水面が弾けた。
白い刃が、真横から迫る。
一護は身体を沈めて躱し、そのまま斬月を振り上げた。
だが、刃が捉えたのは空気だけだった。
「遅え!」
背後から声が飛ぶ。
「……っ!」
振り返るより早く、一護は斬月を背中側へ回した。
金属音が響く。
白い刀身が、黒い刃とぶつかった。
「おっ!」
ホワイトが笑った。
「今のは悪くねえな、王様!」
「……そりゃどうも!」
一護は刀を押し返し、間合いを取る。
水面へ着地した瞬間には、もうホワイトの姿が消えていた。
右。
いや、上か。
霊圧を探る。
気配を捉えたときには、すでに白い影が頭上へ迫っていた。
「くそっ!」
一護は瞬歩でその場を離れた。
直後、白い刀身が水面を叩き割る。
だが、避けたはずの一護の目の前に、再びホワイトが現れた。
「何ッ!?」
「ヒャハハ! そっちに逃げると思ったぜ!」
横薙ぎの一閃。
一護は咄嗟に斬月を立てた。
刃がぶつかり、腕へ衝撃が伝わる。
「……っ、てめえ!」
「どうしたどうした! そんなもんじゃねえだろ!」
ホワイトは楽しそうに笑っている。
一護は歯を食いしばった。
速い。
それは間違いない。
だが、単に速度だけの問題でもなかった。
瞬歩であれば、踏み込む瞬間の霊圧や身体の動きから、ある程度は次の位置を予測できる。
相手がどれほど速くても、移動そのものの気配を追うことはできる。
しかし、ホワイトの動きは違った。
姿が消える。
次の瞬間には、まるで最初からそこにいたかのように現れる。
移動したことは分かる。
だが、その途中がひどく掴みにくい。
「……お前、わざと気配を切ってんのか?」
一護が尋ねると、ホワイトは牙を見せて笑った。
「おっ。少しは頭使うようになったじゃねえか!」
「質問に答えろよ!」
「教えてやってんだろ。身体で覚えろ!」
「結局それかよ!」
一護は呆れながら斬月を構え直した。
まったく、相変わらずだ。
ただ、今のやり取りで少し分かったこともある。
ホワイトは移動の直前、霊圧の流れを一瞬だけ変えている。
それを追おうとすると、逆に位置を見失う。
こちらが普段頼りにしている感覚を、上手く外されているらしい。
「……なるほどな」
一護は息を吐いた。
「なら、やり方変えるか」
「ほう?」
ホワイトの笑みが深くなる。
一護は斬月を両手で握った。
相手の移動先を追いかけるのではない。
まずは、動き出す瞬間を見極める。
ホワイトが一歩踏み出した。
その瞬間。
一護は、相手が消えるより先に踏み込んだ。
斬月が走る。
白い刃と、黒い刃。
二つの刀身が激しくぶつかった。
「……!」
ホワイトの目が僅かに見開かれる。
一護は、その隙を逃さず刀を押し込んだ。
「……捕まえたぜ」
ホワイトが笑った。
「ヒャハハ! そうだよ、それでいい!」
次の瞬間、白い男の足が一護の腹へ叩き込まれた。
「ぐおっ!?」
一護の身体が後方へ吹き飛ぶ。
水面を何度も跳ね、ようやく体勢を立て直した。
「……っ、てめえ!」
「一回止めたくらいで調子乗んなよ、王様!」
ホワイトは斬月を肩へ担ぎ直した。
「戦いはそこで終わりじゃねえだろ!」
一護は腹を押さえながら立ち上がった。
確かに、その通りだった。
だが。
「……一発は捕まえたんだ。次はもっとやれる」
そう呟いて、一護は再び刀を構えた。
*
水面の上を、黒い影が滑っていく。
一護は足元の霊子を集め、前方へ流れを作った。
身体が僅かに浮く。
そのまま、滑るように移動した。
数メートル。
そこで流れが乱れ、身体が傾く。
「……っ!」
咄嗟に足場を作り直し、水面へ着地した。
少し離れた場所で、斬月のオッサンが静かに頷いた。
「先ほどよりは良くなったな」
「……まだ全然だけどな」
一護は自分の足元を見下ろした。
飛廉脚。
霊子を利用した滅却師の高速移動技術。
瞬歩とも、完現光とも、感覚が違う。
足元へ霊子を集めること自体は難しくなかった。
かつて教わった方法を、身体は覚えている。
だが、集めた霊子を利用して移動するとなると話は別だった。
「お前は、踏み込むことを意識しすぎている」
斬月のオッサンが言った。
「……癖になってんだよ」
一護は肩をすくめる。
「瞬歩も完現光も、ずっとそうやって使ってきたからな」
「ならば、その癖を知った上で動けばいい」
「簡単に言うなよ……」
「簡単ではない。だからこそ、教えている」
一護は口を閉じた。
少しの間を置いて、苦笑する。
「……そりゃそうか」
斬月のオッサンは小さく頷いた。
「一護。お前は今、複数の歩法を使おうとしている」
「ああ」
「だが、すべてを同じように使う必要はない」
一護は顔を上げた。
「……どういうことだ?」
「それぞれに異なる性質がある。得意とする動きも違う。それを理解した上で選べばいい」
男は足元へ視線を落とした。
「まずは、一つずつ扱えるようになることだ」
一護はしばらく考えた。
瞬歩。
完現光。
飛廉脚。
響転。
どれも、速く移動するための手段だ。
だが、細かな仕組みも、使ったときの感覚も違う。
それぞれの違いを理解しないまま、無理に一つへまとめようとしても上手くいかないのだろう。
「……分かった」
一護は頷いた。
「まずは、ちゃんと使えるようになるとこからだな」
「ああ」
そのとき。
「オイオイ、いつまでお勉強してんだよ!」
ホワイトの声が響いた。
振り返ると、白い男が斬月を肩へ担いで立っていた。
「さっさと続きやろうぜ!」
一護は嫌そうに顔をしかめた。
「……お前、まだやんのかよ」
「当たり前だろ!」
ホワイトは笑った。
「せっかく面白くなってきたところじゃねえか!」
「……ったく」
一護は溜息をついた。
だが、その口元には僅かな笑みがあった。
「……いいぜ」
斬月を握り直す。
「今度は、さっきみてえにはいかねえぞ」
ホワイトが愉快そうに笑った。
「ヒャハハ! 言ってくれるじゃねえか!」
白い影が消える。
一護も水面を蹴った。
*
目を開けると、見慣れた自室の天井があった。
「……朝か」
一護は身体を起こした。
時計を確認する。
いつもの起床時間だった。
精神世界で受けた傷は、身体には残っていない。
それでも、何度も斬り結んだ感覚は鮮明だった。
「……あいつら、相変わらずだな」
小さく呟く。
ホワイトは容赦なく斬りかかってくる。
斬月のオッサンは必要なことを教えるが、それ以上は手を貸さない。
昔から変わらない二人だった。
もっとも、一護も昔のままではない。
あの二人が何を伝えようとしているのか。
以前よりは、少し分かるようになった気がする。
ベッドから立ち上がり、軽く身体を伸ばした。
飛廉脚も響転も、まだ実戦で自在に使える段階ではない。
だが、感覚は少しずつ掴めてきた。
「……ま、焦ってもしょうがねえか」
一護は制服へ手を伸ばした。
今日は体育祭前の通常授業がある。
学校へ行く支度をしなければならなかった。
*
「なあ黒崎、お前って体育祭でどこまでやるつもりなんだ?」
昼休み。
上鳴が弁当を片手に尋ねてきた。
一護は箸を止めた。
「どこまでって?」
「だからさ。あの刀とか、黒い服とか!」
「ああ」
「使うんだろ?」
「……まあ、相手と競技によるな」
何気なく答える。
「使う必要がありゃ使うし、そうじゃなきゃ別のやり方で勝てばいいだろ」
上鳴が目を瞬かせた。
「……え、何それ。めっちゃ余裕じゃん」
「別に、そういう意味じゃねえよ」
「いやいや! あの刀出さなくても勝てるってことだろ?」
「だから、そうじゃ――」
言いかけたところで。
背後から、椅子を蹴るような音が響いた。
「あァ!?」
一護が振り返る。
爆豪が立ち上がっていた。
眉間に深い皺を寄せ、こちらを睨んでいる。
「……何だよ」
「今、何つった?」
「……は?」
「相手見て使うか決めるっつったよなァ!?」
一護は僅かに眉を寄せた。
「……ああ。言ったけど」
その返事が気に入らなかったらしい。
爆豪のこめかみに、血管が浮かんだ。
「テメェ、随分と余裕ぶっこいてんじゃねえか!」
「だから、余裕とかそういう話じゃねえって」
「相手見て手ェ抜く気かって聞いてんだよ!」
爆豪の掌で、小さな爆発音が弾けた。
上鳴が慌てて身を引く。
「ちょ、爆豪! 教室で爆破すんなって!」
「うるせえ!」
一護は箸を置いた。
「……お前、話聞いてたか?」
「あァ!?」
「手抜くなんて一言も言ってねえだろ」
一護は面倒くさそうに息を吐いた。
「勝つために必要なもんは使う。けど、何でもかんでも出しゃいいってもんでもねえだろ」
「言い訳してんじゃねえぞ!」
「言い訳じゃねえって」
「だったら全部出せや!」
爆豪が机へ手をついた。
「刀だろうが仮面だろうが、出せるもん全部出してこい! 中途半端なことして勝った気になってんじゃねえ!」
一護はしばらく爆豪を見つめた。
それから、小さく息を吐く。
「……お前な」
「何だよ!」
「俺の刀、普通に斬れんだぞ」
「知るか!」
「いや、知っとけよ」
思わず突っ込んでしまった。
切島が二人の間へ顔を出す。
「まあまあ、爆豪! 黒崎は危ねえ技まで使う気はねえって話だろ?」
「だからって、出し惜しみしていい理由にはなんねえだろうが!」
「だから、出し惜しみじゃねえって」
一護は爆豪へ向き直った。
「俺だって負けるつもりで出るわけじゃねえよ」
「……」
「使えるもんは使う。できることは全部やる。その上で勝つつもりだ」
一護は少しだけ目を細めた。
「相手を斬らねえように考えてるのと、手加減すんのは別だろ」
爆豪は黙った。
だが、怒りが収まったわけではなさそうだった。
「……チッ」
舌打ち。
爆豪は一護を睨みつける。
「じゃあ、俺と当たったら覚悟しとけよ」
「……何がだよ」
「半端な真似したらぶっ潰す」
一護は数秒、爆豪の顔を見た。
そして、口元を緩めた。
「……おう」
爆豪の眉が動いた。
「俺も、負ける気はねえよ」
「……上等だ!」
爆豪は乱暴に椅子へ腰を下ろした。
それでも、しばらく一護を睨んでいた。
上鳴が大きく息を吐く。
「……怖っ!」
「お前が変な聞き方すっからだろ」
一護が言うと、上鳴は目を見開いた。
「俺のせい!?」
「半分くらいな」
「理不尽!」
切島が声を上げて笑った。
「でも、いいじゃねえか! 体育祭で当たったら面白そうだぜ!」
「切島、お前まで煽るなよ……」
耳郎が呆れたように呟く。
一護は弁当へ箸を伸ばした。
爆豪が強いことは知っている。
入学試験でも、実技訓練でも、その実力は十分に見てきた。
だから、舐めるつもりなどない。
ただ、勝つためなら何でもしていいわけではないということも、一護は知っていた。
必要な力を、必要なだけ使う。
それは、手を抜くという意味ではない。
むしろ、その方が難しいことだってある。
「……ったく」
一護は小さく呟き、弁当を食べ始めた。
その向こうで、爆豪がもう一度舌打ちした。
*
放課後。
一年A組の教室を出ようとした峰田が、入口で足を止めた。
「……何だこれ?」
廊下には、見慣れない生徒たちが集まっていた。
A組ではない。
ほかのクラスの生徒たちだった。
人数も多い。
まるで教室を取り囲むように、何人もの生徒がこちらを見ている。
「おいおい、何しに来たんだよ……」
上鳴が呟いた。
飯田が前へ出る。
「君たち! A組に何か用があるのか?」
返事をする者はいなかった。
ただ、視線だけが集まっている。
その中を、爆豪が歩いてきた。
「……邪魔だ」
廊下の生徒たちが顔を向ける。
爆豪は不機嫌そうに舌打ちした。
「敵情視察かよ。んなことしたって意味ねえからな」
飯田が顔をしかめる。
「爆豪くん! 言い方というものがあるだろう!」
だが、爆豪は構わなかった。
「どけよ、モブ共」
教室の空気が、僅かに張り詰めた。
「……へえ」
廊下から、気怠げな声がした。
一人の男子生徒が前へ出る。
紫色の髪。
眠たげな目元。
どこか疲れたような表情をした少年だった。
「噂のA組って、どんな連中かと思ってたけど……随分と偉そうなんだな」
少年は爆豪を見た。
「ヒーロー科って、みんなそんな感じなのかい?」
「あァ?」
爆豪が眉を寄せる。
少年は大して気にした様子もなく続けた。
「こういうの見ると、ちょっと幻滅するよね」
「何だてめえ」
「普通科の心操人使」
少年は短く名乗った。
「ヒーロー科に入りたくても、入れなかった奴は結構いるんだよ。知ってた?」
その言葉に、緑谷が顔を上げた。
心操は構わず続ける。
「体育祭の結果次第じゃ、普通科からヒーロー科へ編入できる可能性もあるらしい。逆だって、あり得る」
廊下の生徒たちが静かに聞いている。
「だから、見に来たんだよ」
心操は少しだけ目を細めた。
「今の席にいるからって、安心しない方がいいんじゃないか」
爆豪が鼻を鳴らす。
「……くだらねえ」
心操は肩をすくめた。
「そう思うなら、それでいいよ」
そして、踵を返しかけた。
「体育祭で、分かることだしな」
淡々とした声だった。
だが、その言葉には明確な挑発が含まれていた。
一護は、そのやり取りを黙って見ていた。
普通科からヒーロー科へ。
そのために体育祭で結果を残したい。
なるほど。
心操がわざわざここへ来た理由は、分かった気がした。
ただ、心操自身はそれ以上話すつもりがないらしい。
周囲の生徒たちの間を抜け、廊下の向こうへ歩いていく。
一護がその背中を見送っていると、切島が小さく息を吐いた。
「……おい爆豪」
「あァ?」
「おめえのせいで、余計に敵増えたんじゃねえか?」
「知るか」
爆豪は不機嫌そうに答えた。
「上に上がりゃ関係ねえだろ」
切島は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、にやりと笑う。
「……まあ、それもそうか!」
「いや、納得すんなって!」
上鳴が即座に突っ込んだ。
一護は小さく笑った。
誰だって、ここに来るまでに色々な事情がある。
自分たちだけが特別というわけではない。
だからこそ、体育祭でぶつかればいい。
手加減するつもりはない。
だが、相手を見下す理由もなかった。
*
「いやあ、さすがA組だね」
別の声が響いた。
振り返ると、金髪の男子生徒が立っていた。
隣には拳藤一佳。
一護は彼女に気づき、軽く手を上げた。
「おう、拳藤」
「あ、黒崎くん」
拳藤は少し困ったように笑った。
金髪の少年が一護へ目を向ける。
「へえ。君もA組なんだ」
「ああ」
「そうかそうか」
少年は芝居がかった仕草で両手を広げた。
「いいよねえ、A組は。全国から注目されて、みんなの話題になって」
上鳴が眉を寄せる。
「……何だよ、それ」
「いや、羨ましいなと思ってさ」
少年はにこやかに答えた。
「僕らB組が真面目に訓練している間にも、君たちは有名になっていく。実に恵まれてるじゃないか」
切島の表情が変わった。
「……おい」
「何? 僕、何かおかしなこと言ったかな?」
少年は首を傾げる。
「ヴィランに襲われたっていうのも、随分と大きく報道されたみたいだし――」
「物間」
拳藤の声が低くなった。
「……何だい、拳藤」
「そこまで」
「いやいや、僕はただ事実を――」
乾いた音が響いた。
拳藤の手刀が、物間の頭へ落ちる。
「いっ……!」
物間が前のめりになった。
「何するんだよ、拳藤!」
「人が襲われた話を、羨ましいとか言わないの」
「だから僕は、A組ばっかり注目されてるって話を――」
「はいはい。続きはあっちで聞くから」
拳藤は物間の襟を掴んだ。
そして、一護たちへ顔を向ける。
「ごめんね。うちのが変なこと言って」
一護は肩をすくめた。
「いや、別にいいよ」
「……本当に?」
「ああ。あんまり気にしてねえし」
拳藤はほっとしたように息を吐いた。
「ありがと。じゃ、また体育祭でね」
「おう」
物間は引っ張られながら、なおも口を動かしていた。
「ちょっと待ってよ拳藤! まだ話が終わってないんだけど!」
「終わり!」
「理不尽だ!」
二人の姿が、廊下の向こうへ消えていく。
上鳴がぽつりと呟いた。
「……B組、濃くね?」
「まあ、色んな奴がいるんだろ」
切島が苦笑する。
一護も小さく笑った。
「……うちも大概だけどな」
「おい、それ誰のことだよ!」
上鳴が抗議する。
耳郎が横から口を開いた。
「少なくとも、あんたは入ってるんじゃない?」
「何でだよ!」
教室に笑い声が広がった。
*
放課後の訓練場。
一護は、試験用の標的を前に立っていた。
右手へ力を流す。
黒い死覇装が身体を覆い、掌へ斬月が現れた。
ここまでは、もう問題ない。
続いて、刀身へ霊圧を集める。
薄い膜が、刃の周囲へ形成されていった。
刃先。
峰。
切っ先。
すべてを均一に覆う。
その状態で斬月を振り下ろした。
鈍い衝突音が響く。
標的が大きく揺れた。
だが、表面に傷はない。
「……よし」
一護は小さく頷いた。
今度は角度を変える。
横薙ぎ。
斬り上げ。
踏み込みからの一撃。
そのたびに、刀身を覆う霊圧の厚みを調整した。
最初は、少し動かすだけで膜が崩れていた。
だが、今では大きく形を乱すことも少なくなっている。
斬月の刃を直接当てず、霊圧による打撃として力を伝える。
それができれば、対人戦でも斬月を使える。
もちろん、まだ慎重になる必要はあった。
実際の相手は動く。
標的のように、同じ位置へ留まっているわけではない。
刀身の角度が変われば、霊圧の厚みも変わる。
相手を斬ってしまう可能性が、完全になくなったわけではなかった。
「……もう少しだな」
一護は斬月を下ろした。
ふと、昼休みの爆豪の言葉が蘇る。
中途半端なことをして勝った気になるな。
あいつの言いたいことも、分からなくはなかった。
勝負をするなら、相手にも本気で来てほしい。
一護だって、相手が明らかに手を抜いていたら気分はよくないだろう。
だが、危険な技を使わないことと、勝つ気がないことは違う。
何ができて、何を使うべきか。
その判断も、戦う側の仕事だった。
「……ま、当たったら分かるだろ」
一護は小さく呟いた。
まだ体育祭の競技内容も、対戦相手も決まっていない。
今から言い合っても仕方がなかった。
それより、今日の練習にはもう一つ試したいことがある。
飛廉脚。
精神世界で何度も失敗した、あの移動技術だ。
一護は斬月を消し、足元へ意識を向けた。
霊子を集める。
薄い足場を作る。
そこから、移動する方向へ流れを伸ばす。
足場を蹴るのではない。
集めた霊子の流れへ、身体を乗せる。
「……っ」
一護の身体が、僅かに前へ滑った。
数メートル。
そこで流れが乱れた。
咄嗟に体勢を整え、地面へ着地する。
「……あー」
一護は頭を掻いた。
距離だけなら、大したことはない。
瞬歩を使えば、一瞬で移動できる程度だった。
だが。
「……今のは、ちょっと違ったな」
身体を無理に加速させたわけではない。
足元の霊子が、自分を運んだ。
ほんの一瞬だったが、その感覚は確かにあった。
一護は口元を緩める。
「……なるほど」
もう少し練習すれば、使えるようになるかもしれない。
ただし、今はまだ不安定だ。
体育祭でいきなり使うには、危なすぎる。
「……ま、今あるもんでやるか」
一護は軽く息を吐いた。
瞬歩と完現光。
それだけでも、十分な移動能力はある。
新しい技術を焦って実戦へ持ち込む必要はなかった。
*
体育祭前日。
一年A組の教室には、普段とは違う緊張感が漂っていた。
上鳴は机へ突っ伏し、切島はやたらと気合いを入れている。
八百万は競技について考え込んでいた。
飯田は集合時間や注意事項を改めて確認している。
「みんな! 明日は遅刻だけは絶対にしないように!」
「分かってるって!」
上鳴が顔を上げた。
「委員長、今日それ何回目!?」
「大事なことだからだ!」
「いや、大事なのは分かるけど!」
教室に笑い声が広がった。
一護はその様子を眺めながら、鞄へ教科書をしまっていた。
「……黒崎」
不意に声をかけられた。
振り返る。
そこには、轟焦凍が立っていた。
「ん?」
「少しいいか」
「ああ」
轟は一護を見つめた。
普段と変わらない無表情。
ただ、その目には何かを確かめるような色があった。
「お前、USJであの怪物と戦ったんだよな」
「……ああ」
「どのくらい強かった?」
一護は少しだけ眉を寄せた。
「……脳無のことか?」
「そうだ」
「かなり強かったぞ」
一護は答えた。
「力も速さもあったし、再生もする。まともに相手すんのは面倒だったな」
轟は黙って聞いている。
「何でだ?」
「……いや」
轟は少しだけ視線を逸らした。
「気になっただけだ」
「そっか」
一護はそれ以上聞かなかった。
だが、少しだけ引っかかることがあった。
轟の個性。
半冷半燃。
右半身で氷を操り、左半身で炎を扱う。
強力な個性だ。
それは入学して間もない一護にも分かっていた。
ただ、轟が積極的に使っているのは、ほとんど氷だけだった。
炎を使えるはずなのに、使おうとしない。
何か理由があるのだろう。
「……轟」
今度は一護が声をかけた。
「何だ」
「お前、炎の方はあんまり使わねえんだな」
轟の表情が僅かに変わった。
目が細くなる。
「……必要ない」
短い返事だった。
一護はその顔を見た。
ただの自信というには、少し違う。
何かを拒むような声音。
その奥にあるものまでは、分からなかった。
「……そっか」
一護は頷いた。
「なら、いいけど」
轟は少しだけ目を瞬かせた。
「……それだけか」
「あ?」
「理由を聞かないのか」
一護は首を傾げた。
「聞いてほしいのか?」
「……いや」
「なら、別にいいだろ」
一護は鞄を肩へかけた。
「使わねえ理由があるんだろ。俺がどうこう言うことじゃねえよ」
轟は黙った。
一護は軽く手を上げる。
「じゃあな」
そう言って、教室を出ていった。
轟はしばらく、その背中を見つめていた。
だが、何も言わなかった。
*
翌朝。
黒崎家の食卓は、いつもより少し賑やかだった。
「一兄、今日テレビ出るんでしょ?」
夏梨が味噌汁を飲みながら尋ねる。
「ああ。まあな」
「ちゃんと映るかな」
「知らねえよ」
「えー、せっかくなら一兄のとこ見たいじゃん」
夏梨が口を尖らせた。
隣で遊子が嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃん、頑張ってね!」
「おう」
一護は頷いた。
真咲が台所から顔を出す。
「一護。お弁当、できてるからね」
「ありがとな、母さん」
「怪我には気をつけるのよ?」
「分かってる」
「それと、無茶はしないこと!」
「はいはい」
「返事は一回!」
「……はい」
真咲が満足そうに笑った。
その横から、一心が勢いよく飛び出してくる。
「一護ォォォ! 父ちゃんはお前を信じているぞォォ!」
「朝からうるせえ!」
「雄英体育祭! ついに我が息子が全国へ名を轟かせる日が――」
「飯食ってるから静かにしろ!」
一心は大袈裟に胸を押さえた。
「息子が冷たい……!」
夏梨が呆れたように息を吐く。
「父ちゃん、邪魔」
「夏梨まで!?」
遊子が笑い、真咲もつられて笑った。
一護はその光景を眺めながら、箸を動かした。
普段通りの朝だった。
それが、少しだけ心地よかった。
*
雄英高校の体育祭。
その規模は、一護の想像していたものより遥かに大きかった。
「……すげえな」
スタジアムを見上げ、一護は思わず呟いた。
巨大な観客席。
周囲を埋め尽くす人々。
入口には、警備に当たるヒーローたちの姿も見える。
USJでの襲撃事件を受け、警備は例年以上に厳重になっているらしい。
だが、それでも観客の熱気は凄まじかった。
ヒーローを目指す生徒たち。
その将来を見届けようとするプロヒーローたち。
そして、純粋に競技を楽しみに来た一般客。
それぞれが、今日という日を待っていた。
「……やっぱすげえな、雄英」
切島が感心したように呟く。
「全国中継ってのも納得だぜ」
上鳴は少し緊張した様子で周囲を見回していた。
「やべえ……俺、何か急に緊張してきた」
「今さら?」
耳郎が呆れたように言う。
「いや、だってよ! こんな人数に見られるんだぞ!?」
「だから体育祭なんでしょ」
「それはそうだけど!」
一護は二人のやり取りを聞きながら、観客席へ視線を向けた。
緊張していないわけではない。
ただ、これまで経験してきた戦いとは随分と違う。
相手は同じ学校の生徒だ。
命のやり取りをする必要はない。
もちろん、だからといって油断していいわけでもなかった。
強い相手は、いくらでもいる。
それに、斬月を使うなら、なおさら力の加減には気をつけなければならない。
「……ま、やるだけやるか」
一護は小さく呟いた。
*
控室では、一年A組の生徒たちがそれぞれ準備を進めていた。
全員、体育祭用の体操服に着替えている。
轟は壁際に立ち、静かに目を閉じていた。
爆豪は苛立たしそうに腕を組んでいた。
緑谷は、何かを考え込んでいる。
一護はその様子を眺めながら、軽く身体を伸ばした。
そのとき。
「……緑谷」
轟が声をかけた。
緑谷が顔を上げる。
「えっ?」
「話がある」
轟は、緑谷を真っ直ぐに見つめていた。
教室の空気が僅かに変わる。
緑谷も、少し緊張したように姿勢を正した。
「……な、何かな?」
轟は静かに口を開いた。
「俺は、お前より上だ」
緑谷が目を瞬かせた。
周囲の生徒たちも、自然と二人へ視線を向ける。
轟は続けた。
「オールマイトに目をかけられているのは知ってる。だが、俺はお前に勝つ」
緑谷は一瞬、言葉を失った。
だが、すぐに拳を握った。
「……僕だって、負けるつもりはないよ」
声は小さかった。
それでも、はっきりとした返事だった。
轟は短く頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
一護は二人のやり取りを黙って見ていた。
轟の視線。
緑谷の返事。
どちらも本気だった。
それが、よく分かった。
「……ま、みんなそうだよな」
一護は小さく呟いた。
隣にいた切島が顔を向ける。
「ん?」
「いや。誰だって負けるつもりで来てねえだろ」
切島は一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、笑った。
「……おう!」
力強く拳を握る。
「俺も負けねえぜ!」
一護も小さく笑った。
*
スタジアムへ続く通路を歩いていると、遠くから歓声が聞こえてきた。
次第に、その音が大きくなっていく。
出口の向こうには、眩しいほどの光が広がっていた。
生徒たちが次々と通路を抜ける。
一護もその流れに続いた。
足を踏み出した瞬間。
歓声が、全身を包み込んだ。
「……おお」
思わず声が漏れた。
観客席を埋め尽くす人々。
巨大な電光掲示板。
中央の競技場。
そして、頭上から響く実況の声。
『さあさあさあ! 今年もやって来たぜ、雄英体育祭ィィィ!』
プレゼント・マイクの声が、スタジアム全体へ響き渡った。
観客席から、大きな歓声が上がる。
一護は周囲を見渡した。
A組だけではない。
B組。
普通科。
サポート科。
経営科。
多くの生徒が、同じ競技場へ集まっている。
それぞれの表情には、期待と緊張が入り混じっていた。
その中に、見覚えのある顔を見つけた。
「……井上」
少し離れた場所に、織姫がいた。
隣には拳藤。
そして、B組の生徒たち。
織姫も一護に気づいたらしく、笑顔で手を振ってきた。
一護も軽く手を上げる。
それだけの、何でもないやり取りだった。
*
「黒崎くん、元気そうだね」
織姫が小さく呟いた。
隣で拳藤が頷く。
「そうだね。A組も気合い入ってるみたい」
「うん!」
織姫は笑った。
体育祭。
自分にとっても、大切な行事だ。
雄英へ入ってから、まだそれほど時間は経っていない。
けれど、B組には少しずつ居場所ができていた。
拳藤とも仲良くなれた。
ほかのクラスメイトたちとも、楽しく過ごしている。
ここで、自分の力がどれだけ通用するのか。
確かめてみたい気持ちもあった。
「……よし!」
織姫は小さく拳を握った。
「頑張ろうね、一佳ちゃん!」
「もちろん!」
拳藤が笑う。
そのとき、少し離れた場所から物間の声が聞こえてきた。
「いやあ、A組の皆さんは相変わらず注目の的だねえ!」
拳藤のこめかみが僅かに動く。
「……物間」
「何だい、拳藤?」
「今日は余計なこと言わないでよ」
「僕はまだ何も言ってないだろ!?」
「これから言う顔してる」
織姫は思わず笑った。
いつものB組だった。
*
開会式が進み、選手宣誓の時間になった。
ミッドナイトが壇上へ立つ。
「それでは、選手宣誓! 一年A組、爆豪勝己!」
その名前が呼ばれた瞬間、A組の生徒たちの間に何とも言えない空気が流れた。
「……えっ」
緑谷が目を見開く。
「かっちゃん!?」
「そういや、あいつ入試一位だったな」
瀬呂が呟いた。
切島は額へ手を当てる。
「……嫌な予感しかしねえ」
一護も壇上へ視線を向けた。
爆豪は周囲の視線など気にも留めず、マイクの前へ歩いていく。
ポケットへ手を突っ込んだまま立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。
「……せんせー」
ミッドナイトの眉が僅かに動いた。
「何かしら?」
爆豪は観客席を見渡した。
そして、言い放つ。
「宣誓。俺が一位になる」
一瞬。
スタジアムが静まり返った。
次の瞬間には、あちこちから怒号が上がった。
「はああ!?」
「ふざけんなよA組!」
「調子乗ってんじゃねえぞ!」
だが、爆豪はまったく動じなかった。
むしろ、口元を僅かに歪める。
「せめて跳ねのいい踏み台になってくれ」
さらなる怒号が爆発した。
「誰が踏み台だ!」
「てめえ、覚えてろよ!」
「絶対潰してやる!」
他クラスの生徒たちが口々に叫ぶ。
上鳴は頭を抱えた。
「うっわあああ! 何してくれてんだよあいつ!」
「だから言っただろ……!」
切島も額を押さえている。
飯田は拳を握りしめていた。
「なぜ選手宣誓で品位を貶めるようなことをするんだ!」
だが、緑谷は少し違うことを考えていた。
壇上の爆豪は、笑っていない。
以前なら、同じようなことをもっと楽しそうに言っていただろう。
自分が勝つのは当然だと、疑いもしない顔で。
けれど、今は違った。
あえて大勢の前で宣言し、退路を断っている。
自分自身を追い込んでいるのだ。
もっとも、それにA組全体を巻き込んでしまうのは、やはり爆豪らしかった。
「……かっちゃん」
緑谷が小さく呟いた。
その隣で、一護が息を吐く。
「……ったく」
呆れたような声だった。
だが、口元には僅かな笑みがあった。
昼休みのやり取りを思い出す。
勝つつもりなら、全部出してこい。
半端な真似をするな。
あいつは本当に、一番になるつもりなのだろう。
誰よりも上へ行く。
そのためなら、全員を敵に回すことさえ構わない。
「……ほんと、面倒くせえ奴だな」
一護は小さく呟いた。
切島が横から顔を向ける。
「……なあ黒崎」
「ん?」
「お前、何でちょっと笑ってんだ?」
「いや」
一護は壇上から降りてくる爆豪を見た。
「負けらんねえなと思ってさ」
切島は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、笑った。
「……おう!」
力強く拳を握る。
「俺もだ!」
*
『さあ! それじゃあ早速、第一種目の発表だ!』
プレゼント・マイクの声が響いた。
巨大な電光掲示板に、文字が映し出される。
――障害物競走。
生徒たちの間に、ざわめきが広がった。
続いて、ミッドナイトが競技の説明を始める。
全十一クラスが一斉にスタートする、約四キロのコース。
途中には様々な障害物が用意されており、個性の使用も認められている。
ただし、通過すべきコースを外れることはできない。
上位四十二名が、次の種目へ進出する。
一護は掲示板へ視線を向けた。
障害物競走。
ただ速く走ればいいというわけではないらしい。
隣の切島が拳を握る。
「おっしゃ! やってやるぜ!」
上鳴は少し緊張した様子だった。
「四十二人か……結構きつくね?」
緑谷はコースの説明を聞きながら、何かを考えている。
一護はその横顔を見た。
緑谷の個性は、威力こそ凄まじいが、まだ自在に扱える段階ではない。
それでも、あいつなら何か考えるだろう。
USJでの戦いを見ていれば分かる。
緑谷出久は、決して諦めの悪い奴ではない。
「……お互い頑張ろうぜ、緑谷」
声をかけると、緑谷が顔を上げた。
「あっ、うん!」
少し緊張したように笑う。
「黒崎くんも!」
「おう」
一護は軽く手を上げた。
*
スタート地点は、大勢の生徒で埋め尽くされていた。
前方には、スタジアムの外へ続く巨大なゲート。
だが、見た目ほど広いわけではない。
全員が一斉に走り出せば、かなりの混雑になるだろう。
「……狭えな」
一護は呟いた。
隣では飯田が足を軽く動かしている。
「最初の通路が問題だな。あそこで転倒者が出れば危険だ」
「ああ」
一護も頷いた。
瞬歩を使えば、通路を抜けること自体は難しくない。
ただし、この人数の中で無理に加速すれば、ほかの生徒を巻き込む可能性がある。
上へ抜けるか。
あるいは、人が動き出してから隙間を通るか。
一護はゲートの上部へ視線を向けた。
そのとき、少し離れた場所に轟の姿が見えた。
右手を、軽く握っている。
冷気が、足元へ漂っていた。
「……あいつ」
一護は僅かに目を細めた。
何か仕掛けるつもりらしい。
そのことだけは分かった。
『さあ、準備はいいかァ!?』
プレゼント・マイクの声が響く。
生徒たちが前方へ視線を向けた。
スタジアム全体が、静まり返る。
開始を告げる合図が、今にも鳴ろうとしていた。
一護は軽く膝を曲げた。
足元へ力を集める。
ただし、必要以上には加速させない。
周囲の動きを見てからだ。
そして。
『スタートォォォ!』
合図が響いた。
生徒たちが、一斉に走り出す。
歓声が爆発した。
*
冷気が走った。
「……っ!」
一護は反射的に足を止めた。
前方から、氷が広がってくる。
轟だった。
右半身から放たれた冷気が、床を一気に凍らせていく。
走り出した生徒たちの足元が、次々と氷に捕らえられた。
「うわっ!?」
「何だこれ!」
「足が!」
悲鳴が上がる。
一護は咄嗟に跳躍した。
足元を氷が通り過ぎる。
空中で身体をひねり、凍結した床へ着地する。
そのまま、完現光で一気に踏み込んだ。
氷の表面を滑るように加速する。
「……やっぱ、すげえな」
一護は前方を見た。
轟はすでに、かなりの距離を進んでいた。
あれほど広範囲へ氷を展開しておきながら、ほとんど足を止めていない。
単純な威力だけでなく、制御も相当なものだ。
ただし。
左側からは、何も出していない。
「……炎は使わねえ、か」
一護は小さく呟いた。
昨日の会話を思い出す。
必要ない。
轟は、そう言っていた。
確かに、あれほどの氷を使えるなら、今の競技では炎がなくても十分に戦えるだろう。
だが、それだけが理由ではないように思えた。
もっとも、今は考えている場合ではない。
一護は前方へ視線を戻した。
轟を追う。
爆豪も、すでに爆破を使って加速している。
飯田もエンジンを吹かし、速度を上げていた。
その後ろを、多くの生徒たちが追いかけていく。
障害物競走は、まだ始まったばかりだった。
*
「わわっ……!」
織姫は滑りかけた足を踏み直した。
氷の上を走るのは、思った以上に難しい。
急げば急ぐほど、靴底が滑る。
転びかけたところへ、横から手が伸びた。
「織姫!」
拳藤だった。
「大丈夫!?」
「う、うん! ありがと、一佳ちゃん!」
「無理に走ると危ないよ! 足元見て!」
「うん!」
織姫は頷いた。
周囲の生徒たちは、次々と先へ進んでいる。
氷を砕く者。
滑るように移動する者。
壁を蹴って飛び越える者。
使う能力も、進み方も様々だった。
織姫は足元へ意識を向けた。
急がなければならない。
だが、焦って転んでしまっては意味がない。
「……よし!」
一度深く息を吸い、織姫は走り出した。
*
先頭集団が、最初の障害物へ到達した。
巨大なロボット。
入学試験で使われたものと同じ型の仮想敵が、いくつも進路を塞いでいる。
その中でも、ひときわ大きな機体が目立っていた。
「……あれかよ」
一護は思わず呟いた。
入学試験で見た、巨大なゼロポイントの仮想敵。
それが、何体も並んでいる。
観客席から歓声が上がった。
『さあ第一関門! ロボ・インフェルノォォ!』
巨大な機体が動き出す。
轟は足を止めなかった。
右手を前へ伸ばす。
次の瞬間。
凄まじい冷気が、ロボットの脚部を覆った。
関節が凍りつく。
巨大な機体が、僅かに傾いた。
轟はその隙を抜ける。
だが。
凍結した関節が砕け、機体が大きく傾き始めた。
「……っ!」
後続の生徒たちが足を止める。
巨大な影が、頭上へ広がった。
「お、おい!」
「倒れるぞ!」
悲鳴が響く。
一護は顔を上げた。
ロボットの巨体が、こちらへ倒れ込んでくる。
その下には、まだ何人もの生徒がいた。
「……危ねえ!」
考えるより先に、身体が動いていた。
完現光。
一護は倒れかけた機体の下へ踏み込む。
そのまま右手を伸ばした。
だが、素手で受け止めるには大きすぎる。
力任せに押し返すこともできるかもしれない。
しかし、相手は巨大な機械だ。
支え方を間違えれば、かえって下にいる生徒を巻き込んでしまう。
それなら。
一護は右手を握った。
意識を集中させる。
瞬間。
黒い衣が、身体を覆い始めた。
肩から胸へ。
腰から脚へ。
白い帯が締まり、袴の裾が落ちる。
掌へ、ずしりとした重みが生まれた。
晒しの巻かれた柄。
鍔のない、幅広の刀身。
銀色の刃と、黒い峰。
斬月が、一護の右手へ現れた。
『おおっとォ!?』
プレゼント・マイクの声が響く。
『ここで黒崎が何か出したぞ!? 何だあの刀! しかも服まで変わってるじゃねえか!』
一護は構わず、斬月を振り上げた。
狙うのは、凍りついた脚部と胴体を繋ぐ関節。
崩れる巨体の動きを変えるためには、まずそこを断つ必要があった。
「……っ!」
刃が走る。
金属が裂けた。
巨大な脚部が、付け根から切り離される。
機体の重心が変わり、倒れる方向が僅かに逸れた。
だが、それだけでは足りない。
一護は踏み込んだ。
斬月を返し、胴体の下部へ刃を入れる。
金属の外装が裂け、内部の構造が露わになる。
そこへ、もう一歩。
霊圧を込めた刀身で、巨体を横へ押し出した。
「……おおおっ!」
轟音。
機体の上半身が、進路の脇へ崩れ落ちる。
土煙が広がり、地面が震えた。
だが、倒れ込んだ機体は生徒たちへ触れなかった。
一護は斬月を下ろし、周囲を見渡した。
「お前ら、大丈夫か!?」
数人の生徒が、呆然とこちらを見ていた。
やがて、一人が頷く。
「あ……ああ!」
「怪我は!?」
「な、ない!」
「なら、早く先行け!」
その言葉で、生徒たちが我に返った。
慌てて走り出す。
一護も、後を追おうとした。
だが。
その姿を、少し離れた場所から見つめている少女がいた。
*
織姫は、足を止めていた。
正確には、止まってしまった。
前へ進まなければならないと分かっているのに、身体が動かなかった。
視線の先に、一人の少年がいる。
黒い衣。
白い帯。
そして、右手に握られた巨大な刀。
銀色の刃と、黒い峰。
見間違えるはずがなかった。
死覇装。
斬月。
何度も見てきた。
何度も、その背中を追いかけた。
何度も、あの刀を握る姿を見つめてきた。
「……うそ」
声が漏れた。
黒崎一護。
同じ名前。
同じ顔。
それだけでも、十分すぎるほどの偶然だった。
けれど、この世界には、前世と同じ名前を持つ人が何人もいた。
似た顔の人もいた。
だから、考えないようにしていた。
黒崎くんが、ここにいるはずなんてない。
そんなこと、あるはずがない。
そう思っていた。
なのに。
あの姿は。
あの刀は。
偶然で片づけるには、あまりにも。
織姫は胸元へ手を当てた。
鼓動が速い。
苦しいほどだった。
そのとき。
不意に、懐かしい感覚が胸の奥へ触れた。
「……っ」
霊圧。
黒い衣をまとった少年から、ほんの僅かに漏れたものだった。
あの大きな刀を現した瞬間、力の流れが変わった。
それまでほとんど感じられなかった気配が、ほんの一瞬だけ外へ滲み出たのだ。
織姫は、息を呑んだ。
知っている。
この感覚を。
何度も感じた。
何度も、その霊圧を頼りに黒崎くんを探した。
強くて。
温かくて。
時には胸が痛くなるほど、必死で。
あの人の生き方そのもののような、霊圧。
「……黒崎、くん……?」
唇が震えた。
違う。
違うはずだ。
だって、そんなこと。
けれど。
もし。
本当に、もし。
目の前にいる人が、自分の知っている黒崎くんなのだとしたら。
織姫の胸に、熱いものが込み上げた。
会いたかった。
もう一度、会えるなら。
もう一度だけ、あの声を聞けるなら。
そう思ったことが、何度あっただろう。
この世界へ生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま成長してきた。
家族ができた。
友達ができた。
新しい学校へ通い、新しい日常を手に入れた。
楽しいことだって、たくさんあった。
それでも。
心のどこかには、ずっと残っていた。
黒崎くんのことが。
あの世界のことが。
最後に見た、あの人の顔が。
今、目の前にいる。
そう考えた瞬間。
嬉しくて。
嬉しくて、泣きそうになった。
もう一度会えるかもしれない。
あの人が、ここにいるかもしれない。
だったら。
あたしは。
もう一度、黒崎くんに――。
そこまで考えたときだった。
胸の奥に広がった温かさが、唐突に冷えた。
「……え?」
小さな声が漏れた。
どうして。
どうして、黒崎くんがここにいるの?
その疑問が、頭から離れなくなった。
自分は死んだ。
少なくとも、あの世界からは消えた。
最後に持てるすべての力を使い、三つの世界を護ろうとした。
黒崎くんを護ろうとした。
あの人が生きていける世界を、残したかった。
自分がどうなっても、それだけは叶えたかった。
けれど。
自分は、その結末を知らない。
最後に見たのは、黒崎くんの顔だった。
それから先のことは、何も。
何一つ、分からない。
もし、目の前にいる人が本当に黒崎くんなら。
もし、自分と同じように、別の世界へ生まれ変わったのだとしたら。
いつ?
どうして?
何があったの?
あたしが消えたあと。
黒崎くんは、どうなったの?
「……そんな」
織姫は、自分の手を見下ろした。
あの日。
すべてを拒絶しようとした手。
何度も人を護ってきた力。
けれど、最後の最後で。
もし、届いていなかったのだとしたら。
もし、あの人まで死んでしまったのだとしたら。
指先が、冷たくなった。
息が、上手く吸えない。
――あたし、護れなかったの?
胸の奥で、声がした。
――黒崎くんまで、死んじゃったの?
違う。
そんなはずはない。
あのとき、確かに力を使った。
届くと信じていた。
護れると信じていた。
けれど、結果は知らない。
だから。
否定することも、できなかった。
「……っ」
膝から力が抜けそうになった。
目の前の景色が、僅かに揺れる。
あのとき、自分は何を残せたのだろう。
あの人の未来を、護れたのだろうか。
それとも。
自分が消えたあとも、黒崎くんは戦い続けて。
最後には、あの人まで――。
「織姫!」
肩を掴まれた。
「……っ!」
織姫は顔を上げた。
拳藤だった。
「どうしたの!? 顔、真っ青だよ!」
「あ……」
織姫は、慌てて周囲を見回した。
競技は続いている。
生徒たちが、次々とロボットの間を抜けていく。
観客席から歓声が響く。
その中で、自分だけが立ち止まっていた。
「……ごめん、一佳ちゃん」
織姫は小さく答えた。
「ちょっと、びっくりしちゃって」
拳藤は倒れたロボットへ目を向けた。
「……まあ、あれは驚くよね」
そして、織姫の顔を覗き込んだ。
「でも、本当に大丈夫? 無理しなくていいんだよ」
織姫は唇を噛んだ。
黒崎くん。
聞きたい。
確かめたい。
あの刀の名前を。
あの姿の意味を。
そして。
あの人が、本当に自分の知っている黒崎くんなのかどうかを。
けれど、今は競技中だった。
ここで立ち止まっていても、何も分からない。
織姫は一度、大きく息を吸った。
「……うん」
拳藤へ顔を向ける。
「大丈夫。ありがとう、一佳ちゃん」
「……本当?」
「うん。行こう!」
声は、まだ少し震えていた。
拳藤も気づいているのだろう。
だが、それ以上は聞かなかった。
「……分かった。じゃあ、無理はしないでね」
「うん!」
二人は走り出した。
織姫は、もう一度だけ前方へ視線を向けた。
黒い背中が、遠ざかっていく。
あの姿。
あの刀。
そして、あの霊圧。
もし、本当に。
黒崎くんなのなら。
あたしは、聞かなきゃいけない。
あの日のあと、何があったのかを。
ちゃんと。
自分の耳で。
織姫は唇を結んだ。
今は、走ろう。
まずは、この競技を最後までやり切る。
話をするのは、そのあとでも遅くない。
そう自分へ言い聞かせ、織姫は前へ進んだ。
*
一護は斬月を肩へ担ぎ、前方へ視線を向けていた。
巨大なロボットの群れ。
その隙間を、何人もの生徒が走り抜けていく。
轟は、すでに先へ進んでいた。
爆豪も爆破を使いながら、ロボットの頭上を飛び越えていく。
緑谷は少し後方で、落ちていた装甲片を手に取っていた。
「……あいつ、何やってんだ?」
一護は僅かに眉を上げた。
だが、すぐに口元を緩める。
何か考えがあるのだろう。
緑谷は、ああ見えてなかなか厄介な奴だ。
自分の力が思うように使えなくても、頭を使って何とかしようとする。
それが、あいつの強さでもある。
「……負けてらんねえな」
一護は斬月を握り直した。
ロボットが動く。
巨大な腕が、進路を塞いだ。
一護は足を止めず、その腕の上へ跳び乗った。
金属の表面を駆け上がる。
機体が腕を振り上げた。
その勢いを利用し、さらに高く跳ぶ。
空中。
一護は足元へ霊子を集めた。
薄い足場が生まれる。
その上へ、一瞬だけ足を置く。
「……っ!」
踏み込む。
身体が前方へ滑った。
だが、次の瞬間には流れが崩れた。
勢いを失い、落下が始まる。
「……まだ駄目か」
一護は小さく呟いた。
すぐに完現光へ切り替える。
空中の力を捉え、もう一度踏み込んだ。
身体が加速する。
ロボットの頭上を越え、さらに前方へ。
やがて、地面へ着地した。
背後で巨大な機体が動いている。
だが、一護はもう振り返らなかった。
前には、次の障害物が待っている。
障害物競走は、まだ終わっていない。
「……行くか」
一護は斬月を握り直し、地面を蹴った。