『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

21 / 22
第21話 もう一度、君と

 

 織姫は、なかなか顔を上げなかった。

 

 両手で目元を覆ったまま、ときおり小さく鼻をすすっている。泣き声はもう聞こえないが、肩はまだ僅かに震えていた。

 

 一護はその隣に腰を下ろし、何も言わずに待っていた。

 

 競技場からは歓声が聞こえてくる。

 

 つい先ほどまで自分もあの中にいたというのに、今は随分と遠く感じられた。

 

「……黒崎くん」

 

 しばらくして、織姫が口を開いた。

 

「ん?」

 

「……ごめんね」

 

「何がだよ」

 

「こんなに泣いちゃって」

 

 一護は眉を寄せた。

 

「別に謝ることじゃねえだろ」

 

「……うん」

 

 織姫は小さく頷いた。

 

 けれど、顔はまだ伏せたままだった。

 

「あたしね、嬉しくて泣いたことって、何回もあるんだけど……」

 

「……ああ」

 

「こんなに足の力までなくなっちゃったの、初めてかも」

 

 そう言って、少しだけ笑った。

 

 一護は織姫の足元へ目を向けた。

 

 怪我をした様子はない。

 

 ただ、安心した途端に身体の力が抜けてしまったのだろう。

 

「……立てそうか?」

 

「うーん……」

 

 織姫は試しに膝へ力を入れた。

 

 身体が僅かに持ち上がる。

 

 だが、すぐに元の位置へ戻ってしまった。

 

「……もうちょっと」

 

「分かった」

 

 一護は頷いた。

 

 それから、通路の先へ目を向ける。

 

 幸い、今のところ誰かが通る気配はない。

 

「……水でも持ってくるか」

 

 そう言って腰を浮かせたときだった。

 

 くい、と袖が引かれた。

 

「……ん?」

 

 振り返る。

 

 織姫が、黒い死覇装の袖を掴んでいた。

 

 本人も無意識だったらしい。

 

 一護と目が合った途端、慌てて手を離そうとする。

 

「あっ、ご、ごめん! あたし、つい……!」

 

「……いや」

 

 一護はもう一度腰を下ろした。

 

「ここにいるよ。水はあとでいい」

 

 織姫は目を瞬かせた。

 

「……うん」

 

 小さく頷く。

 

 掴んでいた指が、ゆっくりと離れた。

 

 それから、織姫は少しだけ顔を上げる。

 

 赤くなった目元。

 

 濡れた頬。

 

 それでも、その口元には笑みが浮かんでいた。

 

「……黒崎くん」

 

「ん?」

 

「……ほんとに、黒崎くんなんだね」

 

 一護は一瞬、言葉を止めた。

 

 それから、少しだけ笑う。

 

「……ああ」

 

「……そっかぁ」

 

 織姫は目を細めた。

 

 まるで、その答えをゆっくり味わうように。

 

 一護は、そんな彼女を見ていた。

 

 自分だって、まだ実感が湧いていない。

 

 あの日、目の前で消えてしまった少女が、ここにいる。

 

 死覇装の袖を掴んで。

 

 泣いて。

 

 笑っている。

 

 もう二度と会えないと思っていた相手が。

 

「……井上」

 

「うん?」

 

「無理して立たなくていいからな」

 

 織姫は少しだけ目を丸くした。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「……うん!」

 

     *

 

 織姫が立ち上がれたのは、それから少し経ってからだった。

 

 一護が差し出した手を借り、ゆっくりと身体を起こす。

 

「……よいしょ」

 

「大丈夫か?」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

「もう平気だよ!」

 

「そっか」

 

 一護は手を離し、通路の先を指さした。

 

「向こうに休めるとこあったろ。そこで水でも飲もうぜ」

 

「……うん!」

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 競技場の裏手に設けられた休憩スペースには、いくつかのベンチと自動販売機が並んでいた。

 

 今はほとんど人がいない。

 

 一護は自動販売機で水を二本買い、そのうちの一本を織姫へ渡した。

 

「ほら」

 

「ありがとう、黒崎くん!」

 

 二人はベンチへ腰を下ろした。

 

 織姫はペットボトルの蓋を開け、一口飲む。

 

「……はあ」

 

 ようやく、ひと息つけた。

 

 その隣で、一護も水を飲んでいる。

 

 何か話さなければ。

 

 そう思ったわけではなかった。

 

 ただ、隣にいることが不思議だった。

 

 あまりにも自然で。

 

 けれど、少し前までは考えられなかったことだった。

 

「……なあ、井上」

 

「うん?」

 

 一護が口を開いた。

 

「こっちに来たときのこと、覚えてるか?」

 

「……こっちに?」

 

「ああ。いつから記憶があったのか、気になってさ」

 

 織姫は少しだけ考えた。

 

「……最初から、かな」

 

「最初から?」

 

「うん。気がついたら、赤ちゃんになってたの」

 

 一護の手が止まった。

 

「……井上もか?」

 

 織姫が目を丸くする。

 

「……えっ?」

 

「俺もだ」

 

「……ええっ!?」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 織姫は慌てて口元を押さえる。

 

「黒崎くんも赤ちゃんから!?」

 

「ああ。目が覚めたら、もうこっちにいた」

 

「……すごい! 一緒だね!」

 

「すごいことなのか、それ」

 

 一護が苦笑する。

 

 織姫は勢いよく頷いた。

 

「だって、黒崎くんもあの大変さを知ってるってことでしょ?」

 

「……大変さ?」

 

「うん! 何か言おうとしても、あーとかうーとかしか出ないんだよ!」

 

 一護の眉がぴくりと動いた。

 

「……ああ」

 

「頭の中ではちゃんと喋ってるのに、全然伝わらないんだもん!」

 

「……分かる」

 

 一護は深く頷いた。

 

「何つうか……思いどおりに動かねえんだよな」

 

「そうそう!」

 

 織姫が身を乗り出す。

 

「あとね、眠くないのに寝かされちゃったり!」

 

「……あったな」

 

「勝手に抱っこされて、知らないところに連れていかれちゃったり!」

 

「……ああ」

 

 一護は、何とも言えない顔になった。

 

 織姫はそんな彼を見て、思わず笑った。

 

「……黒崎くんも大変だったんだね」

 

「……まあな」

 

 一護は苦笑する。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

 織姫も笑う。

 

 赤ん坊だった頃の苦労。

 

 今まで誰にも話せなかった、妙な苦労話だった。

 

 それを当たり前のように理解してくれる相手がいる。

 

 たったそれだけのことが、何だかおかしかった。

 

「……でも、井上も最初から覚えてたんだな」

 

「うん」

 

 織姫は頷いた。

 

「ずっと覚えてたよ」

 

「……そっか」

 

 一護はペットボトルへ視線を落とした。

 

 しばらくして、もう一度口を開く。

 

「俺の場合、寝て起きたらこっちだったんだよ」

 

「……寝て?」

 

「ああ。あの戦いのあと、しばらくは普通に暮らしてた。それで、ある日いつもどおり寝たんだ」

 

 織姫は黙って聞いている。

 

「次に目が覚めたときには、赤ん坊だった。何でそうなったのかは、今でも分かんねえ」

 

「……そっか」

 

 織姫は小さく頷いた。

 

「……あたしは、あの日が最後だったから」

 

 一護が顔を向ける。

 

 織姫は、自分の手元を見つめていた。

 

「次に気がついたときには、もうこっちにいたの」

 

「……ああ」

 

「だから、黒崎くんも同じなのかなって……」

 

 そこまで言いかけて、織姫は口を閉じた。

 

 一護は、ようやく腑に落ちた。

 

 さっき、あんなに必死になって生きていたのかと尋ねた理由。

 

 井上にとって、あの世界での最後は、自分が力を使った瞬間だったのだ。

 

 そのあと何が起きたのかを、知ることはできなかった。

 

「……そりゃ、怖かったよな」

 

 一護が呟く。

 

 織姫は少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

 一護は目を伏せた。

 

 自分が生き残ったことは、当然知っている。

 

 世界が元に戻ったことも、浦原から聞いていた。

 

 けれど、そのどちらも井上には届いていなかった。

 

「……悪かったな」

 

 気づけば、そんな言葉が口をついていた。

 

 織姫が目を瞬かせる。

 

「……え?」

 

「いや……何も知らねえままだったんだろ」

 

 一護は後頭部を掻いた。

 

「謝ることでもねえのかもしれねえけど」

 

 織姫は、しばらく彼を見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと首を振る。

 

「……黒崎くん」

 

「ん?」

 

「もう、聞けたから大丈夫だよ」

 

 一護は顔を上げた。

 

 織姫はまっすぐに彼を見ていた。

 

「ちゃんと護れたって分かったし、黒崎くんが生きてたことも聞けたもん」

 

 その声は、穏やかだった。

 

 さっきまで泣いていたのが嘘のように、落ち着いている。

 

 けれど、無理をしているわけではなかった。

 

「……そっか」

 

 一護は小さく笑った。

 

「なら、よかった」

 

 織姫も笑った。

 

     *

 

「……それにしても」

 

 一護が呟いた。

 

「お互い、よく今まで気づかなかったよな」

 

 織姫が顔を上げる。

 

「……うん」

 

「名前も顔も同じなのに」

 

 一護は苦笑した。

 

「俺なんか、最初から別人だって決めつけてたからな」

 

「……あたしもだよ」

 

 織姫が答えた。

 

「黒崎くんを初めて見たとき、ほんとはすっごくびっくりしたんだ」

 

「……俺もだ」

 

「でも、たつきちゃんのことがあったから……」

 

「ああ」

 

 一護は頷いた。

 

「たつきも、前の世界のことは覚えてなかったろ」

 

「……うん」

 

「俺も同じだよ。だから井上もそうなんだと思ってた」

 

 織姫は少しだけ笑った。

 

「……二人とも、同じこと考えてたんだね」

 

「……だな」

 

 一護も笑った。

 

 そこで、織姫がふと顔を上げる。

 

「でもね、あたし」

 

「ん?」

 

「今の黒崎くんとも、仲良くなれたらいいなって思ってたんだ」

 

 一護は少しだけ目を瞬かせた。

 

「……そうなのか」

 

「うん!」

 

 織姫は元気よく頷いた。

 

「同じ学校だし、いつかちゃんとお話しできたらいいなって!」

 

 一護は、少しだけ視線を逸らした。

 

「……俺は、ちょっと距離置いてたかもな」

 

「……え?」

 

 織姫が目を丸くする。

 

 一護は後頭部を掻いた。

 

「いや、井上がどうこうって話じゃねえぞ」

 

「……うん」

 

「顔も名前も同じだろ。だから……」

 

 そこで、一度言葉を切った。

 

 織姫は何も言わず、続きを待っていた。

 

「……思い出すんだよ」

 

 一護は小さく呟いた。

 

「前の世界のこと」

 

 織姫の表情が、僅かに変わる。

 

「……そっか」

 

「ああ」

 

 一護は頷いた。

 

「別人だと思ってたから、どう接していいか分かんなかったんだ」

 

 織姫は少しだけ考えた。

 

 それから。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「今は、こうしてお話しできてるね」

 

 一護は顔を上げた。

 

 織姫は笑っていた。

 

 いつもの、柔らかな笑顔だった。

 

 一護も、つられて口元を緩める。

 

「……だな」

 

「えへへ」

 

「……もっと早く話してりゃよかった」

 

「うん!」

 

 織姫が笑う。

 

 一護も小さく笑った。

 

 少しばかり遠回りをした。

 

 それでも、今こうして話せている。

 

 それなら、もういい。

 

 そんなふうに思えた。

 

     *

 

「……そういや、B組はどうなんだ?」

 

 一護が尋ねた。

 

「……B組?」

 

「ああ。学校生活、上手くやれてるか?」

 

「うん!」

 

 織姫は元気よく頷いた。

 

「毎日楽しいよ! 一佳ちゃんも優しいし、みんな面白い子ばっかりなの!」

 

「……そうか」

 

「今日もね、騎馬戦で一佳ちゃんたちと組めて、すっごく楽しかったんだ!」

 

 一護は頷いた。

 

「見たよ。六位だったんだろ?」

 

「うん!」

 

 織姫は嬉しそうに笑った。

 

「決勝に残れたんだよ!」

 

「すげえじゃねえか」

 

「えへへ!」

 

 織姫は少し照れくさそうに笑う。

 

 それから、ふと思い出したように顔を上げた。

 

「あ、そうだ!」

 

「ん?」

 

「黒崎くん、障害物競走二位だったんだよね!」

 

「ああ」

 

「すごかったよ! あんな大きなロボットが倒れてきたのに、みんなを助けちゃうんだもん!」

 

 一護は少しだけ肩をすくめた。

 

「……まあ、間に合ってよかったよ」

 

「うん!」

 

 織姫は力強く頷いた。

 

「すっごく、黒崎くんらしかった!」

 

 一護は目を瞬かせた。

 

「……俺らしい?」

 

「うん!」

 

 何の迷いもない返事だった。

 

 一護は思わず苦笑した。

 

「……そっか」

 

 それから、小さく笑う。

 

「まあ、緑谷には負けたけどな」

 

「あれもすごかったね!」

 

「ああ。よくあんな手思いつくよな」

 

 織姫は笑った。

 

「うん! みんなすごいよね」

 

「……ああ」

 

 一護も頷いた。

 

 この世界にも、強い奴はたくさんいる。

 

 誰かを護ろうとする奴も。

 

 自分の夢に向かって、必死に努力している奴も。

 

 そういう連中と、同じ学校で学べる。

 

 それは、悪くないことだと思った。

 

「……そういや、井上」

 

「うん?」

 

「さっきの騎馬戦、どうだった?」

 

 織姫は少しだけ考えた。

 

「……すっごく難しかった!」

 

 一護が笑った。

 

「だよな」

 

「うん! でも、一佳ちゃんがいっぱい鉢巻きを取ってくれてね!」

 

「……ああ」

 

「小森ちゃんと柳ちゃんも、すっごく頑張ってくれたんだよ!」

 

 織姫は嬉しそうに続けた。

 

「だから、あたしもちゃんと守らなきゃって!」

 

 一護は頷いた。

 

「……そうか」

 

「うん!」

 

 織姫は笑った。

 

 それから、一護へ顔を向ける。

 

「黒崎くんたちも、すごかったよね!」

 

「……まあな」

 

 一護は苦笑した。

 

「峰田の球が、思った以上に役に立った」

 

「峰田くん?」

 

「ああ。あいつ、結構やるんだよ」

 

 織姫が目を丸くする。

 

「へえ!」

 

「まあ、普段はしょうもねえことばっか言ってるけどな」

 

「えへへ」

 

 織姫が笑った。

 

「何だか、楽しそうだね」

 

「……そうか?」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

「黒崎くん、クラスのこと話してるとき、楽しそうだもん」

 

 一護は少しだけ目を瞬かせた。

 

 それから、苦笑する。

 

「……まあ、退屈はしねえな」

 

「そっか!」

 

 織姫も嬉しそうに笑った。

 

     *

 

「……そうだ、井上」

 

 一護が口を開いた。

 

「ん?」

 

「個性の登録、どうしてんだ?」

 

「……個性?」

 

「ああ。六花の力」

 

 織姫は少しだけ目を瞬かせた。

 

 それから、頷く。

 

「ああ! ちゃんと登録してるよ!」

 

「やっぱりか」

 

「うん。名前は『六花』にしてるの」

 

 一護は小さく笑った。

 

「……分かりやすいな」

 

「黒崎くんは?」

 

「俺は『斬月』だ」

 

 織姫は、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

 一護は頷く。

 

「最近、正式に決めたんだよ」

 

「……最近?」

 

「ああ。ずっと名前、空欄だったんだけどな」

 

 一護は苦笑した。

 

「力の使い方が色々あって、どう説明すりゃいいか分かんなかった」

 

「……ああ、そっか」

 

 織姫は納得したように頷いた。

 

 斬月。

 

 死神の力。

 

 虚の力。

 

 滅却師の力。

 

 そして、完現術。

 

 一護が持つ力は、一つの言葉だけで簡単に説明できるものではない。

 

 それを知っている織姫には、一護の言葉がよく分かった。

 

「……でも」

 

 織姫は小さく笑った。

 

「斬月って名前、やっぱり黒崎くんらしいね」

 

 一護は少しだけ目を瞬かせた。

 

「……そうか?」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

「黒崎くんには、斬月が一番似合うもん」

 

 一護は視線を落とした。

 

 そこには、今は何もない。

 

 けれど、呼べば斬月は現れる。

 

 自分の内側には、今も二人の斬月がいる。

 

「……まあな」

 

 一護は小さく笑った。

 

「こいつが一番、しっくりくる」

 

 織姫も笑った。

 

「……そういえば」

 

「ん?」

 

「さっき、刀が出てきたとき……あたし、霊圧を感じたんだ」

 

 一護は顔を上げた。

 

「……ああ」

 

「でも、今までは全然分からなかったから」

 

 織姫は少し不思議そうに言った。

 

 一護は頷いた。

 

「普段は抑えてるんだよ。周りに影響が出ることもあるからな」

 

「……そっか」

 

「だから、近くにいても分かんなかったんだろうな」

 

「うん……」

 

 織姫は小さく笑った。

 

「でも、あのときだけは分かったんだ」

 

 一護は、少しだけ目を細めた。

 

 織姫が何を思ってあの姿を見ていたのか。

 

 今なら、少しだけ分かる気がした。

 

「……そうか」

 

 短く答える。

 

 織姫は頷いた。

 

 そして、もう一度だけ笑った。

 

     *

 

 通路の向こうから、足音が近づいてきた。

 

「……織姫?」

 

 聞き慣れた声だった。

 

 織姫が顔を上げる。

 

「あっ、一佳ちゃん!」

 

 拳藤一佳が、休憩スペースの入口に立っていた。

 

「もう、探したよ! そろそろ戻らないと――」

 

 そこで、拳藤は一護の姿に気づいた。

 

「……あれ、黒崎?」

 

「おう」

 

 一護が軽く手を上げる。

 

 拳藤は二人を見比べた。

 

 それから、織姫の顔へ視線を戻す。

 

「……織姫?」

 

「ん?」

 

「……目、赤くない?」

 

「……えっ!?」

 

 織姫が慌てて目元へ手を当てた。

 

 その反応を見た拳藤は、ゆっくりと一護へ顔を向ける。

 

 目が、僅かに細くなった。

 

「…………黒崎?」

 

「……何だよ」

 

「織姫、泣かせた?」

 

「……はあ!?」

 

 一護が思わず声を上げた。

 

「何でそうなるんだよ!」

 

「だって、目真っ赤じゃん」

 

 拳藤はじっと一護を見つめる。

 

 織姫が慌てて二人の間へ割って入った。

 

「ち、違うの一佳ちゃん!」

 

「……織姫?」

 

「黒崎くんは何も悪くないよ! あたしが勝手に泣いちゃっただけなの!」

 

「……勝手に?」

 

「うん!」

 

 織姫は勢いよく頷いた。

 

「すっごく嬉しいことがあったんだよ!」

 

 拳藤は、少しだけ目を瞬かせた。

 

 確かに、織姫の目元は赤い。

 

 けれど、今の織姫は随分と嬉しそうだった。

 

 さっきまで競技中に見せていた、どこか落ち着かない様子もない。

 

 もう一度、一護を見る。

 

「…………ふーん?」

 

「……何だよ、その目」

 

「別に?」

 

 拳藤は小さく笑った。

 

「まあ、織姫が嬉しいならいいけどさ」

 

「うん!」

 

 織姫が元気よく頷いた。

 

 一護は深々と溜息をつく。

 

「……何だったんだよ、今の」

 

「友達が泣いてたら、心配するでしょ?」

 

「……そりゃそうだけどよ」

 

 拳藤は悪びれずに笑った。

 

 その横で、織姫も小さく笑っている。

 

 一護は二人を見比べた。

 

 それから、もう一度溜息をついた。

 

「……まあ、いいけど」

 

「よし。じゃあ、そろそろ戻ろっか」

 

 拳藤が言った。

 

「組み合わせの発表、始まるって」

 

「あっ、そうだった!」

 

 織姫が目を丸くする。

 

「もうそんな時間!?」

 

「もうそんな時間」

 

 拳藤が笑った。

 

「ほら、行こ!」

 

「うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

 それから、一護へ顔を向ける。

 

「……黒崎くん」

 

「ん?」

 

「……また、あとでお話ししてもいい?」

 

 一護は少しだけ目を瞬かせた。

 

 それから、笑った。

 

「……ああ。もちろん」

 

 織姫の顔が、ぱっと明るくなった。

 

「……うん!」

 

 一護は立ち上がる。

 

「じゃあ、俺も戻るわ」

 

「うん!」

 

 織姫は小さく手を振った。

 

「またね、黒崎くん!」

 

「おう。またな」

 

 一護も手を上げる。

 

 織姫は拳藤と並んで歩き出した。

 

 数歩進んだところで、一度だけ振り返る。

 

 一護はまだ、その場に立っていた。

 

 目が合う。

 

 織姫は、もう一度笑った。

 

 一護も小さく笑い返す。

 

 それを見届けてから、織姫は前へ向き直った。

 

     *

 

 そんな三人のやり取りを。

 

 少し離れた通路の角から、じっと見つめていた者がいた。

 

 峰田実である。

 

 そもそも峰田は、同じ騎馬で戦った一護を探していた。

 

 決勝の組み合わせ発表が始まるというのに、いつまで経っても姿が見えなかったからだ。

 

 そして、ようやく見つけたと思ったら。

 

 B組の女子生徒と二人きり。

 

 しかも、その女子生徒は目元が赤い。

 

 おまけに拳藤から、泣かせたのかと問い詰められている。

 

 なのに。

 

 その女子生徒は、やたらと嬉しそうに笑っていた。

 

(……待てよ)

 

 峰田は、壁の陰へ身を隠した。

 

 頭の中で、さっきの会話が繰り返される。

 

 泣かせた。

 

 嬉しいことがあった。

 

 またあとで話したい。

 

(…………)

 

 峰田の目が、じわじわと細くなっていく。

 

(……何があったんだよ)

 

 聞きたい。

 

 猛烈に聞きたい。

 

 だが、今ここで飛び出していけば、確実に面倒なことになる。

 

 それに、何となく負けた気がした。

 

 峰田は拳を握りしめた。

 

 そして、何も言わずにその場を離れた。

 

     *

 

 一護は、休憩スペースに一人残っていた。

 

 ベンチに置かれた空のペットボトルを手に取る。

 

 捨てながら、ふと笑いが漏れた。

 

「……まったく」

 

 何年もかけて、ようやく受け入れたことだった。

 

 井上が消えた。

 

 自分は護られた。

 

 だから、今度はもっと力をつけて、護りたいものを護る。

 

 そう決めて、ここまで来た。

 

 その決意が変わるわけではない。

 

 けれど。

 

 井上がここにいる。

 

 それだけで、今までとは少し違う。

 

 もう二度と話せないと思っていた相手と、また話せる。

 

 あのとき聞けなかったことも、言えなかったことも。

 

 急いで全部話す必要はない。

 

 これから、少しずつ話していけばいいのだから。

 

「……よし」

 

 一護は顔を上げた。

 

 競技場から、歓声が響いてくる。

 

 まだ体育祭は終わっていない。

 

 決勝トーナメントが残っている。

 

 今は、そちらへ集中しなければならなかった。

 

 一護は足を速めた。

 

     *

 

 決勝進出者たちが、再び競技場へ集まっていた。

 

 その中央に立つミッドナイトが、笑みを浮かべている。

 

「それじゃあ、お待ちかねの決勝トーナメント!」

 

 観客席が沸いた。

 

 巨大な電光掲示板に、二十四名の名前が映し出される。

 

「……おお」

 

 上鳴が声を上げた。

 

「こうして見ると、結構いるな」

 

「二十四人だからな!」

 

 飯田が力強く答える。

 

「しかし、ここからは個人戦! より一層気を引き締めなければならない!」

 

「分かってるって」

 

 切島が笑った。

 

 一護も掲示板を見上げた。

 

 自分の名前がある。

 

 その少し下には、織姫の名前もあった。

 

 井上織姫。

 

 一護は、その文字へ一度だけ視線を止めた。

 

 そして、口元を緩める。

 

 だが、そのとき。

 

「……すみません」

 

 生徒たちの後方から、声が上がった。

 

 一護が顔を向ける。

 

 尾白猿夫だった。

 

 その隣には、庄田二連撃の姿もある。

 

 二人とも、どこか硬い表情をしていた。

 

「……俺、辞退します」

 

 競技場がざわめいた。

 

「……え?」

 

 誰かの声が漏れる。

 

 ミッドナイトも眉を上げた。

 

「辞退?」

 

「はい」

 

 尾白は頷いた。

 

「騎馬戦の途中、俺は自分が何をしていたのか、ほとんど覚えていません」

 

 その言葉に、周囲の生徒たちが顔を見合わせる。

 

 庄田も口を開いた。

 

「……俺もです」

 

 低い声だった。

 

「気がついたら、競技が終わっていました。自分で戦って勝ち取った枠とは思えません」

 

 尾白は拳を握った。

 

「このまま決勝へ出ても、胸を張れないんです」

 

 一護は、黙って二人を見ていた。

 

 その横で、心操人使が僅かに目を伏せる。

 

 何があったのか。

 

 少なくとも、彼には心当たりがあるらしかった。

 

 ミッドナイトは二人を見つめた。

 

「……本当にいいのね?」

 

「はい」

 

 尾白は、はっきりと頷いた。

 

 庄田も続く。

 

「お願いします」

 

 少しの沈黙が落ちた。

 

 やがて、ミッドナイトは頷く。

 

「分かったわ。二人の意思を尊重します」

 

 観客席から、どよめきが上がった。

 

 決勝進出者は、二十四名。

 

 そのうち二名が辞退した。

 

 空いた枠を、どうするのか。

 

 その疑問へ答えるように、ミッドナイトが声を張り上げる。

 

「それじゃあ、繰り上げ選出を行います!」

 

 電光掲示板が切り替わった。

 

 そこに、二つの名前が現れる。

 

 鉄哲徹鐵。

 

 塩崎茨。

 

「……えっ!?」

 

 鉄哲が目を見開いた。

 

 その横で、塩崎も静かに顔を上げる。

 

「……私たちが?」

 

「そうよ! 予選での成績と競技内容を踏まえて、二人を選出しました!」

 

 鉄哲は一瞬だけ呆然としていた。

 

 だが、すぐに拳を握った。

 

「……よっしゃあ!」

 

 声を上げる。

 

「やってやるぜ!」

 

 塩崎は、静かに頭を下げた。

 

「……この機会に、感謝いたします」

 

 ミッドナイトは笑った。

 

「これで二十四名が揃ったわね!」

 

 観客席から、大きな拍手が上がった。

 

     *

 

「さて、今回の決勝は二十四人制!」

 

 ミッドナイトが説明を続ける。

 

「まず十六人が予備戦を行い、勝ち上がった八人が、予備戦免除の八人と合流するわ!」

 

 電光掲示板に、トーナメント表が映し出された。

 

 二十四名。

 

 そのうち、八名が予備戦免除。

 

 残り十六名が、最初の試合へ進む。

 

「予備戦免除の八名は抽選で決定済み! ほかの選手は、まず予備戦を勝ち抜いてもらうわ!」

 

 周囲の生徒たちが、ざわめき始めた。

 

「……なるほどな」

 

 一護は腕を組んだ。

 

 つまり、ここからは負けたら終わり。

 

 騎馬戦のように、途中でポイントを奪い返すこともできない。

 

 一対一で戦い、勝った者だけが次へ進む。

 

 単純だ。

 

 だからこそ、面白い。

 

「……よし」

 

 一護は小さく息を吐いた。

 

 掲示板へ視線を向ける。

 

 そこには、少しずつ対戦カードが表示され始めていた。

 

 緑谷出久。

 

 心操人使。

 

 その二人の名前が、同じ枠へ並ぶ。

 

「……へえ」

 

 一護は目を細めた。

 

 緑谷と心操。

 

 教室の前で宣戦布告をしていた普通科の少年。

 

 どうやら、最初から面白い試合になりそうだった。

 

 さらに、別の場所には轟の名前。

 

 その横には、予備戦免除の表示がある。

 

 緑谷と心操の勝者が、次に轟と戦う組み合わせだった。

 

「……なるほどな」

 

 一護は小さく頷いた。

 

 そのとき、隣から声がした。

 

「黒崎」

 

 振り返る。

 

 爆豪だった。

 

 不機嫌そうな顔で、掲示板を見上げている。

 

「……何だよ」

 

 一護が尋ねる。

 

 爆豪は、こちらを見ずに言った。

 

「てめぇ、決勝まで来たからって浮かれてんじゃねえぞ」

 

「……は?」

 

「さっきから、ヘラヘラしやがって」

 

 一護は少しだけ目を瞬かせた。

 

 それから、苦笑する。

 

「……別に浮かれてねえよ」

 

「嘘つけ」

 

「いや、マジで」

 

 爆豪が舌打ちした。

 

「……まあいい」

 

 そして、ようやく一護へ顔を向ける。

 

「当たったら、全力で来いよ」

 

 一護は小さく笑った。

 

「……ああ。分かってる」

 

「……チッ」

 

 爆豪はそれだけ言って、歩き去った。

 

 一護はその背中を見送った。

 

 それから、もう一度掲示板へ視線を戻す。

 

 対戦カードが、次々と埋まっていく。

 

 誰と当たるのか。

 

 どこまで勝ち進めるのか。

 

 それは、まだ分からない。

 

 けれど。

 

 負けるつもりはなかった。

 

     *

 

 少し離れた場所で、織姫も掲示板を見上げていた。

 

 隣には拳藤がいる。

 

「……おっ、織姫の名前あったよ!」

 

「えっ、どこどこ?」

 

「ほら、あそこ!」

 

 拳藤が指さす。

 

 織姫は目を凝らした。

 

 井上織姫。

 

 確かに、自分の名前がある。

 

 その横には、対戦相手の名前が表示されていた。

 

「……あ」

 

 織姫は小さく声を漏らす。

 

 拳藤が顔を向ける。

 

「どうした?」

 

「ううん!」

 

 織姫は笑った。

 

「ちょっと、緊張してきちゃった!」

 

 拳藤も笑った。

 

「そりゃそうだよね。でも、ここまで来たんだから、思いっきりやろう!」

 

「……うん!」

 

 織姫は頷いた。

 

 それから、もう一度掲示板へ視線を向ける。

 

 少し離れた場所に、黒崎一護の名前があった。

 

 その文字を見て、自然と口元が緩む。

 

 今までなら、同じ名前の別人だと思っていた。

 

 けれど、もう違う。

 

 あの黒崎くんが、ここにいる。

 

 同じ競技場で。

 

 同じ決勝トーナメントへ進んでいる。

 

 織姫は胸元へ手を添えた。

 

 少しだけ、鼓動が速くなる。

 

 でも、さっきまでとは違った。

 

 怖いからではない。

 

 ただ、嬉しかった。

 

「……よし!」

 

 織姫は小さく拳を握った。

 

 拳藤が顔を向ける。

 

「……織姫?」

 

「一佳ちゃん!」

 

「ん?」

 

「私、頑張るね!」

 

 拳藤は少しだけ目を瞬かせた。

 

 そして、笑った。

 

「もちろん! あたしも負けないよ!」

 

「うん!」

 

 織姫は力強く頷いた。

 

 その顔には、もう迷いはなかった。

 

     *

 

 トーナメント表の発表が終わり、競技場には次の試合へ向けた準備が始まっていた。

 

 一護は、少し離れた場所で掲示板を見上げていた。

 

 その視線が、ふと織姫の方へ向く。

 

 拳藤と何か話している。

 

 楽しそうに笑っていた。

 

 一護は、しばらくその姿を見ていた。

 

 そして、口元を緩める。

 

 あいつが笑っている。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

 けれど。

 

 今は、それが嬉しかった。

 

「……さて」

 

 一護は顔を上げた。

 

 目の前には、これから始まる決勝トーナメント。

 

 強い相手が、いくらでもいる。

 

 戦いたい相手も。

 

 負けたくない相手も。

 

 たくさんいた。

 

「……行くか」

 

 一護は小さく呟いた。

 

 そして、競技場の中央へ向かって歩き出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。