戦いが終わったあとも、黒崎一護はしばらく真世界城を離れようとしなかった。
ユーハバッハの霊圧は完全に消え、あれほど不安定だった周囲の霊子も、今では嘘のように落ち着いている。崩れかけていた城の一部は依然として危険な状態にあったが、少なくとも三界そのものを呑み込もうとしていた異変は収まっていた。
それでも一護は、何かを探すように周囲を歩き続けた。
砕けた床の下を覗き込み、倒れた柱の向こうを確かめ、何度も意識を研ぎ澄ませて霊圧を探る。すでに同じ場所を何度も調べていることは分かっていたが、だからといって足を止める理由にはならなかった。
井上織姫が消えた場所には、何も残っていなかった。
血の跡も、衣服の切れ端も、彼女が身につけていた花飾りさえ見つからない。まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、彼女の存在を示すものだけが綺麗に失われていた。
「一護」
背後から声がした。
振り返ると、朽木ルキアが少し離れた場所に立っていた。先ほどまで動けないほどの傷を負っていたはずだが、織姫が最後に行った拒絶によって致命傷は塞がっている。とはいえ、消耗した霊力までは戻っていないらしく、足取りにはまだ硬さが残っていた。
「……もう動いて平気なのかよ」
「貴様に心配されるほど弱ってはおらぬ。それより、まだ探していたのか」
一護は答えず、視線を床へ戻した。
ルキアはそれ以上問い詰めようとはしなかった。ただ一護の隣まで歩いてくると、彼が見つめている場所へ目を向けた。
そこに何があったのか、彼女も知っている。
ユーハバッハの力によって身体を貫かれ、意識を失いかけていたルキアにも、最後に広がった六花の光は見えていた。自分の傷が塞がり、拘束が解けたときには、すでに織姫の身体は消えかけていた。
手を伸ばそうとする一護の姿も、見ていた。
「井上の霊圧は、私にも感じ取れぬ」
「……そうかよ」
「だが、だからといって何が起きたのかまで分かったわけではない。あれほどの力だ。通常の鬼道や回道と同じ理屈で考えるべきではなかろう」
一護は黙っていた。
ルキアが何を言おうとしているのかは分かる。織姫の力は、もともと常識で測れるようなものではなかった。傷を癒やすのではなく、傷ついたという事象そのものを拒絶する。浦原でさえ、その力の全容を理解していたわけではない。
ならば、まだ何か方法があるかもしれない。
そう考えたかった。
だが一護の脳裏には、最後に見た織姫の姿が焼きついていた。
光へ変わっていく身体。伸ばしかけて止まった手。そして、自分を安心させようとするかのように浮かべられた笑顔。
あのとき織姫は、自分がどうなるのか分かっていたのではないか。
少なくとも、一護にはそう思えてならなかった。
「……あいつ、最後まで笑ってやがった」
ぽつりと漏れた言葉に、ルキアは顔を上げた。
「俺が手ぇ伸ばしたとき、一度はこっちに伸ばそうとしたんだ。けど、途中で止めやがった。あとちょっとだったのによ」
一護は右手を開いた。
傷はすでに塞がっている。それでも、何かを掴もうとしたときの感覚だけが残っていた。指先が織姫へ届く寸前、彼女の輪郭が光になって崩れていった。その光景を思い返すたび、胸の奥にどうしようもない苛立ちが込み上げてくる。
自分に対しての苛立ちだった。
「井上は、貴様を護ろうとしたのだな」
「……ああ」
「そして、貴様も井上を護ろうとした」
一護はルキアを見た。
彼女は普段と変わらない顔をしていたが、その瞳には痛ましさが滲んでいた。
「どちらか一方の思いだけを間違いだと言うことは、私にはできぬ」
「分かってるよ」
一護は短く答えた。
それが分かっているから、余計に苦しかった。
誰かを護るために命を懸けることを、一護は何度も選んできた。自分が傷つくくらいなら構わないと考えたこともあるし、実際に何度も死にかけた。
そのたびに仲間たちは怒り、心配し、それでも最後には力を貸してくれた。
今になって、ようやく分かった気がした。
護られる側が、どんな気持ちでその背中を見ていたのか。
自分がこれまで仲間たちに何をさせてきたのか。
しかし、そんなことを理解したところで、織姫が戻ってくるわけではなかった。
「一護」
ルキアが静かに呼びかける。
「ひとまず戻ろう。浦原たちも調査を始めている。ここに残っていても、今すぐ分かることはあるまい」
「……もう少しだけだ」
「…………」
「もう少しだけ、探させてくれ」
ルキアはしばらく一護を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かった。ならば私も付き合おう」
「お前、まだ身体が――」
「貴様ほど無茶はせぬ。それに、私とて井上を探したい気持ちは同じだ」
一護は口を閉じた。
そして、短く礼を言った。
二人は再び瓦礫の間を歩き始めた。
やがて戦場各地に散っていた仲間たちも集まり、周囲の捜索に加わった。誰もが疲弊し、負傷していたが、織姫が消えたと聞いて何もしない者はいなかった。
石田は霊子の痕跡を調べ、茶渡は崩れた瓦礫を退けた。恋次やルキアも周辺の確認を続け、駆けつけた死神たちが調査範囲を広げていった。
だが、どこにも彼女の姿はなかった。
戦いが終わったことを喜ぶ声が、遠くから聞こえてくる。
長かった戦争は終結し、三界は滅びを免れた。
その事実は、一護にも理解できていた。
ただ、その勝利をどう受け止めればいいのかだけが、分からなかった。
◇
空座町へ帰還したのは、それから数日後のことだった。
尸魂界では戦後処理が始まり、瀞霊廷の各所で損害の確認や負傷者の救護が進められていた。真世界城で起きた最後の異変についても調査が行われたが、何が起きたのかを正確に説明できる者はいなかった。
ユーハバッハが消えたこと。
三界の崩壊が止まったこと。
そして、その中心に井上織姫がいたこと。
確かなのは、それだけだった。
一護はもう少し尸魂界に残ることも考えたが、結局は一度帰宅することにした。
自分があの場所に留まっていたところで、調査が進むわけではない。それに、空座町には家族がいる。無事に帰ると約束した以上、いつまでも顔を見せないわけにはいかなかった。
久しぶりに開いた黒崎家の玄関は、出発したときと何も変わっていなかった。
靴箱の上には夏梨が適当に置いた鍵があり、廊下の奥からは夕食の匂いが漂ってくる。テレビの音に混じって遊子の声が聞こえ、台所では食器を片づける音がしていた。
家に帰ってきたのだと、ようやく実感した。
「ただいま」
声をかけると、台所から遊子が顔を出した。
「お兄ちゃん!」
一護の姿を認めた途端、遊子は持っていた布巾を置いて駆け寄ってきた。勢いよく飛びつかれることを予想して身構えたが、彼女は途中で足を止め、一護の顔をじっと見つめた。
「……お兄ちゃん、大丈夫?」
「何がだよ」
「だって、なんか……すごく疲れてるみたいだから」
一護は自分の頬に手を当てた。
帰る前に傷は治療してもらったし、目立つ汚れも落としてきた。少なくとも、見た目だけならいつもと大差ないはずだった。
「ちょっと寝不足なだけだ。心配すんな」
「ほんと?」
「ああ。腹減ったし、飯食ったら寝るよ」
そう言うと、遊子はようやく安心したように笑った。
居間から顔を出した夏梨も、一護を見るなり軽く手を上げた。
「おかえり、一兄。ずいぶん長かったじゃん」
「色々あったんだよ」
「ふーん。まあ、帰ってきたんならいいけど」
いつもの調子だった。
その何気ない会話が、一護にはありがたかった。
家の中では、世界を滅ぼそうとした男の話も、霊王の話も出てこない。遊子は夕食に何を作ったかを説明し、夏梨は学校であった出来事について文句を言っている。
そんな二人を見ているうちに、一護の肩から少しだけ力が抜けた。
そのとき、背後で階段を下りる足音がした。
「おう、帰ったか」
振り返ると、一心が立っていた。
普段なら帰宅した息子へ突然飛び蹴りを仕掛けてきてもおかしくない父親だったが、この日は何もしなかった。
一護の顔を見て、わずかに目を細める。
「……終わったんだな」
「ああ」
「そうか」
それ以上、一心は何も聞かなかった。
だが、一護にはその沈黙の意味が分かった。
父親は事情を知っている。
三界を巡る戦いがどれほど危険なものだったのかも、一護がどんな覚悟で最後の戦場へ向かったのかも。
そして、無事に帰ってきた息子が、何かを失ったことも。
「親父」
「ん?」
「……あとで、ちょっと話がある」
一心は一護の顔を見た。
それから、静かに頷いた。
「ああ。分かった」
夕食の席では、いつもと同じ会話が交わされた。
遊子が作った料理に一心が大げさな賛辞を送り、夏梨が冷ややかな目でそれを眺める。一護も適当に相槌を打ちながら食事を進めた。
味噌汁は温かく、飯はいつもと同じ味がした。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥に妙な感覚が生まれた。
戦いの中では、何度もこの場所へ帰りたいと思った。
妹たちが笑っていて、親父がくだらないことを言っている。そんな当たり前の日常を護るために、自分は剣を握ってきたのだ。
そして、その日常は確かに残った。
ただ、そこへ帰ってくるはずだった一人が、いない。
食事を終え、遊子と夏梨がそれぞれ自分の用事へ戻ったあと、一護は一心と二人で居間に残った。
テレビは消され、家の中には洗い物をする水音だけが聞こえていた。
「……井上が、帰ってこなかった」
一護が切り出すと、一心の表情が変わった。
「最後に、あいつがユーハバッハを止めたんだ。俺もルキアもやられてて、もうどうしようもなかったときに、井上が全部ひっくり返した」
話しながら、一護はあの光景を思い返していた。
光の中で織姫の身体が透けていく。
自分は必死に手を伸ばした。
けれど、届かなかった。
「……消えちまったんだよ。俺の目の前で」
一心はしばらく黙っていた。
やがて、一護の肩へ大きな手を置いた。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
いつもの父親なら、もっと大げさに騒いだかもしれない。妙な理屈を並べて元気づけようとしたり、余計な冗談を口にしたりしたかもしれない。
だが、この日の一心は何もしなかった。
ただ息子の肩を一度だけ強く叩き、そのまま立ち上がった。
「何か分かったら、俺にも教えろ」
「……ああ」
「それと、飯はちゃんと食えよ。遊子が心配するからな」
「食ってるだろ、さっきも」
「ならいい」
一心はそれだけ言うと、台所へ向かった。
一護はしばらく座ったまま、その背中を見送っていた。
父親が何を考えているのか、すべて分かったわけではない。ただ、母親を失った経験のある一心が、無理に励まそうとしなかったことには、少しだけ感謝していた。
◇
浦原商店を訪ねたのは、帰還して五日目のことだった。
表向きはいつもと変わらない店構えだったが、店内には戦後の慌ただしさが残っていた。棚の一部には見慣れない霊具が並び、奥からは何かを組み立てる音が響いている。
一護が戸を開けると、カウンターの向こうから縞模様の帽子が現れた。
「おや、黒崎サン。いらっしゃい」
「浦原さん、話がある」
「ええ。ちょうどアタシもお呼びしようと思ってたところです。奥へどうぞ」
浦原喜助はいつもの調子で笑ったが、その顔には疲労の色が残っていた。
一護は黙って後をついていった。
奥の部屋には低い卓と座布団が用意されており、壁際には紙束や資料が積み重なっている。浦原は湯呑みを二つ置くと、向かい側へ腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。井上のこと、何か分かったのか」
浦原の手が止まった。
帽子のつばに隠れた表情は読み取りづらかったが、少なくとも普段のように軽口を返す様子はなかった。
「……先に、世界の状態についてお話ししておきましょう」
「世界?」
「ええ。黒崎サンもご存じのとおり、霊王の消失によって三界は本来の均衡を失っていました。ユーハバッハがその力を取り込んだことで、ひとまず崩壊は抑えられていましたが、彼自身が三界を作り替えようとしていた以上、あのままではいずれ取り返しのつかないことになっていたでしょう」
一護は頷いた。
ユーハバッハを倒さなければ世界は滅びる。
だが、ユーハバッハを倒したところで、それだけですべてが解決するわけではなかった。
霊王という楔を失った三界には、代わりとなる存在が必要になる。
そして、その役目を自分が担わされる可能性があった。
そのことを、一護は最終決戦へ向かう前から知っていた。
ユーハバッハが口にした、兵主部一兵衛の真意。
あの男は、一護を新たな霊王に仕立てようとしていたのだと告げた。
敵の言葉をすべて鵜呑みにしたわけではない。兵主部本人から事情を説明されたわけでもなかったし、それがどこまで事実なのかも確かめられていなかった。
しかし、自分の出生や力の成り立ちを考えれば、まったく根拠のない話とも思えなかった。
死神、虚、滅却師。
そのすべての力を持つ自分が、霊王の代わりとなる可能性。
それを知ったうえで、一護は戦場へ向かった。
ユーハバッハを放置すれば、護りたいものがすべて失われる。
その事実だけは、何があろうと変わらなかったからだ。
「……俺が、霊王の代わりになるかもしれねえってことか」
一護が尋ねると、浦原は僅かに目を細めた。
「ご存じだったんですか」
「ユーハバッハが言ってたんだよ。和尚は俺を次の霊王にするつもりだったってな」
「…………」
「どこまで本当かは知らねえけど、あいつがわざわざ嘘をつくような話にも思えなかった。俺の力が普通じゃねえのは、今さら言われるまでもねえしな」
浦原は何も言わなかった。
一護はその沈黙を見て、話を続けた。
「別に、そうなるって決めてたわけじゃねえよ。納得してたわけでもねえ。ただ、あのときはユーハバッハを止めるしかなかった。倒したあとのことなんざ、どうなるか分かんなかったしな」
少なくとも、戦場で立ち止まって考え込んでいる余裕はなかった。
霊王の代わりにされるかもしれない。
それを恐れて剣を置けば、すべてが終わる。
一護には、そんな選択はできなかった。
「……で、実際どうなんだよ」
浦原は一度目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「どうやら、その必要はなくなったらしいんです」
一護は眉を寄せた。
「どういうことだよ」
「三界を維持している仕組みが、再び機能し始めているんです。尸魂界の技術開発局でも調査が続いていますが、現時点で観測されている魂魄の流れは安定している。しかも、単にユーハバッハの力が残っているからというわけでもないようでしてね」
「じゃあ、誰かが霊王の代わりになったってことか?」
「そこが不可解なんです。少なくとも、従来の霊王と同じ形で新たな誰かが据えられたという兆候は確認されていません。楔として必要だった働きそのものが、何らかの方法で復元されたと考える方が自然でしょう」
一護は湯呑みに手を伸ばしかけ、そのまま止めた。
浦原の言いたいことが、少しずつ分かってきた。
「……井上がやったのか」
「断定はできません。ただ、あの瞬間に起きたことを考えれば、井上サンの力が関係している可能性は極めて高い」
「拒絶の力で、世界が壊れたことまでなかったことにしたってのか?」
「正確には、失われた機能を取り戻した、と言うべきでしょうね。霊王そのものが元へ戻ったわけではありませんから」
浦原は卓上の資料を一枚取り出した。
複雑な図式が描かれていたが、一護にはそのすべてを理解することはできなかった。ただ、三界を示す複数の線が、一つの中心へ繋がっていることだけは分かった。
「もっとも、これはまだ仮説です。何をどう拒絶すれば、世界の構造にまで干渉できるのか。正直に言って、アタシにも説明がつかない」
一護は黙って資料を見つめた。
あのとき、織姫の力は明らかにこれまでとは違っていた。
傷を治すための拒絶でも、敵の攻撃を防ぐための盾でもなかった。ユーハバッハの力を押し戻し、未来へ干渉する能力さえ否定していた。
そして、彼女の身体はその代償として失われていった。
「……あいつ、知らなかったんだよな」
「何をです?」
「俺が霊王の代わりになるかもしれねえってことだよ」
浦原は目を伏せた。
「ええ。少なくとも、アタシから井上サンへお伝えしたことはありません」
「だったら、本当に何も知らずにやったんだな」
一護は膝の上で拳を握った。
織姫は、霊王という存在が何なのかも知らなかった。三界を維持するために誰かが犠牲になる仕組みがあることも、その役目を一護が担う可能性があったことも。
ただ、目の前で倒れていた仲間を助けようとした。
それだけの願いが、結果として三界を救い、一護の運命まで変えてしまった。
「黒崎サン」
浦原の声が聞こえた。
「井上サンが何を考えていたのか、アタシには分かりません。ですが、あの子はおそらく、難しい理屈で力を使ったわけじゃない」
「……ああ」
「目の前の誰かを助けたい。ただ、それだけだったんじゃないでしょうか」
一護は答えなかった。
そんなことは、言われなくても分かっていた。
織姫はずっとそうだった。
だからこそ、最後まで自分のことを後回しにしてしまった。
「それで、井上は?」
一護は顔を上げた。
「世界のことは分かった。俺が楔にならなくていいってのも分かった。けど、肝心の井上はどうなったんだよ」
浦原の表情が僅かに曇った。
「……現在確認できる範囲では、井上サンの霊圧は見つかっていません」
「尸魂界でもか」
「ええ」
「虚圏は?」
「そちらも調査しています」
「だったら、まだ分かんねえんだろ」
浦原はすぐには答えなかった。
一護も、それ以上は何も言わなかった。
都合のいい答えを無理に聞き出したところで、何かが変わるわけではない。浦原が曖昧な言い方をしているのは、隠し事をしているからではなく、本当に確かなことが分かっていないからだと理解していた。
やがて浦原が静かに口を開いた。
「手掛かりが見つかれば、必ずお知らせします」
「……頼む」
一護は立ち上がった。
部屋を出ようとしたところで、背後から声がかかった。
「黒崎サン」
「何だよ」
「世界が安定していることと、井上サンの身に起きたことは、分けて考えなきゃいけません。前者については説明できても、後者についてはまだ何も分かっていないんです」
一護は振り返らなかった。
「……分かってる」
そう答えて、浦原商店を後にした。
外へ出ると、空座町の空は晴れていた。
道を行き交う人々の誰一人として、つい数日前まで世界が滅びかけていたことなど知らない。買い物袋を提げた主婦が歩き、自転車に乗った学生が通り過ぎ、商店街の店先では店主が客と世間話をしている。
世界は、何事もなかったように続いていた。
それが織姫の護ったものなのだと、一護は思った。
◇
学校へ戻ったのは、その翌週だった。
久しぶりの教室は相変わらず騒がしく、朝から啓吾が妙なことで騒いでいた。水色はそれを適当に受け流し、教師が入ってくる直前になってようやく席へ戻る。
一護も鞄を机へ置き、椅子に腰を下ろした。
いつもと同じ光景だった。
ただ一つ、違うことがあった。
井上織姫の席が空いていた。
学校側には彼女が戻ってこないことが伝えられていたものの、何が起きたのかという詳しい事情までは説明されていない。担任も、それ以上のことを生徒たちへ話そうとはしなかった。
一護自身、どう説明すればいいのか分からなかった。
世界を護うために戦い、その結果として消えてしまったのだと。
そんな話を、誰が信じるだろう。
たとえ信じてもらえたとして、それで何が変わるというのか。
授業が始まってからも、一護は何度か無意識に空席へ目を向けていた。
織姫はよく、授業中に妙なことを考えていた。
真面目にノートを取っているかと思えば、休み時間になると奇想天外な話を始める。何をきっかけにそんな発想へ辿り着いたのか、一護には見当もつかないことが多かった。
けれど、嫌いではなかった。
むしろ、聞いているうちに自然と笑ってしまうこともあった。
その声が、今は聞こえない。
「……黒崎」
隣から小さな声がした。
顔を向けると、石田雨竜が教科書を開いたまま、こちらを見ていた。
「先生、さっきからお前の方を見てるぞ」
「……あ?」
「だから、授業を聞けと言ってるんだ」
一護は慌てて黒板へ視線を戻した。
教師が呆れたようにこちらを見ていたが、特に注意することなく授業を続けた。
石田は小さく息を吐き、再びノートへ目を落とした。
昼休みになると、茶渡が一護の席へやってきた。
「一護、飯は?」
「ああ、今食う」
「そうか」
茶渡はそれ以上何も言わず、近くの椅子を引いて腰を下ろした。
少し遅れて石田もやってきた。
三人で昼食を取るのは、別に珍しいことではない。以前から何度もそうしてきたし、戦いが始まる前には織姫もよく一緒にいた。
一護は弁当の蓋を開いた。
遊子の作った卵焼きが、いつもより少し多めに入っていた。
「……井上のこと、浦原さんから聞いたか?」
唐突に尋ねると、石田が箸を止めた。
「ああ。三界の均衡が回復していることだろう」
「そうだ」
「技術開発局でも詳細は分かっていないらしい。僕も聞いたが、あの力がどう作用したのか説明できる者はいなかった」
石田は少しだけ目を伏せた。
「……井上さんらしいと言えば、そうなのかもしれないけどね」
一護は弁当を見つめた。
「何だよ、それ」
「彼女は昔から、他人が思いつかないようなことを平然とやってのける人だっただろう」
「……まあな」
「だからこそ、何が起きたのか分からないまま終わらせたくない。僕も調べられることは調べるつもりだ」
一護は顔を上げた。
石田は眼鏡を押し上げ、普段と変わらない表情で弁当へ箸を伸ばした。
「君一人で考え込んでも、答えは出ないだろうからね」
「……余計なお世話だ」
「そうかい」
茶渡が二人のやり取りを聞きながら、静かに頷いた。
「俺も、できることがあれば手伝う」
一護は二人の顔を見た。
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
自分だけが織姫のことを考えているわけではない。
自分だけが、あの日のことを忘れられずにいるわけでもない。
それは当たり前のことだった。
織姫は、一護だけの仲間ではなかったのだから。
◇
有沢竜貴と話したのは、その日の放課後だった。
教室を出ようとしたところで呼び止められ、校舎裏まで来てほしいと言われた。
竜貴は先に歩いていたが、普段のように軽口を叩くことはなかった。校舎の陰に入ってようやく足を止めると、一護の方へ振り返った。
「ねえ、一護」
「何だよ」
「織姫のこと、聞かせて」
一護は答えに詰まった。
竜貴は織姫の親友だった。
幼い頃から一緒に過ごし、彼女のことを誰よりも近くで見てきた人間の一人だ。織姫が虚に襲われたときも、尸魂界や虚圏での出来事に巻き込まれたときも、竜貴は何も知らないままでいたわけではない。
それでも、一護たちの戦いのすべてを知っているわけではなかった。
「……どこまで聞いたんだ」
「織姫が帰ってこなかったってことだけ。詳しいことは誰も教えてくれない」
竜貴は拳を握りしめた。
「みんな何か知ってるくせに、あたしには何も言わないんだよ。危ないことに巻き込まれたのは分かってる。けど、だからって……」
途中で言葉が途切れた。
一護は少しだけ視線を逸らした。
竜貴が怒るのも無理はなかった。
大切な友人が突然いなくなり、その理由すら教えてもらえない。自分が同じ立場だったとしても、きっと納得できなかっただろう。
「……井上は、俺たちを助けてくれたんだ」
一護はゆっくりと言った。
「最後の戦いで、俺もルキアもやられた。もう立ち上がれねえくらい追い詰められてて、あのままじゃ世界ごと終わってたかもしれねえ」
竜貴は黙って聞いていた。
「そのとき、井上が力を使った。今まで見たこともねえくらいでけえ力だった。俺たちの傷を治して、敵を止めて……世界が壊れるのまで防いだらしい」
「……それで?」
「力を使ってるうちに、あいつの身体が消え始めたんだ」
一護は一度だけ息を吐いた。
「俺も止めようとした。けど、間に合わなかった」
竜貴の顔から血の気が引いた。
何かを言おうとして口を開き、しかし言葉が出てこなかったらしい。彼女はしばらく俯いたまま動かなかった。
「……織姫、最後に何か言ってた?」
一護は目を閉じた。
あの笑顔が浮かんだ。
「……ああ」
「何て?」
「自分が全部受け止めるってよ」
竜貴は顔を上げた。
一護はその目を見返した。
「俺に、バイバイって言って……笑ってた」
それ以上、上手く説明できなかった。
竜貴はしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと顔を伏せる。
「……バカじゃん」
小さな声だった。
「ほんっと、バカなんだから……」
握りしめた拳が震えていた。
「あいつ、怖がりなくせにさ。ちょっとしたことで泣くし、変なことで心配するし……なのに、そういうときだけ無茶するんだよ」
一護は何も言えなかった。
竜貴は袖で目元を拭った。
「……一護」
「ん?」
「あんたまで、いなくなったりしないでよ」
一護は目を見開いた。
「織姫があんたを護ったんなら、ちゃんと帰ってきてよ。あの子が護ったものまで、なくなったら嫌だから」
竜貴はそれだけ言うと、一護の横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、肩を軽く叩かれた。
いつものように強く殴られることはなかった。
一護はしばらくその場に立ち尽くしていた。
夕方の校舎には、運動部の掛け声が響いている。グラウンドでは部活動が続けられ、窓の向こうでは生徒たちが笑い合っていた。
誰かを失っても、日常は止まらない。
それは残酷なことのようにも思えたが、同時に織姫が最後まで護ろうとしたものでもあった。
一護は鞄を持ち直し、校門へ向かった。
◇
それから、いくつもの朝と夜が過ぎた。
学校へ通い、授業を受け、帰宅すれば夕食を食べる。宿題を片づけ、風呂に入り、眠る。休日には買い物を頼まれ、時には遊子や夏梨に付き合って出かけることもあった。
死神代行としての仕事が完全になくなったわけではない。
空座町には今も虚が現れるし、迷える魂を尸魂界へ送る役目も残っている。そうした仕事に呼び出されれば、一護は以前と変わらず斬魄刀を握った。
ただ、戦いが終わってから、少しだけ変わったこともあった。
以前なら一人で片づけようとしていたことを、仲間に任せるようになった。負傷すれば無理をせず治療を受け、必要があれば助けを求める。
もちろん、目の前で誰かが襲われていれば、結局は考えるより先に身体が動いてしまう。
その性分だけは、そう簡単に変わりそうになかった。
ある日、空座町に現れた虚を討伐したあと、ルキアに呆れられたことがあった。
『貴様は本当に変わらぬな』
『何がだよ』
『敵の攻撃を正面から受け止めようとするところだ。避けられたであろう』
『後ろに人がいたんだよ。避けたらそいつが食らうだろ』
『それは分かっておる。だが、貴様が倒れては元も子もあるまい』
『分かってるって』
『その返事ほど信用ならぬものもない』
いつもと変わらないやり取りだった。
ルキアは呆れたように溜息をつき、一護は面倒くさそうに頭を掻いた。少し離れた場所では恋次が笑いを堪えており、それに気づいたルキアが鋭い視線を向ける。
そんな光景を見て、一護は久しぶりに声を出して笑った。
笑ったあとで、少しだけ不思議な気分になった。
織姫がいなくなってからも、自分は笑うことができる。
その事実に、最初は戸惑いがあった。
けれど、笑ったからといって彼女を忘れたことにはならない。仲間たちと過ごす時間を大切にすることと、失ったものを悲しむことは、別に矛盾するものではなかった。
浦原からも、ときおり調査の経過が伝えられた。
三界の均衡は安定した状態を保っており、新たな霊王を必要とする兆候も見られない。織姫の最後の拒絶が、世界の維持機構にまで作用したという推測は、少しずつ確かなものになりつつあった。
しかし、彼女自身の行方については依然として手掛かりがなかった。
尸魂界にも、虚圏にも、織姫の霊圧は見つからない。
何が起きたのかを確かめるための調査だけが続けられていた。
一護は報告が届くたびに目を通したが、以前のように答えを急かすことはしなくなっていた。
浦原たちが調査を続けていることは分かっている。
そこで何も見つからないのなら、自分が焦ったところで結果は変わらない。
だからといって、諦めたわけではなかった。
学校帰りにパン屋の前を通れば、織姫が妙な組み合わせのパンを買っていたことを思い出す。教室で誰かが突拍子もない冗談を言えば、あいつならもっと訳の分からないことを言い出しただろうと考える。
そうした記憶は、以前ほど激しい痛みを伴わなくなっていた。
代わりに、何でもない瞬間に胸の奥へ沈んでくるようになった。
忘れたわけではない。
慣れてしまったのでもない。
ただ、織姫がいない日常を生きることに、少しずつ身体が追いつき始めていた。
ある休日、一護は久しぶりに母親の墓を訪れた。
墓石の周囲を掃除し、花を供える。手を合わせたあと、いつものようにその場へ腰を下ろした。
母親が亡くなった日のことは、今でも鮮明に覚えている。
幼い自分は、目の前で母親が死んだことを受け入れられなかった。自分のせいで母親を失ったのだと思い込み、長い間、その記憶を抱え続けていた。
それから多くのことを知った。
母親がどんな人間だったのか。
自分がなぜ死神や虚の力を持って生まれてきたのか。
父親が何を隠し、何を守ろうとしていたのか。
昔は分からなかったことも、今ではある程度理解できるようになった。
けれど、どれほど事情を知ったところで、母親が帰ってこないことに変わりはない。
「……なあ、おふくろ」
一護は墓石を見つめた。
「俺、また護れなかったよ」
口にした途端、少しだけ自嘲するような笑みが浮かんだ。
自分は何度、同じことを繰り返すのだろう。
強くなれば護れると思っていた。
最初は、目の前の誰かを助けるだけの力が欲しかった。やがて家族や仲間を護りたいと思うようになり、気づけば尸魂界や虚圏、三界そのものの命運にまで関わるようになっていた。
それでも、すべてを護れるようになったわけではなかった。
どれほど強くなっても、失うときは失う。
その現実を、嫌というほど思い知らされた。
一護はしばらく墓石を見つめていたが、やがて膝に手をついて立ち上がった。
「……まあ、だからって何もしねえわけにもいかねえけどな」
誰もが傷つかずに済む世界など、簡単には作れない。
自分一人ですべての人間を護れるとも思っていない。
それでも、目の前で困っている誰かを見過ごすことはできなかった。
昔から、そういう性分だった。
これからも、きっと変わらない。
ただ、今までより少しだけ多くのことを考えながら、剣を握ることになるのだろう。
一護は墓石へ軽く手を合わせ、帰路についた。
◇
その夜も、特別なことは何もなかった。
夕食のあと、夏梨にテレビのチャンネルを奪われた一心が大げさに騒ぎ、遊子がそれをなだめていた。一護はその様子を横目に見ながら、学校で出された課題を片づけていた。
テレビでは、どこかの地方で起きた事件について報道している。
凶悪な事件ではあったが、一護が関わるような霊的なものではなかった。画面の向こうでは警察官が規制線を張り、記者が現場の状況を説明している。
昔の自分なら、事件の内容を聞いて余計なことを考えたかもしれない。
けれど、今は違った。
世の中には、自分の力が届かない場所もある。
自分が関わらずとも、誰かがその場所で戦っている。
それを理解できるようになっていた。
「一兄、明日って学校何時から?」
夏梨に声をかけられ、一護は顔を上げた。
「いつもどおりだよ。何んかあったか?」
「いや、朝ちょっと出るからさ。洗面所使う時間かぶったら面倒だなって」
「だったら早く起きろよ」
「一兄こそ寝坊すんなよ」
「しねえよ」
くだらないやり取りだった。
けれど、そんな会話ができることを、一護は以前より大切に思うようになっていた。
風呂を済ませ、自室へ戻ったのは日付が変わる少し前だった。
机の上には途中まで解いた問題集が置かれている。最後の一問だけが残っていたが、眠気が勝ってしまい、続きを明日に回すことにした。
窓の外では、街灯が静かな住宅街を照らしていた。
遠くから車の走る音が聞こえる。
一護はベッドへ横になり、天井を見上げた。
明日は学校がある。
朝になれば遊子が朝食を用意してくれて、夏梨が何か文句を言いながら出かけるだろう。親父はきっと、またくだらないことを仕掛けてくる。
いつもと変わらない朝が来る。
そう考えたところで、一護はふと机の方へ目を向けた。
椅子の背には制服が掛かっている。
明日も、あれを着て学校へ行くのだ。
授業を受け、仲間と話し、帰宅する。
それだけの一日。
世界を護るために命を懸けた戦いの先に、ようやく戻ってきた日常だった。
眠気がゆっくりと意識を包み込んでいく。
最後に浮かんだのは、やはり織姫の顔だった。
けれど、その夜に思い出したのは、真世界城で消えていった姿ではなかった。
学校の廊下で目が合ったとき、嬉しそうに手を振っていた姿。
何でもないことで笑っていた、いつもの井上織姫だった。
その記憶を最後に、一護は眠りへ落ちた。
◇
最初に感じたのは、奇妙な圧迫感だった。
身体が重い。
いや、重いというより、思うように動かない。
瞼を開こうとした瞬間、ぼんやりとした明るさが視界へ差し込んできた。
何だ。
一護は眉を寄せようとした。
しかし、顔の筋肉さえ上手く動かせない。
視界はひどく曖昧で、何かが近くにあることは分かっても、その輪郭をはっきり捉えることができなかった。
寝ぼけているのかと思った。
昨夜は確か、自分の部屋で眠ったはずだ。
学校の課題を途中で放り出し、制服を椅子に掛けたところまでは覚えている。
それなのに、今いる場所には見覚えがなかった。
鼻をくすぐる消毒液の匂い。
規則正しく響く機械音。
遠くから聞こえる、誰かの話し声。
病院だろうか。
そう考えた瞬間、一護の身体が何かに包み込まれた。
柔らかい布の感触があり、身体がゆっくりと持ち上がる。
反射的に抵抗しようとした。
だが、腕が動かなかった。
いや、正確には動いている。
ただ、自分が思ったとおりには動いていない。
何とか視線を下ろした一護は、そこで初めて異常に気づいた。
小さな手があった。
驚くほど小さく、丸みを帯びた手だった。
指を握ろうとすると、頼りない動きで五本の指が曲がる。
手の甲には皺があり、爪も信じられないほど小さい。
何だ、これ。
一護は声を出そうとした。
しかし、口から漏れたのは言葉ではなかった。
「……あ、う……」
自分でも理解できない音が喉から出た。
その直後、誰かが優しく声をかけてきた。
「どうしたの? お腹空いた?」
一護の思考が止まった。
その声を、知っていた。
何年も前から、何度も夢に見た声だった。
もう二度と聞くことはできないと思っていた。
幼い頃、朝起きるたびに聞いていた声。
転んで泣いたとき、優しく抱き起こしてくれた声。
一護は必死に顔を上げようとした。
首が動かない。
それでも、声のする方へ視線を向けた。
ぼやけた視界の向こうに、一人の女性がいた。
明るい髪。
柔らかな目元。
こちらを見つめる、穏やかな笑顔。
一護は息を呑もうとした。
だが、思うように呼吸ができず、小さく喉を鳴らすことしかできなかった。
――おふくろ?
黒崎真咲が、そこにいた。
記憶の中の姿より少し若く見える。
けれど、間違えるはずがなかった。
幼い自分を抱き締め、何度も笑いかけてくれた母親だった。
「一護、どうしたの?」
その名前を聞いた瞬間、一護の頭はさらに混乱した。
自分を呼んでいる。
母親が。
死んだはずの母親が、当たり前のように自分を抱き、名前を呼んでいる。
幻覚だろうか。
夢なのか。
それとも、何かの能力を受けているのか。
反射的に霊圧を探ろうとした。
しかし、いつもの感覚がなかった。
周囲に意識を広げようとしても、何も掴めない。内側にあるはずの力へ手を伸ばそうとしても、身体がその動作を理解していないような、奇妙な違和感があった。
斬月を呼ぶこともできない。
そもそも、霊力を扱うための感覚そのものが遠かった。
一護は焦った。
だが、その焦りに身体がついてこない。
腕を持ち上げようとしても、小さな手が頼りなく揺れるだけだった。
母親が心配そうに覗き込んでくる。
「一護?」
その顔を見た途端、別の感情が込み上げてきた。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
母親が死んでから、何度も夢に見た。
もう一度だけでいいから声を聞きたいと思ったこともあるし、どうして自分を置いていってしまったのかと、子供じみた怒りを覚えたこともあった。
その母親が、目の前にいる。
一護は何かを言おうとした。
けれど、口から出たのは短い泣き声だった。
「……う、あ……!」
自分でも驚くほど頼りない声だった。
真咲は少しだけ目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「あらあら、どうしたの。よしよし、大丈夫よ」
大丈夫。
その言葉を聞いた途端、一護の目から涙が零れた。
真咲は泣き始めた息子を胸へ抱き寄せ、ゆっくりと背中を撫でた。
温かかった。
その温もりは、記憶の中にあるものとよく似ていた。
だが、今の一護には一つだけ分からないことがあった。
自分は、どうなったのだろう。
昨日まで高校生だったはずだ。
空座町で暮らし、学校へ通い、死神代行として虚と戦っていた。
ユーハバッハとの戦いも終わった。
井上を失い、それでも日常へ戻ろうとしていた。
その記憶が、すべて残っている。
なのに今、自分の身体は赤ん坊になっていた。
そして、死んだはずの母親が生きている。
混乱する一護の耳に、別の声が届いた。
「おーい真咲! 父ちゃんにも一護を抱かせてくれ!」
一護は思わず目を見開いた。
この声にも、覚えがある。
というより、つい昨日まで聞いていた声だった。
「もう、一心ったら。さっき抱っこしたばかりじゃない」
「何を言う! 生まれたばかりの我が息子を抱くのに、回数制限なんぞあるものか!」
聞き慣れた声が、いつもと変わらない勢いで言い返してきた。
一護は首を動かそうとしたが、当然ながら上手くいかなかった。
代わりに、誰かの大きな手が視界へ入り込んでくる。
「さあ一護! 父ちゃんだぞー!」
黒崎一心だった。
昔と変わらない顔で、満面の笑みを浮かべている。
一護は呆然とその顔を見つめた。
親父までいる。
しかも、二人とも自分のことを赤ん坊として扱っている。
何が起きているのか、まるで分からなかった。
「ほーら、父ちゃんに抱っこされて嬉しいだろー?」
一心が顔を近づけてくる。
その瞬間、一護は反射的に顔を背けようとした。
しかし、首の筋肉が言うことを聞かず、代わりに小さな腕が跳ね上がった。
ぱしん、と。
赤ん坊の手が、一心の頬へ当たった。
「ぐおおおおっ! 一護ぉぉ! 生まれたばかりでもう父ちゃんに反抗するのかぁぁ!」
「ちょっと一心! 危ないから暴れないで!」
真咲が慌てて一心を叱る。
一護はそのやり取りを聞きながら、妙な既視感を覚えた。
親父が馬鹿なことをして、おふくろがそれを叱る。
幼い頃には、何度も見た光景だった。
けれど、目の前の二人は一護の知っている両親と、何かが違っていた。
顔も、声も、性格も同じように見える。
それなのに、霊的な力の気配が感じられない。
自分の感覚が正常でない以上、それだけで何かを断定することはできなかったが、少なくとも一心の身体から死神としての霊圧を感じ取ることはできなかった。
真咲についても同じだった。
かつて滅却師として戦っていた母親の面影はある。
だが、今の彼女はごく普通の女性にしか見えなかった。
一護は混乱した頭で考え続けた。
時間が巻き戻ったのか。
それとも、まったく別の場所へ来てしまったのか。
しかし、考えるための材料があまりにも足りなかった。
そんな一護をよそに、一心は再び息子へ笑いかけていた。
「なあ真咲、こいつ将来どんな奴になるんだろうな」
「そうねえ。元気で優しい子になってくれたら、それで十分よ」
「いやいや! どうせなら父ちゃんみたいな立派な男に――」
「そこはちょっと考えたいかな」
「真咲ぃ!?」
聞き慣れた悲鳴が響いた。
そのやり取りが妙に懐かしくて、一護は思わず笑いそうになった。
だが、赤ん坊の身体では上手く表情を作れない。
代わりに小さな声が漏れ、真咲が嬉しそうに顔を近づけてきた。
「あ、笑った?」
「おおっ!? 今笑ったな! 一護、父ちゃんの顔がそんなに面白いか!」
面白えに決まってんだろ。
そう返してやりたかった。
しかし、口から出たのは意味のない声だけだった。
一護はそこで、ようやく現実を認め始めていた。
夢にしては、感覚があまりにも鮮明だった。
抱き上げられたときの不安定さも、肌に触れる布の感触も、母親の体温も、すべてが確かなものとして存在している。
自分は本当に赤ん坊になっている。
どういう理由でそうなったのかは分からない。
昨日まで生きていた世界がどうなったのかも、今は確かめようがなかった。
ただ、この身体では何一つ自由にできないという事実だけがあった。
◇
しばらくして、一心が何かの手続きのために病室を出ていった。
真咲はベッドへ腰を下ろし、腕の中の一護をゆっくりと揺らしていた。
窓の外からは、車の走る音が聞こえる。
見慣れない病室だった。
一護は母親の胸に抱かれながら、どうにか周囲の様子を確認しようとした。
壁に掛けられた時計。
窓際の小さな花瓶。
椅子の上に置かれた鞄。
どれも、ごく普通の病院にあるものだった。
ただ、廊下の向こうから聞こえてくる会話には、聞き慣れない言葉が混じっていた。
「……お子さんの個性については、まだ何とも言えませんから」
医師らしい男性の声だった。
「ええ、もちろん分かっています。四歳くらいまでは様子を見るしかないんですよね」
別の女性が答える。
一護は僅かに眉を寄せた。
個性?
それが何を意味するのか、すぐには分からなかった。
単に性格のことを話しているのだろうか。
だが、医師の説明にしては妙な言い回しだった。
そのとき、廊下の奥にあるテレビからニュース番組の音声が聞こえてきた。
何かの事件が起きたらしい。
アナウンサーが緊迫した口調で現場の状況を伝えている。
『――現場では、駆けつけたプロヒーローによる救助活動が続けられています』
一護は耳を澄ませた。
プロヒーロー。
聞き慣れない単語だった。
少なくとも、一護の知っている社会では、そうした職業が当たり前のように存在していた記憶はない。
『なお、今回の事件では敵〈ヴィラン〉による個性の不正使用が確認されており――』
さらに聞き慣れない言葉が続いた。
個性。
ヒーロー。
ヴィラン。
何かがおかしい。
一護はようやく、自分が置かれている状況の異常さを別の角度から理解し始めた。
単純に時間が巻き戻っただけなら、こんな言葉が日常的に使われているはずがない。
それに、目の前にいる両親も、自分の知っている両親とは何かが違う。
そもそも、母親が生きているという事実からして、これまでの人生とは辻褄が合わなかった。
ならば、ここは。
自分が生きていた場所とは、違う世界なのだろうか。
そこまで考えたところで、真咲が一護の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、一護。難しい顔して」
一護は思考を中断した。
母親が、優しく微笑んでいる。
その顔を見ていると、不思議と胸が落ち着いた。
分からないことは山ほどある。
元の世界へ戻れるのかも、戻るべきなのかも分からない。
自分がなぜ赤ん坊になったのか、これから何が起きるのかも、何一つ見当がつかなかった。
けれど。
目の前にいる母親は、確かに生きていた。
ずっと失ったままだった温もりが、今は自分のすぐそばにある。
一護は小さな手を持ち上げようとした。
思ったようには動かない。
それでも、何とか指先を伸ばした。
真咲がその手に気づき、自分の指を差し出してくる。
小さな手が、母親の指を握った。
「あら、握ってくれたの?」
真咲は嬉しそうに笑った。
「ふふ。そんなに強く握らなくても、どこにも行かないわよ」
一護はその言葉を聞きながら、目を閉じた。
どこにも行かない。
その何気ない一言が、胸の奥へ深く染み込んでいった。
前の人生では、母親を失った。
仲間を護るために戦い続け、最後には織姫まで失った。
どれほど強くなっても、護りきれなかったものがある。
それは、この世界へ来たからといって消える事実ではなかった。
真咲の指を握る手に、僅かに力が入った。
すると、彼女は一護の額へそっと唇を寄せた。
「おやすみ、一護」
優しい声だった。
懐かしくて、温かい声だった。
赤ん坊の身体は、すでに限界を迎えていた。
頭の中では考えたいことがいくらでもあるのに、眠気が容赦なく押し寄せてくる。
一護は必死に意識を保とうとした。
眠ってしまえば、また何かが変わるかもしれない。
目を覚ましたとき、母親が消えているかもしれない。
元の世界へ戻っているかもしれない。
あるいは、今までのすべてが夢だったのだと分かってしまうかもしれない。
けれど、身体は正直だった。
小さな手から力が抜け、瞼がゆっくりと閉じていく。
最後まで耳に残っていたのは、真咲が小さく口ずさむ子守歌だった。
昔、何度も聞いたことがある歌だった。
黒崎一護は、懐かしい子守歌に包まれながら眠りへ落ちた。
真咲は腕の中の一護が眠ったことを確かめると、その小さな身体をそっと抱き直した。つい先ほどまで泣いていた息子は、今ではすっかり落ち着いた様子で、母親の胸元に頬を寄せている。
「……ふふ。おやすみ、一護」
額にかかった髪を指先で払い、真咲は愛おしそうに息子の顔を見つめた。生まれたばかりの小さな命が、自分の腕の中で安心しきって眠っている。そのことが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
やがて病室の扉が静かに開き、一心が顔を覗かせた。何か言おうとしたところで、真咲が唇に人差し指を当てる。それだけで事情を察したらしく、一心は口を閉じ、足音を忍ばせながらベッドのそばへ歩み寄った。
「……寝たのか?」
「ええ、ぐっすり。さっきまで泣いてたのが嘘みたい」
「そうか」
一心は眠っている息子を覗き込み、普段の騒がしさからは想像もつかないほど穏やかな表情を浮かべた。小さな頬に触れようと手を伸ばしかけたものの、起こしてしまうのを恐れたのか、途中で引っ込める。
「……可愛いな、こいつ」
「でしょう?」
真咲が得意げに笑うと、一心も小さく笑い返した。
「まあ、俺と真咲の息子だからな。可愛くないわけがない!」
「もう、そういうところは本当に変わらないんだから」
呆れたように言いながらも、真咲の顔には笑みが浮かんでいた。一心もそれ以上は騒がず、ベッドの脇に置かれた椅子へ腰を下ろす。
窓の外では、街の明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。遠くから聞こえる車の走行音に、廊下を行き交う看護師たちの足音が微かに重なる。
真咲は腕の中の一護へ視線を戻した。息子は両親の会話にも目を覚ますことなく、時折小さな指を動かしながら眠っている。
その指先にそっと触れると、小さな手が真咲の指を握った。
「あら……」
思わず声を漏らした真咲に、一心が顔を向ける。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
真咲は微笑み、息子の手を握り返した。
そして、先ほどの子守歌をもう一度、小さく口ずさみ始めた。