「一護ー! そろそろ出るぞー!」
「聞こえてるって!」
階下から響く父親の声に、一護は少々うんざりしながら返事をした。
机の上に置いてあった診察券を財布へしまい、携帯電話をポケットへ入れる。
今日は病院へ行くことになっていた。
幼い頃から自分の能力を診てもらっている医師のもとで、改めて検査を受けるためだ。
USJで初めて実体化に成功した死覇装と斬月。
そして、虚の仮面。
どれも一護にとっては馴染みのある力だが、今の身体で使うようになったのはごく最近のことだった。
昨日の校長室では、根津校長や相澤、オールマイトから随分と質問を受けた。
自分なりに説明はしたものの、彼らが知りたがっていることをすべて答えられたとは思わない。
何より、一護自身にも確認しておきたいことがあった。
死神の力を肉体へ重ねた状態で、どこまで身体に負担がかかるのか。
USJでは戦うことを優先した。
あの場で細かいことまで考えている余裕はなかったし、結果として相澤たちを助けられたのだから、後悔もしていない。
だが、次も同じように使える保証はない。
「……ちゃんと調べとかねえとな」
一護は財布を手に取り、部屋を出た。
*
「いやぁ、まさかお前とこうして二人で病院へ行く日が来るとはなぁ!」
「昔から何回も行ってんだろ」
「そういう意味じゃねえ!」
運転席の一心が大袈裟に首を振った。
「雄英に入ってからというもの、お前はますます父ちゃんに冷たくなっちまって……!」
「前からだろ」
「否定しろよ!」
一護は窓の外へ視線を向けた。
道路には休日らしい車の流れが続いている。
交差点の向こうでは、子供が母親と手を繋いで歩いていた。
いつもと変わらない街だった。
USJでの出来事など、ここを歩く人々には遠い世界の話なのかもしれない。
もちろん、ニュースでは大きく報道されていた。
雄英高校がヴィランの襲撃を受けた。
教師が重傷を負い、警察が事件を調べている。
その程度の情報は、今や誰でも知っている。
だが、あの場で何が起きたのかを正確に知っている人間は少ない。
実際にいた一護でさえ、ほかの災害ゾーンで起きたことをすべて把握しているわけではなかった。
「……一護」
不意に、一心の声が落ち着いたものに変わった。
「ん?」
「今日の検査、何か分かったらちゃんと教えろよ」
一護は運転席へ目を向けた。
一心は前を見たまま続ける。
「お前の身体のことだ。先生には遠慮せずに話せ」
「分かってる」
「何でもなきゃ、それでいい。けど、何かあるなら早めに知っときてえんだ」
その言葉に、一護は少しだけ目を伏せた。
こういうところは、変わらない。
普段はふざけてばかりいるくせに、家族のこととなると妙に真剣になる。
前世の一心もそうだった。
今の父親には死神としての記憶などない。
それでも、同じように息子を心配する。
「……ああ。ちゃんと話すよ」
一護が答えると、一心は満足そうに頷いた。
「よし!」
そして、途端に声を張り上げる。
「それじゃあ検査が終わったら、父ちゃんとラーメンでも――」
「母さんが昼飯作って待ってるだろ」
「……あっ」
「忘れてたのかよ」
「違うぞ一護! 父ちゃんは決して真咲の昼飯を忘れていたわけでは――」
「電話しとくか?」
「やめろォ!」
一護は深い溜息をついた。
やはり、いつもの親父だった。
*
「久しぶりだね、一護くん」
「先生、どうも」
診察室へ入ると、白髪交じりの医師が顔を上げた。
穏やかな目元と、年齢の割にしっかりした声。
四歳の頃から世話になっている医師だった。
現在は大きな病院に勤めているが、以前から一護の特殊な能力について継続的に診てくれている。
「テレビで雄英のニュースを見たよ。大変だったね」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっと、で済む話じゃないだろう?」
医師が苦笑する。
一護は肩をすくめた。
「無事だったんで、結果的には」
「そういうところは昔から変わらないね」
「……そうですか?」
「そうだよ。何かあっても、自分のことは後回しにする」
医師は手元のカルテを開いた。
「もっとも、今日は自分から検査を受けに来てくれた。少しは成長したかな」
「……もう高校生ですからね」
「ははは。そうだったね」
隣では一心が頷いている。
「先生! うちの馬鹿息子を頼みます!」
「だから誰が馬鹿息子だ!」
「元気そうで安心したよ」
医師は笑いながら椅子を勧めた。
一護が腰を下ろすと、カルテが画面に表示される。
そこには、幼少期からの検査記録が並んでいた。
最初の診察は四歳の頃。
当時から一護には、一般的な個性の分類では説明しづらい現象がいくつも見られた。
通常の身体能力を超える動き。
何もない空間を蹴ったような加速。
物体へ触れることなく生じる、微かな力の作用。
ただし、それらの力がどこから来ているのかまでは分からなかった。
医師はその頃から、確認できた現象と一護自身の説明を分けて記録していた。
「学校からも連絡をもらっているよ」
医師が言った。
「今回、新しい能力が確認されたそうだね」
「はい」
「刀と、衣服。それから仮面のようなもの……だったかな」
「そうですね」
医師は記録を見ながら頷く。
「一護くん。少し聞いてもいいかい?」
「何ですか?」
「これまで使っていた身体強化や高速移動と、今回の刀や装束は、君の中では別の能力なのかな?」
一護は少し考えた。
「……使い方が違うだけですね」
「使い方?」
「はい。できることは色々あるんですけど、全部俺の力なんで」
医師は頷いた。
「なるほど」
一護は自分の右手を見下ろした。
「今まで、身体に力を流すことはできてたんです。でも、外に形として出そうとすると、上手くいかなくて」
「それが、今回はできた?」
「はい。今の身体に、別の力を重ねるような感じです」
「重ねる……」
医師はその言葉を記録した。
「それは、君が以前から話していた『魂』というものに関係しているのかな?」
「……そうだと思います」
一護は頷いた。
「元々、俺の中にあるもんなんで。それを身体に纏わせてるっていうか……」
「なるほどね」
医師は、それ以上深く追及しなかった。
魂。
霊力。
霊子。
一護が昔から使っている言葉だ。
その概念が科学的に確認できたわけではない。
だが、本人がそのように認識し、実際に何らかの現象を起こしていることは確かだった。
「では、まず身体の状態を調べようか。新しい能力については、そのあと実際に見せてもらいたい」
「分かりました」
一護は頷いた。
*
検査は、普段の身体測定から始まった。
身長。
体重。
筋力。
神経反応。
運動負荷。
能力使用前後の身体的な変化。
幼い頃から何度も受けてきた検査ばかりだった。
ただし、今回は測定項目が少し増えていた。
「……特に大きな異常はないね」
医師が画面を確認する。
「筋肉や神経にも、目立った損傷は見られない。血液検査の結果も、今のところ問題なさそうだ」
「そうですか」
一護は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただし、これで新しい能力が安全だと証明されたわけじゃないよ」
「……分かってます」
「能力を使ったとき、君は身体に負担がかかっている感覚があったかな?」
「ありました。USJで使ったあと、少し疲れが残ってて」
「筋肉痛のようなもの?」
「いや……どっちかっていうと、身体の内側が重い感じです。動けなくなるほどじゃないんですけど」
医師は考え込んだ。
「ふむ……」
記録にいくつかの項目を追加する。
「新しい能力を維持するために、通常とは異なる負荷がかかっている可能性はあるね。もっとも、その感覚が何に由来するのかは、今の検査では分からない」
「……なるほど」
「君は昔から、できることが増えるとすぐに次を試したがるだろう?」
「……そうでしたっけ」
「そうだったよ」
即答された。
隣で一心が笑い出す。
「はっはっは! 先生には全部バレてるな!」
「親父は黙ってろよ」
医師も小さく笑った。
「まあ、無茶をするなと言って聞く子じゃないことは知ってるからね」
「……そんなことないですよ」
「そうかな?」
「……多分」
一護が視線を逸らすと、医師は声を上げて笑った。
「では、実際に能力を確認しようか」
*
案内されたのは、病院の奥にある特殊な検査室だった。
個性の発現や制御を確認するための施設で、床や壁には衝撃を吸収する素材が使用されている。
大型の測定機器も設置され、隣の観察室から内部を確認できるようになっていた。
一護も、幼い頃に何度か利用したことがある。
ただし、今回用意されていた区画は以前より広かった。
「……随分広いですね」
『刀を出すと聞いていたからね。狭い場所で試すわけにもいかないだろう?』
通信機から医師の声が響いた。
「そりゃそうか」
『まずは衣服だけを出してみてくれるかな?』
「はい」
一護は部屋の中央へ進んだ。
深く息を吸う。
肉体の内側へ意識を向けた。
完現術によって、魂魄と肉体の重なりを調整する。
そこへ霊子を流し、形を保つための支えを作る。
かつては、ほんの一瞬だけしか維持できなかった。
だが、今は違う。
黒い袖が現れる。
肩から胸へ。
腰から脚へ。
白い帯が締まり、袴の裾が落ちた。
数秒後。
一護は死覇装を身にまとっていた。
『……なるほど』
医師の声が響く。
『腕を動かしてみてくれるかな?』
一護は指示に従い、両腕を上げた。
袖が揺れる。
続いて膝を曲げ、軽く跳躍する。
そのたびに、死覇装は普通の衣服と同じように動いた。
『その衣服には、布の感触があるんだね?』
「ありますよ」
『君自身の皮膚の感覚はどうかな?』
「普通にあります」
『では、少し袖を引っ張ってみてくれるかい?』
一護は袖口を摘み、軽く引いた。
布が伸び、肩へ抵抗が伝わる。
『ありがとう。今度は刀をお願いするよ』
「はい」
一護は右手を横へ伸ばした。
掌へ意識を集中させる。
そこに、ずしりとした重みが生まれた。
晒しの巻かれた柄。
鍔のない、幅広の刀身。
銀色の刃と、黒い峰。
斬月が、一護の手の中へ現れた。
『……大きいね』
医師が感心したように言った。
一護は小さく笑った。
「昔からこんなもんなんで」
『昔から?』
「あ……いや」
一護は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「頭の中じゃ、ずっとこんな形だったんですよ」
『なるほど。以前からイメージしていた形なんだね』
「……まあ、そんな感じです」
医師はそれ以上追及せず、次の確認へ移った。
『その刀は、見た目だけのものではないんだよね?』
「はい。ちゃんと斬れます」
『では、用意した試験材へ当ててみよう。ただし、威力は抑えてね』
「分かりました」
一護は指定された位置へ移動した。
目の前には、厚い試験材が固定されている。
斬月を構える。
軽く振り下ろす。
刃が試験材へ触れた瞬間、真っ直ぐな切れ目が走った。
医師は観察室からその様子を見ていた。
『ありがとう。もう十分だよ』
一護は斬月を下ろした。
『映像だけではなく、実際の物理的な接触も確認できた。刀としての形状も安定しているようだね』
「……そうですね」
一護は斬月を見下ろした。
確かに、以前よりずっと扱いやすい。
死覇装も、ほとんど意識せずに維持できている。
USJでの実戦を経て、力の重ね方が身体に馴染んできたらしい。
『では、最後に消してみてくれるかな?』
「はい」
一護は斬月へ流していた力を緩めた。
刀身が細かな霊子となってほどけ、右手から消えていく。
続いて死覇装も消す。
黒い袖が薄れ、白い帯がほどける。
最後には、元の服装だけが残った。
『……ありがとう。一度、こちらへ戻ってきてくれるかい?』
「分かりました」
一護は大きく息を吐き、検査室をあとにした。
*
「身体に大きな負担がかかっている様子はないね」
診察室へ戻ると、医師がそう言った。
「少なくとも、今回の短時間の使用では、異常な反応は確認できなかった」
一護は頷いた。
「……よかった」
「ただ、長時間の使用についてはまだ分からない。USJではどのくらい維持していたんだい?」
「……正確には覚えてないです。戦ってたんで」
「そうだろうね」
医師は記録を取った。
「では、今後も様子を見ていこう。次に何か変化があったら、すぐに教えてほしい」
「分かりました」
医師はそこで、資料を一枚めくった。
「それと、もう一つ確認したいことがある」
「何ですか?」
「仮面についてだよ」
一護は僅かに表情を引き締めた。
医師は続ける。
「学校からの報告では、君が仮面を出現させた直後、周囲にいた生徒や教師が強い恐怖を感じたそうだね」
「……はい」
「それは、君が意図的に起こした現象なのかな?」
「いや、違います」
一護は首を振った。
「仮面を出した瞬間、力がちょっと外に漏れたんです。すぐに抑えたんですけど」
「その後は?」
「周りの連中も動けるようになってました。怪我をさせたわけじゃないです」
医師は考え込んだ。
「……なるほど」
そして、少しだけ表情を引き締める。
「それについては、慎重に扱った方がよさそうだね」
一護も頷いた。
「そうですね」
「周囲の人間が感じた恐怖が、どういう仕組みで生じたのか。今の段階では判断できない」
医師は手元の記録を確認した。
「君は力を外へ漏らしたと表現しているけれど、その力が直接身体へ作用したのか、それとも何らかの感覚に影響したのかも、まだ分からない」
「……はい」
「だから、ここで再現してみようとは言わないよ」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
「試さなくていいんですか?」
「必要な設備や安全対策が整ってからにしよう。今すぐ確認しなければならないものでもないしね」
「……分かりました」
医師は穏やかに笑った。
「君自身は、次に使うときも制御できると思っているんだね?」
「はい。今度は、最初から抑えて出せると思います」
「ならば、その感覚を忘れないようにしておこう。ただし、実際に安全かどうかは別の話だよ」
「分かってます」
一護は頷いた。
虚の仮面。
前世では、強大な力を引き出すために使っていたものだ。
その危険性も、よく知っている。
今の自分は、あの頃とは違う。
虚の力を恐れているわけではないし、拒絶するつもりもない。
ホワイトもまた、自分自身だ。
だが、だからといって、周囲へ無制限に力を放っていい理由にはならない。
あの瞬間。
緑谷たちは、確かに怯えていた。
一護はその表情を思い出し、小さく息を吐いた。
「……ちゃんと扱えるようにします」
医師は静かに頷いた。
「それがいいね」
*
「さて。一護くん」
検査が終わり、医師がカルテを閉じた。
「最後に、もう一つ聞いておきたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「君の個性名についてだよ」
一護は、僅かに目を瞬かせた。
「……名前?」
「そう」
医師は昔の記録を開いた。
「四歳の頃、最初に能力を調べたときのことは覚えているかな?」
「……ああ。覚えてますよ」
あの頃の自分は、何と説明すればいいのか分からなかった。
死神の力。
虚の力。
滅却師の力。
完現術。
そのどれもが、この世界には存在しない概念だった。
そもそも、当時の一護には、まだ使えない力も多かった。
だから、実際に確認できる現象だけを伝えた。
身体能力が上がる。
普通より速く動ける。
物体へ力を働きかけられる。
医師はそれらを記録として整理し、個性の届け出に必要な資料を作ってくれた。
だが、個性の名前だけは決まらなかった。
「当時、君は名前を付けたがらなかったね」
医師が言った。
「……そうでしたね」
「まだ自分の能力をよく分かっていないから、もう少し待ってほしいと言っていた」
一護は小さく笑った。
確かに、そんなことを言った覚えがある。
実際には、自分の力が何なのか知らなかったわけではない。
ただ、今世でどのように使えるのかが分からなかった。
前世と同じように死神化できるのか。
斬月を握れるのか。
虚の仮面を使えるのか。
何一つ、保証はなかった。
「それから、何度か能力の記録を更新したけれど、名称は未設定のままだった」
医師は続ける。
「今回は新しい能力も確認できたし、学校へ提出する資料も更新する必要がある。そろそろ名前を決めてもいいんじゃないかな?」
一護は黙った。
名前。
自分の力に与える名前。
身体を動かす力。
物体へ働きかける力。
死神の力。
虚の力。
滅却師の力。
そのすべてを、一つの言葉で表す。
そんなことができるのだろうか。
一護は右手を見下ろした。
つい先ほど、そこに現れた刀。
何度も握り、何度も振るってきたもの。
その名前なら、昔から知っている。
斬月。
それは、刀の名前だった。
そして、自分の内側にいる二人の名前でもあった。
黒い衣をまとった男。
白い男。
どちらも、斬月。
どちらも、自分自身。
かつて、そのことを知ったとき、一護はようやく自分の力を受け入れることができた。
今さら、別の名前を考える必要などないのかもしれない。
「……斬月」
一護は呟いた。
医師が顔を上げる。
「斬月?」
「はい」
一護は頷いた。
「俺の個性名、それにします」
医師は少しだけ考えた。
「……ザンゲツ、か。どういう意味なんだい?」
一護は僅かに笑った。
「元々、あの刀の名前なんです」
「刀の?」
「はい。でも……それだけじゃないんで」
医師は黙って続きを待った。
一護は右手を握る。
「色んな使い方ができるけど、全部俺の力なんです。だから、まとめて斬月でいいかなって」
医師はしばらく一護を見つめていた。
そして、穏やかに笑った。
「……いい名前だね」
「ありがとうございます」
一護は少し照れくさそうに頭を掻いた。
医師はパソコンへ向き直る。
「では、今回の所見と一緒に、個性名も記録しておこう。学校へ提出する書類にも、この名前を記載するよ」
「お願いします」
キーボードの音が響いた。
画面の個性名の欄へ、文字が入力される。
――斬月。
一護は、その文字を静かに見つめていた。
前世から、何度も呼んできた名前だ。
だが、この世界で自分の力として記録されるのは、今日が初めてだった。
「……これでよし」
医師が頷いた。
「正式な記録の更新も進めておくよ。ただし、能力の仕組みが医学的に解明されたわけではないから、そこは今後も調べていこう」
「はい」
一護は素直に頷いた。
名前が決まったからといって、すべてが分かったわけではない。
まだ、できないこともある。
知らないこともある。
それでも。
これからは、自分の力をどう呼ぶか迷わなくて済む。
それだけで、随分とすっきりした気がした。
*
「斬月、か」
帰りの車の中で、一心が呟いた。
「……何だよ」
「いやぁ、なかなか格好いい名前じゃねえか!」
一護は窓の外へ視線を向けた。
「別に、格好つけて決めたわけじゃねえよ」
「照れるな照れるな!」
「照れてねえって」
「父ちゃんとしては嬉しいぞ! ついに息子の個性に名前が――」
「前見て運転しろ!」
「はいっ!」
一心が慌ててハンドルを握り直す。
一護は溜息をついた。
まったく。
相変わらず騒がしい親父だった。
だが、悪い気はしなかった。
斬月。
その名前を聞いた一心は、素直に喜んでくれた。
今の父親には、その名が持つ意味など分からない。
それでいい。
一護自身が覚えていれば、それで十分だった。
*
週が明ける頃には、雄英の校内も体育祭へ向けた空気に変わり始めていた。
授業の合間にも、競技の話題が飛び交う。
どんな種目があるのか。
どんな個性が有利なのか。
誰が活躍するのか。
生徒たちの関心は、日に日に高まっていた。
「なあ黒崎!」
昼休み。
切島が一護の机へ近づいてきた。
「お前、体育祭どうすんだ?」
「どうって?」
「いや、めちゃくちゃ気合い入ってんのかなって」
一護は首を傾げた。
「普通に頑張るつもりだけど」
「普通って何だよ!」
上鳴が横から割り込む。
「お前、あんなすげえ個性持ってんじゃん!」
「別に、使えるもん全部使うとは限らねえだろ」
「え?」
「競技のルールもまだ分かんねえしな」
一護がそう言うと、切島が腕を組んだ。
「……ああ、そっか」
「何が?」
「いや、お前の刀だよ。あれ、普通に斬れるんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、対人戦だと使いづらくねえか?」
一護は頷いた。
「……そうなんだよな」
ヴィラン相手なら、必要に応じて斬月を振るうこともできる。
だが、体育祭の相手は同じ学校の生徒だ。
勝つためだからといって、刃物で斬りつけるわけにはいかない。
まして、斬月の斬れ味は普通の刀とは違う。
ほんの少し扱いを誤れば、大怪我に繋がりかねなかった。
「……一応、考えてることはあるんだけどな」
一護が呟く。
切島が身を乗り出した。
「おっ、何だ?」
「まだ試してねえんだよ。上手くいくかも分かんねえ」
「だったら試そうぜ!」
上鳴が笑った。
「放課後、訓練場借りればいいじゃん!」
一護は少し考えた。
確かに、試してみる価値はある。
力の使い方を変えるだけなら、自分の中で何とかできるかもしれない。
だが、実際にどうなるかは確認しなければ分からない。
「……まずは先生に許可取ってからだな」
「おお、いいじゃねえか!」
切島が拳を握った。
「俺も付き合うぜ!」
「ありがとな」
一護は小さく笑った。
*
放課後。
許可を得て使用した訓練場には、一護と切島のほかに数人の生徒が集まっていた。
緑谷。
上鳴。
常闇。
そして、八百万と耳郎。
話を聞いた面々が、興味を持ってやって来たらしい。
「……何でこんなに集まってんだ?」
一護が呟くと、上鳴が笑った。
「そりゃ見たいだろ! お前の新しい能力!」
「……まあ、いいけどよ」
訓練場には、試験用の標的がいくつか用意されていた。
硬さの異なる素材で作られたもので、通常の個性訓練でも使用されるものだ。
一護はそのうちの一つを正面に据えた。
「……じゃ、始めるか」
右手を横へ伸ばす。
霊力を流す。
黒い死覇装が身体を覆い、掌へ斬月が現れた。
「……おお!」
切島が声を上げる。
「やっぱ近くで見るとでけえな!」
「すごい……」
緑谷も目を輝かせていた。
その隣で、常闇が静かに呟く。
「……魂の奥底から形を成す刃、か」
「いや、何で分かんだよ」
一護が思わず突っ込む。
「……何となくだ」
「そっかよ」
黒影が常闇の肩から顔を出した。
「すっげえ刀!」
「おう。ありがとな」
一護は笑って答えた。
だが、すぐに表情を引き締める。
問題は、ここからだ。
斬月は鋭い。
そのまま振れば、相手を斬ってしまう。
だから、少し考えていたことがある。
霊圧を、刃の周囲へ集める。
月牙天衝のように放つのではない。
薄く、均等に。
刀身を覆うように留める。
斬月そのものが触れる前に、圧縮した霊圧が先に相手へ当たるようにする。
上手くいけば、斬撃ではなく、打撃に近い形で力を伝えられるはずだった。
「……まずは軽く」
一護は呟いた。
斬月を構える。
そして、試験用の標的へ振り下ろした。
鈍い音が響いた。
「……っ」
一護が眉を寄せる。
標的の表面に、浅い傷が入っていた。
「……駄目か」
霊圧が均一に広がっていなかった。
刃の一部が、直接触れてしまったらしい。
緑谷が少し離れた場所から声をかける。
「黒崎くん、今のって……刀の周りに何か纏わせてるの?」
「……ああ」
一護は頷いた。
「刃が当たらねえように、周りに力を集めてる」
「なるほど……!」
緑谷の目が輝いた。
「それなら、刀そのものを鈍くするんじゃなくて、周囲の力で衝撃を伝えられるってことか!」
「……上手くいけばな」
一護は斬月を見下ろした。
方向性は間違っていない。
ただ、今のままでは危険だ。
もう少し細かく制御する必要がある。
「……もう一回やってみる」
一護は霊圧を集め直した。
今度は、刃の先端だけではない。
刀身全体を、薄い膜で包む。
形を崩さないように意識を保ち、再び振り下ろした。
鈍い衝突音。
標的が揺れる。
だが、今度は傷が入っていなかった。
「……おっ?」
切島が身を乗り出す。
「今の、斬れてねえぞ!」
一護は刀身へ視線を落とした。
「……ああ」
確かに、刃は触れていない。
圧縮した霊圧が先に当たり、衝撃だけを伝えた。
「……なるほどな」
一護は小さく笑った。
できないわけではない。
問題は、どこまで安定させられるかだった。
「なあ黒崎!」
切島が拳を握る。
「それ、俺にも試してみねえか?」
一護は即座に首を振った。
「まだ駄目だ」
「え?」
「今のだって、上手くいったの二回目だぞ。途中で崩れたら、お前を斬っちまう」
「でも、俺なら硬化できるぜ?」
「それでもだ」
一護は斬月を下ろした。
「大丈夫だって確かめてからじゃねえと、危ねえだろ」
切島は少しだけ目を瞬かせた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……おう! 分かった!」
一護も笑った。
「そのときは頼むぜ」
「任せろ!」
切島は力強く頷いた。
一護は再び標的へ向き直る。
まだ、これで完成ではない。
だが、使い方は見えてきた。
斬月を使っても、相手を必要以上に傷つけずに済む。
その可能性があるだけでも、十分だった。
*
「……すごいね、黒崎くん」
緑谷が呟いた。
目の前では、一護が何度も斬月を振るっている。
最初の一撃では、標的へ傷が入ってしまった。
だが、二度目からは徐々に安定し始めている。
刀身の周囲へ何らかの力を集中させ、刃が触れる前に衝撃を伝えているらしい。
しかも、その力を刀の動きに合わせて保っている。
緑谷は考え込んだ。
どうやっているのだろう。
刀そのものを強化するのとは違う。
むしろ、斬れ味を抑えるために力を使っている。
それが、緑谷には少し意外だった。
普通なら、強い個性を手に入れたら、もっと威力を上げようとするのではないだろうか。
だが、黒崎は違った。
今の自分が持っている力を、どう使うべきか考えている。
緑谷は自分の右手を見下ろした。
ワン・フォー・オール。
オールマイトから受け継いだ、あまりにも大きな力。
未だに、自分の身体ではまともに扱えない。
全力を出せば、骨が砕ける。
だから、使いどころを考えなければならない。
だが。
力そのものを細かく調整し、必要な分だけ使えるようになれば。
もしかしたら、自分にも――。
「……緑谷?」
声をかけられ、顔を上げる。
いつの間にか、一護が近くまで来ていた。
「どうした? 難しい顔して」
「あっ、いや!」
緑谷は慌てて手を振った。
「ちょっと考え事してて……」
「そっか」
一護はそれ以上聞かなかった。
緑谷は、そんな一護の顔を見て、少しだけ笑った。
USJで感じた恐怖は、今でも覚えている。
白い仮面。
黒い眼窩に浮かんだ黄色い瞳。
身体が勝手に強張った、あの瞬間。
だが、あのとき一護は自分たちを助けてくれた。
そして今は、誰かを傷つけないために力の使い方を考えている。
その姿を見ていると、少しだけ分かる気がした。
黒崎くんは、強くなることだけを考えているわけではない。
強くなったあとに、その力をどう使うのか。
そこまで考えているのだ。
「……僕も、もっと頑張らないと」
緑谷は小さく呟いた。
その言葉は、一護には聞こえていなかった。
*
訓練を終えた頃には、日が傾き始めていた。
一護は斬月と死覇装を消し、更衣室で制服へ着替えた。
廊下へ出ると、切島が隣を歩いている。
「いやー、今日は面白かったな!」
「お前、ほとんど見てただけだろ」
「それでも面白かったって!」
一護は呆れたように笑った。
「変な奴だな、お前」
「褒め言葉として受け取っとくぜ!」
「褒めてねえよ」
二人が笑っていると、向こうから声がかかった。
「黒崎くん!」
一護は顔を上げた。
井上織姫だった。
隣には拳藤もいる。
「おう、井上」
「今、帰り?」
「ああ。ちょっと訓練しててな」
「そうなんだ!」
織姫が笑った。
拳藤が切島へ目を向ける。
「そっちも訓練?」
「おう! 体育祭に向けてな!」
「へえ。A組も気合い入ってるんだね」
「当たり前だろ! B組には負けねえぜ!」
拳藤が笑った。
「こっちだって負けるつもりないからね」
「おっ、いいじゃねえか!」
切島は楽しそうに拳を握った。
その横で、織姫が一護へ目を向ける。
「黒崎くんも、体育祭楽しみ?」
「……楽しみっつうか、まあ、やるからには頑張るつもりだよ」
「そっか!」
織姫は嬉しそうに笑った。
「私も頑張るね!」
「おう」
一護も頷く。
「お互い、怪我しねえようにな」
「うん!」
拳藤が二人のやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
「じゃあ、体育祭ではライバルだね」
「そうなるな」
一護は肩をすくめる。
「手加減はしねえぞ?」
「こっちもだよ!」
拳藤が笑って返した。
織姫も頷く。
「私も、精一杯頑張る!」
「おう。楽しみにしてる」
一護は軽く手を振った。
そして、切島とともに廊下を歩き出す。
織姫はその背中を見送っていた。
雄英体育祭。
たくさんの人が見に来る、大きな行事。
自分も、できる限り頑張りたい。
そう思った。
ただ。
先ほどまで一護がどんな訓練をしていたのか。
その姿を、織姫はまだ知らなかった。
*
その夜。
一護は自室のベッドへ腰を下ろしていた。
病院での検査。
体育祭へ向けた訓練。
今日も色々あった。
だが、一番大きかったのは、やはり個性名を決めたことだろう。
「……斬月、か」
小さく呟く。
その名前を、この世界でも使うことになるとは思っていなかった。
前世では、刀の名だった。
そして、己の力の名でもあった。
今世では、そのすべてを含めた個性の名前になった。
不思議な感覚だった。
けれど、悪くない。
一護は横になり、目を閉じた。
意識を、ゆっくりと沈めていく。
聞き慣れた水音が、遠くから響いてきた。
*
目を開けると、そこには見慣れた街並みが広がっていた。
高層ビル。
水に覆われた地面。
灰色の空。
一護は、その場に立っていた。
「……よぉ」
声がした。
振り返る。
そこには、白い男がいた。
自分と同じ顔。
ただし、髪も肌も白く、瞳の色は反転している。
ホワイト。
虚の力を体現する、もう一人の斬月。
「久しぶりだな、王様!」
ホワイトが笑った。
「……何だよ、その顔」
「ヒャハハ! 別に?」
ホワイトは肩に担いだ斬月を軽く回した。
「いやぁ、ようやく外でまともに刀振れたじゃねえか」
一護は小さく笑った。
「……まあな」
「しかも、仮面まで使いやがって。随分と楽しそうだったなァ」
「楽しんでたわけじゃねえよ」
「似たようなもんだろ!」
ホワイトが笑う。
一護は肩をすくめた。
そのとき、背後から静かな声が響いた。
「一護」
振り返る。
黒い衣をまとった男が、そこに立っていた。
斬月のオッサン。
滅却師の力を体現する存在。
「オッサン」
一護は軽く手を上げた。
斬月のオッサンは、静かにこちらを見つめている。
「新たな名を得たようだな」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
そして、笑った。
「……聞いてたのかよ」
「お前の中にいるのだからな」
「そりゃそうか」
ホワイトが横から笑った。
「何だよ王様! ようやく俺たちの名前、ちゃんと使う気になったのか!」
「前から使ってただろ」
「刀の名前としてはな!」
一護は少しだけ眉を寄せた。
だが、言い返すのはやめた。
ホワイトの言いたいことは、分かっている。
斬月のオッサンも。
ホワイトも。
どちらも、自分の力だ。
そのすべてを、ようやく一つの名前で受け止められた。
それは、悪いことではないと思った。
「……で」
一護は二人を見た。
「今日は、ちょっと頼みがあんだよ」
ホワイトが口元を歪めた。
「ほう?」
斬月のオッサンも、静かに続きを待っている。
一護は自分の足元へ視線を落とした。
「歩法だ」
「……歩法?」
「ああ。今まで、瞬歩と完現光は使ってきた。けど、まだやれることはあるだろ」
斬月のオッサンが僅かに目を細めた。
一護は続ける。
「空中での移動とか、細かい方向転換とかさ。使い分けるだけじゃなくて、もっと自分に合う動き方を身につけたい」
ホワイトが笑った。
「ヒャハハ! ようやくそんなこと考えるようになったか!」
「うるせえな」
「いいぜ。教えてやるよ」
ホワイトは斬月を肩へ担いだ。
「ただし、俺の教え方は知ってんだろ?」
一護は眉を寄せた。
「……また、いきなり斬りかかってくんのかよ」
「当然だろ!」
白い男が笑った。
その横で、斬月のオッサンが静かに口を開く。
「一護。お前はかつて、空中の霊子を集め、足場とする方法を学んだことがあるな」
「ああ。覚えてる」
「ならば、そこから始めよう」
男は足元へ視線を落とした。
「霊子を集め、足場を作る。ただそれだけではない。その流れを利用して移動する術がある」
一護は目を細めた。
「……飛廉脚か」
「そうだ」
斬月のオッサンが頷く。
「お前ならば、理解は早いだろう」
その言葉に、一護は小さく笑った。
「……どうだかな」
ホワイトが横から口を挟む。
「で、オッサンの方が終わったら、次は俺だな!」
「……お前は何教えんだよ」
ホワイトは牙を見せて笑った。
「響転。ソニードってやつだ」
一護は僅かに眉を上げる。
「……ああ」
その名前は知っている。
破面たちが使っていた、高速移動の技術。
瞬歩とは異なる性質を持つ、虚の歩法。
「お前が教えられんのか?」
ホワイトは笑みを深めた。
「何だよ、王様。疑ってんのか?」
「いや、そういうわけじゃねえけど」
「だったら、試してみろよ」
ホワイトが一歩踏み出した。
次の瞬間。
姿が消えた。
「……っ!」
一護は反射的に振り返る。
だが、そこには誰もいない。
気配を探る。
見当たらない。
その直後。
背後から、愉快そうな声が響いた。
「遅えよ、王様!」
「……っ!」
一護は咄嗟に身体をひねった。
白い刃が、頬のすぐ横を通り過ぎる。
「おわっ!?」
慌てて距離を取る。
ホワイトは斬月を肩へ担ぎ直し、大声で笑った。
「ヒャハハハ! 今の見えたか!?」
「見えるか、そんなもん!」
「だったら見えるようになれよ!」
「無茶言うな!」
ホワイトは楽しそうに笑い続けている。
斬月のオッサンは、その様子を静かに見ていた。
一護は大きく息を吐いた。
まったく。
相変わらず、ろくでもない教え方をする。
だが。
今の動きは、確かに面白かった。
瞬歩とも、完現光とも違う。
単純な速度だけではなく、相手に動きを捉えさせない何かがある。
それを、自分のものにできるのなら。
一護は口元を緩めた。
「……よし」
足元へ霊力を集中させる。
水面が、小さく揺れた。
ホワイトが笑う。
「来いよ、王様!」
一護は地面を蹴った。