『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

26 / 27
第26話 双つの斬月

 

開始の合図と同時に、塩崎の髪が動いた。

 

 背中に流れていた蔓が持ち上がり、幾本もの先端が一護へ向けられる。

 

「参ります」

 

 穏やかな声とともに、蔓が伸びた。

 

 一護は肩に担いでいた斬月を振るう。

 

 正面から迫った三本をまとめて断ち切り、遅れて伸びてきた一本を身体を捻ってかわした。

 

 蔓が背後の床を叩く。

 

 硬い音が響くと同時に、左右から別の蔓が迫ってきた。

 

「っと」

 

 一護は地面を蹴った。

 

 足元を狙った蔓を跳び越え、空中で斬月を振るう。

 

 黒い刀身が弧を描き、蔓をまとめて断ち切った。

 

『おおっとォ! 塩崎、開始早々から猛攻! だが黒崎も次々に斬り払っていくゥ!』

 

 着地した一護が前へ出る。

 

 塩崎との距離は、まだ十数メートル。

 

 その間を埋めるように、再び蔓が伸びてきた。

 

 一護は斬月を振り下ろす。

 

 一本、続けて二本。

 

 地面を這って足首へ迫ったものは、踏み込みながら切り落とした。

 

 だが、蔓の数は減らない。

 

「……切ってもすぐ出てくるのか」

 

 断ち切ったばかりの蔓を補うように、新しい蔓が伸びていた。

 

 瀬呂のテープとは違う。

 

 切断したところで、攻撃を止められるわけではないらしい。

 

 一護は斬月を持ち直した。

 

 何度でも伸びてくるのなら、いくら斬ってもきりがない。

 

 狙うべきは蔓そのものではなく、それを操っている塩崎だ。

 

 そう判断すると、迷わず地面を蹴った。

 

「!」

 

 塩崎の正面で、何本もの蔓が絡み合った。

 

 分厚い壁が立ち上がる。

 

 一護は足を止めず、斬月を振り下ろした。

 

 黒い刃が蔓の壁を裂く。

 

 その隙間から別の蔓が突き出された。

 

 一護は上体を傾けてかわし、斬月を返して切り落とす。

 

 さらに一歩。

 

 距離が縮まる。

 

「……さすがですね」

 

 塩崎が静かに呟いた。

 

 彼女の背中では、蔓が幾重にも重なって揺れている。

 

 その陰から、細い蔓の束がするりと下りた。

 

 一護へ向けて伸ばしたものではない。

 

 背後に落とした蔓は塩崎の足元を伝い、床石の継ぎ目へ入り込んでいく。

 

 先端が隙間を押し広げた。

 

 小さな石片が浮き、蔓がその下へ潜り込む。

 

 塩崎は表情を変えず、正面からの攻撃を続けた。

 

     ◇

 

 前方から迫る蔓の勢いが増した。

 

 一本一本が太くなり、先ほどよりも密集している。

 

「……おいおい」

 

 一護は斬月を振るった。

 

 まとめて斬り払う。

 

 すぐに、次が来た。

 

 右から二本。

 

 左から三本。

 

 正面からは、さらに太い蔓の束。

 

 どれも斬れないわけではない。

 

 だが、少しでも足を止めれば、次々と攻撃が押し寄せてきた。

 

『塩崎、攻撃の手を緩めない! 黒崎をまったく近づけさせねえぞ!』

 

 一護は斬月を返しながら、塩崎の足元を見た。

 

 本人はほとんど動いていない。

 

 それだけ蔓の操作に集中しているのだろう。

 

 正面の蔓をまとめて斬り払い、一護は一度、大きく後ろへ跳んだ。

 

 追ってくる蔓を断ち切って着地する。

 

 正面の攻撃が、僅かに途切れた。

 

 その隙に踏み込もうとした、まさにそのとき。

 

 足元から、微かな振動が伝わった。

 

「……?」

 

 直後。

 

 背後で床石が割れた。

 

「!」

 

 振り返るより早く、細い蔓が何本も飛び出してくる。

 

 一護は反射的に斬月を振るった。

 

 最初の数本を斬り落とす。

 

 だが、裂けた床の隙間から、次々と別の蔓が伸びてきた。

 

「地面の下か……!」

 

 先ほどまで正面から迫っていた蔓が、今度は一護の退路を塞ぐ。

 

 背後からは、床を割って現れた蔓が持ち上がっていた。

 

 そこでようやく、塩崎の狙いが分かった。

 

 正面からの攻撃に注意を向けさせながら、別の蔓を床下へ潜らせていたのだ。

 

「ちっ……!」

 

 一護は斬月を振り下ろした。

 

 正面の蔓が裂ける。

 

 そこから抜けようとした瞬間、背後から伸びた蔓が横へ回り込み、開いた隙間を塞いだ。

 

 右へ跳べば、右から蔓が持ち上がる。

 

 左へ抜けようとすれば、別の蔓が絡みつく。

 

 さらに頭上から、大量の蔓が降りてきた。

 

「どうか、お許しください」

 

 塩崎の声が届く。

 

「ですが、私も負けるわけにはまいりません」

 

 蔓が一斉に絡み合った。

 

 一護は頭上を斬り払う。

 

 しかし、切断した蔓が落ちる前に、別の蔓が隙間へ滑り込んでくる。

 

 足元からも蔓が伸びた。

 

 周囲を囲う壁は、すでに何重にもなっている。

 

 大きく踏み込もうとしたところで、その退路まで塞がれた。

 

 最後に残った頭上の光が、幾重にも重なる蔓に遮られる。

 

『な、何だァァ!? 黒崎の背後から蔓が出現! そのまま一気に包み込んじまったァ!!』

 

 リングの中央に、巨大な茨のドームが出来上がっていた。

 

 幾重にも編み込まれた蔓が丸い檻を形作り、さらに外側から新しい蔓が巻きついていく。

 

 無数の棘が並ぶその姿は、まるで茨で作られた鉄の処女だった。

 

『……正面の攻撃は囮か』

 

 実況席から、相澤の低い声が流れた。

 

『んん? どういうことだ、イレイザーヘッド!』

 

『黒崎の注意を引きつけている間に、別の蔓を床下へ回していたんだろう。あの数を操りながら、よく仕込んだな』

 

 相澤はモニターへ目を向けた。

 

『黒崎も反応はした。だが、あの位置まで潜り込まれたら、斬るだけでは対処しきれない』

 

『なるほどォ! 塩崎、ただ闇雲に蔓を伸ばしてたわけじゃねえってことか!』

 

 相澤は答えず、茨のドームを見つめた。

 

 塩崎は胸の前で手を合わせる。

 

「黒崎さん」

 

 ドームへ向かって声をかけた。

 

「そのまま降参していただければ、すぐに解放いたします」

 

 返事はなかった。

 

 ドームの外側で、蔓がさらに絡み合う。

 

 観客席がざわめいた。

 

「……見えなかった」

 

 瀬呂が身を乗り出す。

 

 正面の蔓を斬り続けていた黒崎の背後から、突然攻撃が現れた。

 

 切島もリングを見つめている。

 

 ドームに隙間は見当たらない。

 

「これ、どうすんだ……?」

 

 上鳴が呟いた。

 

 緑谷は答えず、モニターへ視線を向けたままだった。

 

 リングの上では、ミッドナイトがドームへ注意を向けている。

 

 黒崎が降参するなら、試合は終わる。

 

 だが、中からはまだ返事がない。

 

     ◇

 

「……ったく」

 

 薄暗い檻の内側で、一護が呟いた。

 

 周囲には、蔓がびっしりと張り巡らされていた。

 

 足を置く場所はある。

 

 だが、そこから一歩でも動こうとすると、別の蔓が邪魔になる。

 

 頭上も同じだ。

 

 大きく跳び上がる余裕はない。

 

「やってくれるじゃねえか」

 

 正面からの攻撃に紛れて、背後へ蔓を回していた。

 

 あの数を動かしながら、別の仕掛けまで用意していたらしい。

 

 一護は斬月を持ち上げた。

 

 目の前の蔓を斬る。

 

 数本が落ち、壁に小さな穴が開いた。

 

 外の光が差し込んだ。

 

 だが、すぐに別の蔓が滑り込んできた。

 

 穴が塞がる。

 

「……なるほどな」

 

 斬月を振るえば、蔓は切れる。

 

 それ自体に問題はない。

 

 ただ、今の一刀は大きすぎた。

 

 目の前の蔓を斬るには十分でも、左右や頭上へ連続して刃を返そうとすると、周囲の壁が邪魔になる。

 

 大きく振り抜けば、別の蔓に刀身を取られる。

 

 切った隙間を、次々に埋められてしまう。

 

「……なら」

 

 一護は斬月を握り直した。

 

 黒い刀身が、静かに形を変え始める。

 

 一振りだった斬月の輪郭が揺らぎ、二つの刃へと分かれた。

 

 右手には、中央に孔を持つ長刀。

 

 左手には、石包丁を思わせる小ぶりな短刀。

 

 長短二振りの斬月だった。

 

 一護は両手の刀を軽く動かした。

 

 大ぶりな一刀と違い、どちらも狭い場所で刃を返しやすい。

 

 長刀で道を切り開き、短刀で次の蔓を払う。

 

「……よし」

 

 右手の長刀が走った。

 

 目の前の蔓が斜めに裂ける。

 

 その隙間へ、すぐに別の蔓が伸びてきた。

 

 今度は左手の短刀が動いた。

 

 伸びてきた蔓を根元から切り落とす。

 

 さらに長刀を返す。

 

 右上から左下へ。

 

 続けて短刀が下から跳ね上がり、足元の蔓を斬り払った。

 

 一護の身体が、狭い空間の中で滑るように動く。

 

 一歩踏み込み、長刀を振るう。

 

 その刃が戻る前に、短刀が走った。

 

 斬り開いた隙間へ入り込もうとする蔓を、次々に落としていく。

 

 右から左へ。

 

 斜め上から足元へ。

 

 二振りの刃が、途切れることなく入れ替わる。

 

 黒い刃が交差するたび、蔓が千切れて宙へ舞った。

 

 大きく振りかぶる必要はない。

 

 手首を返し、肩を捻り、身体の向きを僅かに変える。

 

 その小さな動きから、次の斬撃が生まれる。

 

 舞うように。

 

 だが、一太刀ごとに確かな狙いがあった。

 

 一つの隙間を広げるために、二つの刃が絶えず働いている。

 

「……はっ!」

 

 長刀が壁の上部を裂いた。

 

 そこへ差し込まれた蔓を短刀が落とす。

 

 一護が踏み込む。

 

 さらに二閃。

 

 開いた隙間の奥へ、次の斬撃が届いた。

 

 蔓の壁が崩れ始める。

 

 切断された蔓が落ちるより早く、次の刃が走った。

 

 一本ずつ補われていた隙間が、今度は塞がりきらない。

 

 そして。

 

「――おらっ!」

 

 長短二振りの刃が、異なる角度から同じ一点を切り開いた。

 

 絡み合っていた蔓が、まとめて断ち切られる。

 

 外の光が、一気に差し込んだ。

 

     ◇

 

「……!」

 

 塩崎が顔を上げた。

 

 蔓を通して、異変が伝わってくる。

 

 先ほどまでは、一度大きく斬られるたびに、すぐ別の蔓を差し込めていた。

 

 それが今は違った。

 

 一本を補う前に、隣の蔓が切られる。

 

 そちらを塞ごうとすると、さらに別の場所が裂けた。

 

「これは……」

 

 ドームの表面が揺れる。

 

 何本もの蔓が、内側から押し出されてきた。

 

『お、おいおい! 黒崎を閉じ込めた茨の檻が……揺れているぞォ!?』

 

 蔓の間から、黒い刃が突き抜けた。

 

 続けて、別の位置からもう一つ。

 

 交差した二本の刃が、茨の壁を切り裂く。

 

 次の瞬間。

 

 ドームの一角が、内側から大きく崩れた。

 

 千切れた蔓が宙を舞う。

 

 その隙間から、一護が飛び出した。

 

『出たァァァ!! 黒崎、茨の檻から脱出ゥゥ!!』

 

 一護はリングへ降り立つと、足元の蔓を避けて顔を上げた。

 

「ふう……」

 

 軽く息を吐く。

 

 塩崎が目を見開いていた。

 

 彼女の視線は、一護の両手へ向いている。

 

 先ほどまでの大きな一刀ではない。

 

 長短二振りの黒い刀。

 

『って、ちょっと待てェ!? 刀が二本になってるじゃねえか!!』

 

 大型モニターに、一護の姿が映し出された。

 

 観客席から、一際大きな声が上がる。

 

「……は?」

 

 瀬呂が目を丸くする。

 

 隣の切島も、思わず身を乗り出した。

 

 周囲の生徒たちも、モニターとリングを交互に見ている。

 

 驚きの声が重なり、やがて歓声に変わっていった。

 

『イレイザーヘッド! あれは一体どういうことだ!?』

 

『……俺に聞くな』

 

『そりゃそうか!』

 

 相澤は呆れたように息を吐いた。

 

 だが、視線はリングから外していない。

 

『少なくとも、力任せに檻を壊したわけじゃないな。蔓が隙間を埋めるより先に、次々と斬り開いたんだ』

 

 モニターには、脱出の瞬間がもう一度映し出されていた。

 

 二振りの刃が異なる角度から走り、蔓を次々に断ち切っている。

 

『一刀では振り抜く空間が足りなかった。二刀に変えたことで、狭い場所でも手数を繋げられたんだろう』

 

『なるほどォ! 刀を二本にしただけじゃなく、使いこなせてるってわけだな!』

 

 相澤は短く頷いた。

 

 リングの上では、塩崎が二振りの刀を見つめていた。

 

「……その刀は、新たな力なのでしょうか?」

 

「あ?」

 

 一護は自分の両手へ視線を落とした。

 

「ああ、これか」

 

 短刀を軽く持ち直す。

 

「別にパワーアップって訳じゃねえぞ。ただ振りやすい形にしただけだ」

 

「振りやすい形……」

 

「さっきのじゃ、あの中だと振りにくかったからな」

 

 一護は長刀を下ろした。

 

 そのやり取りを実況席のモニター越しに聞いていた相澤が、僅かに眉を寄せた。

 

『……形を変えただけ、か』

 

『ん? どうした、イレイザーヘッド?』

 

『いや、何でもない』

 

 相澤はマイクから顔を離した。

 

 モニターには、何事もなかったように二振りの斬月を持つ一護が映っている。

 

「……二刀になるなんて話聞いてないぞ、黒崎」

 

 個性把握テストでも、その後の授業でも、そんな説明を受けた覚えはない。

 

 もっとも、これまでも黒崎の力については分からないことが多かった。

 

「後でまとめて聞かせてもらうか……」

 

 小さく息を吐き、相澤は再びマイクへ向き直った。

 

 リングの上では、塩崎が静かに頷いている。

 

「……承知いたしました」

 

 彼女の背後で、再び蔓が持ち上がった。

 

「では、私も最後まで全力を尽くします」

 

「ああ」

 

 一護は腰を落とした。

 

「来いよ」

 

     ◇

 

 今度は塩崎が先に動いた。

 

 正面から伸びる蔓に加え、床を這う蔓が左右へ広がる。

 

 すでに一度、背後からの奇襲を受けている。

 

 一護は足元へ視線を落とした。

 

 細い蔓が床石の隙間へ潜り込もうとしている。

 

 短刀が素早く走った。

 

 隙間へ入る直前の蔓が断ち切られる。

 

 それと同時に、長刀が正面の攻撃を払った。

 

「……!」

 

 塩崎が目を細める。

 

 しかし、手を止めない。

 

 太い蔓を何本も絡み合わせ、一護の進路へ叩きつけた。

 

 一護は横へ跳んだ。

 

 蔓の束が地面に激突する。

 

 砕けた石片が跳ね上がった。

 

 その陰から、細い蔓が一護の足を狙う。

 

 短刀が下から跳ね上がる。

 

 蔓が千切れた。

 

 続けて長刀が横薙ぎに走り、頭上から伸びた蔓を切り落とす。

 

 二つの刃が、途切れずに動いた。

 

 だが、塩崎も簡単には退かなかった。

 

 今度は細い蔓を散らし、一護の足運びを乱そうとする。

 

 一本を斬れば、別の一本が横から伸びる。

 

 一護はその場で斬り払うことをやめた。

 

 蔓の隙間を見極め、身体を滑り込ませる。

 

 右手で進路を切り開き、左手で足元を払った。

 

 前へ。

 

 さらに前へ。

 

 塩崎との距離が縮まっていく。

 

「……っ!」

 

 塩崎は蔓を集め、正面に分厚い壁を作った。

 

 先ほど一護の接近を防いだ壁だ。

 

 だが、一護はそこへ真っ直ぐ飛び込まなかった。

 

 壁の直前で足を踏み替える。

 

 右へ。

 

 蔓の壁が追うように動いた。

 

 その瞬間、一護はさらに身体を沈め、壁の端を回り込んだ。

 

 塩崎が振り向く。

 

 そこへ、長刀が走った。

 

 彼女を守ろうと伸びてきた蔓が、まとめて切り落とされる。

 

 別の蔓が一護の腕を狙った。

 

 短刀がそれを断ち切った。

 

 塩崎が後退する。

 

 しかし、一護はもう目の前だった。

 

「悪いな」

 

 斬月を振り抜くのではなく、身体を半身にする。

 

 そのまま短く踏み込んだ。

 

 一護の肩が、塩崎の体勢を崩す。

 

「……!」

 

 塩崎の足が後ろへ滑る。

 

 蔓を地面へ伸ばし、踏み止まろうとした。

 

 だが、そこへ一護の短刀が走った。

 

 支えにしようとした蔓が千切れる。

 

 塩崎はさらに一歩、後ろへ下がった。

 

 リングの縁だった。

 

「っ……!」

 

 身体が傾く。

 

 慌てて伸ばした蔓が床を掴む。

 

 だが、その直後、一護の長刀が蔓を断ち切った。

 

 塩崎の両足が、リングの外へ出る。

 

 彼女は残った蔓を地面へ伸ばし、着地の衝撃を和らげた。

 

 そのまま場外に立つ。

 

 一瞬の静寂。

 

 ミッドナイトが腕を上げた。

 

「塩崎、場外! 勝者、黒崎一護!」

 

『決まったァァァ!! 最後は接近戦からの場外! 黒崎一護、塩崎の茨を突破して勝利ィィ!!』

 

 競技場に歓声が響いた。

 

 一護は構えを解く。

 

 塩崎がいる方へ顔を向けた。

 

「大丈夫か?」

 

「はい。怪我はありません」

 

 塩崎は自分の足元を確かめ、静かに顔を上げた。

 

 それから一護へ向かって頭を下げる。

 

「お見事でした。私の負けです」

 

「いや、あの背後からの攻撃は見事に引っかかったぜ」

 

 一護は苦笑した。

 

「気づくのが遅れた」

 

「……そう言っていただけるなら、幸いです」

 

 塩崎の表情が僅かに和らぐ。

 

「ありがとうございました、黒崎さん」

 

「ああ。こっちこそ、ありがとな」

 

 一護も軽く頭を下げた。

 

     ◇

 

 観客席へ戻る途中、一護は二振りの斬月を元の一刀へ戻していた。

 

 背中に収め、肩を一度回す。

 

 選手通路へ入ったところで、聞き慣れた声がした。

 

「黒崎くん!」

 

 顔を向けると、織姫が立っていた。

 

 隣には拳藤もいる。

 

「お疲れさま!」

 

「ああ。ありがとな」

 

 一護が答えると、拳藤が笑った。

 

「すごかったじゃん、黒崎。塩崎の蔓、あそこまで使われたら普通は身動き取れないよ」

 

「実際、閉じ込められちまったしな」

 

「それで出てくるんだから大したもんだって」

 

 拳藤は肩をすくめた。

 

 織姫は一護の背中にある斬月へ一度目を向けた。

 

 けれど、何も尋ねなかった。

 

 拳藤が織姫の肩へ手を置く。

 

「さて。今度は織姫の番だよ」

 

「うん!」

 

 織姫は頷き、一護に向き直った。

 

「黒崎くん、見ててね」

 

「おう」

 

 一護は頷く。

 

「頑張れよ、井上」

 

「うん。行ってきます!」

 

 織姫は拳藤と手を合わせ、競技場へ続く通路へ向かった。

 

 一護はその背中を見送ってから、観客席へ戻る。

 

     ◇

 

『さあさあさあ! 続いては第四試合だァ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が響き渡る。

 

『予備戦では青山のレーザーを防ぎ、最後は鮮やかな体術で勝利! 一年B組、井上織姫ェェ!!』

 

 織姫がリングへ姿を現した。

 

 客席から拍手が起こる。

 

『対するは! 漆黒の影を従える一年A組のダークヒーロー! 常闇踏陰エェッ!!』

 

 反対側の入場口から、常闇が歩いてきた。

 

 黒い鳥の頭部。

 

 落ち着いた足取りでリングへ上がると、織姫へ向かって頭を下げる。

 

「井上。よい勝負を」

 

「うん! よろしくね、常闇くん!」

 

 常闇のマントが揺れた。

 

 その内側から、黒い影が顔を出す。

 

『よーし! 俺も頑張るぞ!』

 

「ふふっ。よろしくね、ダークシャドウくん」

 

『おう!』

 

 常闇は軽く咳払いした。

 

「……試合となれば、遠慮はしない」

 

「私もだよ」

 

 織姫は笑顔のまま、一歩足を引いた。

 

 ミッドナイトが二人を見渡す。

 

「第四試合――始め!」

 

 ダークシャドウが飛び出した。

 

『いっくぞー!』

 

 黒い腕が、真正面から織姫へ伸びる。

 

「三天結盾!」

 

 三枚の花弁が光を放った。

 

 形成された盾に、ダークシャドウの拳がぶつかる。

 

 鈍い音が響いた。

 

「……っ!」

 

 織姫の靴底が床を擦った。

 

 盾は破られていない。

 

 だが、衝撃まで消えるわけではなかった。

 

 正面から押し込まれ、彼女の身体が僅かに後退する。

 

「うおっ、硬い!」

 

 ダークシャドウが腕を引く。

 

 常闇はすぐに指示を出した。

 

「横へ回れ!」

 

「おう!」

 

 影が大きく身体を捻り、盾の脇へ回り込む。

 

 織姫はその動きに合わせ、盾の角度を変えた。

 

 次の拳が光の表面を滑る。

 

 受け止めるだけではない。

 

 力を斜めへ逃がし、相手の勢いを逸らしていた。

 

『おっとォ! 井上の盾を前に、ダークシャドウも突破できない! だが常闇も攻撃の手を緩めねえぞ!』

 

『……耐えているだけじゃないな』

 

 相澤が呟いた。

 

『おっ?』

 

『井上は攻撃を正面で受けていない。盾の角度を細かく変えて、衝撃を逃がしている』

 

 リングでは、織姫がさらに一撃を受け流していた。

 

『常闇も正面から押し続けるつもりはないだろう』

 

 相澤が言い終えるより早く、ダークシャドウが横へ大きく伸びた。

 

 盾の外側。

 

 織姫の右肩を狙う軌道だった。

 

「わっ!」

 

 織姫が慌てて身体を沈める。

 

 黒い腕が頭上を通り過ぎた。

 

 すぐに盾を動かそうとしたが、もう一方の腕が下から迫る。

 

「……っ!」

 

 織姫は横へ跳んだ。

 

 拳が地面を叩く。

 

 その反動で、小さな石片が跳ね上がった。

 

 着地すると同時に、織姫が顔を上げる。

 

 常闇は距離を保ったままだ。

 

 ダークシャドウを前に出し、自分へ近づく道を塞いでいる。

 

 織姫は一度、息を整えた。

 

 正面から走り込んでも、影に止められる。

 

 それなら。

 

「……よし」

 

 織姫は盾を斜めに置き、身体を横へ滑らせた。

 

 ダークシャドウの拳が盾へぶつかる。

 

 角度を変えた光の面を滑り、攻撃が横へ逸れた。

 

 その隙に、織姫が一歩踏み込む。

 

「!」

 

 常闇が後退した。

 

 ダークシャドウが素早く戻り、織姫の前へ立ちはだかる。

 

「そう簡単には行かせねえぞ!」

 

 大きな腕が横薙ぎに振るわれた。

 

 織姫は盾を移動させて受ける。

 

 だが、今度は勢いを逃がしきれなかった。

 

「きゃっ!」

 

 押し込まれた身体が後ろへ滑った。

 

 足がリングの縁へ近づく。

 

 もう一度同じ方向へ押されれば、そのまま場外へ出かねない。

 

「……!」

 

 織姫は踏み止まり、盾を持ち上げた。

 

 ダークシャドウがさらに押し込もうとする。

 

 だが、織姫は正面から押し返さなかった。

 

 盾を斜めに傾け、拳の軌道を外側へずらす。

 

 その瞬間、身体を低くして攻撃の下へ潜り込んだ。

 

「っ……!」

 

 足元で床を蹴り、リングの中央へ駆け出す。

 

 ダークシャドウの腕が後ろから追いかけてきた。

 

 織姫は振り返らず、盾を背後へ移動させる。

 

 拳が光の面にぶつかった。

 

 衝撃に肩が揺れたが、今度は足を止めない。

 

 そのまま中央へ戻り、常闇へ向き直った。

 

「……危なかったぁ」

 

 小さく息を吐く。

 

 常闇は彼女の様子を見つめていた。

 

「防御は堅い。だが、いつまでも守り続けられるとは思うな」

 

「うん。分かってる」

 

 織姫は頷いた。

 

 だからこそ、守るだけでは終われない。

 

     ◇

 

 ダークシャドウが再び前へ出る。

 

 今度は大振りな攻撃ではなかった。

 

 右から。

 

 左から。

 

 短い間隔で腕を繰り出し、織姫の動きを細かく止めていく。

 

 盾を動かす。

 

 攻撃を受け流す。

 

 次の攻撃へ備える。

 

 その繰り返しの中で、少しずつ後退させられていた。

 

『常闇、攻め方を変えてきたァ! 今度は細かい攻撃で井上を追い込んでいく!』

 

『……いい判断だ』

 

 相澤が頷いた。

 

『井上の盾は強固だが、すべての方向を同時に守っているわけじゃない。そこを突いている』

 

『なるほど! なら井上はどうする!?』

 

『それは本人が考えることだ』

 

『冷てえな!』

 

 相澤は答えず、リングを見下ろした。

 

 織姫は短く息を吸った。

 

 ダークシャドウの攻撃は、さらに続いている。

 

 右から来る腕を盾で受け流す。

 

 続けて左から迫ったものを、身体を捻ってかわした。

 

 だが、次の瞬間。

 

「もらった!」

 

 ダークシャドウの腕が、織姫の足元へ伸びた。

 

「……!」

 

 織姫は跳んだ。

 

 足首を掴もうとした腕が空を切る。

 

 しかし、空中へ逃れた織姫の身体へ、別の腕が迫っていた。

 

「逃がすな!」

 

 常闇が叫ぶ。

 

「三天結盾!」

 

 盾が織姫の前へ滑り込んだ。

 

 黒い拳が光の面を叩く。

 

「くっ……!」

 

 空中で受けた衝撃に、身体が大きく弾かれた。

 

 織姫は着地しようと足を伸ばす。

 

 だが、すでにリングの縁が近い。

 

 足先が床を捉えた瞬間、身体が外側へ傾いた。

 

「……っ!」

 

 織姫は両腕を広げ、何とか踏み止まる。

 

 爪先のすぐ先は、場外だった。

 

 観客席から息を呑む声が上がった。

 

「危ねえ……!」

 

 拳藤が思わず身を乗り出す。

 

 小森も両手を胸の前で握っていた。

 

「織姫ちゃん……」

 

 織姫は息を整え、リングの中央へ目を向けた。

 

 常闇は追撃を急がなかった。

 

 ダークシャドウを前方へ置き、自分の位置を守っている。

 

 近づこうとすれば止められる。

 

 距離を取れば、長い腕が追ってくる。

 

 厄介なのは、その攻撃範囲だけではなかった。

 

 常闇自身が、織姫の動きをよく見ている。

 

 盾を置いた方向。

 

 逃げようとする足。

 

 そして、こちらが次に動きたくなる場所。

 

 そのすべてを使って、少しずつリングの外へ追いやろうとしていた。

 

「……だったら」

 

 織姫は床へ目を落とした。

 

 先ほどの攻撃で、いくつか細い亀裂ができている。

 

 常闇は、その少し向こう側にいた。

 

 織姫は口元を引き締める。

 

「椿鬼!」

 

 一枚の花弁が飛んだ。

 

 常闇が顔を上げる。

 

「……!」

 

 ダークシャドウが咄嗟に前へ出た。

 

 だが、椿鬼が向かったのは常闇ではなかった。

 

 リングの床だ。

 

 鋭い軌跡が床を走り、細い溝が刻まれる。

 

 砕けた石片が跳ねた。

 

「足場を……!」

 

 常闇が踏み出しかけた足を止めた。

 

 織姫は、その一瞬を逃さず前へ出た。

 

 盾を斜めに構え、ダークシャドウの右腕を受け流す。

 

 さらに一歩。

 

 常闇との距離が縮まった。

 

「ダークシャドウ、戻れ!」

 

「おう!」

 

 影が身体を捻り、主人の前へ戻る。

 

 織姫は盾を動かし、その進路へ差し込んだ。

 

 黒い腕が光の面へぶつかる。

 

「くっ……!」

 

 その隙に、織姫は常闇へ腕を伸ばした。

 

 届く。

 

 そう思った瞬間。

 

「甘い!」

 

 常闇が身体を引いた。

 

 ダークシャドウのもう一方の腕が、織姫の横から伸びる。

 

「……っ!」

 

 織姫は咄嗟に身を捻った。

 

 掴もうとした腕が空を切る。

 

 そのまま後ろへ跳んだところへ、ダークシャドウの拳が追ってきた。

 

 盾を差し込む。

 

 衝撃で、身体が再び滑った。

 

 今度は場外まで押されなかったが、常闇との距離は元に戻ってしまった。

 

「はあっ……はあっ……」

 

 織姫は肩で息をした。

 

 常闇も短く息を吐いている。

 

「……今のは危なかった」

 

「おう。あとちょっとだったな!」

 

 ダークシャドウが言う。

 

 常闇は頷いた。

 

「だが、同じ手は通じん」

 

 織姫は顔を上げた。

 

「うん。そうだね」

 

 明るく答えたものの、次に同じように踏み込めば、再び迎撃されるだろう。

 

 相手も考えている。

 

 こちらの手を見て、その場で対応を変えてくる。

 

 織姫は両手を軽く握り直した。

 

 拳藤との組み手で、何度も言われたことがある。

 

 技を仕掛けることばかり考えるな。

 

 相手がどう動きたくなるかを見ろ、と。

 

 その言葉を思い出しながら、織姫は常闇の足元へ目を向けた。

 

     ◇

 

 次に動いたのは、常闇だった。

 

「ダークシャドウ。上から押さえろ」

 

「了解!」

 

 影が大きく伸び、織姫の頭上へ回り込む。

 

 織姫は盾を持ち上げた。

 

 直後、黒い腕が光の面を叩く。

 

「くっ……!」

 

 足が床を擦る。

 

 だが、それだけでは終わらなかった。

 

 ダークシャドウのもう一方の腕が、盾の下から伸びてくる。

 

 織姫は咄嗟に足を引いた。

 

 伸びてきた腕が空を切る。

 

 しかし、その回避先へ常闇が一歩動いていた。

 

「そこだ!」

 

 ダークシャドウが再び腕を伸ばす。

 

「……っ!」

 

 織姫は盾を斜めへ動かした。

 

 衝撃を受け流し、横へ踏み出す。

 

 だが、今度は常闇が彼女の正面へ回り込んできた。

 

 ダークシャドウの攻撃だけではない。

 

 常闇自身も動くことで、織姫の逃げ道を狭めていた。

 

『おおっと! 常闇、とうとう本人まで前へ出てきた! 井上を逃がさねえつもりか!』

 

 相澤の目が細くなる。

 

『……悪くない』

 

 ダークシャドウに攻撃を任せきりにせず、自分の位置取りでも相手を追い込んでいる。

 

 相手が防御に優れているなら、それを崩すために動きを制限する。

 

 常闇の判断は間違っていなかった。

 

 だが、織姫も足を止めなかった。

 

 ダークシャドウの攻撃を盾で受け流し、その勢いを利用して身体を横へ流す。

 

 床を蹴る。

 

 常闇の横へ抜けるように走った。

 

「!」

 

 常闇が振り向く。

 

 ダークシャドウもすぐに追いかけた。

 

 織姫はそのまま走り続ける。

 

 右へ。

 

 そして、左へ。

 

 盾の向きを変えながら、相手の攻撃を受け流していく。

 

 常闇は織姫を追って一歩踏み出した。

 

 その足が、先ほど椿鬼によって刻まれた溝の近くへ下りる。

 

 常闇はすぐに気づき、足の位置を変えた。

 

 転ぶほど深い溝ではない。

 

 それでも、踏み込む場所を一瞬選ばなければならなかった。

 

 織姫は、その動きを見ていた。

 

 常闇が溝を避けたことで、重心が僅かに外側へ移る。

 

 だが、まだ遠い。

 

 ここで飛び込んでも、ダークシャドウに止められる。

 

 織姫は一度、後ろへ下がった。

 

「……?」

 

 常闇が目を細める。

 

 ダークシャドウも攻撃を止め、次の動きへ備えた。

 

「井上。何を狙っている?」

 

「……どうかな?」

 

 織姫は少しだけ笑った。

 

 常闇は答えず、姿勢を整えた。

 

 その表情から、警戒が消えることはなかった。

 

     ◇

 

 織姫が動いた。

 

 今度は、常闇の正面へ真っ直ぐに走る。

 

「ダークシャドウ!」

 

「おう!」

 

 黒い腕が迫る。

 

 織姫は盾を出し、拳を受け流す。

 

 続けて、もう一方の腕が下から伸びてきた。

 

 織姫はそれを跳んでかわした。

 

「また跳ぶか!」

 

 常闇が叫ぶ。

 

 先ほどと同じように、空中の織姫へ追撃を向ける。

 

 ダークシャドウの拳が持ち上がった。

 

「三天結盾!」

 

 盾が織姫の前へ移動する。

 

 拳が光の面へぶつかった。

 

 だが、今度の盾は、先ほどよりも大きく傾けられていた。

 

 織姫の身体が、衝撃を受けて横へ流れる。

 

 常闇の視線が追う。

 

 織姫はその勢いのまま着地し、さらに横へ踏み込んだ。

 

 常闇の右側。

 

 先ほど椿鬼が溝を刻んだ場所だった。

 

「……っ!」

 

 常闇が後退しようとする。

 

 しかし、その足元には溝がある。

 

 踏み外すほどではない。

 

 ただ、何も考えずに足を置ける場所でもなかった。

 

 常闇が足を横へ運ぶ。

 

 その一瞬。

 

 織姫が、さらに踏み込んだ。

 

「……!」

 

 ダークシャドウが戻ろうとする。

 

「常闇!」

 

 黒い腕が伸びた。

 

 織姫は盾を斜めに移動させ、その進路を阻む。

 

 ダークシャドウはすぐに盾の脇へ回り込んだ。

 

 だが、その僅かな時間に、織姫は常闇との距離を詰めていた。

 

「……くっ!」

 

 常闇が腕を上げる。

 

 織姫はその腕を取った。

 

 常闇は反射的に身を引く。

 

 だが、その動きを待っていた。

 

 引かれる方向へ逆らわず、一歩踏み込む。

 

 相手の重心が移ったところへ、自分の身体を入れる。

 

 拳藤と繰り返した組み手。

 

 たつきと積み重ねた練習。

 

 何度も失敗し、何度もやり直してきた動きだった。

 

「えいっ!」

 

 織姫が腰を回した。

 

 常闇の身体が浮く。

 

「なっ……!」

 

 体勢を崩した常闇が、リングの外へ投げ出された。

 

「ダークシャドウ!」

 

「おうっ!」

 

 黒い影が素早く伸び、主人を受け止める。

 

 だが、そのまま戻るには勢いがつきすぎていた。

 

 ダークシャドウは常闇を抱えるようにして着地する。

 

 そこは、すでにリングの外だった。

 

 一拍遅れて、ミッドナイトの声が響く。

 

「常闇、場外! 勝者、井上織姫!」

 

『決まったァァァ!! 最後は常闇本人へ接近! 鮮やかな投げで場外へ! 井上織姫、見事な勝利ィィ!!』

 

 競技場を大きな拍手が包んだ。

 

 織姫は大きく息を吐いた。

 

「はあっ……はあっ……!」

 

 膝に手を置き、呼吸を整える。

 

 何度も攻撃を受け流し、走り回ったせいで、足が少し重かった。

 

 それでも、顔を上げる。

 

「常闇くん!」

 

 リングの外へ駆け寄りかけたところで、常闇が立ち上がった。

 

 ダークシャドウに支えられ、しっかりと地面へ足をつけている。

 

「……見事だ、井上」

 

「大丈夫? 怪我してない?」

 

「ああ。問題ない」

 

「いやー、やられた!」

 

 ダークシャドウが悔しそうに声を上げた。

 

「あとちょっとだったのにな!」

 

 常闇は静かに頷く。

 

「……最後の足運びを読まれていたか」

 

 織姫は少し照れたように笑った。

 

「うん。あの場所なら、避けてくれるかなって」

 

「……なるほど」

 

 常闇は自分の足元を振り返った。

 

 リングには、先ほど椿鬼が刻んだ細い溝が残っている。

 

 攻撃そのものは大したものではなかった。

 

 だが、あの場所へ踏み込むとき、確かに一瞬だけ動きを変えた。

 

 その一瞬を、織姫は逃さなかったのだ。

 

「俺の負けだ」

 

 常闇は頭を下げた。

 

「次は、そう簡単には近づかせん」

 

「うん!」

 

 織姫も笑顔で頷いた。

 

「私も、もっと頑張るね!」

 

 ダークシャドウが大きく頷く。

 

「次は負けねえぞー!」

 

「ふふっ。うん!」

 

     ◇

 

『いやー、最後は見事な投げだったなァ! イレイザーヘッド!』

 

『……ああ』

 

 相澤はリングを見下ろした。

 

『常闇の判断も悪くなかった。攻撃の間合いを保ち、井上を場外寸前まで追い込んでいた』

 

『だよなァ! あのまま行けば常闇の勝ちかと思ったぜ!』

 

『だが、井上はその攻撃を受けながら、近づくための準備をしていた』

 

 相澤の視線が、リングに残る細い溝へ向く。

 

『足場を変えたのも、その一つだ。常闇が避ける位置を読んで、最後の踏み込みに繋げた』

 

『なるほどォ! あの床を切った攻撃も、無駄じゃなかったわけだ!』

 

『無駄な動きは、ほとんどなかったな』

 

 相澤は短く答えた。

 

 常闇の敗北は、決して一方的なものではなかった。

 

 むしろ、あの防御を相手にここまで攻め込めたのは評価すべきことだ。

 

 だからこそ、最後に生まれた僅かな隙が勝敗を分けた。

 

『……どちらも、よく考えて戦っていた』

 

 そう締めくくると、相澤は次の試合表へ目を向けた。

 

     ◇

 

「織姫ーっ!」

 

 拳藤の声が客席から飛んだ。

 

「やったじゃん!」

 

 織姫が顔を上げる。

 

 拳藤が大きく手を振っていた。

 

 隣の小森も、嬉しそうに身を乗り出している。

 

「おめでとう、井上ちゃん!」

 

 柳も静かに拍手を送っていた。

 

 織姫は三人へ向かって、大きく手を振り返した。

 

「ありがとーっ!」

 

 少し離れた観客席では、一護がリングを見下ろしていた。

 

 常闇の影を防ぎながら、最後は自分の足で距離を詰めた。

 

 前の世界で知っていた井上とは、戦い方がまるで違う。

 

 けれど、考えてみれば当然だった。

 

 あれから十五年。

 

 自分が剣を振り続けてきたように、井上もこの世界で、自分の知らない時間を積み重ねてきたのだ。

 

「……すげえな、井上」

 

 一護の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

 

 大型モニターが切り替わる。

 

 第四試合までの勝者が表示され、次の対戦枠へと線が伸びた。

 

 黒崎一護。

 

 井上織姫。

 

 二人の名前が、同じ枠の両側に並ぶ。

 

『さあ! これでベスト八への進出者がまた二人決定だァ!!』

 

 プレゼント・マイクの声が競技場を包む。

 

『次の勝者同士の対戦も楽しみだが、まだまだ一回戦は続くぜ!』

 

 画面には、次の対戦カードが映し出された。

 

 麗日お茶子。

 

 爆豪勝己。

 

 観客席のあちこちから、期待に満ちた声が上がる。

 

 一護は一度だけモニターへ目を向けた。

 

 井上の名前を確かめ、それからリングへ視線を戻す。

 

 選手通路では、織姫も同じ表示を見上げていた。

 

「……黒崎くんと、か」

 

 小さく呟く。

 

 その表情には、先ほど勝利したときとは違う緊張が浮かんでいた。

 

 けれど、目を逸らすことはなかった。

 

 次の試合へ向け、競技場の歓声が再び大きくなる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。