開始の合図と同時に、塩崎の髪が動いた。
背中に流れていた蔓が持ち上がり、幾本もの先端が一護へ向けられる。
「参ります」
穏やかな声とともに、蔓が伸びた。
一護は肩に担いでいた斬月を振るう。
正面から迫った三本をまとめて断ち切り、遅れて伸びてきた一本を身体を捻ってかわした。
蔓が背後の床を叩く。
硬い音が響くと同時に、左右から別の蔓が迫ってきた。
「っと」
一護は地面を蹴った。
足元を狙った蔓を跳び越え、空中で斬月を振るう。
黒い刀身が弧を描き、蔓をまとめて断ち切った。
『おおっとォ! 塩崎、開始早々から猛攻! だが黒崎も次々に斬り払っていくゥ!』
着地した一護が前へ出る。
塩崎との距離は、まだ十数メートル。
その間を埋めるように、再び蔓が伸びてきた。
一護は斬月を振り下ろす。
一本、続けて二本。
地面を這って足首へ迫ったものは、踏み込みながら切り落とした。
だが、蔓の数は減らない。
「……切ってもすぐ出てくるのか」
断ち切ったばかりの蔓を補うように、新しい蔓が伸びていた。
瀬呂のテープとは違う。
切断したところで、攻撃を止められるわけではないらしい。
一護は斬月を持ち直した。
何度でも伸びてくるのなら、いくら斬ってもきりがない。
狙うべきは蔓そのものではなく、それを操っている塩崎だ。
そう判断すると、迷わず地面を蹴った。
「!」
塩崎の正面で、何本もの蔓が絡み合った。
分厚い壁が立ち上がる。
一護は足を止めず、斬月を振り下ろした。
黒い刃が蔓の壁を裂く。
その隙間から別の蔓が突き出された。
一護は上体を傾けてかわし、斬月を返して切り落とす。
さらに一歩。
距離が縮まる。
「……さすがですね」
塩崎が静かに呟いた。
彼女の背中では、蔓が幾重にも重なって揺れている。
その陰から、細い蔓の束がするりと下りた。
一護へ向けて伸ばしたものではない。
背後に落とした蔓は塩崎の足元を伝い、床石の継ぎ目へ入り込んでいく。
先端が隙間を押し広げた。
小さな石片が浮き、蔓がその下へ潜り込む。
塩崎は表情を変えず、正面からの攻撃を続けた。
◇
前方から迫る蔓の勢いが増した。
一本一本が太くなり、先ほどよりも密集している。
「……おいおい」
一護は斬月を振るった。
まとめて斬り払う。
すぐに、次が来た。
右から二本。
左から三本。
正面からは、さらに太い蔓の束。
どれも斬れないわけではない。
だが、少しでも足を止めれば、次々と攻撃が押し寄せてきた。
『塩崎、攻撃の手を緩めない! 黒崎をまったく近づけさせねえぞ!』
一護は斬月を返しながら、塩崎の足元を見た。
本人はほとんど動いていない。
それだけ蔓の操作に集中しているのだろう。
正面の蔓をまとめて斬り払い、一護は一度、大きく後ろへ跳んだ。
追ってくる蔓を断ち切って着地する。
正面の攻撃が、僅かに途切れた。
その隙に踏み込もうとした、まさにそのとき。
足元から、微かな振動が伝わった。
「……?」
直後。
背後で床石が割れた。
「!」
振り返るより早く、細い蔓が何本も飛び出してくる。
一護は反射的に斬月を振るった。
最初の数本を斬り落とす。
だが、裂けた床の隙間から、次々と別の蔓が伸びてきた。
「地面の下か……!」
先ほどまで正面から迫っていた蔓が、今度は一護の退路を塞ぐ。
背後からは、床を割って現れた蔓が持ち上がっていた。
そこでようやく、塩崎の狙いが分かった。
正面からの攻撃に注意を向けさせながら、別の蔓を床下へ潜らせていたのだ。
「ちっ……!」
一護は斬月を振り下ろした。
正面の蔓が裂ける。
そこから抜けようとした瞬間、背後から伸びた蔓が横へ回り込み、開いた隙間を塞いだ。
右へ跳べば、右から蔓が持ち上がる。
左へ抜けようとすれば、別の蔓が絡みつく。
さらに頭上から、大量の蔓が降りてきた。
「どうか、お許しください」
塩崎の声が届く。
「ですが、私も負けるわけにはまいりません」
蔓が一斉に絡み合った。
一護は頭上を斬り払う。
しかし、切断した蔓が落ちる前に、別の蔓が隙間へ滑り込んでくる。
足元からも蔓が伸びた。
周囲を囲う壁は、すでに何重にもなっている。
大きく踏み込もうとしたところで、その退路まで塞がれた。
最後に残った頭上の光が、幾重にも重なる蔓に遮られる。
『な、何だァァ!? 黒崎の背後から蔓が出現! そのまま一気に包み込んじまったァ!!』
リングの中央に、巨大な茨のドームが出来上がっていた。
幾重にも編み込まれた蔓が丸い檻を形作り、さらに外側から新しい蔓が巻きついていく。
無数の棘が並ぶその姿は、まるで茨で作られた鉄の処女だった。
『……正面の攻撃は囮か』
実況席から、相澤の低い声が流れた。
『んん? どういうことだ、イレイザーヘッド!』
『黒崎の注意を引きつけている間に、別の蔓を床下へ回していたんだろう。あの数を操りながら、よく仕込んだな』
相澤はモニターへ目を向けた。
『黒崎も反応はした。だが、あの位置まで潜り込まれたら、斬るだけでは対処しきれない』
『なるほどォ! 塩崎、ただ闇雲に蔓を伸ばしてたわけじゃねえってことか!』
相澤は答えず、茨のドームを見つめた。
塩崎は胸の前で手を合わせる。
「黒崎さん」
ドームへ向かって声をかけた。
「そのまま降参していただければ、すぐに解放いたします」
返事はなかった。
ドームの外側で、蔓がさらに絡み合う。
観客席がざわめいた。
「……見えなかった」
瀬呂が身を乗り出す。
正面の蔓を斬り続けていた黒崎の背後から、突然攻撃が現れた。
切島もリングを見つめている。
ドームに隙間は見当たらない。
「これ、どうすんだ……?」
上鳴が呟いた。
緑谷は答えず、モニターへ視線を向けたままだった。
リングの上では、ミッドナイトがドームへ注意を向けている。
黒崎が降参するなら、試合は終わる。
だが、中からはまだ返事がない。
◇
「……ったく」
薄暗い檻の内側で、一護が呟いた。
周囲には、蔓がびっしりと張り巡らされていた。
足を置く場所はある。
だが、そこから一歩でも動こうとすると、別の蔓が邪魔になる。
頭上も同じだ。
大きく跳び上がる余裕はない。
「やってくれるじゃねえか」
正面からの攻撃に紛れて、背後へ蔓を回していた。
あの数を動かしながら、別の仕掛けまで用意していたらしい。
一護は斬月を持ち上げた。
目の前の蔓を斬る。
数本が落ち、壁に小さな穴が開いた。
外の光が差し込んだ。
だが、すぐに別の蔓が滑り込んできた。
穴が塞がる。
「……なるほどな」
斬月を振るえば、蔓は切れる。
それ自体に問題はない。
ただ、今の一刀は大きすぎた。
目の前の蔓を斬るには十分でも、左右や頭上へ連続して刃を返そうとすると、周囲の壁が邪魔になる。
大きく振り抜けば、別の蔓に刀身を取られる。
切った隙間を、次々に埋められてしまう。
「……なら」
一護は斬月を握り直した。
黒い刀身が、静かに形を変え始める。
一振りだった斬月の輪郭が揺らぎ、二つの刃へと分かれた。
右手には、中央に孔を持つ長刀。
左手には、石包丁を思わせる小ぶりな短刀。
長短二振りの斬月だった。
一護は両手の刀を軽く動かした。
大ぶりな一刀と違い、どちらも狭い場所で刃を返しやすい。
長刀で道を切り開き、短刀で次の蔓を払う。
「……よし」
右手の長刀が走った。
目の前の蔓が斜めに裂ける。
その隙間へ、すぐに別の蔓が伸びてきた。
今度は左手の短刀が動いた。
伸びてきた蔓を根元から切り落とす。
さらに長刀を返す。
右上から左下へ。
続けて短刀が下から跳ね上がり、足元の蔓を斬り払った。
一護の身体が、狭い空間の中で滑るように動く。
一歩踏み込み、長刀を振るう。
その刃が戻る前に、短刀が走った。
斬り開いた隙間へ入り込もうとする蔓を、次々に落としていく。
右から左へ。
斜め上から足元へ。
二振りの刃が、途切れることなく入れ替わる。
黒い刃が交差するたび、蔓が千切れて宙へ舞った。
大きく振りかぶる必要はない。
手首を返し、肩を捻り、身体の向きを僅かに変える。
その小さな動きから、次の斬撃が生まれる。
舞うように。
だが、一太刀ごとに確かな狙いがあった。
一つの隙間を広げるために、二つの刃が絶えず働いている。
「……はっ!」
長刀が壁の上部を裂いた。
そこへ差し込まれた蔓を短刀が落とす。
一護が踏み込む。
さらに二閃。
開いた隙間の奥へ、次の斬撃が届いた。
蔓の壁が崩れ始める。
切断された蔓が落ちるより早く、次の刃が走った。
一本ずつ補われていた隙間が、今度は塞がりきらない。
そして。
「――おらっ!」
長短二振りの刃が、異なる角度から同じ一点を切り開いた。
絡み合っていた蔓が、まとめて断ち切られる。
外の光が、一気に差し込んだ。
◇
「……!」
塩崎が顔を上げた。
蔓を通して、異変が伝わってくる。
先ほどまでは、一度大きく斬られるたびに、すぐ別の蔓を差し込めていた。
それが今は違った。
一本を補う前に、隣の蔓が切られる。
そちらを塞ごうとすると、さらに別の場所が裂けた。
「これは……」
ドームの表面が揺れる。
何本もの蔓が、内側から押し出されてきた。
『お、おいおい! 黒崎を閉じ込めた茨の檻が……揺れているぞォ!?』
蔓の間から、黒い刃が突き抜けた。
続けて、別の位置からもう一つ。
交差した二本の刃が、茨の壁を切り裂く。
次の瞬間。
ドームの一角が、内側から大きく崩れた。
千切れた蔓が宙を舞う。
その隙間から、一護が飛び出した。
『出たァァァ!! 黒崎、茨の檻から脱出ゥゥ!!』
一護はリングへ降り立つと、足元の蔓を避けて顔を上げた。
「ふう……」
軽く息を吐く。
塩崎が目を見開いていた。
彼女の視線は、一護の両手へ向いている。
先ほどまでの大きな一刀ではない。
長短二振りの黒い刀。
『って、ちょっと待てェ!? 刀が二本になってるじゃねえか!!』
大型モニターに、一護の姿が映し出された。
観客席から、一際大きな声が上がる。
「……は?」
瀬呂が目を丸くする。
隣の切島も、思わず身を乗り出した。
周囲の生徒たちも、モニターとリングを交互に見ている。
驚きの声が重なり、やがて歓声に変わっていった。
『イレイザーヘッド! あれは一体どういうことだ!?』
『……俺に聞くな』
『そりゃそうか!』
相澤は呆れたように息を吐いた。
だが、視線はリングから外していない。
『少なくとも、力任せに檻を壊したわけじゃないな。蔓が隙間を埋めるより先に、次々と斬り開いたんだ』
モニターには、脱出の瞬間がもう一度映し出されていた。
二振りの刃が異なる角度から走り、蔓を次々に断ち切っている。
『一刀では振り抜く空間が足りなかった。二刀に変えたことで、狭い場所でも手数を繋げられたんだろう』
『なるほどォ! 刀を二本にしただけじゃなく、使いこなせてるってわけだな!』
相澤は短く頷いた。
リングの上では、塩崎が二振りの刀を見つめていた。
「……その刀は、新たな力なのでしょうか?」
「あ?」
一護は自分の両手へ視線を落とした。
「ああ、これか」
短刀を軽く持ち直す。
「別にパワーアップって訳じゃねえぞ。ただ振りやすい形にしただけだ」
「振りやすい形……」
「さっきのじゃ、あの中だと振りにくかったからな」
一護は長刀を下ろした。
そのやり取りを実況席のモニター越しに聞いていた相澤が、僅かに眉を寄せた。
『……形を変えただけ、か』
『ん? どうした、イレイザーヘッド?』
『いや、何でもない』
相澤はマイクから顔を離した。
モニターには、何事もなかったように二振りの斬月を持つ一護が映っている。
「……二刀になるなんて話聞いてないぞ、黒崎」
個性把握テストでも、その後の授業でも、そんな説明を受けた覚えはない。
もっとも、これまでも黒崎の力については分からないことが多かった。
「後でまとめて聞かせてもらうか……」
小さく息を吐き、相澤は再びマイクへ向き直った。
リングの上では、塩崎が静かに頷いている。
「……承知いたしました」
彼女の背後で、再び蔓が持ち上がった。
「では、私も最後まで全力を尽くします」
「ああ」
一護は腰を落とした。
「来いよ」
◇
今度は塩崎が先に動いた。
正面から伸びる蔓に加え、床を這う蔓が左右へ広がる。
すでに一度、背後からの奇襲を受けている。
一護は足元へ視線を落とした。
細い蔓が床石の隙間へ潜り込もうとしている。
短刀が素早く走った。
隙間へ入る直前の蔓が断ち切られる。
それと同時に、長刀が正面の攻撃を払った。
「……!」
塩崎が目を細める。
しかし、手を止めない。
太い蔓を何本も絡み合わせ、一護の進路へ叩きつけた。
一護は横へ跳んだ。
蔓の束が地面に激突する。
砕けた石片が跳ね上がった。
その陰から、細い蔓が一護の足を狙う。
短刀が下から跳ね上がる。
蔓が千切れた。
続けて長刀が横薙ぎに走り、頭上から伸びた蔓を切り落とす。
二つの刃が、途切れずに動いた。
だが、塩崎も簡単には退かなかった。
今度は細い蔓を散らし、一護の足運びを乱そうとする。
一本を斬れば、別の一本が横から伸びる。
一護はその場で斬り払うことをやめた。
蔓の隙間を見極め、身体を滑り込ませる。
右手で進路を切り開き、左手で足元を払った。
前へ。
さらに前へ。
塩崎との距離が縮まっていく。
「……っ!」
塩崎は蔓を集め、正面に分厚い壁を作った。
先ほど一護の接近を防いだ壁だ。
だが、一護はそこへ真っ直ぐ飛び込まなかった。
壁の直前で足を踏み替える。
右へ。
蔓の壁が追うように動いた。
その瞬間、一護はさらに身体を沈め、壁の端を回り込んだ。
塩崎が振り向く。
そこへ、長刀が走った。
彼女を守ろうと伸びてきた蔓が、まとめて切り落とされる。
別の蔓が一護の腕を狙った。
短刀がそれを断ち切った。
塩崎が後退する。
しかし、一護はもう目の前だった。
「悪いな」
斬月を振り抜くのではなく、身体を半身にする。
そのまま短く踏み込んだ。
一護の肩が、塩崎の体勢を崩す。
「……!」
塩崎の足が後ろへ滑る。
蔓を地面へ伸ばし、踏み止まろうとした。
だが、そこへ一護の短刀が走った。
支えにしようとした蔓が千切れる。
塩崎はさらに一歩、後ろへ下がった。
リングの縁だった。
「っ……!」
身体が傾く。
慌てて伸ばした蔓が床を掴む。
だが、その直後、一護の長刀が蔓を断ち切った。
塩崎の両足が、リングの外へ出る。
彼女は残った蔓を地面へ伸ばし、着地の衝撃を和らげた。
そのまま場外に立つ。
一瞬の静寂。
ミッドナイトが腕を上げた。
「塩崎、場外! 勝者、黒崎一護!」
『決まったァァァ!! 最後は接近戦からの場外! 黒崎一護、塩崎の茨を突破して勝利ィィ!!』
競技場に歓声が響いた。
一護は構えを解く。
塩崎がいる方へ顔を向けた。
「大丈夫か?」
「はい。怪我はありません」
塩崎は自分の足元を確かめ、静かに顔を上げた。
それから一護へ向かって頭を下げる。
「お見事でした。私の負けです」
「いや、あの背後からの攻撃は見事に引っかかったぜ」
一護は苦笑した。
「気づくのが遅れた」
「……そう言っていただけるなら、幸いです」
塩崎の表情が僅かに和らぐ。
「ありがとうございました、黒崎さん」
「ああ。こっちこそ、ありがとな」
一護も軽く頭を下げた。
◇
観客席へ戻る途中、一護は二振りの斬月を元の一刀へ戻していた。
背中に収め、肩を一度回す。
選手通路へ入ったところで、聞き慣れた声がした。
「黒崎くん!」
顔を向けると、織姫が立っていた。
隣には拳藤もいる。
「お疲れさま!」
「ああ。ありがとな」
一護が答えると、拳藤が笑った。
「すごかったじゃん、黒崎。塩崎の蔓、あそこまで使われたら普通は身動き取れないよ」
「実際、閉じ込められちまったしな」
「それで出てくるんだから大したもんだって」
拳藤は肩をすくめた。
織姫は一護の背中にある斬月へ一度目を向けた。
けれど、何も尋ねなかった。
拳藤が織姫の肩へ手を置く。
「さて。今度は織姫の番だよ」
「うん!」
織姫は頷き、一護に向き直った。
「黒崎くん、見ててね」
「おう」
一護は頷く。
「頑張れよ、井上」
「うん。行ってきます!」
織姫は拳藤と手を合わせ、競技場へ続く通路へ向かった。
一護はその背中を見送ってから、観客席へ戻る。
◇
『さあさあさあ! 続いては第四試合だァ!!』
プレゼント・マイクの声が響き渡る。
『予備戦では青山のレーザーを防ぎ、最後は鮮やかな体術で勝利! 一年B組、井上織姫ェェ!!』
織姫がリングへ姿を現した。
客席から拍手が起こる。
『対するは! 漆黒の影を従える一年A組のダークヒーロー! 常闇踏陰エェッ!!』
反対側の入場口から、常闇が歩いてきた。
黒い鳥の頭部。
落ち着いた足取りでリングへ上がると、織姫へ向かって頭を下げる。
「井上。よい勝負を」
「うん! よろしくね、常闇くん!」
常闇のマントが揺れた。
その内側から、黒い影が顔を出す。
『よーし! 俺も頑張るぞ!』
「ふふっ。よろしくね、ダークシャドウくん」
『おう!』
常闇は軽く咳払いした。
「……試合となれば、遠慮はしない」
「私もだよ」
織姫は笑顔のまま、一歩足を引いた。
ミッドナイトが二人を見渡す。
「第四試合――始め!」
ダークシャドウが飛び出した。
『いっくぞー!』
黒い腕が、真正面から織姫へ伸びる。
「三天結盾!」
三枚の花弁が光を放った。
形成された盾に、ダークシャドウの拳がぶつかる。
鈍い音が響いた。
「……っ!」
織姫の靴底が床を擦った。
盾は破られていない。
だが、衝撃まで消えるわけではなかった。
正面から押し込まれ、彼女の身体が僅かに後退する。
「うおっ、硬い!」
ダークシャドウが腕を引く。
常闇はすぐに指示を出した。
「横へ回れ!」
「おう!」
影が大きく身体を捻り、盾の脇へ回り込む。
織姫はその動きに合わせ、盾の角度を変えた。
次の拳が光の表面を滑る。
受け止めるだけではない。
力を斜めへ逃がし、相手の勢いを逸らしていた。
『おっとォ! 井上の盾を前に、ダークシャドウも突破できない! だが常闇も攻撃の手を緩めねえぞ!』
『……耐えているだけじゃないな』
相澤が呟いた。
『おっ?』
『井上は攻撃を正面で受けていない。盾の角度を細かく変えて、衝撃を逃がしている』
リングでは、織姫がさらに一撃を受け流していた。
『常闇も正面から押し続けるつもりはないだろう』
相澤が言い終えるより早く、ダークシャドウが横へ大きく伸びた。
盾の外側。
織姫の右肩を狙う軌道だった。
「わっ!」
織姫が慌てて身体を沈める。
黒い腕が頭上を通り過ぎた。
すぐに盾を動かそうとしたが、もう一方の腕が下から迫る。
「……っ!」
織姫は横へ跳んだ。
拳が地面を叩く。
その反動で、小さな石片が跳ね上がった。
着地すると同時に、織姫が顔を上げる。
常闇は距離を保ったままだ。
ダークシャドウを前に出し、自分へ近づく道を塞いでいる。
織姫は一度、息を整えた。
正面から走り込んでも、影に止められる。
それなら。
「……よし」
織姫は盾を斜めに置き、身体を横へ滑らせた。
ダークシャドウの拳が盾へぶつかる。
角度を変えた光の面を滑り、攻撃が横へ逸れた。
その隙に、織姫が一歩踏み込む。
「!」
常闇が後退した。
ダークシャドウが素早く戻り、織姫の前へ立ちはだかる。
「そう簡単には行かせねえぞ!」
大きな腕が横薙ぎに振るわれた。
織姫は盾を移動させて受ける。
だが、今度は勢いを逃がしきれなかった。
「きゃっ!」
押し込まれた身体が後ろへ滑った。
足がリングの縁へ近づく。
もう一度同じ方向へ押されれば、そのまま場外へ出かねない。
「……!」
織姫は踏み止まり、盾を持ち上げた。
ダークシャドウがさらに押し込もうとする。
だが、織姫は正面から押し返さなかった。
盾を斜めに傾け、拳の軌道を外側へずらす。
その瞬間、身体を低くして攻撃の下へ潜り込んだ。
「っ……!」
足元で床を蹴り、リングの中央へ駆け出す。
ダークシャドウの腕が後ろから追いかけてきた。
織姫は振り返らず、盾を背後へ移動させる。
拳が光の面にぶつかった。
衝撃に肩が揺れたが、今度は足を止めない。
そのまま中央へ戻り、常闇へ向き直った。
「……危なかったぁ」
小さく息を吐く。
常闇は彼女の様子を見つめていた。
「防御は堅い。だが、いつまでも守り続けられるとは思うな」
「うん。分かってる」
織姫は頷いた。
だからこそ、守るだけでは終われない。
◇
ダークシャドウが再び前へ出る。
今度は大振りな攻撃ではなかった。
右から。
左から。
短い間隔で腕を繰り出し、織姫の動きを細かく止めていく。
盾を動かす。
攻撃を受け流す。
次の攻撃へ備える。
その繰り返しの中で、少しずつ後退させられていた。
『常闇、攻め方を変えてきたァ! 今度は細かい攻撃で井上を追い込んでいく!』
『……いい判断だ』
相澤が頷いた。
『井上の盾は強固だが、すべての方向を同時に守っているわけじゃない。そこを突いている』
『なるほど! なら井上はどうする!?』
『それは本人が考えることだ』
『冷てえな!』
相澤は答えず、リングを見下ろした。
織姫は短く息を吸った。
ダークシャドウの攻撃は、さらに続いている。
右から来る腕を盾で受け流す。
続けて左から迫ったものを、身体を捻ってかわした。
だが、次の瞬間。
「もらった!」
ダークシャドウの腕が、織姫の足元へ伸びた。
「……!」
織姫は跳んだ。
足首を掴もうとした腕が空を切る。
しかし、空中へ逃れた織姫の身体へ、別の腕が迫っていた。
「逃がすな!」
常闇が叫ぶ。
「三天結盾!」
盾が織姫の前へ滑り込んだ。
黒い拳が光の面を叩く。
「くっ……!」
空中で受けた衝撃に、身体が大きく弾かれた。
織姫は着地しようと足を伸ばす。
だが、すでにリングの縁が近い。
足先が床を捉えた瞬間、身体が外側へ傾いた。
「……っ!」
織姫は両腕を広げ、何とか踏み止まる。
爪先のすぐ先は、場外だった。
観客席から息を呑む声が上がった。
「危ねえ……!」
拳藤が思わず身を乗り出す。
小森も両手を胸の前で握っていた。
「織姫ちゃん……」
織姫は息を整え、リングの中央へ目を向けた。
常闇は追撃を急がなかった。
ダークシャドウを前方へ置き、自分の位置を守っている。
近づこうとすれば止められる。
距離を取れば、長い腕が追ってくる。
厄介なのは、その攻撃範囲だけではなかった。
常闇自身が、織姫の動きをよく見ている。
盾を置いた方向。
逃げようとする足。
そして、こちらが次に動きたくなる場所。
そのすべてを使って、少しずつリングの外へ追いやろうとしていた。
「……だったら」
織姫は床へ目を落とした。
先ほどの攻撃で、いくつか細い亀裂ができている。
常闇は、その少し向こう側にいた。
織姫は口元を引き締める。
「椿鬼!」
一枚の花弁が飛んだ。
常闇が顔を上げる。
「……!」
ダークシャドウが咄嗟に前へ出た。
だが、椿鬼が向かったのは常闇ではなかった。
リングの床だ。
鋭い軌跡が床を走り、細い溝が刻まれる。
砕けた石片が跳ねた。
「足場を……!」
常闇が踏み出しかけた足を止めた。
織姫は、その一瞬を逃さず前へ出た。
盾を斜めに構え、ダークシャドウの右腕を受け流す。
さらに一歩。
常闇との距離が縮まった。
「ダークシャドウ、戻れ!」
「おう!」
影が身体を捻り、主人の前へ戻る。
織姫は盾を動かし、その進路へ差し込んだ。
黒い腕が光の面へぶつかる。
「くっ……!」
その隙に、織姫は常闇へ腕を伸ばした。
届く。
そう思った瞬間。
「甘い!」
常闇が身体を引いた。
ダークシャドウのもう一方の腕が、織姫の横から伸びる。
「……っ!」
織姫は咄嗟に身を捻った。
掴もうとした腕が空を切る。
そのまま後ろへ跳んだところへ、ダークシャドウの拳が追ってきた。
盾を差し込む。
衝撃で、身体が再び滑った。
今度は場外まで押されなかったが、常闇との距離は元に戻ってしまった。
「はあっ……はあっ……」
織姫は肩で息をした。
常闇も短く息を吐いている。
「……今のは危なかった」
「おう。あとちょっとだったな!」
ダークシャドウが言う。
常闇は頷いた。
「だが、同じ手は通じん」
織姫は顔を上げた。
「うん。そうだね」
明るく答えたものの、次に同じように踏み込めば、再び迎撃されるだろう。
相手も考えている。
こちらの手を見て、その場で対応を変えてくる。
織姫は両手を軽く握り直した。
拳藤との組み手で、何度も言われたことがある。
技を仕掛けることばかり考えるな。
相手がどう動きたくなるかを見ろ、と。
その言葉を思い出しながら、織姫は常闇の足元へ目を向けた。
◇
次に動いたのは、常闇だった。
「ダークシャドウ。上から押さえろ」
「了解!」
影が大きく伸び、織姫の頭上へ回り込む。
織姫は盾を持ち上げた。
直後、黒い腕が光の面を叩く。
「くっ……!」
足が床を擦る。
だが、それだけでは終わらなかった。
ダークシャドウのもう一方の腕が、盾の下から伸びてくる。
織姫は咄嗟に足を引いた。
伸びてきた腕が空を切る。
しかし、その回避先へ常闇が一歩動いていた。
「そこだ!」
ダークシャドウが再び腕を伸ばす。
「……っ!」
織姫は盾を斜めへ動かした。
衝撃を受け流し、横へ踏み出す。
だが、今度は常闇が彼女の正面へ回り込んできた。
ダークシャドウの攻撃だけではない。
常闇自身も動くことで、織姫の逃げ道を狭めていた。
『おおっと! 常闇、とうとう本人まで前へ出てきた! 井上を逃がさねえつもりか!』
相澤の目が細くなる。
『……悪くない』
ダークシャドウに攻撃を任せきりにせず、自分の位置取りでも相手を追い込んでいる。
相手が防御に優れているなら、それを崩すために動きを制限する。
常闇の判断は間違っていなかった。
だが、織姫も足を止めなかった。
ダークシャドウの攻撃を盾で受け流し、その勢いを利用して身体を横へ流す。
床を蹴る。
常闇の横へ抜けるように走った。
「!」
常闇が振り向く。
ダークシャドウもすぐに追いかけた。
織姫はそのまま走り続ける。
右へ。
そして、左へ。
盾の向きを変えながら、相手の攻撃を受け流していく。
常闇は織姫を追って一歩踏み出した。
その足が、先ほど椿鬼によって刻まれた溝の近くへ下りる。
常闇はすぐに気づき、足の位置を変えた。
転ぶほど深い溝ではない。
それでも、踏み込む場所を一瞬選ばなければならなかった。
織姫は、その動きを見ていた。
常闇が溝を避けたことで、重心が僅かに外側へ移る。
だが、まだ遠い。
ここで飛び込んでも、ダークシャドウに止められる。
織姫は一度、後ろへ下がった。
「……?」
常闇が目を細める。
ダークシャドウも攻撃を止め、次の動きへ備えた。
「井上。何を狙っている?」
「……どうかな?」
織姫は少しだけ笑った。
常闇は答えず、姿勢を整えた。
その表情から、警戒が消えることはなかった。
◇
織姫が動いた。
今度は、常闇の正面へ真っ直ぐに走る。
「ダークシャドウ!」
「おう!」
黒い腕が迫る。
織姫は盾を出し、拳を受け流す。
続けて、もう一方の腕が下から伸びてきた。
織姫はそれを跳んでかわした。
「また跳ぶか!」
常闇が叫ぶ。
先ほどと同じように、空中の織姫へ追撃を向ける。
ダークシャドウの拳が持ち上がった。
「三天結盾!」
盾が織姫の前へ移動する。
拳が光の面へぶつかった。
だが、今度の盾は、先ほどよりも大きく傾けられていた。
織姫の身体が、衝撃を受けて横へ流れる。
常闇の視線が追う。
織姫はその勢いのまま着地し、さらに横へ踏み込んだ。
常闇の右側。
先ほど椿鬼が溝を刻んだ場所だった。
「……っ!」
常闇が後退しようとする。
しかし、その足元には溝がある。
踏み外すほどではない。
ただ、何も考えずに足を置ける場所でもなかった。
常闇が足を横へ運ぶ。
その一瞬。
織姫が、さらに踏み込んだ。
「……!」
ダークシャドウが戻ろうとする。
「常闇!」
黒い腕が伸びた。
織姫は盾を斜めに移動させ、その進路を阻む。
ダークシャドウはすぐに盾の脇へ回り込んだ。
だが、その僅かな時間に、織姫は常闇との距離を詰めていた。
「……くっ!」
常闇が腕を上げる。
織姫はその腕を取った。
常闇は反射的に身を引く。
だが、その動きを待っていた。
引かれる方向へ逆らわず、一歩踏み込む。
相手の重心が移ったところへ、自分の身体を入れる。
拳藤と繰り返した組み手。
たつきと積み重ねた練習。
何度も失敗し、何度もやり直してきた動きだった。
「えいっ!」
織姫が腰を回した。
常闇の身体が浮く。
「なっ……!」
体勢を崩した常闇が、リングの外へ投げ出された。
「ダークシャドウ!」
「おうっ!」
黒い影が素早く伸び、主人を受け止める。
だが、そのまま戻るには勢いがつきすぎていた。
ダークシャドウは常闇を抱えるようにして着地する。
そこは、すでにリングの外だった。
一拍遅れて、ミッドナイトの声が響く。
「常闇、場外! 勝者、井上織姫!」
『決まったァァァ!! 最後は常闇本人へ接近! 鮮やかな投げで場外へ! 井上織姫、見事な勝利ィィ!!』
競技場を大きな拍手が包んだ。
織姫は大きく息を吐いた。
「はあっ……はあっ……!」
膝に手を置き、呼吸を整える。
何度も攻撃を受け流し、走り回ったせいで、足が少し重かった。
それでも、顔を上げる。
「常闇くん!」
リングの外へ駆け寄りかけたところで、常闇が立ち上がった。
ダークシャドウに支えられ、しっかりと地面へ足をつけている。
「……見事だ、井上」
「大丈夫? 怪我してない?」
「ああ。問題ない」
「いやー、やられた!」
ダークシャドウが悔しそうに声を上げた。
「あとちょっとだったのにな!」
常闇は静かに頷く。
「……最後の足運びを読まれていたか」
織姫は少し照れたように笑った。
「うん。あの場所なら、避けてくれるかなって」
「……なるほど」
常闇は自分の足元を振り返った。
リングには、先ほど椿鬼が刻んだ細い溝が残っている。
攻撃そのものは大したものではなかった。
だが、あの場所へ踏み込むとき、確かに一瞬だけ動きを変えた。
その一瞬を、織姫は逃さなかったのだ。
「俺の負けだ」
常闇は頭を下げた。
「次は、そう簡単には近づかせん」
「うん!」
織姫も笑顔で頷いた。
「私も、もっと頑張るね!」
ダークシャドウが大きく頷く。
「次は負けねえぞー!」
「ふふっ。うん!」
◇
『いやー、最後は見事な投げだったなァ! イレイザーヘッド!』
『……ああ』
相澤はリングを見下ろした。
『常闇の判断も悪くなかった。攻撃の間合いを保ち、井上を場外寸前まで追い込んでいた』
『だよなァ! あのまま行けば常闇の勝ちかと思ったぜ!』
『だが、井上はその攻撃を受けながら、近づくための準備をしていた』
相澤の視線が、リングに残る細い溝へ向く。
『足場を変えたのも、その一つだ。常闇が避ける位置を読んで、最後の踏み込みに繋げた』
『なるほどォ! あの床を切った攻撃も、無駄じゃなかったわけだ!』
『無駄な動きは、ほとんどなかったな』
相澤は短く答えた。
常闇の敗北は、決して一方的なものではなかった。
むしろ、あの防御を相手にここまで攻め込めたのは評価すべきことだ。
だからこそ、最後に生まれた僅かな隙が勝敗を分けた。
『……どちらも、よく考えて戦っていた』
そう締めくくると、相澤は次の試合表へ目を向けた。
◇
「織姫ーっ!」
拳藤の声が客席から飛んだ。
「やったじゃん!」
織姫が顔を上げる。
拳藤が大きく手を振っていた。
隣の小森も、嬉しそうに身を乗り出している。
「おめでとう、井上ちゃん!」
柳も静かに拍手を送っていた。
織姫は三人へ向かって、大きく手を振り返した。
「ありがとーっ!」
少し離れた観客席では、一護がリングを見下ろしていた。
常闇の影を防ぎながら、最後は自分の足で距離を詰めた。
前の世界で知っていた井上とは、戦い方がまるで違う。
けれど、考えてみれば当然だった。
あれから十五年。
自分が剣を振り続けてきたように、井上もこの世界で、自分の知らない時間を積み重ねてきたのだ。
「……すげえな、井上」
一護の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
大型モニターが切り替わる。
第四試合までの勝者が表示され、次の対戦枠へと線が伸びた。
黒崎一護。
井上織姫。
二人の名前が、同じ枠の両側に並ぶ。
『さあ! これでベスト八への進出者がまた二人決定だァ!!』
プレゼント・マイクの声が競技場を包む。
『次の勝者同士の対戦も楽しみだが、まだまだ一回戦は続くぜ!』
画面には、次の対戦カードが映し出された。
麗日お茶子。
爆豪勝己。
観客席のあちこちから、期待に満ちた声が上がる。
一護は一度だけモニターへ目を向けた。
井上の名前を確かめ、それからリングへ視線を戻す。
選手通路では、織姫も同じ表示を見上げていた。
「……黒崎くんと、か」
小さく呟く。
その表情には、先ほど勝利したときとは違う緊張が浮かんでいた。
けれど、目を逸らすことはなかった。
次の試合へ向け、競技場の歓声が再び大きくなる。