『君が拒んだ終わりの先で』   作:吉野家

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第27話 譲れないもの

 

競技場の大型モニターに、次の対戦カードが映し出された。

 

 麗日お茶子。

 

 爆豪勝己。

 

 リングでは、セメントスが床の補修を終えたところだった。

 

 塩崎の蔓が割った床も、織姫の椿鬼が刻んだ溝も、すっかり元の状態に戻っている。

 

『さあさあ! 決勝トーナメント一回戦も、いよいよ後半戦だァ!』

 

 プレゼント・マイクの声が響き渡る。

 

『続く第五試合も、同じA組同士の対決! こいつは見逃せねえぜ!』

 

     ◇

 

 選手通路の奥。

 

 お茶子は、両手を握ったり開いたりしていた。

 

 相手は爆豪勝己。

 

 爆発の威力も、空中での機動力も、同じクラスで過ごしていれば嫌というほど分かる。

 

 何より厄介なのは、あの反応の速さだった。

 

 誰かが動けば、それに合わせて次の攻撃が飛んでくる。

 

 ただ走って近づくだけでは、触れるどころか間合いに入ることすら難しいだろう。

 

「……よし」

 

 お茶子は頬を軽く叩いた。

 

 考えたことはある。

 

 あとは、やるだけだ。

 

「麗日さん」

 

 声をかけられて振り向くと、緑谷が立っていた。

 

「……デクくん」

 

「もうすぐだね」

 

「うん!」

 

 お茶子は笑ってみせた。

 

 緑谷は何か言おうとして、口を閉じる。

 

 試合前に、作戦なら一緒に考えられると伝えた。

 

 けれど、お茶子は自分で考えて戦いたいと言った。

 

 だから、今さら余計なことは言わない。

 

「……頑張って」

 

「ありがと!」

 

 お茶子は拳を握った。

 

「デクくんも、次の試合頑張ってな!」

 

「うん!」

 

 緑谷が頷く。

 

 お茶子は片手を上げ、そのまま入場口へ向かった。

 

     ◇

 

『まずはこの少女! 予備戦では上鳴を見事な作戦で場外へ! ふわふわ浮かせる無重力ガール! 一年A組、麗日お茶子ォォ!!』

 

 お茶子がリングへ駆け出した。

 

 観客席から拍手が起こる。

 

『対するはァ! 騎馬戦でもその爆発力を見せつけた、勝利への執念は誰にも負けねえ男! 一年A組、爆豪勝己ィィ!!』

 

 反対側から爆豪が姿を現した。

 

 お茶子を一瞥し、リングの中央へ歩いてくる。

 

「よろしくね、爆豪くん!」

 

 お茶子が声をかけた。

 

 爆豪はその言葉には応えず、掌を一度開いてから握った。

 

「……丸顔」

 

「ん?」

 

「退くなら今退けよ」

 

 お茶子は目を瞬かせた。

 

 それから、両手を握り締める。

 

「……退かへんよ」

 

「あぁ?」

 

「うちだって、勝ちたいもん」

 

 爆豪の口元が吊り上がった。

 

「……上等だ」

 

 ミッドナイトが二人を見渡す。

 

「第五試合――始め!」

 

 爆音が轟いた。

 

     ◇

 

「わっ!」

 

 お茶子が横へ跳ぶ。

 

 直前まで立っていた場所で爆発が弾け、熱風が頬を撫でた。

 

 爆豪は追ってこない。

 

 右手を前へ向け、次の動きに備えている。

 

 お茶子は地面を蹴った。

 

 低く身を沈め、真正面から走り込む。

 

「チッ!」

 

 爆豪の右手が動いた。

 

 お茶子はその瞬間、進路を変える。

 

 爆発が身体の脇を抜けた。

 

 熱が走る。

 

 それでも足を止めず、爆豪へ手を伸ばした。

 

 あと少し。

 

「甘えんじゃねえ!」

 

 爆豪が左手を地面へ向けた。

 

 爆発の反動で身体が跳び上がる。

 

 お茶子の指先が空を切った。

 

「……っ!」

 

 空中で身体を回した爆豪が、今度は右手を向けてくる。

 

 お茶子は咄嗟に転がった。

 

 背後で爆発が起こる。

 

 床の破片が跳ね、制服の袖へ細かな砂が降りかかった。

 

『おおっとォ! 麗日、果敢に接近するが爆豪が寄せつけねえ! 触れさえすれば勝機はあるが、そこまでが遠いぞ!』

 

『爆豪の判断は妥当だ』

 

 実況席から相澤の声が続いた。

 

『麗日の個性は接触が条件だ。あの能力を知っている以上、簡単に間合いへ入れるわけにはいかない』

 

『なるほど! 爆豪にとっちゃ、触れられるだけでも厄介ってことだな!』

 

 相澤は短く頷き、リングへ視線を戻した。

 

 爆豪はまだ、お茶子から目を離していない。

 

 最初の接近を防いだからといって、油断する様子はなかった。

 

     ◇

 

 お茶子は再び走った。

 

 右へ。

 

 左へ。

 

 爆豪が手を向ける方向を見ながら、少しずつ距離を詰めようとする。

 

 だが、そのたびに爆発が飛んできた。

 

 熱風を避け、飛び散る破片から顔を守る。

 

 それでも爆豪は、こちらが次に動きたい場所へ先回りするように爆発を放ってくる。

 

「……っ!」

 

 お茶子は地面を蹴った。

 

 今度は爆豪の右側へ回り込む。

 

 その途中、自分の腕へ五本の指を当てた。

 

 身体から重さが消える。

 

 踏み切った勢いのまま、ふわりと身体が浮いた。

 

 爆豪の爆発が足元を抜ける。

 

 そのまま頭上を越え、背後へ回り込もうとした。

 

「……!」

 

 爆豪が顔を上げた。

 

 片手を上へ向ける。

 

「見えてんだよ!」

 

 爆発が弾けた。

 

「きゃっ!」

 

 お茶子の身体が横へ流された。

 

 重さを失った身体は、爆風を受けると大きく弾かれてしまう。

 

 お茶子は空中で指先を合わせた。

 

 解除。

 

 重力が戻り、身体が落下する。

 

 足を伸ばして着地したものの、勢いを殺しきれずに膝をついた。

 

「……うぅ」

 

 胃の奥が、僅かに揺れる。

 

 自分を浮かせることはできる。

 

 だが、浮いたままでは爆風を避けきれない。

 

 着地の位置を読まれれば、そこへ攻撃が飛んでくる。

 

 お茶子は立ち上がり、爆豪を見た。

 

 相手はまだ、同じ場所にいる。

 

 近づいてくるのを待っているわけではない。

 

 こちらの動きを見て、迎え撃つための距離を保っているのだ。

 

「……ほんと、やりにくいなあ」

 

 小さく呟いた。

 

 爆豪の眉が動く。

 

「何ぶつくさ言ってやがる!」

 

 爆発が飛ぶ。

 

 お茶子は横へ跳んだ。

 

 床が砕け、石片が散る。

 

 着地する瞬間、彼女の手が床へ伸びた。

 

 指先が、転がってきた破片に触れる。

 

 そのまま身体を起こし、再び走った。

 

     ◇

 

 爆発が続いた。

 

 お茶子は何度も距離を詰めようとし、そのたびに押し戻される。

 

 爆豪の攻撃は容赦がなかった。

 

 だが、追い詰めた相手をいたぶるような動きでもない。

 

 近づかせないために爆発を使い、お茶子が動けばすぐに迎撃する。

 

 徹底して、それだけを続けていた。

 

「……くそっ」

 

 お茶子は低く身を沈め、爆発を避けた。

 

 そのまま地面を転がり、散らばった破片に触れる。

 

 立ち上がって走る。

 

 また爆発。

 

 今度は足元の床が砕けた。

 

 跳ねた破片の一つを掴み、指先を当てる。

 

 そして、すぐに手を離した。

 

 破片は爆風に乗って舞い上がった。

 

 だが、落ちてこない。

 

 お茶子はそれを見上げず、次の攻撃へ備えた。

 

『爆豪、依然として優勢! 麗日も何度も飛び込んでいるが、なかなか触れられねえ!』

 

 観客席では、少しずつ声の調子が変わっていた。

 

「……あれ、もう勝負ついてるんじゃないか?」

 

「ちょっと一方的すぎないか?」

 

「相手は女子だぞ。あそこまでやる必要あるのかよ」

 

 声が重なる。

 

 それでも爆豪は振り向かなかった。

 

 お茶子が動く。

 

 爆豪が爆発を放つ。

 

 その繰り返し。

 

「おい、爆豪! いつまで遊んでるんだ!」

 

 観客席の一角から、怒鳴り声が飛んだ。

 

「さっさと終わらせてやれよ! みっともない!」

 

 別の観客も声を上げる。

 

「女の子相手に、恥ずかしくないのか!」

 

 それを聞いた相澤が、ゆっくりと顔を上げた。

 

『……おい』

 

 プレゼント・マイクが隣を向く。

 

『ん?』

 

『今、爆豪が遊んでいると言ったのは誰だ』

 

 低い声が、場内に響いた。

 

 先ほどまでの騒がしさが、少しずつ収まっていく。

 

『プロか? 何年やってる』

 

 相澤の声には、明らかな苛立ちが混じっていた。

 

『本気であれを見て、爆豪が遊んでいると思っているなら――帰って転職サイトでも見てろ』

 

 観客席が静まり返った。

 

『お、おい、イレイザーヘッド……』

 

『爆豪は麗日の力を警戒している。だから、決して近づかせない。あの爆発はそのためのものだ』

 

 相澤はリングへ目を向けた。

 

『それに、麗日はまだ勝負を捨てていない。何度押し返されても、次の手を考えて動いている』

 

 爆発が響く。

 

 お茶子が転がりながら避け、すぐに立ち上がった。

 

『相手が女子だから手を抜けと言うのか。あの二人の戦いを、ちゃんと見ろ』

 

 最後の言葉が、静まり返った観客席へ落ちた。

 

 プレゼント・マイクは一瞬黙り、それから再びリングへ視線を戻した。

 

『……さあ! 麗日、まだまだ攻める! 爆豪も一歩も譲らねえぞ!』

 

     ◇

 

「……さすが、相澤先生だな」

 

 切島が呟いた。

 

 隣の瀬呂も、リングを見つめている。

 

「まあ、爆豪が手加減してるようには見えねえよな」

 

「……むしろ逆だろ」

 

 一護が口を開いた。

 

 爆豪は最初から、麗日の手をよく見ている。

 

 触れられることを警戒しているからこそ、あれだけ徹底して距離を取っているのだろう。

 

「麗日の奴も、まだ諦めちゃいねえ」

 

 その言葉に、切島が頷いた。

 

「おう」

 

 少し離れた席では、緑谷が身を乗り出していた。

 

 爆豪が右手を向ける。

 

 お茶子が横へ跳ぶ。

 

 爆発が床を砕いた。

 

 彼女は転がりながら、また破片に触れた。

 

「……!」

 

 緑谷の目が僅かに見開かれる。

 

 何度も。

 

 お茶子は何度も、床の破片へ触れていた。

 

 ただ逃げているだけではない。

 

 爆豪に近づこうとする動きの中へ、別の行動を紛れ込ませている。

 

「……麗日さん」

 

 緑谷は顔を上げた。

 

 空は、まだ粉塵に隠れていた。

 

     ◇

 

「……っ、はあ……!」

 

 お茶子は荒く息を吐いた。

 

 腕が痛い。

 

 膝も、何度も床に擦りつけたせいでひりひりする。

 

 爆発の熱を避け続けているだけでも、身体の疲れは溜まっていく。

 

 それでも、まだ止まれない。

 

 爆豪がこちらを睨んでいる。

 

「……テメェ、何企んでやがる」

 

 お茶子は答えなかった。

 

 呼吸を整え、足を引く。

 

「……まだやる気か、丸顔」

 

「……もちろん!」

 

 お茶子は再び走った。

 

 爆豪が掌を向ける。

 

 爆発。

 

 お茶子は身体を捻り、熱風をかわした。

 

 そのまま転がる。

 

 床の破片に触れる。

 

 すぐに立ち上がり、もう一度踏み込んだ。

 

「……しつけえ!」

 

 爆豪が大きく腕を振るう。

 

 爆発が床を叩いた。

 

 砕けた石片が宙を舞う。

 

 その陰で、お茶子がさらに一つ、破片を浮かせた。

 

 胃の奥が重い。

 

 個性を使い続けているせいで、少しずつ気分が悪くなってきていた。

 

 だが、まだ解除しない。

 

 あと少し。

 

 もう少しだけ。

 

「……っ」

 

 お茶子は膝をついた。

 

 爆豪が眉を寄せる。

 

「……何だ、もう終わりか」

 

 お茶子は顔を上げた。

 

 額には汗が滲んでいる。

 

 その口元が、僅かに動いた。

 

「……ううん」

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 

「ここからやよ」

 

 お茶子が空へ目を向けた。

 

 爆豪も、その視線を追う。

 

「……あ?」

 

 粉塵が風に流されていく。

 

 その向こうに、異様な光景が広がっていた。

 

 リングの上空。

 

 大小さまざまな瓦礫が、空中に浮かんでいた。

 

 砕けた床の破片。

 

 爆発で巻き上げられた石片。

 

 それらが、重力を失ったまま滞留している。

 

 爆豪の攻撃によって増えた瓦礫を、お茶子が少しずつ浮かせていたのだ。

 

『なっ……何だァ!? リングの上空に、大量の瓦礫が浮いているぞォ!!』

 

 観客席がどよめいた。

 

「……マジかよ」

 

 瀬呂が思わず声を漏らす。

 

 切島も上を見上げた。

 

「いつの間に、あんな……!」

 

 緑谷は立ち上がりかけていた。

 

 分かった。

 

 お茶子が何度も爆発の間を走り、地面に触れ続けていた理由が。

 

 爆豪が攻撃するほど、瓦礫が増える。

 

 それを浮かせて、上空へ溜め込んでいた。

 

 何度も接近を試みていたのも、ただ触れようとしていただけではない。

 

 爆豪の注意を自分に向け、空の異変に気づかせないためでもあった。

 

『……これを狙っていたか』

 

 相澤が呟いた。

 

『爆豪の爆発を利用して瓦礫を作り、それを少しずつ浮かせていた。あれだけの量を用意するには、相当な回数を重ねたはずだ』

 

『ってことは、最初からこのために……!』

 

『ああ。麗日が自分で組み立てた作戦だろう』

 

 お茶子はゆっくりと両手を持ち上げた。

 

 指先が震えている。

 

 胃の奥から込み上げてくるものを、必死に堪えた。

 

 ここで終わらせるわけにはいかない。

 

 自分が考えた。

 

 自分で選んだ。

 

 その作戦を、最後までやりきる。

 

「……爆豪くん!」

 

 お茶子が叫んだ。

 

「うちだって、勝ちたいんや!」

 

 両手の指先が合わさる。

 

 解除。

 

 空中に浮かんでいた瓦礫が、一斉に落下を始めた。

 

『うおおおっとォォ!! 瓦礫の雨だァァ!!』

 

 観客席が沸き立った。

 

 無数の破片が、爆豪へ向かって降り注ぐ。

 

 だが、お茶子はその光景を見届けなかった。

 

 地面を蹴る。

 

 爆豪へ向かって、真っ直ぐに。

 

 上からの攻撃に対処している間なら。

 

 その間だけなら。

 

 触れられるかもしれない。

 

 お茶子は走った。

 

 足が痛む。

 

 息が苦しい。

 

 それでも止まらない。

 

 爆豪が顔を上げた。

 

 降り注ぐ瓦礫を見据える。

 

 そして。

 

「――ナメんなァ!!」

 

 右手を空へ向けた。

 

 次の瞬間。

 

 凄まじい爆音が、競技場を揺るがした。

 

     ◇

 

 巨大な爆発が、上空へ向かって広がった。

 

 落下してきた瓦礫が、まとめて吹き飛ぶ。

 

 石片が砕け、粉塵が舞い上がった。

 

 爆風が観客席の前まで押し寄せる。

 

 思わず顔を覆う者。

 

 立ち上がって空を見上げる者。

 

 競技場が、一瞬で騒然となった。

 

『なっ……何だ今の爆発はァァ!! 爆豪、降り注ぐ瓦礫をまとめて吹き飛ばしたァァ!!』

 

 爆豪は右手を上げたまま、荒く息を吐いていた。

 

 掌から煙が立ち上っている。

 

 腕に鈍い痺れが残っていた。

 

 あれだけの瓦礫を一度に処理するには、生半可な爆発では足りなかった。

 

「……っ」

 

 爆豪は歯を食いしばり、手を下ろす。

 

 その瞬間。

 

 粉塵の中から、人影が飛び出した。

 

「……!」

 

 お茶子だった。

 

 瓦礫を落とした直後から、走り続けていた。

 

 爆発で飛び散った粉塵。

 

 その向こうから、最後の距離を詰める。

 

「爆豪くん!」

 

 右手を伸ばす。

 

 爆豪は咄嗟に左手を向けた。

 

 爆発。

 

「……っ!」

 

 お茶子は身体を捻った。

 

 熱風が肩を掠める。

 

 それでも、あと一歩。

 

 爆豪の腕へ、五本の指が伸びる。

 

 爆豪が身を引いた。

 

 お茶子はさらに踏み込もうとした。

 

 だが。

 

「……あ」

 

 足に、力が入らなかった。

 

 膝が折れる。

 

 視界が大きく揺れた。

 

 胃の奥から込み上げてきたものを堪えようとして、呼吸が詰まる。

 

 伸ばした手が、届かない。

 

「……っ、まだ……!」

 

 お茶子は歯を食いしばった。

 

 身体を起こそうとする。

 

 爆豪が再び構えた。

 

 その目には、まだ警戒が残っている。

 

「……上等だ」

 

 爆豪の口元が吊り上がった。

 

「こっから本番だ、麗日!」

 

 だが、お茶子の身体は応えなかった。

 

 足が動かない。

 

 指先に、力が入らない。

 

 最後の一歩を踏み出すことができず、そのまま前へ倒れ込んだ。

 

「……っ」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

 構えていた手を下ろす。

 

 お茶子は床に手をつき、もう一度立ち上がろうとした。

 

 だが、腕が震えるだけだった。

 

「……くそ……」

 

 小さな声が漏れた。

 

 それきり、身体が動かなくなった。

 

     ◇

 

 競技場が、静まり返った。

 

 爆豪はお茶子を見下ろしていた。

 

「……おい」

 

 返事はない。

 

「……チッ」

 

 爆豪は拳を握り、ゆっくりと下ろした。

 

 ミッドナイトが素早く駆け寄る。

 

 お茶子の状態を確かめ、片手を上げた。

 

「麗日、戦闘続行不能!」

 

 一拍。

 

「勝者、爆豪勝己!」

 

『しょ、勝負ありィィ!! 最後の最後まで攻め続けた麗日だったが、ここで力尽きた! 勝者、爆豪勝己ィィ!!』

 

 観客席から拍手が起こった。

 

 最初は、まばらだった。

 

 だが、次第にその音は大きくなっていく。

 

 爆豪は歓声に応えなかった。

 

 医療スタッフが駆け寄り、お茶子を担架へ乗せる。

 

 その様子を一度だけ見て、爆豪は踵を返した。

 

「……クソが」

 

 小さく舌打ちする。

 

 あの瓦礫に気づくのがもう少し遅れていれば。

 

 最後の一歩で、麗日の指が届いていれば。

 

 勝敗がどうなったかは分からない。

 

 だからこそ、最初から一度も気を抜かなかった。

 

 それでも、あそこまで追い詰められた。

 

 爆豪は振り返らず、選手通路へ向かった。

 

     ◇

 

『いやー……すげえ試合だったな、イレイザーヘッド』

 

『ああ』

 

 相澤はリングを見下ろしていた。

 

『麗日は自分の力で、あの作戦を組み立てた。正面からの接近を繰り返したのも、瓦礫を集めるための時間を稼ぐ意味があった』

 

『しかも、あの爆豪相手に最後まで諦めなかった!』

 

『爆豪もよく対応した。あの量の瓦礫を一度に吹き飛ばした判断は正しい』

 

 相澤の視線が、担架で運ばれていくお茶子へ向く。

 

『……最後の踏み込みも悪くなかった。身体が持っていれば、届いていたかもしれないな』

 

 プレゼント・マイクは一瞬黙った。

 

 それから、いつもの調子で声を張り上げる。

 

『勝った爆豪にも! 最後まで戦い抜いた麗日にも! でっけえ拍手を送ってくれェェ!!』

 

 観客席の拍手が、再び大きくなった。

 

     ◇

 

「……すっげえ試合だったな」

 

 切島が呟いた。

 

 瀬呂も頷く。

 

「途中、何してんのか全然分かんなかった」

 

「俺もだよ」

 

 上鳴が頭を掻いた。

 

「上からあんなの降ってくるなんて、誰が予想すんだよ……」

 

 少し離れた席では、緑谷が立ち上がっていた。

 

 担架で運ばれていくお茶子を、じっと見つめている。

 

 悔しいだろう。

 

 あれほど考えて、あれほど粘って。

 

 それでも、勝てなかったのだから。

 

 けれど、お茶子は最後まで自分の考えた作戦で戦った。

 

 自分の足で走り、自分の手を伸ばした。

 

 緑谷は拳を握った。

 

「……麗日さん」

 

 隣で飯田が立ち上がる。

 

「緑谷くん。麗日くんの様子を見に行こう」

 

「……うん」

 

 二人は席を離れた。

 

     ◇

 

 選手通路を戻っていた爆豪は、向こうから歩いてくる緑谷を見つけると足を止めた。

 

「……おい、デク」

 

「かっちゃん?」

 

 爆豪は不機嫌そうに顔を歪めた。

 

「テメェ、丸顔に何吹き込みやがった」

 

 緑谷が目を瞬かせる。

 

「……え?」

 

「あの作戦だよ。瓦礫を浮かせて落とすとか、テメェが考えそうなことじゃねえか」

 

 緑谷は一瞬、言葉を失った。

 

 それから、はっきりと首を振る。

 

「違うよ」

 

「あぁ?」

 

「僕は何も教えてない」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

「……何?」

 

「作戦を一緒に考えようとはした。でも、麗日さんは自分で考えて戦いたいって言ったんだ」

 

 緑谷は爆豪を見た。

 

「あれは全部、麗日さん自身が考えた作戦だよ」

 

「…………」

 

「かっちゃんをあそこまで追い詰めたのも、麗日さん自身だ」

 

 爆豪は黙っていた。

 

 やがて、短く舌打ちする。

 

「……そうかよ」

 

 それだけ言って、緑谷の脇を通り過ぎた。

 

 緑谷は何も言わなかった。

 

 爆豪も振り返らない。

 

 ただ、歩き去る背中からは、いつものような勝利を誇る様子は感じられなかった。

 

     ◇

 

  競技場では、次の試合の準備が進んでいた。

 

 爆豪の爆発によって砕けた床を、セメントスが修復していく。

 

 最後の亀裂が塞がれると、場内の大型モニターが切り替わった。

 

 芦戸三奈。

 

 鉄哲徹鐵。

 

『さあさあ! 決勝トーナメント一回戦も残り三試合! 続いては、こいつらの出番だァ!』

 

 プレゼント・マイクの声が響く。

 

『抜群の身体能力と溶解液を操る個性! 一年A組、芦戸三奈ァァ!!』

 

 芦戸が入場口から飛び出した。

 

「よっしゃー! いっくぞー!」

 

 客席へ向かって両手を振り、そのまま軽やかな足取りでリングへ上がる。

 

『対するはァ! 全身鋼鉄、気合いも根性も折れ知らず! 一年B組、鉄哲徹鐵ェェ!!』

 

「オオッシャァァ!!」

 

 反対側から鉄哲が駆け出してきた。

 

 勢いよくリングへ上がり、拳を打ち鳴らす。

 

「来いや芦戸! 正面からぶつかってこい!」

 

「いやいや、何でわざわざそっちの得意な勝負しなきゃなんないのさ!」

 

「硬えもん同士、ぶつかってこそ勝負だろうが!」

 

「私、硬くないんですけど!?」

 

 芦戸が思わず突っ込む。

 

 鉄哲は一瞬考えた。

 

「……じゃあ俺だけ硬え!」

 

「知ってるって!」

 

 観客席から笑い声が上がった。

 

 芦戸は肩をすくめ、改めて構えを取る。

 

 鉄哲も拳を握り直した。

 

 その腕が銀色に輝き始める。

 

 手から肩へ。

 

 首、胸、そして顔。

 

 瞬く間に全身が鋼鉄へと変わった。

 

「……うわ、近くで見るとほんとすごいね」

 

 芦戸が目を丸くする。

 

「おうよ! ちっとやそっとじゃ傷一つつかねェぞ!」

 

「へえー」

 

 芦戸は口元を緩めた。

 

「じゃ、いろいろ試してみよっかな!」

 

「上等だァ!」

 

 ミッドナイトが二人を見渡す。

 

「第六試合――始め!」

 

 鉄哲が地面を蹴った。

 

「おおおおおッ!!」

 

 真正面からの突進。

 

「うわっ、いきなり!?」

 

 芦戸が横へ跳んだ。

 

 鋼鉄の拳が、つい先ほどまで彼女の顔があった場所を通り過ぎる。

 

 風が頬を掠めた。

 

「ちょっ、当たったらシャレになんないじゃん!」

 

「当てるつもりで殴ってんだよ!」

 

「そりゃそうだけどさ!」

 

 芦戸は着地と同時に足元へ酸を流した。

 

 薄い液体が靴底に広がる。

 

 そのまま床を蹴ると、身体が滑るように移動した。

 

 鉄哲が振り返る。

 

「……速え!」

 

「へへーん! 追いつける?」

 

 芦戸は弧を描くように滑走した。

 

 酸によって摩擦を減らし、足運びと体重移動で速度を調整する。

 

 鉄哲が追いかける。

 

 だが、芦戸はその正面へ留まらない。

 

 右へ滑り、身体を回転させ、背後へ抜ける。

 

 鉄哲が身体を捻った。

 

「ちょこまか動きやがって!」

 

「そっちが一直線すぎんの!」

 

 芦戸の右手が動く。

 

 細く伸びた酸が、鉄哲の腕へかかった。

 

 じゅっ。

 

 僅かな音がした。

 

「……ん?」

 

 鉄哲が腕を見る。

 

 鋼鉄の表面が少しだけ曇っていた。

 

「おいおい、俺の身体溶かす気かよ!」

 

「大丈夫だって! ちゃんと調整してるから!」

 

「だったら遠慮せず来いや!」

 

「いや、だから! 溶かしすぎたら危ないでしょ!」

 

 鉄哲は一度、自分の腕へ目を落とした。

 

 すぐに深刻な傷ができる様子はない。

 

 だが、同じ場所へ何度も酸を浴びればどうなるかは分からなかった。

 

「……なるほどな」

 

 彼は顔を上げた。

 

「なら、当てさせなきゃいい話だ!」

 

「いや、結局突っ込んでくんの!?」

 

 鉄哲が地面を蹴った。

 

     ◇

 

『おおっとォ! 鉄哲、酸を食らっても止まらねえ! 芦戸も滑るような動きで応戦するぞ!』

 

『鉄哲の硬さと芦戸の機動力。分かりやすい対照だな』

 

 相澤が答えた。

 

『だが、どちらも相手の得意な間合いでは戦いたくないはずだ』

 

『なるほどォ! 鉄哲は近づきたい、芦戸は近づかせたくないってことか!』

 

『……それだけでもないがな』

 

 リングでは、芦戸が再び酸を流していた。

 

 ただ滑っているだけではない。

 

 移動した後の床にも、薄い液体の膜が残っている。

 

 鉄哲はそれを避けようとして、一度足を止めた。

 

「……チッ!」

 

「おっ、気づいた?」

 

 芦戸が笑う。

 

「そこ、滑るよ!」

 

「分かってらァ!」

 

 鉄哲が大きく踏み込んだ。

 

 その靴底が、酸の膜を踏む。

 

「うおっ!?」

 

 足が滑った。

 

 鋼鉄の身体が前へ傾く。

 

 芦戸はすかさず距離を詰めた。

 

「もらいっ!」

 

 横から身体を押し出そうとする。

 

 しかし。

 

「ナメんなッ!」

 

 鉄哲が地面へ拳を叩きつけた。

 

 硬い音が響く。

 

 鋼鉄の指が床へ食い込み、傾いた身体を強引に支えた。

 

「うそっ!?」

 

 芦戸が目を丸くする。

 

 鉄哲はその姿勢から腕を突き上げた。

 

「おらァ!」

 

「っと!」

 

 芦戸は咄嗟に後ろへ跳んだ。

 

 拳が目の前を通り過ぎる。

 

 靴底へ酸を流し、着地と同時に滑って離れた。

 

「……あっぶなー!」

 

「ハッ! そんな簡単に転んでたまるかよ!」

 

 鉄哲が身体を起こす。

 

 床に残った拳の跡を一度見て、それから芦戸を睨んだ。

 

「足元に仕掛けるってんなら、こっちも踏ん張り方を変えりゃいい!」

 

「へえ……!」

 

 芦戸の表情が変わった。

 

「ただの突進バカじゃないんだ?」

 

「あぁ!? 誰がバカだ!」

 

「そこは否定するんだ!」

 

「当たり前だろうが!」

 

 鉄哲が駆け出す。

 

 だが、今度の踏み込みは先ほどと違っていた。

 

 酸が広がる場所へ入る直前、歩幅を小さくしている。

 

 身体を低く構え、片足へ急激に体重をかけない。

 

 芦戸が横へ滑ると、鉄哲は無理に追いかけず、乾いた床を選んで方向を変えた。

 

「……おっと」

 

 芦戸の眉が上がる。

 

 さっきより、ずっと追いにくい。

 

 鉄哲は無理に追い回さなくなっていた。

 

 芦戸が滑る先を見て、そこへ向かってくる。

 

「今度こそ捕まえてやる!」

 

「やれるもんなら!」

 

 芦戸が酸を流す。

 

 鉄哲が拳を振るう。

 

 芦戸はその腕の下へ身体を滑り込ませ、鉄哲の脇を抜けた。

 

 だが、相手もすぐに振り返る。

 

 鋼鉄の腕が伸びてきた。

 

「……っ!」

 

 芦戸は足を大きく開き、上体を沈めた。

 

 拳が頭上を抜ける。

 

 そのまま片手を床へつき、身体を回転させた。

 

 滑走の勢いを失わず、鉄哲の背後へ抜けていく。

 

『おおっとォ! 芦戸、まるでダンスみてえな身のこなし! 鉄哲も追いすがる!』

 

『動きが単調じゃない。芦戸は踊るような動作の中で、回避と移動を繋げている』

 

 相澤がリングを見下ろす。

 

『だが、鉄哲も対応してきたな。大振りに追いかけるのをやめて、芦戸の移動先を塞ぎ始めている』

 

 その言葉の通り、鉄哲は少しずつ芦戸の逃げ道を狭めていた。

 

     ◇

 

「おらァ!」

 

 拳が迫る。

 

「っ、と!」

 

 芦戸は横へ滑った。

 

 だが、鉄哲は追いすぎなかった。

 

 次に芦戸が通ろうとした位置へ、先に身体を寄せる。

 

「……!」

 

 芦戸が急ブレーキをかけた。

 

 靴底の酸を調整し、滑走を止める。

 

 その目の前へ、鉄哲の拳が飛んできた。

 

「うわっ!」

 

 身体を反らす。

 

 拳が頬のすぐ横を抜けた。

 

 芦戸はそのまま後ろへ跳ぶ。

 

 だが、リングの縁が近づいていた。

 

「……あ」

 

 足元を見る。

 

 背後には、もうほとんど余裕がない。

 

 鉄哲は拳を握った。

 

「ようやく追い詰めたぜ!」

 

「ちょっと、マジでしぶとすぎじゃん!」

 

「根性で負けてたまるかよ!」

 

「いや、根性で鋼鉄になってるわけじゃないっしょ!」

 

「うるせえ! 両方だ!」

 

 芦戸は思わず笑った。

 

 だが、その視線は鉄哲の足元へ向いていた。

 

 鉄哲は酸の広がる床を警戒している。

 

 だから、なるべく乾いた場所へ足を置こうとしている。

 

 それでも芦戸を追い詰められたのは、踏み込み方を変えたからだ。

 

 勢いを抑え、身体の向きを整えてから拳を振るう。

 

 無理な突進はしない。

 

 ……なら。

 

 芦戸は一度、身体を沈めた。

 

 鉄哲がその動きへ反応する。

 

「今度はどっちへ逃げる気だ!」

 

「さあね!」

 

 芦戸が右へ飛び出した。

 

 鉄哲も足を踏み出す。

 

 だが、芦戸はすぐに方向を変えた。

 

 足元へ酸を流し、一気に左へ滑る。

 

「……っ!」

 

 鉄哲が振り向く。

 

 芦戸は、そのままリングの中央へ向かって走り込んだ。

 

「逃がすかァ!」

 

 鉄哲が追う。

 

 今度は乾いた床を選びながら。

 

 芦戸はちらりと振り返った。

 

 相手との距離を確かめる。

 

「……よし」

 

 小さく呟いた。

 

     ◇

 

 観客席では、切島が身を乗り出していた。

 

「……あいつ、結構やるな」

 

 目は鉄哲を追っている。

 

 鋼鉄化した身体。

 

 正面からぶつかる戦い方。

 

 自分と似たところのある相手だ。

 

 だが、同じではない。

 

 鉄哲は床へ拳を食い込ませ、滑りを止めた。

 

 あの硬さだからこそできる動きだった。

 

「芦戸も負けてねえけどな」

 

 瀬呂が言う。

 

「さっきからずっと走り回ってる。あれ、かなり疲れるだろ」

 

「つーか、鉄哲もよく追えるよな」

 

 上鳴がぼやく。

 

「俺だったら、最初の突進で滑って終わりそう」

 

 切島が笑いかけたところで、再びリングへ目を向けた。

 

 芦戸が、突然滑走をやめたのだ。

 

「……ん?」

 

 リング中央から少し離れた位置。

 

 芦戸は鉄哲へ身体を向け、両手を軽く広げていた。

 

「ほら! 来なよ!」

 

 鉄哲が眉を寄せる。

 

「……あぁ?」

 

「今度は逃げないからさ!」

 

「……ハッ!」

 

 鉄哲が拳を握り直す。

 

「上等だ! 正面から来るってんなら受けて立つ!」

 

 鋼鉄の身体が、ぐっと沈んだ。

 

 芦戸は笑った。

 

 その足元へ、少量の酸が広がっていく。

 

 鉄哲はそれを見逃さなかった。

 

「……また足元かよ!」

 

「どうかな!」

 

 芦戸が地面を蹴った。

 

 鉄哲も同時に動く。

 

 その距離が、一気に縮まった。

 

     ◇

 

 芦戸は真正面へ突っ込まなかった。

 

 鉄哲の拳が届く直前で、身体を横へ滑らせる。

 

 鉄哲は足を踏み替えた。

 

 今度は、追いかける側の動きが速かった。

 

「逃がさねェ!」

 

 鋼鉄の拳が横薙ぎに振るわれる。

 

「……っ!」

 

 芦戸は身を沈め、拳の下を滑り抜けた。

 

 そして、片手を床へ向けた。

 

 酸が細く走る。

 

 鉄哲の進路。

 

 ちょうど、次の足を踏み出そうとしている位置だった。

 

「またかよ!」

 

 鉄哲はすぐに気づいた。

 

 足を大きく踏み込むのをやめ、身体を低くする。

 

 滑るなら、先に支えを作ればいい。

 

 右手を床へ伸ばす。

 

 鋼鉄の指で床を掴み、そのまま身体を支えようとした。

 

 だが。

 

「……へへっ」

 

 芦戸が笑った。

 

 鉄哲の手が届こうとした場所にも、薄い酸が広がっていた。

 

 触れた指先が滑る。

 

「……ッ!?」

 

 鉄哲はすぐに指へ力を込めた。

 

 鋼鉄の先端が床を削る。

 

 だが、支えを作るために向けた腕は、すでに外側へ流されていた。

 

 芦戸はその横を滑り抜ける。

 

 そして。

 

「それっ!」

 

 身体を回転させた勢いで、鉄哲の伸ばした腕を横から押した。

 

 鋼鉄の腕そのものが壊れるわけではない。

 

 ただ、腕を支点に体勢を立て直そうとしていた鉄哲には、厄介な一押しだった。

 

「おおっ!?」

 

 身体が傾く。

 

 鉄哲はすぐに反対の足を踏み出した。

 

 そこにも、酸の膜があった。

 

「……ッ!」

 

 靴底が滑った。

 

 鉄哲の身体が、勢いを残したまま横へ流れる。

 

 腕を振り、何とか踏ん張ろうとする。

 

 だが、その先にはもうリングの縁が迫っていた。

 

「……くそッ!」

 

 片足が、リングの外へ出た。

 

 もう片方の足で床を蹴ろうとする。

 

 その瞬間、芦戸が最後の一押しを加えた。

 

「ごめん、鉄哲!」

 

 酸の上を滑る勢いを乗せ、鉄哲の肩へ身体を当てる。

 

 強引に押し勝ったわけではない。

 

 すでに崩れていた重心を、さらに場外へ流したのだ。

 

「うおおおおおッ!?」

 

 鉄哲の両足が床を離れた。

 

 そのまま、鋼鉄の身体がリングの外へ飛び出していく。

 

 着地。

 

 重い音が響いた。

 

 鉄哲は片膝をつき、すぐに顔を上げる。

 

「……っだァ!」

 

 悔しそうに床を叩いた。

 

 ミッドナイトが腕を上げた。

 

「鉄哲、場外! 勝者、芦戸三奈!」

 

『決まったァァァ!! 鋼鉄の突進を、酸による滑走と足場操作で攻略! 勝者、芦戸三奈ァァ!!』

 

 歓声が上がった。

 

 芦戸は両手を突き上げる。

 

「やったぁーっ!!」

 

 跳び上がろうとした、その瞬間。

 

「わっ!」

 

 足が滑った。

 

 自分で流した酸の膜に、うっかり乗ってしまったのだ。

 

 芦戸は慌てて腕を広げ、どうにか体勢を戻す。

 

「……あっぶな!」

 

 観客席から笑いが起こった。

 

 鉄哲も思わず顔を上げる。

 

「……テメェ、自分の酸でコケんなよ!」

 

「コケてないし! セーフだし!」

 

「ほとんどコケてただろうが!」

 

「セーフはセーフ!」

 

 芦戸が胸を張った。

 

 鉄哲は何か言い返そうとして、口を閉じた。

 

 それから、ふっと笑う。

 

「……あーあ。負けちまった」

 

 鋼鉄化が解け、皮膚が元の色へ戻っていく。

 

「最後、踏ん張れると思ったんだけどなァ」

 

「いやー、こっちも結構ギリギリだったよ?」

 

 芦戸が答えた。

 

「途中から全然滑ってくれないし! 普通あんなに早く対応する?」

 

「そりゃ、いつまでも同じことやってらんねェだろ」

 

 鉄哲は鼻を鳴らした。

 

「……けど、最後は完全にやられた」

 

 リングへ向かって拳を突き出す。

 

「次は負けねェからな、芦戸!」

 

 芦戸も拳を上げた。

 

「おっ、いいじゃん! いつでもかかってきなよ!」

 

 二人の拳が軽く触れる。

 

 鉄哲は満足げに笑い、そのまま選手通路へ向かった。

 

     ◇

 

『いやー! こいつもなかなか熱い試合だったなァ!』

 

『ああ』

 

 相澤はリングを見下ろしていた。

 

『鉄哲の防御力は高い。芦戸が真正面から押し切ろうとしても、難しかっただろうな』

 

『だが最後は、あの鋼鉄ボディを場外へ!』

 

『自分の力で押し勝ったわけじゃない。鉄哲が踏み止まろうとする動きを利用して、重心を崩したんだ』

 

 相澤は一度、鉄哲の去った通路へ目を向ける。

 

『鉄哲も途中から芦戸の滑走に対応していた。あのまま足場を制限できれば、逆の結果もあっただろう』

 

『なるほどォ! 互いに対策を重ねた末の勝負だったってわけだな!』

 

 プレゼント・マイクの声が競技場へ響き渡る。

 

『さあ! これで第六試合も決着! 一回戦は残り二試合だァァ!!』

 

     ◇

 

 その頃。

 

 保健室では、お茶子がゆっくりと目を開けていた。

 

「……あれ?」

 

 白い天井。

 

 身体を起こそうとして、腕に力が入らないことに気づく。

 

「無理に起きるんじゃないよ」

 

 リカバリーガールの声だった。

 

 お茶子はゆっくり顔を向ける。

 

「……先生」

 

「まったく、よく頑張ったねえ」

 

 リカバリーガールは椅子から立ち上がり、彼女の様子を確かめた。

 

「大きな怪我はないけど、随分と無茶をしたね。個性の使いすぎで、気分も悪いだろう?」

 

「……はい」

 

 お茶子は小さく頷いた。

 

 胃の奥には、まだむかつきが残っていた。

 

 腕や膝も痛む。

 

 けれど、それより先に気になったことがあった。

 

「……試合、どうなりました?」

 

 リカバリーガールは少しだけ表情を和らげた。

 

「爆豪くんの勝ちだよ」

 

「……そっか」

 

 お茶子は天井を見上げた。

 

 分かっていた。

 

 最後に手が届かなかったことも。

 

 身体が動かなくなったことも。

 

 全部、覚えている。

 

「……負けちゃった」

 

 小さく呟いた。

 

 胸の奥が、ぎゅっと苦しくなる。

 

 考えた作戦は、途中までうまくいった。

 

 爆豪の爆発で砕けた床を集め、上空から落とすところまでは。

 

 あと少しだった。

 

 ほんの少し。

 

 あの最後の一歩さえ、踏み込めていたら。

 

「……っ」

 

 唇を噛む。

 

 そのとき、扉が軽く叩かれた。

 

「失礼します!」

 

 飯田の声だった。

 

 続いて、緑谷が顔を覗かせる。

 

「麗日さん!」

 

「……デクくん。飯田くん」

 

 二人の顔を見た途端、お茶子は慌てて笑おうとした。

 

「ごめんね。負けちゃった」

 

「……ううん」

 

 緑谷は首を振った。

 

「すごかったよ」

 

 その声は、いつもより静かだった。

 

「最後の作戦、全然気づかなかった。かっちゃんも、本当にギリギリまで対応できてなかったと思う」

 

「……そっか」

 

 お茶子は布団の上で手を握った。

 

 嬉しかった。

 

 けれど、その言葉を聞くほど、悔しさも込み上げてきた。

 

「……でも、負けたんよ」

 

 ぽつりと声が落ちる。

 

「うち、勝ちたかった」

 

 緑谷は黙っていた。

 

 飯田も、何も言わなかった。

 

「家のこととか、色々あるけど……それだけじゃなくて」

 

 お茶子は目元を擦った。

 

「みんな、すごいもん。デクくんも、飯田くんも、爆豪くんも」

 

 言葉を探す。

 

「うちも、ちゃんと強くなりたかった。勝って、前に進みたかった」

 

 目から涙がこぼれた。

 

「……悔しいなあ」

 

 声が震える。

 

 緑谷は何か言いかけて、口を閉じた。

 

 慰める言葉なら、いくらでもある。

 

 けれど、今のお茶子が欲しいのは、きっとそれではない。

 

 飯田が静かに口を開いた。

 

「麗日くん」

 

「……うん?」

 

「君が今日、自分の力で爆豪くんを追い詰めたことは、俺たちも見ていた」

 

 お茶子が顔を上げる。

 

「だからこそ、悔しいのだと思う」

 

 飯田は真っ直ぐに彼女を見ていた。

 

「その気持ちは、大切にしていいはずだ」

 

 お茶子は目を瞬かせた。

 

 そして、小さく笑った。

 

「……飯田くん、たまにええこと言うね」

 

「た、たまに!?」

 

 飯田が思わず声を上げる。

 

 緑谷が吹き出した。

 

 お茶子も、少しだけ笑った。

 

 その笑顔は、まだ泣きそうだったけれど。

 

 さっきより、少しだけ自然だった。

 

     ◇

 

 競技場では、次の試合の準備が進んでいた。

 

 芦戸が流した酸の残留を確認し、セメントスが床の補修を進めている。

 

 大型モニターが切り替わった。

 

 飯田天哉。

 

 八百万百。

 

『さあさあ! 決勝トーナメント一回戦も、いよいよ残り二試合!』

 

 プレゼント・マイクの声が響き渡る。

 

『次は一年A組の俊足メガネ男子、飯田天哉! 対するは同じくA組、何でも創り出す才女、八百万百ォォ!!』

 

 選手通路の奥。

 

 飯田は、緑谷と別れて競技場へ向かっていた。

 

 先ほどまで保健室にいたこともあり、少しだけ時間が迫っている。

 

「……よし」

 

 飯田は眼鏡を押し上げた。

 

 麗日くんは、最後まで自分の力で戦い抜いた。

 

 その姿を見た以上、自分も中途半端なことはできない。

 

 彼は足を止め、深く息を吸った。

 

 そして、競技場へ続く通路を歩き始める。

 

 反対側の入場口では、八百万が静かに手を握り直していた。

 

 二人の試合が、まもなく始まろうとしていた。

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