織姫は、なかなか顔を上げなかった。
両手で目元を覆ったまま、ときおり小さく鼻をすすっている。泣き声はもう聞こえないが、肩はまだ僅かに震えていた。
一護はその隣に腰を下ろし、何も言わずに待っていた。
競技場からは歓声が聞こえてくる。
つい先ほどまで自分もあの中にいたというのに、今は随分と遠く感じられた。
「……黒崎くん」
しばらくして、織姫が口を開いた。
「ん?」
「……ごめんね」
「何がだよ」
「こんなに泣いちゃって」
一護は眉を寄せた。
「別に謝ることじゃねえだろ」
「……うん」
織姫は小さく頷いた。
けれど、顔はまだ伏せたままだった。
「あたしね、嬉しくて泣いたことって、何回もあるんだけど……」
「……ああ」
「こんなに足の力までなくなっちゃったの、初めてかも」
そう言って、少しだけ笑った。
一護は織姫の足元へ目を向けた。
怪我をした様子はない。
ただ、安心した途端に身体の力が抜けてしまったのだろう。
「……立てそうか?」
「うーん……」
織姫は試しに膝へ力を入れた。
身体が僅かに持ち上がる。
だが、すぐに元の位置へ戻ってしまった。
「……もうちょっと」
「分かった」
一護は頷いた。
それから、通路の先へ目を向ける。
幸い、今のところ誰かが通る気配はない。
「……水でも持ってくるか」
そう言って腰を浮かせたときだった。
くい、と袖が引かれた。
「……ん?」
振り返る。
織姫が、黒い死覇装の袖を掴んでいた。
本人も無意識だったらしい。
一護と目が合った途端、慌てて手を離そうとする。
「あっ、ご、ごめん! あたし、つい……!」
「……いや」
一護はもう一度腰を下ろした。
「ここにいるよ。水はあとでいい」
織姫は目を瞬かせた。
「……うん」
小さく頷く。
掴んでいた指が、ゆっくりと離れた。
それから、織姫は少しだけ顔を上げる。
赤くなった目元。
濡れた頬。
それでも、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……黒崎くん」
「ん?」
「……ほんとに、黒崎くんなんだね」
一護は一瞬、言葉を止めた。
それから、少しだけ笑う。
「……ああ」
「……そっかぁ」
織姫は目を細めた。
まるで、その答えをゆっくり味わうように。
一護は、そんな彼女を見ていた。
自分だって、まだ実感が湧いていない。
あの日、目の前で消えてしまった少女が、ここにいる。
死覇装の袖を掴んで。
泣いて。
笑っている。
もう二度と会えないと思っていた相手が。
「……井上」
「うん?」
「無理して立たなくていいからな」
織姫は少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
*
織姫が立ち上がれたのは、それから少し経ってからだった。
一護が差し出した手を借り、ゆっくりと身体を起こす。
「……よいしょ」
「大丈夫か?」
「うん!」
織姫は頷いた。
「もう平気だよ!」
「そっか」
一護は手を離し、通路の先を指さした。
「向こうに休めるとこあったろ。そこで水でも飲もうぜ」
「……うん!」
二人は並んで歩き出した。
競技場の裏手に設けられた休憩スペースには、いくつかのベンチと自動販売機が並んでいた。
今はほとんど人がいない。
一護は自動販売機で水を二本買い、そのうちの一本を織姫へ渡した。
「ほら」
「ありがとう、黒崎くん!」
二人はベンチへ腰を下ろした。
織姫はペットボトルの蓋を開け、一口飲む。
「……はあ」
ようやく、ひと息つけた。
その隣で、一護も水を飲んでいる。
何か話さなければ。
そう思ったわけではなかった。
ただ、隣にいることが不思議だった。
あまりにも自然で。
けれど、少し前までは考えられなかったことだった。
「……なあ、井上」
「うん?」
一護が口を開いた。
「こっちに来たときのこと、覚えてるか?」
「……こっちに?」
「ああ。いつから記憶があったのか、気になってさ」
織姫は少しだけ考えた。
「……最初から、かな」
「最初から?」
「うん。気がついたら、赤ちゃんになってたの」
一護の手が止まった。
「……井上もか?」
織姫が目を丸くする。
「……えっ?」
「俺もだ」
「……ええっ!?」
思ったより大きな声が出た。
織姫は慌てて口元を押さえる。
「黒崎くんも赤ちゃんから!?」
「ああ。目が覚めたら、もうこっちにいた」
「……すごい! 一緒だね!」
「すごいことなのか、それ」
一護が苦笑する。
織姫は勢いよく頷いた。
「だって、黒崎くんもあの大変さを知ってるってことでしょ?」
「……大変さ?」
「うん! 何か言おうとしても、あーとかうーとかしか出ないんだよ!」
一護の眉がぴくりと動いた。
「……ああ」
「頭の中ではちゃんと喋ってるのに、全然伝わらないんだもん!」
「……分かる」
一護は深く頷いた。
「何つうか……思いどおりに動かねえんだよな」
「そうそう!」
織姫が身を乗り出す。
「あとね、眠くないのに寝かされちゃったり!」
「……あったな」
「勝手に抱っこされて、知らないところに連れていかれちゃったり!」
「……ああ」
一護は、何とも言えない顔になった。
織姫はそんな彼を見て、思わず笑った。
「……黒崎くんも大変だったんだね」
「……まあな」
一護は苦笑する。
それから、少しだけ笑った。
織姫も笑う。
赤ん坊だった頃の苦労。
今まで誰にも話せなかった、妙な苦労話だった。
それを当たり前のように理解してくれる相手がいる。
たったそれだけのことが、何だかおかしかった。
「……でも、井上も最初から覚えてたんだな」
「うん」
織姫は頷いた。
「ずっと覚えてたよ」
「……そっか」
一護はペットボトルへ視線を落とした。
しばらくして、もう一度口を開く。
「俺の場合、寝て起きたらこっちだったんだよ」
「……寝て?」
「ああ。あの戦いのあと、しばらくは普通に暮らしてた。それで、ある日いつもどおり寝たんだ」
織姫は黙って聞いている。
「次に目が覚めたときには、赤ん坊だった。何でそうなったのかは、今でも分かんねえ」
「……そっか」
織姫は小さく頷いた。
「……あたしは、あの日が最後だったから」
一護が顔を向ける。
織姫は、自分の手元を見つめていた。
「次に気がついたときには、もうこっちにいたの」
「……ああ」
「だから、黒崎くんも同じなのかなって……」
そこまで言いかけて、織姫は口を閉じた。
一護は、ようやく腑に落ちた。
さっき、あんなに必死になって生きていたのかと尋ねた理由。
井上にとって、あの世界での最後は、自分が力を使った瞬間だったのだ。
そのあと何が起きたのかを、知ることはできなかった。
「……そりゃ、怖かったよな」
一護が呟く。
織姫は少しだけ笑った。
「……うん」
一護は目を伏せた。
自分が生き残ったことは、当然知っている。
世界が元に戻ったことも、浦原から聞いていた。
けれど、そのどちらも井上には届いていなかった。
「……悪かったな」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
織姫が目を瞬かせる。
「……え?」
「いや……何も知らねえままだったんだろ」
一護は後頭部を掻いた。
「謝ることでもねえのかもしれねえけど」
織姫は、しばらく彼を見つめていた。
それから、ゆっくりと首を振る。
「……黒崎くん」
「ん?」
「もう、聞けたから大丈夫だよ」
一護は顔を上げた。
織姫はまっすぐに彼を見ていた。
「ちゃんと護れたって分かったし、黒崎くんが生きてたことも聞けたもん」
その声は、穏やかだった。
さっきまで泣いていたのが嘘のように、落ち着いている。
けれど、無理をしているわけではなかった。
「……そっか」
一護は小さく笑った。
「なら、よかった」
織姫も笑った。
*
「……それにしても」
一護が呟いた。
「お互い、よく今まで気づかなかったよな」
織姫が顔を上げる。
「……うん」
「名前も顔も同じなのに」
一護は苦笑した。
「俺なんか、最初から別人だって決めつけてたからな」
「……あたしもだよ」
織姫が答えた。
「黒崎くんを初めて見たとき、ほんとはすっごくびっくりしたんだ」
「……俺もだ」
「でも、たつきちゃんのことがあったから……」
「ああ」
一護は頷いた。
「たつきも、前の世界のことは覚えてなかったろ」
「……うん」
「俺も同じだよ。だから井上もそうなんだと思ってた」
織姫は少しだけ笑った。
「……二人とも、同じこと考えてたんだね」
「……だな」
一護も笑った。
そこで、織姫がふと顔を上げる。
「でもね、あたし」
「ん?」
「今の黒崎くんとも、仲良くなれたらいいなって思ってたんだ」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
「……そうなのか」
「うん!」
織姫は元気よく頷いた。
「同じ学校だし、いつかちゃんとお話しできたらいいなって!」
一護は、少しだけ視線を逸らした。
「……俺は、ちょっと距離置いてたかもな」
「……え?」
織姫が目を丸くする。
一護は後頭部を掻いた。
「いや、井上がどうこうって話じゃねえぞ」
「……うん」
「顔も名前も同じだろ。だから……」
そこで、一度言葉を切った。
織姫は何も言わず、続きを待っていた。
「……思い出すんだよ」
一護は小さく呟いた。
「前の世界のこと」
織姫の表情が、僅かに変わる。
「……そっか」
「ああ」
一護は頷いた。
「別人だと思ってたから、どう接していいか分かんなかったんだ」
織姫は少しだけ考えた。
それから。
「……でも」
「ん?」
「今は、こうしてお話しできてるね」
一護は顔を上げた。
織姫は笑っていた。
いつもの、柔らかな笑顔だった。
一護も、つられて口元を緩める。
「……だな」
「えへへ」
「……もっと早く話してりゃよかった」
「うん!」
織姫が笑う。
一護も小さく笑った。
少しばかり遠回りをした。
それでも、今こうして話せている。
それなら、もういい。
そんなふうに思えた。
*
「……そういや、B組はどうなんだ?」
一護が尋ねた。
「……B組?」
「ああ。学校生活、上手くやれてるか?」
「うん!」
織姫は元気よく頷いた。
「毎日楽しいよ! 一佳ちゃんも優しいし、みんな面白い子ばっかりなの!」
「……そうか」
「今日もね、騎馬戦で一佳ちゃんたちと組めて、すっごく楽しかったんだ!」
一護は頷いた。
「見たよ。六位だったんだろ?」
「うん!」
織姫は嬉しそうに笑った。
「決勝に残れたんだよ!」
「すげえじゃねえか」
「えへへ!」
織姫は少し照れくさそうに笑う。
それから、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ!」
「ん?」
「黒崎くん、障害物競走二位だったんだよね!」
「ああ」
「すごかったよ! あんな大きなロボットが倒れてきたのに、みんなを助けちゃうんだもん!」
一護は少しだけ肩をすくめた。
「……まあ、間に合ってよかったよ」
「うん!」
織姫は力強く頷いた。
「すっごく、黒崎くんらしかった!」
一護は目を瞬かせた。
「……俺らしい?」
「うん!」
何の迷いもない返事だった。
一護は思わず苦笑した。
「……そっか」
それから、小さく笑う。
「まあ、緑谷には負けたけどな」
「あれもすごかったね!」
「ああ。よくあんな手思いつくよな」
織姫は笑った。
「うん! みんなすごいよね」
「……ああ」
一護も頷いた。
この世界にも、強い奴はたくさんいる。
誰かを護ろうとする奴も。
自分の夢に向かって、必死に努力している奴も。
そういう連中と、同じ学校で学べる。
それは、悪くないことだと思った。
「……そういや、井上」
「うん?」
「さっきの騎馬戦、どうだった?」
織姫は少しだけ考えた。
「……すっごく難しかった!」
一護が笑った。
「だよな」
「うん! でも、一佳ちゃんがいっぱい鉢巻きを取ってくれてね!」
「……ああ」
「小森ちゃんと柳ちゃんも、すっごく頑張ってくれたんだよ!」
織姫は嬉しそうに続けた。
「だから、あたしもちゃんと守らなきゃって!」
一護は頷いた。
「……そうか」
「うん!」
織姫は笑った。
それから、一護へ顔を向ける。
「黒崎くんたちも、すごかったよね!」
「……まあな」
一護は苦笑した。
「峰田の球が、思った以上に役に立った」
「峰田くん?」
「ああ。あいつ、結構やるんだよ」
織姫が目を丸くする。
「へえ!」
「まあ、普段はしょうもねえことばっか言ってるけどな」
「えへへ」
織姫が笑った。
「何だか、楽しそうだね」
「……そうか?」
「うん!」
織姫は頷いた。
「黒崎くん、クラスのこと話してるとき、楽しそうだもん」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
それから、苦笑する。
「……まあ、退屈はしねえな」
「そっか!」
織姫も嬉しそうに笑った。
*
「……そうだ、井上」
一護が口を開いた。
「ん?」
「個性の登録、どうしてんだ?」
「……個性?」
「ああ。六花の力」
織姫は少しだけ目を瞬かせた。
それから、頷く。
「ああ! ちゃんと登録してるよ!」
「やっぱりか」
「うん。名前は『六花』にしてるの」
一護は小さく笑った。
「……分かりやすいな」
「黒崎くんは?」
「俺は『斬月』だ」
織姫は、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
一護は頷く。
「最近、正式に決めたんだよ」
「……最近?」
「ああ。ずっと名前、空欄だったんだけどな」
一護は苦笑した。
「力の使い方が色々あって、どう説明すりゃいいか分かんなかった」
「……ああ、そっか」
織姫は納得したように頷いた。
斬月。
死神の力。
虚の力。
滅却師の力。
そして、完現術。
一護が持つ力は、一つの言葉だけで簡単に説明できるものではない。
それを知っている織姫には、一護の言葉がよく分かった。
「……でも」
織姫は小さく笑った。
「斬月って名前、やっぱり黒崎くんらしいね」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
「……そうか?」
「うん!」
織姫は頷いた。
「黒崎くんには、斬月が一番似合うもん」
一護は視線を落とした。
そこには、今は何もない。
けれど、呼べば斬月は現れる。
自分の内側には、今も二人の斬月がいる。
「……まあな」
一護は小さく笑った。
「こいつが一番、しっくりくる」
織姫も笑った。
「……そういえば」
「ん?」
「さっき、刀が出てきたとき……あたし、霊圧を感じたんだ」
一護は顔を上げた。
「……ああ」
「でも、今までは全然分からなかったから」
織姫は少し不思議そうに言った。
一護は頷いた。
「普段は抑えてるんだよ。周りに影響が出ることもあるからな」
「……そっか」
「だから、近くにいても分かんなかったんだろうな」
「うん……」
織姫は小さく笑った。
「でも、あのときだけは分かったんだ」
一護は、少しだけ目を細めた。
織姫が何を思ってあの姿を見ていたのか。
今なら、少しだけ分かる気がした。
「……そうか」
短く答える。
織姫は頷いた。
そして、もう一度だけ笑った。
*
通路の向こうから、足音が近づいてきた。
「……織姫?」
聞き慣れた声だった。
織姫が顔を上げる。
「あっ、一佳ちゃん!」
拳藤一佳が、休憩スペースの入口に立っていた。
「もう、探したよ! そろそろ戻らないと――」
そこで、拳藤は一護の姿に気づいた。
「……あれ、黒崎?」
「おう」
一護が軽く手を上げる。
拳藤は二人を見比べた。
それから、織姫の顔へ視線を戻す。
「……織姫?」
「ん?」
「……目、赤くない?」
「……えっ!?」
織姫が慌てて目元へ手を当てた。
その反応を見た拳藤は、ゆっくりと一護へ顔を向ける。
目が、僅かに細くなった。
「…………黒崎?」
「……何だよ」
「織姫、泣かせた?」
「……はあ!?」
一護が思わず声を上げた。
「何でそうなるんだよ!」
「だって、目真っ赤じゃん」
拳藤はじっと一護を見つめる。
織姫が慌てて二人の間へ割って入った。
「ち、違うの一佳ちゃん!」
「……織姫?」
「黒崎くんは何も悪くないよ! あたしが勝手に泣いちゃっただけなの!」
「……勝手に?」
「うん!」
織姫は勢いよく頷いた。
「すっごく嬉しいことがあったんだよ!」
拳藤は、少しだけ目を瞬かせた。
確かに、織姫の目元は赤い。
けれど、今の織姫は随分と嬉しそうだった。
さっきまで競技中に見せていた、どこか落ち着かない様子もない。
もう一度、一護を見る。
「…………ふーん?」
「……何だよ、その目」
「別に?」
拳藤は小さく笑った。
「まあ、織姫が嬉しいならいいけどさ」
「うん!」
織姫が元気よく頷いた。
一護は深々と溜息をつく。
「……何だったんだよ、今の」
「友達が泣いてたら、心配するでしょ?」
「……そりゃそうだけどよ」
拳藤は悪びれずに笑った。
その横で、織姫も小さく笑っている。
一護は二人を見比べた。
それから、もう一度溜息をついた。
「……まあ、いいけど」
「よし。じゃあ、そろそろ戻ろっか」
拳藤が言った。
「組み合わせの発表、始まるって」
「あっ、そうだった!」
織姫が目を丸くする。
「もうそんな時間!?」
「もうそんな時間」
拳藤が笑った。
「ほら、行こ!」
「うん!」
織姫は頷いた。
それから、一護へ顔を向ける。
「……黒崎くん」
「ん?」
「……また、あとでお話ししてもいい?」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
それから、笑った。
「……ああ。もちろん」
織姫の顔が、ぱっと明るくなった。
「……うん!」
一護は立ち上がる。
「じゃあ、俺も戻るわ」
「うん!」
織姫は小さく手を振った。
「またね、黒崎くん!」
「おう。またな」
一護も手を上げる。
織姫は拳藤と並んで歩き出した。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
一護はまだ、その場に立っていた。
目が合う。
織姫は、もう一度笑った。
一護も小さく笑い返す。
それを見届けてから、織姫は前へ向き直った。
*
そんな三人のやり取りを。
少し離れた通路の角から、じっと見つめていた者がいた。
峰田実である。
そもそも峰田は、同じ騎馬で戦った一護を探していた。
決勝の組み合わせ発表が始まるというのに、いつまで経っても姿が見えなかったからだ。
そして、ようやく見つけたと思ったら。
B組の女子生徒と二人きり。
しかも、その女子生徒は目元が赤い。
おまけに拳藤から、泣かせたのかと問い詰められている。
なのに。
その女子生徒は、やたらと嬉しそうに笑っていた。
(……待てよ)
峰田は、壁の陰へ身を隠した。
頭の中で、さっきの会話が繰り返される。
泣かせた。
嬉しいことがあった。
またあとで話したい。
(…………)
峰田の目が、じわじわと細くなっていく。
(……何があったんだよ)
聞きたい。
猛烈に聞きたい。
だが、今ここで飛び出していけば、確実に面倒なことになる。
それに、何となく負けた気がした。
峰田は拳を握りしめた。
そして、何も言わずにその場を離れた。
*
一護は、休憩スペースに一人残っていた。
ベンチに置かれた空のペットボトルを手に取る。
捨てながら、ふと笑いが漏れた。
「……まったく」
何年もかけて、ようやく受け入れたことだった。
井上が消えた。
自分は護られた。
だから、今度はもっと力をつけて、護りたいものを護る。
そう決めて、ここまで来た。
その決意が変わるわけではない。
けれど。
井上がここにいる。
それだけで、今までとは少し違う。
もう二度と話せないと思っていた相手と、また話せる。
あのとき聞けなかったことも、言えなかったことも。
急いで全部話す必要はない。
これから、少しずつ話していけばいいのだから。
「……よし」
一護は顔を上げた。
競技場から、歓声が響いてくる。
まだ体育祭は終わっていない。
決勝トーナメントが残っている。
今は、そちらへ集中しなければならなかった。
一護は足を速めた。
*
決勝進出者たちが、再び競技場へ集まっていた。
その中央に立つミッドナイトが、笑みを浮かべている。
「それじゃあ、お待ちかねの決勝トーナメント!」
観客席が沸いた。
巨大な電光掲示板に、二十四名の名前が映し出される。
「……おお」
上鳴が声を上げた。
「こうして見ると、結構いるな」
「二十四人だからな!」
飯田が力強く答える。
「しかし、ここからは個人戦! より一層気を引き締めなければならない!」
「分かってるって」
切島が笑った。
一護も掲示板を見上げた。
自分の名前がある。
その少し下には、織姫の名前もあった。
井上織姫。
一護は、その文字へ一度だけ視線を止めた。
そして、口元を緩める。
だが、そのとき。
「……すみません」
生徒たちの後方から、声が上がった。
一護が顔を向ける。
尾白猿夫だった。
その隣には、庄田二連撃の姿もある。
二人とも、どこか硬い表情をしていた。
「……俺、辞退します」
競技場がざわめいた。
「……え?」
誰かの声が漏れる。
ミッドナイトも眉を上げた。
「辞退?」
「はい」
尾白は頷いた。
「騎馬戦の途中、俺は自分が何をしていたのか、ほとんど覚えていません」
その言葉に、周囲の生徒たちが顔を見合わせる。
庄田も口を開いた。
「……俺もです」
低い声だった。
「気がついたら、競技が終わっていました。自分で戦って勝ち取った枠とは思えません」
尾白は拳を握った。
「このまま決勝へ出ても、胸を張れないんです」
一護は、黙って二人を見ていた。
その横で、心操人使が僅かに目を伏せる。
何があったのか。
少なくとも、彼には心当たりがあるらしかった。
ミッドナイトは二人を見つめた。
「……本当にいいのね?」
「はい」
尾白は、はっきりと頷いた。
庄田も続く。
「お願いします」
少しの沈黙が落ちた。
やがて、ミッドナイトは頷く。
「分かったわ。二人の意思を尊重します」
観客席から、どよめきが上がった。
決勝進出者は、二十四名。
そのうち二名が辞退した。
空いた枠を、どうするのか。
その疑問へ答えるように、ミッドナイトが声を張り上げる。
「それじゃあ、繰り上げ選出を行います!」
電光掲示板が切り替わった。
そこに、二つの名前が現れる。
鉄哲徹鐵。
塩崎茨。
「……えっ!?」
鉄哲が目を見開いた。
その横で、塩崎も静かに顔を上げる。
「……私たちが?」
「そうよ! 予選での成績と競技内容を踏まえて、二人を選出しました!」
鉄哲は一瞬だけ呆然としていた。
だが、すぐに拳を握った。
「……よっしゃあ!」
声を上げる。
「やってやるぜ!」
塩崎は、静かに頭を下げた。
「……この機会に、感謝いたします」
ミッドナイトは笑った。
「これで二十四名が揃ったわね!」
観客席から、大きな拍手が上がった。
*
「さて、今回の決勝は二十四人制!」
ミッドナイトが説明を続ける。
「まず十六人が予備戦を行い、勝ち上がった八人が、予備戦免除の八人と合流するわ!」
電光掲示板に、トーナメント表が映し出された。
二十四名。
そのうち、八名が予備戦免除。
残り十六名が、最初の試合へ進む。
「予備戦免除の八名は抽選で決定済み! ほかの選手は、まず予備戦を勝ち抜いてもらうわ!」
周囲の生徒たちが、ざわめき始めた。
「……なるほどな」
一護は腕を組んだ。
つまり、ここからは負けたら終わり。
騎馬戦のように、途中でポイントを奪い返すこともできない。
一対一で戦い、勝った者だけが次へ進む。
単純だ。
だからこそ、面白い。
「……よし」
一護は小さく息を吐いた。
掲示板へ視線を向ける。
そこには、少しずつ対戦カードが表示され始めていた。
緑谷出久。
心操人使。
その二人の名前が、同じ枠へ並ぶ。
「……へえ」
一護は目を細めた。
緑谷と心操。
教室の前で宣戦布告をしていた普通科の少年。
どうやら、最初から面白い試合になりそうだった。
さらに、別の場所には轟の名前。
その横には、予備戦免除の表示がある。
緑谷と心操の勝者が、次に轟と戦う組み合わせだった。
「……なるほどな」
一護は小さく頷いた。
そのとき、隣から声がした。
「黒崎」
振り返る。
爆豪だった。
不機嫌そうな顔で、掲示板を見上げている。
「……何だよ」
一護が尋ねる。
爆豪は、こちらを見ずに言った。
「てめぇ、決勝まで来たからって浮かれてんじゃねえぞ」
「……は?」
「さっきから、ヘラヘラしやがって」
一護は少しだけ目を瞬かせた。
それから、苦笑する。
「……別に浮かれてねえよ」
「嘘つけ」
「いや、マジで」
爆豪が舌打ちした。
「……まあいい」
そして、ようやく一護へ顔を向ける。
「当たったら、全力で来いよ」
一護は小さく笑った。
「……ああ。分かってる」
「……チッ」
爆豪はそれだけ言って、歩き去った。
一護はその背中を見送った。
それから、もう一度掲示板へ視線を戻す。
対戦カードが、次々と埋まっていく。
誰と当たるのか。
どこまで勝ち進めるのか。
それは、まだ分からない。
けれど。
負けるつもりはなかった。
*
少し離れた場所で、織姫も掲示板を見上げていた。
隣には拳藤がいる。
「……おっ、織姫の名前あったよ!」
「えっ、どこどこ?」
「ほら、あそこ!」
拳藤が指さす。
織姫は目を凝らした。
井上織姫。
確かに、自分の名前がある。
その横には、対戦相手の名前が表示されていた。
「……あ」
織姫は小さく声を漏らす。
拳藤が顔を向ける。
「どうした?」
「ううん!」
織姫は笑った。
「ちょっと、緊張してきちゃった!」
拳藤も笑った。
「そりゃそうだよね。でも、ここまで来たんだから、思いっきりやろう!」
「……うん!」
織姫は頷いた。
それから、もう一度掲示板へ視線を向ける。
少し離れた場所に、黒崎一護の名前があった。
その文字を見て、自然と口元が緩む。
今までなら、同じ名前の別人だと思っていた。
けれど、もう違う。
あの黒崎くんが、ここにいる。
同じ競技場で。
同じ決勝トーナメントへ進んでいる。
織姫は胸元へ手を添えた。
少しだけ、鼓動が速くなる。
でも、さっきまでとは違った。
怖いからではない。
ただ、嬉しかった。
「……よし!」
織姫は小さく拳を握った。
拳藤が顔を向ける。
「……織姫?」
「一佳ちゃん!」
「ん?」
「私、頑張るね!」
拳藤は少しだけ目を瞬かせた。
そして、笑った。
「もちろん! あたしも負けないよ!」
「うん!」
織姫は力強く頷いた。
その顔には、もう迷いはなかった。
*
トーナメント表の発表が終わり、競技場には次の試合へ向けた準備が始まっていた。
一護は、少し離れた場所で掲示板を見上げていた。
その視線が、ふと織姫の方へ向く。
拳藤と何か話している。
楽しそうに笑っていた。
一護は、しばらくその姿を見ていた。
そして、口元を緩める。
あいつが笑っている。
ただ、それだけのことだった。
けれど。
今は、それが嬉しかった。
「……さて」
一護は顔を上げた。
目の前には、これから始まる決勝トーナメント。
強い相手が、いくらでもいる。
戦いたい相手も。
負けたくない相手も。
たくさんいた。
「……行くか」
一護は小さく呟いた。
そして、競技場の中央へ向かって歩き出した。