叫んだ。

 

 蛙吹は小さく頷くと、中央広場の方向へ目を向けた。

 

「ここから出ましょう」

 

「うん」

 

 緑谷も頷く。

 

 ただ、どこへ向かうべきかは慎重に考えなければならない。

 

 出口までの道は分からない。

 

 施設の外との通信もできない。

 

 そして何より。

 

 相澤は、まだ中央で戦っている。

 

「……一度、様子を見よう」

 

 緑谷が言った。

 

 蛙吹はその顔を見た。

 

「危険かもしれないわよ」

 

「分かってる。でも、ほかの皆がどうなってるかも知りたいし……」

 

 緑谷は唇を噛んだ。

 

「先生が、ずっと一人で戦ってるんだ」

 

 その言葉に、蛙吹は何も返さなかった。

 

 峰田だけが、情けない声を上げる。

 

「お、おい! まさか戻る気かよ!」

 

「無理に戦いに行くつもりじゃないよ。まずは確認して、それから助けを呼べる方法を考える」

 

 そう答えながらも、緑谷自身、分かっていた。

 

 もし目の前で誰かが傷つけられそうになっていたら。

 

 自分は、きっと放っておけない。

 

     *

 

 飯田は走っていた。

 

 USJから雄英本校へ続く道を、ただひたすらに。

 

 脚のエンジンが熱を帯びる。

 

 息が上がる。

 

 それでも速度は落とさなかった。

 

 頭の中には、入口に残った仲間たちの姿があった。

 

 麗日。

 

 瀬呂。

 

 障子。

 

 砂藤。

 

 そして十三号。

 

 皆が、自分を送り出してくれた。

 

 だからこそ、立ち止まるわけにはいかない。

 

「……っ!」

 

 曲がり角を抜けたところで、向こうから大きな人影が現れた。

 

 金色の髪。

 

 巨大な体格。

 

 見間違えるはずもない。

 

「オールマイト先生!」

 

 飯田は叫んだ。

 

 相手もこちらに気づき、足を止める。

 

「飯田少年!? どうしたんだ、その慌てようは!」

 

「USJが敵に襲撃されています!」

 

 オールマイトの表情が変わった。

 

「何だと!?」

 

「多数の敵が施設内へ侵入し、生徒たちは各地へ散り散りにされました! 通信も妨害されています! 相澤先生と十三号先生が応戦していますが、危険な状況です!」

 

 飯田は息を切らしながら、知っていることを伝えた。

 

 オールマイトは一瞬だけ目を閉じた。

 

 そして、鋭く顔を上げる。

 

「分かった。君はそのまま学校へ向かい、ほかの先生方へ知らせてくれ!」

 

「はい!」

 

「私は先にUSJへ向かう!」

 

 次の瞬間。

 

 風が吹いた。

 

 オールマイトの姿が、すでに遠くへ移動している。

 

 飯田はその背中を見送り、すぐに走り出した。

 

 まだ終わっていない。

 

 救援は、一人でも多い方がいい。

 

 自分の仕事は、ここで終わりではなかった。

 

     *

 

 山岳地帯を抜けるまでに、それほど時間はかからなかった。

 

 八百万が作り出した道具で崩れた足場を補強し、耳郎が敵の位置を確認する。

 

 上鳴も、狭い通路で不用意に放電することなく、必要な場面だけ能力を使った。

 

 一護は先頭に立ち、進路を塞ぐ敵を倒していった。

 

 やがて、中央広場へ続く通路が見えてきた。

 

「……よし。あそこを抜ければ――」

 

 言いかけたところで、一護は足を止めた。

 

 遠くから、大きな衝突音が響く。

 

 続けて、何かが砕ける音。

 

 施設の床が、微かに震えた。

 

「……っ!」

 

 嫌な予感がした。

 

 ただ強い相手が暴れているだけではない。

 

 あの黒い巨体。

 

 何かがおかしい。

 

 一護は通路の先を睨んだ。

 

「黒崎?」

 

 耳郎が声をかける。

 

 一護は三人を振り返った。

 

「ここから先、無理に進むな」

 

「え?」

 

「入口までの道は、もう見えてるだろ。あそこに他の奴らがいるなら合流してくれ」

 

 八百万が顔を上げた。

 

「黒崎さんは?」

 

「中央の様子を見てくる」

 

「まさか、お一人で?」

 

「先生がまだ戦ってるなら、放っとけねえだろ」

 

 八百万は眉を寄せた。

 

「ですが、相澤先生も私たちには避難するようにと……」

 

「分かってる」

 

 一護は頷いた。

 

「だから、お前らは先に行ってくれ。そっちも危ねえかもしれねえしな」

 

 耳郎が小さく息を吐いた。

 

「……一人で何とかしようとしないでよ」

 

「するつもりはねえよ」

 

 そう答えたところで、上鳴が口を開いた。

 

「黒崎。俺らも行った方がよくねえか?」

 

「お前らが悪いって話じゃねえよ」

 

 一護は入口側の通路を示した。

 

「誰かが今の状況を伝えなきゃなんねえだろ。それに、向こうで怪我人が出てるかもしれねえ」

 

 八百万は少し考えてから頷いた。

 

「……分かりました。では、私たちは入口へ戻ります」

 

「ああ。頼む」

 

「黒崎さんも、必ず戻ってきてくださいませ」

 

「分かってるよ」

 

 三人が通路へ進むのを確認し、一護は中央広場へ向き直った。

 

 地面を蹴る。

 

 完現光。

 

 床に宿る魂へ働きかけ、身体が一気に加速した。

 

     *

 

「……嘘だろ」

 

 中央広場へ戻った緑谷は、思わず息を呑んだ。

 

 相澤が、倒れていた。

 

 いや、正確には、巨大な黒い怪物に押さえつけられていた。

 

 片腕は不自然な方向へ曲がり、顔にも血が流れている。

 

 その傍らでは、手を顔に貼りつけた男が立っていた。

 

「相澤先生……!」

 

 緑谷は反射的に身を乗り出した。

 

「緑谷ちゃん!」

 

 蛙吹が、その腕を掴む。

 

「待って。あの大きな敵、普通じゃないわ」

 

「……うん」

 

 分かっている。

 

 あの巨体が、どれほど危険なのか。

 

 それでも。

 

 目の前で、相澤が傷ついている。

 

 助けを呼ぶのが最善だ。

 

 頭では分かっていた。

 

 だが、今から誰かを呼びに戻って、本当に間に合うのか。

 

 緑谷は拳を握った。

 

 そのときだった。

 

「おや」

 

 手を貼りつけた男が、こちらを向いた。

 

「まだいたんだ」

 

 緑谷の背筋が凍る。

 

 男の視線が、蛙吹へ向いた。

 

 次の瞬間。

 

 男が動いた。

 

「梅雨ちゃん、避けて!」

 

 緑谷が叫ぶ。

 

 だが、男の手はすでに蛙吹の顔へ迫っていた。

 

 その指が触れれば、何が起きるのか。

 

 緑谷には分からない。

 

 ただ、相手が嬉しそうに手を伸ばしていることだけは分かった。

 

 ――駄目だ。

 

 身体が先に動いた。

 

 緑谷は地面を蹴り、拳を握る。

 

 その拳に、ワン・フォー・オールの力が集まった。

 

「うあああっ!」

 

 拳が振り抜かれる。

 

 だが、男へ届く直前。

 

 黒い巨体が割り込んだ。

 

「……っ!」

 

 拳が、その腹部へ叩きつけられる。

 

 衝撃。

 

 しかし、怪物は動かなかった。

 

 まるで、拳の威力を吸い込んでしまったかのように。

 

「……え?」

 

 緑谷が目を見開く。

 

 その瞬間、蛙吹の舌が緑谷の身体を捉えた。

 

「緑谷ちゃん!」

 

 後方へ引っ張られる。

 

 緑谷は辛うじて、怪物の反撃を躱した。

 

 だが、その横で。

 

 相澤が、僅かに顔を上げていた。

 

 血に濡れた目が、手を貼りつけた男を捉えている。

 

 男の指が、蛙吹の顔に触れた。

 

 それでも。

 

 何も起こらなかった。

 

「……あれ?」

 

 男が首を傾げる。

 

 相澤の個性。

 

 抹消。

 

 最後の力を振り絞り、敵の個性を消していた。

 

 だが、その反動で視線が外れる。

 

「……まだ邪魔するんだ」

 

 男が低く呟いた。

 

「脳無」

 

 黒い巨体が、再び相澤へ向き直る。

 

「もういい。そいつ、潰せ」

 

 緑谷は息を呑んだ。

 

 怪物の拳が振り上げられる。

 

 相澤は、もう動けない。

 

「先生っ!」

 

 緑谷が叫んだ。

 

 蛙吹が飛び出そうとする。

 

 だが、間に合わない。

 

 拳が振り下ろされる。

 

 その瞬間。

 

 横合いから、黒いものが飛び込んできた。

 

     *

 

 凄まじい衝突音が、中央広場へ響いた。

 

「……なっ」

 

 相澤は目を見開いた。

 

 巨大な拳が、自分の目の前で止まっている。

 

 その拳と自分の間に、少年が立っていた。

 

 黒い死覇装。

 

 オレンジ色の髪。

 

 少年の顔は、相澤へ向けられている。

 

 敵には、背中を見せたままだ。

 

 だが、その右腕だけが背後へ伸びていた。

 

 片手で握られた巨大な刀が、身体の後ろで斜めに構えられ、脳無の拳を受け止めている。

 

 鍔のない、幅広の刀身。

 

 大きな包丁にも似た、無骨な形。

 

 片腕で扱うには、あまりにも大きかった。

 

 床にひびが走る。

 

 脳無の腕には、なおも力が込められていた。

 

 それでも少年は、押し潰されるどころか、一歩も退かなかった。

 

「……黒崎?」

 

 相澤が呆然と呟く。

 

 少年は、口元に僅かな笑みを浮かべた。

 

「助けに来たぜ、センセ」

 

     *

 

「……黒崎くん!?」

 

 少し離れた場所で、緑谷も目を見開いていた。

 

 黒い衣。

 

 巨大な刀。

 

 そのどちらも、今まで見たことがない。

 

 昨日の戦闘訓練では、あんな姿はしていなかったはずだ。

 

 それに、あの刀はどこから現れたのか。

 

 聞きたいことが、いくつもあった。

 

 だが、今はそれどころではない。

 

 黒い巨体が、まだ動いている。

 

「緑谷!」

 

 一護の声が響いた。

 

「お前ら、先生を頼む!」

 

「……っ!」

 

 緑谷は顔を上げた。

 

「わ、分かった!」

 

 蛙吹がすぐに動いた。

 

 舌を伸ばし、相澤の身体を支える。

 

 緑谷も駆け寄り、傷ついた教師の肩へ手を添えた。

 

「先生、大丈夫ですか!?」

 

「……お前ら、早く……」

 

「大丈夫です! 僕たちで運びます!」

 

 相澤は何か言いかけたが、息を詰まらせた。

 

 怪我がひどい。

 

 とても一人で歩ける状態ではなかった。

 

 峰田が震える足で近づいてくる。

 

「お、おい! 俺は何すりゃいいんだよ!」

 

「峰田くん、後ろをお願い!」

 

 緑谷が叫んだ。

 

 峰田は泣きそうな顔のまま頷いた。

 

「わ、分かった!」

 

 頭から球を引き抜き、追ってくるヴィランたちの足元へ投げる。

 

 数人の敵が、粘着球に足を取られて転んだ。

 

「うわっ! 何だこれ!」

 

「くそ、動けねえ!」

 

 その隙に、蛙吹と緑谷は相澤を引きずるように安全な場所へ運んでいく。

 

 一護はその様子を横目で確認した。

 

 無事に離れられそうだ。

 

 ならば、あとは。

 

「……お前の相手は俺だ」

 

 一護は脳無へ向き直った。

 

     *

 

 斬月の柄を握る右手に、重い衝撃が伝わっていた。

 

 一護はその力を受け止めながら、静かに左足を引いた。

 

 刃の角度を変える。

 

 脳無の拳が横へ滑り、床を叩き割った。

 

「……重てえな、お前」

 

 巨大な刀を、片手で肩へ担ぐ。

 

 脳無が低く唸った。

 

 一護はその姿を見上げながら、肉体の内側へ霊子を巡らせる。

 

 静血装。

 

 血管に沿って流れる霊子が、肉体を補強する。

 

 完現術で肉体へ重ねた死神の力を、滅却師の技術で支える。

 

 今までとは違う戦い方だった。

 

 だが、感覚は悪くない。

 

「……黒崎」

 

 背後から、相澤の声が聞こえた。

 

 一護は肩越しに振り返る。

 

「何だ、先生」

 

「お前……その格好は……」

 

「話は後だ」

 

 一護は斬月を構え直した。

 

「今はこいつを何とかする方が先だろ」

 

 相澤は唇を引き結んだ。

 

 目の前の少年は、自分が教室で見てきた黒崎一護と同じ顔をしている。

 

 だが、今の姿は何だ。

 

 黒い装束。

 

 巨大な刀。

 

 どちらも、つい先ほどまでは存在していなかった。

 

 これまでの申告では、身体能力の強化と高速移動が中心だったはずだ。

 

 新たな個性の発現か。

 

 それとも、今まで隠していたのか。

 

 だが、それ以上に理解できないことがある。

 

 あの一撃を受け止めた際の動きだ。

 

 敵に背を向けたまま、片手で攻撃を受ける。

 

 相手の力を見極め、刃を傾けて受け流す。

 

 普通なら、命を賭けて試すようなことではない。

 

 まして、十五歳の高校生が。

 

 相澤は奥歯を噛んだ。

 

「……無茶をするな」

 

 一護は振り返らなかった。

 

「分かってるよ」

 

 その返事だけは、いつもの生徒と変わらなかった。

 

     *

 

「……予定にない奴が出てきたな」

 

 死柄木が首を掻いた。

 

 目の前の光景が、気に入らないらしい。

 

 黒霧が一歩前へ出る。

 

「雄英の生徒でしょう。黒崎一護という名前のようですが」

 

「生徒?」

 

 死柄木が笑った。

 

「何だよ。ガキ一人増えただけか」

 

 一護は二人へ視線を向けた。

 

「……お前らが、こいつら連れてきたんだな」

 

「そうだけど?」

 

「オールマイトを殺しに来たとか言ってたよな」

 

 死柄木が首を傾げる。

 

「聞いてたんだ」

 

「ああ」

 

 一護は斬月を肩へ担いだ。

 

「だったら、悪いけど帰ってくれねえか。こっちは授業中なんだよ」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そのあと、死柄木の口元が歪んだ。

 

「……ムカつくな、お前」

 

 指先が首筋を掻く。

 

「脳無。そいつも殺せ」

 

 黒い巨体が動いた。

 

 一護は斬月を握り直す。

 

 先ほどの一撃で分かった。

 

 とんでもない膂力だ。

 

 しかし、単純な力比べなら、こちらにもやりようはある。

 

 脳無が拳を振るう。

 

 一護は半歩だけ身をずらした。

 

 拳が肩口を掠める寸前、その姿が掻き消える。

 

 瞬歩。

 

 次の瞬間には、脳無の懐へ踏み込んでいた。

 

 一護は斬月を横薙ぎに振るう。

 

 刃が脳無の腕へ食い込んだ。

 

 肉が裂け、巨体が僅かに傾く。

 

 だが。

 

「……ん?」

 

 一護は目を細めた。

 

 傷口が、動いている。

 

 裂けた部分から肉が盛り上がり、みるみるうちに元の形へ戻っていく。

 

「……再生かよ」

 

 脳無は何事もなかったように腕を振り上げた。

 

 一護はすぐに距離を取る。

 

 背後で、死柄木が笑った。

 

「無駄だよ。そいつは特別製なんだ」

 

「……そうかよ」

 

 一護は短く答えた。

 

 確かに厄介だった。

 

 だが、斬月の刃が通らないわけではない。

 

 攻撃が効いていないわけでもない。

 

 傷ついても、異常な速度で元に戻る。

 

 そういう相手らしい。

 

 ならば、考えることはある。

 

 一護は相澤たちへ視線を向けた。

 

 緑谷と蛙吹が、教師を壁際へ運んでいる。

 

 峰田も、どうにか敵の足止めを続けていた。

 

 あの三人が巻き込まれないようにする必要がある。

 

「……お前には、しばらく付き合ってもらうぜ」

 

 一護は斬月を構えた。

 

     *

 

 脳無の攻撃は、速かった。

 

 巨大な体格からは想像できないほど、踏み込みが鋭い。

 

 一撃の威力も凄まじい。

 

 まともに受ければ、周囲の建物ごと破壊されかねなかった。

 

 だが、一護はそれ以上に速かった。

 

 拳が振り下ろされる。

 

 斜めへ踏み込んで躱す。

 

 次の一撃が迫る前に、斬月の峰で腕を打つ。

 

 脳無の身体が僅かに揺れた。

 

 しかし、すぐに体勢を立て直す。

 

「……打撃も効きにくいのか」

 

 一護は眉を寄せた。

 

 斬撃なら通る。

 

 だが、鈍い衝撃はほとんど吸収しているようだった。

 

 その違いが気になる。

 

 何らかの個性だろうか。

 

 そう考えた瞬間。

 

 一護の背後に、黒い霧が開いた。

 

「……っ!」

 

 反射的に身体をひねる。

 

 霧の向こうから、脳無の拳が現れた。

 

 空間を繋げたらしい。

 

 一護は斬月を立て、拳を受け流す。

 

 だが、その間に本体の脳無が前へ踏み込んでいた。

 

 巨大な腕が迫る。

 

 一護は床を蹴った。

 

 瞬歩で後方へ移動し、紙一重で拳を躱す。

 

 地面が爆ぜた。

 

「……なるほどな」

 

 一護は黒霧へ目を向けた。

 

「お前がそういうことすんのか」

 

「お気づきになりましたか」

 

 黒霧の声は落ち着いていた。

 

「我々も、ただ見ているわけにはいきませんので」

 

「そりゃそうだろうな」

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 脳無一体なら、力で押し切ることも考えられる。

 

 だが、空間を繋ぐ相手がいる。

 

 背後には、傷ついた教師と生徒たち。

 

 大きく薙ぎ払うような攻撃は、今は避けたい。

 

 だが、だからといって、月牙天衝を使えないわけではない。

 

 一護は踏み込んだ。

 

 脳無の拳を紙一重で躱し、その脇腹へ斬月の刃を深く押し当てる。

 

 刀身に、霊圧が集まった。

 

 距離は、ほとんどない。

 

「……月牙天衝」

 

 低く呟く。

 

 次の瞬間。

 

 圧縮された霊圧が、刀身から一気に解き放たれた。

 

 衝撃が脳無の身体を貫き、巨体が横へ弾き飛ばされる。

 

 周囲に広く放ったわけではない。

 

 刃の向きと、霊圧の流れる範囲を絞った。

 

 かつての一護なら、もっと大雑把に力を解放していたかもしれない。

 

 だが、今は違う。

 

 狙った場所へ。

 

 必要な威力だけ。

 

 その制御には、これまで積み重ねてきた修行が生きていた。

 

 脳無が床へ叩きつけられる。

 

 その身体には、大きな傷が残っていた。

 

 だが、やはり再生が始まる。

 

「……そこまで治るのかよ」

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 厄介な相手だった。

 

 致命的な傷を与えたところで、どこまで再生するのか分からない。

 

 そして、黒霧がいる以上、隙を作れば生徒たちへ攻撃が向かう可能性もある。

 

 倒しきることに拘るより、動きを抑える方が確実だろう。

 

 一護は斬月を構え直した。

 

     *

 

 緑谷は、目の前で起きていることを理解しようとしていた。

 

 黒崎一護。

 

 昨日の戦闘訓練でも、驚くほど優れた動きを見せていた。

 

 だが、今の姿はまるで違う。

 

 刀。

 

 高速移動。

 

 異常な身体能力。

 

 そして、今の攻撃。

 

 刃を相手の身体へ押し当てた瞬間、何かが爆発的に放たれた。

 

 周囲の床はほとんど壊れていない。

 

 攻撃の方向も、範囲も、明らかに絞られていた。

 

 それは、偶然そうなったとは思えない精度だった。

 

「……黒崎くん、すごい」

 

 思わず呟いた。

 

 だが、すぐに我に返る。

 

 今は観察している場合ではない。

 

 相澤を安全な場所へ運ばなければならない。

 

「梅雨ちゃん、もう少しだけ!」

 

「分かったわ」

 

 蛙吹が頷く。

 

 その隣では、峰田が必死に球を投げ続けていた。

 

「俺もう帰りてえよおお!」

 

「峰田くん、もうちょっとだから!」

 

「その『もうちょっと』が信用できねえんだよ!」

 

 それでも、峰田は手を止めなかった。

 

 緑谷は奥歯を噛んだ。

 

 怖い。

 

 自分だって怖かった。

 

 さっき、あの怪物へ拳を叩き込んだとき。

 

 まるで、何も効いていなかった。

 

 あんな相手が、自分たちを本気で殺そうとしている。

 

 それでも。

 

 今は、やれることをやるしかない。

 

 緑谷は相澤の身体を支え直し、壁際へ向かった。

 

     *

 

「……黒崎」

 

 相澤は、緑谷たちに支えられながら一護の戦いを見ていた。

 

 速い。

 

 強い。

 

 だが、それだけではない。

 

 必要以上に追撃しない。

 

 相手が動こうとする方向を見て、先回りする。

 

 常に、周囲へ意識を向けている。

 

 自分たちが移動する方向へ脳無を向かわせないよう、細かく位置を変えていることも分かった。

 

 その戦い方には、妙な落ち着きがあった。

 

 初めて敵と対峙した十五歳の少年とは思えない。

 

 まるで、何度も似たような状況を経験してきたかのようだった。

 

 そして何より、一護の足運びには迷いがなかった。

 

 斬るべき距離。

 

 躱すべき角度。

 

 相手が動くより先に、次の行動へ移る判断。

 

 それらが、考えるより早く身体から出ている。

 

 目の前の生徒は、人間の肉体を斬ることに躊躇していなかった。

 

 だが、闇雲に殺傷を狙っているわけでもない。

 

 必要なときだけ刃を振るい、不要な追撃はしない。

 

 守るべき人間と、倒すべき相手を、常に視界へ収めている。

 

 そこには、訓練で身につけただけとは思えない戦闘経験があった。

 

「……お前、何者だ」

 

 思わず呟く。

 

 その声は、一護には届かなかった。

 

     *

 

「……ふざけんなよ」

 

 死柄木が首を掻いた。

 

 脳無は、オールマイトを殺すために用意された存在だ。

 

 それが今、雄英の一年生を相手に足止めされている。

 

 しかも、相手は平然としている。

 

 何度攻撃しても倒れず、脳無の攻撃を躱し、時には逆に吹き飛ばす。

 

 その事実が、死柄木には気に入らなかった。

 

「黒霧。何やってんだよ」

 

「申し訳ありません。しかし、あの速度では……」

 

「言い訳すんな!」

 

 死柄木が怒鳴る。

 

 だが、黒霧は別のことを気にしていた。

 

 あの少年が姿を現してから、戦いの流れが変わっている。

 

 しかも、外へ逃れた生徒を捕まえることにも失敗した。

 

 そのことを、死柄木へ伝えなければならない。

 

「死柄木弔」

 

「……何だよ」

 

「一人、外へ逃がしてしまいました」

 

 死柄木の指が止まった。

 

「……は?」

 

「恐らく、雄英へ応援を呼びに向かったものと思われます」

 

 沈黙。

 

 次の瞬間。

 

 死柄木が激しく首筋を掻き始めた。

 

「……ふざけんな。ふざけんなよ!」

 

 黒霧は何も言わなかった。

 

 死柄木は苛立ったように周囲を見渡す。

 

 オールマイトはまだ来ていない。

 

 だが、他のプロヒーローが集まってくれば、さすがに不利になる。

 

 それに。

 

 目の前の黒崎一護。

 

 こいつが、何より気に入らない。

 

「……だったらさ」

 

 死柄木が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「せめて、あのガキどもくらい殺して帰ろうぜ」

 

 その視線が、壁際へ向いた。

 

 緑谷。

 

 蛙吹。

 

 峰田。

 

 そして、傷ついた相澤。

 

 一護はその視線に気づいた。

 

「……おい」

 

 低く声をかける。

 

 だが、死柄木は笑った。

 

「脳無」

 

 黒い巨体が動く。

 

「邪魔な奴、全部潰せ」

 

 脳無が地面を蹴った。

 

 一護の前を通り過ぎ、壁際へ向かおうとする。

 

「……させるかよ!」

 

 一護が踏み込んだ。

 

 だが、その瞬間、横から黒い霧が広がる。

 

 空間が歪み、脳無の進路が変わった。

 

 遠くの生徒たちへ向けて、巨大な拳が迫る。

 

 緑谷が顔を上げた。

 

「……っ!」

 

 蛙吹が相澤を庇うように身体を動かす。

 

 峰田は悲鳴を上げた。

 

 一護は奥歯を噛んだ。

 

 まだ間に合う。

 

 だが、今のままでは黒霧の妨害を受ける。

 

 もっと速く。

 

 相手に動きを捉えさせないほどに。

 

 一護は静かに息を吐いた。

 

 自分の内側へ意識を向ける。

 

 死神の力。

 

 滅却師の力。

 

 完現術。

 

 そして、その奥にあるもの。

 

 虚。

 

 前世で何度も力を借りた、もう一つの自分。

 

 かつては、暴走を恐れたこともあった。

 

 だが、今は違う。

 

 その力も、自分の一部だと分かっている。

 

 一護は左手を上げた。

 

 掌を、自分の頭頂部の少し上へかざす。

 

 そこに何かがあるかのように、指を軽く曲げる。

 

 そして。

 

 一気に、顔の前へ引き下ろした。

 

 まるで、頭上に置かれていた仮面を掴み、そのまま被るように。

 

 手の動きに合わせて、白いものが現れる。

 

 骨のような質感。

 

 赤い紋様。

 

 額から鼻筋へ、頬へ。

 

 手が顎の辺りへ達したとき、虚の仮面は完全に形を成していた。

 

 同時に。

 

 空気が、変わった。

 

     *

 

 最初に異変を感じたのは、黒霧だった。

 

 目の前の少年から、何かが溢れ出した。

 

 熱でもない。

 

 風でもない。

 

 それなのに、周囲の空間が重くなったようだった。

 

「……これは」

 

 思わず声が漏れる。

 

 身体が、動こうとするのを躊躇していた。

 

 何かが近づいてくる。

 

 いや、違う。

 

 すでに目の前にいる。

 

 ただ、その存在の危険性を、ようやく身体が理解したような感覚だった。

 

 隣にいた死柄木も、動きを止めていた。

 

 首筋を掻いていた指が、僅かに硬直する。

 

「……何だ、お前」

 

 低い声が漏れた。

 

 目の前にいるのは、たかが雄英の一年生のはずだった。

 

 そう思おうとする。

 

 だが、身体が先に反応していた。

 

 無意識に、一歩だけ足が下がる。

 

 心臓が速く打つ。

 

 喉の奥がひどく乾いた。

 

 理屈は分からない。

 

 ただ、近づいてはいけない。

 

 何かが、そう告げていた。

 

 死柄木は自分の足元へ目を落とした。

 

 後ずさった。

 

 その事実に気づいた途端、苛立ちが込み上げてくる。

 

「……っ、ふざけんな」

 

 首筋を掻く指が、再び動き始めた。

 

 さっきよりも強く。

 

「何で俺が、お前なんかに……!」

 

 怒鳴りかけた声が、途中で途切れる。

 

 一護が、ゆっくりと顔を向けたからだ。

 

 白い仮面。

 

 黒く染まった眼球。

 

 その奥に浮かぶ、黄色い瞳。

 

 目が合った瞬間、死柄木は息を呑んだ。

 

 脳無は動じなかった。

 

 低い唸り声を上げ、変わらず生徒たちへ向かおうとしている。

 

 だが、黒霧はすぐに気づいた。

 

 あの圧力は、長く続かなかった。

 

 少年の周囲へ一瞬だけ広がった何かが、次の瞬間には収束していた。

 

 まるで、意図して押し込めたかのように。

 

     *

 

 緑谷も、その変化を感じていた。

 

「……っ!」

 

 胸の奥が冷たくなった。

 

 何が起きたのか分からない。

 

 ただ、身体が反射的に強張った。

 

 恐怖。

 

 それが何に対するものなのか、分からなかった。

 

 目の前には、脳無がいる。

 

 その脳無よりも、さらに危険な何かが近くにいる。

 

 そんな感覚だった。

 

 緑谷は息を呑んだ。

 

 そして、黒崎の方を見る。

 

「……黒崎くん?」

 

 白い仮面。

 

 黒い死覇装。

 

 そして、巨大な刀。

 

 さっきまでと姿はほとんど変わらない。

 

 ただ、仮面を被っただけだ。

 

 それなのに。

 

 まるで、別の存在がそこに立っているようだった。

 

 蛙吹も僅かに目を見開いていた。

 

「……何かしら、今の」

 

 峰田はすでに涙目だった。

 

「もう嫌だ……何なんだよ、あいつも……!」

 

 相澤も、壁へ手をつきながら一護を見ていた。

 

 自分の生徒から、こんなものを感じるとは思わなかった。

 

 それも、ほんの一瞬。

 

 あの少年は、何事もなかったかのように抑え込んでいる。

 

 偶然ではない。

 

 本人が制御したのだ。

 

     *

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 仮面を顕現させた瞬間、虚の霊圧が少し漏れた。

 

 以前なら、気に留めなかったかもしれない。

 

 だが、今は違う。

 

 ここには、霊圧に対する耐性を持たない人間がいる。

 

 敵だけではない。

 

 傷ついた教師も、避難中の生徒たちもいる。

 

 無闇に撒き散らすわけにはいかなかった。

 

 だから、すぐに抑えた。

 

 霊圧を外へ広げるのではなく、身体の内側へ巡らせる。

 

 必要な部分だけを強化する。

 

 長い時間をかけて身につけてきた制御が、今はそれを可能にしていた。

 

「……悪いな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 だが、謝っている暇はない。

 

 脳無が、まだ動いている。

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 仮面の内側で、呼吸を整える。

 

 次の瞬間。

 

 その姿が消えた。

 

     *

 

「……っ!?」

 

 死柄木が目を見開く。

 

 脳無の巨体が、横へ吹き飛んでいた。

 

 いや、正確には違う。

 

 何かが動いた。

 

 そう認識したときには、すでに脳無が地面を滑っていた。

 

 一護はその前に立っている。

 

 白い仮面。

 

 黒い死覇装。

 

 そして、一振りの斬月。

 

「……これならどうだ」

 

 低い声が響いた。

 

 脳無が起き上がる。

 

 その瞬間、一護は再び踏み込んだ。

 

 今度は、正面からではない。

 

 相手の視界の外へ回り込み、斬月を振るう。

 

 刃が脳無の肩口を裂いた。

 

 巨体がよろめく。

 

 だが、すぐに傷口が塞がり始めた。

 

 一護は追撃しない。

 

 代わりに、その身体の前へ立ち続けた。

 

 脳無が別の方向へ動こうとすると、即座に進路を塞ぐ。

 

 黒霧が空間を開こうとすれば、その前へ回る。

 

 一護の目的は、脳無を倒すことだけではなかった。

 

 相澤へ近づけさせない。

 

 他の生徒へ向かわせない。

 

 そして、何より。

 

 誰かが助けに来るまで、ここで食い止める。

 

 そのための戦いだった。

 

 死柄木は苛立ったように首を掻いた。

 

「……何なんだよ、あいつ」

 

 脳無は、オールマイトを殺すために用意された。

 

 圧倒的な力。

 

 異常な耐久力。

 

 複数の個性。

 

 そのすべてを持たせた、特別な改人だ。

 

 それが今、雄英の一年生を相手に足止めされている。

 

 しかも、その少年は脳無を倒そうとしていない。

 

 ただ、好きなように動かさないだけだ。

 

「……ふざけんな」

 

 死柄木が低く呟く。

 

「黒霧。何とかしろ」

 

「試みております。しかし、あの速度では……」

 

「言い訳すんな!」

 

 死柄木が怒鳴った。

 

 一護はその声を聞きながら、斬月を握り直した。

 

 黒い霧が動く。

 

 脳無が踏み込む。

 

 再び攻撃が重なる。

 

 だが、今度は先ほどよりも余裕があった。

 

 仮面を介して虚の力を加えたことで、反応速度も身体能力もさらに上がっている。

 

 何より、力の流れが安定していた。

 

 死神の力を肉体へ重ねる。

 

 今朝までは、その状態を維持するだけで精一杯だった。

 

 だが、戦いながら使ううちに、余計な力みが抜けてきた。

 

 霊力を全身へ均等に押し込む必要はない。

 

 必要なところへ。

 

 必要な量だけ。

 

 長い時間をかけて身につけてきた制御が、ようやく今の技術にも噛み合い始めていた。

 

「……悪くねえ」

 

 一護は小さく呟いた。

 

     *

 

「……黒崎」

 

 相澤は壁際に座り込みながら、その戦いを見ていた。

 

 信じがたい光景だった。

 

 自分の生徒が、あの怪物を相手に戦っている。

 

 それだけでも異常なのに、動きがあまりにも違った。

 

 速い。

 

 強い。

 

 だが、それだけではない。

 

 必要以上に追撃しない。

 

 相手が動こうとする方向を見て、先回りする。

 

 常に、周囲へ意識を向けている。

 

 自分を守るために、何度も位置を変えていることも分かった。

 

 その戦い方には、妙な落ち着きがあった。

 

 初めて敵と対峙した十五歳の少年とは思えない。

 

 そして、あの仮面。

 

 相澤はその白い面を見つめた。

 

 今の黒崎からは、先ほどのような圧力は感じない。

 

 それでも、一度覚えた違和感は消えなかった。

 

 人間を圧倒する力を持ちながら、それを当然のように制御している。

 

 刀の扱いにも、躊躇がない。

 

 剣術を習っていた、という程度の話では説明がつかなかった。

 

「……お前、何者だ」

 

 思わず呟く。

 

 その声は、一護には届かなかった。

 

     *

 

 どれほどの時間が経ったのか。

 

 一護には分からなかった。

 

 ただ、脳無の動きには少しずつ癖が見え始めていた。

 

 力任せの攻撃。

 

 異常な再生。

 

 黒霧による空間移動。

 

 厄介ではあるが、決して対処できない相手ではない。

 

 ただし、こちらにも限界はある。

 

 死覇装と斬月を、生身のまま維持し続けている。

 

 しかも、仮面まで重ねている。

 

 霊力そのものに余裕はあっても、技術的な負担は小さくなかった。

 

 僅かな乱れが、全身へ広がりそうになる。

 

 一護は呼吸を整えた。

 

 焦る必要はない。

 

 無駄を省く。

 

 必要なところだけを動かす。

 

 それだけでも、戦い方は変わる。

 

 脳無が拳を振り上げた。

 

 一護は斬月を立て、真正面から受け流す。

 

 そのまま懐へ踏み込み、刀身を斜めに振り抜いた。

 

 黒い巨体が後方へ下がる。

 

 また傷口が塞がる。

 

 だが、その間だけでも、相手の足を止められる。

 

「……しつけえな、お前」

 

 一護は仮面の奥で笑った。

 

 脳無が低く唸る。

 

 そのときだった。

 

 施設の入口側から、大きな音が響いた。

 

 何かが破壊される音。

 

 続けて、風が吹き込んでくる。

 

 死柄木が顔を上げた。

 

「……あ?」

 

 黒霧も動きを止める。

 

 相澤が、僅かに目を見開いた。

 

 緑谷も顔を上げた。

 

「……あれは」

 

 一護は振り返らなかった。

 

 ただ、その気配には覚えがあった。

 

 この世界に生まれてから、何度もテレビで見てきた男。

 

 人々の期待を背負い、笑顔で現れるヒーロー。

 

 入口の向こうに、巨大な影が立っていた。

 

「私が来た!」

 

 声が、USJ全体へ響き渡った。

 

 オールマイトだった。

 

     *

 

「オールマイト!」

 

 緑谷が思わず声を上げた。

 

 その顔に、安堵が広がる。

 

 飯田が、外へ出られたのだ。

 

 誰かが、助けを呼んでくれた。

 

 それが分かっただけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。

 

 だが、緑谷はすぐに相澤へ目を向けた。

 

 まだ安心はできない。

 

 先生の怪我はひどい。

 

 ほかのクラスメイトたちも、どこにいるのか分からない。

 

「梅雨ちゃん、先生をもう少し奥へ!」

 

「ええ」

 

「峰田くんも、お願い!」

 

「分かったって!」

 

 三人は、もう一度相澤を支え直した。

 

 その様子を見て、オールマイトの表情が一瞬だけ険しくなる。

 

 だが、すぐに前を向いた。

 

 目の前には、脳無。

 

 そして、その前に立つ黒い装束の少年。

 

「……黒崎少年?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 黒い死覇装。

 

 白い仮面。

 

 巨大な刀。

 

 見慣れた雄英の生徒とは、まるで違う姿だった。

 

 それでも、オレンジ色の髪は見間違えようがない。

 

「君は……黒崎少年なのか!?」

 

「おう」

 

 一護は短く答えた。

 

「先生が怪我してる。先にそっちを頼む」

 

 オールマイトの視線が、壁際の相澤へ向いた。

 

 そして、緑谷たちの姿を確認する。

 

「……分かった!」

 

 一護は頷いた。

 

 そのまま脳無へ向き直る。

 

 相手はまだ動ける。

 

 再生能力も衰えていない。

 

 だが、ここまで来れば十分だった。

 

 自分がすべきことは、あの拳から相澤を守ることだった。

 

 それは、もう果たしている。

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 白い仮面の奥で、僅かに息を吐く。

 

「……あとは任せたぜ、オールマイト」

 

 その声を聞き、平和の象徴は力強く頷いた。

 

「もちろんだ!」

 

 次の瞬間、オールマイトが地面を蹴った。

 

 凄まじい風圧が、中央広場を駆け抜ける。

 

 一護はその動きを見ながら、静かに斬月を引いた。

 

 刀身には、まだ確かな重みが残っている。

 

 死覇装も、消えていない。

 

 仮面の下で、一護は小さく息を吐いた。

 

 今度こそ、きちんと自分の力を使えた。

 

 そう感じてから、傷ついた相澤のもとへ向かった。

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