『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第18話 その姿を知っている

 

 水面が弾けた。

 

 白い刃が、真横から迫る。

 

 一護は身体を沈めて躱し、そのまま斬月を振り上げた。

 

 だが、刃が捉えたのは空気だけだった。

 

「遅え!」

 

 背後から声が飛ぶ。

 

「……っ!」

 

 振り返るより早く、一護は斬月を背中側へ回した。

 

 金属音が響く。

 

 白い刀身が、黒い刃とぶつかった。

 

「おっ!」

 

 ホワイトが笑った。

 

「今のは悪くねえな、王様!」

 

「……そりゃどうも!」

 

 一護は刀を押し返し、間合いを取る。

 

 水面へ着地した瞬間には、もうホワイトの姿が消えていた。

 

 右。

 

 いや、上か。

 

 霊圧を探る。

 

 気配を捉えたときには、すでに白い影が頭上へ迫っていた。

 

「くそっ!」

 

 一護は瞬歩でその場を離れた。

 

 直後、白い刀身が水面を叩き割る。

 

 だが、避けたはずの一護の目の前に、再びホワイトが現れた。

 

「何ッ!?」

 

「ヒャハハ! そっちに逃げると思ったぜ!」

 

 横薙ぎの一閃。

 

 一護は咄嗟に斬月を立てた。

 

 刃がぶつかり、腕へ衝撃が伝わる。

 

「……っ、てめえ!」

 

「どうしたどうした! そんなもんじゃねえだろ!」

 

 ホワイトは楽しそうに笑っている。

 

 一護は歯を食いしばった。

 

 速い。

 

 それは間違いない。

 

 だが、単に速度だけの問題でもなかった。

 

 瞬歩であれば、踏み込む瞬間の霊圧や身体の動きから、ある程度は次の位置を予測できる。

 

 相手がどれほど速くても、移動そのものの気配を追うことはできる。

 

 しかし、ホワイトの動きは違った。

 

 姿が消える。

 

 次の瞬間には、まるで最初からそこにいたかのように現れる。

 

 移動したことは分かる。

 

 だが、その途中がひどく掴みにくい。

 

「……お前、わざと気配を切ってんのか?」

 

 一護が尋ねると、ホワイトは牙を見せて笑った。

 

「おっ。少しは頭使うようになったじゃねえか!」

 

「質問に答えろよ!」

 

「教えてやってんだろ。身体で覚えろ!」

 

「結局それかよ!」

 

 一護は呆れながら斬月を構え直した。

 

 まったく、相変わらずだ。

 

 ただ、今のやり取りで少し分かったこともある。

 

 ホワイトは移動の直前、霊圧の流れを一瞬だけ変えている。

 

 それを追おうとすると、逆に位置を見失う。

 

 こちらが普段頼りにしている感覚を、上手く外されているらしい。

 

「……なるほどな」

 

 一護は息を吐いた。

 

「なら、やり方変えるか」

 

「ほう?」

 

 ホワイトの笑みが深くなる。

 

 一護は斬月を両手で握った。

 

 相手の移動先を追いかけるのではない。

 

 まずは、動き出す瞬間を見極める。

 

 ホワイトが一歩踏み出した。

 

 その瞬間。

 

 一護は、相手が消えるより先に踏み込んだ。

 

 斬月が走る。

 

 白い刃と、黒い刃。

 

 二つの刀身が激しくぶつかった。

 

「……!」

 

 ホワイトの目が僅かに見開かれる。

 

 一護は、その隙を逃さず刀を押し込んだ。

 

「……捕まえたぜ」

 

 ホワイトが笑った。

 

「ヒャハハ! そうだよ、それでいい!」

 

 次の瞬間、白い男の足が一護の腹へ叩き込まれた。

 

「ぐおっ!?」

 

 一護の身体が後方へ吹き飛ぶ。

 

 水面を何度も跳ね、ようやく体勢を立て直した。

 

「……っ、てめえ!」

 

「一回止めたくらいで調子乗んなよ、王様!」

 

 ホワイトは斬月を肩へ担ぎ直した。

 

「戦いはそこで終わりじゃねえだろ!」

 

 一護は腹を押さえながら立ち上がった。

 

 確かに、その通りだった。

 

 だが。

 

「……一発は捕まえたんだ。次はもっとやれる」

 

 そう呟いて、一護は再び刀を構えた。

 

     *

 

 水面の上を、黒い影が滑っていく。

 

 一護は足元の霊子を集め、前方へ流れを作った。

 

 身体が僅かに浮く。

 

 そのまま、滑るように移動した。

 

 数メートル。

 

 そこで流れが乱れ、身体が傾く。

 

「……っ!」

 

 咄嗟に足場を作り直し、水面へ着地した。

 

 少し離れた場所で、斬月のオッサンが静かに頷いた。

 

「先ほどよりは良くなったな」

 

「……まだ全然だけどな」

 

 一護は自分の足元を見下ろした。

 

 飛廉脚。

 

 霊子を利用した滅却師の高速移動技術。

 

 瞬歩とも、完現光とも、感覚が違う。

 

 足元へ霊子を集めること自体は難しくなかった。

 

 かつて教わった方法を、身体は覚えている。

 

 だが、集めた霊子を利用して移動するとなると話は別だった。

 

「お前は、踏み込むことを意識しすぎている」

 

 斬月のオッサンが言った。

 

「……癖になってんだよ」

 

 一護は肩をすくめる。

 

「瞬歩も完現光も、ずっとそうやって使ってきたからな」

 

「ならば、その癖を知った上で動けばいい」

 

「簡単に言うなよ……」

 

「簡単ではない。だからこそ、教えている」

 

 一護は口を閉じた。

 

 少しの間を置いて、苦笑する。

 

「……そりゃそうか」

 

 斬月のオッサンは小さく頷いた。

 

「一護。お前は今、複数の歩法を使おうとしている」

 

「ああ」

 

「だが、すべてを同じように使う必要はない」

 

 一護は顔を上げた。

 

「……どういうことだ?」

 

「それぞれに異なる性質がある。得意とする動きも違う。それを理解した上で選べばいい」

 

 男は足元へ視線を落とした。

 

「まずは、一つずつ扱えるようになることだ」

 

 一護はしばらく考えた。

 

 瞬歩。

 

 完現光。

 

 飛廉脚。

 

 響転。

 

 どれも、速く移動するための手段だ。

 

 だが、細かな仕組みも、使ったときの感覚も違う。

 

 それぞれの違いを理解しないまま、無理に一つへまとめようとしても上手くいかないのだろう。

 

「……分かった」

 

 一護は頷いた。

 

「まずは、ちゃんと使えるようになるとこからだな」

 

「ああ」

 

 そのとき。

 

「オイオイ、いつまでお勉強してんだよ!」

 

 ホワイトの声が響いた。

 

 振り返ると、白い男が斬月を肩へ担いで立っていた。

 

「さっさと続きやろうぜ!」

 

 一護は嫌そうに顔をしかめた。

 

「……お前、まだやんのかよ」

 

「当たり前だろ!」

 

 ホワイトは笑った。

 

「せっかく面白くなってきたところじゃねえか!」

 

「……ったく」

 

 一護は溜息をついた。

 

 だが、その口元には僅かな笑みがあった。

 

「……いいぜ」

 

 斬月を握り直す。

 

「今度は、さっきみてえにはいかねえぞ」

 

 ホワイトが愉快そうに笑った。

 

「ヒャハハ! 言ってくれるじゃねえか!」

 

 白い影が消える。

 

 一護も水面を蹴った。

 

     *

 

 目を開けると、見慣れた自室の天井があった。

 

「……朝か」

 

 一護は身体を起こした。

 

 時計を確認する。

 

 いつもの起床時間だった。

 

 精神世界で受けた傷は、身体には残っていない。

 

 それでも、何度も斬り結んだ感覚は鮮明だった。

 

「……あいつら、相変わらずだな」

 

 小さく呟く。

 

 ホワイトは容赦なく斬りかかってくる。

 

 斬月のオッサンは必要なことを教えるが、それ以上は手を貸さない。

 

 昔から変わらない二人だった。

 

 もっとも、一護も昔のままではない。

 

 あの二人が何を伝えようとしているのか。

 

 以前よりは、少し分かるようになった気がする。

 

 ベッドから立ち上がり、軽く身体を伸ばした。

 

 飛廉脚も響転も、まだ実戦で自在に使える段階ではない。

 

 だが、感覚は少しずつ掴めてきた。

 

「……ま、焦ってもしょうがねえか」

 

 一護は制服へ手を伸ばした。

 

 今日は体育祭前の通常授業がある。

 

 学校へ行く支度をしなければならなかった。

 

     *

 

「なあ黒崎、お前って体育祭でどこまでやるつもりなんだ?」

 

 昼休み。

 

 上鳴が弁当を片手に尋ねてきた。

 

 一護は箸を止めた。

 

「どこまでって?」

 

「だからさ。あの刀とか、黒い服とか!」

 

「ああ」

 

「使うんだろ?」

 

「……まあ、相手と競技によるな」

 

 何気なく答える。

 

「使う必要がありゃ使うし、そうじゃなきゃ別のやり方で勝てばいいだろ」

 

 上鳴が目を瞬かせた。

 

「……え、何それ。めっちゃ余裕じゃん」

 

「別に、そういう意味じゃねえよ」

 

「いやいや! あの刀出さなくても勝てるってことだろ?」

 

「だから、そうじゃ――」

 

 言いかけたところで。

 

 背後から、椅子を蹴るような音が響いた。

 

「あァ!?」

 

 一護が振り返る。

 

 爆豪が立ち上がっていた。

 

 眉間に深い皺を寄せ、こちらを睨んでいる。

 

「……何だよ」

 

「今、何つった?」

 

「……は?」

 

「相手見て使うか決めるっつったよなァ!?」

 

 一護は僅かに眉を寄せた。

 

「……ああ。言ったけど」

 

 その返事が気に入らなかったらしい。

 

 爆豪のこめかみに、血管が浮かんだ。

 

「テメェ、随分と余裕ぶっこいてんじゃねえか!」

 

「だから、余裕とかそういう話じゃねえって」

 

「相手見て手ェ抜く気かって聞いてんだよ!」

 

 爆豪の掌で、小さな爆発音が弾けた。

 

 上鳴が慌てて身を引く。

 

「ちょ、爆豪! 教室で爆破すんなって!」

 

「うるせえ!」

 

 一護は箸を置いた。

 

「……お前、話聞いてたか?」

 

「あァ!?」

 

「手抜くなんて一言も言ってねえだろ」

 

 一護は面倒くさそうに息を吐いた。

 

「勝つために必要なもんは使う。けど、何でもかんでも出しゃいいってもんでもねえだろ」

 

「言い訳してんじゃねえぞ!」

 

「言い訳じゃねえって」

 

「だったら全部出せや!」

 

 爆豪が机へ手をついた。

 

「刀だろうが仮面だろうが、出せるもん全部出してこい! 中途半端なことして勝った気になってんじゃねえ!」

 

 一護はしばらく爆豪を見つめた。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「……お前な」

 

「何だよ!」

 

「俺の刀、普通に斬れんだぞ」

 

「知るか!」

 

「いや、知っとけよ」

 

 思わず突っ込んでしまった。

 

 切島が二人の間へ顔を出す。

 

「まあまあ、爆豪! 黒崎は危ねえ技まで使う気はねえって話だろ?」

 

「だからって、出し惜しみしていい理由にはなんねえだろうが!」

 

「だから、出し惜しみじゃねえって」

 

 一護は爆豪へ向き直った。

 

「俺だって負けるつもりで出るわけじゃねえよ」

 

「……」

 

「使えるもんは使う。できることは全部やる。その上で勝つつもりだ」

 

 一護は少しだけ目を細めた。

 

「相手を斬らねえように考えてるのと、手加減すんのは別だろ」

 

 爆豪は黙った。

 

 だが、怒りが収まったわけではなさそうだった。

 

「……チッ」

 

 舌打ち。

 

 爆豪は一護を睨みつける。

 

「じゃあ、俺と当たったら覚悟しとけよ」

 

「……何がだよ」

 

「半端な真似したらぶっ潰す」

 

 一護は数秒、爆豪の顔を見た。

 

 そして、口元を緩めた。

 

「……おう」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

「俺も、負ける気はねえよ」

 

「……上等だ!」

 

 爆豪は乱暴に椅子へ腰を下ろした。

 

 それでも、しばらく一護を睨んでいた。

 

 上鳴が大きく息を吐く。

 

「……怖っ!」

 

「お前が変な聞き方すっからだろ」

 

 一護が言うと、上鳴は目を見開いた。

 

「俺のせい!?」

 

「半分くらいな」

 

「理不尽!」

 

 切島が声を上げて笑った。

 

「でも、いいじゃねえか! 体育祭で当たったら面白そうだぜ!」

 

「切島、お前まで煽るなよ……」

 

 耳郎が呆れたように呟く。

 

 一護は弁当へ箸を伸ばした。

 

 爆豪が強いことは知っている。

 

 入学試験でも、実技訓練でも、その実力は十分に見てきた。

 

 だから、舐めるつもりなどない。

 

 ただ、勝つためなら何でもしていいわけではないということも、一護は知っていた。

 

 必要な力を、必要なだけ使う。

 

 それは、手を抜くという意味ではない。

 

 むしろ、その方が難しいことだってある。

 

「……ったく」

 

 一護は小さく呟き、弁当を食べ始めた。

 

 その向こうで、爆豪がもう一度舌打ちした。

 

     *

 

 放課後。

 

 一年A組の教室を出ようとした峰田が、入口で足を止めた。

 

「……何だこれ?」

 

 廊下には、見慣れない生徒たちが集まっていた。

 

 A組ではない。

 

 ほかのクラスの生徒たちだった。

 

 人数も多い。

 

 まるで教室を取り囲むように、何人もの生徒がこちらを見ている。

 

「おいおい、何しに来たんだよ……」

 

 上鳴が呟いた。

 

 飯田が前へ出る。

 

「君たち! A組に何か用があるのか?」

 

 返事をする者はいなかった。

 

 ただ、視線だけが集まっている。

 

 その中を、爆豪が歩いてきた。

 

「……邪魔だ」

 

 廊下の生徒たちが顔を向ける。

 

 爆豪は不機嫌そうに舌打ちした。

 

「敵情視察かよ。んなことしたって意味ねえからな」

 

 飯田が顔をしかめる。

 

「爆豪くん! 言い方というものがあるだろう!」

 

 だが、爆豪は構わなかった。

 

「どけよ、モブ共」

 

 教室の空気が、僅かに張り詰めた。

 

「……へえ」

 

 廊下から、気怠げな声がした。

 

 一人の男子生徒が前へ出る。

 

 紫色の髪。

 

 眠たげな目元。

 

 どこか疲れたような表情をした少年だった。

 

「噂のA組って、どんな連中かと思ってたけど……随分と偉そうなんだな」

 

 少年は爆豪を見た。

 

「ヒーロー科って、みんなそんな感じなのかい?」

 

「あァ?」

 

 爆豪が眉を寄せる。

 

 少年は大して気にした様子もなく続けた。

 

「こういうの見ると、ちょっと幻滅するよね」

 

「何だてめえ」

 

「普通科の心操人使」

 

 少年は短く名乗った。

 

「ヒーロー科に入りたくても、入れなかった奴は結構いるんだよ。知ってた?」

 

 その言葉に、緑谷が顔を上げた。

 

 心操は構わず続ける。

 

「体育祭の結果次第じゃ、普通科からヒーロー科へ編入できる可能性もあるらしい。逆だって、あり得る」

 

 廊下の生徒たちが静かに聞いている。

 

「だから、見に来たんだよ」

 

 心操は少しだけ目を細めた。

 

「今の席にいるからって、安心しない方がいいんじゃないか」

 

 爆豪が鼻を鳴らす。

 

「……くだらねえ」

 

 心操は肩をすくめた。

 

「そう思うなら、それでいいよ」

 

 そして、踵を返しかけた。

 

「体育祭で、分かることだしな」

 

 淡々とした声だった。

 

 だが、その言葉には明確な挑発が含まれていた。

 

 一護は、そのやり取りを黙って見ていた。

 

 普通科からヒーロー科へ。

 

 そのために体育祭で結果を残したい。

 

 なるほど。

 

 心操がわざわざここへ来た理由は、分かった気がした。

 

 ただ、心操自身はそれ以上話すつもりがないらしい。

 

 周囲の生徒たちの間を抜け、廊下の向こうへ歩いていく。

 

 一護がその背中を見送っていると、切島が小さく息を吐いた。

 

「……おい爆豪」

 

「あァ?」

 

「おめえのせいで、余計に敵増えたんじゃねえか?」

 

「知るか」

 

 爆豪は不機嫌そうに答えた。

 

「上に上がりゃ関係ねえだろ」

 

 切島は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 それから、にやりと笑う。

 

「……まあ、それもそうか!」

 

「いや、納得すんなって!」

 

 上鳴が即座に突っ込んだ。

 

 一護は小さく笑った。

 

 誰だって、ここに来るまでに色々な事情がある。

 

 自分たちだけが特別というわけではない。

 

 だからこそ、体育祭でぶつかればいい。

 

 手加減するつもりはない。

 

 だが、相手を見下す理由もなかった。

 

     *

 

「いやあ、さすがA組だね」

 

 別の声が響いた。

 

 振り返ると、金髪の男子生徒が立っていた。

 

 隣には拳藤一佳。

 

 一護は彼女に気づき、軽く手を上げた。

 

「おう、拳藤」

 

「あ、黒崎くん」

 

 拳藤は少し困ったように笑った。

 

 金髪の少年が一護へ目を向ける。

 

「へえ。君もA組なんだ」

 

「ああ」

 

「そうかそうか」

 

 少年は芝居がかった仕草で両手を広げた。

 

「いいよねえ、A組は。全国から注目されて、みんなの話題になって」

 

 上鳴が眉を寄せる。

 

「……何だよ、それ」

 

「いや、羨ましいなと思ってさ」

 

 少年はにこやかに答えた。

 

「僕らB組が真面目に訓練している間にも、君たちは有名になっていく。実に恵まれてるじゃないか」

 

 切島の表情が変わった。

 

「……おい」

 

「何? 僕、何かおかしなこと言ったかな?」

 

 少年は首を傾げる。

 

「ヴィランに襲われたっていうのも、随分と大きく報道されたみたいだし――」

 

「物間」

 

 拳藤の声が低くなった。

 

「……何だい、拳藤」

 

「そこまで」

 

「いやいや、僕はただ事実を――」

 

 乾いた音が響いた。

 

 拳藤の手刀が、物間の頭へ落ちる。

 

「いっ……!」

 

 物間が前のめりになった。

 

「何するんだよ、拳藤!」

 

「人が襲われた話を、羨ましいとか言わないの」

 

「だから僕は、A組ばっかり注目されてるって話を――」

 

「はいはい。続きはあっちで聞くから」

 

 拳藤は物間の襟を掴んだ。

 

 そして、一護たちへ顔を向ける。

 

「ごめんね。うちのが変なこと言って」

 

 一護は肩をすくめた。

 

「いや、別にいいよ」

 

「……本当に?」

 

「ああ。あんまり気にしてねえし」

 

 拳藤はほっとしたように息を吐いた。

 

「ありがと。じゃ、また体育祭でね」

 

「おう」

 

 物間は引っ張られながら、なおも口を動かしていた。

 

「ちょっと待ってよ拳藤! まだ話が終わってないんだけど!」

 

「終わり!」

 

「理不尽だ!」

 

 二人の姿が、廊下の向こうへ消えていく。

 

 上鳴がぽつりと呟いた。

 

「……B組、濃くね?」

 

「まあ、色んな奴がいるんだろ」

 

 切島が苦笑する。

 

 一護も小さく笑った。

 

「……うちも大概だけどな」

 

「おい、それ誰のことだよ!」

 

 上鳴が抗議する。

 

 耳郎が横から口を開いた。

 

「少なくとも、あんたは入ってるんじゃない?」

 

「何でだよ!」

 

 教室に笑い声が広がった。

 

     *

 

 放課後の訓練場。

 

 一護は、試験用の標的を前に立っていた。

 

 右手へ力を流す。

 

 黒い死覇装が身体を覆い、掌へ斬月が現れた。

 

 ここまでは、もう問題ない。

 

 続いて、刀身へ霊圧を集める。

 

 薄い膜が、刃の周囲へ形成されていった。

 

 刃先。

 

 峰。

 

 切っ先。

 

 すべてを均一に覆う。

 

 その状態で斬月を振り下ろした。

 

 鈍い衝突音が響く。

 

 標的が大きく揺れた。

 

 だが、表面に傷はない。

 

「……よし」

 

 一護は小さく頷いた。

 

 今度は角度を変える。

 

 横薙ぎ。

 

 斬り上げ。

 

 踏み込みからの一撃。

 

 そのたびに、刀身を覆う霊圧の厚みを調整した。

 

 最初は、少し動かすだけで膜が崩れていた。

 

 だが、今では大きく形を乱すことも少なくなっている。

 

 斬月の刃を直接当てず、霊圧による打撃として力を伝える。

 

 それができれば、対人戦でも斬月を使える。

 

 もちろん、まだ慎重になる必要はあった。

 

 実際の相手は動く。

 

 標的のように、同じ位置へ留まっているわけではない。

 

 刀身の角度が変われば、霊圧の厚みも変わる。

 

 相手を斬ってしまう可能性が、完全になくなったわけではなかった。

 

「……もう少しだな」

 

 一護は斬月を下ろした。

 

 ふと、昼休みの爆豪の言葉が蘇る。

 

 中途半端なことをして勝った気になるな。

 

 あいつの言いたいことも、分からなくはなかった。

 

 勝負をするなら、相手にも本気で来てほしい。

 

 一護だって、相手が明らかに手を抜いていたら気分はよくないだろう。

 

 だが、危険な技を使わないことと、勝つ気がないことは違う。

 

 何ができて、何を使うべきか。

 

 その判断も、戦う側の仕事だった。

 

「……ま、当たったら分かるだろ」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 まだ体育祭の競技内容も、対戦相手も決まっていない。

 

 今から言い合っても仕方がなかった。

 

 それより、今日の練習にはもう一つ試したいことがある。

 

 飛廉脚。

 

 精神世界で何度も失敗した、あの移動技術だ。

 

 一護は斬月を消し、足元へ意識を向けた。

 

 霊子を集める。

 

 薄い足場を作る。

 

 そこから、移動する方向へ流れを伸ばす。

 

 足場を蹴るのではない。

 

 集めた霊子の流れへ、身体を乗せる。

 

「……っ」

 

 一護の身体が、僅かに前へ滑った。

 

 数メートル。

 

 そこで流れが乱れた。

 

 咄嗟に体勢を整え、地面へ着地する。

 

「……あー」

 

 一護は頭を掻いた。

 

 距離だけなら、大したことはない。

 

 瞬歩を使えば、一瞬で移動できる程度だった。

 

 だが。

 

「……今のは、ちょっと違ったな」

 

 身体を無理に加速させたわけではない。

 

 足元の霊子が、自分を運んだ。

 

 ほんの一瞬だったが、その感覚は確かにあった。

 

 一護は口元を緩める。

 

「……なるほど」

 

 もう少し練習すれば、使えるようになるかもしれない。

 

 ただし、今はまだ不安定だ。

 

 体育祭でいきなり使うには、危なすぎる。

 

「……ま、今あるもんでやるか」

 

 一護は軽く息を吐いた。

 

 瞬歩と完現光。

 

 それだけでも、十分な移動能力はある。

 

 新しい技術を焦って実戦へ持ち込む必要はなかった。

 

     *

 

 体育祭前日。

 

 一年A組の教室には、普段とは違う緊張感が漂っていた。

 

 上鳴は机へ突っ伏し、切島はやたらと気合いを入れている。

 

 八百万は競技について考え込んでいた。

 

 飯田は集合時間や注意事項を改めて確認している。

 

「みんな! 明日は遅刻だけは絶対にしないように!」

 

「分かってるって!」

 

 上鳴が顔を上げた。

 

「委員長、今日それ何回目!?」

 

「大事なことだからだ!」

 

「いや、大事なのは分かるけど!」

 

 教室に笑い声が広がった。

 

 一護はその様子を眺めながら、鞄へ教科書をしまっていた。

 

「……黒崎」

 

 不意に声をかけられた。

 

 振り返る。

 

 そこには、轟焦凍が立っていた。

 

「ん?」

 

「少しいいか」

 

「ああ」

 

 轟は一護を見つめた。

 

 普段と変わらない無表情。

 

 ただ、その目には何かを確かめるような色があった。

 

「お前、USJであの怪物と戦ったんだよな」

 

「……ああ」

 

「どのくらい強かった?」

 

 一護は少しだけ眉を寄せた。

 

「……脳無のことか?」

 

「そうだ」

 

「かなり強かったぞ」

 

 一護は答えた。

 

「力も速さもあったし、再生もする。まともに相手すんのは面倒だったな」

 

 轟は黙って聞いている。

 

「何でだ?」

 

「……いや」

 

 轟は少しだけ視線を逸らした。

 

「気になっただけだ」

 

「そっか」

 

 一護はそれ以上聞かなかった。

 

 だが、少しだけ引っかかることがあった。

 

 轟の個性。

 

 半冷半燃。

 

 右半身で氷を操り、左半身で炎を扱う。

 

 強力な個性だ。

 

 それは入学して間もない一護にも分かっていた。

 

 ただ、轟が積極的に使っているのは、ほとんど氷だけだった。

 

 炎を使えるはずなのに、使おうとしない。

 

 何か理由があるのだろう。

 

「……轟」

 

 今度は一護が声をかけた。

 

「何だ」

 

「お前、炎の方はあんまり使わねえんだな」

 

 轟の表情が僅かに変わった。

 

 目が細くなる。

 

「……必要ない」

 

 短い返事だった。

 

 一護はその顔を見た。

 

 ただの自信というには、少し違う。

 

 何かを拒むような声音。

 

 その奥にあるものまでは、分からなかった。

 

「……そっか」

 

 一護は頷いた。

 

「なら、いいけど」

 

 轟は少しだけ目を瞬かせた。

 

「……それだけか」

 

「あ?」

 

「理由を聞かないのか」

 

 一護は首を傾げた。

 

「聞いてほしいのか?」

 

「……いや」

 

「なら、別にいいだろ」

 

 一護は鞄を肩へかけた。

 

「使わねえ理由があるんだろ。俺がどうこう言うことじゃねえよ」

 

 轟は黙った。

 

 一護は軽く手を上げる。

 

「じゃあな」

 

 そう言って、教室を出ていった。

 

 轟はしばらく、その背中を見つめていた。

 

 だが、何も言わなかった。

 

     *

 

 翌朝。

 

 黒崎家の食卓は、いつもより少し賑やかだった。

 

「一兄、今日テレビ出るんでしょ?」

 

 夏梨が味噌汁を飲みながら尋ねる。

 

「ああ。まあな」

 

「ちゃんと映るかな」

 

「知らねえよ」

 

「えー、せっかくなら一兄のとこ見たいじゃん」

 

 夏梨が口を尖らせた。

 

 隣で遊子が嬉しそうに笑う。

 

「お兄ちゃん、頑張ってね!」

 

「おう」

 

 一護は頷いた。

 

 真咲が台所から顔を出す。

 

「一護。お弁当、できてるからね」

 

「ありがとな、母さん」

 

「怪我には気をつけるのよ?」

 

「分かってる」

 

「それと、無茶はしないこと!」

 

「はいはい」

 

「返事は一回!」

 

「……はい」

 

 真咲が満足そうに笑った。

 

 その横から、一心が勢いよく飛び出してくる。

 

「一護ォォォ! 父ちゃんはお前を信じているぞォォ!」

 

「朝からうるせえ!」

 

「雄英体育祭! ついに我が息子が全国へ名を轟かせる日が――」

 

「飯食ってるから静かにしろ!」

 

 一心は大袈裟に胸を押さえた。

 

「息子が冷たい……!」

 

 夏梨が呆れたように息を吐く。

 

「父ちゃん、邪魔」

 

「夏梨まで!?」

 

 遊子が笑い、真咲もつられて笑った。

 

 一護はその光景を眺めながら、箸を動かした。

 

 普段通りの朝だった。

 

 それが、少しだけ心地よかった。

 

     *

 

 雄英高校の体育祭。

 

 その規模は、一護の想像していたものより遥かに大きかった。

 

「……すげえな」

 

 スタジアムを見上げ、一護は思わず呟いた。

 

 巨大な観客席。

 

 周囲を埋め尽くす人々。

 

 入口には、警備に当たるヒーローたちの姿も見える。

 

 USJでの襲撃事件を受け、警備は例年以上に厳重になっているらしい。

 

 だが、それでも観客の熱気は凄まじかった。

 

 ヒーローを目指す生徒たち。

 

 その将来を見届けようとするプロヒーローたち。

 

 そして、純粋に競技を楽しみに来た一般客。

 

 それぞれが、今日という日を待っていた。

 

「……やっぱすげえな、雄英」

 

 切島が感心したように呟く。

 

「全国中継ってのも納得だぜ」

 

 上鳴は少し緊張した様子で周囲を見回していた。

 

「やべえ……俺、何か急に緊張してきた」

 

「今さら?」

 

 耳郎が呆れたように言う。

 

「いや、だってよ! こんな人数に見られるんだぞ!?」

 

「だから体育祭なんでしょ」

 

「それはそうだけど!」

 

 一護は二人のやり取りを聞きながら、観客席へ視線を向けた。

 

 緊張していないわけではない。

 

 ただ、これまで経験してきた戦いとは随分と違う。

 

 相手は同じ学校の生徒だ。

 

 命のやり取りをする必要はない。

 

 もちろん、だからといって油断していいわけでもなかった。

 

 強い相手は、いくらでもいる。

 

 それに、斬月を使うなら、なおさら力の加減には気をつけなければならない。

 

「……ま、やるだけやるか」

 

 一護は小さく呟いた。

 

     *

 

 控室では、一年A組の生徒たちがそれぞれ準備を進めていた。

 

 全員、体育祭用の体操服に着替えている。

 

 轟は壁際に立ち、静かに目を閉じていた。

 

 爆豪は苛立たしそうに腕を組んでいた。

 

 緑谷は、何かを考え込んでいる。

 

 一護はその様子を眺めながら、軽く身体を伸ばした。

 

 そのとき。

 

「……緑谷」

 

 轟が声をかけた。

 

 緑谷が顔を上げる。

 

「えっ?」

 

「話がある」

 

 轟は、緑谷を真っ直ぐに見つめていた。

 

 教室の空気が僅かに変わる。

 

 緑谷も、少し緊張したように姿勢を正した。

 

「……な、何かな?」

 

 轟は静かに口を開いた。

 

「俺は、お前より上だ」

 

 緑谷が目を瞬かせた。

 

 周囲の生徒たちも、自然と二人へ視線を向ける。

 

 轟は続けた。

 

「オールマイトに目をかけられているのは知ってる。だが、俺はお前に勝つ」

 

 緑谷は一瞬、言葉を失った。

 

 だが、すぐに拳を握った。

 

「……僕だって、負けるつもりはないよ」

 

 声は小さかった。

 

 それでも、はっきりとした返事だった。

 

 轟は短く頷いた。

 

 それ以上、何も言わなかった。

 

 一護は二人のやり取りを黙って見ていた。

 

 轟の視線。

 

 緑谷の返事。

 

 どちらも本気だった。

 

 それが、よく分かった。

 

「……ま、みんなそうだよな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 隣にいた切島が顔を向ける。

 

「ん?」

 

「いや。誰だって負けるつもりで来てねえだろ」

 

 切島は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 そして、笑った。

 

「……おう!」

 

 力強く拳を握る。

 

「俺も負けねえぜ!」

 

 一護も小さく笑った。

 

     *

 

 スタジアムへ続く通路を歩いていると、遠くから歓声が聞こえてきた。

 

 次第に、その音が大きくなっていく。

 

 出口の向こうには、眩しいほどの光が広がっていた。

 

 生徒たちが次々と通路を抜ける。

 

 一護もその流れに続いた。

 

 足を踏み出した瞬間。

 

 歓声が、全身を包み込んだ。

 

「……おお」

 

 思わず声が漏れた。

 

 観客席を埋め尽くす人々。

 

 巨大な電光掲示板。

 

 中央の競技場。

 

 そして、頭上から響く実況の声。

 

『さあさあさあ! 今年もやって来たぜ、雄英体育祭ィィィ!』

 

 プレゼント・マイクの声が、スタジアム全体へ響き渡った。

 

 観客席から、大きな歓声が上がる。

 

 一護は周囲を見渡した。

 

 A組だけではない。

 

 B組。

 

 普通科。

 

 サポート科。

 

 経営科。

 

 多くの生徒が、同じ競技場へ集まっている。

 

 それぞれの表情には、期待と緊張が入り混じっていた。

 

 その中に、見覚えのある顔を見つけた。

 

「……井上」

 

 少し離れた場所に、織姫がいた。

 

 隣には拳藤。

 

 そして、B組の生徒たち。

 

 織姫も一護に気づいたらしく、笑顔で手を振ってきた。

 

 一護も軽く手を上げる。

 

 それだけの、何でもないやり取りだった。

 

     *

 

「黒崎くん、元気そうだね」

 

 織姫が小さく呟いた。

 

 隣で拳藤が頷く。

 

「そうだね。A組も気合い入ってるみたい」

 

「うん!」

 

 織姫は笑った。

 

 体育祭。

 

 自分にとっても、大切な行事だ。

 

 雄英へ入ってから、まだそれほど時間は経っていない。

 

 けれど、B組には少しずつ居場所ができていた。

 

 拳藤とも仲良くなれた。

 

 ほかのクラスメイトたちとも、楽しく過ごしている。

 

 ここで、自分の力がどれだけ通用するのか。

 

 確かめてみたい気持ちもあった。

 

「……よし!」

 

 織姫は小さく拳を握った。

 

「頑張ろうね、一佳ちゃん!」

 

「もちろん!」

 

 拳藤が笑う。

 

 そのとき、少し離れた場所から物間の声が聞こえてきた。

 

「いやあ、A組の皆さんは相変わらず注目の的だねえ!」

 

 拳藤のこめかみが僅かに動く。

 

「……物間」

 

「何だい、拳藤?」

 

「今日は余計なこと言わないでよ」

 

「僕はまだ何も言ってないだろ!?」

 

「これから言う顔してる」

 

 織姫は思わず笑った。

 

 いつものB組だった。

 

     *

 

 開会式が進み、選手宣誓の時間になった。

 

 ミッドナイトが壇上へ立つ。

 

「それでは、選手宣誓! 一年A組、爆豪勝己!」

 

 その名前が呼ばれた瞬間、A組の生徒たちの間に何とも言えない空気が流れた。

 

「……えっ」

 

 緑谷が目を見開く。

 

「かっちゃん!?」

 

「そういや、あいつ入試一位だったな」

 

 瀬呂が呟いた。

 

 切島は額へ手を当てる。

 

「……嫌な予感しかしねえ」

 

 一護も壇上へ視線を向けた。

 

 爆豪は周囲の視線など気にも留めず、マイクの前へ歩いていく。

 

 ポケットへ手を突っ込んだまま立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。

 

「……せんせー」

 

 ミッドナイトの眉が僅かに動いた。

 

「何かしら?」

 

 爆豪は観客席を見渡した。

 

 そして、言い放つ。

 

「宣誓。俺が一位になる」

 

 一瞬。

 

 スタジアムが静まり返った。

 

 次の瞬間には、あちこちから怒号が上がった。

 

「はああ!?」

 

「ふざけんなよA組!」

 

「調子乗ってんじゃねえぞ!」

 

 だが、爆豪はまったく動じなかった。

 

 むしろ、口元を僅かに歪める。

 

「せめて跳ねのいい踏み台になってくれ」

 

 さらなる怒号が爆発した。

 

「誰が踏み台だ!」

 

「てめえ、覚えてろよ!」

 

「絶対潰してやる!」

 

 他クラスの生徒たちが口々に叫ぶ。

 

 上鳴は頭を抱えた。

 

「うっわあああ! 何してくれてんだよあいつ!」

 

「だから言っただろ……!」

 

 切島も額を押さえている。

 

 飯田は拳を握りしめていた。

 

「なぜ選手宣誓で品位を貶めるようなことをするんだ!」

 

 だが、緑谷は少し違うことを考えていた。

 

 壇上の爆豪は、笑っていない。

 

 以前なら、同じようなことをもっと楽しそうに言っていただろう。

 

 自分が勝つのは当然だと、疑いもしない顔で。

 

 けれど、今は違った。

 

 あえて大勢の前で宣言し、退路を断っている。

 

 自分自身を追い込んでいるのだ。

 

 もっとも、それにA組全体を巻き込んでしまうのは、やはり爆豪らしかった。

 

「……かっちゃん」

 

 緑谷が小さく呟いた。

 

 その隣で、一護が息を吐く。

 

「……ったく」

 

 呆れたような声だった。

 

 だが、口元には僅かな笑みがあった。

 

 昼休みのやり取りを思い出す。

 

 勝つつもりなら、全部出してこい。

 

 半端な真似をするな。

 

 あいつは本当に、一番になるつもりなのだろう。

 

 誰よりも上へ行く。

 

 そのためなら、全員を敵に回すことさえ構わない。

 

「……ほんと、面倒くせえ奴だな」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 切島が横から顔を向ける。

 

「……なあ黒崎」

 

「ん?」

 

「お前、何でちょっと笑ってんだ?」

 

「いや」

 

 一護は壇上から降りてくる爆豪を見た。

 

「負けらんねえなと思ってさ」

 

 切島は一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 それから、笑った。

 

「……おう!」

 

 力強く拳を握る。

 

「俺もだ!」

 

     *

 

『さあ! それじゃあ早速、第一種目の発表だ!』

 

 プレゼント・マイクの声が響いた。

 

 巨大な電光掲示板に、文字が映し出される。

 

 ――障害物競走。

 

 生徒たちの間に、ざわめきが広がった。

 

 続いて、ミッドナイトが競技の説明を始める。

 

 全十一クラスが一斉にスタートする、約四キロのコース。

 

 途中には様々な障害物が用意されており、個性の使用も認められている。

 

 ただし、通過すべきコースを外れることはできない。

 

 上位四十二名が、次の種目へ進出する。

 

 一護は掲示板へ視線を向けた。

 

 障害物競走。

 

 ただ速く走ればいいというわけではないらしい。

 

 隣の切島が拳を握る。

 

「おっしゃ! やってやるぜ!」

 

 上鳴は少し緊張した様子だった。

 

「四十二人か……結構きつくね?」

 

 緑谷はコースの説明を聞きながら、何かを考えている。

 

 一護はその横顔を見た。

 

 緑谷の個性は、威力こそ凄まじいが、まだ自在に扱える段階ではない。

 

 それでも、あいつなら何か考えるだろう。

 

 USJでの戦いを見ていれば分かる。

 

 緑谷出久は、決して諦めの悪い奴ではない。

 

「……お互い頑張ろうぜ、緑谷」

 

 声をかけると、緑谷が顔を上げた。

 

「あっ、うん!」

 

 少し緊張したように笑う。

 

「黒崎くんも!」

 

「おう」

 

 一護は軽く手を上げた。

 

     *

 

 スタート地点は、大勢の生徒で埋め尽くされていた。

 

 前方には、スタジアムの外へ続く巨大なゲート。

 

 だが、見た目ほど広いわけではない。

 

 全員が一斉に走り出せば、かなりの混雑になるだろう。

 

「……狭えな」

 

 一護は呟いた。

 

 隣では飯田が足を軽く動かしている。

 

「最初の通路が問題だな。あそこで転倒者が出れば危険だ」

 

「ああ」

 

 一護も頷いた。

 

 瞬歩を使えば、通路を抜けること自体は難しくない。

 

 ただし、この人数の中で無理に加速すれば、ほかの生徒を巻き込む可能性がある。

 

 上へ抜けるか。

 

 あるいは、人が動き出してから隙間を通るか。

 

 一護はゲートの上部へ視線を向けた。

 

 そのとき、少し離れた場所に轟の姿が見えた。

 

 右手を、軽く握っている。

 

 冷気が、足元へ漂っていた。

 

「……あいつ」

 

 一護は僅かに目を細めた。

 

 何か仕掛けるつもりらしい。

 

 そのことだけは分かった。

 

『さあ、準備はいいかァ!?』

 

 プレゼント・マイクの声が響く。

 

 生徒たちが前方へ視線を向けた。

 

 スタジアム全体が、静まり返る。

 

 開始を告げる合図が、今にも鳴ろうとしていた。

 

 一護は軽く膝を曲げた。

 

 足元へ力を集める。

 

 ただし、必要以上には加速させない。

 

 周囲の動きを見てからだ。

 

 そして。

 

『スタートォォォ!』

 

 合図が響いた。

 

 生徒たちが、一斉に走り出す。

 

 歓声が爆発した。

 

     *

 

 冷気が走った。

 

「……っ!」

 

 一護は反射的に足を止めた。

 

 前方から、氷が広がってくる。

 

 轟だった。

 

 右半身から放たれた冷気が、床を一気に凍らせていく。

 

 走り出した生徒たちの足元が、次々と氷に捕らえられた。

 

「うわっ!?」

 

「何だこれ!」

 

「足が!」

 

 悲鳴が上がる。

 

 一護は咄嗟に跳躍した。

 

 足元を氷が通り過ぎる。

 

 空中で身体をひねり、凍結した床へ着地する。

 

 そのまま、完現光で一気に踏み込んだ。

 

 氷の表面を滑るように加速する。

 

「……やっぱ、すげえな」

 

 一護は前方を見た。

 

 轟はすでに、かなりの距離を進んでいた。

 

 あれほど広範囲へ氷を展開しておきながら、ほとんど足を止めていない。

 

 単純な威力だけでなく、制御も相当なものだ。

 

 ただし。

 

 左側からは、何も出していない。

 

「……炎は使わねえ、か」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 昨日の会話を思い出す。

 

 必要ない。

 

 轟は、そう言っていた。

 

 確かに、あれほどの氷を使えるなら、今の競技では炎がなくても十分に戦えるだろう。

 

 だが、それだけが理由ではないように思えた。

 

 もっとも、今は考えている場合ではない。

 

 一護は前方へ視線を戻した。

 

 轟を追う。

 

 爆豪も、すでに爆破を使って加速している。

 

 飯田もエンジンを吹かし、速度を上げていた。

 

 その後ろを、多くの生徒たちが追いかけていく。

 

 障害物競走は、まだ始まったばかりだった。

 

     *

 

「わわっ……!」

 

 織姫は滑りかけた足を踏み直した。

 

 氷の上を走るのは、思った以上に難しい。

 

 急げば急ぐほど、靴底が滑る。

 

 転びかけたところへ、横から手が伸びた。

 

「織姫!」

 

 拳藤だった。

 

「大丈夫!?」

 

「う、うん! ありがと、一佳ちゃん!」

 

「無理に走ると危ないよ! 足元見て!」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

 周囲の生徒たちは、次々と先へ進んでいる。

 

 氷を砕く者。

 

 滑るように移動する者。

 

 壁を蹴って飛び越える者。

 

 使う能力も、進み方も様々だった。

 

 織姫は足元へ意識を向けた。

 

 急がなければならない。

 

 だが、焦って転んでしまっては意味がない。

 

「……よし!」

 

 一度深く息を吸い、織姫は走り出した。

 

     *

 

 先頭集団が、最初の障害物へ到達した。

 

 巨大なロボット。

 

 入学試験で使われたものと同じ型の仮想敵が、いくつも進路を塞いでいる。

 

 その中でも、ひときわ大きな機体が目立っていた。

 

「……あれかよ」

 

 一護は思わず呟いた。

 

 入学試験で見た、巨大なゼロポイントの仮想敵。

 

 それが、何体も並んでいる。

 

 観客席から歓声が上がった。

 

『さあ第一関門! ロボ・インフェルノォォ!』

 

 巨大な機体が動き出す。

 

 轟は足を止めなかった。

 

 右手を前へ伸ばす。

 

 次の瞬間。

 

 凄まじい冷気が、ロボットの脚部を覆った。

 

 関節が凍りつく。

 

 巨大な機体が、僅かに傾いた。

 

 轟はその隙を抜ける。

 

 だが。

 

 凍結した関節が砕け、機体が大きく傾き始めた。

 

「……っ!」

 

 後続の生徒たちが足を止める。

 

 巨大な影が、頭上へ広がった。

 

「お、おい!」

 

「倒れるぞ!」

 

 悲鳴が響く。

 

 一護は顔を上げた。

 

 ロボットの巨体が、こちらへ倒れ込んでくる。

 

 その下には、まだ何人もの生徒がいた。

 

「……危ねえ!」

 

 考えるより先に、身体が動いていた。

 

 完現光。

 

 一護は倒れかけた機体の下へ踏み込む。

 

 そのまま右手を伸ばした。

 

 だが、素手で受け止めるには大きすぎる。

 

 力任せに押し返すこともできるかもしれない。

 

 しかし、相手は巨大な機械だ。

 

 支え方を間違えれば、かえって下にいる生徒を巻き込んでしまう。

 

 それなら。

 

 一護は右手を握った。

 

 意識を集中させる。

 

 瞬間。

 

 黒い衣が、身体を覆い始めた。

 

 肩から胸へ。

 

 腰から脚へ。

 

 白い帯が締まり、袴の裾が落ちる。

 

 掌へ、ずしりとした重みが生まれた。

 

 晒しの巻かれた柄。

 

 鍔のない、幅広の刀身。

 

 銀色の刃と、黒い峰。

 

 斬月が、一護の右手へ現れた。

 

『おおっとォ!?』

 

 プレゼント・マイクの声が響く。

 

『ここで黒崎が何か出したぞ!? 何だあの刀! しかも服まで変わってるじゃねえか!』

 

 一護は構わず、斬月を振り上げた。

 

 狙うのは、凍りついた脚部と胴体を繋ぐ関節。

 

 崩れる巨体の動きを変えるためには、まずそこを断つ必要があった。

 

「……っ!」

 

 刃が走る。

 

 金属が裂けた。

 

 巨大な脚部が、付け根から切り離される。

 

 機体の重心が変わり、倒れる方向が僅かに逸れた。

 

 だが、それだけでは足りない。

 

 一護は踏み込んだ。

 

 斬月を返し、胴体の下部へ刃を入れる。

 

 金属の外装が裂け、内部の構造が露わになる。

 

 そこへ、もう一歩。

 

 霊圧を込めた刀身で、巨体を横へ押し出した。

 

「……おおおっ!」

 

 轟音。

 

 機体の上半身が、進路の脇へ崩れ落ちる。

 

 土煙が広がり、地面が震えた。

 

 だが、倒れ込んだ機体は生徒たちへ触れなかった。

 

 一護は斬月を下ろし、周囲を見渡した。

 

「お前ら、大丈夫か!?」

 

 数人の生徒が、呆然とこちらを見ていた。

 

 やがて、一人が頷く。

 

「あ……ああ!」

 

「怪我は!?」

 

「な、ない!」

 

「なら、早く先行け!」

 

 その言葉で、生徒たちが我に返った。

 

 慌てて走り出す。

 

 一護も、後を追おうとした。

 

 だが。

 

 その姿を、少し離れた場所から見つめている少女がいた。

 

     *

 

 織姫は、足を止めていた。

 

 正確には、止まってしまった。

 

 前へ進まなければならないと分かっているのに、身体が動かなかった。

 

 視線の先に、一人の少年がいる。

 

 黒い衣。

 

 白い帯。

 

 そして、右手に握られた巨大な刀。

 

 銀色の刃と、黒い峰。

 

 見間違えるはずがなかった。

 

 死覇装。

 

 斬月。

 

 何度も見てきた。

 

 何度も、その背中を追いかけた。

 

 何度も、あの刀を握る姿を見つめてきた。

 

「……うそ」

 

 声が漏れた。

 

 黒崎一護。

 

 同じ名前。

 

 同じ顔。

 

 それだけでも、十分すぎるほどの偶然だった。

 

 けれど、この世界には、前世と同じ名前を持つ人が何人もいた。

 

 似た顔の人もいた。

 

 だから、考えないようにしていた。

 

 黒崎くんが、ここにいるはずなんてない。

 

 そんなこと、あるはずがない。

 

 そう思っていた。

 

 なのに。

 

 あの姿は。

 

 あの刀は。

 

 偶然で片づけるには、あまりにも。

 

 織姫は胸元へ手を当てた。

 

 鼓動が速い。

 

 苦しいほどだった。

 

 そのとき。

 

 不意に、懐かしい感覚が胸の奥へ触れた。

 

「……っ」

 

 霊圧。

 

 黒い衣をまとった少年から、ほんの僅かに漏れたものだった。

 

 あの大きな刀を現した瞬間、力の流れが変わった。

 

 それまでほとんど感じられなかった気配が、ほんの一瞬だけ外へ滲み出たのだ。

 

 織姫は、息を呑んだ。

 

 知っている。

 

 この感覚を。

 

 何度も感じた。

 

 何度も、その霊圧を頼りに黒崎くんを探した。

 

 強くて。

 

 温かくて。

 

 時には胸が痛くなるほど、必死で。

 

 あの人の生き方そのもののような、霊圧。

 

「……黒崎、くん……?」

 

 唇が震えた。

 

 違う。

 

 違うはずだ。

 

 だって、そんなこと。

 

 けれど。

 

 もし。

 

 本当に、もし。

 

 目の前にいる人が、自分の知っている黒崎くんなのだとしたら。

 

 織姫の胸に、熱いものが込み上げた。

 

 会いたかった。

 

 もう一度、会えるなら。

 

 もう一度だけ、あの声を聞けるなら。

 

 そう思ったことが、何度あっただろう。

 

 この世界へ生まれ変わり、前世の記憶を持ったまま成長してきた。

 

 家族ができた。

 

 友達ができた。

 

 新しい学校へ通い、新しい日常を手に入れた。

 

 楽しいことだって、たくさんあった。

 

 それでも。

 

 心のどこかには、ずっと残っていた。

 

 黒崎くんのことが。

 

 あの世界のことが。

 

 最後に見た、あの人の顔が。

 

 今、目の前にいる。

 

 そう考えた瞬間。

 

 嬉しくて。

 

 嬉しくて、泣きそうになった。

 

 もう一度会えるかもしれない。

 

 あの人が、ここにいるかもしれない。

 

 だったら。

 

 あたしは。

 

 もう一度、黒崎くんに――。

 

 そこまで考えたときだった。

 

 胸の奥に広がった温かさが、唐突に冷えた。

 

「……え?」

 

 小さな声が漏れた。

 

 どうして。

 

 どうして、黒崎くんがここにいるの?

 

 その疑問が、頭から離れなくなった。

 

 自分は死んだ。

 

 少なくとも、あの世界からは消えた。

 

 最後に持てるすべての力を使い、三つの世界を護ろうとした。

 

 黒崎くんを護ろうとした。

 

 あの人が生きていける世界を、残したかった。

 

 自分がどうなっても、それだけは叶えたかった。

 

 けれど。

 

 自分は、その結末を知らない。

 

 最後に見たのは、黒崎くんの顔だった。

 

 それから先のことは、何も。

 

 何一つ、分からない。

 

 もし、目の前にいる人が本当に黒崎くんなら。

 

 もし、自分と同じように、別の世界へ生まれ変わったのだとしたら。

 

 いつ?

 

 どうして?

 

 何があったの?

 

 あたしが消えたあと。

 

 黒崎くんは、どうなったの?

 

「……そんな」

 

 織姫は、自分の手を見下ろした。

 

 あの日。

 

 すべてを拒絶しようとした手。

 

 何度も人を護ってきた力。

 

 けれど、最後の最後で。

 

 もし、届いていなかったのだとしたら。

 

 もし、あの人まで死んでしまったのだとしたら。

 

 指先が、冷たくなった。

 

 息が、上手く吸えない。

 

 ――あたし、護れなかったの?

 

 胸の奥で、声がした。

 

 ――黒崎くんまで、死んじゃったの?

 

 違う。

 

 そんなはずはない。

 

 あのとき、確かに力を使った。

 

 届くと信じていた。

 

 護れると信じていた。

 

 けれど、結果は知らない。

 

 だから。

 

 否定することも、できなかった。

 

「……っ」

 

 膝から力が抜けそうになった。

 

 目の前の景色が、僅かに揺れる。

 

 あのとき、自分は何を残せたのだろう。

 

 あの人の未来を、護れたのだろうか。

 

 それとも。

 

 自分が消えたあとも、黒崎くんは戦い続けて。

 

 最後には、あの人まで――。

 

「織姫!」

 

 肩を掴まれた。

 

「……っ!」

 

 織姫は顔を上げた。

 

 拳藤だった。

 

「どうしたの!? 顔、真っ青だよ!」

 

「あ……」

 

 織姫は、慌てて周囲を見回した。

 

 競技は続いている。

 

 生徒たちが、次々とロボットの間を抜けていく。

 

 観客席から歓声が響く。

 

 その中で、自分だけが立ち止まっていた。

 

「……ごめん、一佳ちゃん」

 

 織姫は小さく答えた。

 

「ちょっと、びっくりしちゃって」

 

 拳藤は倒れたロボットへ目を向けた。

 

「……まあ、あれは驚くよね」

 

 そして、織姫の顔を覗き込んだ。

 

「でも、本当に大丈夫? 無理しなくていいんだよ」

 

 織姫は唇を噛んだ。

 

 黒崎くん。

 

 聞きたい。

 

 確かめたい。

 

 あの刀の名前を。

 

 あの姿の意味を。

 

 そして。

 

 あの人が、本当に自分の知っている黒崎くんなのかどうかを。

 

 けれど、今は競技中だった。

 

 ここで立ち止まっていても、何も分からない。

 

 織姫は一度、大きく息を吸った。

 

「……うん」

 

 拳藤へ顔を向ける。

 

「大丈夫。ありがとう、一佳ちゃん」

 

「……本当?」

 

「うん。行こう!」

 

 声は、まだ少し震えていた。

 

 拳藤も気づいているのだろう。

 

 だが、それ以上は聞かなかった。

 

「……分かった。じゃあ、無理はしないでね」

 

「うん!」

 

 二人は走り出した。

 

 織姫は、もう一度だけ前方へ視線を向けた。

 

 黒い背中が、遠ざかっていく。

 

 あの姿。

 

 あの刀。

 

 そして、あの霊圧。

 

 もし、本当に。

 

 黒崎くんなのなら。

 

 あたしは、聞かなきゃいけない。

 

 あの日のあと、何があったのかを。

 

 ちゃんと。

 

 自分の耳で。

 

 織姫は唇を結んだ。

 

 今は、走ろう。

 

 まずは、この競技を最後までやり切る。

 

 話をするのは、そのあとでも遅くない。

 

 そう自分へ言い聞かせ、織姫は前へ進んだ。

 

     *

 

 一護は斬月を肩へ担ぎ、前方へ視線を向けていた。

 

 巨大なロボットの群れ。

 

 その隙間を、何人もの生徒が走り抜けていく。

 

 轟は、すでに先へ進んでいた。

 

 爆豪も爆破を使いながら、ロボットの頭上を飛び越えていく。

 

 緑谷は少し後方で、落ちていた装甲片を手に取っていた。

 

「……あいつ、何やってんだ?」

 

 一護は僅かに眉を上げた。

 

 だが、すぐに口元を緩める。

 

 何か考えがあるのだろう。

 

 緑谷は、ああ見えてなかなか厄介な奴だ。

 

 自分の力が思うように使えなくても、頭を使って何とかしようとする。

 

 それが、あいつの強さでもある。

 

「……負けてらんねえな」

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 ロボットが動く。

 

 巨大な腕が、進路を塞いだ。

 

 一護は足を止めず、その腕の上へ跳び乗った。

 

 金属の表面を駆け上がる。

 

 機体が腕を振り上げた。

 

 その勢いを利用し、さらに高く跳ぶ。

 

 空中。

 

 一護は足元へ霊子を集めた。

 

 薄い足場が生まれる。

 

 その上へ、一瞬だけ足を置く。

 

「……っ!」

 

 踏み込む。

 

 身体が前方へ滑った。

 

 だが、次の瞬間には流れが崩れた。

 

 勢いを失い、落下が始まる。

 

「……まだ駄目か」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 すぐに完現光へ切り替える。

 

 空中の力を捉え、もう一度踏み込んだ。

 

 身体が加速する。

 

 ロボットの頭上を越え、さらに前方へ。

 

 やがて、地面へ着地した。

 

 背後で巨大な機体が動いている。

 

 だが、一護はもう振り返らなかった。

 

 前には、次の障害物が待っている。

 

 障害物競走は、まだ終わっていない。

 

「……行くか」

 

 一護は斬月を握り直し、地面を蹴った。

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