『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第22話 それぞれの戦い

 

雄英体育祭、午後の部。

 

競技場を包む熱気は、午前中のそれをさらに上回っていた。

 

障害物競走、騎馬戦を経て、いよいよ始まる最終種目。

 

決勝トーナメント。

 

今年は二十四名が出場する変則形式となっている。十六名による予備戦を勝ち抜いた八名が、シードとなった八名と合流し、優勝を争うのだ。

 

対戦表が発表されてからというもの、各クラスの控室では、選手たちが思い思いの時間を過ごしていた。

 

緑谷出久は手帳に向かって何やら書き込み、飯田天哉は競技日程を念入りに確認している。

 

切島鋭児郎は身体をほぐし、上鳴電気と瀬呂範太は対戦表を眺めながら話し込んでいた。

 

一方、爆豪勝己は椅子にふんぞり返り、腕を組んだまま目を閉じている。

 

轟焦凍もまた、壁際で静かに試合開始を待っていた。

 

そんな控室の扉が開いた。

 

「お、黒崎。戻ってきたな」

 

最初に気づいたのは瀬呂だった。

 

「おう」

 

黒崎一護は短く返事をすると、空いている椅子へ向かった。

 

だが、その前に小柄な影が飛び出した。

 

「ちょっと待てや、黒崎ィィ!!」

 

「……あ?」

 

峰田実だった。

 

ただし、様子がおかしい。

 

両拳を握り締め、肩を震わせ、目を血走らせている。

 

まるで親の仇でも見つけたかのような形相だった。

 

「オ、オイラは……見たんだぞ……!」

 

「何をだよ」

 

「見ちまったんだよォ!!」

 

「だから何をだっつってんだろ」

 

峰田がびしりと指を突きつけた。

 

「お前! さっきB組の井上ちゃんと二人っきりだったろ!!」

 

一護の足が止まった。

 

「……見てたのか?」

 

「やっぱりなァァァ!!」

 

峰田が頭を抱えて絶叫した。

 

「何でだよ! 何でよりによってお前なんだよ! あの井上ちゃんだぞ!? あの井上ちゃんと二人っきりなんて、何のご褒美だよォ!!」

 

「はあ?」

 

「だってよォ! あの顔! あのスタイル! それに何より、あの……!」

 

峰田は両手を胸の前まで持ち上げた。

 

そして、何やら大きな球体を抱えるような仕草をする。

 

「おっぱいがすげぇんだぞォォ!!」

 

一瞬。

 

控室の空気が止まった。

 

「……うわ、最低」

 

耳郎響香が顔をしかめた。

 

「峰田ちゃん、気持ち悪いわ」

 

蛙吹梅雨も容赦がない。

 

「お前、よくそんなこと大声で言えるな……」

 

瀬呂が呆れたように呟く。

 

だが、峰田は止まらなかった。

 

「しかもだぞ!? 井上ちゃん、めちゃくちゃ優しそうだし! あんな子に笑顔で話しかけられたら、オイラもう……!」

 

「おい」

 

「くそォ! あんな美人と二人っきりなんて、許せねえ! しかもあの胸! あの――」

 

「……おい、峰田」

 

低い声だった。

 

峰田の動きが止まる。

 

「……へ?」

 

恐る恐る振り返った、その先。

 

黒崎一護が立っていた。

 

元々鋭い目つきが、今はさらに吊り上がっている。

 

眉間には深い皺。

 

口元は不機嫌そうに歪み、こめかみにはうっすらと青筋まで浮かんでいた。

 

生まれつき目つきが悪く、オレンジ色の地毛も相まって不良と間違われることの多い一護だが、今の顔は輪をかけて凶悪だった。

 

「てめえ……」

 

「ひっ」

 

「さっきから何言ってやがる」

 

「い、いや、その、オイラはただ……!」

 

「女子の身体のこと大声で騒ぎ立ててんじゃねえよ」

 

「で、でも! 黒崎だって分かるだろ!? 男として――!」

 

「あ゛?」

 

「すみませんでしたァァ!!」

 

即座に頭を下げた。

 

それはもう、見事なまでの反射だった。

 

「……黒崎、顔こっわ」

 

上鳴が引きつった笑みを浮かべる。

 

「いや、今のは峰田が悪いだろ」

 

切島が苦笑した。

 

「そりゃそうだけどさ! 黒崎って普通にしてても目つき悪いじゃん? あんな顔で睨まれたら、俺だって謝るわ!」

 

「誰が目つき悪いって!?」

 

「ほら、それだよそれ!」

 

瀬呂が吹き出した。

 

「お前、今の顔でその台詞は反則だって!」

 

「うるせえ!」

 

そんな騒ぎのなか、芦戸三奈だけは別のところに食いついていた。

 

「……ちょっと待って」

 

ゆっくりと立ち上がる。

 

「黒崎と、B組の井上さんが?」

 

「あ?」

 

「二人っきり?」

 

「……何だよ」

 

芦戸の目が輝いた。

 

「えっ、何それ!? いつの間にそんな仲よくなったの!?」

 

「いや、別にそういうんじゃ――」

 

「何もないわけねえだろォ!!」

 

さっきまで頭を下げていた峰田が、再び跳ね起きた。

 

「しかもオイラ、聞いちまったんだぞ! B組の拳藤が黒崎に『織姫、泣かせた?』って言ってたんだ!!」

 

「えっ!?」

 

芦戸が目を見開いた。

 

「泣かせた!? 黒崎が!?」

 

「ちょっと待て。話を飛躍させんな」

 

一護が眉をひそめる。

 

「飛躍してねえ! 井上ちゃん、目ぇ赤くしてたじゃねえか! あんな可愛い子を泣かせるなんて、どんなことしやがったんだよお前ェ!!」

 

「だから俺が泣かせたわけじゃねえって!」

 

「じゃあ、何で泣いてたんだよ!」

 

「……それは」

 

一護は言葉に詰まった。

 

どう説明すればいいのか。

 

まさか、死んだと思っていた相手と別の世界で再会したからだ、などと言えるはずもない。

 

しかも、織姫が涙を流した理由を、自分が勝手に他人へ話すのも違う。

 

「……いろいろあんだよ」

 

結局、そう答えるしかなかった。

 

その反応を見て、芦戸の口元がにんまりと緩む。

 

「へえー?」

 

「……何だよ」

 

「いろいろ、ねえ?」

 

「お前、何か勘違いしてねえか?」

 

「えー? あたしは何も言ってないけど?」

 

明らかに何か考えている顔だった。

 

「でもさ、黒崎」

 

上鳴が口を挟む。

 

「井上さんとそんなに仲よかったっけ? 合同授業でも、そこまで話してなかったよな?」

 

「……まあな」

 

「じゃあ、今日何かあったのか?」

 

「だから、いろいろだっつってんだろ」

 

「その『いろいろ』が気になるんじゃん!」

 

芦戸が身を乗り出す。

 

「ねえねえ、黒崎。井上さんって、すっごく可愛いよね?」

 

「……あ?」

 

「可愛いよね?」

 

「……まあ、そうだな」

 

「おっ」

 

上鳴が顔を上げる。

 

「おおっ!?」

 

芦戸がさらに前のめりになった。

 

「そこ即答するんだ!?」

 

「……何だよ。変なこと言ったか?」

 

「いやいやいや! 別にー?」

 

芦戸は口元を押さえた。

 

何かを必死に堪えているらしい。

 

「黒崎ってさあ、そういう話にあんまり乗ってこないじゃん?」

 

「だから何だよ」

 

「なのに井上さんのことは、普通に可愛いって言うんだ?」

 

「お前が聞いたんだろうが!」

 

「そっかそっかー」

 

「聞けよ、人の話!」

 

瀬呂と上鳴が顔を見合わせ、笑い出した。

 

一方、峰田は再び膝をついていた。

 

「ちくしょう……! 何でだよ……!」

 

ぶつぶつと呟いている。

 

「何で黒崎なんだよ……顔は怖ぇし、喧嘩は強ぇし……そのうえ井上ちゃんと……!」

 

「お前、まだ言ってんのか」

 

切島が呆れたように言った。

 

「許せねえ……! こんなの不公平だろ……!」

 

「峰田ちゃん」

 

蛙吹が口を開いた。

 

「そもそも、黒崎ちゃんが井上ちゃんを泣かせたところを見たの?」

 

「……へ?」

 

「拳藤ちゃんがそう聞いてたってだけよね?」

 

「そ、そうだけどよ!」

 

「じゃあ、どうして泣いてたのかは分からないんでしょ?」

 

「ぐっ……!」

 

峰田が言葉に詰まる。

 

「事情も知らないのに、決めつけるのはよくないわ」

 

「そ、それはそうだけど……!」

 

「なんだよ峰田。結局、よく分かってねえんじゃねえか」

 

瀬呂が笑った。

 

「お前、話盛ってただろ」

 

「盛ってねえ! オイラは見たことを話しただけだ!」

 

「いや、最初から妄想がだいぶ混ざってたけどな」

 

上鳴が肩をすくめる。

 

そんなやり取りを聞きながら、麗日お茶子が一護に声をかけた。

 

「でも、井上さんは大丈夫なん?」

 

「ああ。心配するようなことじゃねえよ」

 

「そっか。それならよかった」

 

麗日は安心したように笑った。

 

その隣で、切島も頷く。

 

「まあ、そういうことなら無理に聞くのも野暮だよな」

 

「おう。悪いな」

 

「いいって!」

 

まとまりかけた話だったが、芦戸だけはまだ諦めていなかった。

 

「でもさー、黒崎」

 

「……今度は何だ」

 

「井上さんのことになると、ちょっと怖くない?」

 

「はあ?」

 

「だって峰田を睨んだとき、すっごい顔してたよ?」

 

「あいつが失礼なこと言ってっからだろ」

 

「ふーん?」

 

「何だよ、その顔」

 

「べっつにー?」

 

芦戸は楽しそうに笑った。

 

「いやあ、青春だねえ」

 

「何の話だよ!」

 

「アハハハ! 黒崎、完全に遊ばれてんじゃん!」

 

上鳴が腹を抱えて笑う。

 

「うるせえ!」

 

「……おい」

 

不意に、控室の奥から声がした。

 

爆豪だった。

 

苛立たしげに片目を開け、こちらを睨んでいる。

 

「てめえら、いつまでギャーギャー騒いでんだ」

 

「お、爆豪も話聞いてた?」

 

「あ?」

 

上鳴が瞬時に口を閉じた。

 

「……何でもないっす」

 

爆豪は鼻を鳴らし、再び目を閉じる。

 

「くだらねえ話してねえで、勝つことでも考えてろ」

 

そこへ、飯田が勢いよく立ち上がった。

 

「爆豪君の言い方には問題があるが、競技に集中すべきという点には賛成だ!」

 

腕を直角に振る。

 

「諸君! 他人の私的な事情を必要以上に詮索するのは慎むべきだ! 間もなく第一試合が始まるぞ!」

 

「あっ、そうだった!」

 

麗日がモニターへ目を向けた。

 

そこには、最初の対戦カードが映し出されている。

 

緑谷出久。

 

心操人使。

 

ヒーロー科と普通科。

 

異なる立場から勝ち上がってきた二人の名前だった。

 

「デク君、もうすぐやね!」

 

「う、うん!」

 

緑谷は慌てて手帳を閉じた。

 

だが、その表情は決して明るくない。

 

一護も対戦表を見上げる。

 

心操人使。

 

騎馬戦では、相手を意のままに操るような奇妙な個性を見せていた。

 

確かに、厄介な相手だ。

 

「緑谷」

 

「あ、黒崎君」

 

「相手のこと考えすぎて、変なところで足すくわれんなよ」

 

緑谷が目を瞬かせる。

 

「……うん」

 

一護はそれ以上、何も言わなかった。

 

緑谷がどれほど相手の個性を警戒しているのかは、手帳を見れば分かる。

 

それでも、戦うのは本人だ。

 

最後にものを言うのは、その場でどう動くかだった。

 

競技場から、プレゼント・マイクの声が響いてきた。

 

『さあさあ皆さん! お待たせしましたァァ!! いよいよ雄英体育祭、最終種目! 決勝トーナメントの開幕だァァ!!』

 

控室の空気が変わる。

 

先ほどまで笑っていた生徒たちも、自然とモニターへ視線を向けた。

 

緑谷が立ち上がる。

 

「……行ってきます!」

 

「頑張ってね、デク君!」

 

「緑谷君! 健闘を祈る!」

 

仲間たちの声を背に受けて、緑谷は控室を出ていった。

 

◇

 

スタジアムを埋め尽くす歓声のなか、緑谷出久はゆっくりと息を吐いた。

 

対面するのは、普通科一年C組の心操人使。

 

紫がかった髪に、どこか気怠げな表情。

 

その立ち姿からは、これといった緊張も読み取れなかった。

 

「……随分警戒してるな」

 

心操が口を開く。

 

緑谷は答えない。

 

「まあ、そうだろうな。俺の個性について聞いてるんだろ?」

 

沈黙。

 

緑谷は入場前、尾白から聞いた話を思い返していた。

 

心操の個性は、相手を自分の意思に従わせるもの。

 

騎馬戦の最中、尾白は自分が何をしていたのか、ほとんど覚えていなかったという。

 

そして、尾白が最後に告げた忠告。

 

――とにかく、あいつの問いかけに答えちゃ駄目だ。

 

発動条件は完全には分かっていない。

 

だが、会話が引き金になる可能性は高い。

 

ならば、口を開かなければいい。

 

緑谷はそう考えていた。

 

「……いいよな、ヒーロー科は」

 

心操が呟く。

 

「恵まれた個性を持って生まれた奴らが、当然みたいな顔でヒーローを目指してさ」

 

緑谷は唇を引き結んだ。

 

「こっちはスタートラインに立つことすら難しいってのに」

 

言い返したい。

 

けれど、今は駄目だ。

 

何を言われようと、口を開いてはいけない。

 

「お前、あの尻尾の奴と仲いいのか?」

 

心操が続ける。

 

「尾白って言ったっけ。せっかく勝ち上がったのに辞退したんだろ?」

 

緑谷の眉が動いた。

 

「馬鹿だよな。勝ったんなら、それでいいじゃねえか」

 

違う。

 

尾白はそんな理由で辞退したわけではない。

 

自分の意思で戦っていないことに納得できなかったからだ。

 

あの真っ直ぐな決断を、馬鹿にされたくなかった。

 

しかし、緑谷は歯を食いしばって耐えた。

 

相手の挑発に乗ってはいけない。

 

心操は、その反応をじっと見ていた。

 

何が緑谷の感情を動かすのか。

 

何を言えば、返事を引き出せるのか。

 

それを探っている。

 

「……ま、いいけどな」

 

心操は肩をすくめた。

 

「どうせヒーロー科の連中には分かんねえよ。個性だけで将来を決めつけられる奴の気持ちなんて」

 

その言葉には、先ほどまでの挑発とは違う響きがあった。

 

緑谷は思わず顔を上げる。

 

ミッドナイトが腕を振り上げた。

 

「それでは、第一試合――」

 

観客席の歓声が一段と大きくなる。

 

「始め!」

 

緑谷が地面を蹴った。

 

心操の個性は危険だ。

 

だが、だからといって何もしなければ勝てない。

 

距離を詰めて、相手を場外へ。

 

それが最も単純で確実な方法だった。

 

しかし、心操は動じない。

 

「お前さ、尾白のことをそんなに大事に思ってるなら、どうしてあいつの決断を尊重してやらないんだ?」

 

緑谷の足がわずかに鈍る。

 

「え?」

 

「辞退したことを、内心じゃ馬鹿だと思ってんじゃねえのか?」

 

「違う!」

 

反射的に声が出た。

 

その瞬間。

 

緑谷の瞳から、光が消えた。

 

◇

 

『おおっと!? 緑谷、突然動きを止めたァ!?』

 

実況席からプレゼント・マイクの声が響く。

 

競技場では、緑谷が棒立ちになっていた。

 

心操は静かに息を吐く。

 

「……やっぱりな」

 

そして、緑谷へ向かって告げた。

 

「そのまま後ろを向いて、場外まで歩け」

 

緑谷の身体が動いた。

 

ゆっくりと向きを変える。

 

一歩。

 

また一歩。

 

競技場の端へ向かって歩き始めた。

 

「えっ、ちょっと!?」

 

選手用観覧席で麗日が立ち上がった。

 

「デク君!?」

 

「おいおい、何やってんだ緑谷!」

 

切島が身を乗り出す。

 

瀬呂も目を丸くしていた。

 

「まさか、あれが心操の個性か?」

 

「おそらく、そうでしょうね」

 

八百万が表情を引き締める。

 

「何らかの条件で相手の意識を支配するのでしょう」

 

一護は腕を組んだまま、競技場を見つめていた。

 

緑谷の歩き方がおかしい。

 

ただ言うことを聞いているのではない。

 

自分で身体を動かしているようには見えなかった。

 

「……厄介だな」

 

一護が呟く。

 

隣にいた轟が頷いた。

 

「一度かかったら、抜け出すのは難しそうだ」

 

「だろうな」

 

緑谷の足が、場外へ向かって進んでいく。

 

残り数歩。

 

このままでは、何もできずに敗退する。

 

◇

 

――まずい。

 

緑谷は焦っていた。

 

意識はある。

 

何が起こっているのかも分かる。

 

けれど、身体が動かない。

 

止まれ。

 

止まってくれ。

 

いくら念じても、足は勝手に前へ進む。

 

自分の身体なのに、自分のものではないようだった。

 

視界の先には、競技場の外周が迫っている。

 

あそこを越えれば終わりだ。

 

何もできないまま。

 

頭のなかで、何度も自分を叱咤する。

 

――動け!

 

――動いてくれ!

 

そのときだった。

 

不意に、視界が暗くなった。

 

競技場の景色が遠ざかる。

 

代わりに見えたのは、幾つもの人影だった。

 

輪郭の曖昧な、見知らぬ人々。

 

誰なのか分からない。

 

何を言っているのかも聞こえない。

 

ただ、そこに誰かがいる。

 

そんな奇妙な光景のなかで、緑谷は右手に何かを感じた。

 

熱。

 

指先に集まる、強烈な力。

 

次の瞬間。

 

緑色の閃光が弾けた。

 

「――っ!!」

 

鈍い破裂音。

 

右手に鋭い痛みが走る。

 

緑谷の身体が大きく揺れた。

 

そして。

 

足が、止まった。

 

「……はっ!」

 

緑谷は息を呑んだ。

 

動く。

 

身体が動く。

 

自分の意思で、腕も足も動かせる。

 

慌てて後ろへ跳び、場外との距離を取った。

 

「……何だよ、それ」

 

心操の顔から、初めて余裕が消えた。

 

「何で解けた?」

 

緑谷は荒く息を吐いていた。

 

自分にも分からない。

 

今の人影は、いったい何だったのか。

 

何故、指先に力が集まったのか。

 

ただ一つ分かることがある。

 

まだ、負けていない。

 

心操が舌打ちした。

 

「……だったら、もう一回だ」

 

緑谷は口を閉じたまま構える。

 

もう、同じ失敗はしない。

 

心操もそれを理解したのだろう。

 

「……ちっ」

 

今度は自分から踏み込んできた。

 

右腕が伸びる。

 

緑谷はそれを避けた。

 

しかし、心操はさらに肩をぶつけるように接近する。

 

緑谷の身体が揺れた。

 

続けざまに手首を掴まれる。

 

「っ……!」

 

心操はそのまま腕を引き、緑谷の体勢を崩そうとした。

 

ただ個性に頼っているわけではない。

 

力で押し切れなくても、相手を場外へ出せば勝てる。

 

心操は、それを理解していた。

 

緑谷も必死に踏みとどまる。

 

しかし、右手には痛みが残っていた。

 

無理に力を入れれば、さらに傷めてしまう。

 

それでも、引くわけにはいかなかった。

 

心操が再び腕を引く。

 

緑谷はその力に逆らうのではなく、あえて一歩踏み込んだ。

 

「なっ――」

 

心操の重心が前へ崩れる。

 

緑谷はその瞬間を逃さなかった。

 

左腕を相手の身体へ回す。

 

腰を落とし、足を踏み込む。

 

そして。

 

「うああああっ!!」

 

心操の身体を持ち上げた。

 

そのまま、勢いを利用して投げ飛ばす。

 

「ぐっ……!」

 

心操は空中で手を伸ばした。

 

だが、掴めるものはない。

 

地面に身体が落ちる。

 

そこは、すでに競技場の外だった。

 

「心操君、場外!」

 

ミッドナイトが腕を上げる。

 

「勝者、緑谷出久!」

 

観客席から、大きな歓声が上がった。

 

『決まったァァァ!! 緑谷、絶体絶命の状況から逆転勝利ィィ!!』

 

緑谷は肩で息をしながら、その場に立っていた。

 

右手が痛む。

 

指先が震えている。

 

しかし、今はそれよりも、倒れたままの心操が気になった。

 

「……心操君」

 

場外へ近づく。

 

すると、心操が顔を上げた。

 

「何だよ。勝ったんだろ」

 

「……うん」

 

心操は地面に片手をつき、ゆっくり立ち上がった。

 

制服についた砂を払う。

 

その顔には、悔しさが滲んでいた。

 

「……結局、勝てなかったか」

 

小さな呟きだった。

 

緑谷は何と声をかければいいのか迷った。

 

この試合に心操がどれほどの思いを懸けていたのか、すべてを知っているわけではない。

 

それでも、彼が本気でヒーロー科を目指していることは、伝わってきた。

 

「……君の個性、本当にすごいと思った」

 

心操が顔を上げる。

 

「慰めならいらねえよ」

 

「違うよ」

 

緑谷は首を振った。

 

「僕、君に何もできなかった。意識はあるのに身体が動かなくて……あのままじゃ、確実に負けてた」

 

「……でも、実際にはお前が勝っただろ」

 

「それは……そうだけど」

 

緑谷は自分の右手に目を落とした。

 

「普通だったら、あんな方法で抜け出せるわけじゃないと思う。それに、君の個性なら、相手を傷つけずに捕まえることだってできるはずだ」

 

心操は黙っていた。

 

相手が言葉を返しさえすれば、その行動を制限できる。

 

暴れる相手を止めることも、抵抗させずに拘束することもできる。

 

もちろん、万能ではない。

 

発動には条件があり、強い衝撃を受ければ洗脳が解けることもある。

 

相手が返事をしなければ、そもそも能力は使えない。

 

それでも、相手に直接傷を負わせずに制圧できる可能性がある。

 

心操自身、その使い道を考えなかったわけではない。

 

だが、これまで彼の個性を聞いた人間の多くは、真っ先にこう言った。

 

――敵に回したら怖い。

 

――悪いことに使えそう。

 

――ヴィラン向きの個性だ。

 

生まれ持った個性を選ぶことなんて、誰にもできない。

 

それでも、自分はヒーローになりたかった。

 

だからこそ、この体育祭に懸けていた。

 

ヒーロー科の生徒を倒し、自分にもその資格があると証明したかった。

 

「……俺は」

 

心操が口を開きかけた、そのときだった。

 

「心操ーっ!!」

 

観客席から、大きな声が飛んできた。

 

「よくやったぞ!」

 

「お前、すげえじゃねえか!」

 

普通科の生徒たちだった。

 

試合には負けた。

 

けれど、彼らは心操の名前を呼んでいた。

 

「次は勝てよ!」

 

「ヒーロー科、諦めんなよー!」

 

心操が顔を上げる。

 

歓声が聞こえてくる。

 

それは勝者へ向けられるものとは少し違っていたが、決して同情だけではなかった。

 

自分の戦いを見ていた連中がいる。

 

実力を認めてくれた連中がいる。

 

そして、プロヒーローたちの観客席でも。

 

「……あの普通科の生徒、面白い個性だな」

 

「洗脳か。発動条件はあるようだが、対人制圧にはかなり使えそうだ」

 

「ああ。抵抗させずに捕縛できるなら、相手も周囲も傷つけずに済む可能性がある」

 

「身体能力はまだまだだが、鍛えれば化けそうだな」

 

そんな声が上がっていた。

 

心操は唇を噛んだ。

 

勝ちたかった。

 

当然だ。

 

ここで勝ち進めば、ヒーロー科への道がさらに広がると思っていた。

 

だからこそ、負けたことは悔しい。

 

けれど。

 

この試合で示せたものも、確かにあった。

 

「……緑谷」

 

心操が口を開く。

 

「俺は諦めねえからな」

 

緑谷が顔を上げた。

 

「絶対、ヒーロー科に入ってやる」

 

その声には、はっきりとした意思があった。

 

緑谷は一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。

 

「……うん」

 

心操は踵を返した。

 

背後からは、まだクラスメイトたちの声が聞こえている。

 

悔しさは消えない。

 

だが、次に何をすべきかは分かっていた。

 

心操人使は顔を上げ、まっすぐに退場口へ歩いていった。

 

◇

 

「……あいつ、結構すげえな」

 

観客席で、切島が呟いた。

 

「心操のことか?」

 

上鳴が尋ねる。

 

「おう。あんな個性、相手にしたら厄介どころじゃねえだろ」

 

「確かになあ。うっかり返事しただけで操られるんだもんな」

 

瀬呂も頷く。

 

「しかも、あれって無理に殴り倒さなくても勝てるってことだろ?」

 

「そうだな」

 

一護は競技場を見つめたまま答えた。

 

「相手を傷つけずに済むなら、使い方次第じゃ相当便利だろうな」

 

轟も静かに頷いた。

 

「対人戦なら、かなり強力な個性だと思う」

 

「しかし、発動条件が限られているのは弱点ですわね」

 

八百万が言う。

 

「相手が条件を理解していれば、対処されてしまう可能性もあります」

 

「それをどう補うか、ってことか」

 

瀬呂が腕を組む。

 

実況席では、相澤も同じ試合を見ていた。

 

『心操は身体能力の面ではまだ課題がある。だが、個性の運用には見るべきところがあったな』

 

『おおっと、イレイザーヘッドも高評価かァ!?』

 

『ヒーローに必要な能力は、単純な攻撃力だけじゃない。相手を無力化する手段としては、十分に可能性がある』

 

相澤は淡々と言った。

 

『本人がここからどう伸ばしていくかだ』

 

プレゼント・マイクが笑う。

 

『なるほどォ! 勝敗だけが全てじゃないってわけだな!』

 

一護は小さく頷いた。

 

確かに、ああいう能力があれば助かる場面は多いだろう。

 

倒すことと、護ることは必ずしも同じではない。

 

相手を傷つけずに止められるなら、それに越したことはない。

 

そんなことを考えていると、モニターの対戦表が切り替わった。

 

次の試合。

 

黒崎一護。

 

瀬呂範太。

 

「……よっし」

 

瀬呂が立ち上がった。

 

「そんじゃ、行きますか」

 

一護も席を立つ。

 

「おう」

 

「いやー、正直めちゃくちゃ厳しい相手だと思ってるけどな」

 

「何だよ。始まる前から弱気か?」

 

「そういうわけじゃねえって!」

 

瀬呂は両肘を軽く叩いてみせる。

 

「俺にだって、考えはあるからな」

 

「……へえ」

 

一護の口元が緩んだ。

 

「そりゃ楽しみだ」

 

「黒崎! 瀬呂!」

 

切島が二人へ向かって拳を突き出した。

 

「どっちも頑張れよ!」

 

「おう!」

 

瀬呂が拳を合わせる。

 

一護も軽く拳をぶつけた。

 

同じクラスの仲間。

 

けれど、今からは対戦相手だ。

 

二人は並んで競技場へ向かった。

 

◇

 

第二試合。

 

競技場へ姿を現した一護と瀬呂に、観客席から歓声が上がる。

 

『さあ、続いてはこの二人! ヒーロー科一年A組、黒崎一護! 対するは同じくA組、瀬呂範太ァ!!』

 

プレゼント・マイクの実況が響く。

 

『黒崎はここまでの競技で、とんでもない身体能力を見せつけている! 一方の瀬呂は両肘からテープを射出する個性の持ち主! この組み合わせ、どう見るイレイザーヘッド!?』

 

『瀬呂の個性は移動と拘束の両方に使える。相手の接近をどう防ぐかが鍵だな』

 

相澤が淡々と答える。

 

競技場では、二人が向かい合っていた。

 

「なあ、黒崎」

 

「ん?」

 

「一個聞いていいか?」

 

「何だ?」

 

「お前の移動速度ってさ、どのくらい出んの?」

 

一護は少し考えた。

 

「……さあ」

 

「さあって何だよ!」

 

「いや、測ったことねえし」

 

「マジかよ……」

 

瀬呂は頭を掻いた。

 

実際、黒崎一護という男は、同じクラスの人間から見ても謎が多かった。

 

信じられないほど高い身体能力。

 

一瞬で姿が消えたように見える移動速度。

 

それに、斬月と呼ばれる刀。

 

授業などで何度か目にしているが、その能力の全体像はいまだによく分からない。

 

ただし、一つだけ確かなことがあった。

 

まともに接近戦を挑めば、まず勝てない。

 

しかも、あの刀を使われれば自分のテープは切断されるだろう。

 

当然、そこも考えてきた。

 

「……まあ、やるだけやってみるか」

 

瀬呂は小さく息を吐いた。

 

相手が強いからといって、最初から諦めるつもりはない。

 

そのために、対戦表が発表されてから何度も作戦を考えてきたのだ。

 

「両者、位置について!」

 

ミッドナイトが声を上げる。

 

一護は軽く腰を落とした。

 

瀬呂も両肘を前へ向ける。

 

「第二試合――始め!」

 

合図と同時に、瀬呂が動いた。

 

両肘から白いテープが射出される。

 

狙いは一護の足元だった。

 

「っと!」

 

一護が横へ跳ぶ。

 

テープは地面へ貼りついた。

 

しかし、瀬呂は追撃しない。

 

すぐに腕を引き、別の方向へテープを放った。

 

今度は競技場の端。

 

そこへ貼りつけたテープを巻き取ることで、自分の身体を引っ張る。

 

瀬呂は一気に一護との距離を取った。

 

「なるほどな」

 

一護が呟く。

 

逃げ回るつもりらしい。

 

だが、ただ逃げるだけではないことに、一護はすぐ気づいた。

 

瀬呂は移動のたびに、地面へテープを残している。

 

それも、無造作にではない。

 

一護を中心として、周囲を囲むように。

 

「……そういうことかよ」

 

一護が軽く笑った。

 

瀬呂はにやりと口元を緩める。

 

「お、気づいた?」

 

次の瞬間。

 

瀬呂が両腕を大きく引いた。

 

地面に貼りついていたテープが、一斉に持ち上がる。

 

白い線が交差する。

 

一護の周囲に、即席の障害物が生まれた。

 

「悪いな、黒崎!」

 

瀬呂が叫ぶ。

 

「お前みたいに速い奴には、こうでもしねえと勝負になんねえんだよ!」

 

右肘から、さらにテープが飛ぶ。

 

一護は上半身を傾けて避けた。

 

だが、その先には先ほど張られたテープがある。

 

跳んでかわそうとすれば、今度は空中を狙われる。

 

瀬呂はそこまで考えていた。

 

『おおっと! 瀬呂、競技場にテープを張り巡らせているぞォ!』

 

『相手の移動範囲を制限している。単純な拘束だけじゃなく、逃げ道まで考えた使い方だな』

 

相澤の解説が続く。

 

『黒崎の速度に反応するのは難しい。ならば、先に動ける場所を減らす。悪くない判断だ』

 

観客席では、切島が感心したように声を上げた。

 

「おお! 瀬呂、やるじゃねえか!」

 

「結構考えてんなあ!」

 

上鳴も頷く。

 

「これなら黒崎でも、ちょっとは苦戦すんじゃね?」

 

「ただ、あのテープがどこまで通用するかね」

 

耳郎が呟いた。

 

その隣では、峰田が異様なほど真剣な顔で試合を見つめていた。

 

「……いけ」

 

「ん?」

 

「いけェ! 瀬呂ォォ!! そのまま黒崎をぶっ倒せェェ!!」

 

「お前、さっきのこと根に持ちすぎだろ!」

 

上鳴が吹き出す。

 

「うるせえ! オイラは仲間を応援してるだけだ!」

 

「黒崎ちゃんも仲間よ」

 

蛙吹の指摘に、峰田はぐっと詰まった。

 

◇

 

一方、競技場では瀬呂が攻勢を強めていた。

 

右。

 

左。

 

次々と放たれるテープ。

 

一護はそれらを避けながら、徐々に距離を詰めようとする。

 

だが、瀬呂も簡単には近づけさせない。

 

正面からの攻撃が避けられることなど、最初から分かっている。

 

大切なのは、その次だ。

 

一護が右へ避ければ、左側へテープを張る。

 

跳躍しそうになれば、空中へ射出する。

 

相手の動きに反応するのではなく、動かざるを得ない場所を作っていく。

 

そして。

 

「――そこだ!」

 

瀬呂が右腕を振った。

 

白いテープが一護の左腕へ絡みつく。

 

「おっ」

 

一護が目を見開く。

 

瀬呂はすぐに腕を引いた。

 

さらに、左肘から足元を狙う。

 

上半身を拘束し、下半身も封じる。

 

それが狙いだった。

 

だが。

 

ザンッ!

 

鋭い音が響いた。

 

「……っ!」

 

瀬呂の手元から、突然抵抗が消える。

 

一護の左腕に巻きついていたテープが、真っ二つに断たれていた。

 

その手には、斬月が握られている。

 

『おおっとォォ!! ここで黒崎、斬月を出したァァ!! 瀬呂のテープを一刀両断!!』

 

プレゼント・マイクの声が一段と大きくなった。

 

『……って、ちょっと待て! あれ、どう見ても本物の刃物だよな!? 対人戦で使っちまって大丈夫なのかァ!?』

 

『事前に教師陣で確認している』

 

相澤が落ち着いた声で答えた。

 

『黒崎は自身が発するエネルギーを刀身の周囲に高密度で圧縮し、刃を覆うことができる。そうすれば刃が直接相手に触れず、斬撃ではなく打撃として作用する』

 

『ほほう! つまり、斬れない状態にもできるってわけか!』

 

『そういうことだ。ただし、切断しないだけで衝撃は残る。そこも含めて本人の制御能力を確認し、使用を許可している』

 

『なるほどォ! しっかり安全確認されてるってわけだな!』

 

『危険がないわけじゃない。必要なら試合を止める』

 

相澤は競技場へ視線を戻した。

 

『……それより、瀬呂も刀への対策を考えてきたようだな』

 

競技場では、瀬呂がすでに動いていた。

 

「……やっぱ使ってくるよな、それ!」

 

瀬呂は切断されたテープをすぐに切り離し、反対側の肘から新たなテープを射出した。

 

狙いは一護ではない。

 

斜め後方の地面。

 

貼りつけたテープを巻き取り、身体を大きく横へ移動させる。

 

一護が追いかけようとしたところへ、さらに一本。

 

今度は目の前を横切るようにテープが伸びた。

 

一護が斬月を振るう。

 

白い帯が断ち切られる。

 

しかし、その瞬間には、すでに瀬呂の身体が別の方向へ動いていた。

 

「……なるほど」

 

一護が呟く。

 

瀬呂は、テープを切られること自体を恐れていなかった。

 

切られたら、次を出せばいい。

 

それどころか、一護が刀を振るうタイミングに合わせて移動先を変えている。

 

斬月を振るう動作。

 

そこに生じる僅かな隙。

 

瀬呂はそれを利用していた。

 

「切られるって分かってりゃ、切られたあとまで考えりゃいいんだよ!」

 

瀬呂が叫ぶ。

 

そのまま右肘からテープを放つ。

 

一護が斬月で切断する。

 

だが、今度のテープは囮だった。

 

直後、地面に張られていた別のテープが跳ね上がる。

 

「……っ!」

 

一護の足元を狙った一撃。

 

反射的に跳躍してかわす。

 

しかし、瀬呂はその動きを待っていた。

 

「そこだ!」

 

左肘から放たれたテープが、空中の一護へ迫る。

 

逃げ場の少ない位置。

 

さらに、斬月を振るう腕とは反対側を狙っていた。

 

「おっ、と!」

 

一護は身体を捻り、肩を引いた。

 

テープが制服の袖をかすめる。

 

だが、そこで終わらない。

 

瀬呂はすぐにもう一本を放ち、一護の着地地点へ貼りつけた。

 

足場を奪うつもりだった。

 

『瀬呂、攻める攻めるゥ!! 刀を使われても止まらねえ! むしろ黒崎の動きを誘導しているぞォ!!』

 

『判断は悪くない。だが、これを続けるには相当な集中力が必要だ』

 

相澤の言葉どおり、瀬呂の額には汗が浮かんでいた。

 

黒崎は速い。

 

少しでも判断を誤れば、あっという間に距離を詰められる。

 

それでも、瀬呂は笑っていた。

 

「しっかし黒崎! ちったあ手加減してくれよ!」

 

テープを射出しながら、軽口を叩く。

 

一護は斬月を振るい、目の前の白い帯を断ち切った。

 

「無茶言うなよ! こっちも勝ちに来てんだからな!」

 

「だよなあ!」

 

瀬呂が笑う。

 

「だったら、こっちも遠慮しねえぞ!」

 

「おう。来いよ!」

 

再び、白いテープが飛んだ。

 

一護はそれを斬り払いながら、地面へ足をつけた。

 

そして、斬月を構え直す。

 

刀身の周囲に、淡い光がまとわりついた。

 

僅かに揺らいでいた光が、次第に密度を増していく。

 

刃の周囲へ、一護自身の霊圧を押し固めているのだ。

 

それは刀身の形に沿うように凝縮され、刃そのものを包み込んでいった。

 

「……ん?」

 

瀬呂が目を細めた。

 

「それ、さっき説明してたやつか?」

 

「ああ」

 

一護は軽く斬月を持ち上げる。

 

刀身を包む力が、淡く揺らめいた。

 

「切れはしねぇが、当たるといてぇぞ」

 

「いや、そりゃそうだろ! そんなでけえ刀で殴られたら!」

 

瀬呂は笑いながらも、すぐに両肘を構え直した。

 

冗談を言っていられるのも、相手との距離があるうちだけだ。

 

あの速さで接近され、まともに一撃を受ければ、たとえ刃で斬られなくても無事では済まない。

 

「だったら、当たらなきゃいいだけだ!」

 

「おう」

 

一護の口元が緩んだ。

 

「そうこなくっちゃな」

 

直後、瀬呂が動いた。

 

右肘からテープを射出する。

 

今度は一護の身体ではなく、背後の地面へ。

 

さらに左肘からもう一本。

 

二本のテープを使い、身体を斜め後方へ引きながら、一護の動きを誘う。

 

しかし、一護は追わなかった。

 

その場で僅かに腰を落とす。

 

「……っ!」

 

瀬呂が何かを察した瞬間。

 

一護の足元で、淡い光が弾けた。

 

ブリンガーライト。

 

踏み込んだ地面から力を引き出し、一護の身体が加速する。

 

「速っ――!」

 

瀬呂は反射的にテープを放った。

 

しかし、一護はすでにその射線から外れていた。

 

右へ。

 

次に左へ。

 

テープが伸びるよりも早く、足場を変えている。

 

「くそっ!」

 

瀬呂は腕を引いた。

 

地面に張られたテープが跳ね上がる。

 

一護の進路を塞ぐ。

 

その先には、さらに別のテープ。

 

何度も移動している間に、瀬呂は即席の網を作り上げていた。

 

だが、一護は止まらない。

 

斬月を振り上げる。

 

直後、刀身を覆っていた光が薄れた。

 

鋭い刃が、目の前のテープを切り裂く。

 

ザンッ!

 

張り巡らされていた白い線が、音を立てて断ち切られた。

 

「……っ!」

 

瀬呂はすぐに次のテープを射出した。

 

それも一護を狙ったものではない。

 

自分の身体を、横へ引っ張るためのもの。

 

距離を取る。

 

間合いを維持する。

 

そこさえ崩さなければ、まだ勝機はある。

 

だが。

 

「……悪いな、瀬呂」

 

声が聞こえた。

 

すぐ近くだった。

 

「――っ!?」

 

瀬呂が振り向く。

 

そこには、斬月を構えた一護がいた。

 

刀身の周囲には、再び凝縮された光がまとわりついている。

 

瀬呂は咄嗟に腕を交差させた。

 

身体を守る。

 

その判断は間違っていなかった。

 

直後。

 

ドンッ!

 

鈍い衝撃が、交差させた両腕を襲った。

 

「ぐっ……!」

 

刃で斬られた感覚ではない。

 

重い鈍器を叩きつけられたような、強烈な打撃。

 

骨にまで響く衝撃に、瀬呂の顔が歪んだ。

 

だが、一護はそれ以上力を押し込まない。

 

瀬呂の身体が後方へ押し出される。

 

「……っ、まだ!」

 

瀬呂が歯を食いしばった。

 

右肘を地面へ向ける。

 

テープを射出。

 

競技場へ貼りつけ、身体を引き戻そうとする。

 

その判断も早かった。

 

けれど、一護はすでに動いていた。

 

斬月を振るう。

 

刃を覆っていた力が薄れ、飛び出したテープを断ち切った。

 

「なっ――!」

 

瀬呂の身体を引き戻すはずだった力が失われる。

 

踏みとどまろうとした足が、境界線を越えた。

 

次の瞬間。

 

瀬呂は競技場の外へ倒れ込んだ。

 

「……あ」

 

自分がどこにいるのか理解し、瀬呂は大きく息を吐いた。

 

「瀬呂君、場外!」

 

ミッドナイトが腕を振り上げる。

 

「勝者、黒崎一護!」

 

競技場に歓声が響き渡った。

 

『決着ゥゥゥ!! 最後は黒崎の斬月による強烈な一撃! 瀬呂のテープを断ち切り、場外へ押し出したァァ!!』

 

瀬呂は地面に座り込んだまま、大きく肩を落とした。

 

「……いやあ、無理だろ、あれ」

 

一護は斬月を消し、瀬呂へ近づいた。

 

「大丈夫か?」

 

「……腕、めっちゃ痛え」

 

「悪い」

 

「いや、いいって。試合なんだし」

 

瀬呂は苦笑した。

 

「でも、マジで斬れてねえんだな。痛えけど」

 

「だろ?」

 

「だろ、じゃねえよ! 笑い事じゃねえって!」

 

一護も思わず笑った。

 

瀬呂は自分の腕を軽くさすり、それから顔を上げる。

 

「……結構考えてきたんだけどなあ」

 

「ああ。分かったぞ」

 

「マジ?」

 

「テープの使い方、かなり厄介だった。俺が刀で切るところまで計算してただろ?」

 

「まあな」

 

瀬呂は少しだけ笑った。

 

「でも、最後は追いつけなかったわ」

 

「そりゃ俺だって勝つつもりでやってたからな」

 

「……だよな」

 

負けたことは悔しい。

 

けれど、自分の考えた戦術が、まったく通じなかったわけではない。

 

相手は自分の戦い方を見ていた。

 

それだけでも、次へ繋がるものがあった。

 

「……次は勝つからな」

 

「おう」

 

一護は拳を差し出した。

 

瀬呂は一瞬だけ目を丸くする。

 

それから笑って、拳を合わせた。

 

「覚えてろよ、黒崎」

 

「楽しみにしてるぜ」

 

◇

 

「黒崎! 勝利おめでとう!」

 

試合を終え、選手用の通路へ戻ると、飯田が出迎えた。

 

その後ろには切島と上鳴、耳郎たちの姿もある。

 

「おう、ありがとな」

 

「瀬呂もすげえ頑張ってたじゃねえか!」

 

切島が瀬呂の肩を叩く。

 

「最後は惜しかったけど、あの戦い方は結構よかったぞ!」

 

「おう。ありがとな」

 

瀬呂は照れくさそうに笑った。

 

「でも、さすがにあの速さは反則だろ」

 

「だよなあ!」

 

上鳴が大きく頷く。

 

「俺だったら、開始直後に感電させるしかねえわ」

 

「お前、それ外したら終わりじゃねえか」

 

耳郎が突っ込む。

 

「いや、そこは何とか……!」

 

「何とかできるの?」

 

「……できる、はず」

 

「自信なさすぎ」

 

周囲から笑い声が上がった。

 

そんななか、一護は少し離れたところに緑谷の姿を見つけた。

 

「お、緑谷」

 

「あっ、黒崎君!」

 

緑谷は右手に応急処置を受けていた。

 

「試合、すごかったよ!」

 

「お前もな。……指、大丈夫か?」

 

「う、うん。リカバリーガールに診てもらったから」

 

「そっか。ならいいけどよ」

 

一護は傷めた右手をちらりと見た。

 

緑谷の戦い方には、まだ危なっかしいところが多い。

 

自分の力で、自分の身体を壊してしまう。

 

以前よりは改善しているものの、見ていて気持ちのいいものではなかった。

 

「無茶すんなよ」

 

「……うん」

 

緑谷は苦笑した。

 

「気をつけるよ」

 

そのとき、通路の向こうから声が聞こえた。

 

「あっ!」

 

一護が振り返る。

 

「黒崎くん!」

 

そこにいたのは、井上織姫だった。

 

隣には拳藤一佳の姿もある。

 

「井上」

 

一護の表情が、自然と和らいだ。

 

織姫は小走りで近づいてくる。

 

「試合、見てたよ! すごかったね!」

 

「おう。ありがとな」

 

「最後なんて、あっという間だった!」

 

「まあ、あれくらいはな」

 

織姫は嬉しそうに笑った。

 

それから、隣にいた瀬呂へ向き直る。

 

「あっ、瀬呂くんも、すごかったです!」

 

「え?」

 

瀬呂が目を丸くした。

 

「テープを使った動き、すごく上手でした! どこから飛んでくるのか全然分からなくて!」

 

「お、おう。ありがとな」

 

瀬呂は少し照れくさそうに頭を掻いた。

 

「まあ、負けちまったけどな」

 

「でも、かっこよかったです!」

 

「いやー、そう言ってもらえると嬉しいわ」

 

瀬呂は笑った。

 

その横で、拳藤が一護を見る。

 

「それにしても黒崎、あんた本当に速いわね」

 

「そうか?」

 

「そうかって……。こっちから見てると、途中からどこにいるのか分かんなかったわよ」

 

拳藤は呆れたように肩をすくめた。

 

「B組としては、あんまり当たりたくない相手ね」

 

「そりゃどうも」

 

「褒めてるんだから、もうちょっと喜びなさいよ」

 

「いや、喜んでるって」

 

そんなやり取りのあと、拳藤は織姫へ視線を向けた。

 

先ほど、あれだけ泣いていたというのに。

 

今の織姫は、すっかり普段の調子に戻っている。

 

むしろ、いつもより明るいくらいだった。

 

拳藤はちらりと一護を見る。

 

そして、少しだけ口元を緩めた。

 

「……ま、元気になったんならいいけどさ」

 

「ん?」

 

「何でもないわよ」

 

拳藤は軽く手を振った。

 

そのとき、次の試合の案内が流れた。

 

『第三試合出場選手は、入場口へお集まりください』

 

「あっ!」

 

織姫が顔を上げる。

 

「私、そろそろ行かなくちゃ!」

 

「そういや、次は井上だったな」

 

一護が対戦表を思い出す。

 

「相手は青山か」

 

「うん!」

 

織姫は頷いた。

 

「おへそからレーザーが出る人!」

 

「……まあ、間違ってねえけど」

 

瀬呂が苦笑した。

 

青山優雅。

 

A組でも特に個性的な言動で知られる少年だ。

 

腹部から放たれるネビルレーザーは、一直線の攻撃とはいえ、威力が高い。

 

一護も授業で何度か目にしている。

 

「井上」

 

「なあに、黒崎くん?」

 

「青山のレーザー、結構な威力があるからな。気をつけろよ」

 

「うん!」

 

織姫は力強く頷いた。

 

「大丈夫! 私も、ちゃんと頑張るから!」

 

その笑顔を見て、一護は小さく笑った。

 

昔から、そうだった。

 

危険な場所へ向かうときも、不安を抱えているときも。

 

井上は、自分の意思で前に進もうとしていた。

 

何度も傷つき、何度も立ち上がってきた。

 

その姿を、一護は知っている。

 

「ああ。見てるからな」

 

「……うん!」

 

織姫の笑顔が、さらに明るくなった。

 

「黒崎くんも、次の試合頑張ってね!」

 

「おう。ありがとな」

 

拳藤が織姫の肩を叩いた。

 

「ほら、そろそろ行くよ」

 

「あっ、そうだった!」

 

織姫は慌てて向き直った。

 

「それじゃあ黒崎くん、またあとでね!」

 

「おう。またな」

 

織姫は手を振り、拳藤とともに通路の奥へ駆けていった。

 

一護はその背中を見送る。

 

すると、隣から妙な視線を感じた。

 

「……何だよ」

 

瀬呂だった。

 

にやにやしている。

 

「いや、別に?」

 

「何だよ、その顔」

 

「お前、井上さんといつの間にそんな仲よくなったんだ?」

 

「……お前までそれかよ」

 

一護は額に手を当てた。

 

「いや、だってさ」

 

瀬呂は笑いを堪えながら続ける。

 

「さっきから何か雰囲気違うんだもん」

 

「気のせいだろ」

 

「そーかねえ?」

 

「……戻るぞ」

 

「へいへい」

 

一護が歩き出す。

 

その後ろを、瀬呂が笑いながらついていった。

 

◇

 

競技場のモニターに、新たな対戦カードが映し出された。

 

井上織姫。

 

青山優雅。

 

ヒーロー科B組とA組の対決である。

 

『さあさあ、まだまだ予備戦は続くぜェ!! 第三試合はこの二人! ヒーロー科一年B組、井上織姫! そしてヒーロー科一年A組、青山優雅ァ!!』

 

まず姿を現したのは青山だった。

 

金色の髪を整え、観客席へ向かって優雅に片手を掲げる。

 

「ボクの輝きを、見逃さないでくれたまえ!」

 

相変わらずの調子だった。

 

『おおっと青山! 入場から全力でアピールしているぞォ!』

 

実況席から笑い声が響く。

 

続いて、反対側の入場口から織姫が姿を現した。

 

大勢の観客。

 

競技場を取り囲む歓声。

 

いつもより少しだけ緊張した面持ちで、織姫はゆっくりと歩を進める。

 

けれど、その足取りに迷いはなかった。

 

競技場の中央で立ち止まる。

 

そして、目の前の青山へ向かって頭を下げた。

 

「よろしくお願いします!」

 

青山は片手を胸に当て、にこりと微笑んだ。

 

「こちらこそ。美しい勝負にしようじゃないか」

 

「はい!」

 

その返事に、青山は満足そうに頷く。

 

「ただし、手加減はしないよ。ボクのレーザーは、とっても強烈だからね」

 

腹部のベルトへ軽く手を添える。

 

織姫も頷いた。

 

「私も、全力で頑張ります!」

 

そう言って、髪留めへそっと指を添えた。

 

六花。

 

この世界に生まれ変わってからも、ずっと自分とともにあった力。

 

かつては、大切な人たちを護るために使ってきた。

 

たくさんの傷を拒絶した。

 

たくさんの悲しみに触れた。

 

そして、最後には。

 

何よりも大切な人を護るために、その力を使った。

 

けれど、今は違う。

 

誰かを護りたいという気持ちは、変わらない。

 

それでも、今の自分にはもう一つ、大切な夢がある。

 

ヒーローになること。

 

誰かの痛みに寄り添い、その人がもう一度笑えるように。

 

そのために、自分の力を使いたい。

 

織姫は静かに息を吸った。

 

◇

 

「お、始まるみたいだな」

 

選手用観覧席へ戻った瀬呂が、競技場を見下ろした。

 

「青山の奴、相変わらずだなあ」

 

上鳴が笑う。

 

「でも、井上さんって結構すごい個性なんだろ?」

 

切島が尋ねた。

 

「騎馬戦でも、あの盾みたいなので攻撃防いでたよな」

 

「ええ」

 

八百万が頷く。

 

「あの防御能力は非常に高いと思いますわ。ただ、どの程度の攻撃まで防げるのか、まだ分からない部分が多いですね」

 

「青山のレーザーとぶつかったら、どうなるんだろうね」

 

耳郎が呟く。

 

「……ふっ」

 

そのとき、峰田が不気味な笑みを浮かべた。

 

「井上ちゃんの勇姿……この目に焼きつけてやるぜ……!」

 

「お前、もう黙って見てろよ」

 

上鳴が呆れたように言った。

 

そんな会話を聞きながら、一護は競技場へ視線を向けていた。

 

そこには、青山と向かい合う織姫の姿がある。

 

「……井上さん、大丈夫かな」

 

瀬呂が何気なく呟いた。

 

「あのレーザー、結構な威力あるからな。防御の個性とはいえ、まともに受けたらどうなるか……」

 

「大丈夫だろ」

 

一護は静かに答えた。

 

「え?」

 

瀬呂が振り向く。

 

一護は競技場から目を離さなかった。

 

「井上なら勝つさ」

 

その言い方は、あまりにも自然だった。

 

希望でも、願望でもない。

 

ただ、相手を信じている。

 

そんな声音だった。

 

「……随分自信あるんだな」

 

瀬呂が少し驚いたように言う。

 

「青山だって、決して弱くねえぜ?」

 

「ああ。知ってる」

 

「じゃあ、何でそんな言い切れるんだよ?」

 

一護は少しだけ笑った。

 

「……あいつが、そう簡単に負ける奴じゃねえって知ってるからな」

 

瀬呂は首を傾げた。

 

一護はそれ以上、何も言わなかった。

 

何度も戦った。

 

何度も傷ついた。

 

絶望的な状況に追い込まれたことも、一度や二度ではない。

 

そのたびに、井上は手を伸ばしてくれた。

 

自分が倒れたときも。

 

仲間が傷ついたときも。

 

どれほど恐ろしい相手を前にしても、あいつは自分にできることを考え、行動していた。

 

そして最後には、誰にもできなかったことを成し遂げた。

 

その強さを、一護は知っている。

 

単純な戦闘能力の話ではない。

 

あいつは、誰かの後ろで護られているだけの女じゃない。

 

自分自身の意思で立ち、自分自身の力で道を切り開ける奴だ。

 

もちろん、勝負に絶対はない。

 

それでも、一護は信じていた。

 

同じ戦場を駆け抜けてきた、仲間だからこそ。

 

競技場では、青山が構えを取る。

 

織姫もまた、まっすぐに相手を見据えた。

 

ミッドナイトが二人を見渡す。

 

「両者、準備はいいかしら?」

 

「もちろんさ!」

 

「はい!」

 

青山は自信に満ちた笑みを浮かべている。

 

織姫も、もう緊張に呑まれてはいなかった。

 

ミッドナイトの腕が、ゆっくりと上がる。

 

「第三試合――」

 

歓声が大きくなる。

 

「始め!」

 

青山の腹部が、眩い光を放った。

 

同時に、織姫の髪留めから、六つの小さな光が飛び立つ。

 

白い閃光と、色鮮やかな光。

 

二つの力が、競技場の中央で交差しようとしていた。

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